米フォーブス誌によると、滝崎氏の資産は滝崎氏個人と滝崎美弥子氏が代表取締役を務める滝崎氏の資産管理会社・株式会社ティ・ティが保有するキーエンス株で1兆8430億円に上ります。
2017年では1兆3880億円でしたから、1年間で30%以上も資産を増やしたことになります。
ちなみに、日本人長者番付の1位~3位は、ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長。ユニクロを率いるファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。サントリーホールディングスの佐治信忠会長と、日本人の日常生活に欠かせないモノを手掛ける企業のトップが名を連ねています。
1位・・・孫正義(ソフトバンクグループ 会長兼社長)資産額2兆2930億円
2位・・・柳井正(ファーストリテイリング 会長兼社長)資産額2兆0210億円
3位・・・佐治信忠(サントリーホールディングス 会長)資産額1兆8850億円
4位・・・滝崎武光(キーエンス 名誉会長)資産額1兆8430億円
5位・・・森章(森トラスト 会長)資産額6910億円
6位・・・永守重信(日本電産 会長)資産額5760億円
7位・・・三木谷浩史(楽天 会長兼社長)資産額5660億円
8位・・・高原慶一朗(ユニ・チャーム 取締役ファウンダー)資産額5450億円
9位・・・似鳥昭雄(ニトリホールディングス 会長)資産額5030億円
10位・・毒島秀行(SANKYO 会長)資産額4820億円
※8位にランクインされているユニ・チャーム創業者の高原慶一朗氏は2018年10月3日に逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
私事ですが、高原氏は初めてお目にかかった財界人でした。
その謙虚さと周りを包み込むようなオーラに圧倒されたのを、今でも昨日のことのように記憶しています。
滝崎武光氏が1972年3月に兵庫県伊丹市において、個人事業・リード電機として創業。
1974年5月に兵庫県尼崎市に移転するとともに法人化され、リード電機株式会社となります。
その後、FA(ファクトリーオートメーション)用センサーや計測器の開発・販売を手掛けて業績を伸ばし、1986年10月に商品ブランド名のキーエンス(KEYENCE)と商号の統一を図るために株式会社キーエンスに社名を変更。
ちなみにキーエンス(KEYENCE)とは、Key of Science-キー・オブ・サイエンス(科学の鍵)の略語です。
翌1987年10月には大阪証券取引所第二部に株式を上場。株式上場準備に3年も4年もかかり、上場審査基準も厳しかった当時としては、かなりのスピードといえる会社設立から僅か13年で上場企業の仲間入りを果たします。2年後の1989年12月には東京証券取引所2部にも重複上場、1991年9月には、ついに東京証券取引所1部上場を果たします。
上場時から高収益企業・高株価企業として有名でしたが、まれに見る高収益体質を維持したまま、現在まで成長を続け、2018年3月期の連結決算では売上高5268億4700万円 営業利益2929億円を記録、営業利益率は何と55.6%です。
また、2018年11月2日に公表された第2四半期報告書では、売上高2939億0200万円(前年比17.3%増)営業利益1613億9800万円(前年比16.6%増)と更に成長を続けています。このまま、2018年度後半も順調に事業が推移すれば、2019年3月期の決算ではさらに凄い数字が並ぶのではないかと期待しています。
また従業員の年収が高い企業としても有名ですが、〝人件費は経費にあらず〟というキーエンス独自の思考から、2018年6月に提出された有価証券報告書では、従業員2253名(平均年齢35.9歳)の平均年収は2088万5270円となっています。ボーナスは(3月・6月・9月・12月)の年4回です。
キーエンスは、国内・海外(北米・欧州・南アフリカ・中国・アジア・中東・オセアニア)に営業拠点を張り巡らせていますが、本社・研究所は、大阪府大阪市東中島(JR新大阪駅の近くです)に構えています。
この社屋が建てられたのは1994年とかなり年月が経ってしまっているのですが、高さ111メートル・21階建てのビルは非常にスタイリッシュで、数々の賞にも輝き、現在でも古くささを感じさせません。
創業者の滝崎氏は2000年12月に、当時43歳だった生え抜きの佐々木道夫氏に社長職を譲り、代表取締役会長に就任。自身が会長に退いた理由を、“「創業当時から自分がいなくても、会社が回るようにずっと考えてきました。会長に退いたのも、私が半年1年いなくてもこの会社は回るなとおもったかたらです」”(引用元:2003年10月27日号 日経ビジネス 特集 利益率40% 驚異の経営 キーエンスの秘密 編集長インタビュー 滝崎武光氏[キーエンス会長] 会社に思い出は不要)より。
2012年12月からは、佐々木道夫氏は取締役特別顧問となり、当時45歳だった山本晃則氏が代表取締役社長が就任。滝崎氏は引き続き会長職に就かれていましたが、2017年12月からは取締役名誉会長を務めておられます。
また2代目社長を10年間務められた佐々木道夫氏は、現在、東京エレクトロン、瑞光、SHIFTの社外取締役を務められる一方、2017年には、日商岩井、キーエンス、THKで海外事業や新規事業で活躍された菅原伸昭氏らと共に、ロボット制御を機械学習(AI)で行うソフトウェアを開発を目的とする株式会社イロハ(iROHA)を設立して、取締役に就任されています。
また、滝崎氏は2018年6月に、まだまだ日本では浸透していない大学進学者向けの給付型奨学金を提供する一般財団法人キーエンス財団を設立され、代表理事も務められています。2019年4月大学新入学生を対象とするものですが、募集人数は125名程度で月額8万円を在学中の4年間支給する(4年間の合計支給金額は384万円になります)という返済の必要がない奨学金ではかなり規模の大きなものです。
現在の日本では経済的な理由で奨学金を利用して大学や専門学校に進学される方が多くなっていることは事実です。ただ、その奨学金の大半は貸与型であり、卒業後に社会に出てから返済の必要があります。若くして高収入が得られる職に就き、奨学金の返済を滞ることなく支払える方もおられるでしょうが、不安定な立場や低収入から返済をすることができず延滞金が上乗せされ、最悪の場合、自己破産に追い込まれ、人生に大きな狂いが生じている方も多く存在していることも事実です。
そんななかで、前途のある学生に返済不要の給付金を提供する財団を立ち上げられたのは素晴らしいことだと思います。
実は、滝崎氏が奨学金に目を向けたのは今回が初めてではありません。1990年にアジアから学びに来る理工系の留学生の為に、私財3億円で奨学基金を設立していました。
さて、キーエンス財団の事務局も大阪府大阪市東中島キーエンス本社ビル内にあります。
これは公私の区別を厳しくしている滝崎氏らしいと思うのですが、普通、成功を収めた事業家などが奨学財団や文化・スポーツ振興財団を設立した際には、自分の苗字を財団名の頭に付けていたり、理事や評議員に親族が名を連ねているケースがほとんどです。
また、自らの人脈をアピールする目的もあるのか、財界や学界、専門分野のなかでも著名な人物や肩書きが立派な人物の名前が並んでいることもあるの
ですが、キーエンス財団の場合はそういったものがないように感じられます。理事や評議員のなかに、滝崎氏の親族は誰ひとり名前がありません。
奨学金を給付する有能な学生を選考する為には、どのような人物を置けば一番効果的で合理的かという滝崎氏の哲学が、この財団にも表れているような気がしてなりません。
日本人長者番付4位の大資産家である滝崎武光氏ですが、その人物像はほとんど知られていません。第一に滝崎氏自身がメディアに露出しないからです。
よって、ウェブ上では〝前半生が謎〟であるとか、〝来歴や家族関係は一切不詳〟と書かれているページすら見受けられます。
滝崎氏自身、社長職を退いて、会長となって以降はたった一度しかマスコミのインタビューに応じていません。
名誉会長に就任して、後進に会社を託すような形となった現在では、メディア露出の可能性は更に低くなったと思います。東証1部上場企業の創業者ですが、財界活動にも全く興味を示さない人物ですので、世界に通じる日本有数の大富豪として一部の人だけに名前を知られた状態で、このままミステリアスなイメージを保っていくのではないでしょうか。
それでも、まだ1980年代、1990年代には、多少ではありますがマスコミの取材やインタビューに応じていました。そこで語られたエピソードを中心に、滝崎武光氏に迫ってみたいと思います。
滝崎武光氏は1945年(昭和20年)6月10日兵庫県芦屋市で出生しています。芦屋市といえば、関西で一番富裕層が集い邸宅を構えているようなセレブなイメージがありますが、滝崎氏の父親はお金持ちでも経営者でもなく一介のサラリーマンでした。しかし、真面目で働くことを美徳とする人物だったようで、モノ作り一筋の滝崎氏の人生にも大きな影響を与えている気がします。
その父親がメーカー勤務だったのかはあきらかにされていませんが、幼い頃、父親とともに住友金属工業(現在の新日鐵住金)和歌山製鉄所へ行ったときの思い出が滝崎氏には強く残っているようです。
当時、この製鉄所の中には、そこで働く人々を運ぶバスが運行されていました。滝崎氏はこのときを振り返って、“「理屈っぽい性格なので、これほど巨大な工場が何のためにあるのかを考え、自分の生活にも寄与しているんだと気が付いた」”と語っています。
また、父親は機械の見本市にも武光少年を連れていったりもしています。武光少年は小学校の卒業アルバムに『今度会うときにはテープレコーダーを作っているだろう』と寄せ書きしていたそうで、中学校時代には、友達から10円を集めて薬局でマグネシウムなどを購入して、実験をしていました。
モノ作りや電気いじり、科学実験好きの少年時代を過ごしたようです。
滝崎氏が中学校卒業後に進学したのは、兵庫県立尼崎工業高等学校電気通信科(在学中に電子科に名称変更)でした。(尼崎工業高校の後輩にはダウンタウンの松本人志氏(機械科卒業)がおられますが、島田紳助氏と共演していたトーク番組『松本紳助』内で「賢いクラスがありましたねえ。電子科は賢かった」と発言していましたので、いくつかに分かれている科のなかでも、滝崎氏は高いレベルのクラスに在籍していたと思われます)
高校在学中、滝崎氏は自治会や生徒会の役員になります。
このとき、滝崎氏は先頭に立って市内5校で連合会を作っています。本人は“「(自身が通っていたのが女子生徒のいない工業高校だったので)女学生のいる学校に遊びに行きたかっただけかもしれません」”と多少冗談めかしてはいますが、高校生にしてリーダーシップを取ることのできる人物だったことがわかります。
また、この経験からでしょうか“「人を組織することに興味を覚えた」”とのちに語っています。時代はちょうど大学紛争の頃、自治会の役員をしていた滝崎氏は京都大学などで学生運動をしている人々と出会うことになります。
滝崎氏が、学生運動をしている年上の人々と知り合ったなかで、気が付いたのは、思想というものは文学や芸術と同じで好き嫌いの世界で、そういった客観的に測れないものは自分自身の性格上、相容れないものだということ、そして、経済というのは数字の世界だから客観性があり、企業の善し悪しも数字で対比すれば分かるものだということでした。
そして、滝崎氏は志を立てます。
自分は主観だけで判断するものには向いていない。
それなら、一流の事業家になろう。
それも、デザインや個人の趣味、趣向に左右される消費財ではなく、ユーザーの生産性を上げることに狙いを絞り込み、機能や性能に対して価格が安いか高いかで評価される生産財がいい。
1964年(昭和39年)3月滝崎氏は、兵庫県立尼崎工業高校電子科を卒業すると、実社会に足を踏み入れます。
最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
②に続きます