ある昭和の〝のんびりサラリーマン〟のお話
我が道をゆく、昭和の〝のんびリーマン〟
はる坊です。
今回は、ある昭和のサラリーマンのお話をしたいと思います。
昭和のサラリーマンというと、よくいえば〝企業戦士〟。
悪く言えば〝モーレツ社員〟とか〝午前様〟とか。
とにかく、残業・休日出勤を厭わず(それどころか進んでやる)仕事が終われば、酒を飲み、たまの休みには疲れ果て、〝家族サービス〟どころではなく、自宅で一日中寝ている。
某総合電機メーカーで部長を務められていた方によると、
「仕事は早くて夜9時、遅くて0時までしていたな。もちろん、仕事が終わってそのまま家に帰るんじゃないよ。毎日、飲みに行くんだから。昔の人はよくお酒を飲んだよね」
とのこと。
〝働き方改革〟が声高に叫ばれる現在の感覚からすると、まったくもってとんでもない存在に映ります。
ですが、こんなサラリーマンも存在しました。
誰あろう、私の父親です。
昭和の〝のんびリーマン〟の人生
私の父親は、新卒で昭和30年代に某メーカーに入社しました。
なぜ、その会社に入ったかというと、特に理由はなかったようで、
「受けたら通ったから」
というのが、実際のところだったようです。
父の周囲に話を聞くと、
「試験日を間違えて、帰ってきた」
など、あまり就職に積極的ではなかった様子も窺えます。
ところが、3年も経たずにこの会社を辞めてしまいます。
「労働組合が幅を利かせていて、争議まで起こしていて、それが嫌になった」
そんな父は帰郷後、恩師に身の振り方を相談します。
紹介されたのは、なぜか薬局。
この薬局は、薬品製造業も手掛けており、のちにドラッグストアチェーンを展開することになります。
といっても、薬学部出身ではない父は本社勤めで、
「社長からあれをやれ、これをやれ」
と走りまわっていたそうです。
この薬局も性に合わずに退職。
その次に、金属加工メーカーに勤めますが、これもあまりよくわからない理由であっさりと退職。
さすがに、
「簡単に入って辞めてが癖になっている」
と親兄弟に怒られて、職探しの末、東証1部上場企業の関連会社に職を得ます。
時代は1970年代に入っていました。
この会社ではさすがに長続きして、定年退職まで勤め上げました。
これまで、数年間で職を変えているので、働くのが苦手で飽きっぽいのかと言われると、そうも言えないところがありまして、
「残業代が出ていた頃は、用がなくても残業していた。遅くまで会社に残っていると、やる気のある人間だと思われて係長になった。だけど、係長になったら管理職扱いで残業代が出なくなったから、会社にいても仕方ないから、定時になるとサッサと帰っていた」
「住宅ローン返済と小遣い稼ぎに、夜はレントゲンフィルムの配送をアルバイトでしていた。結構、いいお金になった」
要するに、サービス残業が嫌で嫌で、お金をくれないのなら、定時退社でアルバイトしよう、という人だったのです。
給料はそれほどでもなく、年収に関しては同世代にコンプレックスを持っていたようですが、私が成長していくに連れて、父も年功序列で係長から課長になり、最終的には次長になりました。
部長以上は、親会社からの出向・転籍で占められていた為、プロパー社員としては最高の役職に就けたわけで、管理部門では現場トップの役割でした。
週に2回は、直行で銀行に寄るため、出勤は遅く、週に一度は午後4時には帰宅していました。
忙しいのは決算のシーズンのみ。
何だかんだで、親会社がしっかりしていたので、のんびりとした社風も父には合っていたようです。
たしかに、我が家は裕福でもなく、贅沢な思い出は何ひとつもありません。
(家族での外食は1度だけ。家族旅行もしたことはありません。いつも旅行計画は時刻表のなかでした)
それでも、時間を見つけては、私を手近な場所に連れて行ってくれたのは、いまでも良い思い出です。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
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