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Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅡ

はる坊です。

鳥嶋和彦、鳥山明と出会う

さて、デザイン会社を退職した鳥山明さんは、元々グラフィックデザインがやりたかったこともあり、イラストレーターで食べていくことを考えますが、住んでいるのは東京ではなく愛知県の片田舎。都合良く仕事は入ってきませんでした。
そんな1977年。
喫茶店で週刊少年マガジンを見た鳥山さんは新人賞の応募記事を見つけます。1等(最優秀賞)は賞金50万円でした。
絵には自信のあった鳥山さんは、“「佳作ぐらいはいけるんじゃないか」”と考えて、生まれて初めて真剣に漫画を描き始めます。

その結果・・・、マガジンの〆切りには間に合いませんでした。
仕切り直して、週刊少年ジャンプはどうだろうと見てみると、たしかに作品を募集していました。ですが、最高賞金は10万円。マガジンの5分の1です。鳥山さんは“「ちょっと(賞金が)安いなと思ったけど(笑)タイミング的にそっちに応募」”します。結果は・・・落選!
絵に自信のあった鳥山さんにとってはこれがショックでした。

漫画家志望の方が投稿や持込をして、没を食らうと、半数は再び投稿や持込をしないと言われていますが、ここから鳥山さんの意地と努力の日々が始まります。“「賞金をもらえるまでやめないぞ」”と誓って送った第2作は最終候補止まり。
しかし、ここで運命の出会いがありました。鳥山さんの漫画を読んだ鳥嶋和彦さんがその可能性に気付き、鳥山さんに直接連絡を取って、マンツーマンでの指導が始まったのです。当時のジャンプ編集部は一体ではなく、それぞれの班が独立しており、班以外の人間と関わることも難しい雰囲気でした。
鳥山さんの第2作目を読んだのが鳥嶋さんがいた班だったことも、鳥山さんにとっては幸運でした。

その結果、『ワンダーアイランド』でデビュー。1978年年末のことでした。

デビュー作を読むと、最初から絵がうまいことに驚きます。そして、鳥嶋さんが注目したように擬音の表現が斬新です。鳥山さんは漫画もジャンプに載ったことだし、原稿料ももらえるし漫画はもういいかと思ったそうですが、人気がなかったことを知り発奮します。
次作『ワンダーアイランド2』がジャンプの増刊号に載ったのは、デビュー作からわずか1ヶ月後の早さでした。
鳥嶋さんが編集会議でプッシュしたことも大きいと思いますが、いままで本格的に漫画を描いたことなかった人物が15ページほどのギャグ漫画とはいえ、不人気だった1作目が載ったその1ヶ月後にはすでに漫画雑誌に載せられるレベルの漫画を描き上げたのは驚きに値します。
ところがこの作品も人気が出ません。

鳥嶋和彦流・鳥山明漫画家育成計画開始

ここから鳥嶋和彦指導による、鳥山明漫画家育成計画が始まります。鳥山さんは次々に漫画を描いて鳥嶋さんに送りますが、没、ボツの嵐。
『本日のハイライ島』が『ワンダーアイランド2』の3ヶ月後に増刊号に掲載されていますが、鳥山さんが描いたボツ原稿は何と500枚。
やがて、鳥山さんが女性キャラを描くのがうまいと感じた鳥嶋さんが、「女の子を主人公にした漫画を描いてみなよ」とお題を出し、それに応えた『ギャル刑事トマト』というギャグ漫画が人気を獲得したことにより、『Dr.スランプ』の連載準備に入ります。
1980年早々に連載がスタートした『Dr.スランプ』は当初、則巻千兵衛を主人公にして、千兵衛が発明品を作っては毎回失敗して終わるというスタイルで準備が進んでいましたが、鳥嶋さんがアラレを主人公にした漫画とすることを主張して、鳥山さんが納得したため、アラレを主人公にするスタイルに変更されました。

実は期待をされていなかった『Dr.スランプ』

連載開始時、週刊少年ジャンプ編集部内では『Dr.スランプ』はあまり期待をされていませんでした。
連載第1回目も巻頭カラーではなく、ひっそりと地味でした。しかし『Dr.スランプ』ですが、連載がスタートするとたちまち大ヒットとなりました。

ただ作者である鳥山さんは大変でした。何せストックがなかった為、〆切りに追いまくられるのが常態になってしまったのです。アシスタントのいない連載1年目には、最高で徹夜すること6日連続、睡眠時間が取れるのは3日に一度だけ、あとで見るとたしかにペン入れをしているが、鳥山さん本人にはその記憶がないという事態。
連載が始まって半年後、鳥山さんが悲鳴をあげます。
鳥嶋さんに「もう、連載をやめたい」と言い出したのです。
そんな鳥山さんに対して、鳥嶋さんはひとつの提案をします。
「いままで7日間で1本描いているアラレを5日間で仕上げて、残り2日間で新しい漫画を描いて。その漫画が人気1位を取れば、アラレはやめてもいいよ」
これはなかなか策士的な発言です。鳥山さんの連載終了要請を受け入れる準備として、いまより面白い漫画を描いてくれればそれでいい。
現在はなくなりましたが、ジャンプには愛読者賞というものがあり、選ばれた10人の漫画家が短編を掲載することになっていました。ところがこの愛読者賞は45ページの作品と決まっていました。もちろん、連載と並行して描かなければなりません。そんな中で、新たな漫画を考えるのは物理的に無理に近い話です。

結局、鳥山さんは『ドクタースランプ』の連載を続けていくことになります。

連載開始から1年後、鳥山明さんの年収は5000万円。しかし、作品の人気はまだまだ上がっていくのです。
『Dr.スランプ』6巻の初版部数は220万部。関連グッズも大人気。
そんななかで、鳥山さんは漫画を描き続けます。

そして、1981年分の収入(正しくは申告所得)は5億3924万円。文化人部門第1位。全国35位。
漫画家では誰もなしえたことのない快挙でしたが、鳥山さんはノーコメントを貫きます。
1982年分の収入も6億4745万円。文化人部門2年連続第1位。全国27位に輝きます。
また、この発表がなされた頃に、みかみなちさんと結婚をされています。

そして、「徹子の部屋」に出演されたのもこの頃です。
翌1983年は、82年度中に鳥山さん自らのスタジオである有限会社バードスタジオ(現在は株式会社化され、奥様が代表取締役・息子さんが取締役で鳥山さん自身は役員からは外れている)を設立したため、個人の所得は9000万円台になり、文化人部門11位となりますが、この頃は、非常に税率が高かった為、法人にして正解だったといえます。
現在の所得税率は最高で45%ですが、当時は75%。
現在の住民税率は最高で10%ですが、当時は18%。
最高で、所得の93%が税金として取られる仕組みになっていたのです。その面でいえば、法人の方が、まだ税率は高かったとはいえ、50%前後は残ったはずですので、家庭を持った鳥山さんが、自らの創作環境を整える為、そして税金を安くする為に、節税策をとられるのは当然のことといえると思います。

『Dr.スランプ』の成功で鳥嶋和彦が得たもの

一方、鳥嶋和彦さんは、『Dr.スランプ』での成功で、編集者としての方法論を身に付けていきます。
当時は、ジャンプ本誌の部数は声高に叫ばれていましたが、連載をまとめたコミックスの部数を重視する人はいませんでした。
70年代に池沢さとしの『サーキットの狼』が、スーパーカーブームとともに大ヒットとなりますが、それでも全27巻で1100万部。

『Dr.スランプ』のコミックが初版220万部を記録したのは、鳥山さんの実力もありますが、「コミックスを売って、出版社と漫画家の収入を上げる」ことに力を入れるきっかけになったのは間違いありません。そして、関連グッズの売り上げによるライツ収入です。
のちに鳥嶋さんは集英社のライツ事業部長に就きますが、コミックス収入と権利収入の大切さとその魅力を知り、実際に立ち会えたのが、鳥嶋さんの編集者人生においてとてつもなく大きいことだったのではないでしょうか。
そのⅢに続きます。

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はる坊

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