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長者番付

【懐かしの平成】2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100にはこの人が登場していた。

2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100

順位・氏名・職業・住所・所得税納税額の順です。

1 高橋 洋二 ユニマットグループ代表 沖縄県八重山郡 68億4115万円
2 大川 功  元CSK名誉会長 東京都港区 39億5368万円
3 藤田 元  藤田商店社長 東京都世田谷区 33億7806万円
4 藤田 完  藤田商店副社長 東京都世田谷区 32億7696万円
5 藤田 田  日本マクドナルド会長 東京都世田谷区 21億6327万円
6 齋藤 一人 健康食品販売業 東京都江戸川区 12億4146万円
7 高橋 章恵 ユニマットグループ役員 神奈川県小田原市 11億7785万円
8 宇野 康秀 有線ブロードネットワークス社長 沖縄県那覇市 11億5434万円
9 田中 剛  不動産投資コンサルティング会社社長 東京都世田谷区 10億1822万円
10 井上 美悠紀 学生援護会会長 東京 東京都新宿区 8億7771万円
11 吉田 嘉明 ディーエイチシー社長 千葉県浦安市 8億2219万円
12 樋口 百合子 女性用下着販売会社社長 北海道札幌市 7億8729万円
13 吉田 照哉 社台ファーム経営 東京都港区 7億6042万円
14 岡田 和生 アルゼ社長 東京都品川区 7億1123万円
15 吉田 勝己 ノーザンファーム経営 東京都港区 6億7186万円
16 古川 享  米マイクロソフト社副社長 東京都渋谷区 6億3757万円
17 山内 溥  任天堂社長 京都府京都市 6億3131万円
18 柳井 正  ファーストリテイリング社長 山口県宇部市 6億1092万円
19 松本 孝利 投資コンサルティング会社社長 東京都町田市 6億0086万円
20 鈴木 まゆみ ソノコ名誉会長 オーストリア 5億8659万円
21 田中 清司 女性用下着販売会社役員 北海道札幌市 5億7608万円
22 萩原 一成 無職 東京都世田谷区 5億5034万円
23 齋藤 慎一 元牧場経営 千葉県柏市 5億3954万円
24 谷尾 凱夫 元食肉小売会社社長 福岡県福岡市 5億3559万円
25 福田 吉孝 アイフル社長 京都府京都市 5億2418万円
26 須田 洋  タクシー会社社長 埼玉県朝霞市 5億2381万円
27 石井 美恵子 大塚美容形成外科経営 東京都板橋区 5億1536万円
28 平 哲夫  フリーゲートプロモーション取締役 東京都港区 5億1307万円
29 中谷 廣耀  元会社役員 大阪府堺市 5億1102万円
30 神内 良一 プロミス名誉会長 東京都港区 5億0531万円
31 大竹 美喜 アフラック日本支社会長 東京都板橋区 5億0020万円
32 岡田 知裕 アルゼ役員 千葉県浦安市 4億7281万円
33 土屋 嘉雄 スーパー経営会社社長 群馬県伊勢崎市 4億6892万円
34 武井 健晃 武富士常務取締役 東京都杉並区 4億6581万円
35 服部 欹  セイコーエプソン取締役相談役 東京都港区 4億5936万円
36 服部 孝子 元セイコーエプソン取締役 東京都港区 4億4934万円
37 高梨 芳郎 高梨乳業名誉会長 神奈川県横浜市 4億4298万円
38 佐藤 茂  賃貸住宅ニュース社長 兵庫県宝塚市 4億3505万円
39 濱崎 歩  歌手 東京都港区 4億2611万円
40 金沢 要求 パチンコ機器製造会社社長 愛知県名古屋市 4億2158万円
41 上月 景正 コナミ社長 東京都港区 4億1734万円
42 孫 正義  ソフトバンク社長 東京都港区 4億1396万円
43 関口 眞  不動産管理会社社長 米国 N.Y 4億0689万円
44 多田 勝美 大東建託社長 東京都大田区 3億9617万円
45 小野寺 眞悟 給食サービス会社会長 北海道札幌市 3億8343万円
46 梅田 晩太 元鉄鋼商社役員 兵庫県神戸市 3億7736万円
47 降籏 由美子 無職 東京都港区 3億7620万円
48 卓 玉仙  健康器具販売会社社長 東京都渋谷区 3億7360万円
49 田中 温  セントマザー産婦人科医院院長 福岡県北九州市 3億7018万円
50 服部 靖夫 セイコーエプソン副会長 東京都港区 3億6855万円
51 北城 恪太郎 日本IBM会長 神奈川県横浜市 3億6254万円
52 川路 耕一 商品先物取引会社社長 東京都港区 3億6184万円
53 金沢 全求 パチンコ機器製造会社役員 愛知県名古屋市 3億6011万円
54 井上 雅實 福岡県議、タクシー会社会長 福岡県福岡市 3億6005万円
55 藤 隆次郎 衣料品卸小売会社社長 福岡県福岡市 3億5981万円
56 福嶋 康博 エニックス会長 東京都杉並区 3億5890万円
57 田中 邁  ベンチャー投資会社社長 東京都世田谷区 3億5752万円
58 稲葉 浩志  歌手 東京都渋谷区 3億5746万円
59 大竹 勇子 元産業廃棄物処理会社役員 千葉県成田市 3億5397万円60 河田 朝子 不動産賃貸会社社長 東京都武蔵野市 3億5294万円
61 金沢 信求 パチンコ機器製造会社役員 大阪府吹田市 3億5189万円
62 勅使河原 宏 元草月流家元 東京都新宿区 3億5178万円
63 深江 今朝夫 呉服服地販売会社社長 大阪府堺市 3億4850万円
64 大田 勝  ヴァーナル社長 福岡県福岡市 3億4773万円
65 豊田 信一 会社社長 千葉県千葉市 3億4388万円
66 升永 英俊 弁護士 東京都港区 3億4374万円
67 糸山 英太郎 新日本観光会長兼社長 東京都港区 3億4334万円
68 二重作 弘正 アエル会長 東京都足立区 3億3980万円
69 高洲 鉄郎 無職 米国 N.Y 3億3710万円
70 大久保 泉 人材サービス会社社長 東京都港区 3億3638万円
71 服部 多恵子 元会社役員 東京都港区 3億2679万円
72 服部 禮次郎 セイコー名誉会長 東京都港区 3億2593万円
73 小松 神一郎 病院経営 東京都渋谷区 3億2509万円
74 鈴木 正治 無職 神奈川県横浜市 3億2154万円
75 上原 昭二 大正製薬会長 東京都新宿区 3億1902万円
76 宇多田 光 歌手 東京都杉並区 3億1889万円
77 原田 吉蔵 会社社長 東京都港区 3億1798万円
78 松原 信男 パチンコ機器製造会社社長 愛知県名古屋市 3億1629万円
79 金海 龍海 パチンコ店経営 福岡県久留米市 3億1007万円
80 吹野 博志 デルコンピュータ会長 東京都港区 3億1000万円
81 毒島 秀行 SANKYO社長 東京都渋谷区 3億0918万円
82 平野 岳史 人材サービス会社社長 東京都世田谷区 3億0872万円
83 渡辺 寿恵子 不動産賃貸管理会社社長 東京都港区 3億0866万円
84 武井 保雄 武富士会長兼社長 東京都杉並区 3億0639万円
85 富澤 香代子 会社役員 東京都港区 3億0581万円
86 光山 照男 パチンコ機器製造会社役員 愛知県名古屋市 3億0418万円
87 服部 純一 セイコーインスツルメンツ会長 東京都渋谷区 3億0196万円
88 植木 章夫 元桐灰化学社長 大阪府豊中市 3億0108万円
89 加藤 佐平 無職 東京都西東京市 2億9721万円
90 村松 忠義 元貴金属販売会社社長 東京都世田谷区 2億9709万円
91 全本 親民 パチンコ店経営会社社長 岡山県津山市 2億9436万円
92 奥村 昌美 自動車輸入販売会社会長 東京都千代田区 2億9081万円
93 神内 由美子 無職 東京都港区 2億8412万円
94 慶松 駿輔 医薬品市場調査会社会長 東京都杉並区 2億8123万円
95 松本 孝弘 ギタリスト 東京都港区 2億7771万円
96 高桑 テイ 元会社役員 山梨県南都留郡 2億7489万円
97 青木 シヅ 無職 神奈川県藤沢市 2億6826万円
98 岡村 鉉  パチンコ機器販売会社役員 愛知県名古屋市 2億6721万円
99 大川 隆法 幸福の科学総裁 東京都杉並区 2億6631万円
100 堤 正明  通信販売会社社長 東京都渋谷区 2億6530万円

ゲーム業界昔話

【懐かしい1993年1月】株式上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成一覧

はる坊です。
今回は1993年にゲーム業界で上場していたゲーム会社の会社情報をご紹介したいと思います。

1993年1月 任天堂 役員情報

東京・大阪1部上場・京都上場
売上高:5075億円(1992年3月期)
営業利益:1403億6400万円(1992年3月期)
経常利益:1562億4700万円(1992年3月期)
従業員:890名(平均年齢35.8歳)
平均給与:352,675円
初任給:191,000円
30歳モデル賃金:315,000円

役員構成
社長:山内溥
常務:谷本克典 祖谷登希雄
取締役:福田博之 辻昭男 大西康博 荒川實
常勤監査役:近藤良明
監査役:稲葉實 澤井末造

株主構成:
山内溥 11.0%
京都銀行4.9%
大和銀行4.9%
東海銀行4.9%
三和銀行4.9%
東洋信託銀行4.4%
三菱銀行4.4%
中央信託銀行3.2%
住友信託銀行2.7%
日本興業銀行2.0%

1993年1月 コナミ(現・コナミホールディングス)会社情報

上場市場:東京証券取引所第1部・大阪証券取引所第1部上場
資本金:80億9600万円
売上高:470億8000万円(1992年2月期)
営業利益:81億1600万円(1992年2月期)
経常利益:81憶1900万円(1992年2月期)
従業員:641名(平均年齢28.0歳)
平均給与:308,875円
初任給:193,000円
30歳モデル賃金:305,580円

役員構成
会長:上月景正
社長:西村靖雄
専務:上月景彦
常務:藤田昌弘 今井中
取締役:矢野一夫 豊開壮吉 坂本進 五代友和
常勤監査役:井上更明
監査役:成瀬俊昭 森信静治

株主構成:
上月景正     13.6%
上月教育財団   13.4%
有限会社スリーケイ10.0%
住友信託銀行    5.6%
大和銀行 4.9%
さくら銀行 4.9%
あさひ銀行 3.4%
三菱信託銀行 1.4%
東洋信託銀行 1.4%
中央信託銀行 1.1%

1993年1月 カプコン会社情報

上場市場:店頭登録(JASDAQ上場)
資本金:65億6500万円
売上高:354億4500万円(1992年3月期)
営業利益:59億1400万円(1992年3月期)
経常利益:57憶3000万円(1992年3月期)
従業員:705名(平均年齢27.2歳)
平均給与:246,284円
初任給:188,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:辻本憲三
専務:門脇精
常務:中村昌弘 置塩安雄
取締役:大島平治 中山喜仁 岡田光雄 濱田典彦 保木純夫 坂井昭夫 小沢吉郎
常勤監査役:黒田守男 來栖三郎
監査役:阿部幸孝

株主構成:
辻本憲三 41.8%
辻本美之  6.4%
辻本美佐子 6.1%
辻本春弘  6.1%
辻本良三  6.1%
富士銀行  1.8%
住友信託銀行1.6%
三菱銀行  1.5%
自社持株会 0.9%
大橋幸彦  0.9%

1993年1月 エニックス(現・スクウェア・エニックスホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期)
営業利益12億0200万円(1992年3月期)
経常利益18億5200万円(1992年3月期)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円

役員構成
社長:福嶋康博
専務:千田幸信
常務:前川敏雄
取締役:川口貴雄 才藤智宏 蟹江元 上條弘
常勤監査役:舟田正男
監査役:河野先

株主構成:
福嶋康博    46.6%
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子   5.9%
千田幸信    2.2%
三和銀行    1.9%
高野豊     1.8%
川口貴雄    1.8%
東洋信託銀行  1.6%
三菱銀行    1.3%
才藤智宏    0.9%

1993年1月 光栄(現・コーエーテクモホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:70億4100万円
売上高:106億2000万円(1992年3月期)
営業利益36億2200万円(1992年3月期)
経常利益31億3000万円(1992年3月期)
従業員:258名(平均年齢26.9歳)
平均給与:271526円
初任給:189,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:襟川陽一
副社長:襟川恵子
専務:江藤弘之
常務:堀口大典 丸山侑生
取締役:伊従勝 福井清之助 栗野敏和
常勤監査役:井上清栄
監査役:長堀守弘

株主構成:
有限会社 光優  53.2%
襟川陽一     14.8%
襟川恵子     11.8%
横浜銀行     2.7%
住友信託銀行   0.7%
田邊恵造     0.7%
従業員持株会   0.7%
富士銀行     0.6%
中央信託銀行   0.5%
日本BT信託銀行  0.4%

※日本BT信託銀行⇒日本バンカーズ・トラスト信託銀行

※セガ・エンタープライゼス、ナムコ、テクモ、ジャレコはもう少々お待ちください。
旧スクウェアの株式上場は1994年です。

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人物伝

現在は、スクエニHD顧問 ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信さんはもっと評価されるべき

はる坊です。

この2021年2月10日で、任天堂ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストⅢ』の発売から33周年を迎えました。

ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。

それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。

お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。

[embed]https://www.youtube.com/watch?v=k4BEEzogc0U&t=743s[/embed]
『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。

また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、

「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、「えーっ、と思った」と語られています。

たしかに、真面目でビジネスマンというよりもクリエーター・職人気質の方だと思います。

すぎやまこういちさんとの対談でも、

“「プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。
僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。」”

と語られており、表舞台には立たずに裏方に徹することで、『ドラゴンクエスト』を支えてこられました。

2021年6月 千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役を退任

千田幸信さんは、エニックス創業から、同社の取締役、常務、専務、副会長を務められ、スクウェア・エニックスとなってからも取締役を続投されました。
(こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任)
2008年10月からは持株会社のスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めてこられましたが、2021年6月をもって勇退をされました。

こちらで本多圭司さんについてまとめました。エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサーを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。

千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?

千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。

1950年9月29日岩手県生まれ。血液型はO型。
1972年に東海大学工学部を中退。

奥様はソプラノ歌手の千田知都子さん。
何枚かCDをリリースされており、なかでも2002年にリリースされた『こころのうた』では、『ドラゴンクエスト』関連の曲も歌われています。


ドラゴンクエストⅡの『この道 わが旅』とドラゴンクエストⅦの『哀しみの日々』なのですが、ヴォカリーズ(いわゆるハミングですね。歌詞はなく、さだまさし『北の国から』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』を思い出していただけるとイメージがしやすいかと思います)で歌い上げられています。

また、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。

役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝確率統計論の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。

大学中退後は、1974年3月にCISに入社。
1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。

その後、1979年にエニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。

フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの創業に参画して取締役に就任。

このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして、福嶋氏が1974年8月に個人創業され、
翌1975年9月に設立された公団住宅情報誌発行会社である、株式会社営団社募集サービスセンターに1976年から勤められていた古参社員の高野豊氏の3名だけでした。

ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。

エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発

エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。

最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。

当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。

・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった

・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた

そして、これがいちばん大きな理由でした。

・エニックスが無名会社だったから

社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)

それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。

最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。

ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。

依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。

鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

『ドラゴンクエスト』誕生にも関わった、鳥山明を見いだした名編集者・マシリトこと鳥嶋和彦は現在、白泉社代表取締役会長 兼 生涯ー編集者

そして四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。

中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。

エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。

中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。

そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。

このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。

また、エニックスはゲームの作者に対して、ゲームを買切りではなく印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。

中村さんは、上京したての大学生でありながらトヨタ・ソアラを手に入れ、飲食費や遊興代で月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。
代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。

中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。

千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』

堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。

しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。

シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信

ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。

音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。

キャラクターデザイン 鳥山明
音楽         すぎやまこういち

このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。

出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。

『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて

堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。

Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。
スケジュールを巡って千田さんは、社長の福嶋康博さんとかなりやりあっていたようですね。

ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。

中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。

そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン   鳥山明
音楽           すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。

マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』、

1992年の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、

1995年の『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、

そして1998年の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、プロデューサーを務め続けます。

それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。

この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。

1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、

ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当

とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。

もっとも、ゲームソフト事業においては、『ジャストブリード』のプロデューサーを務めた川口貴雄さんが取締役 ソフトウェア企画部長を務め、出版事業に関しては、同時に保坂嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが。

1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部長となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。

1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。

2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。

2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、
前述しましたように、2019年6月までスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務められました

馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!

1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。

1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、公募価格8,270円に対して上場時の初値は12,000円を付けました。

株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)

また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入(現在は、都心にある別のタワーマンションにお住まいです)。

エニックス上場による株式の売却益で、千田さんは1991年分の高額納税者(長者番付)では、納税額は7,107万円となっています。

(ちなみに、同年の納税額は、福嶋康博さんが3億2,950万円、堀井雄二さんが2,245万円です)

そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

馬主となった千田さんは所有馬に「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。

活躍した馬には

「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円

「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円

「バロンカラノテガミ」獲得賞金8936万円

「パブロカラノテガミ」獲得賞金5213万円

「ベルベットスマイル」獲得賞金4994万円

「ベガスカラノテガミ」獲得賞金4877万円

がいます。

中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。

ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの

「バランスオブゲーム」

「アブソリュート」

「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。



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スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務めていた千田幸信さんの役員報酬は年間2900万円

2018年度にスクウェア・エニックス・ホールディングスが取締役である千田幸信さんに支払った役員報酬は2,900万円です。
すでに、事業会社のスクウェア・エニックスの取締役は退任されておられますので、スクウェア・エニックスの役員として受けとられる収入は年収2,900万円です。

2017年で常勤取締役のフィリップ ティモ ロジャースさんと本多圭司さんがホールディングスの役員を外れて、常勤の取締役は、社長の松田洋祐さんと千田さんの2名だけになりましたので、2017年度より報酬がアップしています。

ユニクロの持株会社であるファーストリテイリングは、長らく代表取締役会長兼社長の柳井正さん以外は、取締役を社外取締役で固めていましたが、持株会社の常勤取締役が2人体制というのには、若干の不安があります。

2018年6月に事業会社の専務取締役に橋本真司さん(1958年5月24日生まれ。駒沢大学経済学部卒業。バンダイ入社後は〝橋本名人〟として、ハドソンの高橋名人とともにファミコンブーム時に名を馳せ、その後、独立してソリッド(コブラチーム)を設立。ソリッドがスクウェアグループになると、スクウェア取締役、執行役員に就任。スクウェア・エニックスとなってからも執行役員・取締役を歴任が、千田さんの後継としてスクウェア・エニックス・ホールディングスの役員になられるかと思いましたが、
すでに退任をされています。

ちなみに、2017年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。

これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、

・代表取締役社長:松田洋祐さん 
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円

・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円

・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円

この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。

また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。

そういえば、松田洋祐社長は町田市玉川学園の一戸建てにお住まいでしたが、社長就任後は港区のマンションに居を移されています。
賃貸か所有かは不明ですが、やはり本社に近い都心部に住まわれている方ほうが、代表取締役社長として、何かと便利です。

スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?

現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。

持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。

ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。

旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?

旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。

また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。

たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。

もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。

さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。

・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円

・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円

確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。

非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。

役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。

そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。

また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強。

ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。

もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。

〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?

千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。

この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。

果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
(※現在、当時の千田さんの顔写真が見られなくなっております。本当に申し訳ありません。)

どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・

ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。

エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。

エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。

タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。

そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。

これからの千田幸信さん

千田さんも70歳。旧エニックス創業から走り続けて38年以上が経ちました。
現役から勇退された今、ユーザーのひとりとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。

以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。

千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。
本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?

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福嶋康博さんの後継者としてエニックス2代目社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司さんの足跡をまとめたページはこちらです。
⇒エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんの足跡をまとめました

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期をまとめたページはこちらです。

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!のページはこちらです(新しいタブが開きます)

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