オイルショック

1970年代の話

1974年度 国家公務員上級職キャリア組(現在の国家公務員総合職)採用内定者の省庁別出身大学一覧表まとめ

1974年度(昭和49年度) 国家公務員上級職キャリア組(現在の国家公務員総合職)採用内定者の省庁別出身大学を一覧表にまとめました

はる坊です。
今回は1974年(昭和49年)度の国家公務員上級職(いわゆるキャリア組ですね)採用内定者の出身大学データを省庁別にまとめました。

〝国家公務員上級試験から〟国家公務員I種試験〟と名称が変わり、現在の採用区分では、〝国家公務員総合職〟と呼ばれています。

戦後、公務員に人気が集まった時期は、朝鮮戦争の〝特需景気〟のあと。
1964年の東京オリンピック後の〝証券恐慌〟といわれる時代。
今回取り上げる1973年以後、2度にわたる〝オイルショック〟期。
そして、〝バブル景気〟崩壊後の平成時代。

1973年(昭和48年)・1974年(昭和49年)は、オイルショックによる不況によって、民間企業が新規採用を抑制したり中止したりと、大学生の従来の就職活動の形に変化が現れた年でもあります。

やはり、〝キャリア官僚・キャリア組=東大出身者〟というイメージどおり、東大生・東京大学出身者が圧倒的な強さを見せていますが、続く京都大学、他の旧帝大(北海道大学・東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学)以外の、地方国立大学からの採用内定者もチラホラ見受けられます。

そして、早慶をはじめとする私立大学生の採用は、現在よりずっと少ない印象を受けます。
そんな私立大学生のなかで健闘しているのが、八王子移転前の中央大学です。
おそらく法学部生が中心だと思いますが、1973年の司法試験でも、東大の90名を抜いて、130名の合格者を出しています。

1974年には、東大・・・95名 中央大・・・85名となりますが、中央大学法学部の黄金期だったことも読み取れます。

こちらに1972年(昭和47年)の主要国公立・私立大学の偏差値をまとめているのですが、当時は、私立大学の学費が高額だったこともあり、国公立大学に人気が集まり、難関だったことがうかがえます。



1972年(昭和47年)の大学入試偏差値(難易度)を調べてみました。

ちなみに、1974年(昭和49年)度の、国家公務員上級職の初任給は72,800円。
新人の場合、フルに支給されるのは冬季分ですが、ボーナス(期末手当・勤勉手当)は年間5.2ヶ月分。
民間の大卒初任給の平均が、78,700円。

1年のうちに米や肉類の値段が10%は上昇する「狂乱物価」といわれるほどのインフレ時代だったので、翌1975年(昭和50年)度の初任給は、一気に80,500円。(民間大卒初任給の平均は89,300円)
ボーナス(期末手当・勤勉手当)は、前年と変わらず年間5.2ヶ月分。

翌々年の1976年(昭和51年)の初任給は86,400円(民間大卒初任給の平均は94,300円)。
ボーナス(期末手当・勤勉手当)は、0.2ヶ月分ダウンの年間5.0ヶ月分となっていますので、物価の上昇で、大幅昇給でも生活が楽になったかどうかはともかく、毎年、公務員・民間とも現在では考えられないような昇給があった時代でもありました。(数字は、『人事院』ホームページ 『年次統計』より引用)

そんな、大昔の公務員のお話ですが、こんな時代もあったんだな、と楽しんでいただければ幸いです。

※なお、採用内定となったものの、法曹への道、民間企業への就職、そして大学院進学を選んだ方もおられるようですので、実際に入省・入庁された方と、若干ではありますが、数字が変化する部分があることをご了承ください。

※また、外務省のデータは外務公務員しか取得できませんでした。
今後、情報を得ることができましたら掲載いたします。どうかご了承ください。

法務省

事務官
東京大学・・・6名 
埼玉大学・東京学芸大学・名古屋大学・九州大学・京都府立大学・早稲田大学・東京女子大学・関西学院大学・・・各2名
北海道大学・弘前大学・東北大学・信州大学・千葉大学・東京教育大学・お茶の水女子大学・金沢大学・京都大学・神戸大学・岡山大学・愛媛大学・慶應義塾大学・中央大学・上智大学・明治大学・愛知大学・・・各1名

大蔵省

事務官
東京大学・・・24名 
京都大学・・・5名 
一橋大学・・・4名 
大阪大学・・・3名 
早稲田大学・中央大学・法政大学・・・各2名 
北海道大学・名古屋大学・金沢大学・九州大学・横浜市立大学・慶應義塾大学・明治大学・・・各1名

技官
東北大学・・・2名
京都大学・東京都立大学・・・各1名

外務省

外務公務員
東京大学・・・13名
一橋大学・・・6名
慶應義塾大学・・・2名
東北大学・京都大学・上智大学・創価大学・・・各1名

※外務省のデータは外務公務員しか取得できませんでした。
今後、情報を得ることができましたら掲載いたします。どうかご了承ください。

文部省

事務官
東京大学・・・4名 
京都大学・・・3名 
北海道大学・・・2名
茨城大学・名古屋大学・早稲田大学・・・各1名

厚生省

事務官

東京大学・・・11名 
京都大学・・・4名 
一橋大学・・・2名 

技官

東京大学・・・7名 
京都大学・・・3名 
大阪大学・・・2名 
北海道大学・千葉大学・九州大学・大阪市立大学・・・各1名

農林省

事務官・技官の合計数

東京大学・・・35名 
京都大学・・・16名 
名古屋大学・・・9名 
宇都宮大学・・・8名 
北海道大学・東京農工大学・・・各7名 
九州大学・・・6名
東京教育大学・岐阜大学・三重大学・鹿児島大学・大阪府立大学・・・各5名
岩手大学・東北大学・・・各4名
宮崎大学・・・3名
帯広畜産大学・信州大学・鳥取大学・京都府立大学・早稲田大学・・・各2名
山形大学・千葉大学・東京水産大学・静岡大学・京都工芸繊維大学・神戸大学・岡山大学・島根大学・山口大学・佐賀大学・東京都立大学・慶應義塾大学・中央大学・麻布獣医大学・東海大学・日本獣医畜産大学・・・各1名

通産産業省

事務官
東京大学・・・25名
一橋大学・・・1名

技官
東京大学・・・19名
京都大学・・・2名
東北大学・東京工業大学・早稲田大学・・・各1名

運輸省

事務官
東京大学・・・14名
京都大学・・・2名
九州大学・・・1名

技官
東京大学・・・13名
京都大学・・・6名
東京工業大学・・・4名
九州大学・北海道大学・・・各3名
早稲田大学・・・2名
東北大学・東京農工大学・金沢大学・名古屋大学・名古屋工業大学・大阪大学・岡山大学・慶應義塾大学・姫路工業大学・・・各1名

郵政省

事務官
東京大学・・・14名
京都大学・・・2名
九州大学・・・1名
大阪大学・・・1名

技官

東京大学・・・6名
京都大学・・・2名
東京工業大学・横浜国立大学・・・2名
九州大学・北海道大学・東北大学・新潟大学・千葉大学・埼玉大学・電気通信大学・名古屋工業大学・大阪大学・九州工業大学・・・各1名

労働省

事務官

東京大学・・・7名
京都大学・・・3名
東北大学・お茶の水女子大学・横浜国立大学・金沢大学・山口大学・香川大学・慶應義塾大学・立教大学・・・各1名

技官

京都大学・東北大学・・・各2名
東京大学・北海道大学・神戸大学・・・各1名

清掃力抜群!エコバックスロボット掃除機

私が愛用しているロボット掃除機です。

スマホやリモコンでタイマーを設定するだけで、自動で清掃開始してくれるので、毎日の生活の場を綺麗に保ってくれます。

高性能レーザースキャンで、家具の位置や間取りを測定してマッピングしてくれる機能が優れています。
マッピングした地図はスマホのアプリより確認でき、エリアごとに清掃したり、スマホ上の地図に指で線を引くだけで、架空の境界線(バーチャルボーダー)を引くことができるので、コードが多い部分や入り込んでほしくないエリアを簡単に設定・制御することが可能です。

家具の下にも入り込める5.7cmの薄型設計の製品もあります。
5.7cmの薄型製品が狭い場所を掃除をしてくれる様子には、本当に感動しましたよ。

ロボット掃除機があなたのご自宅にあれば、床掃除に費やす時間が無くなりますから、その分、ご家族・あなたのために使える時間が増えます。

お金より大切なのはあなたの自由になる時間です。

もっと自由な時間が持てれば、あなたがやりたいことはなんですか?

その時間を得る対価として、エコバックスロボット掃除機は決して高い買い物ではないと思います。



建設省

事務官

東京大学・・・12名
京都大学・・・4名
東北大学・・・1名

技官

東京大学・・・17名
京都大学・・・12名
大阪大学・九州大学・・・各7名
東京工業大学・・・5名
北海道大学・・・4名
東北大学・早稲田大学・・・各3名
名古屋大学・名古屋工業大学・・・各2名
千葉大学・東京教育大学・東京農工大学・金沢大学・神戸大学・広島大学・九州工業大学・熊本大学・宮崎大学・東京都立大学・日本大学・東京農業大学・・・各1名

自治省

事務官

東京大学・・・16名
京都大学・東北大学・・・各1名

技官

東京工業大学・・・1名

総理府

事務官

東京大学・・・3名
京都大学・・・2名

警察庁

事務官

東京大学・・・10名
京都大学・・・3名
広島大学・・・1名

技官

北海道大学・・・2名
京都大学・横浜国立大学・新潟大学・九州工業大学・・・各1名

行政管理庁

事務官

東京大学・・・2名
京都大学・東北大学・東京都立大学・・・各1名

北海道開発庁

事務官

東京大学・京都大学・東北大学・・・各1名

技官

北海道大学・・・5名
鳥取大学・・・2名
東京大学・京都大学・東北大学・・・各1名

防衛庁

事務官

東京大学・中央大学・・・各2名
京都大学・一橋大学・早稲田大学・日本大学・関西学院大学・・・各1名

技官

名古屋工業大学・神戸大学・・・各1名

経済企画庁

事務官

東京大学・・・4名
一橋大学・東京都立大学・同志社大学・・・各1名

技官

東京大学・・・1名

科学技術庁

事務官

東京大学・・・1名

技官

東京大学・・・7名
東北大学・東京教育大学・・・各3名
京都大学・早稲田大学・・・各2名
埼玉大学・東京工業大学・電気通信大学・千葉大学・・・各1名

環境庁

事務官

東京大学・・・2名

技官

京都大学・東京工業大学・・・各2名
北海道大学・弘前大学・東北大学・東京農工大学・千葉大学・・・各1名

人事院

事務官

東京大学・・・3名 
名古屋大学・早稲田大学・・・各1名

技官

東京大学・東京工業大学・・・各1名

会計検査院

事務官
東京大学・・・4名 
東北大学・岡山大学・・・各1名

技官

京都大学・・・1名

日本専売公社

事務官

東京大学・・・4名
京都大学・大阪大学・・・各3名
東北大学・横浜国立大学・・・各2名
一橋大学・北海道大学・・・各1名

技官

東京大学・・・6名
北海道大学・・・5名
京都大学・九州大学・・・各3名
東北大学・・・2名
東京工業大学・横浜国立大学・千葉大学・・・各1名

特許庁

技官

東京大学・京都大学・・・各6名
東北大学・・・4名
東京工業大学・千葉大学・・・各3名
埼玉大学・東京芸術大学・横浜国立大学・名古屋大学・名古屋工業大学・・・各2名
北海道大学・新潟大学・電気通信大学・お茶の水女子大学・静岡大学・岐阜大学・大阪大学・金沢大学・山口大学・愛媛大学・九州芸術工科大学・九州大学・鹿児島大学・慶應義塾大学・法政大学・群馬工業高等専門学校・・・各1名

工業技術院

技官

京都大学・東京工業大学・・・各5名 東京大学・・・4名
北海道大学・大阪市立大学・・・各3名
東京教育大学・九州大学・・・各2名
東北大学・千葉大学・名古屋大学・神戸大学・広島大学・鹿児島大学・東京都立大学・早稲田大学・慶應義塾大学・同志社大学・・・各1名

気象庁

技官

東京大学・・・5名 
東北大学・京都大学・大阪市立大学・・・各2名
電気通信大学・金沢大学・大阪大学・大阪電気通信大学・・・各1名

最後に、あなたが公務員試験を受験しようとされている方なら、ここだけは聞いておいてください

もし、あなたが公務員試験を受験しようとされているなら、しっかりと目標を見定めて実績のあるプログラムで勉強をしたほうが、しっかりと夢に近づけますよ。

やはり、ただの独学では得られない、長年蓄積されたノウハウや一番効率のいい教育プログラムとは無視することができないと感じます。

最近では、安い受講料と手軽な受講方法をうたう業者も増えていますが、実際の合格数を見るとまったく比較になりません。

公務員採用後に得られる収入を考えれば、多少高くともしっかりした学習方法で能率よく学習して、一発合格をするほうがよいにきまっています。

また、本気で公務員になりたい仲間と一緒に勉強できることは、あなたにとって大きな刺激になります。

さらに、合格後・採用後に、同じ省庁に一緒に勉強して気心が知れた仲間がいれば、心強いですよ。

あなたの『公務員になりたい!』という思いを、心から信じています。
『公務員試験』対策なら法律資格・公務員試験専門の受験指導校・伊藤塾!



最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
これからも楽しんでいただける記事を書いていきますので、
今後ともよろしくお願い申し上げます。

1970年代の話

1972年【昭和47年】の大学入試偏差値・難易度を調べてみました。

40年前や50年前の大学受験って、難易度とか偏差値ってどうだったんだろう?

1970年や1975年頃の大学って、今よりも難しかったのか?

はる坊です。
私が大学受験を経験したのも遙か昔のことになってしまいました。
ふと、「大昔の大学受験はどうだったのだろう?」という疑問が湧いてきて、調べてみました。

手に入ったのは、1972年(昭和47年)の大学入試難易度(偏差値)表です。

当時の受験生は、現役生で1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)生まれの方になります。現在は64~65歳、仕事の第一線からリタイアされた方、企業の役員を務められている方、専門職でバリバリ働きながら後進に指導をおこなっておられる方、いろいろな方がおられると思います。

ちなみに大学卒業時には、オイルショックに見舞われて、例年より就職に苦労した経験を持たれている世代でもあります。

民間企業への就職が狭き門となった為に、国家公務員中級職(国家公務員Ⅱ種を経て、現在の国家公務員一般職)や地方公務員に本格的に目を向けて、入庁、入職した最初の世代でもあります。(地方の役場では、それまで大卒が仕事をしていることは珍しかったところもあります)

私が大学受験に臨む頃や社会へ出てから、何かの拍子で「××大なんて、名前を書けば誰でも入れた」とか「○○大は難しかった」という話を、ホンネか冗談か真に受けることもなく聞いたことがありますが、今回のデータで「なるほどなあ」と思うものもありました。
世間の評価は時代によって移り変わっていくものですね。
もっとも、東大・京大と国公立医学部が最難関であることは変わりませんが。

はる坊の雑記

何だか色々早すぎた企業・昌和製作所と日本計算器(ビジコン)

早すぎた企業というものが存在する

はる坊です。

今回は、知る人ぞ知る、時代を、あるいは先を走りすぎた企業をご紹介します。

昌和製作所と日本計算器(ビジコン)

あとになってみれば、「あれを言うのは早すぎた」とか「あれをするには早すぎた」ということがあります。

すべてはあとの祭りなのですが、企業のなかでもそのような会社が存在します。

昌和製作所と日本計算器(ビジコン)もそのなかのひとつです。

この2社は小島和三郎・小島義雄親子を中心に運営されていきましたが、昌和製作所では1950年代後半に昌和ライトクルーザー・昌和クルーザーという名オートバイを開発販売して大ヒットさせたかと思うと、1960年に軽乗用車『昌和ミニカ』を開発。
東京モーターショーに出展。

しかし、技術開発に傾きすぎたため資金ショートを起こしてヤマハに買収されるという運命を辿っています。

また、日本計算器も並行して営んでいた企業ですが、機械式計算機(手回し計算器)の国内シェアを40%獲得するまでになり、タイガー計算器と双璧を成し、米インテル社との共同開発で世界初のマイクロプロセッサ「Intel4004」を開発するも、他製品を含めて販売を対米輸出に大きく頼っていたため、1973年の石油ショック時に起こった円安によって大幅な為替差損が発生する形になり、製品を増産するほど赤字が増すという状況に陥り、1974年に和議を申請して、第一線から姿を消します。

あとから振り返ると、やり方によっては大企業に発展したかもしれないと思う一方、このときはこの判断しかなかったのだなと思うこともあり、30年、50年、100年と長きにわたり続いている企業は本当にすごいとあらためて感じる次第です。

昌和製作所と日本計算器(ビジコン)の成立から倒産(和議)までをまとめてみました

結局のところ昌和製作所と日本計算器のすごさを知っていただくには、時系列が一番良いと考え、整理しました。
どうぞ、ご覧下さい。

1918年
4月22日 『堀井謄写堂』(ガリ版を発明した会社)に勤務していた小島和三郎(?~1954)が、『堀井謄写堂』の2代目堀井耕造(1875~1962)の妻の妹を娶ったことにより独立。中国・満州国奉天にて、昌和洋行(昌和商店とは別法人)を設立し、『堀井謄写堂』の謄写版事業を皮切りに、手動タイプライター・自動タイプライター・手回し計算器の販売をおこなう。

1939年
(株)目黒製作所が製造したメグロ号が好評。警視庁の白バイにも選ばれる。
当時、大阪にいた小島和三郎より、「中国大陸にバイクを輸出して売り込みたいが、御社で造れないだろうか?」と依頼があり、目黒製作所が二気筒100 CCの二輪車を製造することが決定。

3月、静岡県沼津市に昌和洋行と目黒製作所の合弁会社として昌和製作所が設立される。
(登記上は、1944年11月16日が昌和製作所の設立日になっている)
社長には小島和三郎が就任。他役員には、目黒製作所の社長 村田延治・同社専務 鈴木高治が就任。
沼津工場長には鈴木の甥が就く。沼津工場では自動二輪車の製造が始まったが、まもなく横須賀海軍工廠の指定工場とされ、航空機の製造に変更となる。

1940年
平田勝治郎が計算器に関する特許を取得。翌年にも4件を取得。

1941年
小島和三郎が平田勝治郎の特許を買い取るとともに、計算器開発の資金を援助。

1942年
小島和三郎が出資をおこない、平田勝治郎・吉田喜一(平田の実兄)・錦織米一が中心となり、大阪市西淀川区にて富士星計算器製作所 (株)を設立。

1943年
富士星計算器製作所が機械式手動計算器の開発に成功する。

1944年
戦況の悪化により、富士星計算器が峰山(現・京丹後市)へ疎開移転。
同年に、疎開先である峰山の鉄工所が戦時企業合同して、(有)峰山鉄工所が設立される。

1945年
4月に富士星計算器製作所と峰山鉄工所が合併。社名は富士精工(株)と変更され社長には小島和三郎が就任。計算器事業と鉄鋼事業の二本柱で事業を行う。

1946年
静岡県沼津市は、海軍工廠の指定工場があったものの空襲被害が少なかった。物資不足ではあったが、早期に工業製品製造に着手できる環境が整った。
5月 昌和製作所の沼津工場にてエンジン単体の開発販売を再開。

1948年
経営難により富士精工(株)は富士精工・日進製作所・峰山鉄工の三社に分離。
この折に、創業メンバーのうち、吉田喜一が富士精工に残留し、錦織米一が日進製作所社長・平田勝治郎が峰山鉄工社長となり独立。
沼津市の昌和製作所がオートバイ昌和号を製造販売するに至る。

1949年
富士星計算器(株)から日本計算器(株)に商号変更。

1950年
小島和三郎の息子・小島義雄(1924年~2013年)が京都大学を卒業。日本計算器株式会社に入社。日本計算器の沼津出張所は昌和製作所と同じ場所にあった。

1953年
この当時、昌和製作所の事業所は以下の通り。
本社:静岡県沼津市松長178
東京:東京都千代田区神田多町1―9
(現在の東京都千代田区内神田町23番付近)
大阪:大阪府大阪市西区江戸堀北通3-20
(現在の大阪市西区土佐堀2丁目3番付近)

1954年
昌和クルーザー250 CCを発売。大ヒットとなる。
昌和製作所・日本計算器の創業者・小島和三郎逝去。
昌和製作所の社長に小島義雄が就任。
日本計算器の社長には、黄地金右衛門(滋賀県出身)が就任。
他役員には、黄地幸造・高田文雄が就任。

1955年
日本計算器の大阪進出を決定。

1956年
日本計算器の大阪進出決定により、大阪府茨木市三島町に土地を取得。

1957年
小島一族が経営する(株)昌和商店から計算器の販売部門を独立させ、日本計算器販売(株)を設立する。こちらの沼津事業所も昌和製作所と同じ敷地内にあった。
昌和ライトクルーザー 125 CC発売
昌和クルーザーSC57型 250 CC発売。

1959年
昌和製作所が、バイクメーカー・日本高速機関(株)(ブランド名はホスク〔HOSK〕を買収。同社の技術を利用して軽乗用車『昌和ミニカ』を開発。東京モーターショーに出展。
この日本高速機関のスタッフは、のちにトヨタ 2000GTの開発に携わる。

1960年
昌和製作所は若い従業員が多く、技術開発を最重要視していたが、販売面が振るわず、開発費用が重くのしかかり資金繰りが悪化。負債を肩代わりする形で、1955年よりバイクの製造販売を手掛けていたヤマハ発動機の傘下に入る。小島義雄は社長を退任。小島一族が経営から退く。

昌和製作所は法人として継続となり、同社沼津工場はヤマハ発動機 沼津工場として引き継がれる。その後、昌和製作所はヤマハ製の発電機やゴルフカートを製造する。

1961年
日本計算器販売(株)の社長に小島義雄が就任。
茨木市の土地(1.3ヘクタール)に「茨木寮」が完成。同時に研究所を併設。

1964年
日本計算器(株)の社長に小島義雄が就任。
本社(大阪)・峰山工場(旧製造部)・茨木研究所(旧・技術部)・大阪事務所・東京事務所に組織変更。
日本計算器の国内シェアが40%に達し、タイガー計算器と双璧となる。

1965年
茨木工場が完成。同社初となる卓上式電子計算機「UNICOM160」を製造。
茨木研究所を「茨木工場」と「研究部」に改組。名称を、日本計算器(株)茨木製作所に変更。

1966年
茨木製作所にて開発・生産をおこなった「ビジコン161」を発売。大ヒット製品となる。
この年、茨木工場において12日間の部分ストライキが断行されている。

1967年
4月 のちに世界初のマイクロプロセッサ「Intel4004」を開発する嶋正利が東北大学理学部を卒業して入社。
(71年に米インテル社との共同開発で4004を開発後、インテル社に入社)
「ビジコン161」増産により、茨木製作所に第2茨木工場が増築される。

1968年
NCR社(米国)と契約が成立。同社のブランドにより「ビジコン」シリーズが発売される。
米国現地法人ビジコンUSA設立(同社の出資比率は日本計算器販売(株)70%・日商岩井(株)30%)
フロイド・ランソン・ヒジョス社(メキシコ)と現地法人を設立。
日本計算器(株)・日本計算器販売(株)・三菱電機(株)の共同出資により電子技研工業(株)を設立。

1969年
この年、日本計算器の機械式計算器の生産台数が頂点を迎える。
1968年~69年には、大きな役員変更があった。1968年に黄地幸造が逝去。69年には高田文雄取締役が辞任。
堀場雅夫(堀場製作所創業者・当時社長)・市原孝一(1947年早稲田大理工学部卒。のちにビジコン常務)が取締役に就任。

1970年
日本計算器販売(株)をビジコン(株)に商号変更。

1971年
日本計算器(株)が世界最小電卓「ビジコンハンディ 120A」を発売。同製品には米モステック社と共同開発した1チップLSIを搭載。茨木製作所で開発・生産がおこなわれる。
ビジコン(株)がプリンター機能を搭載した「ビジコン141-PF」を発表。同製品には、
米インテル社と共同開発した世界初のマイクロプロセッサ「4004」が搭載されていた。

1972年
カシオ計算機(株)が破格の小型電卓を発表し、電卓業界は泥沼のダンピング競争に突入。

1973年
第4次中東戦争による第1次オイルショックが起きる。

1974年
2月28日 ビジコン(株)(本社:東京都 資本金1億5000万円 社長:小島義雄)、日本計算器(株)(本社:大阪府茨木市三島2-18 資本金:4940万円 社長:小島義雄)が大阪地裁に会社更生法を申請し倒産。
※倒産時、ビジコン(株)は、従業員100名 売上高70億円。日本計算器(株)は従業員300名 売上高32億円。
その後、ビジコン(株)は、本社を東京都台東区浅草橋に移して、コンピュータ関連部品の製造販売を手掛ける。

1988年
昌和製作所を存続会社として、(株)榛葉シボリ製作所と合併。新社名は創輝(株)となる。

1991年
NHKが制作したドキュメンタリー『電子立国 日本の自叙伝 第5回 8ミリ角のコンピュータ』にビジコン社長の小島義雄がコメント出演。

2006年
創輝(株)がヤマハモーターパワープロダクツ(株)に社名を変更。現在に至るまで、ヤマハブランドの発電機、ゴルフカー、汎用エンジン等の生産を続けている。

2013年
11月10日 ビジコン社長 小島義雄逝去(享年89)

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

ビジカジサブスク