はる坊です。
スクウェア・エニックス創業者の福嶋康博さんの足跡を追っていきます。

持ち帰り寿司事業⇒オフコン代理店事業⇒エニックス創業

そして、持ち帰り寿司全国No.1を目指し、寿司をロボットが握る持ち帰り寿司店を狛江にオープンします。開店当初こそ盛況でしたが、やがて客足は遠のき始めます。
「なぜだろう?」
と思った福嶋さんは、自転車のカゴに寿司を入れて走ってみました。

しばらく走って、寿司折りを開けてみると、客足が遠のいた理由がハッキリと分かりました。寿司のネタとシャリの握りが甘く、ネタがシャリからすべて落ちていたのです。

結局、寿司事業は頓挫します。3ヶ月で3000万円の赤字を出しましたが、福嶋さんに後悔はありませんでした。
最初から損切りの金額を決めていたからです。「3000万円までの赤字なら、本業に差し支えない」そういう計算が出来ていたため、落ち込むこともありませんでした。

次に進出したのが、コンピューター事業でした。
といっても、ハドソンのようにソフトウエアを通信販売したのではなく、東芝のオフィス・コンピュータ(オフコン)の販売代理店になったのです。

このとき設立した株式会社 エム・シー・ビー(MCB)には、のちにドラゴンクエストの初代プロデューサーとなる千田幸信さんが入社してきました。

このとき、福嶋さんはセールスマンに命じた言葉があります。
『コンピュータがあれば何でもできますと絶対に言うな』というものでした。

なぜかというと、当時は、企業にコンピュータが入り始めた頃、「何でもできます」と言われても、客側が困ってしまう状態でした。事実、大手メーカーがオフコンを売りだして、多くの販売代理店が生まれましたが、利益を得ていたのはごく少数でした。
福嶋さんの戦略は、客の要望を聞いてそれに合わせた商品を売るというものでした。また、アフターサービスもおこない、顧客の信頼を勝ち得ていきます。
エム・シー・ビーは東京で1位の東芝代理店になります。

そして、福嶋さんが次に目を付けたのはパソコンゲーム事業でした。
1982年8月、経営していた株式会社営団社募集サービスセンターの子会社・株式会社営団社システムの商号を株式会社エニックスに変更します。
代表取締役社長には福嶋康博さん。
取締役には千田幸信さん。そして、高野豊さんという3人で事業を開始します。

エニックス創業。ゲームコンテストを開催して、JASDAQ上場まで

賞金総額300万円「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」

エニックスを設立した福嶋さんは、すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。
最優秀プログラム賞受賞者には賞金100万円。優秀プログラム賞受賞者(2名)には賞金50万円。入選プログラム賞受賞者(10名)には10万円。参加者全員に記念品を用意。
当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた

そして、これがいちばん大きな理由でした。

エニックスが、まったくの無名会社だったから。

さすがに、社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)
それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。
最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。

このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。

依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。
中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

また、NHKが取材に入るという機会が訪れ、ゲームコンテストは一気に加速がつきました。
最終的には、コンテストに100本以上のゲームが集まりました。ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

大きな才能が集まることとなるコンテストとなった

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さん(当時、埼玉医科大学在学中)の『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。
中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀プログラム賞でした。
堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』は入選プログラム賞を受賞。
このコンテストで、堀井雄二さんと中村光一さんを発掘することができたのは、エニックスにとって大収穫でした。
ゲームコンテストで入賞したゲームを製品化して売り出すと、『ドアドア』の8万本を始め、パソコンゲームの売上上位にエニックスのソフトが名を連ねます。エニックスは設立初年度で3億5000万円の利益をはじき出しました。

次に福嶋さんは、任天堂が発売したファミコンに『ドアドア』を移植して発売。20万本のヒットとなります。そして続いて、堀井雄二さんシナリオ・ゲームデザインの『ポートピア連続殺人事件』を発売60万本のヒットとなり、『ドラゴンクエスト』開発への足がかりとなります。
千田幸信さんがプロデューサーとなり、シナリオ・ゲームデザインに堀井雄二さん、キャラクターデザインに鳥山明さん、音楽にすぎやまこういちさん、そして、メインプログラムにチュンソフトを設立して代表取締役社長兼メインプログラマーとなっていた中村光一さんという主要スタッフの元で開発された『ドラゴンクエスト』はⅠ・Ⅱ・Ⅲと発売される毎に、人気とその発売本数を増やしていきます。

1991年2月1日。当時としては異例のスピードの会社設立から実質9年での株式店頭公開(ジャスダック上場)達成

福嶋さんは500億円の株式資産を得て、辣腕経営者として注目される

ゲーム業界で任天堂のようにゲーム用ハードウェアを製造しない、ソフトウェアメーカーで最初に株式を上場したのはコナミ(現:コナミホールディングス)でした。1984年10月に大阪証券取引場第2部に設けられたベンチャー企業向けの新2部に上場を果たしたのです。(コナミはその後1988年2月に東証2部への上場を果たすと、8ヶ月後の10月に東証1部に上場しています。)

コナミが株式上場企業となったことや〝ファミコンブーム〟の到来で、証券会社もゲーム関係企業に注目を向けて、ゲーム業界では店頭公開(ジャスダック上場)や東証・大証上場を果たす企業が増えていました。
1986年4月 セガ・エンタープライゼス(現:セガゲームス)が店頭公開⇒1988年4月に東証2部上場⇒1990年10月に東証1部上場
1988年1月 ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)が東証2部上場⇒1991年9月に東証1部上場
1988年9月 ジャレコが店頭公開(現:ジャスダック上場)
1990年1月 カプコンが店頭公開(現:ジャスダック上場)⇒1993年10月大証2部上場⇒1999年9月大証1部に指定替え⇒2000年10月東証1部上場

『ドラゴンクエスト』の大ヒットと共に発売元のエニックスも注目を受けることになり、証券会社から株式上場の誘いが頻繁に来るようになります。

株式上場について、福嶋さんは当初慎重で断り続けました。
一番、株式を上場しやすい店頭公開(ジャスダック上場)でも、準備に2~3年かかるのが当たり前で、そこまで労力を払って株式公開や上場をするのは割に合わないのではないかという考えがあった為です。

しかし、福嶋さんが欲しいのは優秀な人材でした。エニックスが上場すれば、社会的信用も増して、優れた人材が集まって来やすいのは確かでした。
当時の取締役社長室長 前川敏雄さんと総務部長が店頭公開時に主幹事証券会社となった山一証券と中心となって進めていきました。

そして1991年2月1日、エニックスは店頭公開(JASDAQ上場)を果たします。株式の初値は12000円。会社設立から9年の株式上場は、当時としてはかなりのスピードであり、福嶋さんは辣腕経営者と認められます。この株式上場によって福嶋さんは500億円の株式資産を保有することになります。
このとき福嶋さんは、上場で得た利益で、川崎市多摩区から、杉並区浜田山の豪邸に移り住みます。敷地400坪。地下1階地上2階の建物には、福嶋さんの好きな麻雀が思う存分楽しめる麻雀ルームと健康のためスポーツジムが設えられました。

ここで非常にたいせつなことは、福嶋さんが必要以上に所有している株式を売却しなかったことです。
店頭公開後も福嶋さんは、福嶋康博個人と資産管理会社の福嶋企画、そして、奥様の福嶋美知子で70%の株式を保有していました。広大な邸宅の建築が目標だったわけではないでしょうが、10数年後に建てることになる渋谷区初台の大豪邸に向けて、重要な資産となっていきます。

ジャスダック上場からまもない1990年代前半に、証券会社からは東証2部への上場準備を持ち掛けられますが、福嶋さんは断ります。当時は、上場審査が厳しく、上場を希望する企業には、○○という部署がないとダメだという内規が定められていました。福嶋さんは、無理をして東証2部に替えることはないと、自分の考えを貫きました。
株式を公開して上場企業の仲間入りを果たしたことにより、新卒採用で現在に至るまでスクウェア・エニックスを支える人材が集まるなど、福嶋さんが望んだことが現実となる一方で、古参の役員や従業員がエニックスを去るということも起こりました。
(※これは、いわゆる〝エニックスお家騒動〟のことではありません)
エニックス株を保有していた彼らのなかには、株式上場によって、億単位の資産を得ている者もいました。そのような立場になれば、新たにチャレンジしたいことや起業、またはアーリーリタイアメントも可能となります。

例えば、エニックスの創業メンバーのひとり高野豊さんやクインテット開発の『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』やランダムハウス開発の隠れた名作『ジャストブリード』で、エニックス取締役としてプロデューサー等を務めた川口貴雄さんも90年代半ばにエニックスを離れています。



それでも、無借金で自社ビル(通称〝ドラクエビル〟)を持つことができたり、経営者として、会社をより客観的に見るよう心を配るようになったのも、店頭公開の収穫でした。

1999年8月エニックスは最高のタイミングで東証1部上場

1999年8月 エニックスは東京証券取引所第1部に上場を果たします。東証2部を通さずに、ジャスダック上場から東証1部に直接上場できるように証券取引所のルールが変わっていたこと、エニックスの社内体制が整っていたこともありますが、この上場は、最高のタイミングでした。時はあたかもネットバブル全盛期、ネット関連企業だけでなく、ゲーム業界の株価も上がっていたのです。ジャスダック上場企業と東証1部上場企業では、創業者など大株主が所有してよい株数(パーセンテージ)に違いがあります。福嶋さんは1部上場の折に持株を売却して、莫大なキャッシュを得ることになります。そして、2000年5月に公示された長者番付には全国区に名を知らしめることになりました。

同じく2000年10月にエニックスの経営体制は大きく変わります。
取締役 商品企画開発本部 ソフトウェア企画部長の本多圭司さんに代表取締役社長のバトンが渡されました。当時本多さんは42歳の若さでした。福嶋氏によると、社長就任を要請したのは、この半年前の2000年4月頃、関西出張の折だったとのことです。

本多圭司さんは1957年福岡県に生まれ、大阪市立大学工学部建築学科を卒業後、早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程に進学。修士課程を修了後は乃村工藝社に入社。30歳を前に退職して、福嶋さん同様、海外放浪を経て、1987年に求人雑誌を見てエニックスに入社。アメリカのエニックス・コーポレーションの責任者を経て、1997年に取締役に就任していました。

そして、福嶋さんは代表取締役会長になると、従来の事業は本多社長以下新体制に任せて、新規事業の開発に専念します。2003年のスクウェアとの合併後も代表取締役会長を務めますが、2004年に相談役名誉会長に、2005年には名誉会長に退きます。
突然、代表権も取締役の職からも退いたことに、ゲーム業界は驚きました。
まだ、福嶋さんは56歳の若さでした。

これに対する福嶋さんのコメントは、“「30年間、仕事のことだけを考えてきた。これからは人生について考えたい」”というものでした。

2005年杉並区浜田山から渋谷区初台の大豪邸に

実のところ福嶋さんは50歳のときに、経営から退く決意をして、3年掛けて社内から後継者を選び、53歳のとき、3~4人いた後継者候補のなかから本多圭司さんを後継者に決めてからは、2年間、会長として見守った後、55歳で経営から完全に身を引くと決めていました。
スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際の所のようです。

実業の第一線から退いた福嶋さんは、若い頃、かつて放浪した東南アジアを巡る旅に出ます。

東南アジア4カ国を歴訪した福嶋さんは、そのひとつであったカンボジアでのボランティア活動に取り組み始めます。カンボジア現地のNGO団体CEDACと協力して困窮している家庭を自立させるための農業講習をおこないます。モノを与えるのではなく、自立して生活するための知識や知恵を現地の人々に与えるのが福嶋流のようです。

そして、その間に渋谷区初台に豪邸を建設して、2005年に移り住みます。
その後、福嶋さんは南米のゲーム事業に携わったり、東南アジアでボランティア活動をして過ごしているようです。また、2009年秋には、CESAでの活動が認められ、藍綬褒章を受章しました。

自由な大資産家。
20代で起業家の道を歩み始めた男は、70代にして人生を満喫しているように思えます。

福嶋康博さんが成人を迎えた息子さんにプレゼントした本とは?

福嶋康博さんは奥さまとの間に一男一女を儲けました。
息子さんは、福嶋さんが卒業した大学の附属高校を卒業後、スポーツ科学が学べる大学へ進学しました。そして、息子さんが20歳を迎えた日に、福嶋さんは一冊の本をプレゼントしました。

福嶋さん自身「本は読まない」と公言しており、それは事実のようですが、そんな福嶋さんが、大切に読み返してきた本がありました。
それは、D・カーネギーの『人を動かす』でした。

-自分の幸、不幸は自分の行動、考え方で定まる。

この言葉は、福嶋さんがまだ北海道旭川市にいたころ、友人のお父さんが常日頃言っていた言葉を自分でアレンジした上で、自分の心に刻み、息子さんにもことあるごとに伝えられていたようです。
世間的に大成功を収めた福嶋康博のこの言葉は、深く響くような気がします。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
心よりお礼を申し上げます。

他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。

はる坊

40代。ここでは、来て下さった方に少しでも役に立つような情報・楽しんでもらえるような情報をと思い、綴っています。

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