魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第4回

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第4回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回・第2回・第3回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第4回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

第3回よりかなり時間が空いてしまった事を、心よりお詫び申し上げます。

怒濤の時代

1986年に入ると、菊地秀行が活躍する舞台は更に増えていく。

朝日ソノラマで『吸血鬼ハンターD』『エイリアン』シリーズを書いていた菊地が、祥伝社ノンノベルから『魔界行』が上梓されたのが、1985年3月のことだが、それからの9ヶ月間で、祥伝社・光文社・講談社・徳間書店・角川書店からノベルス・文庫オリジナル作品を上梓していった。
この作品群は当然、書き下ろしであり、菊地の執筆量は激増していく。

1986年に入ると、菊地の執筆量は更に増える。
これまでの書き下ろしに加えて、雑誌連載を抱えるようになった為だ。

その雑誌連載も、〝短期集中連載〟がほとんどであり、菊地は月産900~1000枚という多産を強いられることになる。

最高時は一日で94枚『魔界都市〈新宿〉魔宮バビロン』執筆時。
ひと月では1050枚。
1ヶ月で350枚のノベルスを3冊書き下ろさなければならなかったとき。

上北沢のマンションで、都内のホテルでカンヅメになりながら、菊地は万年筆で原稿用紙を埋めていった。

自宅には担当編集者が待機して、24時間体制で菊地の原稿を待った。
編集者のなかには、読みにくい菊地の原稿を待機時間中に持ち込んだワープロで打ち直す者もいた。

この忙しい最中、夫人は編集者に夜食を振るまい、また菊地自身も気分転換も兼ねてインスタントラーメンなどを編集者に供した。

この時期、菊地のストレス解消法は、机に座ってエアガンで紙コップに向けて弾を撃つことくらいしかなかった。高級ホテルに入るのも気分転換にはなるが、そこで待っているのは仕事だ。

そして、食事にもこだわりがない。
「そこそこのものなら何でも美味いと感じる」とこの頃のインタビューで語り、ホテルのレストランや寿司店・和食の店に行くのも、“「ああいう店は接待で行くんだから。仕事関係とか友達とかおねえちゃんとか、おまえ(実弟・菊地成孔のこと)とか。そういうとき、相手にはビフテキでも何でも「はいどうぞ」だけど、俺はべつに何でもいいのよ」”(TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」出演時)
休みはひと月に1日あるかないか。

取材を兼ねたアメリカ・カナダ旅行の際にも、菊地は原稿を書き続け、ファックスで日本に送り続けた。
超の付くほどの過密スケジュール。
しかし、これをこなさないと原稿が間に合わなかった。

ここまでくると、表現したい世界があり書くことが好きではないと、根を上げてしまう。

結果として、1986年に上梓された菊地秀行作品は17冊に及んだ。
加えて週刊少年チャンピオンでは、原作:菊地秀行 作画:細馬信一の『魔界都市ハンター』(全17巻)の連載も開始され、86年中に4巻まで刊行されている。

この時代、日本のエンターテインメント小説は、ノベルスで出版されることが多かった。
70年代後半から始まったノベルスブームが、エンターテインメント小説の軸であり、ハードカバーで出版される小説は現在よりも少なかった。

菊地の主戦場はこのノベルスだったが、ノベルス中心の小説家は、ハードカバーを出す小説家より、ひとつ低く見られていたのも事実としてあった。

菊地がこの時代、一流の売れっ子作家だったことは間違いのない事実だが、ノベルスデビューから日の浅い作家でもあった。
出版社側の要望で、当初の打ち合わせで決まっていた内容が変わることも珍しくなかった。

あるとき、菊地はついに悲鳴を上げる。

菊地ファンならおなじみであり、またお楽しみである「あとがき」に「もうこれ以上、書き下ろしは不可能です」と宣言したのだ。

菊地の要望を真っ先に取り入れてくれたのは徳間書店だったが、「だったら雑誌連載ならいいでしょう」と雑誌連載の数が増えていくことにもなった。

書き下ろし型の菊地だが、週刊誌・月刊小説誌を合わせて最高7本の連載を持つことになる。
売れている作家を、そう簡単に出版社・編集者は手放さない。

特に『妖魔』シリーズがヒットしていた光文社では、
『週刊宝石』『小説宝石』『宝石(月刊)』に菊地の作品が連載される有様だった。

この地獄のような状況でも、菊地は編集者から口々に発せられる「菊地先生、菊地先生」の大合唱と、振り込まれる多額の印税、そして、ファンからの手紙に支えられて次々に作品を放っていった。

1987年には、書き下ろしと雑誌連載をまとめたもので、年間21冊の菊地秀行作品が刊行されている。
※原作コミックは別。

ちなみに、1987年5月に公示された高額納税者(長者番付)・作家部門で、菊地は初のベストテン入りを果たす。

納税額は1億458万円で作家部門8位。
前年度の納税額3981万円より大幅に増えている。
菊地は1996年5月に公示された1995年分まで、以後10年間この長者番付・作家部門で5位~9位のあいだを維持し続ける。

『魔界都市ブルース』秘話

『魔界都市ブルース』といえば菊地の代表作のひとつであり、現在までに累計で700万部を突破している大ベストセラーシリーズである。

秋せつらやメフィストを始めとするキャラクターは大きな人気を得て、メフィストは『魔界医師メフィスト』として、1988年から角川書店・カドカワノベルスでシリーズ化され、その後、講談社ノベルス、祥伝社ノン・ノベルと出版社を変えながら現在も続くシリーズとなっている。

さて、この『魔界都市ブルース』シリーズだが、ずっと祥伝社ノンノベルで刊行が続いている。
祥伝社の小説誌『小説NON』(現在は休載中か?)に連載・掲載されたものか書き下ろしである。

しかし、第1作の「人形使い」だけは、徳間書店が刊行していた『SFアドベンチャー』1985年2月号に掲載されている。
そして、第2作は掲載されることはなかった。

菊地自身は「打ち切られた」と思っており、当時『SFアドベンチャー』編集長からは「菊地さん、朝日ソノラマでやってるようなのを書いてくれないか」という話があったと後年述懐している。

これは推測だが、1985年に徳間書店は文庫レーベルとして「徳間アニメージュ文庫」を創刊している。

このレーベルから出版されヒットしたオリジナル作品には、首藤剛志『永遠のフィレーナ』シリーズや、現在に至るまで、『女神転生』から『真・女神転生』『女神異聞録ペルソナ』『デビルサマナー ソウルハッカーズ』『ペルソナ』シリーズなどに派生して、累計720万本を超える人気ゲームシリーズとなっている西谷史『女神転生 デジタル・デビル・ストーリー』シリーズがある。

菊地の作風から、編集長は菊地作品をこのアニメージュ文庫のラインナップに加えたかったのかもしれない。

結局、菊地はその後、祥伝社からの執筆依頼の折、『魔界都市ブルース』の話を持込み、第2作「さらば歌姫」が『マガジン・ノン』1985年10月号に掲載される。

この作品に対する評価は『マガジン・ノン』編集部では絶賛に近いものだった。

翌月号から「仮面の女」「L伯爵の舞踏会」「影盗人」と短編掲載が続き、1986年4月に『魔界都市ブルース1(妖花の章)』として上梓され、当初は〝伝奇バイオレンス〟小説が主体の菊地作品のなかでは、地味な部類として見られて反響は少なかったが、次作となる『魔王伝』3部作(1986年7月・1986年10月・1987年3月)の刊行で、同人誌界で高河ゆんがパロディ本を出し人気を得たことから、同人誌業界に『魔王伝』ブームが起こり、本家である『魔界都市ブルース』の人気も確立されていく。

現在まで、『魔界都市ブルース』は映像化もコミック化もされていない。
アニメ化・コミック化を望むファンもいれば、原作小説だけで充分だというファンもいるだろう。

いかにクオリティの高いアニメ・コミックでも、すべての原作ファンを納得させることはできない。
ファンひとりひとりの心のなかに、それぞれの秋せつらがおりメフィストがいるのだから、原作が人気を得ているものを派生させ、高い評価を得るのは非常に難しいものだと感じる。

しかし、『魔界都市ブルース』については、過去に高河ゆんによるコミック化の話は存在した。
残念なことに、当時、菊地作品のコミック化は秋田書店に限定されており、この話は立ち消えになったという。

そのかわり、秋田書店では、『魔界都市ハンター』(全17巻)に続き『魔界学園』(全21巻・作画:細馬信一)が週刊少年チャンピオンで長期連載され、あしべゆうほが『Candle』で1987年~1988年に掛けて『ダークサイドブルース』のコミックを連載している。

嵐のような季節のなかで そして夢枕獏とのスタンスの違い

1980年代後半は、〝伝奇バイオレンス小説〟の時代だった。
そして『菊地秀行の時代だった』と言っても過言ではないと思う。

「夢枕獏の時代じゃないの?」

との声もあるかもしれないので、ここで菊地秀行と夢枕獏のスタンスの違いについて、すこし私なりの意見を含めて説明をしておきたい。

伝奇バイオレンス小説家としてデビューが早かったのは夢枕獏だった。
続いて、登場したのが菊地秀行だ。
これは〝夢枕獏が火を付けて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟という当時の一文がすべてを語っていると思う。

夢枕獏は1984年に『魔獣狩り』(祥伝社 ノン・ノベル)『闇狩り師』(徳間書店 トクマ・ノベルス)で一気に人気を得た。
この作品はシリーズ化されベストセラーとなった。

このあと、夢枕は『獅子の門』(光文社)『大帝の剣』(角川書店)『餓狼伝』(双葉社)と伝奇バイオレンス小説を残しつつも、格闘小説の分野にも進出していく。

これには、夢枕獏がインタビューで語った次の言葉が、真だと感じる。

“「伝奇バイオレンスのブームが終わったら、いらない作家になるんじゃないかと思ったんです。そこで格闘小説を書きたいと編集者に言ったんです」”

また、1986年には「オール讀物」誌に『陰陽師』を書き始めている。
実際、この作品が注目されベストセラーとなるのは10年後のことだ。
それでも、夢枕獏は書き続けた。

“「ぼくの本は売れるものと売れないものの差が激しいんです」”

と別のインタビューで語り、

“「一番多い本で14万部。少ない本で2万部」”

と、新刊書に挟まれる夢枕獏事務所作成の小冊子「仰天・夢枕獏1号」に綴っている。
万部は初版部数を意味していると思う。

-ひとつのジャンルで飽きられる前に、自分の持ち味が出せる別のジャンルにも種を蒔き続ける。

これが、夢枕獏の基本的なスタンスではないかと思う。

1980年代、菊地秀行の月産原稿枚数が900~1000枚に及ぶ時期があったと前述した。
夢枕獏も毎月500枚~800枚の原稿を書いていた。
これだけの原稿を書けば、刊行される本も多い。
だが、伝奇バイオレンス小説がコンスタントに売れる菊地秀行と売れない本も出していた夢枕獏では収入も違っていた。

毎年、作家部門ベストテンに名を連ねた菊地と違い、夢枕は1985年分・1986年分でそれぞれ14位にランクインしてからは、姿を消している。
「税金を取られるくらいなら、ふんだんに経費を使ったほうがいい」と考えて、納税対象額を圧縮していたことも考えられるが、1989年には有限会社 夢枕獏事務所を設立しているのは、マネージメント体制を整える意味と節税のふたつの意味があったと推察する。

夢枕獏は、1990年代を迎える頃に、一度、月産200~300枚程度にペースを落としている。
これは、次の種を蒔くための準備期間が必要だったからだと思う。

そして、もうひとつは賞に関するスタンスだ。

菊地秀行は、現在に至るまで賞には縁がなく無冠を貫いている。

1986年に第17回星雲賞で『切り裂き街のジャック』(早川書房)が候補に挙がり、吉川英治文庫賞が創設されてからは、第2回から最新の第4回まで『吸血鬼ハンターD』(朝日新聞出版)が候補に挙がっているが、受賞には至っていない。
1990年代になり、ハードカバーで時代小説を刊行しているが、おそらく菊地自身は賞に対するこだわりや思いは、ないのではないかと推測する。

対して夢枕獏は、注目される作家となってまもない1984年に上梓した『悪夢喰らい』(角川書店)が、1985年3月に受賞作が発表された第6回吉川英治文学新人賞の候補に挙がっている。
この時の受賞作は船戸与一の『山猫の夏』(講談社)だった。
このときの選評を見てみると、圧倒的な強さで船戸の受賞が決まっている。

このあと、1990年に『上弦の月を喰べる獅子』(早川書房)で第10回日本SF大賞を受賞するが、1988年と1989年にそれぞれ『歓喜月の孔雀舞』(新潮社)『鮎師』(文藝春秋)で泉鏡花文学賞の候補になっている。
『鮎師』は夢枕が4、5年の歳月を掛けて書かれたもので、バイオレンス描写はなく小田原での釣りと自然の描写に腐心して書かれた作品だ。
文藝春秋から刊行された本であることも加味すれば、当時直木賞候補になってもおかしくはない作品とも思える。

多少は文学賞を意識した作品だったとも読める。

夢枕獏は菊地秀行より作家デビューは早い。
1977年26歳の時のことだ。
そして、1981年に専業作家となったが収入は少なく、食事は夫人がアルバイトに出ていたパン屋の残り物で凌いでいたという。
夢枕のエッセイによると、“「売れない時期には、原稿料がもらえなかったこともある」”という。
1984年に一躍ベストセラー作家となっても、これまでの悔しかった経験は夢枕のなかに生き続けていたと私は思う。
そして、ノベルス作家が一段下の作家として見られることも感じていただろう。

夢枕の眼に文学賞はその悔しさを晴らす、手段に映っても不思議はない。
結局、夢枕は山本周五郎賞・直木三十五賞の候補に挙げられることはなかった。
だが、1998年に『神々の山嶺』(集英社)で第10回柴田錬三郎賞を受賞する。
このとき、夢枕獏47歳。
デビューが早かったとはいえ、40代後半での柴田賞受賞は早いほうになる。

その後2011年・2012年には『大江戸釣客伝』で第39回泉鏡花文学賞・第5回舟橋聖一文学賞・第46回吉川英治文学賞をトリプル受賞し、2017年には第65回菊池寛賞。2018年には紫綬褒章を受章している。
2010年代に入ってからは、一気に賞(章)に恵まれている。

伝奇バイオレンスの先駆者

ひとつのジャンルが盛り上がりを見せると、その場所に、別ジャンルを書いていた作家が参入することがある。

〝夢枕獏が火を付けて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟このジャンルも例外ではなかった。

だが、このふたりの他に、現在まで伝奇バイオレンス小説を書き続けている作家がいるだろうか。
もしくは、伝奇バイオレンス作家として認知されている作家がいるだろうか。
鑑みたとき、この先達の偉大さに畏敬の念を感じずにはいられない。

1990年代に入ると、ノベルスは1980年代後半にデビューした綾辻行人・法月綸太郎・有栖川有栖らを嚆矢として〝新本格ムーブメント〟が起こり、京極夏彦・森博嗣が第二波として続いた。

もちろん、別のムーブメントが起こったからといって、1990年代に入り菊地秀行の人気がすぐ衰えたわけではない。
『魔界都市ブルース』シリーズの最高傑作『夜叉姫伝』(祥伝社 ノン・ノベル 全8巻)は、1989年から1992年に小説NONで連載後に刊行され、8巻にも及ぶ長いストーリーとなったが、「7巻よりラストの8巻のほうが、売れ行きがよかった」と菊地が述懐するほど、本人が誇れる作品であると同時に、読者にも大きな支持を受けた。

1993年に第1作が刊行された『ブルー・マン』シリーズ(講談社ノベルス)も人気を得た。

だが、菊地秀行作品の濃度と熱さは1980年代が頂点だった、と感じる。

注目を浴びる者の宿命ではあるが、当時、菊地秀行も夢枕獏もその作品が大勢の読者に受け入れられる一方で、的外れの非難を浴びることがあった。

「こういう小説が流行る風潮はよくない」

「新新興宗教にも影響を与えているのではないか」

これらの非難記事をよく読めば、菊地作品も夢枕作品にも目を通していないことがよくわかる。

菊地秀行と夢枕獏が与えた影響は、その後の小説・漫画・アニメ・ゲームだ。
もちろん、それらを創り出すクリエーターにも。
この影響は多大だ。

1980年代後半の嵐のような季節のなかで、菊地秀行はハイスピードで高クオリティの作品を発表し続けた。
クイズ番組に出演したり、三田佳子や黒木香と対談したりと、小説を執筆する以外の場に引っ張り出されもした。

菊地は1988年、以前に購入しておいた都下の土地に自宅を新築した。
白い外壁が印象的な邸宅だ。
人呼んで“「魔界御殿」”。

『バンパイアハンターD』をコミック化した鷹木骰子が菊地邸を訪れた際に、“「Dに出てきそうなおうち」”と巻末のコミックエッセイで表現しているが、まさにそのような印象を受ける。
インタビュー記事などで、自宅内の様子がわかるが、菊地テイストのグッズに囲まれている。

ちなみに、夢枕獏が小田原に建てた邸宅は、『魔獣狩り 淫楽編』の印税で購入したことから、“「淫楽御殿」”と呼ばれることになる。

久々の記事になったのにもかかわらず、最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

第5回がいつになるかわかりませんが、また書きます。
そのときは、どうかよろしくお願い申し上げます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回第2回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

『吸血鬼ハンター〝D〟』『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズ始動

1983年1月、菊地秀行の第2作目『吸血鬼ハンター〝D〟』が刊行された。

タイトルのとおり、ダンピール(吸血鬼と人間との混血)の吸血鬼ハンター〝D〟の物語だ。
このシリーズ第1作目は、1985年12月にOVA化されている。
最新刊『D-黒い来訪者』まで、35作(46巻)が発表され続けている人気シリーズである。

意外なことに、この作品は、第1作発表当時、あまり読者の反応を得られなかった。
デビュー作『魔界都市〈新宿〉』が発売後すぐに増刷したこともあり、初版は1万5000部に増えたが、増刷が一度あったかどうか菊地自身記憶が曖昧というレベルだった。

ただ、天野喜孝のカバーイラストも相俟って、続編を望む読者の声はあった。

1983年5月、第3作『エイリアン秘宝街』が刊行される。
トレジャー・ハンターの高校生・八頭大と太宰ゆきが活躍するシリーズの第1弾だ。
この作品は、すぐ人気作となった。

1983年と1984年だけで、下記のとおりこのシリーズが立て続けに出版されていることからも、人気の程がわかる。

1983年11月30日『エイリアン魔獣境Ⅰ』

1983年12月30日『エイリアン魔獣境Ⅱ』

1984年3月30日『エイリアン黙示録』

1984年8月31日『エイリアン怪猫伝』

1984年12月20日『エイリアン魔界航路』

また菊地は、この『エイリアン秘宝街』と『エイリアン魔獣境Ⅰ』が刊行される半年のあいだに、

インベーダー・サマー』(1983年8月30日)

風の名はアムネジア』(1983年10月31日)

を上梓している。

『魔界都市〈新宿〉』でも『吸血鬼ハンター〝D〟』そして、『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズとも色彩が大きく異なる2作品を放っていることは特筆に値する。

この年、菊地の本はすべて朝日ソノラマから刊行されていた。
それ以外では、『幻想文学』に寄稿しているが、ノベルス界に進出してベストセラーを連発する1985年以降と比べると、作品の発表は年5冊と当時からハイペースだが、菊地にとっては一作品に時間をたっぷり掛けられる、いささか牧歌的な時代だったのかもしれない。

菊地秀行の1984年

1984年に入って、菊地は『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを中心に朝日ソノラマで作品を執筆していく。

先に挙げた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを除くと、

3月11日『風立ちて〝D〟』

5月9日『妖神グルメ

を刊行している。

菊地秀行作品のタイトルではおなじみの〝妖〟の字がここで登場する。

7月頃から、朝日ソノラマ一辺倒だった菊地に他出版社から執筆依頼がやってくる。
早川書房、祥伝社、光文社。

すべて、朝日ソノラマのようなジョヴナイル小説ではなく、一般文芸やノベルスの依頼だった。

菊地は喜んで引き受けた。

この時期、立て続けに菊地に他社から執筆依頼が来始めたのには理由がある。

同じく朝日ソノラマで『幻獣少年キマイラ』(1982年7月30日刊)に始まる『キマイラ』シリーズを刊行していた夢枕獏が、1984年2月に祥伝社 ノン・ノベルから『魔獣狩り 淫楽編』、7月に『魔獣狩り 暗黒編』、12月に『魔獣狩り 鬼哭編』。

徳間書店 トクマ・ノベルスから同年7月に『闇狩り師』10月に『闇狩り師2』を上梓して、それぞれが、10万部から15万部を売るベストセラーとなっていたのだ。

夢枕獏もソノラマ文庫では、菊地同様に、いままでのソノラマ文庫作品とは、すこし毛色の違う作品を書いていた。

菊地も“「いい小説、面白い小説がでてきた」”と感じていた。

その夢枕獏が、ノベルスに進出して一気にブレイクを果たした。

次に、出版社が注目したのは菊地秀行だった。

才能は爆発する

まずは、下記のリストを見ていただきたい。
菊地秀行が1985年の1年間に上梓した著作リストである。

3月『エイリアン妖山記』(朝日ソノラマ 文庫)

3月『魔界行 復讐編』(祥伝社 ノン・ノベル)

5月『幻夢戦記 レダ』(講談社 講談社文庫)

5月『妖魔戦線』(光文社 カッパノベルス)

7月『魔界行Ⅱ 殺戮編』(祥伝社 ノン・ノベル)

7月『D-妖殺行』(朝日ソノラマ 文庫)

7月『妖獣都市』(徳間書店 トクマ・ノベルス)

8月『切り裂き街のジャック』(早川書房 ハヤカワ文庫)

9月『妖魔陣』(光文社 光文社文庫)

9月『夢幻舞踏会』(大和書房 ハードカバー)

10月『妖戦地帯Ⅰ 淫鬼編』(講談社 講談社ノベルス)

10月『妖人狩り』(有楽出版社 ジョイ・ノベルス)

10月『妖魔軍団』(光文社 カッパノベルス)

11月『魔戦記 第1部 バルバロイの覇王』(角川書店 カドカワノベルス)

12月『魔界行Ⅲ 淫獄編』(祥伝社 ノン・ノベル)

合計15冊。

このなかでも、『魔界行』と『妖獣都市』は一気に20万部を発行する勢いを見せた。

しかし、作品執筆については苦労があった。
これまで主戦場だった朝日ソノラマ文庫は、現在でいえばライトノベル的な位置にあった。
性描写や暴力描写、そして菊地が最も得意とするホラー描写には制限があった。

ノベルスにはそれが一切ない。
だが、一切制限がないということは、作家の個性が最大限に試される舞台でもある。

菊地が最初に手掛けたのは、光文社 カッパノベルスから刊行された『妖魔戦線』だった。
この作品に挑んだとき、菊地は丸3日間、何も書けず机の前に座っていただけだった。
現代社会を舞台に妖魔を暴れさせる――
「どう書けばいいのか?」
悩みの連続だったことが、あとがきに記されている。

それでも、菊地は『妖魔戦線』を1984年中に書き上げた。
本来は、この『妖魔戦線』がノベルス第1作目となるはずだったが、出版社の都合で刊行が繰り下げになる。

続けて書いた『魔界行 復讐編』が、1985年3月に祥伝社 ノン・ノベルから刊行された。初版は2万5000部。
しかし、すぐに増刷、そして増刷が続き、10万部、15万部、20万部を超えていった。

この『魔界行』シリーズ第一作は、一気にベストセラーの仲間入りを果たす。

そして、『妖魔戦線』『妖獣都市』が続けて、ベストセラーとなる。

また、12月に『吸血鬼ハンター〝D〟』がアニメ化され、一気にその人気に火が付いた。

文庫は、毎週増刷を重ねた。

売上ではこれまでリードしてきた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを一気に飛び越していった。

余談だが、このOVA『吸血鬼ハンター〝D〟』の音楽は、まだブレイク前の小室哲哉が担当している。

小室はこの年の7月にリリースされた渡辺美里のシングル『My Revolution』で作曲を担当し、コンポーザーとして注目されたばかりで、主題歌の『Your Song』もTM NETWORKだったが、まだ、一般的な知名度と人気を得ては居なかった。
(TM NETWORKは一気に知名度を上げ、注目されるのは1987年4月にリリースした『Get Wild』まで時間がかかっている)

〝夢枕獏が火をつけて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟

と云われる、伝奇バイオレンスブームが、ついに幕を開けた。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

その4に続きます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

伝奇バイオレンス・アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

売れないルポライター

ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。
初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。
電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

と頼むのだ。

現在の『○○Walker』や『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。

取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての仕事をこなしていった。

菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。
経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。

早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”
(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”
(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター (電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

菊地にはないネットワークと営業力があった。

しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。
原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。
早く大量の記事を短時間で書き上げる。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。
一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。
この具体的に書くということは、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。

翻訳家志望

だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。
1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。
第1期生は約250名。

同期に、漫画家では高橋留美子・たなか亜希夫・山本貴嗣。
漫画原作者では、狩撫麻礼・工藤かずや・早乙女正幸。
また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンエームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。
しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

この頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。
「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。
ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。
このグラビアは一部の好事家に注目された。

そして、菊地は『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。
この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

菊地は作家になることを目指していた。
しかし、“「自信がなかった」”、と語っている。

山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。
1974年に『神狩り』で作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。
打ちのめされるのが目に見えていたからだという。
結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

だがこれは、菊地に限ったことではない。
『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。
銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。

その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)
※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)
※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

そして、この頃、通っていた伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。
彼女にはふたりの兄がいた。長兄がニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年である出版社の記者だった。
菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。
この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。
船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。
1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。
菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

1982年9月30日『魔界都市〈新宿〉』で作家デビュー

フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。
朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」と声が掛かったのだ。
菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。
理由は、「長すぎる」。

その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。
自負はあったが、没にされたことで一時自信を失ったのではないだろうか。

しかし、映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。
この小説が出版されるまでには、紆余曲折もあった。

菊地の持ち味であるエロスとホラー要素が、「ソノラマ文庫の読者と合っていない」と編集者から指摘を受け、数箇所を削除しなければならなかった。
菊地には不愉快な出来事だっただろう。
しかし、菊地は指摘を受けた箇所を直して作品を完成させた。夫人の励ましもあったのだろう。原稿の清書では、半分を夫人がおこなった。

夫婦が一体となって完成させたといってもさしつかえない作品『魔界都市〈新宿〉』は1982年9月30日に発売となった。

菊地秀行33歳での作家デビュー。

初版は1万3000部。

9月25日生まれの菊地にとっては5日遅れではあったが、最高のバースデープレゼントだったのではないだろうか。

1ヶ月後には1万部の増刷が決まる。
当時のソノラマ文庫で増刷がかかっていたのは、『機動戦士ガンダム』のノベライズと高千穂遙の『クラッシャージョウ』くらいだった。

ソノラマ文庫編集部にとって、読者の反応は意外なことだったのではないか。

菊地は、ソノラマ文庫を戦場に次なる作品を放っていくことになる。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第3回に続きます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

人物伝

漫画家・遊人の〝推定4億円〟豪邸はスゴイ! デビュー以来、売れるまで画風を変えながら美少女漫画を生み出したのもスゴイ!

漫画家・遊人の〝推定4億円〟ロココ調豪邸 『ANGEL』『桜通信』で有名な漫画家・遊人がTwitterを始められました。 現在は港区六本木と湘南・藤沢を行き来して生活をされているようです。 かつて1990年代半ばに、遊人…

直木賞作家の生涯収入は○億円!『復讐するは我にあり』佐木隆三が公表した30年間の収支一覧表

30年間に渡る毎年の収入・支出を公表した直木賞作家の佐木隆三さん

直木賞作家の生涯収入って?

はる坊です。

人間は他人のことが気になる生き物です。
例えば、収入。
あの人は幾らくらいひと月に稼いでいるんだろう?
あの職業に就いている人はどれくらいの年収があるんだろう?
例えば、作家・小説家。

2015年11月、作家の森博嗣さんが『作家の収支』という新書で、

「19年間で、総発行部数1400万部。累計で15億円の収入を得た」

と公表されました。
森さんは、事あるごとに、ご自身を〝マイナ〟であると定義されていますが、著書はコンスタントに出されており、同時にコンスタントに売れ続けている作家です。
2018年には著書の累計売上数が1600万部を突破していますので、〝出版巨大不況〟のご時世で、稼ぎは〝超メジャ〟であると思います。

しかし、コンスタントに売れる本を出し続けていると言い難い作家の収入はどうなんだろう?
という疑問が出てきます。

そんななか、2007年(平成17年)に過去30年間の収支を公表した方がいます。
直木賞作家の佐木隆三さんです。
佐木さんが公表された数字ですごい点は、毎年の収入だけではなく、
・経費
・課税対象額
・所得税額
・源泉徴収税額
・差引納付額
と、支出や納税額についても、細かく公にされたことでしょう。

佐木さんの代表作と言えば、直木賞受賞作であり、今村昌平監督・緒形拳主演で映画化された『復讐するは我にあり』ですが、タイトルのせいか、意外にこの作品は西村寿行作品だと思っている方も一定数おられるようです。
ちなみに『復讐するは我にあり』は、新約聖書の(ローマ人への手紙 第12章 第19節)に出てくる『愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」とあり』という言葉の一部であり、これは、《悪人に復讐を与えるのは神である》という意味といわれています。
佐木さんは『新約聖書』の言葉をタイトルに引用した形です。

しかし、最も一般的な佐木隆三さんのイメージは、何か物騒な事件が起きると、
ワイドショーやニュース番組で「作家のサキリューゾーさんは」とコメントをしていたおじさんではないでしょうか。

それでは、佐木隆三さんの30年間の収支一覧表です。
その下に、佐木隆三さんの詳しいプロフィールを紹介していますので、興味のある方はご覧ください。

1976年(昭和51年)~2005年(平成17年)分 佐木隆三 各年収入・支出一覧表

1976年(昭和51年)
収入額:5,288万6,000円
経費額:1,449万9,000円
課税対象額:3,798万7,000円
所得税額:772万4,000円
源泉徴収税額:773万4,000円
差引納付額:-1万円
※備考 『復讐するは我にあり』の直木賞受賞で、前年度より急激に収入が増えたため、課税は平均課税方式がとられている。

出版された著作
1975年11月『復讐するは我にあり(上下)』(講談社)
1976年2月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(新人物往来社)
1976年2月『大将とわたし』(講談社)
1976年5月『狼からの贈物』(河出書房新社)
1976年6月『大罷業』(田畑書店)
1976年6月『ジャンケンポン協定』(講談社文庫)
1976年9月『偉大なる祖国アメリカ』(勁文社)
※『復讐するは我にあり』は1975年11月の刊行ですが、直木賞受賞で43万部を超えるベストセラーとなり、1976年分の収入に大きく寄与しているため、この年に出版された著作に含めました。
1976年に刊行された本の多くは、過去に一度刊行されて絶版状態にあったものや単行本化されていなかった原稿をまとめたものが目立ちます。
佐木さんは、直木賞受賞まで11冊の本を出されていますが、それらが版元を変えたり文庫化されて再度刊行されている形です。

『新宿鮫』シリーズが累計760万部以上の大ベストセラーになるまでに出した28冊ことごとくが売れず(28冊目は『氷の森』で大沢在昌作品の文庫では一番売れているのにわからないものです)、29冊目の『新宿鮫』が大ヒットして、それまでに書いて絶版になっていた本が次々に復刊されて、それらを〝ゾンビ本〟と呼んだ大沢在昌さんみたいな感じでしょうか。

1977年(昭和52年)
収入額:2,590万円
経費額:864万9,000円
課税対象額:1,685万1,000円
所得税額:482万4,000円
源泉徴収税額:269万8,000円
差引所得税納付額:212万5,000円

出版された著作
1977年2月『ドキュメント狭山事件』(文藝春秋)
1977年2月『日本漂民物語』(講談社)
1977年4月『越山田中角栄』(朝日新聞社)
1977年5月『殺人百科』(徳間書店)
1977年10月『人生漂泊』(時事通信社)

1978年(昭和53年)

収入額:2,626万1,000円
経費額:939万円
課税対象額:1,649万1,000円
所得税額:465万2,000円
源泉徴収税額:268万円
差引所得税納付額:197万1,000円

出版された著作
1978年1月『偉大なる祖国アメリカ』(角川文庫)
1978年1月『実験的生活』(講談社)
1978年2月『閃光に向かって走れ』(文藝春秋)
1978年3月『男たちの祭り』(角川文庫)
1978年4月『詐欺師』(潮出版社)
1978年6月『愛の潮路』(光文社)
1978年9月『続人生漂泊』(時事通信社)
1978年10月『娼婦たちの天皇陛下』
1978年11月『大罷業』(角川文庫)
1978年12月『誓いて我に告げよ』(角川書店)
1978年12月『復讐するは我にあり(上)』(講談社文庫)
1978年12月『復讐するは我にあり(下)』(講談社文庫)

1979年(昭和54年)
収入額:4,963万8,000円
経費額:1,389万2,000円
課税対象額:3,536万7,000円
所得税額:11,787,000円
源泉徴収税額:682万7,000円
差引所得税納付額:495万9,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1979年4月『曠野へ 死刑囚の手記から』(講談社)
1979年5月『事件百景-陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1979年5月『ドキュメント狭山事件』(文春文庫)
1979年6月『男と女のいる風景』(文藝春秋)
1979年9月『無宿の思想』(時事通信社)
1979年12月『錆びた機械』(潮出版社)
※1977年分(昭和52年分)・1978年分(昭和53年分)から収入が大幅に増加しているのは、1979年(昭和54年)4月21日に、今村昌平監督・緒形拳主演で公開された『復讐するは我にあり』の映画化により、講談社から出版された文庫本が版を重ねたのが理由と考えられる。

1980年(昭和55年)
収入額:3,283万8,000円
経費額:1,136万9,000円
課税対象額:2,105万9,000円
所得税額:684万7,000円
源泉徴収税額:352万2,000円
差引所得税納付額:332万4,000円

出版された著作
1980年2月『海燕ジョーの奇跡』(新潮社)
1980年2月『殺人百科 PARTⅡ』(徳間書店)
1980年5月『旅人たちの南十字星』(文藝春秋)
1980年11月『波に夕陽の影もなく 海軍少佐竹内十次郎の生涯』(中央公論社)
1980年11月『風恋花』(潮出版社)

1981年(昭和56年)
収入額:3,570万2,000円
経費額:1,117万9,000円
課税対象額:2,412万6,000円
所得税額:850万5,000円
源泉徴収税額:409万8,000円
差引所得税納付額:440万4,000円

出版された著作
1981年2月『越山田中角栄』(徳間文庫)
1981年4月『殺人百科』(文春文庫)
1981年4月『冷えた鋼塊(上巻)』(集英社)
1981年4月『冷えた鋼魂(下巻)』(集英社)
1981年5月『幸せの陽だまり』(潮出版社)
1981年6月『欲望の塀』(文藝春秋)
1981年10月『日本漂民物語』(徳間文庫)
1981年12月『右の腕』(学習研究社)

1982年(昭和57年)
収入額:4,219万5,000円
経費額:1,506万1,000円
課税対象額:2,873万4,000円
所得税額:1,022万2,000円
源泉徴収税額:468万5,000円
差引所得税納付額:553万7,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1982年1月『大将とわたし』(講談社文庫)
1982年2月『詐欺師』(文春文庫)
1982年3月『殺人百科 PARTⅢ』(徳間書店)
1982年4月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(徳間文庫)
1982年5月『政商 小佐野賢治』(講談社)
1982年5月『我が沖縄ノート』(潮出版社)
1982年6月『土曜日の騎士』(河出書房新社)
1982年7月『新撰組』(文藝春秋)
1982年8月『きのこ雲』(中央公論社)
1982年8月『ジミーとジョージ』(集英社)
1982年9月『娼婦たちの天皇陛下』(徳間文庫)
1982年10月『噂になった女たち』(文藝春秋)
1982年12月『閃光に向かって走れ』(文春文庫)

1983年(昭和58年)
収入額:2,533万4,000円
経費額:1,005万9,000円
課税対象額:1,527万5,000円
所得税額:391万5,000円
源泉徴収税額:312万円
差引所得税納付額:79万4,000円

出版された著作
1983年3月『曠野へ』(講談社文庫)
1983年4月『英雄』(集英社)
1983年6月『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋)
1983年9月『海燕ジョーの奇跡』(新潮文庫)
1983年10月『田中角栄の風景―戦後初期・炭管疑獄』(徳間書店)
1983年10月『波に夕陽の影もなく』(中公文庫)
1983年10月『冷えた鋼塊(上)』集英社文庫
1983年10月『冷えた鋼塊(下)』集英社文庫

1984年(昭和59年)
収入額:3,961万3,000円
経費額:1,493万円
課税対象額:2,468万3,000円
所得税額:783万2,000円
源泉徴収税額:415万6,000円
差引所得税納付額:367万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1984年2月『誓いて我に告げよ』(角川文庫)
1984年6月『殺人百科 一』(徳間文庫)
1984年6月『殺人百科 二』(徳間文庫)
1984年9月『男の自画像』(佼正出版社)
1984年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間書店)
1984年9月『殺人百科 三』(徳間文庫)
1984年10月『人生漂泊』(潮文庫)

1985年(昭和60年)
収入額:2,615万4,000円
経費額:931万1,000円
課税対象額:1,684万3,000円
所得税額:424万5,000円
源泉徴収税額:297万9,000円
差引所得税納付額:126万5,000円

出版された著作
1985年4月『ありふれた奇蹟』(講談社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(上)』(潮出版社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(下)』(潮出版社)
1985年7月『<一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店) 1985年9月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(毎日新聞社) 1985年9月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(毎日新聞社) 1985年10月『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫) 1985年12月『犯罪するは我にあり―佐木隆三文学ノート』(作品社) 1986年(昭和61年)
収入額:3,126万9,000円
経費額:1,077万5,000円
課税対象額:2,049万4,000円
所得税額:638万6,000円
源泉徴収税額:338万4,000円
差引所得税納付額:300万3,000円

出版された著作
1986年1月『ジミーとジョージ』(潮文庫)
1986年2月『政商 小佐野賢治』(徳間文庫)
1986年5月『殺人百科〈Part4〉―陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1986年7月『旅人たちの南十字星』(文春文庫)
1986年7月『南へ走れ、海の道を!』(徳間書店)
1986年12月『恋文三十年 沖縄・仲間翻訳事務所の歳月』(学習研究社)

1987年(昭和62年)
収入額:3,315万5,000円
経費額:1,053万9,000円
課税対象額:2,261万6,000円
所得税額:600万1,000円
源泉徴収税額:356万7,000円
差引所得税納付額:243万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1987年4月『華やかな転落』(潮出版社)
1987年5月『男の責任―女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1987年7月『わが沖縄ノート』(徳間文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈2〉』(文春文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈3〉』(文春文庫)
1987年10月『<深川通り魔殺人事件』(文春文庫) 1988年(昭和63年)
収入額:2,279万9,000円
経費額:778万8,000円
課税対象額:1,501万9,000円
所得税額:337万3,000円
源泉徴収税額:246万円
差引所得税納付額:91万3,000円

出版された著作
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(文春文庫)
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(文春文庫)

1989年(昭和64年・平成元年)
収入額:2,883万1,000円
経費額:845万4,000円
課税対象額:2,037万7,000円
所得税額:537万9,000円
源泉徴収税額:297万4,000円
差引所得税納付額:240万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1989年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間文庫)
1989年11月『リクルート帝王の白日夢』(双葉社)

1990年(平成2年)
収入額:3,734万6,000円
経費額:1,220万3,000円
課税対象額:2,514万3,000円
所得税額:647万7,000円
源泉徴収税額:410万5,000円
差引所得税納付額:237万1,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。

出版された著作
1990年2月『バカなふりして生きてみな』(青春出版社)
1990年3月『裁判長大岡淳三』(講談社)
1990年6月『身分帳』(講談社)※第2回伊藤整文学賞受賞
1990年7月『新撰組事件帳』(文春文庫)
1990年9月『<別府三億円保険金殺人事件』(徳間文庫) 1991年(平成3年)
収入額:2,961万8,000円
経費額:1,259万1,000円
課税対象額:1,702万7,000円
所得税額:393万6,000円
源泉徴収税額:303万8,000円
差引所得税納付額:89万8,000円

出版された著作
1991年8月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日新聞社)
1991年9月『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1991年9月『親が知らなかった子の愛し方』(青春出版社)
1991年12月『いま、裁判が面白い』(蒼樹社)

1992年(平成4年)
収入額:5,574万7,000円
経費額:1,883万4,000円
課税対象額:3,619万2,000円
所得税額:1,127万7,000円
源泉徴収税額:576万2,000円
差引所得税納付額:551万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。

出版された著作
1992年2月『恩讐海峡』(双葉社)
1992年4月『法廷の賓客たち』(河出書房新社)
1992年7月『正義の剣』(講談社)
1992年7月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1992年10月『しぶとさの自分学』(青春出版社)
1992年11月『越山田中角栄』(現代教養文庫)
1992年11月『伊藤博文と安重根』(文藝春秋)

1993年(平成5年)
収入額:2,909万円
経費額:1,075万5,000円
課税対象額:1,835万5,000円
所得税額:444万2,000円
源泉徴収税額:332万6,000円
差引所得税納付額:111万5,000円

出版された著作
1993年1月『殺人百科 四』(徳間文庫)
1993年2月『矯正労働者の明日』(河出書房新社)
1993年3月『裁判長大岡淳三』(講談社文庫)
1993年6月『生きている裁判官』(中央公論社)
1993年6月『身分帳』(講談社文庫)
1993年9月『闇の中の光』(徳間書店)
1993年9月『錬金術師の白日夢』(双葉文庫)

1994年(平成6年)
収入額:2,821万5,000円
経費額:874万5,000円
課税対象額:1,922万円
所得税額:362万1,000円
源泉徴収税額:329万6,000円
差引所得税納付額:32万5,000円

出版された著作
1994年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉社)
1994年4月『恩讐海峡』(双葉文庫)
1994年6月『バカなふりして生きてみな』(青春文庫)
1994年7月『死刑囚 永山則夫』(講談社)
1994年10月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)

1995年(平成7年)
収入額:3,049万4,000円
経費額:1,125万円
課税対象額:1,880万4,000円
所得税額:365万7,000円
源泉徴収税額:325万9,000円
差引所得税納付額:39万7,000円

出版された著作
1995年4月『司法卿 江藤新平』(文藝春秋)
1995年6月『白鳥正宗刑事の事件帳』(中央公論社)
1995年6月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日文芸文庫)
1995年8月『正義の剣』(講談社文庫)

1996年(平成8年)
収入額:3,521万2,000円
経費額:1,183万4,000円
課税対象額:2,321万8,000円
所得税額:490万6,000円
源泉徴収税額:355万7,000円
差引所得税納付額:134万8,000円
※備考:平均課税方式がとられている。

出版された著作
1996年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉文庫)
1996年3月『伊藤博文と安重根』(文春文庫)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記①』(小学館)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記 (2) 麻原出廷②』(小学館)
1996年10月『オウム裁判を読む』(岩波書店)
1996年10月『ハダカの自分を生きてみな』(青春文庫)

1997年(平成9年)
収入額:4,676万7,000円
経費額:1,563万2,000円
課税対象額:3,024万2,000円
所得税額:716万9,000円
源泉徴収税額:536万8,000円
差引所得税納付額:180万1,000円
※備考:平均課税方式がとられている。

出版された著作
1997年2月『法廷のなかの人生』(岩波新書)
1997年8月『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)
1997年10月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日新聞社)
1997年10月『宮崎勤裁判〈下〉』(朝日新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)

1998年(平成10年)
収入額:3,854万5,000円
経費額:1,328万9,000円
課税対象額:2,487万9,000円
所得税額:587万1,000円
源泉徴収税額:384万9,000円
差引所得税納付額:202万2,000円

出版された著作
1998年3月『人が人を裁くということ』(青春出版社)
1998年4月『司法卿 江藤新平』(文春文庫)
1998年9月『裁判』(作品社)

1999年(平成11年)
収入額:2,987万7,000円
経費額:1,324万6,000円
課税対象額:1,741万円
所得税額:346万円
源泉徴収税額:307万5,000円
差引所得税納付額:385,000円
※備考:消費税課税事業者

出版された著作
1999年5月『もう一つの青春』(岩波書店)
1999年8月『<悪女の涙―福田和子の逃亡十五年』(新潮社) 1999年9月『少年犯罪の風景-「親子の法廷」で考えたこと』(東京書籍) 1999年11月『死刑執行―隣りの殺人者〈1〉』(小学館文庫)  ※『曠野へ 死刑囚の手記から』改題 この年、長年の東京暮らしに別れを告げ、福岡県北九州市門司区に移住されています。 2000年(平成12年)
収入額:2,935万2,000円
経費額:1,317万5,000円
課税対象額:1,617万7,000円
所得税額:313万4,000円
源泉徴収税額:317万7,000円
差引所得税納付額:-4万3,000円(還付)
※備考:消費税課税事業者

出版された著作
2000年1月『<白昼凶刃―隣りの殺人者〈2』(小学館文庫) ※『深川通り魔殺人事件』改題 2000年3月『法廷のなかの隣人たち』(潮出版社) 2000年4月『逃亡射殺  隣りの殺人者3』(小学館文庫) ※『旅人たちの南十字星』改題 2000年5月『成就者たち』(講談社) 2000年6月『女医絞殺 隣りの殺人4』(小学館文庫) ※『千葉大女医殺人事件』改題 2000年8月『組長狙撃 海燕ジョーの奇跡 隣りの殺人者5』(小学館文庫) 2000年9月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日学芸文庫) 2000年12月『宮崎勤裁判』(朝日学芸文庫) 2001年(平成13年)
収入額:2,478万円
経費額:1,567万円
課税対象額:1,395万円
所得税額:245万5,000円
源泉徴収税額:249万9,000円
差引所得税納付額:-4万4,000円(還付)

出版された著作
2001年1月『小説 大逆事件』(文藝春秋)
2001年4月『供述調書―佐木隆三作品集』(文藝春秋)
2001年7月『裁かれる家族―断たれた絆を法廷でみつめて』(東京書籍)
2001年11月『法廷の内と外で考える―犯罪者たちとの十年』(文芸社)

2002年(平成14年)
収入額:2,296万8,000円
経費額:1,048万7,000円
課税対象額:1,248万1,000円
所得税額:229万7,000円
源泉徴収税額:238万8,000円
差引所得税納付額:-34万1,000円(還付)

出版された著作
2002年4月『三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件』(小学館)
2002年11月『大義なきテロリスト―オウム法廷の16被告』(日本放送出版協会)

2003年(平成15年)
収入額:1,685万4,000円
経費額:936万4,000円
課税対象額:658万2,000円
所得税額:78万9,000円
源泉徴収税額:171万4,000円
差引所得税納付額:-92万4,000円(還付)
出版された著作
2003年5月『成就者たち』(講談社文庫)
2003年10月『少女監禁―「支配と服従」の密室で、いったい何が起きたのか』(青春出版社)

2004年(平成16年)
収入額:1,946万1,000円
経費額:1,053万8,000円
課税対象額:768万4,000円
所得税額:96万5,000円
源泉徴収税額:202万4,000円
差引所得税納付額:-105万9,000円(還付)

出版された著作
2004年2月『小説 大逆事件』
2004年2月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社)
2004年6月『証言台の母―小説医療過誤裁判』(弦書房)
2004年9月『深川通り魔殺人事件』(新風舎文庫)
2004年10月『宿老・田中熊吉伝』(文藝春秋)

2005年(平成17年)
収入額:1,763万9,000円
経費額:1,101万5,000円
課税対象額:662万3,000円
所得税額:66万8,000円
源泉徴収税額:177万8,000円
差引所得税納付額:-111万円(還付)

出版された著作
2005年6月『なぜ家族は殺し合ったのか』(青春出版社)
2005年11月『人はいつから「殺人者」になるのか』(青春出版社)

佐木隆三さんの生涯収入は?

30年間に渡る佐木隆三さんの収支はいかがだったでしょうか?
佐木隆三さんの30年間の総収入は9億6,400万円でした。

私自身の感想は「意外にコンスタントに、結構な額を稼いでおられたんだな」というものです。
また、著書が多く刊行された年も、そうでない年も収入に大差がないことが特徴的です。
これは佐木さんが、事件の裁判傍聴記を週刊誌に寄稿するなど、週刊雑誌分野での活動が多く、それなりの原稿料を受け取られていたからだと思います。
あと、経費については、収入が下がっても、毎年ある程度必要だったのは、取材活動に必要だったこともあるでしょうが、秘書を雇っておられたことも大きな要因だと思います。

2006年(平成18年)以降の佐木隆三さんは?
それでは、2006年以降の佐木隆三さんの著作をご紹介します。
2006年 刊行書籍なし
2007年4月『復讐するは我にあり(改訂新版)』(弦書房)
2007年12月『高炉の神様 宿老・田中熊吉伝』(文春文庫)
2008年8月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社文庫)
2009年2月『法廷に吹く風』(弦書房)
2009年11月『復讐するは我にあり 改訂新版』(文春文庫)
2011年9月『越山田中角栄 (ノンフィクション・シリーズ“人間”)』(七つの森書館)
2012年2月『わたしが出会った殺人者たち』(新潮社)
2013年 刊行書籍なし
2014年8月『わたしが出会った殺人者たち』(新潮文庫)

2015年10月31日逝去。
2018年1月『死刑囚 永山則夫 (P+D BOOKS)』(小学館)
2019年5月『沖縄と私と娼婦』(ちくま文庫)

佐木隆三さんのプロフィール・生涯をご紹介します

佐木隆三(さきりゅうぞう)さんプロフィール
1937年4月15日 朝鮮半島・朝鮮咸鏡北道穏城郡生まれ。
1941年 父親の召集により母親・兄姉とともに、両親の本籍地である広島県に引き上げる(父親は1945年7月1日にフィリピン・ミンダナオ島 サンボアンガにおいて戦死)。
1950年 母と兄姉とともに、福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)に移り住む。
1953年3月 八幡市立花尾中学校卒業(8歳年下で同じ花尾中学校OGに芥川賞作家の村田喜代子さんがいます)
1956年3月 福岡県立八幡中央高等学校卒業(ずっと後輩にパチンコを題材にしたマンガで有名な谷村ひとしさんがいます)
1956年4月 八幡製鉄株式会社(現・日本製鉄)入社
1963年5月 『ジャンケンポン協定』で、第3回新日本文学賞短編部門受賞
1964年7月 八幡製鉄株式会社(現・日本製鉄)退社
八幡製鉄を退職したあとは、NHK福岡放送局の〝放送台本のライター〟を中心に活動します。
そして1967年、ちょうど30歳で上京を果たします。
これは、学研(当時の社名は学習研究社)の嘱託として月額7万円がもらえることが決まったからです。
当時の大卒初任給は、まだ3万円に届かず、勤続年数25年~30年の地方公務員の平均給与が7万円弱でした。
嘱託とはいえかなりの好待遇です。
本当は、学研が週刊誌の取材記者、つまりは契約ライターを募集しており、その求人に応募したのですが、佐木さんは、面接試験後になぜか社長に呼ばれて、「雇わないことにしたから。取材記者は止めなさい」と告げられます。
佐木さんが理由を尋ねると「せっかく小説を書いて、短編集まで出している。嘱託として雇うから」といわれます。
学研の創業社長・古岡秀人は、幼くして父親を亡くした苦労人で九州・小倉の師範学校(現在の福岡教育大学)を出ていた、いわば佐木さんの故郷の先輩でした。
また、古川社長は五木寛之さんのお父さんとも親しい間柄で、こう見ていくと北九州だけでいろいろな有名人・著名人やその親族が繋がっていく気がします。

佐木さんは、社長の言葉に甘える形で上京を果たします。

昔のライター業は技能職で待遇も良かった!
ちなみに、当時のライターは技能職で、佐木さんより早くライターとなり、40歳を過ぎてから作家に転身して、『飢えて狼』でデビューを飾り、『背いて故郷』『裂けて海峡』などの傑作冒険小説を書いた作家の志水辰夫さんによると、
“当時のライターは、
「ひと月のうち一週間働けば食えた」”
“「週2日働けばよかった」”
と、現在とはまったく認識の違う、技能が必要と認知されている職業でした。
志水辰夫さんが1990年に発表して、日本冒険小説協会大賞を受賞、当時の『このミステリーがすごい』では、宮部みゆきさんの『龍は眠る』・大沢在昌さんの『毒猿-新宿鮫Ⅱ』を押さえて1位になった『行きずりの街』は、文庫<が2006年から売れ始め、2010年には映画化もされました。 現在までに文庫は70万部を超すロングセラーになっています さて、この故郷が同じ学研の社長のおかげで、上京を果たした佐木さんは、嘱託の仕事が毎日出社しなくてもいい性格のものであったことから、小説執筆の時間を得ることになり、翌年『奇蹟の市』(文藝・河出書房新社)で第58回芥川賞候補になります。 残念ながら落選となり、選考委員では三島由紀夫や舟橋聖一、石川淳、そして、井上靖からは完全に黙殺されていますが、大岡昇平と瀧井孝作からは高評価を得ています。 そして、半年後には、『大将とわたし』が第59回の今度は直木賞候補に挙がります。 この回も落選でしたが、選考委員で露骨に黙殺されているのは2名だけで、褒めないまでも選評で触れられており、そのなかでも、大佛次郎と水上勉からは強く推されています。 そして佐木さんは1970年代初頭には、まだ本土復帰前の沖縄ゴザ市に移住して、今度はルポライターとして活躍します。 当時の佐木さんにとって収入源は『朝日ジャーナル』と『週刊アサヒ芸能』の原稿料でした。 この2つの雑誌はまったく性格が異なっており、佐木さんは『朝日ジャーナル』には、沖縄米軍基地で働く人々のストライキ運動など労働運動を中心に書き、『アサヒ芸能』には、娼婦を生業にしている女性のことや沖縄住民の生活ぶりを書きます。 実は、このように器用な書き分けができるライターは他におらず、佐木さん自身も当時の沖縄の現実を伝えたい思いが強く、このときは「小説家ではなく、ルポライターになってしまってもいい」と考えたようです。 しかし、運命の皮肉か、佐木さんは沖縄・ゴザでいきなり逮捕されます。 しかも、沖縄返還をめぐるデモの首謀者と疑われての逮捕でした。 結局、12日間の拘留の末、誤認逮捕で無実とわかって釈放されますが、そのとき逮捕された理由のひとつが〝作家だから〟というもの。 いい加減さに憤った佐木さんですが、本格的に〝犯罪〟へ目を向けるきっかけにもなりました。 そして、1978年11月後半、丹念に取材を重ねた『復讐するは我にあり (現在は文春文庫)』が講談社から出版されると、すぐに第74回直木賞候補となり、ぶっちぎりの強さで受賞します。 受賞作もベストセラーとなり、執筆依頼が相次ぎ月産300枚の状態が続きます。 そんな佐木さんですが、誤認逮捕ではなく、不祥事を起こして逮捕された経験があります。 1978年6月末に銀座で飲んだ帰り、佐木さんはタクシーに乗ろうとします。 同行していた友人にタクシーを止めてもらい、友人がタクシー運転手に「乗せてほしい」と交渉しますが、運転手からは「いや、タクシー乗り場でお願いします」と断られます。 これは、乗車拒否ではなくタクシー運転手の言い分が正しいのです。 銀座では、午後10時(22時)から午前1時間までは、タクシー乗り場でしか客を乗せないというルールがありました(いまでもあります)。 ところが、この友人が交渉をしているうちに、運転手側が(これ以上は関わり合いになりたくない)と思ったのか、まだ、窓ガラスに佐木さんの友人の手が入っている間にクルマを動かしました。 その光景を見た佐木さんは、何とタクシーのボンネットに飛び乗って暴れてしまいます。 結局、タクシー運転手も怒り出して、警察に言って白黒つけようと話し合いをとなるのですが、佐木さんはタクシーの窓ガラスを傷つけたとして、運転手から器物損壊罪で告訴され、現行犯逮捕されます。 翌日、ちょうど7月1日。 酔いが醒めた佐木さんは、とんでもないことをやらかしたことに気付いて、タクシー運転手に謝罪と破損させた窓ガラス代金を支払うことで、示談が成立。釈放されます。 このときはいまのネット社会の書き込みと同様に、多くの脅迫めいたハガキ・電話・手紙が自宅に送りつけられ、佐木さんの仕事の場であるマスコミでも、かなり叩かれます。 しかし、佐木さんは謝罪するところには謝罪して、反省すべきところは反省をして、したたかにこの状況を切り抜けると、しばらく禁酒をして〝月産400枚〟の新記録を打ち立てます。 その後、騒ぎも沈静化。 佐木さんは仕事から干されることはなく、この事件も忘れ去られ、何か物騒な事件が起これば「作家のサキリューゾーさんは」(場合によっては、小林久三さんだったりしましたが)と、独自の路を切り開いて、20世紀末まで駆け抜けます。 1999年に東京を離れ、福岡県北九州市門司区に新たに建ったマンションに移住します。 新築マンションで「さあ、落ちついて仕事をしよう」としようと思うまもなく、あの『下関通り魔殺人事件』が起こり、前後して『佐賀・長崎連続保険金殺人事件』の犯人逮捕と、佐木さんは故郷に戻っても事件と縁が続きました。 そして、2002年には『北九州監禁殺人事件』が発生。 この事件をモデルに書かれたフィクションは数多いです。 誉田哲也『ケモノの城 (双葉文庫)』 櫛木理宇『侵蝕 壊される家族の記録 (角川ホラー文庫)』 新堂冬樹『殺し合う家族 (徳間文庫)』 真梨幸子『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実 (徳間文庫)』 2005年には『広島小1女児殺人事件』発生。 たいへん不謹慎なのは承知の上なのですが、 〝佐木さんの行くところに事件が起こるのか〟 〝事件が起こるところに佐木さんがいるのか〟 正直、わからなくなってきます。 この2つの事件のあいだには、 『奈良小1女児殺害事件』が起こり、佐木さんは裁判の傍聴席に座り、故郷で落ちつくことのないまま〝裁判傍聴業〟を続けます。 並行して、佐木さんは故郷の為に尽くします。 2006年4月に北九州市立文学館館長に就任(2012年3月末の任期満期解嘱後は名誉館長に就任) 2009年4月からは北九州市立大学 特任教授を務め、九州国際大学 客員教授にも就任します。 プライベートでは、佐木さん自身が〝老老離婚〟と表現したように、2011年に二度目の離婚を経験。 住まいも、門司の高層マンションから風師山中腹にある元割烹料理店の和風家屋に移し、どの部屋に居ても海が眺められるように改装した〝風林山房〟(名付けは直木賞作家・古川薫氏)に移します。 ときおりは、NHK『サラメシ』でも放映された地元の老舗イタリアンのお店「ラ・パペリーナ-LaPaperina-」で、関門海峡でとれるワタリガニのトマトソースパスタに舌鼓を打ちながらこれまでの人生に思いを馳せたのでしょうか? 関門海峡がどの部屋からも見渡せる山荘で〝ふうちゃん〟と名付けた猫を友にして、10年弱の時間を過ごした佐木隆三さんは、2015年10月31日に下咽頭癌のため、北九州市内の病院で亡くなります。78歳でした。 遺骨は遺言どおり、関門海峡に散骨されました。 『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞してから40年が経っていました。 松本清張ほどではありませんが、佐木さんの人生は、『復讐するは我にあり』で二分されるような感を覚えます。 純文学に始まり、沖縄でルポライターとして活躍、そして辿り着いたノンフィクション・ノベルの世界。 その世界を人生の半分を費やして、見つめ続け書き続けた人生だったと感じます。 最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。 心より御礼申し上げます。 参考資料
※以下の文献・資料を参考並びに引用させていただきました。
ありがとうございました。
『敍説. 3 : 文学批評』 (花書院)
佐木隆三『もう一つの青春―日曜作家のころ』(岩波書店)
佐木隆三『人生漂泊』(時事通信社)
佐木隆三『続人生漂泊』(時事通信社)
佐木隆三『無宿の思想』(時事通信社)

はる坊の雑記

2020年も『はる坊の雑記』をどうぞよろしくお願い申し上げます。

はる坊です。

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は、多くの方々に拙ブログをご覧いただき、また、お問い合わせ等もメールでいただき、本当にありがとうございました。

このブログを作って本当に良かったな、と実感した一年でありました。

2020年も変わらぬご支援、ご愛顧をお願い申し上げる次第です。

はる坊拝

メールをいただける場合はこちらまで。

info-harubou〒king-postman.com

※お手数をお掛けいたしますが、〒を@に変更していただきますよう、お願い申し上げます。
また、フリーメールや匿名でのメールには、お返信できかねる場合がございますので、あしからずご了承ください。

【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ

【大学名は関係なく採用されています】2019年春大学・大学院卒業生 大学別キーエンス就職実績一覧表

無名大学からキーエンス新卒採用はあるのか?

はる坊です。

今回は、キーエンスの新卒採用についてお伝えします。

2019年3月卒業の大学卒と大学院修了者の合算ですが、一流大学・有名大学以外からもキーエンスに採用されている学生はいます。

国立大学・MARCH・関関同立(同クラスの大学も含む)以外の採用者を大学別に見ていきます。

成蹊大学・・・2名

日本大学・・・4名

東洋大学・・・1名

愛知学院大学・・・1名

中京大学・・・1名

名城大学・・・1名

京都産業大学・・・1名

京都女子大学・・・1名

近畿大学・・・2名

どの学部から内定・採用者がでているのか?

東洋大学からは経済学部の学生。

愛知学院大学からは経営学部経営学科の男子学生。

中京大学からは経営学部の学生。

近畿大学からは法学部の学生。

が採用されています。

また、名城大学では2019年3月卒業生に続いて、2020年3月卒業見込みの法学部生が内定を勝ち取った模様です。

このデータを見ていきますと、いわゆる『学歴フィルター』による選別は、キーエンスではおこなわれていないことがわかります。

採用実績としては、国公立大学上位校・早慶上理・MARCH・関関同立以上の学生が数の上では多いことは確かです。

しかし、日東駒専・愛愛名中・産近甲龍クラスの学生も内定を勝ち取り、就職しています。
チャンスと可能性はあるのです。

最近は、入試でも就職でも安全志向が高まっており、

「『学歴フィルター』で落とされるからエントリーしない」

「どうせ一流企業・大企業は無理」

「自信がない」

「自分は○○大学だから・・・」

などの理由で、最初からその大学のレベルで内定を獲得できそうな企業を狙う学生も増えていますが、大企業・一流企業を最初から諦めるのはもったいないことです。

新卒就職のチャンス人生で一度きりです。
だったら、キーエンスに限らずですが、どんな有名企業・大企業でも、自分がすこしでも、

「行きたいな」

「働きたいな」

と思う企業があれば、挑戦してみたほうが、絶対にいいです。

何かをしなかった後悔は、ずっと続きますから・・・

後悔のない就活を実現するあなたの味方 click!

キーエンスの新卒採用についての考え方

キーエンスの採用についての考え方について、創業者で現在は名誉会長を務められている滝崎武光氏が、興味深い発言をインタビューのなかでされているので引用します。

「偏差値の高い学生と低い学生を100名ずつ採用して、キーエンスで仕事をしてもらったら、偏差値の高い学生のほうが成果を挙げています。しかし、地頭の良さは別です」

要するに、学力の高い学生を評価するものの、それは全てではなく、地頭の良さ・キーエンスに向いている学生という要素も充分に加味して、採用活動をおこなうのが基本路線であると考えることができます。

よって、世間的に偏差値の低い大学であっても、キーエンスに採用される可能性は充分に残されているわけです。

また、リード電機という社名だった当時から、キーエンスに商号が変更され、大阪証券取引所2部上場から東京証券取引所1部上場を果たしてからしばらくのあいだ、1980年代から1990年代初頭のキーエンスの役員を調べると、東京大学法学部出身者もいれば、世間的に馴染みのない学校の出身者もいました。
このことも、滝崎氏が上記の考えを持つに至った理由ではないかと、私は感じます。

かつて、キーエンスは人材採用に頭を悩ませていた

いまでこそ、キーエンスは『モンスター企業』と呼ばれ、従業員の平均年収が2,000万円を超える企業になりましたが、1980年代は新卒採用でも中途採用でも、常に頭を悩ませていました。

離職率が高かったのです。

離職率の高さについては、キーエンスが1987年に大阪証券取引所第2部に新規上場する際にも、記者から指摘されており、滝崎氏は「改善している」と述べていますが、記者が質問事項に加えるほどですから、平均勤続年数が低い状況にあり、外部から投資対象として見た場合、不安要素であったことがうかがえます。

これは、

売上高ではなく営業利益・営業利益率を一番に考え、従業員に極めてロジカルな思考を求める滝崎氏の考え方に、経験者採用者を中心に、まだついていける風潮ではなかったこと。

また、

この時代には年間賞与も6ヶ月~7ヶ月分。

残業代もフル支給されていましたが、まだ、キーエンスの売上高は73億円(1987年3月期決算)に過ぎず、営業利益率は30%台後半とこの頃から高かったものの、激務に対して、給与も年収ベースでいくと他社よりも100万円ほど高い状況で、「割に合わない」と考える従業員が一定数おり

退職したのが要因と考えられます。

次に、この時代と現在のキーエンスの業績から、従業員に与えられるインセンティブを見ていきましょう。

1987年と2019年のキーエンスの従業員インセンティブの違い

1987年のキーエンス

1987年のキーエンスは従業員330名程度でした。
売上高73億円(1987年3月期決算)で営業利益率が38%と仮定します。そうすると営業利益27億7400万円。

このうちの10%を、インセンティブとして、従業員の給与と賞与に加算します。
ひとり頭の年間インセンティブは84万円ほど。

2019年のキーエンス

2019年6月17日に第50期有価証券報告書が、関東財務局長宛に提出されました。

連結決算ではなく、キーエンス単体の数字を見ていきます。

2019年3月期決算(2018年4月1日~2019年3月31日)
売 上 高:4,584億2,300万円
経常利益:2,902億3,800万円
従 業 員:2,388名

営業利益ではなく経常利益ですが、キーエンスの場合、毎年、営業利益と経常利益に大きな差違は見受けられませんので、経常利益率を算出しますが、経常利益率は63.31%です。

このうちの10%を、インセンティブとして、従業員の給与と賞与に加算します。
ひとり頭の年間インセンティブは1215万4020円になります。

単純計算ですが1987年と比較して、従業員に与えられるインセンティブは14.47倍に増加しています。

このインセンティブがキーエンス従業員の年収に反映されます。

キーエンスが高収入・高年収を誇る企業である秘密と理由がここにあります。

キーエンスの新卒採用について軽く触れます

キーエンスの新卒採用では、エントリーシートの提出はありません。
面接を重ねた選考をおこなっています。

第1次選考

まず、説明会に参加すること。
ここから選考がスタートします。

この説明会は、キーエンス本社ではなく、有名ホテルの大広間が使用されます。
4年制大学の卒業見込みであれば、どこの大学でも性別に関係なく、どなたでも参加できます。

これは、広く門戸を開いていることを学生にアピールすることも、狙いなのでしょう。

この説明会は、東京と大阪で複数回おこなわれます。

説明会終了後に、性格検査と20秒で自己PRを人事担当者の前でおこないます。
これが第1次選考です。

(ここは通過する学生が相当数います)

第2次選考

説得面接です
ここで、すでに営業力を図る段階に入っています。
「私は○○が嫌いです。そんな私を○○が好きになるように話してください」というものです。
面接官は、○○が嫌いだという理由を述べて、学生を説得しようとします。

ここで面接官に説得されてしまった学生は、ここで選考から落ちる傾向が強いです。
また、制限時間内に面接官を説得できなくても、学生側が面接官を○○好きになるよう話す内容によっては、次の選考に進む学生もいます。

第3次選考

第3次選考は、カメラ面接

カメラで学生の姿を360度映して、面接をおこないます。
これは、多面的に学生を評価する狙いがあります。ここで最終選考に残す学生が決められます。
(ここで一気にふるいに掛けられます)

最終選考

最終選考は、人事担当者と1対1での面接です。

ここでは、質問に対する回答について、かなり深いところまで突っ込まれます。

キーエンスに向いている学生かどうか?

キーエンスで働いていくことに必要なロジカルな思考の持ち主かどうか?

深いところまで突っ込まれ、突き詰められても破綻なく会話を成立させることができるかどうか?

これをクリアすれば、内定です。

キーエンス関係でおすすめする書籍

元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。

次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。

一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。

ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。

『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。

他にも元キーエンスの方が書かれた本があります。
参考にはなりますが、あえてこの場でおすすめするのは、控えさせていただきます。

大学別 キーエンス就職実績一覧表

2019年3月卒業生の大学別キーエンス就職実績一覧表です。
大学か大学院修士か、学部・学科はどこかまでは記載しておりませんが、参考にはなるかと思います。

国公立大学

東京大学・・・9名

京都大学・・・8名

北海道大学・・・2名

東北大学・・・1名

大阪大学・・・5名

九州大学・・・1名

東京工業大学・・・8名

筑波大学・・・3名

千葉大学・・・1名

東京外国語大学・・・1名

首都大学東京・・・1名

横浜国立大学・・・3名

横浜市立大学・・・1名

大阪市立大学・・・1名

大阪府立大学・・・1名

神戸大学・・・1名

広島大学・・・1名

私立大学

早稲田大学・・・33名

慶應義塾大学・・・38名

上智大学・・・4名

明治大学・・・17名

青山学院大学・・・4名

立教大学・・・8名

中央大学・・・8名

法政大学・・・4名

成蹊大学・・・2名

日本大学・・・4名

東洋大学・・・1名

東京理科大学・・・1名

芝浦工業大学・・・1名

愛知学院大学・・・1名

中京大学・・・1名

南山大学・・・3名

名城大学・・・1名

同志社大学・・・19名

立命館大学・・・16名

関西大学・・・4名

関西学院大学・・・9名

京都産業大学・・・1名

京都女子大学・・・1名

近畿大学・・・2名

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

最初からキーエンスと創業者・滝崎武光氏について読んでくださる方はこちらから。


⇒資産約2兆円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス①

元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。

次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。

一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。

ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。

『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。

ドケチ術

【10月24日更新!】 最新版PayPay(ペイペイ)が使えるお店のまとめ 10月1日からがPayPay(ペイペイ)の本領発揮です!

10月5日更新! 最新版PayPayが使えるお店のまとめ

はる坊です。
PayPay使ってますか?

10月1日(火)から消費税が増税されました。(食料品等は除く)

8%から10%へ、2%の増税ですが、積もり積もると大きな金額になります。

これまで、消費税込みで1,080円で購入出来たものが、1,100円に。

10,800円で購入出来たものが、同じく11,000円に。

これは家計に大きな負担としてのしかかってきます。

しかし、PayPayを利用することによって、増税後もポイント還元でお得にお買い物ができます。

PayPayが使えるお店で、現金で支払ってしまうと、ポイント還元はありませんので、結果的に、電子マネー・電子決済でお買い物をする方よりも損をしてしまいます。

まだ、PayPayをご利用でない方は、スマホにPayPayのアプリをダウンロードされることをおすすめいたします。

現在、まちかどペイペイで、10%ポイント還元セール実施中!

全てのスーパー・専門店・サービス業者が対象ではないのが残念ですが、

paypayのまちかどペイペイ対象の店舗では、

10月1日 10:00~11月30日 23:59 まで、消費者還元事業から5%、paypayから5%(こちらは2020年6月まで実施)の

10%のポイントが最大で還元されるセールを実施中です。

スーパーマーケットや日常生活で必要な物を売るお店やサービスは、私たちの生活に欠かせないものです。
食料品・日用品などなど、家計簿をつけていらっしゃる方なら、一目瞭然ですが、節約をしていても、月の支出のなかで大きな割合を占めるもの。

それが、限られた店舗ではありますが、最大で10%ポイント還元されるというのは、大きいと思います。

そして、10月5日はpaypay1周年記念キャンペーンとして、スマホユーザー全員を対象にして、

1日だけの限定・店頭での限定になりますが、

paypay感謝デーがおこなわれ、最大で20%がポイントバック。

さらに、50回に1回の確率で10万円相当まで、全額が戻ってくるという大盤振る舞いが実施されます。

それでは、10月5日現在でPayPayが使えるお店をまとめましたので、ご参考にしていただければ幸いです。

※店舗状況により、導入日が変更になる場合もございます。詳細は各店舗までお問い合わせください。

最新版PayPayが使えるお店のまとめ

コンビニエンスストア

・セイコーマート

・セブンイレブン

・ファミリーマート

・ポプラ

・ミニストップ

・ローソン

・ナチュラルローソン

・ローソン100ストア

総合スーパー・ディスカウントストア

・アスタラビスタ

・スーパーアルプス

・イトーチェーン

・イトーヨーカドー

・ヨークマート

・スーパー魚長

・OKストア

・カブセンター

・ベニーマート

・近商ストア

・スーパーマーケットKINSHO pochette(ポシェット)

・グッディ

・KEIHOKU(京北スーパー)

・生活協同組合コープあいち

・コープさっぽろ

・コノミヤ

・ハローフーズ

・フレッシュマートワンダー

・サミット(サミットストア)

・スーパーベルクス

・サンプラザ

・スーパーマーケット サンプラザ

・サンフレッシュブルーム

・そうてつローゼン・

・シマホ(島忠・HOMES島忠)

・スーパーエバグリーン

・西友(SEIYU)

・SUNNY

・セキチュー

・大黒屋

・スーパーたじま

・ギガマート

・ギガパール

・ハローマート

ドラッグストア

・アインズ&トルベ

・アインズ

・LIPS and HIPS(リップスアンドヒップス)

・アカカベ

・ウェルシア

・ウェルシアダックス

・ハックドラッグ

・ハッピードラッグ

・B.B.O.N

・マルエドラッグ

・エバーグリーン(Evergreen)

・ドラッグ・イン・キムラヤ

・キリン堂

・サーバ

・クスリのアオキ

・GENKY

・コクミン

・ココカラファイン

・COSMETICS AND MEDICAL

・ゴダイドラッグ

・サツドラ(サッポロドラッグストア)

・サンドラッグ

・ドラッグ新生堂 くすりのハッピー

・スーパードラッグアサヒ

・スギ薬局

・ジャパン

・ツルハドラッグ

・ウォンツ

・杏林堂

・くすりの福太郎

・レデイ

・Wellneee

・B&Dドラッグストア

・SEIMS 富士薬品グループ

・ドラッグストア セキ(SEKI)

・TOMODS(トモズ アメリカンファーマシー)

・ドラッグイレブン

・メガ スーパードラッグ

・ビッグドラッグ

・コジマドラッグ

・Vdrag

・マツモトキヨシ

・くすりのスーパーdrag ハシドラッグ

・ププレ スーパードラッグ ひまわり

・薬王堂

宅配・デリバリー

・RAKURU(ラクール)

・ピザーラ(PIZZA-LA)

オンラインサービス、ネットショッピング

・Yahoo!ショッピング

・ヤフオク!

・ロハコ(LOHACO)

・Yahoo!占い

・Yahoo!ニュース

・ebookjapan

・Yahoo!ゲーム

・DiDi

ファミレス・ファストフード・焼肉・しゃぶしゃぶ・回転寿司・カフェ

・ALOHA TABLE

・七輪焼肉 安安

・上島珈琲店

・キーズカフェ

・キッチンオリジン

・れんげ食堂 Toshu

・牛角

・フレッシュネスバーガー

・かっぱ寿司

・ステーキ宮

・しゃぶしゃぶ温野菜

・牛カツ京都勝牛

・サーティワンアイスクリーム

・シカゴピザ

・ストロベリーコーンズ

・TEXMEX FACTORY

・にくスタ

・TGI フライデーズ

・WANG’S GARDEN

・デリズ

・ナポリの窯

・ピザクック

・ピザポケット

・ピザリトルパーティー

・bb.q OLIVE CHICKEN café

・ファーストキッチン

・ウェンディーズ

・ファーストキッチン

・本棚珈琲

・松屋

・とんかつ松のや

・モンテカフェ

・焼肉万里

・吉野家

家電量販店

・エディオン

・100満ボルト

・ケーズデンキ

・デンキチ

・パソコン工房

・グッドウィル

・PC DEPO(ピーシーデポ)

・ビックカメラ

・コジマ

・ソフマップ

・ペイシア電器

・ヤマダ電機

・ツクモ

・ベスト電器

・マツヤデンキ

・ジョーシン

書籍

読書家の皆さんにも、Paypayは強い味方です。

・とらのあな

・ブックファースト

・古本市場

・らしんばん

・LIBRO(リブロ)

・あゆみBOOKS

・オリオン書房

・Carlova 360

・パルコ ブックセンター

・文喫 BUNKITSU

・文禄堂(ぶんろくどう)

・mio mio

・よみよむ

・Wonder GOO

飲食店・居酒屋

モンテローザ系列・ワタミ系列でいち早く導入された印象があります。

・魚銀

・魚民

・魚萬

・濱焼 北海道魚萬

・横濱 魚萬

・カラオケ歌之助

・268円厨房 うちくる

・おいで屋ホルモン

・俺の串かつ黒田×炭火焼鳥めでた家

・くろ〇

・kocoroya(こころや)

・白木屋

・千年の宴

・豊後高田どり酒場

・月の宴

・月の花

・鶏のジョージ

・海鮮楽屋 福福屋

・みつえちゃん

・目利きの銀次

・めでた家

・モンテビア

・山内農場

・笑笑

・きんくら酒場 金の蔵

・アカマル屋

・月の雫

・炭火串焼 東方見聞録

・バリバリ鶏

・ITALIAN RESTAURANT & BAR GOHAN

・坐・和民

・鳥メロ

・ニッポンまぐろ漁業団

・ミライザカ

・和民

・磯丸水産

・餃子いち五郎

・餃子トラ五郎

・手羽先唐揚専門店 鳥良

・鳥良商店

・かんてきや

・黒崎再生酒場

・九州うまいもん酒場 SUSU

・和風居酒屋 月の庭

・鳥くらぶ

・銀天街1923

・博多再生酒場

・大衆炉端 フジヤマ桜

・ふっくら

・炭火居酒屋 炎

ぜひ、串カツ田中でも導入して欲しいのですが、現金主義に徹している以上、現段階ではないでしょうね・・・

ファッション

・earth music&ecology

・AMERICAN HOLIC

・E hyphen world gallery

・Green Parks

・Koe

・ジーンズメイト

・OUTDOOR PRODUCTS

・タカキュー

・GRAND-BACK(グランバック)

・DIESEL

・Mac-House

・はるやま

・パーフェクトスーツファクトリー

・Parade(パレード)

・パレット

・PINKHUNT(ピンクハント)

・BABY DOLL(ベビードール)

・ライトオン

※気になる、ユニクロ・GUですが、順次paypayが使用できる店舗を増やしている最中のようです。
どの店舗でpaypayが使えるか?

ユニクロのオフィシャルサイトに掲載されていますので、お近くのユニクロ・GUで使用可能かどうか、ご確認くださいますようお願いいたします。

百貨店・デパート・ショッピングモール

・oazoーオアゾ

・TOKIAートキア

・丸ビル

・iiyo!!(イーヨ)

・Marunouchoi BRICK SQUARE

・LANDMARK PLAZA QUEEN’S TOWER A

・新丸ビル

・二重橋スクエア

・CANAL CITY (キャナルシティ博多)

・Marinoa City FUKUOKA(マリノアシティ福岡)

・RIVER WALK(リバーウォーク北九州(

・木の葉モール橋本

・MIO TENNOJI(天王寺ミオ)

・羽田空港(日本空港ビルデング)

・阪急百貨店(Hankyu)

・阪神百貨店(HANSHIN)

・阪急メンズ館

・LA CITTADELALA(ラ チッタデッラ)

・maruya gardens(マルヤガーデンズ)

メガネ、コンタクトレンズなど

・アイメガネ

・OWNDAYS

・Zoff(ゾフ)

・武田メガネ

・中央コンタクト

・フラワーコンタクト

・コンタクトレンズ ハートアップ

・PARIS MIKIーパリスミキ

・眼鏡市場

・ALOOK(アルク)

・LENS STYLE(レンズスタイル)

・レンズダイレクト(LENS DIRECT)

・メガネサロンルック

・メガネスーパー(EYE CARE STATION)

・あなたの町のメガネ屋さんーシミズメガネ

・メガネのタカハシ

・H!YES メガネハウス

・メガネドラッグ

・メガネのプリンス

楽器・靴・サイクリング・専門店

・イシバシ楽器

・ウインザーラケットショップ

・カメラのキタムラ

・釣具のキャスティング

・ゲオ

・ゲオモバイル

・サイクルスポット

・ル・サイク

・サイクルベース アサヒ

・島村楽器

・シュープラザ

・セカンドストリート

・ソニーストア

・東京靴流通センター

・Chiyoda(チヨダ)

・ステップ

・駿河屋

・DULTON(ダルトン)

・つるやゴルフ

・POINT(釣具店ポイント)

・東急ハンズ

・フィッシング遊

カラオケ・映画館・レジャー施設関係

・淡路ファームパーク イングランドの丘

・カラオケ館

・Kid’s US.LAND(キッズユーエスランド)

・カラオケコロッケクラブ

・ジャンカラ

・タックルベリー

・CINECITTA’ (チネチッタ)

・東映太秦映画村

・ビッグエコー

・ヤフオク!ドーム

・よみうりランド

タクシー・レンタカー

・伊予鉄タクシー

・江の島タクシー

・オリックスレンタカー

・遠鉄タクシー

・勝山タクシー

・第一交通

・東海交通

・奈良近鉄タクシー

・日本中央

・三和交通

・ロイヤルリムジン

・オリエンタルタクシー

・ジャパンプレミアム

・ichinisan

旅行代理店・ホテル・旅館(宿泊施設)

・H.I.S(エイチ・アイ・エス)

・京王プラザホテル札幌

・京阪ホテルズ&リゾーツ

・ホテル聚楽グループ

・JRイン札幌

・JRタワーホテル日航札幌

・ホテルヴィスキオ大阪

・ホテルヴィスキオ尼崎

・ホテルグランヴィア大阪

・ホテルグランヴィア京都

・第一滝本館

・東横イン

・ホテルマイステイズグループ

・ホテル日航新潟

・ホテルモントレグループ

・ワシントンホテルプラザ

・R&Bホテル

公共料金請求書の支払い

・東京電力

・中国電力

・九州電力

・東京ガス

・広島ガス

・東京都水道局

※10月以降になりますと、全国各地の約300の地方公共団体が、公共料金にPayPay支払いに対応予定です。
コンビニ等で、公共料金をお支払いの方は、請求書が届けば、自宅で支払えることになり、便利です。

お引っ越し・バイク用品・カー用品関係

・ash

・ダイアモンドアイズ

・アイ賃貸

・アリさんマークの引越社

・エンパイアー

・NPD 日本駐車場開発

・ニューヨークニューヨーク

・バイク王

・タイヤ&ホイール専門店 フジコーポレーション

・HEADLIGHT

・ライコランド

・ライフクリーナー

今後、導入予定のお店はどこだ? 一覧リストにしてまとめました

便利なPayPayを導入予定の企業・お店は以下のとおりです。
すでに実験的に導入している店舗もありますので、気になる場合は、その店舗に直接、問い合わせてみることをおすすめいたします。

・はなまるうどん

・ゆめタウン

・KASUMI(スーパーマーケット カスミ)

・ジョヴィ

・快活CLUB

・自遊空間

・アニメイト

・STELLA MAP cafe(ステラ マップ カフェ)

・タイトーステーション

・一軒め酒場

・だるまや水産

・養老の滝

・ロボ基地

・バラエティ厨房輪囲

・焼そばセンター

・白い恋人パーク

・ハッピードア

・うさちゃんクリーニング

・黒川クリーニング社

・グローバル治療院

・てもみん

・モーリーファンタジー

・PALO

・キッズーナ

・スキッズガーデン

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
10月からのお買い物にお役に立てば、何よりの幸せです。