建築学科

1970年代の話

1976年(昭和51年)私立大学偏差値一覧表

1976年度の私立大学入試の偏差値(難易度)をご紹介します

はる坊です。
以前に1972年度の大学偏差値をご紹介しました。

今回はその4年後、1976年度の私立大学入試の偏差値をご紹介します。
データは1975年11月に行われた代々木ゼミナールの公開模試に基づいたものです。

1976年度大学入試私立大学偏差値表

滑り止めに合格しても素直に喜べなかった入学金制度

今回ご紹介する偏差値表では、

○○大学○○学部・・・偏差値○○

という形ではなく、合格可能圏偏差値として、○○~○○という数値が並びます。

これには理由があります。

1975年以前では、私立大学は合格発表後から一週間前後には入学手続きをとり、入学金・授業料・施設料などをまとめて徴収して、その後、別の私立大学や国公立大学の入試に合格しても、一度支払われた入学費用は、一切返還されないという形がとられていました。

国公立大学を狙う受験生の場合、浪人覚悟の場合や「国公立1本で大丈夫。必ず合格する」という自信満々の受験生はともかく、大半の受験生は、私大を滑り止めとして受けて、うち一校に、入学金・授業料・施設料などの入学時納入金額を収めた上で、第一志望を受験していました。

そして第一志望の国公立に合格しても、前もって滑り止めに支払った入学時納入金は一切返還されないのが決まりでした。

私立大学専願の受験生でも、第一志望の受験日が遅い時期であれば、早い時期に合格した滑り止めに入学金等を支払わなければなりませんでした。

その額、私立文系で20万円~35万円。

年次統計によると大卒初任給89,300円だった時代です。
これは受験生を抱える家庭にとっては、大きな負担だと考えられていました。

この状況に対して、受験生やその父兄からは、「私立大のタダ取り」ではないかという指摘が数多くあり、この年からは大半の私立大学において、入学申込金(入学金)や〝登録料〟と呼ばれる費用を合格後に納めれば、一定期間(国公立大学の入試合否判明まで等)、費用の延納を認めたり、一旦、入学時納入金は納めるものの、あとで手続きをすれば、入学金以外は受験生側に返金するというシステムがつくられました。

その為、この年からは私立大学の併願数が増加するのでは?

という予測がされたのですが、実際に、併願数が増加するかはこの時点ではわからず、

偏差値○○~○○が、○○大学○○学部の合格可能圏偏差値

と発表されたのでした。

それでは、発表された大学の難易度を見ていきましょう。

1976年(昭和51年)大学合格可能偏差値

岩手医科大学
医学部・・・・・55~57
歯学部・・・・・51~57

早稲田大学
政治経済学部・・・・・・58~63
法学部・・・・・・・・・58~60
商学部・・・・・・・・・58~60
第一文学部・・・・・・・58~60
教育学部・・・・・・・・55~60
理工学部(建築)・・・・58~63
理工学部(その他)・・・58~60

慶應義塾大学
法学部・・・・・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・55~60
文学部・・・・・・・・・58~60
商学部・・・・・・・・・55~60
工学部・・・・・・・・・58~60
医学部・・・・・・・・・64~67

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明治大学
法学部・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・55~57
政治経済学部(政治)・・51~57
政治経済学部(経済)・・51~57
経営学部・・・・・・・・51~57
工学部(建築)・・・・・55~60
工学部(その他)・・・・55~57
文学部・・・・・・・・・55~57
農学部・・・・・・・・・40~50

立教大学
経済学部・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・55~60
文学部Ⅰ・・・・・・・・58~60
文学部Ⅱ・・・・・・・・55~60
理学部・・・・・・・・・51~60
社会学部・・・・・・・・51~57
※文学部Ⅰ・Ⅱは専攻によって分けられていたものと思われる。

法政大学
工学部・・・・・・・・・48~54
法学部・・・・・・・・・51~54
経済学部・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・48~54
社会学部・・・・・・・・51~54
文学部・・・・・・・・・51~54

中央大学
法学部(法律)・・・・・58~60
法学部(政治)・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・51~57
商学部・・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・55~60
文学部・・・・・・・・・51~57

上智大学
外国語学部・・・・・・・58~63
文学部Ⅰ(文学)・・・・58~60
文学部Ⅱ(その他)・・・58~60
理工学部Ⅰ・・・・・・・55~60
理工学部Ⅱ・・・・・・・58~60
経済学部・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・55~60
※理工学部Ⅰ・Ⅱは専攻によって分けられていたものと思われる。

津田塾大学
学芸学部(国際)・・・・・58~60
学芸学部(英文)・・・・・58~60
学芸学部(数学)・・・・・58~60

青山学院大学
文学部(英文)・・・・・・58~60
文学部(仏文)・・・・・・55~60
文学部(史学)・・・・・・55~60
文学部(教育)・・・・・・55~57
文学部(日本文学)・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・・48~54
法学部・・・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・・48~54

学習院大学
法学部・・・・・・・・・・55~57
経済学部・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・55~60
理学部(化学)・・・・・・51~57
理学部(その他)・・・・・55~60

国際基督教大学
教養学部・・・・・・・・・58~60

自治医科大学
医学部・・・・・・・・・・61~67

東京医科大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

東京歯科大学
歯学部・・・・・・・・・・55~60

東京薬科大学
薬学部・・・・・・・・・・55~60

日本医科大学
医学部・・・・・・・・・・61~63

日本歯科大学
歯学部・・・・・・・・・・55~60

昭和大学
医学部・・・・・・・・・・51~57
歯学部・・・・・・・・・・51~54

順天堂大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

東京女子医科大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

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東京理科大学
理学部(数学)・・・・・・55~60
理学部(応用化学)・・・・55~60
理学部(物理)・・・・・・55~60
理学部(応用数学)・・・・55~60
理学部(化学)・・・・・・55~60
理学部(応用物理)・・・・55~60
工学部(建築)・・・・・・58~60
工学部(工業化学)・・・・55~60
工学部(経営工学)・・・・55~60
工学部(電気工学)・・・・55~60
工学部(機械工学)・・・・55~60
薬学部・・・・・・・・・・55~60
理工学部(数学)・・・・・51~57
理工学部(建築)・・・・・55~57
理工学部(電気工学)・・・51~57
理工学部(土木)・・・・・55~57
理工学部(物理)・・・・・51~57
理工学部(機械工学)・・・51~57
理工学部(経営工学)・・・51~57

芝浦工業大学
工学部(機械工学)・・・・48~54
工学部(通信工学)・・・・48~54
工学部(建築)・・・・・ 55~57
工学部(工業経営)・・・・48~54
工学部(工業化学)・・・・48~54
工学部(機械工学)・・・・48~54
工学部(土木)・・・・・・55~57
工学部(電子工学)・・・・48~54
工学部(金属工学)・・・・48~54
工学部(建築工学)・・・・48~54
工学部(電気工学)・・・・48~54

武蔵工業大学(現・東京都市大学)
工学部(電子通信)・・・・・55~57
工学部(経営工学)・・・・・51~57
工学部(電気工学)・・・・・55~57
工学部(土木工学)・・・・・55~60
工学部(機械工学)・・・・・51~57
工学部(建築)・・・・・・・55~60

成城大学
経済学部・・・・・・・・・・51~57
文芸学部・・・・・・・・・・51~57

成蹊大学
経済学部・・・・・・・・・・48~54
工学部・・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・51~57
法学部・・・・・・・・・・・48~54

明治学院大学
文学部(英文)・・・・・・・51~57
文学部(その他)・・・・・・51~57
経済学部(商)・・・・・・・48~54
経済学部(経済)・・・・・・48~54
社会学部(社会福祉)・・・・51~54
社会学部(社会)・・・・・・51~54
法学部・・・・・・・・・・・51~54

日本女子大学
家政学部・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・55~57

東京女子大学
文理学部・・・・・・・・・・58~60

共立女子大学
文芸学部・・・・・ ・・・・48~54
家政学部・・・・・・・・・・45~50

大妻女子大学
家政学部・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・48~54

日本大学
法学部(法律)・・・・・・・45~50
法学部(政治経済)・・・・・45~50
法学部(新聞)・・・・・・・45~50
文理学部(理)・・・・・・・45~50
文理学部(文学)・・・・・・48~54
文理学部(社会・教育)・・・48~54
経済学部(経済)・・・・・・45~50
経済学部(産業経営)・・・・45~50
商学部(会計)・・・・・・・45~50
商学部(経営)・・・・・・・45~50
商学部(商業)・・・・・・・45~50
理工学部(物理)・・・・・・55~57
理工学部(数学)・・・・・・55~57
理工学部(建築)・・・・・・55~57
理工学部(土木)・・・・・・55~57
理工学部(その他)・・・・・48~54
生産工学部 ・・・・・・・・45~50
工学部・・・・・・・・・・・40~47
医学部・・・・・・・・・・・51~57
歯学部・・・・・・・・・・・51~57

東海大学
医学部・・・・・・・・・・・51~57

専修大学
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
法学部・・・・・・・・・・・・48~54
経営学部・・・・・・・・・・・45~50
商学部・・・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・・48~54

東洋大学
法学部・・・・・・・・・・・・45~50
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
経営学部・・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・・48~54
工学部・・・・・・・・・・・・48~50

東京電機大学
工学部・・・・・・・・・・・・48~54

神奈川大学
法学部・・・・・・・・・・・・45~50
外国語学部・・・・・・・・・・51~54
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
工学部・・・・・・・・・・・・48~54

同志社大学
神学部・・・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・・・51~57
工学部・・・・・・・・・・・55~60

立命館大学
法学部・・・・・・・・・・・51~57
経済学部・・・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・・・51~57
産業社会学部・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・55~60

大阪医科大学
医学部・・・・・・・・・・・51~57

大阪薬科大学
薬学部・・・・・・・・・・・55~57

関西大学
法学部・・・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・・48~54
経済学部・・・・・・・・・・48~54
商学部・・・・・・・・・・・48~54
社会学部・・・・・・・・・・48~54
工学部(電気・電子)・・・・48~50
工学部(その他)・・・・・・48~54

関西学院大学
文学部・・・・・・・・・・・55~60
社会学部・・・・・・・・・・51~57
法学部・・・・・・・・・・・55~57
経済学部・・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・・・51~57
神学部・・・・・・・・・・・51~57
理学部・・・・・・・・・・・55~57

1972年(昭和47年)の国公立・私立大学入試偏差値(難易度)はこちらから

1972年(昭和47年)の大学入試偏差値(難易度)を調べてみました。

全国の国公立・私立大学 国公立・私立高等学校(高専) 受験中学校の偏差値をまとめたページはこちらです。

⇒『はる坊の雑記』偏差値関連記事 整理ページです。

1970年代の話

1972年(昭和47年)の大学入試偏差値・難易度を調べてみました。

40年前や50年前の大学受験って、難易度とか偏差値ってどうだったんだろう?

1970年や1975年頃の大学って、今よりも難しかったのか?

はる坊です。
私が大学受験を経験したのも遙か昔のことになってしまいました。
ふと、「大昔の大学受験はどうだったのだろう?」という疑問が湧いてきて、調べてみました。

手に入ったのは、1972年(昭和47年)の大学入試難易度(偏差値)表です。

当時の受験生は、現役生で1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)生まれの方になります。現在は64~65歳、仕事の第一線からリタイアされた方、企業の役員を務められている方、専門職でバリバリ働きながら後進に指導をおこなっておられる方、いろいろな方がおられると思います。

ちなみに大学卒業時には、オイルショックに見舞われて、例年より就職に苦労した経験を持たれている世代でもあります。

民間企業への就職が狭き門となった為に、国家公務員中級職(国家公務員Ⅱ種を経て、現在の国家公務員一般職)や地方公務員に本格的に目を向けて、入庁、入職した最初の世代でもあります。(地方の役場では、それまで大卒が仕事をしていることは珍しかったところもあります)

私が大学受験に臨む頃や社会へ出てから、何かの拍子で「××大なんて、名前を書けば誰でも入れた」とか「○○大は難しかった」という話を、ホンネか冗談か真に受けることもなく聞いたことがありますが、今回のデータで「なるほどなあ」と思うものもありました。
世間の評価は時代によって移り変わっていくものですね。
もっとも、東大・京大と国公立医学部が最難関であることは変わりませんが。

人物伝

【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる①

はる坊です。

渋谷区初台に大豪邸を構えるスクウェア・エニックス創業者・福嶋康博さんとは?

東京の高級住宅街といえばどこが思い浮かびますか?
大昔は、田園調布。一昔前は成城。

しかし、現在の富裕層は都心に住まうようになりました。
特に渋谷区や港区。

渋谷区なら高級住宅地として、まず、松濤や広尾が有名ですが、初台(はつだい)にも大豪邸があります。
ロッテの重光武雄氏や戸田建設の故・戸田順之助氏。

そして、スクウェア・エニックスの創業者で名誉会長の福嶋康博さんの邸宅です。
初台の福嶋邸は敷地面積は約1050坪。

地上2階・地下1階。
加えて、別にバーベキューハウスもある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。

緑に囲まれて、道路から邸宅の様子はうかがい知ることができませんが、建物の外壁は総タイル張りの非常に立派なものです。

法人所有ではなく、福嶋康博さんご夫妻が個人名義で所有されている自宅ですが、土地や建物を合わせると、一体何十億円の価値があるでしょう。

それでは、福嶋さんが一代で、どうやってこの御殿を築き上げるまでになったのかをみていきましょう。

スクウェア・エニックス創業者・名誉会長 福嶋康博さんの足跡

1947年北海道旭川市に生まれる。

福嶋康博さんは1947年8月18日に北海道旭川市に生まれました。星座は獅子座・血液型はA型。
当時、父親は旭川市内で映画館と質屋を経営していました。

ところが、この映画館が火事になり全焼。焼け残った自宅を改装して父母は食堂を始めます。
このときに福嶋さんは初めて〝商売〟を経験します。全焼した映画館に落ちていた紙芝居の道具を拾って、紙芝居師のまねをして近所の子どもたちに物語を聞かせたのです。子どもひとりにつき5円のお金を得ました。

また、近所で火事があったときは、焼け跡に落ちていた金属を拾い集めて、業者に売りました。これは子どもにしてはいいお金になったと福嶋さん自身が述懐しています。

しかし、プライベートでは両親が離婚して、父親は札幌に出て行き、母親が食堂を切り盛りします。

福嶋さんが“「母親が寝ているところを見たことがない」”くらい、母親は働き者だったようです。

中学校は、地元の旭川市立常盤中学校に進みますが、勉強はあまり得意ではなかったようです。しかし、高校受験に際して、このままでは希望校の合格が危ういことを担任の教師から教えられると、自分で勉強のスケジュール表を作り勉強に励みます。

元々、数学だけは得意だったこともあり、無事に北海道立旭川工業高等学校建築科へ進学します。

旭川工業高校入学後は、まずはラグビー部に入部しますが、3ヶ月で退部。
入部した理由が、〝試合の日には学校を休めるから〟であったので、ラグビー自体にはあまり興味がなかったのかもしれません。
しかし、恋愛も経験するなど、充実した高校時代を送ったようです。

高校2年の夏ごろ、離れて暮らす札幌の父親から連絡がありました。「おまえ、大学へ行け」というものでした。福嶋さんは大学進学について、あまり考えていませんでしたが、反射的に「うん」と答えてしまいます。

しかしここで2つの壁にぶち当たります。まず、工業高校では大学受験に必要な科目の授業ではやっていませんでした。

そこで福嶋さんは堂々と授業中に大学受験の勉強を始めます。当然、教師からは睨まれて職員室に呼び出されます。

しかし、福嶋さんはひるみませんでした。“「ぼくの人生にとってここで、学校の勉強するのが大事か、受験勉強の方が大事か。大学受験です」”と教師に言い放って授業中に受験勉強を続けます。

もうひとつは、先に大学に進学していた兄の一博さんから「親父はたいして仕送りをしてくれないぞ」と聞かされたことです。福嶋さんは受験勉強の傍らで、下級生の家庭教師をしてお金を貯めながら、残りの高校生活を過ごします。

18歳で上京、日本大学理工学部建築学科へ進学

仕送りが足りない分は、アルバイトではなく自分の得意な事で稼ぐ

1966年(昭和41年)4月、福嶋さんは晴れて日本大学理工学部建築学科に合格して上京します。なぜ、建築学科だったかといえば、工業高校の建築科だったからで、あまり深く考えた結果ではありませんでした。

事実、福嶋さんの仕送りは、他の学生の3分の1ほどしかありませんでした。アパートの家賃が6000円なのに仕送りは5000円程度。

しかし、福嶋さんは足りない分を普通のアルバイトで稼ごうとは考えませんでした。

自分の得意な事で稼ごうとしたのです。

建築学科には図学という講義がありました。
福嶋さんは友達の分も作品を作っては、それを売って稼ぎました。

そして、麻雀です。福嶋さんは中学時代から麻雀に親しんでいましたが、メキメキと腕を上げて、大学生にしてかなりの強者でした。
友達と麻雀をするといつも福嶋さんの大勝。

そうすると、友達が一緒に麻雀をやってくれないので、福嶋さんの勝ち点を半分にする特別ルールを条件に、友人たちと麻雀卓を囲み、また、雀荘に行っては、社会人や他の学生相手に稼ぎます。

麻雀で稼いだお金で問屋へ行き、コンドームを仕入れて団地へ販売に行ったり、ストッキングを仕入れて美容院に売り込みに行ったりもしました。
当時から行動力には目を見張るものがあったようです。

1970年前後は学生運動真っ盛り。

特に1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)にかけては、日大紛争と呼ばれる大規模な学生運動があり、日本大学は講義どころではなくなりました。卒業式も行われないほどの激しさでした。

大学も3年生になると、周囲は就職準備に入ります。しかし、福嶋さんには疑問がありました。

それは「建築学科を出たからといって、建築会社に入るしか道はないのか?」というものでした。

建築学科の友達に聞いて回ると、建築学科=建築会社・設計会社へ就職というのが当然じゃないかという答えでしたが、福嶋さんはその答えはすんなりと馴染めないものでした。
実のところ、福嶋さんは構造計算が得意でしたが、少しも好きではなかったのです。

(構造計算を一生続けていって何になる。そのまま人生が終わるのは嫌だ。自分がやりたいことと何かが違う)

おぼろげに(事業をやってみたい)と考えてはいましたが、アテがあるわけでもありませんでした。

結局、福嶋さんは就職をすることなく1970年(昭和45年)3月日本大学理工学部建築学科を卒業しました。

就職をしたことがない!いきなり起業

中野ブロードウェイPRフリーペーパー構想

日本大学を卒業した福嶋さんは、当時付き合っていた女性の元に身を寄せます。

そこで、福嶋さんはある事業を思いつきます。

当時、よく行っていた中野ブロードウェイは、建物の造りが入り組んで複雑な上に小さな店がほとんどでわかりにくかったのです。

当時の中野ブロードウェイは地下1階から地上4階まで、日用雑貨・ファッション・レストラン等が雑然と並んでいる場所でした。

エスカレーターの作りも特殊で、2階を素通りして3階へ行くというもので、慣れないと方向感覚が狂って目的とはまったく違う場所に出てしまうことがしばしばでした。

初めて行ったときには、どこにどんな店があるか分からず、それからも買物へ行く度に、目的の店とは違うところへ出てしまったり。

福嶋さんは、いつも「何とかならないものかなあ」と考えていました。

オーディオ/AV機器の新品・中古販売【フジヤエービック】



あるとき、ぼんやりと、わかりやすい案内図があればいいんだよ、という考えが頭をよぎったとき、福嶋さんは「これは事業になる」と直感しました。

わかりやすい案内図を載せた中野ブロードウェイのPR雑誌を作ればいいじゃないか。

中野ブロードウェイを中心とした住宅地に5万部程度のPR誌を無料で毎月配布するという事業アイデアでした。

各店をPRする雑誌を発行すれば、儲かるんじゃないか!

現在でいうところのフリーペーパー事業です。

早速、福嶋さんは、一緒に暮らしていた彼女にブロードウェイのイラストマップを描いてもらい、
〝株式会社 ジャポン・アノンス 福嶋康博〟という名刺を作って、各階の商店会会長と交渉を開始します。

彼女に描いてもらったイラストマップと簡単な見本を持ってプレゼンテーションをしてみると、好意的な反応を示してきました。

福嶋さんが目を付けた通り、建物が入り組んでいること、小さな店が多くて、それぞれの店がわかりにくいことは、中野ブロードウェイの商店主たちも気にしていたことでした。

ただ、ネックがありました。

福嶋さんは、普通の会社が5万部程度のPR誌を出すとすれば、当時で月に350万円ぐらいかかると概算で考えていました。商店会会長たちのあいだでは、この金額が高いのではないかと二の足を踏むことになったのです。

しかし、福嶋さんはこの金額を譲るつもりはありませんでした。金額を巡って押し問答を繰り返していると、耳寄りな情報が入りました。

中野ブロードウェイを建てた不動産会社の社長が社会福祉活動に熱心だという話でした。

「(社会福祉とはちょっと違うかもしれないが、PR誌の発行は地域社会の為になる仕事だ)」と思った福嶋さんは、早速、その社長に事業プランをプレゼンしました。すると、この社長は毎月50万円出すことを約束してくれたのです。

※これは私の推測ですが、この不動産会社社長は、東京コープ(東京コープ販売)社長の宮田慶三郎ではないかと思います。1906年1月7日生まれ。
旧制中学校から1931年に大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)を卒業。その後、歯科冶金の研究をきっかけに、合金の魅力に取り憑かれて、「ミヤタ・ロイ」と呼ばれる超高質合金を開発。

その後、病気療養中に大脳生理学の研究により1960年に医学博士号を取得。学会発表の際にワシントンを訪れ、アメリカに比べて日本の建築物が貧弱であることを知って、不動産事業を始めた経験を持つ異色の経営者です。

中野ブロードウェイ開発を最後に不動産事業からは身を引き、教育者として朝日大学と明海大学を創立しました。明海大学に不動産学部があるのは、宮田慶三郎の意思でしょう。
1997年7月に亡くなっています。

宮田慶三郎が、福嶋さんと同じ北海道出身だったことや福嶋さんが日大理工学部建築学科出身だったことも、若き福嶋さんの提案を受け入れ援助する約束をする一因になったのではないかと思います。

月々50万円の協賛金を得られることになり、金銭的なネックも消え、PR誌作りについて商店会会長たちの納得を得た福嶋さんは、いよいよ発刊準備作業に入ります。
編集作業を進めながら、福嶋さんはここが成功したら、今度は中央線の違う主要駅で挑戦しようと、夢を広げていきました。
しかし、事業を開始する段になって、福嶋さんは商店街の組合長から呼び出されます。

「おまえの会社は、登記されていないじゃないか!どういうことだ?社長は誰だ?」
「えっ、登記ってなんですか? 会社は僕ひとりでやってますが・・・」

福嶋さんは会社を登記することを知りませんでした。
名刺に社名と名前を刷ればそれでいいと思っていたのです。

結局、会社を登記していなかったことは、中野ブロードウェイ側からの信用の失墜を招き、この事業は開始直前になって頓挫してしまいました。

スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる②

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人物伝

ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信はもっと評価されるべき

はる坊です。

ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。

それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。

お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。
[embed]https://www.youtube.com/watch?v=k4BEEzogc0U&t=743s[/embed]
『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。

また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、えーっ、と思った」と語られています。

たしかに、真面目でビジネスマンというよりも職人気質の方だと思います。

現在、千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役

千田幸信さんは現在、スクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役です。

事業会社であるスクウェア・エニックスの取締役も務めてこられましたが、こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任されました。

替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。

完全な代替わりで、その内にスクエニHDの取締役も退任されるのではないかという予感がして、何だか一時代が終わったというか、寂しい気がします。

千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?

千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。
1950年9月29日岩手県生まれ。1972年に東海大学工学部中退。
血液型はO型で、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。

役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝統計学の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。

大学中退後は、1974年3月にCISに入社。1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。
その後、エニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。

フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの設立に参画して取締役に就任。
このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして高野豊氏の3名だけでした。

ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。

エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発

エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。

最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。

当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
・エニックスが無名会社だったから

社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)

それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。

最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。

ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。

鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。

中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。
エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。

中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。

そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。

このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。

また、エニックスはゲームの作者に対して印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。

中村さんは、月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。

中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。

千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』

堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。

しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。

シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信

ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。

音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。

キャラクターデザイン 鳥山明
音楽         すぎやまこういち

このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。

出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。

『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて

堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。

Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。

ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。

中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。

そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン   鳥山明
音楽           すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。

マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストⅣ』、1992年の『ドラゴンクエストⅤ』、1995年の『ドラゴンクエストⅥ』、そして1998年の『ドラゴンクエストⅦ』まで、プロデューサーを務め続けます。
それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。

この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。
1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、
ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当
とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。
(もっとも、出版事業に関しては、同時に保阪嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが)
1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。
1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。

2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。
2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、現在はスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めています。

馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!

1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。
1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、上場時の初値は12000円を付けました。

株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)

また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入。そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

所有馬には「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。

活躍した馬には
「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円
「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円
「バロンカラノテガミ」獲得賞金  8936万円
「パブロカラノテガミ」獲得賞金  5213万円
「ベルベットスマイル」獲得賞金  4994万円
「ベガスカラノテガミ」獲得賞金  4877万円
がいます。
中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。

ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの「バランスオブゲーム」「アブソリュート」「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。

スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務める千田幸信さんの役員報酬は年間1900万円

2018年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。
これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、

・代表取締役社長:松田洋祐さん 
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円

・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円

・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円

この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。
また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。

スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?

現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。

持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。
ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。

旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?

旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。
また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。
たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。

もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。

さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。

・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円

・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円

確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。

非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。

役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。
そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。
また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強と、ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。

もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。

〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?

千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。

この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。

果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。


どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・

ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。

エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。

エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。

タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。

そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。

スクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役も退任か?

先にも書きましたが、千田さんは2018年3月31日付で、スクウェア・エニックスの取締役を退任されました。

1987年に旧エニックスに入社して、エニックス社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司氏は、2018年5月でスクウェアエニックスホールディングスの取締役も退任されました。若くして旧エニックス社長に就任された本多氏も60歳になられていました。

千田さんも68歳。旧エニックス創業から走り続けて36年が経ちました。
あと数年で、スクウェア・エニックス・ホールディングス(スクエニHD)の取締役も退任される予感がしてなりません。
そろそろ、現役を引退して、ユーザーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。

以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。

千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?⇒(新しいページが開きます)

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。