『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!

はる坊です。

今回取り上げるのは、チュンソフトです。

現在では、スパイクと合併してスパイクチュンソフトに社名が変わっており、創業者の中村光一さんは取締役会長になっています。

そんなチュンソフトは、1984年4月9日に設立されました。

早速、創業当時のチュンソフトを見ていきましょう。

創業当時のチュンソフトとそのメンバーたち

前述したように、チュンソフトは株式会社として1984年4月9日に東京都調布市に設立されました。
京王線の調布駅から程近く、徒歩3~4分の好立地にあるマンションの2階2部屋を、事務所と開発室に充ててスタートしました。

代表取締役は中村光一さんです。
当時は、電気通信大学短期大学部の2年生でした。
チュンソフト設立当時の中村さんは、1964年8月15日生まれなので、まだ19歳でした。

しかし、すでに、丸亀高校時代に、エニックスのゲームコンテスト・第1回ホビープログラムコンテストで優秀賞に輝いた『ドアドア』で大ヒットを放っており、続く『ニュートロン』もヒット。
ゲームの販売元であるエニックスとは、卸売り価格の22%を受け取る印税契約を結んでおり、最高で月額400万円以上、年間にならすと2000万円以上のお金を大学1年生にして受け取る立場にいました。
この印税で、中村さんはトヨタが誇る最上級スポーツカーだったトヨタ・ソアラを手に入れ、月額30万円ほどを遊興費・飲食費に使います。
ですが、半分は貯金しようと決めていた為、チュンソフトの資本金500万円のほとんどは、中村さんが単独出資できる余裕がありました。

チュンソフトの社員・アルバイトは?

チュンソフト創業当時の社員は4名でした。

まずは、中西一彦さん
当時、電気通信大学短期大学部2年生で、のちの名物広報です。
中村さんとは大学で学籍番号がひとつ違いだったため、同じクラスとなり仲良くなったようです。

吉田幸司さん
吉田さんは、電気通信大学2年生でした。
ドラゴンクエスト』『ドラゴンクエストⅡ』でプログラマーを務めた後、カプコンに入社されています。

安野隆志さん
安野さんは、早稲田大学政治経済学部1年生でした。
中村さんとは、丸亀高校の同級生でした。
『ドラゴンクエスト』~『ドラゴンクエストⅥ』まで、CGデザイナーを務め、SFC版『ドラゴンクエストⅢ』では、グラフィックデザインを務めています。
『ドラゴンクエストⅤ』で、チュンソフトは『ドラゴンクエスト』の開発から離脱しました。よって、安野さんは、グラフィックデザインを手掛けていた、ハートビートに移り、ドラクエのデザインを手掛けていましたが、のちに退社されたようです。

鈴木李佳さん
電気通信大学短期大学部2年生でした。
『ドラゴンクエスト』ではⅠ~Ⅳまで、アシスタントとしてスタッフロールに名を連ねています。
2005年にドワンゴがチュンソフトを子会社化した際に、チュンソフトの株主であることがあきらかになりました。

続いてはアルバイトで参加していた方々です。

成田東吾さん
当時、東京理科大学2年生でした。
成田さんは、このあとチュンソフトの大黒柱となります。
『ドラゴンクエストⅡ』~『ドラゴンクエストⅣ』までは、プログラマーを務め、『ドラゴンクエストⅤ』ではチーフプログラマとして参加しています。

福沢正さん
当時、電気通信大学2年生でした。
福沢さんは当初『ドラゴンクエスト』では、アシスタントとしての役回りでしたが、Ⅲ~Ⅴではサウンドプログラマとして活躍しています。
福沢さんの本領が発揮されたのは、チュンソフトがサウンドノベルと不思議のダンジョンシリーズに進出してからでしょう。

『』では音響担当として、『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『不思議のダンジョン2 風来のシレン』ではディレクターを務め、ドラクエ開発担当のディベロッパーから、パブリッシャーに転換したあとのチュンソフトを支える人材だったことがわかります。

1990年代前半、チュンソフトは株式上場の話もあるほど、絶好調でした。
サウンドノベルも不思議のダンジョンも売れに売れていたからです。

1992年3月 『弟切草』 40万本
1993年8月 『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』 80万本
1994年11月 『かまいたちの夜』 75万本
1995年12月 『不思議のダンジョン2 風来のシレン』 23万本

時代は流れて2007年頃のワールド・ビジネス サテライトに中村光一さんが1億8000万円のクルーザーのオーナーとして登場していましたので、この頃の業績はかなり好調だったのでしょう。

さて、ゲーム業界の人材は流動的ですが、『ドラゴンクエスト』の人気が沸騰するにつれて、チュンソフトにも新しい人材が入ってきました。

代表的な存在は、内藤寛さんと山名学さんです。

内藤寛さんは、1967年3月23日東京都武蔵野市出身。
高校時代よりアルバイトでプログラマーとして活躍していた方で、専門学校在学時にチュンソフトに入社。
ⅢとⅣでは、チーフプログラマを務めます。

1990年4月には独立して、当時エニックス社員だった高橋宏之氏と株式会社クライマックスを設立しますが、すぐに喧嘩別れとなり高橋氏はセガ顧問を経て、ソニック、キャメロットを設立して、社長となります。

内藤氏は、チュンソフトの辞め方が良くなかったようで、エニックスの社長を務めていた福嶋康博さんは、エニックス社員が内藤さんをデベロッパーに起用したいと申し出た折に、「ダメだ」と即却下しています。
慎重派の福嶋さんにしてみれば、「エニックスでも同じ事をされたのでは、たまらない」という気持ちだったのではないでしょうか。
それでも、内藤氏は1995年4月に発売した『レディストーカー 〜過去からの挑戦〜』というゲームでは、最初ドラクエⅣの人気キャラ・アリーナをフューチャーしたスピンオフゲームにしたいと考えていたようで、ご本人は、チュンソフト退社の際に問題はなかったと思っていたのでしょう。

山名学さんは、1965年6月8日東京都出身。
高校時代よりゲームソフト開発に触れて、日本大学在学中の1986年にチュンソフトに入社。
Ⅲではプログラム、Ⅳではチーフプログラマ、そしてⅤ・Ⅵではディレクターを務めています。
ⅣのAI戦闘システムを作り上げたのも山名さんです。

1991年の大学卒業と同時に、チュンソフトでは取締役開発部長に就任していますので、社長の中村さんの信頼も厚かったのでしょう。

『ドラゴンクエストⅤ』開発中に、サウンドノベル第1弾『弟切草』にも開発監督として関わっています。

山名さん、どれだけ忙しかったんだろう・・・

Ⅴを最後にチュンソフトがドラクエの開発から離れると、山名さんは、Ⅴの発売翌月である1992年10月に資本金330万円で有限会社ハートビートを設立して、代表取締役社長に就任。『ドラゴンクエストⅥ』と『ドラゴンクエストⅦ』の開発を手掛けます。

『ドラゴンクエストⅧ』の開発がレベルファイブに決定したことから、山名さんは2002年6月に新会社ジニアス・ソノリティを設立して、任天堂のゲームソフトの開発に向かいました。
この時の資本金1億円は、山名さんが52.9% 任天堂と株式会社ポケモンが19.5%ずつ出資しています。

山名さんとすれば、『ドラゴンクエスト』の開発を続けたかったのかも知れず、ハートビートを休眠させてジニアス・ソノリティを設立するのは苦渋の選択だったのかも知れません。

しかし、ゲームハードの売上さえ左右するキラーソフトの開発を担当していた山名さんに目を付けていた企業は多かったでしょう。
ジニアス・ソノリティは、『ポケモン』を中心に、セカンドパーティーとして任天堂発のゲームには欠かせない存在になっていきました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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