はる坊です。
今回は、白泉社社長・鳥嶋和彦さんを取り上げます。
鳥嶋和彦って誰? ドクターマシリト(Dr.マシリト)って何?」という方もご心配なく。
順を追ってお話ししていきますので。
鳥嶋さんが漫画界・ゲーム界に残した功績はたいへん大きいものがあります。
しかし、青年期まで漫画をあまり読んでいなかったというのは面白いと思います。
鳥嶋和彦さんは1952年10月19日新潟県小千谷市に洋品店を営む家に生まれています。
小千谷市は現在人口3万6000人ほどの市です。
人口がピークであった1970年頃でも4万4000人ほどですので、小さな市です。コシヒカリで有名な魚沼と隣接している為、米が特産物ですが、同時に豪雪地帯でもあります。
そんな雪国の町で生まれた鳥嶋さんは大人びた少年でした。小学校4年にして哲学書に目覚め、ニーチェやパスカル、そして論語をひもときます。
その後も、本好きの少年として育ち、主に翻訳物を好みました。
中学校の時は一日一冊本を読もうと学校図書館や市立図書館に足を向けていました。同時に、あまり友達が居ない少年でもあったと本人が回想しています。
数年前のインタビューでは“「北欧ミステリが面白い」”と語っています。その一方で、国産ミステリには厳しい評価を下されているのが印象的でした。
新潟県立小千谷高等学校を卒業すると、予備校に通うために東京に出ます。
そして、一浪を経て慶應義塾大学法学部に入学します。本当は文学部仏文科に入りたかったそうですが、親の反対もあって法学部を選んだ経緯があります。その反動もあってか、大学入学後の3ヶ月間でプルーストの『失われた時間を求めて』を読破します。
(ちなみにこの本は、日本語に翻訳した原稿用紙にして1万枚という代物ですので。大変に分厚いです。ちくま文庫で10冊あります)ここからも並外れた読書家である面と反骨心を持ち合わせた人物だと推察できます。
大学ではゼミやサークルに入らずに過ごしています。ゼミには入ろうとしましたが、面接官だった上級生が意地の悪い人物で、彼の言葉にとことん食らいついてしまった為に、生意気と思われて落ちてしまいます。落ちてしまったゼミは『犯罪心理学』。
しかし、慶応での学生生活が索漠としたものであったかといえばそうではなく、現在まで付き合いが続いているふたりの親友と出会えており、鳥嶋さん本人も、〝最大の財産〟と振り返っています。
夢破れた就職活動。集英社は第一志望でもなんでもなかった!
鳥嶋さんの夢は、文藝春秋社の編集者になることでした。
しかし、オイルショックが日本を襲い、企業は軒並み新卒採用を抑えるか、採用そのものを取りやめます。文藝春秋社も採用試験自体をおこないませんでした。
鳥嶋さんにしては、これは大きな挫折でした。目標としていた出版・マスコミ業界はこぞって採用を中止してしまいます。
当時は紙不足となり、雑誌のページが一気に減ったり、企業が紙の確保に走り回ったのです。
この影響をモロに受けたのが出版業界でした。
鳥嶋さんは、結局、業界を問わずに48社の採用試験を受けて、集英社と中堅の生命保険会社から内定を得ます。
1976年4月、鳥嶋和彦さんは集英社へ入社します。
配属になったのは〝週刊少年ジャンプ編集部〟。
鳥嶋さんは漫画をほとんど読んだことがありませんでした。ジャンプ編集部の編集者は早稲田大学出身者ばかりで、鳥嶋さんは慶應義塾大学出身というだけでイジメを受け、編集部の雰囲気も肌に合わず、早々に転職を考えますが、研修中に小学館の資料室に入り浸っていろいろと漫画を読んでいると、いままで漫画を読んでいなかった自分にも面白いと思える漫画があることに気がつきました。
萩尾望都『ポーの一族』竹宮惠子『風と木の詩』そして、『タッチ』で大ブレイク前のあだち充『泣き虫甲子園』が印象に残ったようです。
(何だか、好きな傾向がわかりますが・・・)
初めて鳥嶋さんが担当した漫画は原作:武論尊 作画:平松伸二『ドーベルマン刑事(デカ)』
そんな鳥嶋さんが初めて担当した漫画が、原作:武論尊 作画:平松伸二の『ドーベルマン刑事(デカ)』でした。当初、5回の集中連載の予定でしたが、人気が出たため正式に週刊連載となりましたが、マンネリ気味になっていました。
事件が起こる⇒加納錠治登場⇒44マグナム弾を打っ放して事件解決。
たしかに、この展開が3年目に入ると、ストーリー展開が読めてしまいます。
そこで、新米婦人警官の綾川沙樹を登場させて、ハードボイルド一直線だった作品の色合いを変えていくことに成功します。そして一時は人気が低下気味でしたが、人気が再燃します。
鳥嶋さんはこのときに、「漫画家さんに的確なアドバイスが出せれば結果が出ることを知り、初めて漫画を編集する楽しさを知った」と回想しています。
その後、『ドーベルマン刑事』は1979年まで連載が続き、『北斗の拳』が代表作となる武論尊氏と『ブラック・エンジェルズ』『マーダーライセンス牙』が代表作となる平松伸二氏にとって、初の大ヒット作品となりました。
さて、鳥嶋さんの人生に大きく関わってくる漫画家・鳥山明さんは1955年4月5日に愛知県名古屋市で生まれています。現在も同県内清須市に在住しており、漫画家生活の為に、東京へ移住することなくずっと愛知県で過ごしています。
幼少の頃より、絵を描くことが好きな少年で、小学生時代から高校生時代にかけて描いた作品が入賞するなど、少年時代からその才能の片鱗を見せていました。漫画は小学4年生ぐらいまでは読んでいたとのことで『鉄腕アトム』『鉄人28号』『おそ松くん』の名を挙げています。
また、ディズニーのアニメーションに大変興味を持っていましたが、その理由は「デッサン力がすごいから」。
特に『101匹わんちゃん大行進』には感銘を受けて、よく模写をしていたとのことです。
1974年3月に愛知県立起工業高等学校デザイン科を卒業後、デザイン会社に就職していますが、約2年半後の1977年1月に退職しています。
『鳥山明○作劇場』では、“遅刻ばかりして怒られていた。困った社会人だった”と自身で書いているため、そのまま捉えられがちですが、2014年のインタビューで語ったところのでは退職理由は違うようです
“(デザイン会社での仕事内容を聞かれて)「チラシがほとんどでしたね。なかには、写真を撮るお金がないクライアントさんもいて、鶏肉を絵で描いてほしいという依頼もありました。それで、ニワトリを描いて見せたら「これはおんどりだからダメだよ。ウチはめんどりしか出さないんだから」といわれて(笑)ほかにも、靴下ばかり何百足とか、ベビー用品のロンパースとか、いろんなものを描きましたね。そのときはイヤでしたけど、この経験はあとになって役に立ったかなと思います」”
“(チラシの絵を描いていたことをインタビュアに驚かれて「そんな仕事ばかり僕に回ってくるから、とにかく残業が多くて、だいたい家に帰るのは深夜2時とか3時でした。そうすると朝は起きれなくて、遅刻ばかりしていましたね。ほんの10分とか15分程度なんですけど、3回遅刻したら1日欠勤と同じ扱いだったので、事務で入った新入社員の女の子とボーナスを比べたら、3年目の僕のほうがぜんぜん少なかったんですよ。これはいかんと思って、会社を辞めることにしました」”
(引用:「MEN’S NON-NO メンズノンノ」2014年1月号)
○作劇場で語られていた状況とずいぶん違いますね。
退職後の鳥山さんはイラストレーターで食べていくことを考えますが、東京ではなく名古屋ということもあり、そんなにうまく仕事が入って来るわけではありませんでした。
そんな折、喫茶店に置いてあった漫画雑誌から鳥山さんの運命が大きく回り出します。
⇒そのⅡに続きます。
最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。