伝説の高利貸し 日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2
杉山治夫も金融業者としての新人時代があった
はる坊です。
その1では、杉山治夫の出生から極貧の少年時代、中学を2年で中退して時計屋に丁稚奉公。17歳で独立して店を構え、その後、家電も扱うようになり、一躍、地域で一、二を争う金持ちとなり、良家の娘と結婚するも、放漫経営が祟って、黒字倒産する羽目になり、そのときに現れた暴力金融業者の元で働くまでをご紹介しました。
今回は、金融業者の元で〝社長秘書〟の肩書きで働き始めるところからです。
後年、名うての金融取り立て屋として名を馳せる杉山治夫ですが、高知の金融業者の元で働き始めた頃は、いくら時計店や家電量販店を経営していたとはいえ、実際の金融業に関して全くの素人でした。
早速、杉山は六法全書や金融関係の専門書を買い漁って勉強を始めました。
しかし、なかなか内容を理解することができなかったのです。
杉山は、(自分には基礎的な学力がないんや)と悟ります。
事実、中学2年の秋に、時計店に丁稚奉公に出て以来、学問とは縁がなく、商売で成功を収めてからは、目先の金儲けと芸者遊びに精をだしていたのですから、こういった書籍に触れたのも生まれて初めてのことでした。
自らの無知を知った杉山は、高知市内の県立高校夜間部に進学します。
(中学校は義務教育ですので、中途退学をした杉山も、おそらくは形だけ卒業扱いになっていたのでしょう)
24歳の杉山は早朝からから夜6時までは、秘書として金融取立業に従事して、夜7時からは、夜間高校で勉強に励みます。
夜間高校に来ている他の生徒は、実家が貧しい為に昼間の高校へ行けない16,7歳の生徒だらけでした。
そんな10代の生徒に交じって、杉山は当用漢字や一次方程式から勉強を始めます。やる気は誰にも負けませんでした。
社長秘書として働いていると、毎日、様々な法律用語が飛び交います。
債権・担保・根担保・公正証書・違法性阻却事由etc.
昼間は、実践を通しての法律の勉強。夜は、高校で国語・数学・物理などを学ぶ日々。
杉山は寝る間を惜しんで、両方の勉強に打ち込みました。
そして、
“「(金融)取り立ては、暴力的手段と法律的手段で成り立つ」”
という持論を身に付けます。
一から、いや、ゼロから金融業を実地で学び、このままこの会社で暴力金融業の道へ進むかと思われた杉山ですが、ここで意外な行動に出ます。
暴力金融業者の社長秘書として勤め始めて半年が過ぎた頃、杉山は社内でナンバー2の地位を得ていました。
しかし、杉山は社長に退職を申し出ます。
自分自身が組織のトップでなければ、とにかく頭に立っていなければ、ダメな性格だということを、ナンバー2になって痛感したのです。
退職を申し出ると、すんなりと認められました。
これは半年間、杉山が粉骨砕身仕事にあたって、会社に莫大な利益をもたらしており、「借りを返す」以上の働きをしていたからです。
再び、実業家の道へ しかし、再び転落・・・
暴力金融業者の元を去った杉山は、妻とふたりでメガネを売ることにします。
このときの杉山には資金がなかったので、商売の軍資金はすべて借金でした。
暴力金融にいた半年のあいだで、地元の商売人には、杉山が切れ者であることは知れ渡っていました。
杉山は、借りられるところから、金を借りまくります。
そして、新たに始めた『杉山眼鏡』も絶好調でした。メガネを大量に仕入れて、従業員を雇い入れ、外交販売で売りまくったのです。
メガネに加えて、時計や宝石も抱き合わせで販売しました。
商売の回転資金はまったく心配をしていませんでした。
杉山の商売がうまくいっているのを見て、商売人たちはますます多額の金を杉山に貸し続けたのです。
メガネ・貴金属の商売と並行して、杉山は金融業にも進出します。
人から借りた金を月九分の利息で、別の人間に貸し付けたのです。
月九分で貸しを複利にすれば、3年後には何と10倍に膨れ上がります。
まだ、金融関係の法整備が甘かった時代でした。
また杉山はホテル経営にも乗り出します。
高知で一番のホテルを建てようと、超豪華ラブホテルを、当時の金で1億2,000万円で新築したのです。
そのうち1億円は借金でした。
多角経営を推し進めた杉山は、金融業に精を出します。
当時の高知には、街の金貸しはそういませんでした。
杉山の独壇場だったのです。
地元の漁民・農家・サラリーマンに金を貸して、高利を取りました。
金主は、地元銀行・地主、さらには他の高利貸し。
しかし、ここで杉山は初めて警察の厄介になることになります。
「借金取り立ての際に、相手を暴力で脅し、かつ監禁せしめた」
のが理由でした。
2ヶ月間近くに渡って留置場へぶちこまれた杉山ですが、一向にへこたれませんでした。
この頃に、のちの杉山グループの中核となる『日本百貨通信販売』を設立。従業員は90名を数えるまでになりました。
プライベートでは長女に恵まれ、商売は絶好調。
しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受けていました。
会社の規模が大きくなり、杉山自身の目の届かないところで、地位を与えていた部下が融通手形を乱発して、市中の金融業者に流れた手形は何と2億円に上りました。
杉山の元には債権者が押し寄せてきます。
この騒ぎで、これまで無尽蔵に金を貸し続けてくれていた銀行・地主・金融業者は、そっぽを向いて、杉山を見捨てます。
さらに、杉山の身に不幸が舞い降ります。
部下が乱発した融通手形の一部が、大阪の暴力団関係の会社に流れていたのです。
その会社のバックにいるのは、関西で有名な暴力団でした。
杉山は金策に奔走しますが、その甲斐もなく経営する会社は倒産。
杉山自身も無一文となります。
そして、杉山は暴力団員に、今後の債務関係について話し合うという名目の元、強制的に大阪へ連れて行かれます。
1971年夏のことでした。
杉山治夫、33歳。
六甲山中に首まで埋められ・・・ そして・・・
暴力団員に大阪まで連れてこられた杉山は、大阪・ミナミの倉庫に監禁されました。
組員たちは、盛んに〝隠し金〟のありかを吐くよう、杉山を脅し続けます。
これは杉山の身に覚えのないことでした。
正真正銘の無一文だったからです。
それでも執拗に組員たちは杉山から金のありかを聞きだそうとします。
“「杉山よお、悪いことは言わん。おまえの隠し金、あらいざらい喋りよったらそれでええんや」”
“「嘗めたらあかんでえ!〝杉山は二億円握ってとんずらきめこんだ〟って話が入っとるんや!」”
そんな金はどこにもありませんでした。
杉山自身、後年、高知で自分のの活躍ぶりを快く思っていなかった者の悪意ある流言だったと綴っています。
精も根も尽き果てた杉山は、
“「もうどうにでもしてくれ、わしは、疲れた。金など本当に無い。借金をしまくって成り立ってきた日本百貨通信販売だ。不渡りを出して金の循環が途切れればぶっつぶれるのはわけもない・・・」”
と悲鳴に近い声を上げました。
すると、暴力団員たちは杉山を縛り上げて、表に停まっていたリンカーンに押し込みます。
そして、ひとりの組員がポツリと発した言葉に、杉山の心臓は凍りつきました。
「もう、金はいらん。そのかわり、おまえ、死ねや」
リンカーンは神戸・六甲山へ向かいました。
山中で車から降ろされた杉山は、さらに奥へと歩を進めるよう命令されます。
そのとき、4、5メートル後ろで若い男が必死に哀願する叫び声が聞こえてきました。
その若い男は暴力団員でした。
杉山から一銭も取り立てられなかった責任を取らされて、スコップで穴を掘らされようとしていたのです。
そして、杉山にもスコップが手渡され、杉山は絶望的な気分のなかで、穴を掘り始めました。
穴を掘り終えると、杉山と若い暴力団員はそれぞれ穴の中に身体を押し込まれます。
他の組員は、容赦なく赤土を穴に被せてきます。
若い組員は恐怖のあまり脱糞して、失神してしまいました。
さすがの杉山も、完全に絶望するかにみえました。
そんな杉山の耳に、野鳥の囀りが聞こえてきました。山鳥の囀りが、ほんの僅かでも杉山を楽観的な気分にさせてくれたのです。
その様子を目ざとく見た初老の男が、杉山に話しかけました。
初老の男は、一味の親分でした。
“「ええ根性しとるのう、われ。殺すのは惜しいがな」”
-この男はわしを救ってくれる!
杉山は本能的にそう察しました。
そして、最後の力を振り絞って、叫びました。
“「親分!わしも男や!危ない仕事でもなんでもする。高知では三ヶ月で一億稼いだ杉山だ。わしを入れてくれ、必ず、あんたんとこの組のためになるはずだ!取り立てをやらしてください。必ず回収してみせます!わし、何年かやってきたから、自信があるんですわ」”
杉山必死の願いは、親分に届きました。
こいつは使える男だと判断したのでしょう。
失神した若い暴力団員も土中から救出され、行きと変わらない人数で、六甲山を下ることになりました。
金融債権取り立て人・杉山治夫の誕生
大阪の暴力団で金融債権取り立て人となった杉山は、イヤというほど暴力の力を知ることになります。
取り立ての凄まじさは、生まれ故郷・高知の比ではありませんでした。
取り立てにいくのは、街のサラ金業者がどうしても回収できない貸し付け金です。
杉山は、入れ墨を見せつけるように胸を開けた数人の暴力団員とともに回収に向かいます。
依頼主の要望に応じて、連日昼夜を問わず、取り立てに赴かねばなりません。
回収した金は依頼主と組との折半です。
回収に失敗すると、組のお偉方に恥を欠かせることになります。杉山は必死で債権の取り立てをおこないました。
杉山の役目は、いわゆる〝止め役〟でした。
交渉の最中で、若いやくざが刃物を机上に刺したり、テーブルごとひっくり返して暴れます。
これが、相手に恐怖を与える〝暴れ役〟です。
頃合いを見計らって、杉山が組員を止めて、口八丁で説得に入ります。
これで90%は回収に成功していたようです。
残り10%の回収に必要なのは、リボルバーでした。
深夜、大阪湾の倉庫裏まで連れて行って、銃をちらつかせるのです。相手の頬に押し当てると、それまで、どんな強がりを言っていた人間も失禁して陥落したようです。
拳銃について、杉山はいい印象を持っていなかったようです。
スーツの内ポケットにリボルバーをしまい込むと、その重みで身動きが鈍くなり、また銃独特の不気味な冷たさが身体に伝わってくる感覚が、たまらなく嫌だったと述懐しています。
殺害用具を所持しているという緊張感と不安感で、さすがの杉山も外を歩くときは必ず震えたようです。
暴力団の取り立てを肌で感じていった杉山は、このままやくざに使われ続けることをよしとしませんでした。
実際に取り立てた回収金の一部をプールして、金を貯めていったのです。
そして、暴力団金融の取り立て人となって3年が過ぎる頃、杉山個人の金融会社を内緒で設立します。
なぜ、回収金の一部をプールして、内緒で金融会社を設立できたのか。
それは、一緒に取り立てに行く組員に小遣いをやって、手懐けていき、完全に杉山の味方にしてしまったからでした。
この頃の気持ちを杉山は以下のように述懐しています。
“「いつまでもやくざの下で使われることに安住しているわしではない。一度は六甲の山奥で首まで埋められた男だ。何も恐れるものはない。髪の先からつま先までどっぷりと暴力の世界に染まったわしは、四国の平凡な成り上がり実業家とはまったくの別人に変身してしまったのだ。人間一度堕ちるところまで堕ちると、その状態で居直るタイプとなんとかまっとうな方向へ歩みたいとあがくタイプがある。わしは完全に前者であり、その居直りぶりも徹底していた。子供時分、とことん弱者の立場にいたわしは、弱い者、虐げられた者を見ると無性に襲いかかりたくなる。同類嫌悪感情。遠い昔の近親憎悪感情のなせる術かもしれない」”
法を犯すか犯さないか、虚実皮膜の回収作業を連日続けた挙げ句、2度留置場へ身柄を拘置され、一度は大阪刑務所に2年半服役します。
それでも、杉山は金融取り立て人としての活動を止めませんでした。
杉山は、地元高知の夜間高校を卒業した後、中央大学法学部通信教育課程に進学して、法律を徹底的に勉強しています。
その法知識、法武装ぶりは、留置場送りとなり刑務所の囚人を経験して以降、さらに磨きがかかり、金融に関する法律では弁護士と同程度といわれるようになります。
関西の暴力団の間で、杉山治夫の名はどんどん知れ渡っていきました。
内緒で設立した、金融会社も順調に伸びました。
しかし、杉山の会社から金を借りた土建業者が、組長に密告した為、この裏会社の存在がバレてしまいます。
代償は、せっかく順調にいっている裏会社の取り上げでした。
このとき杉山は、ここにいるのも、もう潮時だと感じました。
このままやくざの世界に棲み着いても、抜けられなくなるだけだ。
そうだ、東京へ行こう。
しかし、東京へ逃げれば、必ず大阪のやくざを敵に回す。そしてつかまる。
今度こそ、地獄行き・・・
そんななか、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、組員3名とともに東京へ向かいます。
杉山の頭の中には、東京でひとりだけ、自分を助けてくれるかもしれない人物が浮かんでいました。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
(※その3へ続きます)
※参考文献・一部引用
杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝』
本橋信宏『悪人志願』
本橋信宏『心を開かせる技術』
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