立命館大学

1970年代の話

1976年【昭和51年】私立大学偏差値一覧表

1976年度の私立大学入試の偏差値(難易度)をご紹介します

はる坊です。
以前に1972年度の大学偏差値をご紹介しました。

今回はその4年後、1976年度の私立大学入試の偏差値をご紹介します。
データは1975年11月に行われた代々木ゼミナールの公開模試に基づいたものです。

1976年度大学入試私立大学偏差値表

滑り止めに合格しても素直に喜べなかった入学金制度

今回ご紹介する偏差値表では、

○○大学○○学部・・・偏差値○○

という形ではなく、合格可能圏偏差値として、○○~○○という数値が並びます。

これには理由があります。

1975年以前では、私立大学は合格発表後から一週間前後には入学手続きをとり、入学金・授業料・施設料などをまとめて徴収して、その後、別の私立大学や国公立大学の入試に合格しても、一度支払われた入学費用は、一切返還されないという形がとられていました。

国公立大学を狙う受験生の場合、浪人覚悟の場合や「国公立1本で大丈夫。必ず合格する」という自信満々の受験生はともかく、大半の受験生は、私大を滑り止めとして受けて、うち一校に、入学金・授業料・施設料などの入学時納入金額を収めた上で、第一志望を受験していました。

そして第一志望の国公立に合格しても、前もって滑り止めに支払った入学時納入金は一切返還されないのが決まりでした。

私立大学専願の受験生でも、第一志望の受験日が遅い時期であれば、早い時期に合格した滑り止めに入学金等を支払わなければなりませんでした。

その額、私立文系で20万円~35万円。

年次統計によると大卒初任給89,300円だった時代です。
これは受験生を抱える家庭にとっては、大きな負担だと考えられていました。

この状況に対して、受験生やその父兄からは、「私立大のタダ取り」ではないかという指摘が数多くあり、この年からは大半の私立大学において、入学申込金(入学金)や〝登録料〟と呼ばれる費用を合格後に納めれば、一定期間(国公立大学の入試合否判明まで等)、費用の延納を認めたり、一旦、入学時納入金は納めるものの、あとで手続きをすれば、入学金以外は受験生側に返金するというシステムがつくられました。

その為、この年からは私立大学の併願数が増加するのでは?

という予測がされたのですが、実際に、併願数が増加するかはこの時点ではわからず、

偏差値○○~○○が、○○大学○○学部の合格可能圏偏差値

と発表されたのでした。

それでは、発表された大学の難易度を見ていきましょう。

1976年(昭和51年)大学合格可能偏差値

岩手医科大学
医学部・・・・・55~57
歯学部・・・・・51~57

早稲田大学
政治経済学部・・・・・・58~63
法学部・・・・・・・・・58~60
商学部・・・・・・・・・58~60
第一文学部・・・・・・・58~60
教育学部・・・・・・・・55~60
理工学部(建築)・・・・58~63
理工学部(その他)・・・58~60

慶應義塾大学
法学部・・・・・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・55~60
文学部・・・・・・・・・58~60
商学部・・・・・・・・・55~60
工学部・・・・・・・・・58~60
医学部・・・・・・・・・64~67

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明治大学
法学部・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・55~57
政治経済学部(政治)・・51~57
政治経済学部(経済)・・51~57
経営学部・・・・・・・・51~57
工学部(建築)・・・・・55~60
工学部(その他)・・・・55~57
文学部・・・・・・・・・55~57
農学部・・・・・・・・・40~50

立教大学
経済学部・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・55~60
文学部Ⅰ・・・・・・・・58~60
文学部Ⅱ・・・・・・・・55~60
理学部・・・・・・・・・51~60
社会学部・・・・・・・・51~57
※文学部Ⅰ・Ⅱは専攻によって分けられていたものと思われる。

法政大学
工学部・・・・・・・・・48~54
法学部・・・・・・・・・51~54
経済学部・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・48~54
社会学部・・・・・・・・51~54
文学部・・・・・・・・・51~54

中央大学
法学部(法律)・・・・・58~60
法学部(政治)・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・51~57
商学部・・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・55~60
文学部・・・・・・・・・51~57

上智大学
外国語学部・・・・・・・58~63
文学部Ⅰ(文学)・・・・58~60
文学部Ⅱ(その他)・・・58~60
理工学部Ⅰ・・・・・・・55~60
理工学部Ⅱ・・・・・・・58~60
経済学部・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・55~60
※理工学部Ⅰ・Ⅱは専攻によって分けられていたものと思われる。

津田塾大学
学芸学部(国際)・・・・・58~60
学芸学部(英文)・・・・・58~60
学芸学部(数学)・・・・・58~60

青山学院大学
文学部(英文)・・・・・・58~60
文学部(仏文)・・・・・・55~60
文学部(史学)・・・・・・55~60
文学部(教育)・・・・・・55~57
文学部(日本文学)・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・・48~54
法学部・・・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・・48~54

学習院大学
法学部・・・・・・・・・・55~57
経済学部・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・55~60
理学部(化学)・・・・・・51~57
理学部(その他)・・・・・55~60

国際基督教大学
教養学部・・・・・・・・・58~60

自治医科大学
医学部・・・・・・・・・・61~67

東京医科大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

東京歯科大学
歯学部・・・・・・・・・・55~60

東京薬科大学
薬学部・・・・・・・・・・55~60

日本医科大学
医学部・・・・・・・・・・61~63

日本歯科大学
歯学部・・・・・・・・・・55~60

昭和大学
医学部・・・・・・・・・・51~57
歯学部・・・・・・・・・・51~54

順天堂大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

東京女子医科大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

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東京理科大学
理学部(数学)・・・・・・55~60
理学部(応用化学)・・・・55~60
理学部(物理)・・・・・・55~60
理学部(応用数学)・・・・55~60
理学部(化学)・・・・・・55~60
理学部(応用物理)・・・・55~60
工学部(建築)・・・・・・58~60
工学部(工業化学)・・・・55~60
工学部(経営工学)・・・・55~60
工学部(電気工学)・・・・55~60
工学部(機械工学)・・・・55~60
薬学部・・・・・・・・・・55~60
理工学部(数学)・・・・・51~57
理工学部(建築)・・・・・55~57
理工学部(電気工学)・・・51~57
理工学部(土木)・・・・・55~57
理工学部(物理)・・・・・51~57
理工学部(機械工学)・・・51~57
理工学部(経営工学)・・・51~57

芝浦工業大学
工学部(機械工学)・・・・48~54
工学部(通信工学)・・・・48~54
工学部(建築)・・・・・ 55~57
工学部(工業経営)・・・・48~54
工学部(工業化学)・・・・48~54
工学部(機械工学)・・・・48~54
工学部(土木)・・・・・・55~57
工学部(電子工学)・・・・48~54
工学部(金属工学)・・・・48~54
工学部(建築工学)・・・・48~54
工学部(電気工学)・・・・48~54

武蔵工業大学(現・東京都市大学)
工学部(電子通信)・・・・・55~57
工学部(経営工学)・・・・・51~57
工学部(電気工学)・・・・・55~57
工学部(土木工学)・・・・・55~60
工学部(機械工学)・・・・・51~57
工学部(建築)・・・・・・・55~60

成城大学
経済学部・・・・・・・・・・51~57
文芸学部・・・・・・・・・・51~57

成蹊大学
経済学部・・・・・・・・・・48~54
工学部・・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・51~57
法学部・・・・・・・・・・・48~54

明治学院大学
文学部(英文)・・・・・・・51~57
文学部(その他)・・・・・・51~57
経済学部(商)・・・・・・・48~54
経済学部(経済)・・・・・・48~54
社会学部(社会福祉)・・・・51~54
社会学部(社会)・・・・・・51~54
法学部・・・・・・・・・・・51~54

日本女子大学
家政学部・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・55~57

東京女子大学
文理学部・・・・・・・・・・58~60

共立女子大学
文芸学部・・・・・ ・・・・48~54
家政学部・・・・・・・・・・45~50

大妻女子大学
家政学部・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・48~54

日本大学
法学部(法律)・・・・・・・45~50
法学部(政治経済)・・・・・45~50
法学部(新聞)・・・・・・・45~50
文理学部(理)・・・・・・・45~50
文理学部(文学)・・・・・・48~54
文理学部(社会・教育)・・・48~54
経済学部(経済)・・・・・・45~50
経済学部(産業経営)・・・・45~50
商学部(会計)・・・・・・・45~50
商学部(経営)・・・・・・・45~50
商学部(商業)・・・・・・・45~50
理工学部(物理)・・・・・・55~57
理工学部(数学)・・・・・・55~57
理工学部(建築)・・・・・・55~57
理工学部(土木)・・・・・・55~57
理工学部(その他)・・・・・48~54
生産工学部 ・・・・・・・・45~50
工学部・・・・・・・・・・・40~47
医学部・・・・・・・・・・・51~57
歯学部・・・・・・・・・・・51~57

東海大学
医学部・・・・・・・・・・・51~57

専修大学
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
法学部・・・・・・・・・・・・48~54
経営学部・・・・・・・・・・・45~50
商学部・・・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・・48~54

東洋大学
法学部・・・・・・・・・・・・45~50
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
経営学部・・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・・48~54
工学部・・・・・・・・・・・・48~50

東京電機大学
工学部・・・・・・・・・・・・48~54

神奈川大学
法学部・・・・・・・・・・・・45~50
外国語学部・・・・・・・・・・51~54
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
工学部・・・・・・・・・・・・48~54

同志社大学
神学部・・・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・・・51~57
工学部・・・・・・・・・・・55~60

立命館大学
法学部・・・・・・・・・・・51~57
経済学部・・・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・・・51~57
産業社会学部・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・55~60

大阪医科大学
医学部・・・・・・・・・・・51~57

大阪薬科大学
薬学部・・・・・・・・・・・55~57

関西大学
法学部・・・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・・48~54
経済学部・・・・・・・・・・48~54
商学部・・・・・・・・・・・48~54
社会学部・・・・・・・・・・48~54
工学部(電気・電子)・・・・48~50
工学部(その他)・・・・・・48~54

関西学院大学
文学部・・・・・・・・・・・55~60
社会学部・・・・・・・・・・51~57
法学部・・・・・・・・・・・55~57
経済学部・・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・・・51~57
神学部・・・・・・・・・・・51~57
理学部・・・・・・・・・・・55~57

1972年(昭和47年)の国公立・私立大学入試偏差値(難易度)はこちらから

1972年(昭和47年)の大学入試偏差値(難易度)を調べてみました。

全国の国公立・私立大学 国公立・私立高等学校(高専) 受験中学校の偏差値をまとめたページはこちらです。

⇒『はる坊の雑記』偏差値関連記事 整理ページです。

1970年代の話

1972年【昭和47年】の大学入試偏差値・難易度を調べてみました。

40年前や50年前の大学受験って、難易度とか偏差値ってどうだったんだろう?

1970年や1975年頃の大学って、今よりも難しかったのか?

はる坊です。
私が大学受験を経験したのも遙か昔のことになってしまいました。
ふと、「大昔の大学受験はどうだったのだろう?」という疑問が湧いてきて、調べてみました。

手に入ったのは、1972年(昭和47年)の大学入試難易度(偏差値)表です。

当時の受験生は、現役生で1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)生まれの方になります。現在は64~65歳、仕事の第一線からリタイアされた方、企業の役員を務められている方、専門職でバリバリ働きながら後進に指導をおこなっておられる方、いろいろな方がおられると思います。

ちなみに大学卒業時には、オイルショックに見舞われて、例年より就職に苦労した経験を持たれている世代でもあります。

民間企業への就職が狭き門となった為に、国家公務員中級職(国家公務員Ⅱ種を経て、現在の国家公務員一般職)や地方公務員に本格的に目を向けて、入庁、入職した最初の世代でもあります。(地方の役場では、それまで大卒が仕事をしていることは珍しかったところもあります)

私が大学受験に臨む頃や社会へ出てから、何かの拍子で「××大なんて、名前を書けば誰でも入れた」とか「○○大は難しかった」という話を、ホンネか冗談か真に受けることもなく聞いたことがありますが、今回のデータで「なるほどなあ」と思うものもありました。
世間の評価は時代によって移り変わっていくものですね。
もっとも、東大・京大と国公立医学部が最難関であることは変わりませんが。

【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ

社員の平均年収2,279万円!資産約3兆1700億円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス①

※本ページはアフィリエイト広告を利用しています

はる坊です。

今回は、フォーブス誌の2021年日本人長者番付で、2020年に引き続き第3位にランクインしているキーエンス創業者で同社名誉会長・滝崎武光氏に迫っていきたいと思います。

キーエンス創業者で同社名誉会長・滝崎武光氏の総資産3兆1,700億円!

米フォーブス誌によると、滝崎氏の資産は滝崎武光氏個人、そして、妻の滝崎美弥子氏が代表取締役を務める滝崎氏の資産管理会社・株式会社ティ・ティが保有するキーエンス株の合計で、3兆1,700億円に上ります。

2017年では1兆3880億円でしたから、6年間で約2.3倍も資産を増やしたことになります。

ちなみに、日本人長者番付のトップ3は、

ユニクロを率いるファーストリテイリングの柳井正 代表取締役会長兼社長

本記事でご紹介するキーエンスの滝崎武光 取締役名誉会長

ソフトバンクグループの孫正義 代表取締役会長兼社長。

の順です。

上位には滝崎氏とともに、サントリーホールディングスの佐治信忠会長やユニチャームの高原豪久会長など、日本人の日常生活に欠かせないモノを手掛ける企業のトップが名を連ねています。

米フォーブス誌日本版で発表された2015年からの滝崎氏の資産推移を見てみましょう

2015年 第5位 資産額:1兆0472億円

2016年 第4位 資産額:  9379億円

2017年 第4位 資産額:1兆3880億円

2018年 第4位 資産額:1兆8430億円

2019年 第3位 資産額:2兆0670億円

2020年 第3位 資産額:2兆1190億円

2021年 第3位 資産額:2兆8420億円

2022年 第2位 資産額:2兆9,700億円

2023年 第2位 資産額:3兆1,700億円

すっかり、ファーストリテイリングの柳井正氏、ソフトバンクグループの孫正義氏、サントリーホールディングスの佐治信忠氏と並んで、日本人トップの資産を保有する人物として定着している感があります。

滝崎氏が、ここに挙げた3名の方と違うのは、滝崎武光氏は資産家・実業家の子息として生を受けたわけではなく、サラリーマン家庭に生まれ育ち、学歴も高卒であること。

約6年間のサラリーマン生活を経て共同経営の会社を設立するも、短期間で倒産させ、再度のチャレンジでも上手くいかず、20代後半までに結局2度の会社倒産を経験している人物であること。

3度目に正直となったキーエンスも、最初はリード電機という滝崎氏ただひとりの個人事業に過ぎない時点からスタートしているところでしょう。

まさに立志伝中の人物といえます。

この記事を読み進めていただくとお分かりいただけると思うのですが、滝崎氏ご本人は、この2兆円を超える資産のことは、必要以上に誇っているようには思えません。

もし、滝崎氏に現在の資産額について尋ねたら、

「資産といっても、私個人や家族、資産管理会社で保有している株式が大半です。

株価は必ずしも、会社の業績に比例して上下するものではなく不確かなもの。

ですから、あてにはなりません。

私は株や不動産売買で利益を出そうとする〝財テク〟はしてはいけないという考えです。

それよりも高付加価値の仕事をすること、会社の営業利益のほうが大切ですよ。

私は売上高には目を向けません。

いくら売上があっても低い利益率では、従業員を含めて企業に関わる人々がメリットを享受できませんから、意味がありません。

現在、キーエンスの営業利益率は売上高の54%強です。

この数字は社員ひとりひとりが、付加価値の高い良い仕事をしてくれていることの証だと思います。

私はそちらを誇りたいです」

きっと、そんな答えが返ってくるような気がします。

それでは、キーエンスと滝崎武光氏の足跡を追っていきましょう。

株式会社 キーエンスとは?

〝人件費は経費にあらず〟従業員の最高平均年収は何と2,279万3,975円。ボーナスは年4回

キーエンスは、創業者・滝崎武光氏が1972年3月に兵庫県伊丹市において、個人事業・リード電機として創業。

1974年5月に兵庫県尼崎市に移転するとともに法人化され、リード電機株式会社となります。

その後、FA(ファクトリーオートメーション)用センサーや計測器の開発・販売を手掛けて業績を伸ばし、1986年10月に商品ブランド名のキーエンス(KEYENCE)と商号の統一を図るために株式会社キーエンスに社名を変更。

ちなみにキーエンス(KEYENCE)とは、Key of Science-キー・オブ・サイエンス(科学の鍵)の略語です。

翌1987年10月には大阪証券取引所第2部に株式を上場。
株式上場準備に3年も4年もかかり、上場審査基準も厳しかった当時としては、かなりのスピードといえる会社設立から僅か13年で上場企業の仲間入りを果たします。

2年後の1989年12月には東京証券取引所2部にも重複上場。
1991年9月には、ついに東京証券取引所1部上場を果たします。

上場時から高収益企業・高株価企業として有名でしたが、

まれに見る高収益体質を維持したまま、現在まで成長を続け、

2023年3月期の連結決算では、

売上高:9,224億2,200万円 売上総利益:7,547億3,200万円 営業利益4,989億1,400万円を記録

粗利率は驚異の81.9% 営業利益率は何と54.1%です。

2024年3月期の連結決算数字がどうなるか、これから注視していきたいと思います。

キーエンスは、従業員の年収が高い企業としても有名ですが、〝人件費は経費にあらず〟というキーエンス独自の思考から、2023年6月に提出された有価証券報告書では従業員:2,788名(平均年齢35.8歳)の平均年収は2,279万3,975円となっています。

前述したように、ボーナスは(3月・6月・9月・12月)の年4回です。

2022年6月に提出された有価証券報告書では、従業員:2,599名(平均年齢36.1歳)の平均年収は2,182万7,204円となっていましたので、業績好調を受けて、従業員の平均年収もアップしています。

また、従業員の人数も単純計算で189名増加しています。
退職者もいるので、仔細は不明ですが、新卒・中途採用とも継続してかなりの人数を採っていることがわかります。

キーエンスの本社は東京ではなく大阪。JR新大阪駅の近く

キーエンスは、国内・海外(北米・欧州・南アフリカ・中国・アジア・中東・オセアニア)に営業拠点を張り巡らせていますが、本社・研究所は、大阪府大阪市東中島(JR新大阪駅の近くです)に構えています。

この社屋が建てられたのは1994年とかなり年月が経ってしまっているのですが、高さ111メートル・21階建てのビルは非常にスタイリッシュで、数々の賞にも輝き、現在でも古くささを感じさせません。

創業者の滝崎氏は2000年12月に、当時43歳だった生え抜きの佐々木道夫氏(明治大学政治経済学部卒業)に社長職を譲り、55歳で代表取締役会長に就任。
自身が会長に退いた理由を、

「創業当時から自分がいなくても、会社が回るようにずっと考えてきました。会長に退いたのも、私が半年1年いなくてもこの会社は回るなと思ったからです」”と語っています。
(引用元:2003年10月27日号 日経ビジネス 特集 利益率40% 驚異の経営 キーエンスの秘密 編集長インタビュー 滝崎武光氏[キーエンス会長] 会社に思い出は不要)より。

2012年12月からは、佐々木道夫氏は取締役特別顧問となり、当時45歳だった山本晃則氏(立命館大学理工学部卒業)が代表取締役社長が就任。

滝崎氏は引き続き会長職に就かれていましたが、2017年12月からは取締役名誉会長を務めておられます。

2019年12月には、山本晃則氏は取締役特別顧問となり、1974年生まれの中田有氏(関西学院大学法学部卒業)が代表取締役社長に就任しています。

そして、

キーエンス社長の年収・役員報酬は意外に低い

モンスター企業のキーエンスですが、意外に経営トップの年収はそこまで高くありません。

従業員の最高平均年収は約2,279万円ですが、

創業者の滝崎氏から数えて、4代目代表取締役社長を務められている中田有氏の年間役員報酬は2023年3月期の有価証券報告書によると、1億8,800万円

前社長で、現在は取締役 特別顧問を務められている山本晃則氏の年間役員報酬も1億1,300万円です。

社外取締役をのぞく、他の常勤取締役に1億円プレーヤーはいません。

これには理由があり、創業者の滝崎武光氏が社長在任時代に、自身の報酬を低めに設定していた伝統が残っているからです。

滝崎氏自身“「サラリーマン社長と同等にしている」”とインタビューで発言しており、役員だからといって、億単位の役員報酬をもらっていなかったのです。

現在、SHIFTの取締役副社長を務められている、キーエンス2代目社長・佐々木道夫氏の後継者として、

3代目社長を務められた山本晃則社長も、

年間役員報酬は、2018年3月期の有価証券報告書で1億3800万円。2019年3月期が1億5600万円でした。

そして、2019年に社長職を中田有氏にバトンタッチされ、取締役特別顧問となられた2020年3月期の有価証券報告書では1億5000万円。

2018年6月には、給付型奨学金を提供するキーエンス財団を設立

また、滝崎氏は2018年6月に、まだまだ日本では浸透していない大学進学者向けの給付型奨学金を提供する一般財団法人キーエンス財団を設立され、代表理事も務められています。

2019年4月大学新入学生を対象とするものですが、募集人数は125名程度で月額8万円を在学中の4年間支給する
(4年間の合計支給金額は384万円になります)

という返済の必要がない奨学金ではかなり規模の大きなものです。

現在の日本では経済的な理由で奨学金を利用して大学や専門学校に進学される方が多くなっていることは事実です。
ただ、その奨学金の大半は貸与型であり、卒業後に社会に出てから返済の必要があります。

若くして高収入が得られる職に就き、奨学金の返済を滞ることなく支払える方もおられるでしょうが、不安定な立場や低収入から返済をすることができず延滞金が上乗せされ、最悪の場合、自己破産に追い込まれ、人生に大きな狂いが生じている方も多く存在していることも事実です。

そんななかで、前途のある学生に返済不要の給付金を提供する財団を立ち上げられたのは素晴らしいことだと思います。

実は、滝崎氏が奨学金に目を向けたのは今回が初めてではありません。
1990年にアジアから学びに来る理工系の留学生の為に、私財3億円で奨学基金を設立していました。

さて、キーエンス財団の事務局も大阪府大阪市東中島キーエンス本社ビル内にあります。

これは公私の区別を厳しくしている滝崎氏らしいと思うのですが、普通、成功を収めた事業家などが奨学財団や文化・スポーツ振興財団を設立した際には、自分の苗字を財団名の頭に付けていたり、理事や評議員に親族が名を連ねているケースがほとんどです。

また、自らの人脈をアピールする目的もあるのか、財界や学界、専門分野のなかでも著名な人物や肩書きが立派な人物の名前が並んでいることもあるのですが、キーエンス財団の場合はそういったものがないように感じられます。

理事や評議員のなかに、滝崎氏の親族は誰ひとり名前がありません。

奨学金を給付する有能な学生を選考する為には、どのような人物を置けば一番効果的で合理的かという滝崎氏の哲学が、この財団にも表れているような気がしてなりません。

ミステリアスな滝崎武光氏の詳細なプロフィールをご紹介

さて、日本人長者番付2位の大資産家である滝崎武光氏ですが、その人物像はほとんど知られていません。
第一に滝崎氏自身がメディアに露出しないからです。

よって、ウェブ上では〝前半生が謎〟であるとか、〝来歴や家族関係は一切不詳〟と書かれているページすら見受けられます。
また、〝韓国〟というキーワードが検索されていますが、韓国に縁のある人物であるとは確認できません。

さて、滝崎氏自身、社長職を退いて、会長となって以降はたった一度しかマスコミのインタビューに応じていません。

名誉会長に就任して、後進に会社を託すような形となった現在では、メディア露出の可能性は更に低くなったと思います。

東証1部上場企業の創業者ですが、財界活動にも全く興味を示さない人物ですので、世界に通じる日本有数の大富豪として一部の人だけに名前を知られた状態で、このままミステリアスなイメージを保っていくのではないでしょうか。

それでも、まだ1980年代、1990年代には、多少ではありますがマスコミの取材やインタビューに応じていました。そこで語られたエピソードを中心に、滝崎武光氏に迫ってみたいと思います。

滝崎武光氏は1945年兵庫県出身の78歳です

滝崎武光氏は1945年(昭和20年)6月10日兵庫県芦屋市で出生しています。

現在は大阪府豊中市に在住です。

芦屋市といえば、関西で一番富裕層が集い邸宅を構えているようなセレブなイメージがありますが、滝崎氏の父親はお金持ちでも経営者でもなく一介のサラリーマンでした。
しかし、真面目で働くことを美徳とする人物だったようで、モノ作り一筋の滝崎氏の人生にも大きな影響を与えている気がします。

その父親がメーカー勤務だったのかはあきらかにされていませんが、幼い頃、父親とともに住友金属工業(現在の新日鐵住金)和歌山製鉄所へ行ったときの思い出が滝崎氏には強く残っているようです。

当時、この製鉄所の中には、そこで働く人々を運ぶバスが運行されていました。

滝崎氏はこのときを振り返って、

“「理屈っぽい性格なので、これほど巨大な工場が何のためにあるのかを考え、自分の生活にも寄与しているんだと気が付いた」”

と語っています。

また、父親は機械の見本市にも武光少年を連れていったりもしています。

武光少年は小学校の卒業アルバムに『今度会うときにはテープレコーダーを作っているだろう』と寄せ書きしていたそうで、中学校時代には、友達から10円を集めて薬局でマグネシウムなどを購入して、実験をしていました。

モノづくりや電気いじり、科学実験好きの少年時代を過ごしたようです。

尼崎工業高校電子科時代、一流の事業家を志す

滝崎氏が中学校卒業後に進学したのは、兵庫県立尼崎工業高等学校電気通信科(在学中に電子科に名称変更)でした。

(尼崎工業高校の後輩にはダウンタウンの松本人志氏(機械科卒業)がおられますが、島田紳助氏と共演していたトーク番組『松本紳助』内で「賢いクラスがありましたねえ。電子科は賢かった」と発言していましたので、いくつかに分かれている科のなかでも、滝崎氏はレベルの高いクラスに在籍していたと思われます)

高校在学中、滝崎氏は自治会や生徒会の役員になります。

このとき、滝崎氏は先頭に立って市内5校で連合会を作っています。

ご本人は

“「(自身が通っていたのが女子生徒のいない工業高校だったので)女学生のいる学校に遊びに行きたかっただけかもしれません」”

と多少冗談めかしてはいますが、高校生にしてリーダーシップを取ることのできる人物だったことがわかります。

また、この経験からでしょうか

「人を組織することに興味を覚えた」

とのちに語っています。

時代はちょうど大学紛争の頃、自治会の役員をしていた滝崎氏は京都大学などで学生運動をしている人々と出会うことになります。

滝崎氏が、学生運動をしている年上の人々と知り合ったなかで、気が付いたのは、

思想というものは文学や芸術と同じで好き嫌いの世界

で、そういった客観的に測れないものは自分自身の性格上、相容れないものだということ。

そして、

経済というのは数字の世界だから客観性があり、企業の善し悪しも数字で対比すれば分かるもの

だということでした。

そして、滝崎氏は志を立てます。

自分は主観だけで判断するものには向いていない。

それなら、一流の事業家になろう。

それも、デザインや個人の趣味、趣向に左右される消費財ではなく、ユーザーの生産性を上げることに狙いを絞り込み、機能や性能に対して価格が安いか高いかで評価される生産財がいい

1964年(昭和39年)3月滝崎氏は、兵庫県立尼崎工業高校電子科を卒業すると、実社会に足を踏み入れます。

実社会に足を踏み入れた滝崎氏は、エンジニアとなり24歳で独立を果たしますが・・・

最後まで読んでくださってありがとうございました。
よろしければ、その②もお読みいただけるとありがたいです。

その②に続きます⇒社員の平均年収2,279万円!資産約3兆1700億円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス②(新しいタブが開きます)

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元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。


次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。


【2018年11月に出版】キーエンスでの経験を生かしたサイト運営について普遍的で重要な事柄が凝縮された一冊

キーエンスの社内ベンチャー・イプロスでウェブサイト作成・運営に携われた方の本です。

「心に触れるホームページをつくる」


筆者の秋山典丈さんは、キーエンスの社内ベンチャー・イプロスで『製造業向けマッチングサイト』を企画された方です。

東京工業大学大学院理工学研究科情報工学専攻修士課程修了後、1995年にキーエンスに入社。

2000年にキーエンスの社内ベンチャーとしてスタートしたイプロス(株式会社 イプロスとして法人設立は2001年)の立ち上げに参画され、「徹底的に受け手の身になってサイトを作る」ことに向き合われた経験を生かして書かれた本です。

秋山さんは2003年に独立され、現在はシステム開発とサイトコンサルティング・商品企画コンサルティングに携わる株式会社 レクタスの代表取締役を務められています。

この本では、個人でも法人でも、また初心者から上級者までサイト作成・運営にとって重要なことが満載されています。

私も折に触れて読み返しています。

サイト作成に関する本は多く出版されていますが、ここまで普遍的で重要な事柄が凝縮されている本はめったにありません。

キーエンスに興味のない方でも、ご自分のブログやサイト、そしてSNSで見る人の心をガッチリ掴みたいと少しでも思われている方なら、ぜひお読みになってください。

一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。


ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。

『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。

Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。

また、もう一冊だけ、現在紙の書籍で入手することは困難ですが、機会があればぜひ読んでいただきたい本があります。

キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた書籍です。


キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。


立石氏のホームページによると、2016年9月の時点では30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
これには、著者の立石氏も戸惑われたようですが、この本にそれだけの価値があると認められていることも、また事実でないかと私は思っております。

そのような状況が長く続きましたが、2020年8月にアマゾンKindleにて第2刷として出版されました。

Kindle Unlimited 会員の方は、このタイトルを追加料金なし(¥0円)でお読みになれます。

ご一読をおすすめいたします。

他にも元キーエンスの方が書かれた本があります。
参考にはなりますが、あえてこの場でおすすめするのは、控えさせていただきます。

人物伝

見城徹という怪物について その1

幻冬舎 代表取締役社長・見城徹とは
はる坊です。
私はあることに興味を持つと、徹底して調べるという癖(ヘキ)を持っています。
仕事に関することでも、全然関係のないことでも同じです。

最近は、幻冬舎社長の見城徹氏の本を集中的に読みました。
その感想です。
見城徹といえば、幻冬舎社長にして、元角川書店取締役編集局長。
そして何より、敏腕編集者として知られています。

まず、見城徹氏が幻冬舎を設立したのは、自分を角川書店の正社員として採用してくれた角川春樹氏が、薬物事件で逮捕されたのが要因になっているとか。取締役会で、春樹氏の社長解任をおこなうなら、春樹氏に採用され従ってきた自分も辞めようと思ったとのこと。

なかなかできることではありませんが、筋は通っていますね。

見城氏の経歴を追ってみると、
1950年12月29日静岡県清水市(当時)生まれ。
地元の静岡県立静岡南高校を卒業後、慶応義塾大学法学部に入学・卒業。
廣済堂出版を経て、角川書店にアルバイト入社。
そして、芥川賞作家・高橋三千綱氏の後押しもあって、正社員に、とあります。

まず、ここまでで思うことがいくつか出てきます。
見城氏は、編集者でありながら、見城氏単独やサイバーエージェント社長・藤田晋氏などと著作を出しています。

それも一冊や二冊ではない。
発行されている書籍すべてに目を通してみると、重複するエピソードや、ちょっと違う書き方になっているなと思うところがありますが、自己顕示欲が強い方だという印象を受けます。

テレビにも出演していますし、YouTubeでは『徹の部屋』という番組のホストもしています。

本人曰く、少年期から青年期にかけて、コンプレックスの塊だったと述べられています。
いまでは強面の結構イイ顔(褒め言葉です)で正直、カッコいい。

セクシーさも感じる顔をしておられると思いますが、容姿に対するコンプレックスがかなりあったようです。
でも、その割に高校時代から、本人曰く、素晴らしい彼女がいたりして、(容姿にコンプレックスがあったって本当かい)と思わせてくれるような、アンバランスな印象を受けます。

また、読書家なのは少年の頃からのようで、それが、現在の見城氏を作り上げる土壌になっていることは確かでしょう。

まず、私が思ったのは、なぜ文学部へ行かなかっただろう?という点です。
「受けたけど、落ちたんだよ」
と言われたらお仕舞いですが、時代背景もあったのではないかと思うのです。
当時は、学生運動が吹き荒れていました。
法とは何か? 
政治とは何か? 
という疑問と興味が見城氏にあったと推察されます。

また、石原慎太郎の大ファンだったこともあり、(石原氏は、一橋大学法学部卒業)法学部を選んだのかなあと、個人的には思うところです。
そして、卒業後は、廣済堂出版へ入社しています。
入社後に『公文式算数の秘密』という書籍を企画して、38万部のベストセラーに仕上げます。

また、『十万円独立商法』という書籍を企画して、これに興味を持った、当時東スポの記者で後に芥川賞を受賞する高橋三千綱氏との縁もできて、角川書店に入社することになります。

そういえば、少し前に『1万円起業』という書籍が売れましたが、
(『<マンガでわかる1万円起業』という形で漫画化もされています。) これは、見城氏の企画に触発されたものだと私は思っています。
直木賞製造マシーンとして名を馳せる
さて、有明夏夫『大浪花諸人往来』という小説をご存じでしょうか?
また読まれた方はいらっしゃるでしょうか?
わたしは、著者名だけは聞いたことがありますが、読んだことはありません。

見城氏自身も、浅草キッドとの対談で“「この人とこの小説のことは誰も知らないんだけどね」”と言っています。
直木賞を受賞したけれど、売れっ子作家にはなれなかったというところだと思います。

ですが、この小説は、編集者・見城徹を語るには、とても重要な作品であると思っています。

実は、この小説、宮尾登美子の『一絃の琴』とともに、第80回直木賞を受賞しているんです。

決定したのは、1979年1月19日。
発行されたのは前年の1978年10月。
角川書店刊。

野性時代78年2月から断続的に掲載された連作短編集です。
この本の担当編集者が見城徹氏でした。

そして、この本が角川書店初の直木賞受賞作です。
(77年に、野性時代に掲載された池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』で、芥川賞は獲得しています)

のちに見城氏は、角川書店時代に『直木賞製造マシーン』という異名を得ることになります。

見城氏が直接担当して、直木賞を受賞したのは以下の4作品です。
82年1月 第86回直木賞受賞 つかこうへい『蒲田行進曲』
82年7月 第87回直木賞受賞 村松友視『時代屋の女房』
87年7月 第97回直木賞受賞 山田詠美『ソウルミュージック・ラバーズ・オンリー』
88年7月 第99回直木賞受賞 景山民夫『遠い海から来たCOO』

ですが、直木賞候補に並んだ小説だと、
つかこうへい 第82回候補『ロマンス』『かけおち』『ヒモのはなし』
村松友視 第85回候補『セミ・ファイナル』 第86回候補『泪橋』

結果的に、文藝春秋のオール讀物に発表した『京都まで』『最終便にまにあえば』で第94回直木賞を受賞した林真理子も第91回候補作『星影のステラ』 第92回候補作『葡萄が目にしみる』は、見城氏が担当しています。

そして、これは未確認で、想像の域を出ませんが、第90回候補の北方謙三『友よ、静かに瞑れ』も野性時代連載がまとまって、角川書店から本になったものですから、見城氏が関わっていたのではないかと思うことがあります。
見城氏が野性時代副編集長を経て、月刊カドカワの編集長になったのが、86年か87年。

だとすると、83年6月に発刊された『友よ、静かに瞑れ』には、見城氏が間接的にでも関わっていたと考えるのが順当でしょう。
北方謙三はその後、「いろいろ理由があって」直木賞を受賞しないまま、柴田錬三郎賞、吉川英治文学賞、更には紫綬褒章を受章して、現在は、直木賞選考委員になっています。

今回はこのくらいで。

その2に続きます

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。