高知

人物伝

伝説の高利貸し 日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その5

預金証書を武器にノンバンクから巨額の金を獲得する

はる坊です。

その4では、杉山治夫がどのように金融債権を回収していたか、そして、限りなく残酷にみえる杉山の意外な一面、そしてバブル期の不動産への進出についてご紹介しました。

続いて、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

杉山の新たな標的、それはノンバンクでした。

ノンバンクは百戦錬磨の杉山にとって、格好の狩り場となったのです。

ノンバンクは銀行に比べて、貸す相手の身元審査も緩く、融資可能と判断すればドンドン金を貸しました。

担保としては土地が一番確かですが、杉山がおこなったのは、〝銀行預金証書〟による巨額の〝パクリ〟でした。

時は、バブル経済期、金あまりで融資先を血眼で探していたノンバンクは、杉山にとって、赤子を捻るような存在でした。

もちろん、杉山は詐欺罪に問われないように、合法・非合法スレスレに身を置いて、完全金融犯罪を目論みます。

杉山がまず取り込んだのは、銀行員でした。

高額の給与を得ている彼らですが、毎日のように億単位の融資話が決まっていく中で、自らの収入に不満を持っていることに、目を付けたのです。

そんな不満を抱えている銀行員を、杉山は口八丁で持ち上げ、酒と女性の接待を繰り返して、取り込んでいきます。

すっかり杉山の忠実な僕と化した銀行員は、支店長に、杉山グループの信頼度や将来性を吹き込んで、大型の貸付先として有望であると吹き込みます。

無論、杉山もその支店に相当額の預金をおこないます。

そうすると、支店長との付き合いも始まります。
すでに、手先となっていた銀行員から、支店長の個人情報を掴んでいた杉山は、接待に加えて、封筒に入れた100万円の裏金を渡します。

最初は、淡々と杉山に接していた支店長も、度重なる接待とその都度渡される裏金によって、杉山に取り込まれていきます。

3ヶ月が過ぎると、支店長の金銭感覚も狂いはじめ、杉山の裏金を頼りにするようになりました。

そこからが、杉山の本領が発揮されるときです。
預金証書を多めに作ってくれるよう、耳元に囁くのです。

一瞬は、躊躇する支店長ですが、一度くらいはいいかという気持ちで、翌日には、預金証書を杉山に渡すことになります。
これから、杉山の餌食となることも知らずに・・・

預金証書を偽造して、それを担保にノンバンクから金を借り、それがバレれば即逮捕ですが、杉山は本物の預金証書を、現役の銀行員に用意させていたのです。

その預金証書の金額は、実際の預金証書の数百倍の額が記入されていました。

杉山は、この預金証書を担保に、ノンバンクから巨額の融資を受けます。

利子の返済はすべて手形によっておこないました、最初は500万円程度、そしてノンバンクからの信用度を深める為に、1000万円、2000万円、3000万円、5000万円と額を上げていきます。

ノンバンクの金利は銀行に比べて高額ですが、杉山はこの金利を気前よく払います。ノンバンクの幹部にも、杉山は例の接待攻勢で近付いていきます。

杉山率いる杉山グループの傘下企業は無数に存在しました。

その傘下企業に銀行の預金証書を担保にノンバンクからどんどん融資をさせていったのです。

やがて、銀行の支店長からは泣きが入ります。
これ以上、預金証書の件は、勘弁して欲しいと。

ここで杉山は本性を現して、支店長に預金証書をドンドン持ってくるように迫ります。

いつのまにか、杉山との立場が完全に逆転していたことを知った支店長は青ざめながら、あらためて自分の置かれた地位が断崖絶壁にあることを悟ります。

支店長は、杉山のいいなりになる駒に過ぎなくなっていました。

杉山グループ傘下の企業は、ほとんどが実態の経営状態にないダミー企業でした。

あるとき、そのダミー企業群から相次いで不渡り手形が乱発されます。

1989年、総額1200億円の巨額の不渡り手形を出して、ダミー企業はどんどん偽装倒産をしていきました。

杉山は、1200億円の巨額資産を得たことになります。

被害にあったノンバンクは20数社に及ぶと杉山は語っていますが、杉山自身にどこまで良心の呵責があったかどうか。

この件に関しては、羊が狼に喰われるのはあたりまえだと思っていたと感じます。

大阪の女相場師と呼ばれた料亭経営者・尾上縫との違い

バブル経済期に、大阪で女相場師と呼ばれた尾上縫という女性がいました。

1930年に奈良県で生まれていますが、生い立ちは貧しいものでした。

結婚生活にも破れ、料亭の仲居として過ごす中で、関西の有力財界人のお眼鏡に叶い、自分の料亭を構えるまでになります。

尾上は、一介の料亭の女将でしたが、博才のあった女性のようで、ギャンブルやどの銘柄の株が上がるかなど、次々に当てては、周囲を驚かせていたようです。

そしてバブル期に突入すると、大阪・北浜では、

「あの料亭の女将が上がると言った株は必ず上がる」

と噂されるようになり、証券マンたちが彼女の元へ日参するようになります。

尾上は、後ろに証券マンたちを跪かせては、祈祷をおこない、

「○○株は上がるぞよ」

「○○株は下がるぞよ」

と、まるで神がかり的な存在であるかのように見せては、預金証書を担保にノンバンクから、株式投資用の資金を借り集めて、派手に儲けていました。

バブル期は、株価がどんどん上がっていった時代です。
そんな、わけのわからないまじない師のような真似をしなくとも、株式投資で利益を得ることは簡単だったはずですが、自らの力を大きく見せることと、大勢の男たちが自分に跪く快感に、尾上縫は溺れていきました。

尾上も預金証書を担保に、ノンバンクから資金を借り入れていましたが、この預金証書は、偽造したものでした。

完全な詐欺です。

バブルが弾けた1991年8月13日、尾上縫は逮捕されました。

金融機関からの総借入額は何と2兆7700億円。
偽造した架空預金証書の総額は7400億円に上ったといわれ、うち東洋信用金庫は、この巨額詐欺事件が主因となり経営破綻しました。

結果、尾上縫は、破産手続きをおこないますが、その額は負債総額4320億円という個人としては史上最高額でした。

尾上はその後、実刑12年が確定。

仮釈放後の2014年に亡くなっています。

さすがの杉山治夫も、尾上がでっち上げた架空預金証書の総額には驚きを隠せなかったと語り、バブル経済についても、

“「所詮は、バブル。いつしかみずからもはじけて消える。はかないものだ」”

という感想を残しています。

バブル後も生き残った杉山治夫 そして全国金満家協会

バブル経済崩壊で、次々と名を馳せた人々が破滅していくなかで、杉山治夫はしぶとく生き残ります。

しかし、1990年6月25日に恐喝事件の共犯として逮捕された経験を持っています。

この件について杉山は、

“「事実無根だった」”

と語り、連日朝6時から深夜12時までに及ぶ取り調べにも抵抗します。

また、毎日、500万円から5000万円の金を差し入れさせて、弁護士費用が潤沢にあることを示した上で、7人の敏腕弁護士による弁護団を結成、杉山本人も一切食事を取らないハンガーストライキをおこなって、検事たちを慌てさせます。

独房に入れられていたとき、久々に味わうひもじさに、杉山は極貧時代を思い出し、感傷的な気持ちになったと語っています。

“「そういやあ、わしも昔は庶民やったんや・・・。いやいや、庶民よりももっと低い生活をしていたんや・・・。いつのまにか、そのときのことを忘れかけていたのかもしれんなあ」”

結果、7月16日。

杉山は不起訴処分となって釈放されます。

この件に関しては、無実でしたが、杉山はまったく〝シロ〟の人間ではありませんでした。

1985年に、杉山は550億円の脱税容疑で、国税庁に踏み込まれたことがあります。
しかし、脱税の時効を迎えていた為、結局は、脱税の罪に問われることはなかった、と語っています。

また、バブル期には〝株式会社 全国金満家協会〟という会社を立ち上げ、〝驚異の高収益事業〟として、資金を集めます。

総資産550億円 配当率 年1割以上保証、1989年・1990年は連続配当率2割をうたいました。

杉山の手掛けていたビジネスからすると、出資者から年に1割~2割の配当を支払っても、杉山の元には、余りある巨額の金が舞い込んでいたのでしょう。

自らを〝金儲けの生き神〟と称した杉山治夫。

1992年に放送を開始した『浅草ヤング洋品店』(通称『浅ヤン』のちの『ASAYAN』)にも、愛人兼本妻(結局、愛人なのか本妻なのかどっちだ?)のゆかりさんという女性とともに登場しています。

このあたりまでが、杉山治夫の人生が輝いていた時代といえると思います。

人間には、その能力を最大限に活かせる期限があると、私は考えています。
いかに恵まれた能力や才能を持っていても、時間とともに消費されていきます。
また、時代も変わっていきます。

ここらで引退宣言をして、余生を過ごせば良かったのかもしれないと感じます。

例えば、これまでの経験を語りおろして小説や漫画原作にすれば、リアリティのある面白いものができたのではないかとも思います。

しかし、持って生まれた杉山の本能は、留まることを知りませんでした。

2002年3月21日 杉山治夫逮捕。そして獄中生活へ

時代は流れ、2002年3月21日に杉山治夫は逮捕されます。

偽造した借用証書を使用して民事訴訟を起こし、相手から金銭をだまし取ろうとした訴訟詐欺の疑いでした。

杉山治夫64歳でした。

公判で、杉山は暴れに暴れます。

被告人席に座らず、傍聴席に向かって、「おまえのせいだ」と叫び、果てには「俺は天皇の孫だ」とまで、法廷にその叫び声を響かせます。
公判は休廷を挟みながらおこなわれました。

杉山は、長期間の実刑判決が下ることを、その法知識から確信していたでしょう。

少しでも、刑を軽くする為、あわよくば逃れる為、精神異常、精神耗弱状態にあることを装いたかったのかもしれません。

しかし、それは無駄なあがきでした。

2003年4月17日、杉山治夫に対して東京地方裁判所は懲役7年6ヶ月の実刑判決を言い渡しました。
求刑は8年でしたが、ほぼ求刑どおりの判決が出たことになります。

収監された杉山は、2009年に癌で死亡します。
獄中死でした。

その死は、公にされることはありませんでした。

理由として、杉山は多くの愛人を抱えており、そのあいだには子どもも儲けていたようです。
いわゆる相続問題を表に出したくなかったことが考えられます。

そして、現在・・・

杉山治夫亡き後、杉山グループの企業はこの世からなくなっています。

日本百貨通信販売も全国金満家協会も登記簿は既に閉鎖されています。

杉山が稼ぎに稼いだ巨額の資産も、いまでは散逸しているのではないでしょうか。

獄窓で杉山が何を思っていたか。

癌による死の寸前、杉山の脳裏によぎったものはなにか。

それを知りたい気持ちはありますが、知る術はないでしょう。

極貧の生い立ちから商売人として成り上がるも2度の倒産を経験して、金融業にばく進していった人生。

極悪人と自他ともに認め、金と刺激を求め続けた71年間の生涯でした。

杉山治夫の名言

最後に、杉山治夫が残した言葉から、名言と呼べるものを選んでみました。

案外、まともというか、金科玉条にしてもいいくらいのことを言っています。

「会社が潰れても、別会社を作ればいくらでもチャンスは転がっている。わしもここまで来るのにたくさんの会社を潰してきた」

「杉山流金銭哲学を伝授しよう。傘一本の理論。こう呼んでいるのがわしの根本的金銭哲学だ。雨の日に傘を持ち合わせていない人は、傘を買おうとして平気で財布を開いてしまう。これでは金を残せるわけがない。雨の日には傘は落ちてはいない。ならば晴れの日はどうだ。手持ち無沙汰になったり、いらなくなった傘が無造作にそこらじゅうに捨ててあるではないか。晴れの日に傘を拾い、雨の日に使う、これが傘一本の理論だ」

「ルンペンを見習うことだ。連中のほうがあなたよりも金を残しているかもしれない。衣食住すべてただの生活をしているのだ。ちょっとでも働けば金が残る計算になる。ルンペンになった気になればなんでもできる」

「金はないところには集まらない。金はあるところに集まるものだ。さみしがり屋の金どものために、まずは彼らの友だちを作ってやることだ。それがいつのまにか増えて、次へとステップを踏ませてくれる」

「金が金を呼ぶ。たまったらわしのようにマネーゲームと思って、何かをするもよし、負けても命をとられることはめったにない」

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
特に、その1から読み続けてくださった方には、厚く御礼申し上げます。

杉山治夫の生い立ちから知りたい方は、こちらからお願いいたします

⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

その2・その3・その4の杉山治夫の記事を読んでくださる方は、こちらからお願いいたします。

その2

⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

その3

⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

その4

⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!』

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!』
(※杉山治夫の自著のなかでは、この本が一番のおすすめです)

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝』

本橋信宏『悪人志願』

本橋信宏『心を開かせる技術』

人物伝

伝説の高利貸し 日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身とは

はる坊です。

その3では、杉山治夫が唯一尊敬していた人物・小林大二郎氏に諭され、組織を抜けることを決意し、東京に移り住み、川崎で一年間のヒモ生活を送りながら100万円を元手に金融業を始め、翌年に東京・新宿に拠点を移し、金融債権取り立て屋として名を馳せて、日本百貨通信販売を核とした杉山グループの形成までをご紹介しました。

それでは、引き続き杉山治夫の生涯をみていきましょう。

1983年に貸金業規制法(サラ金規制法)が制定される以前は、貸金の取り立てはまさにやりたい放題だったと杉山が述懐しています。

では、〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身をみていきましょう。
これは、サラ金業者に広く伝わり、現在では当たり前、いや、それ以上のことをする業者もいるかもしれません。

ただし、絶対にマネをしたりしないでください。

もし、あなたがマネをして不利益を被ることがあっても、私は一切責任を持ちません。

岡田法律事務所

杉山の元に金を借りに来る人間は、そもそも他の消費者金融から相手にされなくなった人間でした。

そんな彼らに、杉山は金を貸します。それは、どんな相手からでも取り立てる確信があるからです。

貸金の返済期限が過ぎると、日本百貨通信販売 管理本部に関係書類が上がってきます。

ここには、借主の住所・氏名・家族構成・勤務先などが明記されています。

まずは、女性社員が電話連絡を入れて、返済を求めます。

あくまでもやんわりとした口調で、返済意志の有無を確認します。ここで、相手に返済意志があれば、少しの猶予を与えます。

電話が掛かってきた時点で、杉山がどんな人物か、杉山グループがどんな存在かを相手が知っていれば、借主は慌てて返済をしてきたといいます。

しかし、借金に慣れてのらりくらりと返済を渋る態度を見せたり、行方をくらませたりする客も出てきます。

そのときには、〝杉山式幸福の手紙〟なるものが借主に送られます。

杉山治夫 催告状

一番はじめに送る、〝催告状〟と大書きされたハガキは、縁も印字もすべて真っ赤なインクで印刷されています。

こんなハガキを受け取ったら、一体、何事が起こったのかと思います。
このハガキの効果は抜群で、多くの借主は不気味さを覚えて返済をしてきたようですが、それでも、居直って返済をしてこない人間もいます。

そんな人間に対して、〝杉山式幸福の手紙〟はどんどんエスカレートしていきます。

何だか文面がとんでもなくとんちんかんでですが、これはわざとだと杉山が語っています。

読む者に不安感を抱かせるのが一番の目的だと。

このあたりについては、感心はしませんが、長年の経験からか、杉山が人間心理を読むのに長けていたと感じます。

行方をくらませた債務者へ仕掛けるワナ

杉山の取り立てに耐えかねて、行方をくらませる債務者もいました。

ところが、杉山はそんな債務者からも、取り立てを成功させています。

行方をくらませたものの、自分の家がどうなっているかが気になり、闇に紛れて、家の様子を探りにくるのが、人間の心理だと杉山は見抜いていました。

そこで、郵便ポストにこんな返信用ハガキを入れておくのです。

送り主は『日本運命学協会 抽出者現金送付係』

裏面には、債務者に希望を与える文面が書かれていました。

「よかったですね。おめでとうございます」

続けて、あなたに1,620円が当たったという報せが書かれていました。

更に、ダブルプレゼントとして、最高賞金100万円が当たるチャンスの申込書も添えられていました。

債務者は、『日本運命学協会』など知りません。
普通なら気味悪がって、破り捨ててしまうところです。

しかし、切羽詰まった債務者は、ワラにもすがる気持ちで、返信用ハガキに、現住所を書き込んで投函してしまうのです。

『日本運命学協会』の所在地は、東京都豊島区東池袋。

これも、杉山が自らの拠点である新宿区内だと、債務者に勘づかれる恐れがあると、まったく関係なさそうな東池袋に所在地をもってきたのでしょう。

やがて、日本運命学協会を名乗る人間から、債務者に電話連絡が行き、家にいることを確認してから、債務者の元へ向かい、当選金1,620円を手渡しで渡します。

「おめでとうございます。本当によかったですね。これもあなたが常日頃真面目に生きてきたからですよ

債務者(当選者)はありがたそうに賞金を受け取ります。

ところが、現金を渡してくれた柔和な顔をした男の後ろに、獰猛な顔つきの男たちがいることを知って愕然となります。

当選金1,620円をキチンと渡した上で、借金を返済するように強く迫ります。

子どもだましのようなやり口ですが、金に困り、切羽詰まった人間が相手なので、この方法は面白いほど決まったようです。

しかし、1,620円を受け取り安堵している債務者が、そのすぐ後ろに杉山グループの取り立て人が控えていたことを知るやいなや、まさに天国から地獄で、発狂してしまった例もあるようです。

名村法律事務所

杉山グループの本拠地は、なぜ新宿二丁目にあったのか?

さて、杉山治夫とそのグループの拠点は、新宿二丁目にありました。
新宿二丁目といいますと、ゲイバー・ゲイスポットが乱立している場所です。

なぜ、杉山はこの場所に拠点を構えていたかというと、その理由を杉山は、

“「わしの俗悪趣味にぴったりだったから」”

と語っていますが、この言葉を額面通りに受け取るのは早いと思います。

前述したようにゲイバー・ゲイスポットとして知られる新宿二丁目に拠点を構えることで、不気味さを演出する部分もあったとは思います。

しかし同時に、現在のようにLGBTや同性愛に理解がなかった時代。
そんななかで、たくましく生きている彼らに、世間から忌み嫌われていた杉山は、どこかでシンパシーを覚えていたのかも知れないと感じます。

杉山治夫は、極貧の生い立ちがトラウマになって、弱者に対して必要以上に残酷な取り立てをおこないました。

しかし、必死で頑張ろうとする者には、

“「まだ若いんやから、死ぬ気でがんばればなんでもできるやないか」”

と励ましの言葉を掛けたり、就職の世話をして、返済の猶予をする一面もあったようです。

-「死んだ気でやればなんでもできるんや」

杉山の取り立て行為はとても許されるものではありませんが、人間は奥深いものです。
鬼畜としかいいようのない言動をみせる人間にも、こんな一面は隠されていました。

しかし、拠点のビル内には、取り立て用のファイルが棚にギッシリと収められていました。

1万件以上の債務者資料が整頓されてファイルされていたのです。

転居者不明・差し押さえ・当て所知らず・執行不要・内容証明・異議申し立て・訴訟和解・興信所調査中・戸籍謄本申請・会社謄本申請・・・

そして、死亡・自殺・一家心中・殺人・逃亡・夜逃げという物騒な項目も。

杉山は取り立て成功率98%と豪語していました。

残り2%は、自殺・一家心中を選んだ方々です。

杉山がどれほど過酷な取り立てをしていたかがわかるエピソードです。

マスコミは、杉山の取り立ての残酷さを報じて、〝極悪人〟の烙印を押しました。

しかし、皮肉なことに、マスコミが杉山を取り上げれば取り上げるほど、〝極悪人〟のイメージが高まりに、杉山の取り立てがはかどったのも事実であったようです。

杉山がマスコミで話題になったときに、取材に来た著名人を紹介すると、フジテレビの須田哲夫アナウンサー・タレントのミッキー安川・漫画原作者の梶原一騎・弁護士の木村晋介・政治家の渡辺美智雄と多士済々です。

いずれも、当時大きな影響力を持っていた人物です。現代的に言えば〝インフルエンサー〟でもあった彼らが、杉山を取り上げるほど、杉山のビジネスは順調に進み、更なるビジネスに邁進していきました。

日本初の腎臓移植ビジネスを手掛ける

杉山治夫は、更なる商売に着手します。

『未来への希望 じん移植 全国腎臓器移植協力会』という不気味な団体を立ち上げ、腎臓移植ビジネスに手を染めるのです。

これには、表に出てこないニーズがあったからでしょう。
杉山の顧客は、都内の上場企業元社長や大地主、また地方の有力者など、

「金で健康が買えるなら、いくらでも出す」

という人物たちでした。

杉山が狙うのは、借金返済にやってくるものの。もう首が回らなくなった人間たちです。
彼らは、自分から臓器提供を杉山に持ちかけるのです。
杉山は本人に意思確認を取り、健康状態をチェックすると、あらかじめ金を掴ませていた医師の元で腎臓移植がおこなわれたようです。

杉山に密着取材していた作家・本橋信宏氏は、その現場に立ち会ったことを、のちに綴っています。

適合性の問題で、どうしても臓器提供者が見つからない場合は、消費者金融で多額の借金を抱えた人間に恩を売り、豪華な食事や酒、そして女をあてがって、説得します。

また、腎臓だけではなく、睾丸まで抜き取って売りつけることもしていたようです。

マスコミに散々叩かれても、杉山はどこ吹く風。

自らを〝現代に蘇った『ヴェニスの商人』のシャイロック〟と呼び、

“「借金返せにゃ腎臓を売れ」”

-人間の欲望を巧みに金に換えていくのが、自分の錬金術。

-法の裏道は、どこでも抜けられる、それがわしの金銭哲学。

と嘯く始末でした。

そんな杉山が50歳を迎える頃、日本はバブル経済に突入します。

バブル期には地上げに進出

バブル経済が始めると、杉山は土地に着目します。

バブル期といえば、同時に株式投資も思い当たりますが、杉山には、株は性に合わなかったようで、あるとき、持株のすべてを売却した直後に、ブラックマンデーが世界の株式市場を襲ったのを見て、やはり自分には土地のほうが合っていると確信したようです。

時は1987年後半。
東京の地価はすでに値が上がりすぎていると判断した杉山は、まだ、値上がりが波及していなかった地方に目を付けます。

第一に、杉山が目を向けたのは、高知県でした。

生まれ故郷の高知で地上げを開始したのです。

杉山自身、イギリス製高級スーツに身を包み、左腕には黄金のローレックスをはめ、足元はイタリア製高級革靴というスタイルで高知に乗り込みます。

東京では、地上げが横行していましたが、高知では、地上げの波は押し寄せていませんでした。
杉山と杉山グループの独壇場となった高知での地上げは順調に進み、やがては、全国に波及していきます。

地上げした土地は高額で売却、あるいは担保にして更なる地上げ資金としていきました。

普通なら、ここでバブルに踊り狂って、破滅の道へ進むところですが、杉山の嗅覚は恐ろしいものでした。

家庭の主婦までが、株式投資に熱中し、一介のサラリーマンが高額の住宅ローンを組んで投資用マンションを争って購入する姿をみて、バブル経済の先行きに危機感を覚えて、バブルが弾ける前に、地上げからスッパリ手を引いていたのです。

何という悪運の強さ。

何という強運の持ち主。

杉山治夫は、まだまだ悪の快進撃を続けます。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(その5に続きます。後日更新予定です)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!』

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!』

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝』

本橋信宏『悪人志願』

本橋信宏『心を開かせる技術』

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【2019年版】高知県内 私立・国公立中学校 偏差値ランキング 2019年

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
“「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」”
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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