貴金属

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

杉山治夫が唯一尊敬していた人物

はる坊です。

その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。

それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。

日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。

杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。

やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。

東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。

その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。

といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。

話を少し昔に戻します。

杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。

その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。

その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。

『定通新聞』

その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。

この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。

杉山は、この新聞をよく読んでいました。

一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。

この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。

杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。

杉山も、一、二度はこの会に出席しました。

そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。

杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。

小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。

『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。

しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。

杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。

二度目の東京出張時でも無理でした。

杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。

そして、三度目の東京出張。

同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。

杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。

杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。

翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。

杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。

この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。

しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。

「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」

そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。

それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。

その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。

杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。

しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。

そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。

取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。

杉山から話を聞いた小林氏は、

「わかりました」

とうなずきました。

そして、

「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」

と続けます。

小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。

そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。

「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」

この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。

1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。

杉山治夫東京進出。金融取り立て人として名を馳せる

杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。

杉山が降り立ったのは、川崎でした。

東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。

杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。

川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。

暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。

しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。

ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。

100万円の金は面白いように増えていきました。

そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。

杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。

1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。

それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。

すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。

-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。

地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。

杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。

〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。

連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。

また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。

〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。

それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。

暴力団相手の債権取り立てにも進出する

東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。

十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。

こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。

そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。

杉山は、こんなことを語っています。

「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。

恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。

そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。

かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。

彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。

杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。

殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。

杉山はその場で一本の電話を掛けました。

相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。

「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」

杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。

杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。

日本百貨通信販売を核にして、杉山グループを形成する

杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。

金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。

そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。

社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。

杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。

もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・

杉山は、どこまでも狡猾でした。

暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。

また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。

小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。

数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。

杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。

(その4に続きます・後日更新予定です。)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

杉山治夫も金融業者としての新人時代があった

はる坊です。

その1では、杉山治夫の出生から極貧の少年時代、中学を2年で中退して時計屋に丁稚奉公。17歳で独立して店を構え、その後、家電も扱うようになり、一躍、地域で一、二を争う金持ちとなり、良家の娘と結婚するも、放漫経営が祟って、黒字倒産する羽目になり、そのときに現れた暴力金融業者の元で働くまでをご紹介しました。

今回は、金融業者の元で〝社長秘書〟の肩書きで働き始めるところからです。

後年、名うての金融取り立て屋として名を馳せる杉山治夫ですが、高知の金融業者の元で働き始めた頃は、いくら時計店や家電量販店を経営していたとはいえ、実際の金融業に関して全くの素人でした。

早速、杉山は六法全書や金融関係の専門書を買い漁って勉強を始めました。
しかし、なかなか内容を理解することができなかったのです。

杉山は、(自分には基礎的な学力がないんや)と悟ります。

事実、中学2年の秋に、時計店に丁稚奉公に出て以来、学問とは縁がなく、商売で成功を収めてからは、目先の金儲けと芸者遊びに精をだしていたのですから、こういった書籍に触れたのも生まれて初めてのことでした。

自らの無知を知った杉山は、高知市内の県立高校夜間部に進学します。
(中学校は義務教育ですので、中途退学をした杉山も、おそらくは形だけ卒業扱いになっていたのでしょう)

24歳の杉山は早朝からから夜6時までは、秘書として金融取立業に従事して、夜7時からは、夜間高校で勉強に励みます。

夜間高校に来ている他の生徒は、実家が貧しい為に昼間の高校へ行けない16,7歳の生徒だらけでした。
そんな10代の生徒に交じって、杉山は当用漢字や一次方程式から勉強を始めます。やる気は誰にも負けませんでした。

社長秘書として働いていると、毎日、様々な法律用語が飛び交います。

債権・担保・根担保・公正証書・違法性阻却事由etc.

昼間は、実践を通しての法律の勉強。夜は、高校で国語・数学・物理などを学ぶ日々。

杉山は寝る間を惜しんで、両方の勉強に打ち込みました。

そして、

“「(金融)取り立ては、暴力的手段と法律的手段で成り立つ」”

という持論を身に付けます。

一から、いや、ゼロから金融業を実地で学び、このままこの会社で暴力金融業の道へ進むかと思われた杉山ですが、ここで意外な行動に出ます。

暴力金融業者の社長秘書として勤め始めて半年が過ぎた頃、杉山は社内でナンバー2の地位を得ていました。

しかし、杉山は社長に退職を申し出ます。
自分自身が組織のトップでなければ、とにかく頭に立っていなければ、ダメな性格だということを、ナンバー2になって痛感したのです。

退職を申し出ると、すんなりと認められました。
これは半年間、杉山が粉骨砕身仕事にあたって、会社に莫大な利益をもたらしており、「借りを返す」以上の働きをしていたからです。

再び、実業家の道へ しかし、再び転落・・・

暴力金融業者の元を去った杉山は、妻とふたりでメガネを売ることにします。

このときの杉山には資金がなかったので、商売の軍資金はすべて借金でした。
暴力金融にいた半年のあいだで、地元の商売人には、杉山が切れ者であることは知れ渡っていました。

杉山は、借りられるところから、金を借りまくります。

そして、新たに始めた『杉山眼鏡』も絶好調でした。メガネを大量に仕入れて、従業員を雇い入れ、外交販売で売りまくったのです。
メガネに加えて、時計や宝石も抱き合わせで販売しました。

商売の回転資金はまったく心配をしていませんでした。
杉山の商売がうまくいっているのを見て、商売人たちはますます多額の金を杉山に貸し続けたのです。

メガネ・貴金属の商売と並行して、杉山は金融業にも進出します。
人から借りた金を月九分の利息で、別の人間に貸し付けたのです。

月九分で貸しを複利にすれば、3年後には何と10倍に膨れ上がります。
まだ、金融関係の法整備が甘かった時代でした。

また杉山はホテル経営にも乗り出します。
高知で一番のホテルを建てようと、超豪華ラブホテルを、当時の金で1億2,000万円で新築したのです。
そのうち1億円は借金でした。

多角経営を推し進めた杉山は、金融業に精を出します。
当時の高知には、街の金貸しはそういませんでした。
杉山の独壇場だったのです。

地元の漁民・農家・サラリーマンに金を貸して、高利を取りました。
金主は、地元銀行・地主、さらには他の高利貸し。

しかし、ここで杉山は初めて警察の厄介になることになります。
「借金取り立ての際に、相手を暴力で脅し、かつ監禁せしめた」
のが理由でした。

2ヶ月間近くに渡って留置場へぶちこまれた杉山ですが、一向にへこたれませんでした。

この頃に、のちの杉山グループの中核となる『日本百貨通信販売』を設立。従業員は90名を数えるまでになりました。

プライベートでは長女に恵まれ、商売は絶好調。

しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受けていました。

会社の規模が大きくなり、杉山自身の目の届かないところで、地位を与えていた部下が融通手形を乱発して、市中の金融業者に流れた手形は何と2億円に上りました。

杉山の元には債権者が押し寄せてきます。
この騒ぎで、これまで無尽蔵に金を貸し続けてくれていた銀行・地主・金融業者は、そっぽを向いて、杉山を見捨てます。

さらに、杉山の身に不幸が舞い降ります。

部下が乱発した融通手形の一部が、大阪の暴力団関係の会社に流れていたのです。
その会社のバックにいるのは、関西で有名な暴力団でした。

杉山は金策に奔走しますが、その甲斐もなく経営する会社は倒産。
杉山自身も無一文となります。

そして、杉山は暴力団員に、今後の債務関係について話し合うという名目の元、強制的に大阪へ連れて行かれます。

1971年夏のことでした。
杉山治夫、33歳。

六甲山中に首まで埋められ・・・ そして・・・

暴力団員に大阪まで連れてこられた杉山は、大阪・ミナミの倉庫に監禁されました。
組員たちは、盛んに〝隠し金〟のありかを吐くよう、杉山を脅し続けます。

これは杉山の身に覚えのないことでした。
正真正銘の無一文だったからです。

それでも執拗に組員たちは杉山から金のありかを聞きだそうとします。

“「杉山よお、悪いことは言わん。おまえの隠し金、あらいざらい喋りよったらそれでええんや」”

“「嘗めたらあかんでえ!〝杉山は二億円握ってとんずらきめこんだ〟って話が入っとるんや!」”

そんな金はどこにもありませんでした。
杉山自身、後年、高知で自分のの活躍ぶりを快く思っていなかった者の悪意ある流言だったと綴っています。

精も根も尽き果てた杉山は、

“「もうどうにでもしてくれ、わしは、疲れた。金など本当に無い。借金をしまくって成り立ってきた日本百貨通信販売だ。不渡りを出して金の循環が途切れればぶっつぶれるのはわけもない・・・」”

と悲鳴に近い声を上げました。

すると、暴力団員たちは杉山を縛り上げて、表に停まっていたリンカーンに押し込みます。

そして、ひとりの組員がポツリと発した言葉に、杉山の心臓は凍りつきました。

「もう、金はいらん。そのかわり、おまえ、死ねや」

リンカーンは神戸・六甲山へ向かいました。

山中で車から降ろされた杉山は、さらに奥へと歩を進めるよう命令されます。

そのとき、4、5メートル後ろで若い男が必死に哀願する叫び声が聞こえてきました。

その若い男は暴力団員でした。

杉山から一銭も取り立てられなかった責任を取らされて、スコップで穴を掘らされようとしていたのです。

そして、杉山にもスコップが手渡され、杉山は絶望的な気分のなかで、穴を掘り始めました。

穴を掘り終えると、杉山と若い暴力団員はそれぞれ穴の中に身体を押し込まれます。

他の組員は、容赦なく赤土を穴に被せてきます。

若い組員は恐怖のあまり脱糞して、失神してしまいました。

さすがの杉山も、完全に絶望するかにみえました。

そんな杉山の耳に、野鳥の囀りが聞こえてきました。山鳥の囀りが、ほんの僅かでも杉山を楽観的な気分にさせてくれたのです。

その様子を目ざとく見た初老の男が、杉山に話しかけました。
初老の男は、一味の親分でした。

“「ええ根性しとるのう、われ。殺すのは惜しいがな」”

-この男はわしを救ってくれる!

杉山は本能的にそう察しました。

そして、最後の力を振り絞って、叫びました。

“「親分!わしも男や!危ない仕事でもなんでもする。高知では三ヶ月で一億稼いだ杉山だ。わしを入れてくれ、必ず、あんたんとこの組のためになるはずだ!取り立てをやらしてください。必ず回収してみせます!わし、何年かやってきたから、自信があるんですわ」”

杉山必死の願いは、親分に届きました。
こいつは使える男だと判断したのでしょう。

失神した若い暴力団員も土中から救出され、行きと変わらない人数で、六甲山を下ることになりました。

金融債権取り立て人・杉山治夫の誕生

大阪の暴力団で金融債権取り立て人となった杉山は、イヤというほど暴力の力を知ることになります。
取り立ての凄まじさは、生まれ故郷・高知の比ではありませんでした。

取り立てにいくのは、街のサラ金業者がどうしても回収できない貸し付け金です。

杉山は、入れ墨を見せつけるように胸を開けた数人の暴力団員とともに回収に向かいます。
依頼主の要望に応じて、連日昼夜を問わず、取り立てに赴かねばなりません。
回収した金は依頼主と組との折半です。

回収に失敗すると、組のお偉方に恥を欠かせることになります。杉山は必死で債権の取り立てをおこないました。

杉山の役目は、いわゆる〝止め役〟でした。
交渉の最中で、若いやくざが刃物を机上に刺したり、テーブルごとひっくり返して暴れます。
これが、相手に恐怖を与える〝暴れ役〟です。

頃合いを見計らって、杉山が組員を止めて、口八丁で説得に入ります。

これで90%は回収に成功していたようです。

残り10%の回収に必要なのは、リボルバーでした。

深夜、大阪湾の倉庫裏まで連れて行って、銃をちらつかせるのです。相手の頬に押し当てると、それまで、どんな強がりを言っていた人間も失禁して陥落したようです。

拳銃について、杉山はいい印象を持っていなかったようです。
スーツの内ポケットにリボルバーをしまい込むと、その重みで身動きが鈍くなり、また銃独特の不気味な冷たさが身体に伝わってくる感覚が、たまらなく嫌だったと述懐しています。
殺害用具を所持しているという緊張感と不安感で、さすがの杉山も外を歩くときは必ず震えたようです。

暴力団の取り立てを肌で感じていった杉山は、このままやくざに使われ続けることをよしとしませんでした。

実際に取り立てた回収金の一部をプールして、金を貯めていったのです。

そして、暴力団金融の取り立て人となって3年が過ぎる頃、杉山個人の金融会社を内緒で設立します。

なぜ、回収金の一部をプールして、内緒で金融会社を設立できたのか。

それは、一緒に取り立てに行く組員に小遣いをやって、手懐けていき、完全に杉山の味方にしてしまったからでした。

この頃の気持ちを杉山は以下のように述懐しています。

“「いつまでもやくざの下で使われることに安住しているわしではない。一度は六甲の山奥で首まで埋められた男だ。何も恐れるものはない。髪の先からつま先までどっぷりと暴力の世界に染まったわしは、四国の平凡な成り上がり実業家とはまったくの別人に変身してしまったのだ。人間一度堕ちるところまで堕ちると、その状態で居直るタイプとなんとかまっとうな方向へ歩みたいとあがくタイプがある。わしは完全に前者であり、その居直りぶりも徹底していた。子供時分、とことん弱者の立場にいたわしは、弱い者、虐げられた者を見ると無性に襲いかかりたくなる。同類嫌悪感情。遠い昔の近親憎悪感情のなせる術かもしれない」”

法を犯すか犯さないか、虚実皮膜の回収作業を連日続けた挙げ句、2度留置場へ身柄を拘置され、一度は大阪刑務所に2年半服役します。

それでも、杉山は金融取り立て人としての活動を止めませんでした。

杉山は、地元高知の夜間高校を卒業した後、中央大学法学部通信教育課程に進学して、法律を徹底的に勉強しています。
その法知識、法武装ぶりは、留置場送りとなり刑務所の囚人を経験して以降、さらに磨きがかかり、金融に関する法律では弁護士と同程度といわれるようになります。

関西の暴力団の間で、杉山治夫の名はどんどん知れ渡っていきました。

内緒で設立した、金融会社も順調に伸びました。

しかし、杉山の会社から金を借りた土建業者が、組長に密告した為、この裏会社の存在がバレてしまいます。

代償は、せっかく順調にいっている裏会社の取り上げでした。

このとき杉山は、ここにいるのも、もう潮時だと感じました。
このままやくざの世界に棲み着いても、抜けられなくなるだけだ。
そうだ、東京へ行こう。

しかし、東京へ逃げれば、必ず大阪のやくざを敵に回す。そしてつかまる。
今度こそ、地獄行き・・・

そんななか、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、組員3名とともに東京へ向かいます。

杉山の頭の中には、東京でひとりだけ、自分を助けてくれるかもしれない人物が浮かんでいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(※その3へ続きます)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

借金は本当に怖いです

はる坊です。

いきなりですが、『雪だるま式に』という言葉があります。

続いて『資産が増えていった』なら素晴らしいのですが、たいていの場合、この言葉の次にくるのは『借金が増えていった』ではないでしょうか。

〝借金はできる限りしないほうがいい〟

というのが私の考えですが、住宅を購入する折に、一括で現金払いができるのは、ほんの一部の方で、ほとんどの方は住宅ローンを組んで、マイホームを購入します。
もちろん、私もそのひとりです。

住宅ローンを組むときや借り換えはよく考えておこないましょう。



ローンと言えば、表現がすこし穏やかになりますが、要は借金です。

もし、あなたが何らかの理由で借金をしなければならないときは、まず銀行へ相談に行くと思います。

しっかりとした担保があれば、銀行も貸してくれることでしょう。

しかし、銀行が貸してくれない場合、銀行系ローン、消費者金融・事業者金融に出向くことになります。

銀行以外で借りると、当然のことながら利息は高いです。下手をすると、元金を返すどころか利息も返済できない状況に陥り、ドンドン膨らんでいきます。

あなたの人生を狂わせる原因にもなりかねません。

さて、昭和後期、消費者金融(正確にいうと金融債権取り立て業)を生業として、暴利を貪って、それを自慢。
TVにも出演して強烈な個性を見せつけた男がいます。

男の名は杉山治夫。

まずは、この映像を観ていただきましょう。

杉山治夫 大暴れ映像

ここまでの成金ぶり。悪役キャラぶり。

ふたむかし前のマンガ(というより劇画?)に出てきそうです。
口論の末タレントのミッキー安川と喧嘩をするまでに至ります。
(実は、この喧嘩はテレビ局のヤラセだったことを杉山は自著で暴露しています。)

また、ワイドショーに出演して、観客席に札束をばらまきます。
(実は、杉山はばらまいた1万円札の枚数を憶えており、番組終了後に集めて数えたところ、数枚足りなかったと、これも自著で暴露しています。)

今回は、そんな強烈なキャラクターをもった杉山治夫の生涯を追っていきます。

小学校2年で自殺未遂! あまりに悲惨すぎる幼年時代

杉山治夫は1938年(昭和13年)高知県高知市長浜で産声を上げました。

父親は船乗りで、フィリピンあたりにまで長い航海に出るため、ほとんど家にはいませんでした。

しかし、父親が家に居ないほうが平和だったのかも知れません。

稼いだお金を家に入れることはなく、酒とバクチで使い果たしてしまう人物だったからです。
おまけに愛人を作ってしまいます。

さらに悪いことに、父親がフィリピンで春をひさぐ仕事をしている女性から梅毒をうつされ、それが、治夫の母親に二次感染してしまい、母親は視力を失います。

生家は農家の脇に、ベニヤ板を何枚か立てかけただけの納屋を借りたものでした。
杉山が4歳の頃、日本は戦争中で国民の食糧は乏しくなっていきます。
杉山少年は、目の見えない母の手を引いて、付近の山林を歩きます。

松の葉を手に入れるためです。

石油も石炭も手に入らない時代。この地方では風呂を焚くときには松の葉を使っていました。

杉山は毎日、松の葉を集めます。それしかお金を得る方法がありませんでした。
しかも、いくら松の葉を集めたところでたいしたお金にはなりません。

しかし、母子が生き抜いていくのに、糧を得る手段はそれしかありませんでした。

1945年、杉山は地元の高知市立長浜小学校へ入学します。

しかし、杉山は小学校にほとんど通えませんでした。
松の葉集めと畑泥棒、そして、周囲からのいじめ。
そしてついには、いじめを通り越して、周囲の誰も相手にしてくれない状況へとエスカレート。

1940年には弟も生まれており、杉山家の家計はより悲惨なものになっていました。
学校に行く余裕はなかったのです。

学校へいく余裕はありませんでしたが、杉山は勉強が好きでした。
特に算数が得意だったと述懐しています。

鉛筆もノートもないので、地面に数式を書いて、問題を解いていったのです。

杉山治夫は小学2年の冬、自殺を図ります。

慢性的な栄養失調と厳しい冬の季節も身に付けるものは着物一枚だけ。
冬になると、身体が衰弱して内臓に異常がでていました。
たまに出席した小学校の共同トイレで用を足すと、杉山少年の尿は真っ赤に染まっていました。
何日も何日も、血尿が続くのです。

それを見たクラスメイトは、血尿をする杉山少年をからかいの対象としか見ませんでした。
それから、杉山少年は用を足すのも、休み時間に学校を抜け出し、裏山で小便をすることになります。

自殺場所に選んだのは、納屋のそばにあった汲み取り式のトイレ。
梁に荒縄をくくりつけて首を吊ろうとしたのです。

杉山はのちに自著でこの時の気持ちを述懐しています。

“見るものすべてが悪に見えた。

-なんでこんなに貧乏なんやろ。
-なんでうちだけいじめられるんやろ。
-なんで夏も冬も着物一枚なんやろ。
-なんで腹いっぱい飯喰えんのやろ。
-なんで、なんで、なんで!”

しかし、杉山少年は首吊りの方法を知りませんでした。
何度も板の間で跳ねては、首にまとわりついた荒縄を食い込ませようとしますが、うまくいきません。

そのとき、たまたま母親が用を足しにきました。
母親の顔を見た杉山少年は、ただ泣きじゃくるだけでした。

中学中退、時計屋で丁稚奉公

そんな頃、音信不通になっていた父親が杉山家に戻ってきます。
父親は米の闇ブローカーに転身しており、羽振りが良くなり、近所の土地を借りて小さな家を建てました。

母親の視力も徐々に戻ってきました。

杉山少年は、松の葉集め、そして、道や空き地に落ちている鉄くずを拾い集め、秋には山へ栗を拾いにいきました。
「やっと、うちもしあわせになれるんや」という嬉しさから、これまでの倍以上働きました。

ささやかながらも幸せな家庭が、杉山の身にも訪れる、かに見えました。

しかし、父親は酒浸りとなり、アルコール中毒で働かなくなります。

一家を支えるのは、再び杉山治夫の双肩にかかることになったのです。

1951年、杉山は高知市立長浜南海中学校へ進学します。

杉山が中学生になっても、父親のアルコール中毒は治る気配をみせませんでした。

そして、中学2年に進級すると、杉山はある情報を手に入れます。
地元の小さな時計店が丁稚奉公を探しているというのです。

「給料は出ないが、飯は喰わせてもらえる。時計の修理・分解が主な仕事で、4,5年も我慢すれば立派な時計職人になれる」

杉山少年は一晩考えた末に、中学を中退して、時計店に丁稚奉公へ行くことを決意します。
1952年の秋でした。

いざ、時計店での丁稚奉公が始まりましたが、それは過酷なものでした。
最初は、慣れない作業ですから、時計を分解してネジをどこかへ落としてしまう度に、嫌というほどのビンタの嵐を受けます。

おまけに、朝早くから夜遅くまでの一日15時間労働。

それでも、杉山少年はこの生活に嬉しささえ感じていました。
生まれて初めて、キチンとした布団で眠れ、三度三度の食事にはありつける。
杉山少年にしてみれば、実家で生活しているより、ずっといい環境だったのです。
それだけ、これまでの生活が悲惨を極めていたということになります。

また、この頃に初恋も経験しています。
相手は2,3歳年上の女子高生でした。

毎日、杉山少年が店の前でまき水をしていると、「おはよう」と声をかけてくれたのです。
いままで、杉山少年に挨拶をしてくれる女性などいませんでした。
女子高生にしてみれば、いつもの通学路でみかける丁稚奉公の少年に挨拶をしていただけに過ぎません。

杉山少年は、「おはようございます」と挨拶を返すことができませんでした。
ただ、砂利道に柄杓で水をまくことに没頭するフリをしているだけでした。

杉山は自著で、

“「あの頃のわしにはあまりにも眩しすぎたのだ。デートに誘おうにも無給の小僧には到底不可能だった。わしと彼女の逢瀬はいつも夢の中だけだった」”

と振り返っています。

のちに多くの愛人を作る杉山ですが、こんなウブな時代もあったのです。

17歳で時計店の経営者となる

1956年、杉山17歳のとき、大きなチャンスが訪れます。

丁稚奉公の時計職人として3年間真面目に働き、職人としての腕も確かなものになっていました。

そんなとき、この時計店が大きな借金を抱えていることを知ったのです。
やがて、借金取りが店に来るようになります。

杉山はこの時初めて、金貸しの存在を知りました。

この時計店は、いわゆる〝トイチ〟、十日で一割の利息を取る金融業者から金を借りていて、にっちもさっちもいかなくなっていたのです。

時計店の主人は店を売却して、金を返済する相談を家族としていました。
その額を知った杉山の頭に閃くものがありました。

-これはチャンスかもしれない、と。

3年間の修行中に顔見知りとなった家が百軒近く。なかには町工場の社長や金融業者もいました。

杉山少年は、いそいで実家にいる父親を呼びました。

杉山少年の計画を聞いた父親は、自宅を担保に入れ、杉山とふたりで金策に奔走します。
その結果、高利息の金でしたが、一週間で10万円を借りることに成功します。

杉山は、丁稚奉公をしていた時計店を買い取ります。
看板は新たに〝杉山時計店〟になりました。

時計店の店主との立場も逆転しました。
元店主は、時計職人以外で食べていく術がありません。働く場所は、杉山が買収した、かつての自分の店しかありません。

杉山時計店の経営は順調そのものでした。

といっても、なかなかセコいやり口で儲けていたのです。

まず、中古の時計を大量に仕入れて、分解・修理をしたあと、ケースを変えて新品まがいの商品として大安売りしたのです。

時計は売れに売れました。

中古時計の仕入れが足りなくなると、杉山は密輸品の時計を分解・修理して、補います。

時計店は大繁盛します。

しかし、それで満足する杉山ではありませんでした。

電化ブームに乗って事業の多角化を目指す

昭和も30年代を迎えると、〝もはや戦後ではない〟という言葉が象徴するように、人々が喰うためだけの生活から、豊かな生活を求めるようになりました。

杉山はここで電気製品を取り扱うことを考え、まずは時計店にラジオ・洗濯機・テレビ・蛍光灯を置いて様子をみます。

電化製品の売れ行きは上々でした。

そこで杉山は繁華街にあった雑貨店を買い取って、杉山時計店の移転をおこない、松下電器(現:パナソニック)・ソニー・東芝・日立の製品を扱い、大型冷蔵庫やテレビを大量に仕入れます。



ここで杉山は商才を発揮します。

販売方法を一括ではなく、月賦(分割払い)販売にしたのです。

-6万円の冷蔵庫でも、月2000円あれば買える。

この販売方法は大当たりでした。

家電量販店のハシリといえるでしょう。

-隣の家がテレビを買った。我が家にも欲しい。

-隣の家が洗濯機を買った。我が家にも欲しい。

仕入れた電話製品は、右から左に次々に売れていきました。

杉山は電化製品の販売で大もうけをします。

また、月賦販売については、別の思惑もありました。

「電化製品を購入する客は、地元の人間ばかり。ここは都会ではなく田舎だから知った者同士だ。だから、月賦未払いで逃げることはできない」

20歳にして地元でトップの金持ちに、そして23歳で結婚。しかし・・・

杉山治夫は20歳にして、〝地元長浜一の出世頭〟と評判になり、〝長浜でも一、二を争う金持ち〟と羨望の眼差しで見られる存在になりました。

杉山が一躍、金持ちの仲間入りを果たすと、自然に人が寄ってきました。これまで遊びを知らなかった杉山ですが、大金を懐にして毎晩のように芸者とバカ騒ぎを繰り広げるようになります。

杉山は金の威力の凄さを肌身で感じました。
そして、その金に惹かれて女性が寄ってくることも。

いままでの禁欲的な生活のタガが外れたように派手に遊びまくっていた杉山ですが、23歳のとき、転機が訪れます。

23歳の杉山は、家電量販店5店舗を経営する実業家として、ますます勢いを増していました。

そんな頃、杉山は自分の前を歩いていた、ひとりの女性に一目惚れをします。

もの凄い美人でした。

店の従業員にそのことを漏らすと、相手の素性を知り、何とお見合いのセッティングが整えられることになりました。

お見合いの席で、店の従業員が杉山のことをこれでもかこれでもかと褒めそやし、将来有望であることを相手の女性と両親に吹き込みます。

相手は資産家でしたが、お見合いはトントン拍子で話が進み、あっという間に話がまとまりました。

高知でおこなわれた結婚式は盛大なものになりました。

披露宴は三日三晩続き、仕事先の問屋、友人・知人関係、親類縁者の元へたらい回しにされながらも祝福を受けます。

羨望と嫉妬、そして、驚嘆と畏怖の表情を浮かべる地元民のあいだをモーニング姿で杉山は練り歩きました。

杉山は、「人生の絶頂」と自身で感じるほど、充実したときを迎えたのです。

しかし、転落はすぐそこに待ち構えていました。

電化製品量販店の店舗が増えるごとに、杉山自身の目が行き届かず、放漫経営におちいっていたのです。

従業員が勝手に手形を切り、仕入れを独断でおこなっていました。

そして、突然手形が不渡りとなって、黒字倒産に見舞われたのです。

「うちは儲かっているんだ! なのに、なぜなんだ」

半狂乱になった杉山の元に現れたのは、街金融の仮面を被った暴力団でした。

暴力団員は、杉山に短刀を突きつけながら、不渡り手形をどうしてくれる、と凄みます。

そんな状態でも杉山の頭に閃いたことがありました。

-こいつらは金に弱い。

そして、ヤクザの親分に言い放ちました。

“「親分! いや社長。お願いだ。わしをあんたとこの秘書にしてくれ。こう見えても、わしはまだ長浜じゃ顔がきく。わしの頼みなら金貸しする金持ちも知ってる。お、お願いじゃき!」”

杉山の必死の訴えは届きました。

杉山の元に現れた暴力金融業者は、金を貸し付けたり、大口融資をしてもらうためには、杉山のような販売店ルートと人脈を持った人間が必要だったのです。

結局、杉山の会社は、暴力金融会社に吸収合併される形となり、杉山は〝社長秘書〟の肩書きで、この会社に入社することになります。

杉山治夫が本格的に〝金融業〟と出合った瞬間でした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

(※その2に続きます)