ネクタイピン

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

借金は本当に怖いです

はる坊です。

いきなりですが、『雪だるま式に』という言葉があります。

続いて『資産が増えていった』なら素晴らしいのですが、たいていの場合、この言葉の次にくるのは『借金が増えていった』ではないでしょうか。

〝借金はできる限りしないほうがいい〟

というのが私の考えですが、住宅を購入する折に、一括で現金払いができるのは、ほんの一部の方で、ほとんどの方は住宅ローンを組んで、マイホームを購入します。
もちろん、私もそのひとりです。

住宅ローンを組むときや借り換えはよく考えておこないましょう。



ローンと言えば、表現がすこし穏やかになりますが、要は借金です。

もし、あなたが何らかの理由で借金をしなければならないときは、まず銀行へ相談に行くと思います。

しっかりとした担保があれば、銀行も貸してくれることでしょう。

しかし、銀行が貸してくれない場合、銀行系ローン、消費者金融・事業者金融に出向くことになります。

銀行以外で借りると、当然のことながら利息は高いです。下手をすると、元金を返すどころか利息も返済できない状況に陥り、ドンドン膨らんでいきます。

あなたの人生を狂わせる原因にもなりかねません。

さて、昭和後期、消費者金融(正確にいうと金融債権取り立て業)を生業として、暴利を貪って、それを自慢。
TVにも出演して強烈な個性を見せつけた男がいます。

男の名は杉山治夫。

まずは、この映像を観ていただきましょう。

杉山治夫 大暴れ映像

ここまでの成金ぶり。悪役キャラぶり。

ふたむかし前のマンガ(というより劇画?)に出てきそうです。
口論の末タレントのミッキー安川と喧嘩をするまでに至ります。
(実は、この喧嘩はテレビ局のヤラセだったことを杉山は自著で暴露しています。)

また、ワイドショーに出演して、観客席に札束をばらまきます。
(実は、杉山はばらまいた1万円札の枚数を憶えており、番組終了後に集めて数えたところ、数枚足りなかったと、これも自著で暴露しています。)

今回は、そんな強烈なキャラクターをもった杉山治夫の生涯を追っていきます。

小学校2年で自殺未遂! あまりに悲惨すぎる幼年時代

杉山治夫は1938年(昭和13年)高知県高知市長浜で産声を上げました。

父親は船乗りで、フィリピンあたりにまで長い航海に出るため、ほとんど家にはいませんでした。

しかし、父親が家に居ないほうが平和だったのかも知れません。

稼いだお金を家に入れることはなく、酒とバクチで使い果たしてしまう人物だったからです。
おまけに愛人を作ってしまいます。

さらに悪いことに、父親がフィリピンで春をひさぐ仕事をしている女性から梅毒をうつされ、それが、治夫の母親に二次感染してしまい、母親は視力を失います。

生家は農家の脇に、ベニヤ板を何枚か立てかけただけの納屋を借りたものでした。
杉山が4歳の頃、日本は戦争中で国民の食糧は乏しくなっていきます。
杉山少年は、目の見えない母の手を引いて、付近の山林を歩きます。

松の葉を手に入れるためです。

石油も石炭も手に入らない時代。この地方では風呂を焚くときには松の葉を使っていました。

杉山は毎日、松の葉を集めます。それしかお金を得る方法がありませんでした。
しかも、いくら松の葉を集めたところでたいしたお金にはなりません。

しかし、母子が生き抜いていくのに、糧を得る手段はそれしかありませんでした。

1945年、杉山は地元の高知市立長浜小学校へ入学します。

しかし、杉山は小学校にほとんど通えませんでした。
松の葉集めと畑泥棒、そして、周囲からのいじめ。
そしてついには、いじめを通り越して、周囲の誰も相手にしてくれない状況へとエスカレート。

1940年には弟も生まれており、杉山家の家計はより悲惨なものになっていました。
学校に行く余裕はなかったのです。

学校へいく余裕はありませんでしたが、杉山は勉強が好きでした。
特に算数が得意だったと述懐しています。

鉛筆もノートもないので、地面に数式を書いて、問題を解いていったのです。

杉山治夫は小学2年の冬、自殺を図ります。

慢性的な栄養失調と厳しい冬の季節も身に付けるものは着物一枚だけ。
冬になると、身体が衰弱して内臓に異常がでていました。
たまに出席した小学校の共同トイレで用を足すと、杉山少年の尿は真っ赤に染まっていました。
何日も何日も、血尿が続くのです。

それを見たクラスメイトは、血尿をする杉山少年をからかいの対象としか見ませんでした。
それから、杉山少年は用を足すのも、休み時間に学校を抜け出し、裏山で小便をすることになります。

自殺場所に選んだのは、納屋のそばにあった汲み取り式のトイレ。
梁に荒縄をくくりつけて首を吊ろうとしたのです。

杉山はのちに自著でこの時の気持ちを述懐しています。

“見るものすべてが悪に見えた。

-なんでこんなに貧乏なんやろ。
-なんでうちだけいじめられるんやろ。
-なんで夏も冬も着物一枚なんやろ。
-なんで腹いっぱい飯喰えんのやろ。
-なんで、なんで、なんで!”

しかし、杉山少年は首吊りの方法を知りませんでした。
何度も板の間で跳ねては、首にまとわりついた荒縄を食い込ませようとしますが、うまくいきません。

そのとき、たまたま母親が用を足しにきました。
母親の顔を見た杉山少年は、ただ泣きじゃくるだけでした。

中学中退、時計屋で丁稚奉公

そんな頃、音信不通になっていた父親が杉山家に戻ってきます。
父親は米の闇ブローカーに転身しており、羽振りが良くなり、近所の土地を借りて小さな家を建てました。

母親の視力も徐々に戻ってきました。

杉山少年は、松の葉集め、そして、道や空き地に落ちている鉄くずを拾い集め、秋には山へ栗を拾いにいきました。
「やっと、うちもしあわせになれるんや」という嬉しさから、これまでの倍以上働きました。

ささやかながらも幸せな家庭が、杉山の身にも訪れる、かに見えました。

しかし、父親は酒浸りとなり、アルコール中毒で働かなくなります。

一家を支えるのは、再び杉山治夫の双肩にかかることになったのです。

1951年、杉山は高知市立長浜南海中学校へ進学します。

杉山が中学生になっても、父親のアルコール中毒は治る気配をみせませんでした。

そして、中学2年に進級すると、杉山はある情報を手に入れます。
地元の小さな時計店が丁稚奉公を探しているというのです。

「給料は出ないが、飯は喰わせてもらえる。時計の修理・分解が主な仕事で、4,5年も我慢すれば立派な時計職人になれる」

杉山少年は一晩考えた末に、中学を中退して、時計店に丁稚奉公へ行くことを決意します。
1952年の秋でした。

いざ、時計店での丁稚奉公が始まりましたが、それは過酷なものでした。
最初は、慣れない作業ですから、時計を分解してネジをどこかへ落としてしまう度に、嫌というほどのビンタの嵐を受けます。

おまけに、朝早くから夜遅くまでの一日15時間労働。

それでも、杉山少年はこの生活に嬉しささえ感じていました。
生まれて初めて、キチンとした布団で眠れ、三度三度の食事にはありつける。
杉山少年にしてみれば、実家で生活しているより、ずっといい環境だったのです。
それだけ、これまでの生活が悲惨を極めていたということになります。

また、この頃に初恋も経験しています。
相手は2,3歳年上の女子高生でした。

毎日、杉山少年が店の前でまき水をしていると、「おはよう」と声をかけてくれたのです。
いままで、杉山少年に挨拶をしてくれる女性などいませんでした。
女子高生にしてみれば、いつもの通学路でみかける丁稚奉公の少年に挨拶をしていただけに過ぎません。

杉山少年は、「おはようございます」と挨拶を返すことができませんでした。
ただ、砂利道に柄杓で水をまくことに没頭するフリをしているだけでした。

杉山は自著で、

“「あの頃のわしにはあまりにも眩しすぎたのだ。デートに誘おうにも無給の小僧には到底不可能だった。わしと彼女の逢瀬はいつも夢の中だけだった」”

と振り返っています。

のちに多くの愛人を作る杉山ですが、こんなウブな時代もあったのです。

17歳で時計店の経営者となる

1956年、杉山17歳のとき、大きなチャンスが訪れます。

丁稚奉公の時計職人として3年間真面目に働き、職人としての腕も確かなものになっていました。

そんなとき、この時計店が大きな借金を抱えていることを知ったのです。
やがて、借金取りが店に来るようになります。

杉山はこの時初めて、金貸しの存在を知りました。

この時計店は、いわゆる〝トイチ〟、十日で一割の利息を取る金融業者から金を借りていて、にっちもさっちもいかなくなっていたのです。

時計店の主人は店を売却して、金を返済する相談を家族としていました。
その額を知った杉山の頭に閃くものがありました。

-これはチャンスかもしれない、と。

3年間の修行中に顔見知りとなった家が百軒近く。なかには町工場の社長や金融業者もいました。

杉山少年は、いそいで実家にいる父親を呼びました。

杉山少年の計画を聞いた父親は、自宅を担保に入れ、杉山とふたりで金策に奔走します。
その結果、高利息の金でしたが、一週間で10万円を借りることに成功します。

杉山は、丁稚奉公をしていた時計店を買い取ります。
看板は新たに〝杉山時計店〟になりました。

時計店の店主との立場も逆転しました。
元店主は、時計職人以外で食べていく術がありません。働く場所は、杉山が買収した、かつての自分の店しかありません。

杉山時計店の経営は順調そのものでした。

といっても、なかなかセコいやり口で儲けていたのです。

まず、中古の時計を大量に仕入れて、分解・修理をしたあと、ケースを変えて新品まがいの商品として大安売りしたのです。

時計は売れに売れました。

中古時計の仕入れが足りなくなると、杉山は密輸品の時計を分解・修理して、補います。

時計店は大繁盛します。

しかし、それで満足する杉山ではありませんでした。

電化ブームに乗って事業の多角化を目指す

昭和も30年代を迎えると、〝もはや戦後ではない〟という言葉が象徴するように、人々が喰うためだけの生活から、豊かな生活を求めるようになりました。

杉山はここで電気製品を取り扱うことを考え、まずは時計店にラジオ・洗濯機・テレビ・蛍光灯を置いて様子をみます。

電化製品の売れ行きは上々でした。

そこで杉山は繁華街にあった雑貨店を買い取って、杉山時計店の移転をおこない、松下電器(現:パナソニック)・ソニー・東芝・日立の製品を扱い、大型冷蔵庫やテレビを大量に仕入れます。



ここで杉山は商才を発揮します。

販売方法を一括ではなく、月賦(分割払い)販売にしたのです。

-6万円の冷蔵庫でも、月2000円あれば買える。

この販売方法は大当たりでした。

家電量販店のハシリといえるでしょう。

-隣の家がテレビを買った。我が家にも欲しい。

-隣の家が洗濯機を買った。我が家にも欲しい。

仕入れた電話製品は、右から左に次々に売れていきました。

杉山は電化製品の販売で大もうけをします。

また、月賦販売については、別の思惑もありました。

「電化製品を購入する客は、地元の人間ばかり。ここは都会ではなく田舎だから知った者同士だ。だから、月賦未払いで逃げることはできない」

20歳にして地元でトップの金持ちに、そして23歳で結婚。しかし・・・

杉山治夫は20歳にして、〝地元長浜一の出世頭〟と評判になり、〝長浜でも一、二を争う金持ち〟と羨望の眼差しで見られる存在になりました。

杉山が一躍、金持ちの仲間入りを果たすと、自然に人が寄ってきました。これまで遊びを知らなかった杉山ですが、大金を懐にして毎晩のように芸者とバカ騒ぎを繰り広げるようになります。

杉山は金の威力の凄さを肌身で感じました。
そして、その金に惹かれて女性が寄ってくることも。

いままでの禁欲的な生活のタガが外れたように派手に遊びまくっていた杉山ですが、23歳のとき、転機が訪れます。

23歳の杉山は、家電量販店5店舗を経営する実業家として、ますます勢いを増していました。

そんな頃、杉山は自分の前を歩いていた、ひとりの女性に一目惚れをします。

もの凄い美人でした。

店の従業員にそのことを漏らすと、相手の素性を知り、何とお見合いのセッティングが整えられることになりました。

お見合いの席で、店の従業員が杉山のことをこれでもかこれでもかと褒めそやし、将来有望であることを相手の女性と両親に吹き込みます。

相手は資産家でしたが、お見合いはトントン拍子で話が進み、あっという間に話がまとまりました。

高知でおこなわれた結婚式は盛大なものになりました。

披露宴は三日三晩続き、仕事先の問屋、友人・知人関係、親類縁者の元へたらい回しにされながらも祝福を受けます。

羨望と嫉妬、そして、驚嘆と畏怖の表情を浮かべる地元民のあいだをモーニング姿で杉山は練り歩きました。

杉山は、「人生の絶頂」と自身で感じるほど、充実したときを迎えたのです。

しかし、転落はすぐそこに待ち構えていました。

電化製品量販店の店舗が増えるごとに、杉山自身の目が行き届かず、放漫経営におちいっていたのです。

従業員が勝手に手形を切り、仕入れを独断でおこなっていました。

そして、突然手形が不渡りとなって、黒字倒産に見舞われたのです。

「うちは儲かっているんだ! なのに、なぜなんだ」

半狂乱になった杉山の元に現れたのは、街金融の仮面を被った暴力団でした。

暴力団員は、杉山に短刀を突きつけながら、不渡り手形をどうしてくれる、と凄みます。

そんな状態でも杉山の頭に閃いたことがありました。

-こいつらは金に弱い。

そして、ヤクザの親分に言い放ちました。

“「親分! いや社長。お願いだ。わしをあんたとこの秘書にしてくれ。こう見えても、わしはまだ長浜じゃ顔がきく。わしの頼みなら金貸しする金持ちも知ってる。お、お願いじゃき!」”

杉山の必死の訴えは届きました。

杉山の元に現れた暴力金融業者は、金を貸し付けたり、大口融資をしてもらうためには、杉山のような販売店ルートと人脈を持った人間が必要だったのです。

結局、杉山の会社は、暴力金融会社に吸収合併される形となり、杉山は〝社長秘書〟の肩書きで、この会社に入社することになります。

杉山治夫が本格的に〝金融業〟と出合った瞬間でした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

(※その2に続きます)