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Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅢ

はる坊です。
さて、鳥山明さんが『Dr.スランプ』連載中に、鳥嶋和彦さんは新たな動きをみせます。

週刊少年ジャンプ編集部の異端児・鳥嶋和彦の仕事術

第1に桂正和さんの発掘です
桂さんは1962年12月10日に福井県に生まれ、その後千葉県千葉市、同市原市へと移り住みます。
高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品は、残念ながら選外でしたが鳥嶋さんの目にとまります。また、同時期に手塚賞に投稿していた『ツバサ』が佳作に当選。
阿佐ヶ谷美術学校在学中に『転校生はヘンソウセイ!?』が手塚賞準入選を果たします。
この作品については、鳥嶋さんからラブコメディを描くように進言があり、鳥嶋さんはラブコメを描ける才能を見抜いて、桂さんの育成に力を注いだのかも知れません。
そして『ウイングマン』で連載デビュー。13巻まで続き、アニメ化・ゲーム化もされます。(ゲーム化はエニックスから)

その後は、一時スランプに陥りますが、鳥嶋さんのアドバイスを受けた『電影少女』がヒット作となり、『SHADOW LADY』『D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』を連載、美少女キャラクターが人気を呼び、桂さんはその地位を不動のものにします。

また、桂正和さんは鳥山明さんと気が合い、親友となります。
『カツラアキラ』という共作短編集を製作していることからも、その仲の良さがうかがえます。

第2に外部の有能人材の起用です
月刊アウトやseventeen(セブンティーン)のライターを務めていた堀井雄二さんと同じくライターで漫画原作も手掛けていたさくまあきらさんの起用です。
このふたりは、早稲田大学と立教大学の漫画研究会時代からの友達で、小池一夫の劇画村塾の先輩・後輩同士でもありました。

また、ゲーム仲間となっていた堀井さんに、当時設立されたばかりのゲーム会社エニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの取材を依頼します。
(社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です)
このコンテストの取材時に堀井さんは、ちゃっかり応募要項と応募用紙をゲットしており、『ラブマッチテニス』というアクション性の強いテニスゲーム作品を応募、見事入賞を果たしています。
『ドアドア』でヒットを飛ばし、現役の電気通信大学生ながら、月額100万円の印税収入を得ていた中村光一さんと組んだ『ポートピア連続殺人事件』を挟んで、1985年に少年ジャンプ誌上で『ファミコン神拳』というコーナーを担当して、ゆう帝というペンネームでユーモア溢れる文章で、人気を獲得します。

『ジャンプ放送局』(JBS)の開始です
さくまあきらを放送局長に、イラスト担当の土居孝幸、レイアウト担当の青木澄江、担当編集の鳥嶋さんでスタートしましたが、開始にあたっては、ジャンプ編集部からの反対が強かったといいます。

「編集部に外部の人間を入れるなんて」というのが大きな理由でした。その言葉に鳥嶋さんは、「じゃあ、編集部内に入れなければ問題はないでしょう」と切り返して、編集部外に部屋を集英社内に用意してスタッフを集めて『ジャンプ放送局』の編集作業を行うことにします。
連載が始まり、「半年間を1レース計算して、ハガキが1枚掲載されるごとにコーナーに応じて得点が加算されていき、1レースを通じての総合得点を競う」というこれまでの漫画誌の投稿コーナーになかった手法で人気を得ていきます。投稿者は「戦士」もしくは「投稿戦士」と呼ばれるようになっていきます。

また、さくまあきらさんは、鳥山明さんと組んで、『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』を作り、30万部の売上を記録します。(さくまさんは、原作を担当)

鳥山明さん『ドラゴンボール』連載開始と『ドラゴンクエスト』製作開始

さて、鳥山明さんとの関係に戻ると、フレッシュジャンプに掲載された読み切り漫画『騎竜少年(ドラゴンボーイ) 其之壱』と『騎竜少年(ドラゴンボーイ) 其之弐』が人気を集めたことから、1984年暮れに『ドラゴンボール』の連載が開始されました。
『Dr.スランプ』終了から僅か3ヶ月後の新連載スタートです。

『Dr.スランプ』とは違って、当初は人気が高くはなく、一時は打ち切りも囁かれるほど低空飛行をした時期もありましたが、ストーリーが天下一武道会に入ると、人気は急上昇。バクテリアンと戦う回で読者投票第1位に立ちます。
当時のジャンプでは約2年ものあいだ『北斗の拳』が人気1位をとり続けていました。実際、『北斗の拳』人気はすさまじく、テレビアニメ化されると拍車がかかりました。

ジャンプでは原作者付きの漫画の場合、印税の取り分は、原作者4:6漫画家ですが、原作者の武論尊さんが「当時、北斗の拳だけで年収2億円あった」と回想しているので、相当に売れていたことは確かです。
その『北斗の拳』を抜いたのですから、これは快挙といえるでしょう。

ここから『ドラゴンボール』の人気が沸騰します。
鳥山さんのスタジオである、株式会社バードスタジオの申告所得を見てみましょう。
申告所得とは、収入から必要経費を引いた数字ですので、周到に節税対策をされていれば(実際、夫人を代表取締役にして、資産管理を目的とした別の法人を所有されています)、実際の収入がいくらなのかは分かりませんが、参考にはなります。
1987年分・・・4億2900万円
1988年分・・・3億9000万円
1989年分・・・3億7900万円
1990年分・・・9億1100万円
1991年分・・・6億5400万円
1992年分・・・5億6600万円
1993年分・・・7億6400万円
1994年分・・・5億0700万円
1995年分・・・11億0400万円
1996年分・・・6億6000万円
1997年分・・・3億9400万円
1998年分・・・8億2800万円
1999年分・・・2億5900万円
2000年分・・・3億8300万円
2001年分・・・5億7900万円
2002年分・・・6億1700万円
2003年分・・・16億*500万円
2004年分・・・14億8000万円
2005年分・・・9億5600万円

鳥嶋さんは、エニックスがRPGを作るに際して、鳥山さんにキャラクターデザインを担当させようとします。ただでさえ忙しい週刊連載に加えて、新しい仕事などイヤだと鳥山さんは多少抵抗したようですが、結局は説得されて、
シナリオ・ゲームデザイン:堀井雄二
キャラクターデザイン:鳥山明
音楽:すぎやまこういち
ディレクター:中村光一
プロデューサー:千田幸信
という布陣で『ドラゴンクエスト』が制作され、第1作が100万本。第2作目が240万本。
そして、第3作目が380万本と、日本を代表するゲームソフトになり、ゲームデザイン・シナリオを担当した堀井雄二さんの印税収入が注目されました。

当時の週刊誌には、堀井雄二さんの年収は15億円かという見出しが躍りましたが、堀井さんご本人によると“「ドラクエⅡでは(いままでの年収の)2年分の収入を得ました」”“「(このインタビューがおこなわれたのは、ドラクエⅢは発売されてまもない時期)ドラクエⅢに関しては、エニックスとまだお金の話はしていません」(引用元:週刊サンケイ 1988年12号 優子のVIP JACK「パワーエリートを撃て!」印税15億、長者番付1位!?ドラクエⅢの作者 堀井雄二氏 登場人物千人、制作期間1年の楽闘でした)とのことで、具体的な収入額は不明です。

1980年代、鳥嶋和彦さんは、才能のある人物を見つけて、自分についてこられる力を持っているなら、漫画やゲームの垣根を乗り越えて、その才能を存分に発揮させるプロデューサーになっていった感があります。
そのⅣに続きます。

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はる坊

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