はる坊の雑記

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ニンテンドースイッチのゲームソフトを買うなら、DL版よりもパッケージ版をおすすめします。

はる坊です。
ニンテンドースイッチのゲームソフトを買うとき、DL版よりもパッケージ版のどちらを購入したらお得か?ということをご説明します。

DL版よりもパッケージ版を購入すべきです

いきなり結論から書きましたが、私はパッケージ版を購入することを強くおすすめします。

ひとつめの理由⇒ゲームソフトの価格が安い

パッケージ版の方がゲームソフトの価格が安いです。
DL版の方が「モノ」がない分安くなりそうですが、なぜかパッケージ版の方が安いです。

「任天堂⇒エンドユーザー」とした方が安い価格で販売できそうなのに、「任天堂⇒アマゾン⇒エンドユーザー」の方が、安い価格になるのは本当にミステリーですね。

過去作品は中古版でさらに安く買うことができます

パッケージ版は「モノ」があるので、ゲームを遊び終わった人はブックオフやゲオなどの中古ゲーム屋に売ることができます。

私も中古のゲームをよく買うのですが、かなり安価な値段でゲームを購入することができます。

特に、過去の作品でかつマイナーなタイトルは大幅値下げをしている可能性が高いです。

また、中古のゲームソフトに対して嫌悪感を抱く人がいるかもしれませんが、正常に動作しないなどと言った不具合は基本的に発生しないので安心してください。
また、カートリッジや箱の状態は購入前にチェックが可能な店がほとんどなので、傷などが気に入らない場合は別の商品に変更することも可能です。

パッケージ版は遊び終えたあとに売ることができます

中古版があるということは、この記事を読んでいるあなたもゲームソフトをお店に売ることができます。

遊び終わったゲームソフトを売ると、かなりのキャッシュバックになります。

私は以前、ニンテンドースイッチでスマブラの最新作が発売されたタイミングで、wiiu本体と前作のスマブラをブックオフに売ってきました。
前作のスマブラは5年前のゲームソフトになるのですが、2,200円ほどで買い取ってもらうことができました。

7,000円ぐらいで購入したゲームソフトでしたが、ゲームソフトを売ることで実質5,000円弱で遊べていたことになりますね。

本体保存メモリーの容量を圧迫しません!

ニンテンドースイッチに標準で搭載されている本体保存メモリーの容量は32GBしかありません。

例えば「大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL」をDL版で購入すると、約15GBが必要になるのですぐに容量が圧迫されてしまいます。

ですので、追加でSDカードを購入する必要性がかなりの確率で発生します。

SDカードは128GBのもので3,000円程度で購入することができます。

この価格が安いか高いかは人によって微妙なラインかもしれませんが、ゲームソフト一本の価格分ぐらいであることを考えると少々お高めの買い物だと感じるのではないでしょうか。


友達とゲームの貸し借りができます

DL版だと本体メモリーやSDカードにゲームソフトのデータが入るので、友達との貸し借りをすることは難しくなってきます。

私は既にいい大人なので友達とゲームの貸し借りをすることは滅多にありませんが、小・中学生などの子ども用にニンテンドースイッチを購入したのであれば、貸し借りが発生するケースがあるかもしれません。

また、貸し借りをしないとしても、「友達の家に行って友達のニンテンドースイッチで自分が持っているスマブラをみんなでプレイしたい」と言った場合に、DL版の場合だと自分のニンテンドースイッチ本体を持って行く必要があります。

本体も持ち運び出来るとはいえ少し面倒になりそうです。

DL版にもメリットはあります

○発売日の0時から遊べる

これがDL版の最大のメリットだと私は思います。
パッケージ版だと、お店が開く10時頃に入手できるのが最速になりますが、DL版だと発売日の0時からプレイがすることができます。
スプラトゥーン2は前日の22時頃から遊ぶことができたという話もありますし、「発売から最速で遊びたい!」と言う人には、DL版の購入が吉となります。

○ゲームカードを入れ替える必要がない

DL版は本体メモリーやSDカードにゲームソフトのデータが入っているので、ゲームソフトを入れ替える必要がなくなります。
常に複数のゲームカードをセットしているようなイメージですね。
なのでホームボタンからゲームを切り替えるだけで遊ぶゲームを簡単にチェンジすることができます。

色んなゲームを遊んだり、複数のゲームソフトをすぐに切り替えたい人には、DL版が向いているかもしれませんね。

ですが、もちろんSDカードにも容量の限界はあります。
128GBと大容量を追加してもゲームソフトを何十本と入れた場合はさらに追加でSDカードを購入する必要があります。

SDカード一つだけではDL版を無限に追加できないということは意識の片隅にとどめておくとよいでしょう。

○ロード時間が短い

パッケージ版よりもDL版の方がロード時間が短くなります。
『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のロード時間において、本体メモリー、SDカード、パッケージ版それぞれの処理結果は以下のようになっています。

パッケージ版:35秒
SDカード:34秒
本体メモリー:30秒

最大で5秒の差がありますが、こちらの5秒の差を出すためには32GBしかない本体メモリーにゲームの情報をダウンロードする必要があります。

SDカードにDL版を入れた場合だと1秒程度しか差がないのでほとんど無視できる誤差の範囲かと思います。

上のデータの検証結果を確認したい場合は、こちらの動画の2分あたりから見ていただければと思います。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=vbItTEmozxw

まとめです

DL版よりもパッケージ版を購入するのがおすすめ!

なぜなら

○価格が安い

○中古だともっと安い

○買取に出せばさらにキャッシュバック

○友達との貸し借りもOK

以上です。

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寒い朝に起きやすくする2つの方法

寒い朝に起きやすくする2つ方法

はる坊です。

相変わらず寒いですね。

人に会う度に「寒いですね」とどちらかが言い出して会話が始まるのが、符丁みたいになってますよね。

「いやあ、今朝も寒いですねえ」

「ホントにね」

「去年よりはマシのような気がするんですけどね」

「いや、冬の朝は寒いですよ」

「ははは」

みたいな。

そんな季節ですが、一番困るのが朝。

何と言っても、起きづらい。起きにくい。起きられない。

だって布団が恋しいんだもん。

ところが、仕事があるから起きなきゃしょうがない。

そんななかで、僕がやっている方法を2つご紹介します。

薄手のダウンジャケットを着たまま寝ています

ひとつめは、薄手のダウンジャケットを着たまま寝る、です。

最初はすこし慣れないかもしれないけれど、すぐになれますし、

朝起きるのに、かなり助かっています。

騙されたと思って試してみて。



これには、もし災害が起こったときに、着の身着のまま逃げ出さなくてもいいっていうメリットも。

できれば、起こって欲しくないですけどね・・・

こればかりは確実な予測ができないからどうしようもない。

枕元には魔法瓶に入った温かい飲物を

ふたつめは、枕元に魔法瓶を置いておく。

前夜の内に自分の好きな温かい飲物を作って入れておく。

僕の場合はコーヒーですね。

朝起きて、寝ながらでもこれを飲んだら、心にスイッチが入って起きやすくなります。

魔法瓶は高い保温効果があるものを選んでくださいね。

では、寒い朝に起きやすくする方法をお送りしました。

それでも、起きられそうになかったら・・・

このサービスでも使ってみてください。

モーニングコールセンター

DJ KOO、橘ゆりかなど有名人の声で起こしてくれます。
245連続起床で「皆勤賞」を進呈してくれます。

それでも起きなかったら上司・母親などへ連絡してくれますから、安心です。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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何だか色々早すぎた企業・昌和製作所と日本計算器(ビジコン)

早すぎた企業というものが存在する

はる坊です。

今回は、知る人ぞ知る、時代を、あるいは先を走りすぎた企業をご紹介します。

昌和製作所と日本計算器(ビジコン)

あとになってみれば、「あれを言うのは早すぎた」とか「あれをするには早すぎた」ということがあります。

すべてはあとの祭りなのですが、企業のなかでもそのような会社が存在します。

昌和製作所と日本計算器(ビジコン)もそのなかのひとつです。

この2社は小島和三郎・小島義雄親子を中心に運営されていきましたが、昌和製作所では1950年代後半に昌和ライトクルーザー・昌和クルーザーという名オートバイを開発販売して大ヒットさせたかと思うと、1960年に軽乗用車『昌和ミニカ』を開発。
東京モーターショーに出展。

しかし、技術開発に傾きすぎたため資金ショートを起こしてヤマハに買収されるという運命を辿っています。

また、日本計算器も並行して営んでいた企業ですが、機械式計算機(手回し計算器)の国内シェアを40%獲得するまでになり、タイガー計算器と双璧を成し、米インテル社との共同開発で世界初のマイクロプロセッサ「Intel4004」を開発するも、他製品を含めて販売を対米輸出に大きく頼っていたため、1973年の石油ショック時に起こった円安によって大幅な為替差損が発生する形になり、製品を増産するほど赤字が増すという状況に陥り、1974年に和議を申請して、第一線から姿を消します。

あとから振り返ると、やり方によっては大企業に発展したかもしれないと思う一方、このときはこの判断しかなかったのだなと思うこともあり、30年、50年、100年と長きにわたり続いている企業は本当にすごいとあらためて感じる次第です。

昌和製作所と日本計算器(ビジコン)の成立から倒産(和議)までをまとめてみました

結局のところ昌和製作所と日本計算器のすごさを知っていただくには、時系列が一番良いと考え、整理しました。
どうぞ、ご覧下さい。

1918年
4月22日 『堀井謄写堂』(ガリ版を発明した会社)に勤務していた小島和三郎(?~1954)が、『堀井謄写堂』の2代目堀井耕造(1875~1962)の妻の妹を娶ったことにより独立。中国・満州国奉天にて、昌和洋行(昌和商店とは別法人)を設立し、『堀井謄写堂』の謄写版事業を皮切りに、手動タイプライター・自動タイプライター・手回し計算器の販売をおこなう。

1939年
(株)目黒製作所が製造したメグロ号が好評。警視庁の白バイにも選ばれる。
当時、大阪にいた小島和三郎より、「中国大陸にバイクを輸出して売り込みたいが、御社で造れないだろうか?」と依頼があり、目黒製作所が二気筒100 CCの二輪車を製造することが決定。

3月、静岡県沼津市に昌和洋行と目黒製作所の合弁会社として昌和製作所が設立される。
(登記上は、1944年11月16日が昌和製作所の設立日になっている)
社長には小島和三郎が就任。他役員には、目黒製作所の社長 村田延治・同社専務 鈴木高治が就任。
沼津工場長には鈴木の甥が就く。沼津工場では自動二輪車の製造が始まったが、まもなく横須賀海軍工廠の指定工場とされ、航空機の製造に変更となる。

1940年
平田勝治郎が計算器に関する特許を取得。翌年にも4件を取得。

1941年
小島和三郎が平田勝治郎の特許を買い取るとともに、計算器開発の資金を援助。

1942年
小島和三郎が出資をおこない、平田勝治郎・吉田喜一(平田の実兄)・錦織米一が中心となり、大阪市西淀川区にて富士星計算器製作所 (株)を設立。

1943年
富士星計算器製作所が機械式手動計算器の開発に成功する。

1944年
戦況の悪化により、富士星計算器が峰山(現・京丹後市)へ疎開移転。
同年に、疎開先である峰山の鉄工所が戦時企業合同して、(有)峰山鉄工所が設立される。

1945年
4月に富士星計算器製作所と峰山鉄工所が合併。社名は富士精工(株)と変更され社長には小島和三郎が就任。計算器事業と鉄鋼事業の二本柱で事業を行う。

1946年
静岡県沼津市は、海軍工廠の指定工場があったものの空襲被害が少なかった。物資不足ではあったが、早期に工業製品製造に着手できる環境が整った。
5月 昌和製作所の沼津工場にてエンジン単体の開発販売を再開。

1948年
経営難により富士精工(株)は富士精工・日進製作所・峰山鉄工の三社に分離。
この折に、創業メンバーのうち、吉田喜一が富士精工に残留し、錦織米一が日進製作所社長・平田勝治郎が峰山鉄工社長となり独立。
沼津市の昌和製作所がオートバイ昌和号を製造販売するに至る。

1949年
富士星計算器(株)から日本計算器(株)に商号変更。

1950年
小島和三郎の息子・小島義雄(1924年~2013年)が京都大学を卒業。日本計算器株式会社に入社。日本計算器の沼津出張所は昌和製作所と同じ場所にあった。

1953年
この当時、昌和製作所の事業所は以下の通り。
本社:静岡県沼津市松長178
東京:東京都千代田区神田多町1―9
(現在の東京都千代田区内神田町23番付近)
大阪:大阪府大阪市西区江戸堀北通3-20
(現在の大阪市西区土佐堀2丁目3番付近)

1954年
昌和クルーザー250 CCを発売。大ヒットとなる。
昌和製作所・日本計算器の創業者・小島和三郎逝去。
昌和製作所の社長に小島義雄が就任。
日本計算器の社長には、黄地金右衛門(滋賀県出身)が就任。
他役員には、黄地幸造・高田文雄が就任。

1955年
日本計算器の大阪進出を決定。

1956年
日本計算器の大阪進出決定により、大阪府茨木市三島町に土地を取得。

1957年
小島一族が経営する(株)昌和商店から計算器の販売部門を独立させ、日本計算器販売(株)を設立する。こちらの沼津事業所も昌和製作所と同じ敷地内にあった。
昌和ライトクルーザー 125 CC発売
昌和クルーザーSC57型 250 CC発売。

1959年
昌和製作所が、バイクメーカー・日本高速機関(株)(ブランド名はホスク〔HOSK〕を買収。同社の技術を利用して軽乗用車『昌和ミニカ』を開発。東京モーターショーに出展。
この日本高速機関のスタッフは、のちにトヨタ 2000GTの開発に携わる。

1960年
昌和製作所は若い従業員が多く、技術開発を最重要視していたが、販売面が振るわず、開発費用が重くのしかかり資金繰りが悪化。負債を肩代わりする形で、1955年よりバイクの製造販売を手掛けていたヤマハ発動機の傘下に入る。小島義雄は社長を退任。小島一族が経営から退く。

昌和製作所は法人として継続となり、同社沼津工場はヤマハ発動機 沼津工場として引き継がれる。その後、昌和製作所はヤマハ製の発電機やゴルフカートを製造する。

1961年
日本計算器販売(株)の社長に小島義雄が就任。
茨木市の土地(1.3ヘクタール)に「茨木寮」が完成。同時に研究所を併設。

1964年
日本計算器(株)の社長に小島義雄が就任。
本社(大阪)・峰山工場(旧製造部)・茨木研究所(旧・技術部)・大阪事務所・東京事務所に組織変更。
日本計算器の国内シェアが40%に達し、タイガー計算器と双璧となる。

1965年
茨木工場が完成。同社初となる卓上式電子計算機「UNICOM160」を製造。
茨木研究所を「茨木工場」と「研究部」に改組。名称を、日本計算器(株)茨木製作所に変更。

1966年
茨木製作所にて開発・生産をおこなった「ビジコン161」を発売。大ヒット製品となる。
この年、茨木工場において12日間の部分ストライキが断行されている。

1967年
4月 のちに世界初のマイクロプロセッサ「Intel4004」を開発する嶋正利が東北大学理学部を卒業して入社。
(71年に米インテル社との共同開発で4004を開発後、インテル社に入社)
「ビジコン161」増産により、茨木製作所に第2茨木工場が増築される。

1968年
NCR社(米国)と契約が成立。同社のブランドにより「ビジコン」シリーズが発売される。
米国現地法人ビジコンUSA設立(同社の出資比率は日本計算器販売(株)70%・日商岩井(株)30%)
フロイド・ランソン・ヒジョス社(メキシコ)と現地法人を設立。
日本計算器(株)・日本計算器販売(株)・三菱電機(株)の共同出資により電子技研工業(株)を設立。

1969年
この年、日本計算器の機械式計算器の生産台数が頂点を迎える。
1968年~69年には、大きな役員変更があった。1968年に黄地幸造が逝去。69年には高田文雄取締役が辞任。
堀場雅夫(堀場製作所創業者・当時社長)・市原孝一(1947年早稲田大理工学部卒。のちにビジコン常務)が取締役に就任。

1970年
日本計算器販売(株)をビジコン(株)に商号変更。

1971年
日本計算器(株)が世界最小電卓「ビジコンハンディ 120A」を発売。同製品には米モステック社と共同開発した1チップLSIを搭載。茨木製作所で開発・生産がおこなわれる。
ビジコン(株)がプリンター機能を搭載した「ビジコン141-PF」を発表。同製品には、
米インテル社と共同開発した世界初のマイクロプロセッサ「4004」が搭載されていた。

1972年
カシオ計算機(株)が破格の小型電卓を発表し、電卓業界は泥沼のダンピング競争に突入。

1973年
第4次中東戦争による第1次オイルショックが起きる。

1974年
2月28日 ビジコン(株)(本社:東京都 資本金1億5000万円 社長:小島義雄)、日本計算器(株)(本社:大阪府茨木市三島2-18 資本金:4940万円 社長:小島義雄)が大阪地裁に会社更生法を申請し倒産。
※倒産時、ビジコン(株)は、従業員100名 売上高70億円。日本計算器(株)は従業員300名 売上高32億円。
その後、ビジコン(株)は、本社を東京都台東区浅草橋に移して、コンピュータ関連部品の製造販売を手掛ける。

1988年
昌和製作所を存続会社として、(株)榛葉シボリ製作所と合併。新社名は創輝(株)となる。

1991年
NHKが制作したドキュメンタリー『電子立国 日本の自叙伝 第5回 8ミリ角のコンピュータ』にビジコン社長の小島義雄がコメント出演。

2006年
創輝(株)がヤマハモーターパワープロダクツ(株)に社名を変更。現在に至るまで、ヤマハブランドの発電機、ゴルフカー、汎用エンジン等の生産を続けている。

2013年
11月10日 ビジコン社長 小島義雄逝去(享年89)

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

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