はる坊です。
見城氏が幻冬舎を設立して、初の単行本を出す際、6点を同時に発刊しています。
そのなかに、北方謙三の作品も含まれています。
そして、自らの祖父(ニイタカドロップで有名な新高製菓創業者)の立志伝である『望郷の道』も、日本経済新聞に連載されたのち、単行本は幻冬舎から出ています。
こういう経緯からも、見城氏と北方謙三は、友好的な関係を続けているのだと思います。
幻冬舎を設立してから、田口ランディ『コンセント』『モザイク』。
天童荒太『永遠の仔』が直木賞候補に挙がりますが、幻冬舎刊の小説で、直木賞を受賞したのは、第137回松井今朝子『吉原手引草』が初です。(このときは、万城目学『鹿男あをによし』も候補作でした)
第156回で受賞した恩田陸の『蜜蜂と遠雷』も幻冬舎刊で、いまでは幻冬舎刊の小説が、直木賞を受賞することも、当然、というか、他の版元と同様に扱われている印象がありますが、幻冬舎設立が、1993年。
初めて単行本を出したのが94年と考えると文芸出版社として、しっかりと認知されるまで、途方もない時間と努力が要したといえると思います。
見城氏自身、『これほどの努力を人は運といい』という言葉を残していますが、ようやくいまになって、文芸出版社として認められるようになったのは、途方もない努力が必要だったと思います。
また、小説が売れない現状において、月刊小説誌が、次々に休刊やウェブ連載へ移行するなかで、月刊小説誌『小説幻冬』を発刊するなど、攻めの印象も受けます。
出版業ほど、いかがわしい商売はない
幻冬舎社長・見城徹氏が『情熱大陸』に出演したことがありました。
ちょうど、松井今朝子氏が直木賞を受賞されたときだったので、2007年だったはずです。
そのときに、見城氏が発言した言葉はいまでも記憶しています。
あまりにも強烈だったからです。
それは、「出版業ほど、いかがわしい商売はない」という一言でした。
出版業界のイメージとして、まず文化的というものがあると思います。
商品や製品ではなく、作品を作っているというところから発するものかもしれません。
トレンドを追う、もしくは仕掛ける雑誌やコンテンツであれば、話は別ですが、文芸という分野にフォーカスを当ててみると、『高尚』なイメージがあります。
芥川賞や直木賞は権威ある賞と認識されている方もいらっしゃいますからね。
見城氏の発言をそのまま受け取ると、そんな業界をを100%真っ向から否定するものです。
しかし、私は、見城氏は誰よりも文芸という分野を愛して、本当にすぐれた作品を世に送り出したいから、こういう発言になったのだと思います。
別の発言で、「『この世あらざるもの』を作れ」という言葉があります。
すでに、世間に出回っているモノと同じモノを作っても意味がないと言っているのでしょう。
私はこう思います。
『この世にあらざるもの』に接したとき、人はどう思うのか?
素直に受け入れる方は少数ではないかと思います。
「あやしい」「何これ?」そして、「いかがわしい」。
すこし強引かもしれませんが、そういう感想を持つのではないでしょうか。
しかし、興味を引かれるのも事実でしょう。
だからこそ、前述した「出版業ほど、いかがわしい商売はない」という言葉に結びつくのではないかと思います。
幻冬舎から出て、ベストセラーになった本を調べてみると、見城イズムとでも言うべき、独特の基準があるように思います。
『13歳のハローワーク』(村上龍)
『ニート』(玄田有史・曲沼美恵)
『ダディ』(郷ひろみ)
『大河の一滴』(五木寛之)
『弟』(石原慎太郎)
『ふたり』(唐沢寿明)
『キッパリ!』(上大岡トメ)
『永遠の仔』(天童荒太)
『解夏』(さだまさし)
『1リットルの涙』(木藤亜也)
『Rozen Maiden』(PEACH-PIT)※幻冬舎コミックスより出版
『陰日向に咲く』(劇団ひとり)
異業種の人間に本を書かせている。それはその著者にとって、一生一度しか書けないものである
『ダディ』(郷ひろみ)
『ふたり』(唐沢寿明)
『陰日向に咲く』(劇団ひとり)
がこれにあたると思います。
『ダディ』の場合、郷ひろみが本を出す。
それは、自身の離婚について。
これは一切報道されていないこと。
世間の関心を引くのは間違いのないことです。
『この世にあらざるもの』が現れた瞬間です。
職業作家には、これまでに書いたことのない作品を書かせている
『13歳のハローワーク』(村上龍)
『弟』(石原慎太郎)
がこれにあたると思います。
村上龍といえば、常に社会にコミットし続ける作家という印象が強いですが、『13歳のハローワーク』は社会にコミットしつつも、従来の小説ではなく、まったく異なる方法で、世間に問題提示したことに、大きな意味があると思っています。このタイトルで小説形式で発表したなら、あれほど大きな反響を得ることはなかったでしょう。
事実、当時2,600円した本が、130万部以上売れたのですから、村上龍が受け取った印税額が羨ましいのは、さておき、角度を変えて、世の中に問うたのは素晴らしいことだと思います。
また、石原慎太郎は、『太陽の季節』で当時としては最年少の23歳で芥川賞を受賞して、文壇での評価は二分しながらも、颯爽と現れて話題作を提供し、やがて政界に進出、政治家と作家の二足のわらじを履きながら、小説に加えて、ソニー創業者のひとりである盛田昭夫氏と『「NO」と言える日本』を共同執筆するなど、活躍を見せました。
見城氏は、石原慎太郎の大ファンで、初期作は全文を暗唱できるほど読み込んでいます。実際のところ、熱狂的な石原慎太郎マニアといっても過言ではないと思います。
見城氏が石原慎太郎に書かせたかったのは、〝北海のヒグマ〟と呼ばれ、農林大臣・初代農林水産大臣・科学技術庁長官を歴任し、総裁選出馬しながらも敗北し、自殺を遂げた中川一郎氏(農林水産大臣・経済産業大臣・財務大臣・内閣府特命担当大臣(金融担当)を歴任した故・中川昭一氏の父上ですね。(昭一氏亡き後は妻・郁子氏が、その後一期衆議院議員を務めています)のことだったそうですが、これは石原慎太郎が固辞して、実弟の石原裕次郎のことを書くことになった経緯があるようです。
家族、実弟のことを書くというのは生半可なことではないと思います。石原裕次郎亡きあと、様々な出版社から、「弟さんのことをお書きください」というアプローチがあったことは、想像に難くありません。
幻冬舎から『弟』を出したのは、見城氏と石原慎太郎の信頼関係があったからこそですが、まだ世間に知られていない、もっとも故人と近しい人が書いた作品であったからこそ、ミリオンセラーに結びついたのではないかと思います。
また、五木寛之との関係も忘れてはならないと思います。
『大河の一滴』が幻冬舎から発刊されミリオンセラーとなりますが、これは、見城氏と五木寛之との濃密な関係が構築されていたからこそ、執筆⇒編集⇒発刊につながったものだと思っています。
見城氏と五木寛之の関係は、まだ、見城氏が角川書店在籍中に、同社が発行していた『野性時代』(一度、休刊していますので、現在の『小説 野性時代』とは異なります)の編集部にいたときに遡ります。
五木寛之の原稿をもらいたい見城氏は、五木寛之の小説を読むだけではなく、雑誌や新聞に掲載された一言一句もチェックして、五木寛之に手紙を書き続けます。最初は、返事など来ません、それでも手紙を出し続け、18通目に返事が来て、25通目で、実際に会えることになり、『燃える秋』という小説を野性時代に連載することに成功しています。
それ以後も、圧倒的な努力で五木寛之の心を捉えて、『大河の一滴』に結びついたのだと思います。
これらも、『この世にあらざるもの』を出したからこそ、世間の関心を呼んだ。
私はそう思います。
そこに至るまでには、見城氏自身の言葉では言い尽くせない、《圧倒的な努力》が存在したことは間違いありません。
見城氏の言葉を追っていくと、『覚悟』という言葉を好んでいる気がしてなりません。
例えば、圧倒的な努力をする覚悟。
死に物狂いで仕事をする覚悟。
『覚悟』という言葉はとても重い響きがあります。
もうあとはない。そんな悲壮感すらあります。
ですが、その『覚悟』を常に持って、死に物狂いで生きてきたから、いまの見城徹氏が存在しているのだと、私は思います。
現在、1950年12月29日うまれの見城氏は、68歳。自身で、「70歳になったら引退する」と語っています。
そうすると、あと2年半。
この言葉は、簡単に覆るかもしれませんが、私は、70歳になった見城徹氏がどのような発言をするか、そして、どう生きていくのか、非常に興味があります。
2回に渡って、見城徹氏について書きました。
その1からここまで読んでくださった方には、心より御礼を申し上げます。
最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。