2020年12月

1980年代の話

『ドラゴンクエスト』『弟切草』『かまいたちの夜』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!

はる坊です。

今回取り上げるのは、チュンソフトです。

現在では、スパイクと合併してスパイクチュンソフトに社名が変わっており、創業者の中村光一さんは取締役会長になっています。

そんなチュンソフトは、1984年4月9日に設立されました。

早速、創業当時のチュンソフトを見ていきましょう。

創業当時のチュンソフトとそのメンバーたち

前述したように、チュンソフトは株式会社として1984年4月9日に東京都調布市に設立されました。
京王線の調布駅から程近く、徒歩3~4分の好立地にあるマンションの2階2部屋を、事務所と開発室に充ててスタートしました。

代表取締役は中村光一さんです。
当時は、電気通信大学短期大学部の2年生でした。
チュンソフト設立当時の中村さんは、1964年8月15日生まれなので、まだ19歳でした。

しかし、すでに、丸亀高校時代に、エニックスのゲームコンテスト・第1回ホビープログラムコンテストで優秀賞に輝いた『ドアドア』で大ヒットを放っており、続く『ニュートロン』もヒット。
エニックスはゲームを当時主流だった〝買取〟ではなく〝印税〟をクリエイターに支払う方式をとっていました。
(印税は卸値の22%だったようです)
まだゲーム市場は小さかったものの、中村さんはゲームのヒットにより、大学1年生にして月額最高423万円。年間2000万円の印税を受け取りました。

18~19歳で年収2000万円となれば、舞い上がってしまいそうですが、中村さんは、トヨタ・ソアラの購入や飲み食いに使った部分もありましたが、税金を支払った残り半分は貯金をされていましたので、500万円の資本金のほとんどは、中村さんが出資できる余裕がありました。

創業当時の社員・そしてアルバイトは?

チュンソフト創業当時の社員は4名でした。

まずは、中西一彦さん
当時、電気通信大学短期大学部2年生で、のちの名物広報です。
中村さんとは大学で学籍番号がひとつ違いだったため、同じクラスとなり仲良くなったようです。

吉田幸司さん
吉田さんは、電気通信大学2年生でした。
『ドラゴンクエスト』『ドラゴンクエストⅡ』でプログラマーを務めた後、カプコンに入社されています。

安野隆志さん
安野さんは、早稲田大学政治経済学部1年生でした。
中村さんとは、丸亀高校の同級生でした。
『ドラゴンクエスト』~『ドラゴンクエストⅥ』まで、CGデザイナーを務め、SFC版『ドラゴンクエストⅢ』では、グラフィックデザインを務めています。
『ドラゴンクエストⅤ』で、チュンソフトは『ドラゴンクエスト』の開発から離脱しました。よって、安野さんは、グラフィックデザインを手掛けていた、ハートビートに移り、ドラクエのデザインを手掛けていましたが、のちに退社されたようです。

鈴木李佳さん
電気通信大学短期大学部2年生でした。
『ドラゴンクエスト』ではⅠ~Ⅳまで、アシスタントとしてスタッフロールに名を連ねています。
2005年にドワンゴがチュンソフトを子会社化した際に、チュンソフトの株主であることがあきらかになりました。

続いてはアルバイトで参加していた方々です。

成田東吾さん
当時、東京理科大学2年生でした。
成田さんは、このあとチュンソフトの大黒柱となります。
『ドラゴンクエストⅡ』~『ドラゴンクエストⅣ』までは、プログラマーを務め、『ドラゴンクエストⅤ』ではチーフプログラマとして参加しています。

福沢正さん
当時、電気通信大学2年生でした。
福沢さんは当初『ドラゴンクエスト』では、アシスタントとしての役回りでしたが、Ⅲ~Ⅴではサウンドプログラマとして活躍しています。

ゲーム業界の人材は流動的ですが、『ドラゴンクエスト』の人気が沸騰するにつれて、新しい人材が入ってきました。

代表的な存在は、内藤寛さんと山名学さんです。

内藤さんは高校時代よりアルバイトでプログラマーとして活躍していた方で、専門学校在学時にチュンソフトに入社。
ⅢとⅣでは、チーフプログラマを務めます。
1990年4月にはクライマックスを設立しますが、チュンソフトの辞め方が良くなかったようで、エニックスの社長を務めていた福嶋康博さんは、エニックス社員が内藤さんをデベロッパーに起用したいと申し出た折に、「ダメだ」と却下しています。
エニックスでも同じ事をされたのでは、たまらないという気持ちだったのではないでしょうか。

山名学さんは、1965年6月8日東京都出身。高校時代よりゲームソフト開発に触れて、日本大学在学中の1986年にチュンソフトに入社。Ⅲではプログラム、Ⅳではチーフプログラマ、そしてⅤ・Ⅵではディレクターを務めています。
1991年の大学卒業と同時に、チュンソフトでは取締役開発部長に就任していますので、社長の中村さんの信頼も厚かったのでしょう。
Ⅴを最後にチュンソフトがドラクエの開発から離れると、山名さんは有限会社ハートビートを設立して、代表取締役社長に就任。『ドラゴンクエストⅥ』と『ドラゴンクエストⅦ』の開発を手掛けます。
『ドラゴンクエストⅧ』の開発がレベルファイブに決定したことから、山名さんは2002年6月に新会社・ジニアス・ソノリティを設立して、任天堂のゲームソフトの開発に向かいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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