1990年代後半に社会問題化した商工ローン最大手・日栄の創業者松田一男氏は現在?

はる坊です。

1990年代、我が世の春を謳歌した消費者金融・事業者金融会社

「金が返せなければ、目ん玉を売れ!」
「腎臓を売れ! 300万円で売れる!」

と怒鳴られれば、大変に恐ろしいです。
たとえ、それが電話越しであっても。

しかし、実際に1990年代に東証1部に上場していた事業者金融最大手・日栄の社員は取り立て時に、このような文句を客に投げつけていました。
執拗な取り立てに悩んだ末に、自らの命を絶った経営者、自営業者の数は決して少なくありません。
経営で一番大変なのは、資金繰りであることを、あらためて気付かされます。

1990年代、バブル経済が終焉を迎えて、一気に日本経済は冷え込みました。
〝失われた10年〟という言葉が象徴するように、この10年間は「不景気だ、不景気だ」と言われ続けました。

そんななかで、大きく業績を伸ばした業界があります。
消費者金融、そして、事業者金融業界です。

今では、我が世の春を謳歌した消費者金融業者もグレーゾーン金利の過払い金問題で、大手は銀行傘下に入っています。

今回は、そんな金融業者のなかで、商工ローン(事業者金融)トップだった日栄と創業者・松田一男氏を取り上げます。

日栄は、ロプロを経て、現在は、日本保証に商号を変更しています。

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日栄の創業者・松田一男氏とは?

日栄の創業者で初代社長だった松田一男氏は1922年9月19日に京都府大山崎町に生まれています。
旧制中学卒業後に、地元銀行に入行。銀行マンの道を歩み始めますが、やがて退職。
運送業者に勤める傍ら、立命館大学法文学部専門部(夜間部)に入学・卒業します。
大学卒業後は、北陸銀行に入行。再び、銀行員として過ごします。

銀行時代の松田氏は、顧客から見るとひじょうに有能な銀行マンであり、同時に株式投資で手堅く儲けるなど、個人資産の形成にも余念がなかったようです。

プライベートでは隆子夫人と結婚、1952年11月12日には、日栄の二代目社長となる松田龍一氏が生まれています。
龍一氏は、同志社大学法学部卒業後、京都銀行を経て日栄に入社。
商工ローン問題が顕在化して、松田一男氏が社長を退任した後は、二代目社長に就任しています。

また、長女もおられ、一男一女に恵まれました。

しかし、松田氏自身の心は満たされませんでした。

「いくら頑張っても銀行では、大学出てても、夜学出(夜間部出身)いうだけで出世でけへん・・・」

銀行退職後に訪れた転機とは

松田氏は40歳近くになると、意に沿わない転勤辞令に嫌気が差し、銀行を退行します。

身の振り方を考えていた松田氏のもとに、またとない機会が訪れます。

時は、1960年。
東海道新幹線が東京から新大阪間を結ぶこととなり、松田氏の実家・京都府大山崎町にも線路が走ることに決定しました。
そして運の良いことに、松田氏が相続していた先祖伝来の土地も国鉄の買収に引っ掛かります。
松田氏は、地元住民の中心人物として、少しでも高く国鉄へ土地を売却できるように尽力します。

結果的に、思いがけない金銭を得た地元住民たちでしたが、松田氏はそれだけでは満足していませんでした。
まとまったお金を手にした松田氏は、ラブホテル(当時の名称は連れ込み旅館)経営に乗り出したのです。

旅館業を営む一方で、1963年には個人事業・金商を創業。
貸金業を開始します。

そして、旅館業を1969年に松田観光として法人化すると、1970年3月17日に松田氏は金商を法人化、株式会社日栄を資本金500万円で設立します。
(この頃の500万円は、現在では3000~4000万円に相当します)

日栄を創業した47歳の松田氏は、睡眠時間3,4時間で京都中を駆け回り、中小企業、個人事業主相手の商業手形割引と手形貸付に注力します。
かつて有能な銀行マンだった彼は、自ら貸金業を始めることによって、初めてその才能をフルに活かせるようになったのかもしれません。
手形を担保に融資をおこなえば、もし、その手形が不渡りになれば、丸損になってしまいます。
ですが、松田氏は独特の嗅覚で、危ない手形を見分けて、ほとんど失敗はしませんでした。

松田氏の努力が実り、日栄設立から3年も経つと、いくつもの支店を持つ業者に成長していました。
従業員も20名、30名、40名と増えていきます。

しかし、手形割引と手形担保の融資では、成長に限界があることを松田氏は感じていました。

連帯保証人と根保証

いまでこそ、

「借金の連帯保証人になってはいけない。連帯保証人になるという事は、あなたが借りたのと同じ事になる」

という認識が、社会全体にありますが、1970年代は、借金の当事者以外にはあまり知られてはいませんでした。

松田氏は、この連帯保証人制度に目を付けて、事業者向けローンの展開を開始します。
そして、もうひとつは〝根保証〟制度です。

〝根保証〟制度とは、お金を借りたいA氏がいるとします。

借りたい金額は100万円。

日栄は、このA氏に連帯保証人を付けるように説明をします。

A氏は、連帯保証人としてB氏を連れてきます。

日栄は、A氏に100万円を貸します。

このとき、日栄はA氏に与信枠を設定します。

「今回、Aに貸したのは100万円だが、500万円までは貸していい」

この与信枠には、連帯保証人であるB氏の返済能力も含まれています。

やがて、A氏は借金が払いきれずに、夜逃げをします。

すると、B氏のもとに日栄の従業員がやってきて、500万円の貸金を返すように要求します。

自分が保証人となったのは100万円だと抗弁するB氏ですが、B氏自身が署名捺印をした契約書には、根保証について書かれているのです。

驚くB氏ですが、もうあとのまつりです。

B氏は身をもって連帯保証人の怖ろしさを知ることになります。

1977年(昭和52年)暮れ、そんな日栄に入社してきたひとりの男がいました。

慶應義塾大学商学部卒業後に、三井物産に勤めていたその男は、大島健伸といいました。

商工ファンド(SFCG)の社長・大島健伸とは

1977年(昭和52年)の終わりに、京都の日栄に入社してきたのは、これまで三井物産に勤務していた異色の人材でした。

1948年(昭和23年)2月26日 大阪府大阪市生野区大友町(現在の生野区小路)生まれで当時31歳。
在日朝鮮人で、民族名は丁健伸といいます。彼は父親の仕事の都合により、2歳で上京します。
明治大学付属中野高等学校卒業後、そのまま明治大学へは進まず、一般入試で慶應義塾大学商学部へ入学、卒業。
これは、中学入試時に慶応義塾中学校に不合格となった為、6年越しのリベンジだったといわれています。

大学卒業後、三井物産に入社。
1976年(昭和51年)にはお見合いで大阪出身の女性・由里子氏を妻として、長男・嘉仁氏と長女に恵まれます。

30歳を前に起業を決意しますが、実際のところ具体的に何をするかは決めていませんでした。
ただひとつ、決めていたのは「イメージの悪い商売をする」ということ。
これは、イメージの良い業種だと、大手がすぐに参入してしまう懸念があったためです。

水商売もひとつの選択肢でしたが、父の大島正義が大阪大学を中退後に上京して、ダンスホールの経営を手掛けていたのがネックとなりました。
水商売で大成功を収めた父親を越えるのは難しいと判断したようです。

結果的に選んだのが貸金業でした。

本人曰く、ランチェスターの法則、と語っています。

〝ランチェスターの法則〟について、わかりやすく学ぶには、ネットで調べるよりも、本で学んだほうが効率がいいです。

日栄への入社は、貸金業者としての修行の為でしたが、日栄社長の松田氏は大島氏の有能さをすぐに認めて、営業ではなく、貸金業の調査研究に励むよう指示します。
日栄での修行期間は1年間でしたが、大島氏は起業ノウハウを充分に得ていきます。

そして、1978年(昭和53年)12月に、東京へ戻った大島氏は株式会社商工ファンドを設立。代表取締役社長に就任します。
従業員5人での出発でした。

商工ファンドを設立した大島氏は、自らが先頭に立って手形割引から手形担保融資、そして、時代がバブル期に差し掛かると不動産担保融資、有価証券担保融資、ゴルフ会員権担保融資と時代に沿った金融ビジネスを展開して、バブル絶頂期の1989年(平成元年)8月に株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。

会社設立から11年足らずで、株式上場を果たした商工ファンド。
記念パーティで、上機嫌に挨拶をしたのは、金貸しの師といえる、日栄社長の松田一男氏でした。

続きます