Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅣ
はる坊です。 引き続き、名編集者・鳥嶋和彦さんの足跡を辿っていきます。 『Vジャンプ』編集長に就任 鳥嶋和彦さんは、週刊少年ジャンプ編集部においては、異端児ともいえる存在でした。 しかし、鳥山明さんの『Dr.スランプ』『…
人物伝
はる坊です。 引き続き、名編集者・鳥嶋和彦さんの足跡を辿っていきます。 『Vジャンプ』編集長に就任 鳥嶋和彦さんは、週刊少年ジャンプ編集部においては、異端児ともいえる存在でした。 しかし、鳥山明さんの『Dr.スランプ』『…
人物伝
はる坊です。
引き続き、スクウェア・エニックス創業者の福嶋康博さんの足跡を追っていきます。
福嶋さんが考えたのは、素人でも扱える機械を導入して、寿司づくりの自動化を図ることでした。
そして、自動寿司握りロボットを導入します。
ただ、機械自体が高額な為に、最初のお店は素人でもできる型押しロボットを導入しました。
目標は、5年間で全国490店舗を展開して、当時急成長で注目を浴びていた小僧寿しを抜いて、テイクアウト寿司市場でNo.1を獲ることです。
1979年(昭和54年)持ち帰り寿司全国No.1を目指して、寿司をロボットが握る持ち帰り寿司店を狛江市の狛江団地近くにオープンします。
当時の小僧寿しは、店が路面に向いており、衛生面に疑問を持った福嶋さんは、マクドナルド型に、店舗に入ってすぐ持ち帰りカウンターのある店舗を造り、衛生面にも気を配った店舗を完成させました。
店舗の向かい側はスーパーマーケット。
ターゲットとする客層に、アピールできる最高の立地でした。
開店当初の店舗は大盛況。大行列。
福嶋さんは、「これは大成功だ!」と胸を躍らせます。
次々に、持ち帰り寿司店舗を展開していけば、小僧寿しを超えられる!
しかし、やがて客足は遠のき始めます。
「なぜだろう?」
と思った福嶋さんは、自転車のカゴに寿司を入れて走ってみました。
しばらく走って、狛江団地のベンチに座り寿司折りを開けてみると、客足が遠のいた理由がハッキリと分かりました。
寿司のネタとシャリの握りが甘く、ネタがシャリからすべて落ちていたのです。
まだ、導入したロボットの技術が拙く、しっかりと握るところまでできていなかったのです。
早急にパート従業員を採用して、ロボットが握った寿司を、人の手でもう一度握り直すことで、客足は戻ってきましたが、福嶋さんはこの事業から撤退することを決断します。
この事業の目的は、寿司屋として成功することではなく、小僧寿しよりローコストの持ち帰り寿司チェーンを高利益体質で急速展開することにありました。ローコスト実現のために導入したロボットが型押しした寿司をパート従業員が握り直していたのでは、設備投資をした分、福嶋さんの持ち帰り寿司店は小僧寿しよりコストがかかってしまいます。
結局、持ち帰り寿司事業は頓挫します。
店自体に利益は出ていましたが、寿司握りロボットの導入と清潔さを求めた店舗の内装費を投資をしたため、3ヶ月で3000万円の赤字を出しました。
しかし、福嶋さんに後悔はありませんでした。
最初から損切りの金額を決めていたからです。
営団社募集サービスセンター自体に年間で7,000万円の利益が出ていたため、「3,000万円までの赤字なら、本業に差し支えない」そういう計算が出来ており、落ち込むこともありませんでした。
次に進出したのが、コンピューター事業でした。
といっても、ハドソンのようにソフトウエアを開発して通信販売したのではありません。
1980年のこと、福嶋さんは再度渡米して、ロサンゼルスで新規事業を検討します。
結果、パーソナルコンピュータのソフトビジネスに将来性があると判断して、確信を持って帰国します。
ただ、可能性があるからといって、いきなり事業を興すことはしませんでした。
そこで、実験的に福嶋さんがパソコンと顧客管理ソフトを持って市場調査の為に、会社を飛び込み訪問して様子をみました。すると関心を持っている人が意外に多いことに気付きます。なかには、その場でシステムを売ってくれという人までいました。
コンピュータはビジネスになる
福嶋さんの確信は深まりました。
そして、株式会社 エム・シー・ビー(MCB)を設立して、東芝のオフィス・コンピュータ(オフコン)の販売代理店になったのです。
営業マンは営団社募集サービスセンターから数名の社員を出向する形で事業を開始しました。
このとき、福嶋さんはセールスマンに命じた言葉があります。
『コンピュータがあれば何でもできますと絶対に言うな』というものでした。
なぜかというと、当時は、企業にコンピュータが入り始めた頃です。
しかし、セールスマンに「コンピュータがあれば何でもできます」と言われて、機能をどんどん追加した挙げ句、見積書が非常に高額となってしまい、客側がコンピュータ導入に躊躇する状態でもありました。
事実、大手メーカーがオフコンを売りだして、多くの販売代理店が生まれましたが、利益を得ていたのはごく少数でした。
福嶋さんの戦略は、客の要望を聞いてそれに合わせた商品を売るというものでした。
また、アフターサービスもおこない、顧客の信頼を勝ち得ていきます。
このとき設立した株式会社 エム・シー・ビー(MCB)には、のちにドラゴンクエストの初代プロデューサーとなる千田幸信さんが入社してきました。
千田さんはエム・シー・ビー(MCB)で働いた後、一旦退職。
フリーのプログラマー・システムエンジニアとして仕事をしたあと、仕事をもらいに福嶋さんの元に訪れた際に、エニックス設立への参加を要請されています。
エム・シー・ビーは東京で1位の東芝代理店になります。
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福嶋さんが次に目を付けたのはパソコンゲーム事業でした。
1982年8月、経営していた株式会社営団社募集サービスセンターの子会社・株式会社営団社システムの商号を株式会社エニックスに変更します。
代表取締役社長には福嶋康博さん。
取締役には千田幸信さん。
そして、営団社募集サービスセンター設立まもなくから福嶋さんと働いていた高野豊さんという3人で事業を開始します。
現在も、東京都新宿区西新宿7丁目1-8にある1972年築のヒノデビル。
1Fにモスバーガーの入った何の変哲もない雑居ビルですが、すべては、この場所からはじまりました。
エニックスを設立した福嶋さんは、すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。
最優秀プログラム賞受賞者には賞金100万円。
優秀プログラム賞受賞者(2名)には賞金50万円。
入選プログラム賞受賞者(10名)には10万円。
参加者全員に記念品を用意。
当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
エニックスが、まったくの無名会社だったから。
さすがに、社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています
(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)
それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。
千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。
そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。
最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。
少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。
ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。
依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。
鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。
鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。
四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。
中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8801を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。
エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。
また、NHKが取材に入るという機会が訪れ、ゲームコンテストは一気に加速がつきました。
最終的には、コンテストに100本以上のゲームが集まりました。ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。
審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さん(東京工業大学中退後、当時は埼玉医科大学医学部在学中)の『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。
中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀プログラム賞でした。
堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』は入選プログラム賞を受賞。
このコンテストで、堀井雄二さんと中村光一さんを発掘することができたのは、エニックスにとって大収穫でした。
ゲームコンテストで入賞したゲームを製品化して売り出すと、『ドアドア』の8万本を始め、パソコンゲームの売上上位にエニックスのソフトが名を連ねます。
エニックスは設立初年度で、3億5,000万円の利益をはじき出しました。
1983年10月には、取引銀行の支店長の仲立ちで、コニカ(当時は、小西六写真工業)と合弁で小西六エニックス(コニカエニックス)を設立します。
資本金は6,000万円。
当初エニックスの出資比率が50.6%でした。
コニカエニックス社長にも就任した福嶋さんは、ゲームソフト流通業に力を入れます。
この会社は設立してから数年で、年間売上高30億円の企業に成長しました。
福嶋さんにとって一番大きな収穫は、コニカエニックスに出向してきたコニカの優秀な人材を、エニックスに入社させられたことでしょう。
彼らは、エニックスの役員や幹部となり、1980年代後半から1990年代半ばのエニックスを支える存在になります。
この頃、少しずつ注目経営者となっていった福嶋さんは雑誌のインタビューに登場しています。
年収はこの頃で1700万円。月のお小遣いは30万円。
しかし、営団社募集サービスセンター・エニックス・コニカエニックスと3社の代表取締役社長を務めていた福嶋さんは忙しく、
昼食は、立ち食いそばで済ませて、朝から夜遅くまで働いていたようです。
次に福嶋さんは、任天堂が発売したファミコンに『ドアドア』を移植して発売。
20万本のヒットとなります。
そして続いて、堀井雄二さんシナリオ・ゲームデザインの『ポートピア連続殺人事件』を発売60万本のヒットとなります。
これが、『ドラゴンクエスト』開発への足がかりとなります。
千田幸信さんがプロデューサーとなり、シナリオ・ゲームデザインに堀井雄二さん、キャラクターデザインに鳥山明
さん、音楽にすぎやまこういち
さん、そして、メインプログラムにチュンソフトを設立して代表取締役社長兼メインプログラマーとなっていた中村光一さんという主要スタッフの元で開発された『ドラゴンクエスト』はⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳと発売される毎に、人気とその発売本数を増やしていきます。
そして、発売日当日には大行列ができるのが風物詩になります、
3DS・DSがあればシリーズ全作が遊べる『ドラゴンクエスト』シリーズについてまとめた記事はこちらです。(新しいページが開きます)⇒3DSとDSがあれば、ドラクエシリーズが全作品が遊べるんです!!
ゲーム業界で任天堂のようにゲーム用ハードウェアを製造しない、ソフトウェアメーカーで最初に株式を上場したのはコナミ(現:コナミホールディングス)でした。
1984年10月に大阪証券取引場第2部に設けられたベンチャー企業向けの新2部に上場を果たしたのです。(コナミはその後1988年2月に東証2部への上場を果たすと、8ヶ月後の10月に東証1部に上場しています。)
コナミが株式上場企業となったことや〝ファミコンブーム〟の到来で、証券会社もゲーム関係企業に注目を向けて、ゲーム業界では店頭公開(ジャスダック上場)や東証・大証上場を果たす企業が増えていました。
1986年4月 セガ・エンタープライゼス(現:セガゲームス)が店頭公開⇒1988年4月に東証2部上場⇒1990年10月に東証1部上場
1988年1月 ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)が東証2部上場⇒1991年9月に東証1部上場
1988年9月 ジャレコが店頭公開(現:ジャスダック上場)
1990年1月 カプコンが店頭公開(現:ジャスダック上場)⇒1993年10月大証2部上場⇒1999年9月大証1部に指定替え⇒2000年10月東証1部上場
『ドラゴンクエスト』の大ヒットと共に発売元のエニックスも注目を受けることになり、証券会社から株式上場の誘いが頻繁に来るようになります。
株式上場について、福嶋さんは当初慎重で断り続けました。
一番、株式を上場しやすい店頭公開(ジャスダック上場)でも、準備に2~3年かかるのが当たり前で、そこまで労力を払って株式公開や上場をするのは割に合わないのではないかという考えがあった為です。
また、株式を上場させると、経営の自由度が下がるのではないかという不安もあったようです。
しかし、福嶋さんが欲しいのは優秀な人材でした。
エニックスが上場すれば、社会的信用も増して、優れた人材が集まって来やすいのは確かでした。
当時の取締役社長室長 前川敏雄さんと総務部長が店頭公開時に主幹事証券会社となった山一証券と中心となって進めていきました。
1990年2月11日に発売された『ドラゴンクエストⅣ』のメガヒットで、1990年3月期のエニックスの業績は、
売上高:162億6,600万円
営業利益:38億8,600万円
経常利益:39億5,700万円
と順調な伸びを見せます。
そして1991年2月1日、エニックスは店頭公開(JASDAQ上場)を果たします。
株式の初値は12,000円。
会社設立から9年の株式上場は、当時としてはかなりのスピードであり、福嶋さんは辣腕経営者と認められます。
また、この株式上場によって福嶋さんは500億円の株式資産を保有することになります。
上場後初となる、1991年3月決算でも、昨年度に引き続き『ドラゴンクエストⅣ』効果が持続して、
売上高:150億6,200万円
営業利益:32億8,400万円
経常利益:35億2,000万円
を記録します。
1992年5月に公示された、1991年分の高額納税者の公示では、福嶋さんは株式売却益を得て3億2,950万円を納税しています。
(ちなみに、同公示では、エニックス創業メンバーで専務取締役の千田幸信さんが7,107万円、『ドラゴンクエスト』の作者である堀井雄二さんが2,245万円を納税しています。)
福嶋さんは、上場で得た利益で、川崎市多摩区から、杉並区浜田山の豪邸に移り住みます。
敷地450坪。地下1階地上2階の建物には、福嶋さんの好きな麻雀が思う存分楽しめる麻雀ルームと健康のためスポーツジムが設えられました。
また、広い庭の草むしりは、福嶋さん休日の日課になりました。
ここで非常にたいせつなことは、福嶋さんが必要以上に所有している株式を売却しなかったことです。
店頭公開後も福嶋さんは、福嶋康博個人と資産管理会社の福嶋企画、そして、奥様の福嶋美知子で70%の株式を保有していました。広大な邸宅の建築が目標だったわけではないでしょうが、10数年後に建てることになる渋谷区初台の大豪邸に向けて、重要な資産となっていきます。
杉並区浜田山に移る前に福嶋さん一家が暮らしていた、敷地面積:約80坪の川崎市多摩区の旧福嶋邸は、エニックスと深い関わりがあった開発会社・クインテットの橋本昌哉さんが買取り、その後、クインテットが保有しています。
福嶋さんが川崎市多摩区に自宅を構えていたのも理由があると考えています。
かわさきマイコンシティ(川崎市マイコンシティ)に近かったことです。
エニックスは川崎市多摩区にエニックス研究所を設置して、センサーの開発販売を目的に、ピーエムエフという会社に出資していました。
「この場所に住んでいれば、ビジネスにも有利だ」
まだ、30代半ばの若き経営者だった福嶋さんが、そう考えたのではないかと思います。
クインテットは、日本ファルコムで『イース』シリーズなどを手掛けていた、橋本昌哉さん・宮崎友好さんが中心となって1989年4月に設立され、
エニックス向けに『アクトレイザー』『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』『天地創造』などを開発。
トライエースが設立され、『スターオーシャン』『ヴァルキリープロファイル』シリーズをリリースするまで、『ドラクエ』頼みだったエニックスを支えました。
エニックスの社員がまだ10人に満たない頃に入社され、エニックスのソフトウェア企画部 課長・ゲームプロデューサーとしてパソコン用ゲームソフトを経て、クインテット開発のゲームに深く関わられたのが、
『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』『【推しの子】』(原作担当)の人気漫画家・赤坂アカさんの父親・曽根康征さんです。
さて、ジャスダック上場からまもない1990年代前半に、証券会社からは東証2部への上場準備を持ち掛けられますが、福嶋さんは断ります。
当時は、上場審査が厳しく、上場を希望する企業には、○○という部署がないとダメだという内規が定められていました。
福嶋さんは、無理をして東証2部に替えることはないと、自分の考えを貫きました。
株式を公開して上場企業の仲間入りを果たしたことにより、新卒採用で現在に至るまでスクウェア・エニックスを支える人材が集まるなど、福嶋さんが望んだことが現実となる一方で、古参の役員や従業員がエニックスを去るということも起こりました。
(※これは、いわゆる〝エニックスお家騒動〟のことではありません)
エニックス株を保有していた彼らのなかには、株式上場によって、億単位の資産を得ている者もいました。
そのような立場になれば、新たにチャレンジしたいことや起業、またはアーリーリタイアメントも可能となります。
例えば、エニックスの創業メンバーのひとりで、ゲームプロデューサーを経て、エニックス 取締役 営業部長となった高野豊さんや
クインテット開発の『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』やランダムハウス開発の隠れた名作『ジャストブリード』で、
エニックス 取締役 ソフトウェア企画部長としてプロデューサー等を務めた川口貴雄さんも1990年代半ばにエニックスを離れています。
それでも、無借金で自社ビル(通称〝ドラクエビル〟)を持つことができたり、経営者として、会社をより客観的に見るよう心を配るようになったのも、店頭公開の収穫でした。
上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期決算)
営業利益12億0200万円(1992年3月期決算)
経常利益18億5200万円(1992年3月期決算)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円
代表取締役社長:福嶋康博
生年月日:1947年8月18日
出身地:北海道旭川市
最終学歴:1970年 日本大学理工学部建築学科卒業
専務取締役:千田幸信
ソフトウェア企画部担当・出版企画部担当・玩具企画部担当・出版営業部担当
生年月日:1950年9月29日
出身地:岩手県
最終学歴:1972年 東海大学工学部中退
常務取締役:前川敏雄
総務部長・経理部担当
生年月日:1944年4月3日
出身地:千葉県
最終学歴:1967年 慶應義塾大学商学部卒業
※日本道路より1989年エニックスに転職
取締役:川口貴雄
ソフトウェア企画部長
生年月日:1948年1月31日
出身地:北海道
最終学歴:1970年 東海大学工学部卒業
※営団社募集サービスセンターに1978年入社
取締役:才藤智宏
営業部担当・業務部長・エニックス研究所長
生年月日:1941年5月1日
出身地:東京都
最終学歴:1965年 中央大学法学部卒業
※エニックスとコニカの合弁会社・コニカエニックスの取締役に1983年就任。
取締役:蟹江元
社長室長
生年月日:1948年8月29日
出身地:兵庫県
最終学歴:1971年 日本大学法学部卒業
※コニカより1989年エニックスに転職
取締役:上條弘
事業開発室長
生年月日:1952年1月30日
出身地:神奈川県
最終学歴:1974年 神奈川大学経済学部卒業
※三和銀行より1990年エニックスに転職
取締役:高野豊
株式会社 エニックスアカデミー代表取締役社長
生年月日:1947年11月21日
出身地:埼玉県
最終学歴:1970年 日本大学理工学部卒業
※営団社募集サービスセンターに1976年入社
(学科が建築学科だったかどうかは不明ですが、社長の福嶋さんと同い年で同じ年に日大を卒業されています。
ひょっとしたら、大学時代からの友人・知人関係だったのかもしれません。また、ワインソムリエの方は同姓同名の方です。)
常勤監査役:舟田正男
生年月日:1926年6月16日
出身地:石川県
最終学歴:京都大学工学部卒業
監査役:河野先
生年月日:1932年1月28日
出身地:東京都
最終学歴:慶應義塾大学経済学部中退
福嶋康博 46.6%
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子 5.9%
千田幸信 2.2%
三和銀行 1.9%
高野豊 1.8%
川口貴雄 1.8%
東洋信託銀行 1.6%
三菱銀行 1.3%
才藤智宏 0.9%
⇒エニックスも含めた、当時株式上場していたゲームソフトメーカーの会社情報はこちらです【1993年1月】上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成はこうだった
1999年8月 エニックスは東京証券取引所第1部に上場を果たします。
東証2部を通さずに、ジャスダック上場から東証1部に直接上場できるように証券取引所のルールが変わっていたこと、エニックスの社内体制が整っていたこともありますが、この上場は、最高のタイミングでした。
時はあたかもネットバブル全盛期、ネット関連企業だけでなく、ゲーム業界の株価も上がっていたのです。
ジャスダック上場企業と東証1部上場企業では、創業者など大株主が所有してよい株数(パーセンテージ)に違いがあります。
福嶋さんは1部上場の折に福嶋さん個人と福嶋企画名義で保有していた持株を売却して、莫大なキャッシュを得ることになります。
そして、2001年5月に公示された長者番付では、納税額3億5,890万円で全国第56位登場。
エニックス会長 福嶋康博の名を知らしめることになりました。
福嶋康博さんが名を連ねた2001年分の長者番付全国トップ100名のリストです。他のゲーム会社の会長・社長や芸能人では、浜崎あゆみ・宇多田ヒカル・稲葉浩志・松本孝弘(B’z)が名を連ねています(新しいページが開きます)⇒【懐かしの平成】2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100にはこの人が登場していた。
すこし前後しますが、2000年10月にエニックスの経営体制は大きく変わります。
取締役 商品企画開発本部 ソフトウェア企画部長の本多圭司さんに代表取締役社長のバトンが渡されました。
当時本多さんは42歳の若さでした。
福嶋氏によると、社長就任を要請したのは、この半年前の2000年4月頃、関西出張の折だったとのことです。
本多圭司さんは1957年福岡県に生まれ。
大阪市立大学工学部建築学科を卒業後、早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程に進学。
修士課程を修了後は乃村工藝社に入社。
30歳を前に退職して、福嶋さん同様、海外放浪を経て、1987年に求人雑誌を見てエニックスに入社。
アメリカのエニックス・コーポレーションの責任者を経て、1997年に取締役に就任していました。
そして、福嶋さんは代表取締役会長になると、従来の事業は本多社長以下新体制に任せて、新規事業の開発に専念します。
2003年4月エニックスはスクウェアを吸収する形で合併、スクウェア・エニックスとなります。
裏話として、2000年頃に、スクウェアオーナーの宮本雅史さんより福嶋さんに合併話が持ち込まれましたが、福嶋さんが当時のスクウェアの経営状況を見て、あまりに開発部門がイケイケ過ぎるのを不安視していたので、断った経緯があります。
その後、スクウェアが映画事業失敗により、武市智行会長・坂口博信副社長の退任があり、和田洋一社長体制になったことから、福嶋さんの見る目が変わり、約3年後に再度持ち込まれた合併提案に賛成したという形です。
福嶋さんは同社のスクウェア・エニックス代表取締役会長を務めますが、2004年に相談役名誉会長に、2005年には名誉会長に退きます。
突然、代表権も取締役の職からも退いたことに、ゲーム業界は驚きました。
「取締役からも外れるなんて」という声が聞かれました。
まだ、福嶋さんは56歳という若さでした。
これに対する福嶋さんのコメントは、“「30年間、仕事のことだけを考えてきた。これからは人生について考えたい」”というものでした。
福嶋さんが事業家として20代から邁進してきた理由。
それは漠然とした不安でした。
いまのままいることに、常に不安を感じてしまう性格の持ち主だったのです。
その上、大変に慎重。
常に最悪を想定して事業に取り組むため、事業企画に自信があっても、常に不安がつきまとう。
成功の確率を上げるために必死に努力をして、事業の成功に確信を持っても、不安は消えない。
事業が大成功を収めても、大喜びすることはなく、
「そうか、うまくいったか」
と思うだけ。
だからこそ、事業家として成功され、大資産家にもなられたのだと思いますが、
ご自身で、“「昔からの友人に会ったとき、相手が会社員や公務員で、「仕事は楽しい?」と訊ねて、「そこそこ楽しいよ」という答えが返ってくると、相手がうらやましくて仕方ない」”と、気持ちを吐露されています。
中野ブロードウェイのフリーペーパー構想と持ち帰り寿司チェーン展開構想は失敗に終わりましたが、福嶋康博さんは事業家として、“当てる確率の高い方です”。
実際に、“「企画には自信があります」”と自負されていますし、エニックス自体をゲーム会社ではなく、“「現在、たまたまゲームソフト事業を中心にしているだけで、うちは企画会社」”と捉えられていました。
公団住宅の募集冊子から事業を始めて、東芝のオフィス向けコンピュータ代理店、ゲームソフト事業、すべてを当てています。
また、中国で醤油事業を展開して、何と中国で第2位にした実績もあります。(これは1位のメーカーがほぼ独占的なシェアを持っていたという事情もありますが)
実際、『ドラゴンクエスト』を中心にゲームソフト事業が大成して、上場企業となってからも、オフィス向けの机や椅子を安く輸入して中古販売を手掛けたり、2002年には早稲田大学とスポーツビービーという合弁会社を設立して、自ら先頭に立ってブロードバンド配信事業に取り組んだりしています。
しかし、どこまで事業で成功しても、スクウェアを吸収合併して、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』という強力IP・キラーコンテンツを保有するスクウェア・エニックスの会長になっても、福嶋さん自身、事業を通じて、自分自身の抱える不安を消すことはできなかった。
これが第一線から退かれた原因のようです。
実のところ福嶋さんは50歳のときに、経営から退く決意をされていました。
3年掛けて社内から後継者を選び、53歳のとき、3~4人いた後継者候補のなかから本多圭司さんを後継者に決めてからは、2年間、会長として見守った後、55歳で経営から完全に身を引くと決めていました。
おそらく、他の候補者は、
・取締役副会長 千田幸信さん
1950年9月29日岩手県生まれ。東海大学工学部中退。
CIS・ソフトウエア興業でプログラマー・システムエンジニアとして勤務後、エニックスの設立に参画した最古参メンバー。
(エニックス設立メンバーで、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサー。取締役⇒常務⇒専務⇒副会長を歴任)。
・取締役 出版事業部長 田口浩司さん
1961年11月3日福岡県生まれ。ラサール中学校・高等学校卒業。早稲田大学教育学部卒業。
早大在学中から編集プロダクション運営に携わり、卒業と同時に編集プロダクションを経営。27歳でエニックスに入社。
(営業担当としても実績を持ち、ゲーム事業・出版事業に事業部長として関わり、“エニックスお家騒動”でも、マッグガーデンと和解に持ち込むなど、数年前はTwitterで暴れておられましたが、旧エニックス時代は、部長や取締役に就任するスピードは早く、旧エニックスの社風が合っていたのであたりだったのではないかと思います。)
だったのではないかと思います。
また、2001年に起こった、いわゆる“エニックスお家騒動”がなければ、福嶋さんの第一線からの完全引退はもっと遅かったかも知れません。
おそらく、大きなショックだったでしょうから。
ゼロからエニックスの出版事業を収益の柱にしたのですから、福嶋さんもその力を認めていたでしょう。
・取締役 商品企画本部 出版企画部長 保坂 嘉弘さん。
1955年3月8日生まれ。亜細亜大学経済学部卒業。
漫画原作者を経て、1984年エニックス入社。1992年出版企画部長。1996年取締役。
現在、IGポート取締役。マッグガーデン代表取締役会長。
スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際のところのようです。
本来は、55歳での勇退を考えられていましたが、
スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際のところのようです。
実業の第一線から退いた福嶋さんは、若い頃、かつて放浪した東南アジアを巡る旅に出ます。
東南アジア4カ国を歴訪した福嶋さんは、そのひとつであったカンボジアでのボランティア活動に取り組み始めます。
カンボジア現地のNGO団体・CEDACと協力して困窮している家庭を自立させるための農業講習をおこないます。
モノを与えるのではなく、自立して生活するための知識や知恵を現地の人々に与えるのが福嶋流のようです。
そして、2003年8月に渋谷区初台に約1050坪の土地を購入します。
2005年11月、この地に福嶋康博邸は完成します。
地上2階・地下1階に加えて、バーベキューハウスも別にある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。
その後、福嶋さんは南米のゲーム事業に携わったり、東南アジアでボランティア活動をして過ごしているようです。
2012年まではスクウェア・エニックスホールディングスとスクウェア・エニックスの事業には関わらず、ボランティアに専念されていたようです。
また、2009年秋には、CESAでの活動が認められ、藍綬褒章を受章しました。
自由な大資産家。
20代で起業家の道を歩み始めた男は、70代にして人生を満喫しているように思えます。
https://www.youtube.com/watch?v=CSSmLYOSskc
福嶋康博さんは奥さまとの間に一男一女を儲けました。
息子さんは、福嶋さんが卒業した大学の附属高校を卒業後、スポーツ科学が学べる大学へ進学しました。
そして、息子さんが20歳を迎えた日に、福嶋さんは一冊の本をプレゼントしました。
福嶋さん自身「本は読まない」と公言しており、それは事実のようですが、そんな福嶋さんが、大切に読み返してきた本がありました。
それは、D・カーネギーの『人を動かす』でした。
-自分の幸、不幸は自分の行動、考え方で定まる。
この言葉は、福嶋さんがまだ故郷・北海道旭川市にいたころ、友人のお父さんが常日頃言っていた言葉を自分でアレンジした上で、自分の心に刻み、息子さんにもことあるごとに伝えられていたようです。
世間的に大成功を収めた福嶋康博のこの言葉は、深く響きます。
参考文献:
福嶋康博『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』
大下英治『エニックスの飛翔―実録・ゲーム業界戦国史』
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
心よりお礼を申し上げます。
何かございましたら、こちらまでお願いいたします。
人物伝
はる坊です。
この2021年2月10日で、任天堂ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストⅢ』の発売から33周年を迎えました。
ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。
それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。
お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。
[embed]https://www.youtube.com/watch?v=k4BEEzogc0U&t=743s[/embed]
『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。
また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、
「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、「えーっ、と思った」と語られています。
たしかに、真面目でビジネスマンというよりもクリエーター・職人気質の方だと思います。
すぎやまこういちさんとの対談でも、
“「プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。
僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。」”
と語られており、表舞台には立たずに裏方に徹することで、『ドラゴンクエスト』を支えてこられました。
千田幸信さんは、エニックス創業から、同社の取締役、常務、専務、副会長を務められ、スクウェア・エニックスとなってからも取締役を続投されました。
(こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任)
2008年10月からは持株会社のスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めてこられましたが、2021年6月をもって勇退をされました。
⇒こちらで本多圭司さんについてまとめました。エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司
替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサーを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。
千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。
1950年9月29日岩手県生まれ。血液型はO型。
1972年に東海大学工学部を中退。
奥様はソプラノ歌手の千田知都子さん。
何枚かCDをリリースされており、なかでも2002年にリリースされた『こころのうた』では、『ドラゴンクエスト』関連の曲も歌われています。
ドラゴンクエストⅡの『この道 わが旅』とドラゴンクエストⅦの『哀しみの日々』なのですが、ヴォカリーズ(いわゆるハミングですね。歌詞はなく、さだまさし『北の国から』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』を思い出していただけるとイメージがしやすいかと思います)で歌い上げられています。
また、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。
役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝確率統計論の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。
大学中退後は、1974年3月にCISに入社。
1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。
その後、1979年にエニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。
フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの創業に参画して取締役に就任。
このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして、福嶋氏が1974年8月に個人創業され、
翌1975年9月に設立された公団住宅情報誌発行会社である、株式会社営団社募集サービスセンターに1976年から勤められていた古参社員の高野豊氏の3名だけでした。
ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。
エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。
最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。
当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
・エニックスが無名会社だったから
社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)
それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。
千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。
最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。
ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。
依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。
鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。
⇒『ドラゴンクエスト』誕生にも関わった、鳥山明を見いだした名編集者・マシリトこと鳥嶋和彦は現在、白泉社代表取締役会長 兼 生涯ー編集者
そして四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。
中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。

エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。
最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。
審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。
中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。
そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。
このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。
また、エニックスはゲームの作者に対して、ゲームを買切りではなく印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。
中村さんは、上京したての大学生でありながらトヨタ・ソアラを手に入れ、飲食費や遊興代で月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。
代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。
中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。
堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。
しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー 千田幸信
ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。
音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。
キャラクターデザイン 鳥山明
音楽 すぎやまこういち
このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。
出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。
堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。
Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。
スケジュールを巡って千田さんは、社長の福嶋康博さんとかなりやりあっていたようですね。
ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。
中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。
そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン 鳥山明
音楽 すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー 千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。
マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』、
1992年の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、
1995年の『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、
そして1998年の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、プロデューサーを務め続けます。
それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。
この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。
1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、
ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当
とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。
もっとも、ゲームソフト事業においては、『ジャストブリード』のプロデューサーを務めた川口貴雄さんが取締役 ソフトウェア企画部長を務め、出版事業に関しては、同時に保坂嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが。
1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部長となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。
1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。
2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。
2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、
前述しましたように、2019年6月までスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務められました
1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。
1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、公募価格8,270円に対して上場時の初値は12,000円を付けました。
株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)
また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入(現在は、都心にある別のタワーマンションにお住まいです)。
エニックス上場による株式の売却益で、千田さんは1991年分の高額納税者(長者番付)では、納税額は7,107万円となっています。
(ちなみに、同年の納税額は、福嶋康博さんが3億2,950万円、堀井雄二さんが2,245万円です)
そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

馬主となった千田さんは所有馬に「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。
活躍した馬には
「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円
「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円
「バロンカラノテガミ」獲得賞金8936万円
「パブロカラノテガミ」獲得賞金5213万円
「ベルベットスマイル」獲得賞金4994万円
「ベガスカラノテガミ」獲得賞金4877万円
がいます。
中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。
ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの
「バランスオブゲーム」
「アブソリュート」
「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。
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2018年度にスクウェア・エニックス・ホールディングスが取締役である千田幸信さんに支払った役員報酬は2,900万円です。
すでに、事業会社のスクウェア・エニックスの取締役は退任されておられますので、スクウェア・エニックスの役員として受けとられる収入は年収2,900万円です。
2017年で常勤取締役のフィリップ ティモ ロジャースさんと本多圭司さんがホールディングスの役員を外れて、常勤の取締役は、社長の松田洋祐さんと千田さんの2名だけになりましたので、2017年度より報酬がアップしています。
ユニクロの持株会社であるファーストリテイリングは、長らく代表取締役会長兼社長の柳井正さん以外は、取締役を社外取締役で固めていましたが、持株会社の常勤取締役が2人体制というのには、若干の不安があります。
2018年6月に事業会社の専務取締役に橋本真司さん(1958年5月24日生まれ。駒沢大学経済学部卒業。バンダイ入社後は〝橋本名人〟として、ハドソンの高橋名人とともにファミコンブーム時に名を馳せ、その後、独立してソリッド(コブラチーム)を設立。ソリッドがスクウェアグループになると、スクウェア取締役、執行役員に就任。スクウェア・エニックスとなってからも執行役員・取締役を歴任が、千田さんの後継としてスクウェア・エニックス・ホールディングスの役員になられるかと思いましたが、
すでに退任をされています。
ちなみに、2017年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。
これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、
・代表取締役社長:松田洋祐さん
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円
・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円
・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円
この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。
また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。
そういえば、松田洋祐社長は町田市玉川学園の一戸建てにお住まいでしたが、社長就任後は港区のマンションに居を移されています。
賃貸か所有かは不明ですが、やはり本社に近い都心部に住まわれている方ほうが、代表取締役社長として、何かと便利です。
現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。
持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。
ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。
旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。
また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。
たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。
もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。
さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。
・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円
・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円
確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。
非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。
役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。
そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。
また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強。
ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。
もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。
千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。
この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。
果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
(※現在、当時の千田さんの顔写真が見られなくなっております。本当に申し訳ありません。)
どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・
ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。
エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。
エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。
タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。
そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。
千田さんも70歳。旧エニックス創業から走り続けて38年以上が経ちました。
現役から勇退された今、ユーザーのひとりとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。
以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。
千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。
本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?
⇒⇒(新しいページが開きます)
福嶋康博さんの後継者としてエニックス2代目社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司さんの足跡をまとめたページはこちらです。
⇒⇒エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんの足跡をまとめました
『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期をまとめたページはこちらです。
⇒『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!のページはこちらです(新しいタブが開きます)
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はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)
メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)
長者番付
はる坊です。
2001年分~2004年分の高額納税者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』上位20位までにランクインした面々を紹介させていただきます。はる坊です。
2001年分~2004年分の高額納税者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』上位20位までにランクインした面々を紹介させていただきます。
ちなみに吉本興業とエージェント契約を交わした加藤浩次は、2001年3月6日に有限会社加藤タクシーを資本金300万円で、東京都世田谷区内に設立している。これは収入が増加し、節税のために個人事務所設立をおこなったものと推測される。
また、2002年分以降は、個人としては高額収入を得ている漫画家の納税額やプロダクションの申告所得も参考データとして用意しました。
1位 石橋貴明 1億9416万円(とんねるず)
2位 みのもんた 1億5283万円
3位 中居正広 1億4378万円(SMAP)
4位 木梨憲武 1億3684万円(とんねるず)
5位 浜田雅功 1億1766万円(ダウンタウン)
6位 松本人志 1億0871万円(ダウンタウン)
7位 ビートたけし 1億0179万円
8位 飯島直子 9224万円
9位 木村拓哉 9016万円(SMAP)
10位 明石家さんま 8637万円
11位 松たか子 8035万円
12位 KONISHIKI 8013万円
13位 峰竜太 7887万円
14位 松嶋菜々子 7812万円
15位 田村正和 7799万円
16位 堺正章 7753万円
17位 中村玉緒 7738万円
18位 タモリ 7338万円
19位 香取慎吾 6907万円(SMAP)
20位 草彅剛 6839万円(SMAP)
1位 浜崎あゆみ 4億2611万円
2位 稲葉浩志 3億5746万円(B’z)
3位 宇多田ヒカル 3億1889万円
4位 松本孝弘 2億7771万円(B’z)
5位 桑田佳祐 2億1605万円(サザンオールスターズ)
6位 倉木麻衣 1億5587万円
7位 矢沢永吉 1億3124万円
8位 椎名林檎 1億1196万円
9位 MISIA 1億0374万円
10位 井上陽水 9797万円
11位 福山雅治 9328万円
12位 布袋寅泰 9323万円
13位 桜井和寿 9230万円(Mr.Children)
14位 藤井フミヤ 9115万円
15位 北川悠仁 8903万円(ゆず)
16位 TAKURO 8057万円(GLAY)
17位 竹内まりや 7944万円
18位 岩沢厚治 7031万円(ゆず)
19位 北島三郎 6211万円
20位 YUKI 6159万円(JUDY AND MARY)
1位 高橋留美子 2億2536万円(漫画家)
2位 千宗室 2億1371万円(茶道家元)
3位 秋元康 2億0218万円(作詞家)
4位 小室哲哉 1億8393万円(音楽プロデューサー)
5位 つんく 1億6541万円(音楽プロデューサー)
6位 青山剛昌 1億6234万円(漫画家)
7位 平山郁夫 1億3129万円(日本画家)
8位 浅利慶太 1億2288万円(舞台演出家)
9位 中島千波 1億0977万円(日本画家)
10位 堀井雄二 1億0106万円(ゲームデザイナー)
11位 久米宏 9870万円(ニュースキャスター)
12位 永六輔 9636万円(文筆家)
13位 伊秩弘将 8455万円(音楽プロデューサー)
14位 車田正美 8412万円(漫画家)
15位 大前研一 8062万円(経済評論家)
16位 石井和義 5518万円(K-1プロデューサー)
17位 小倉智昭 4854万円(司会者)
18位 赤塚不二夫 4767万円(漫画家)
19位 遠藤実 4478万円(作曲家)
20位 篠山紀信 4456万円(写真家)
1位 中居正広 1億6808万円(SMAP)
2位 みのもんた 1億6644万円
3位 石橋貴明 1億6126万円(とんねるず)
4位 浜田雅功 1億1992万円(ダウンタウン)
5位 木梨憲武 1億1862万円(とんねるず)
6位 松本人志 1億0453万円(ダウンタウン)
7位 松たか子 1億0158万円
8位 飯島直子 9094万円
9位 明石家さんま 9000万円
10位 木村拓哉 8422万円(SMAP)
11位 中村玉緒 8044万円
12位 峰竜太 7507万円
13位 堺正章 7368万円
14位 田村正和 7283万円
15位 タモリ 7013万円
16位 織田裕二 6967万円
17位 太田光 6910万円(爆笑問題)
18位 草彅剛 6885万円(SMAP)
19位 ビートたけし 6817万円
20位 志村けん 6671万円
1位 浜崎あゆみ 3億7761万円
2位 宇多田ヒカル 3億4358万円
3位 松本孝弘 3億1149万円(B’z)
4位 稲葉浩志 1億9751万円(B’z)
5位 MISIA 1億4729万円
6位 矢沢永吉 1億3428万円
7位 桑田佳祐 1億1838万円(サザンオールスターズ)
8位 桜井和寿 1億0815万円(Mr.Children)
9位 小田和正 1億0788万円
10位 中村正人 9164万円(DREAMS COME TRUE)
11位 降谷建志 9062万円(Dragon Ash)
12位 TAKURO 8111万円(GLAY)
13位 藤井フミヤ 7745万円
14位 吉田美和 7705万円(DREAMS COME TRUE)
15位 倉木麻衣 7658万円
16位 北島三郎 7221万円
17位 長渕剛 6987万円
18位 竹内まりや 6928万円
19位 山下達郎 6787万円
20位 布袋寅泰 6776万円
1位 竹村健一 2億7661万円(評論家)
2位 大川隆法 2億7168万円(幸福の科学 総裁)
3位 小室哲哉 2億4020万円(音楽プロデューサー)
4位 平山郁夫 1億9898万円(日本画家)
5位 千玄室 1億8372万円(前 茶道家元)
6位 浅利慶太 1億8350万円(舞台演出家)
7位 つんく 1億7235万円(音楽プロデューサー)
8位 高橋留美子 1億7214万円(漫画家)
9位 秋元康 1億6265万円(作詞家)
10位 許斐剛 1億5917万円(漫画家)
11位 青山剛昌 1億3512万円(漫画家)
12位 稲葉 賀惠 1億2809万円(ファッションデザイナー)
13位 大前研一 1億0306万円(経済評論家)
14位 小林祥晃 1億0046万円(Dr.コパ 風水師)
15位 石井和義 9299万円(K-1プロデューサー)
16位 久米宏 9016万円(ニュースキャスター)
17位 芦田淳 7424万円(ファッションデザイナー)
18位 浦沢直樹 6177万円(漫画家)
19位 阿久悠 5237万円(作詞家)
20位 松浦勝人 5221万円(音楽プロデューサー)
※1位の竹村健一はアメリカでの不動産投資に成功してのランクイン。
※10位の許斐剛は『テニスの王子様』人気で初登場。
また、売れっ子漫画家はプロダクションを作っていることが多く、その大半が法人化されている。
漫画家本人は社長や役員に就任しており、プロダクションから給与をもらう形で報酬を得ている。
これは、節税を兼ねており、1960年代よりこのシステムは導入されている。
2002年分の漫画家プロダクションの申告所得一覧は以下のとおり
尾田栄一郎 約7億0800万円 ビリーウッド
鳥山明 約6億1700万円 バードスタジオ
井上雄彦 約6億0700万円 アイティプランニング
高橋和希 約4億1200万円 スタジオダイス
藤子・F・不二雄 約3億7300万円 藤子エフ不二雄プロ
岸本斉史 約2億7100万円 スコット
北条司 約2億0600万円 アトリエねこまんま
武井宏之 約1億8300万円 武井プロダクション
秋本治 約1億8200万円 アトリエびーだま
やなせたかし 約1億5700万円 やなせスタジオ
矢沢あい 約1億5700万円 矢沢漫画製作所
河合りつ子 約1億5100万円 とっとこ堂
許斐剛 約1億3400万円 ティケィワークス
森川ジョージ 約1億2600万円 スタジオジェイ
小畑健 約9900万円 ノエル
水島新司 約7200万円 水島プロダクション
永井豪 約5800万円 ダイナミックプロダクション
弘兼憲史 約4900万円 ヒロカネプロダクション
1位 みのもんた 1億8647万円
2位 石橋貴明 1億5251万円(とんねるず)
3位 浜田雅功 1億2414万円(ダウンタウン)
4位 松本人志 1億2014万円(ダウンタウン)
5位 木梨憲武 1億1824万円(とんねるず)
6位 草彅剛 1億0907万円(SMAP)
7位 中村玉緒 9716万円
8位 飯島直子 9261万円
9位 木村拓哉 9186万円(SMAP)
10位 峰竜太 8376万円
11位 太田光 8149万円(爆笑問題)
12位 田中裕二 8071万円(爆笑問題)
13位 タモリ 7679万円
14位 織田裕二 7331万円
15位 ビートたけし 7200万円
16位 明石家さんま 6934万円
17位 上沼恵美子 6591万円
18位 志村けん 6210万円
19位 堂本光一 6132万円(KinKi Kids)
20位 大楠道代 6074万円
1位 稲葉浩志 3億0926万円(B’z)
2位 浜崎あゆみ 2億8237万円
3位 松本孝弘 2億7391万円(B’z)
4位 宇多田ヒカル 1億6873万円
5位 矢沢永吉 1億6508万円
6位 桑田佳祐 1億4955万円(サザンオールスターズ)
7位 MISIA 1億1937万円
8位 桜井和寿 1億1407万円(Mr.Children)
9位 井上陽水 1億1074万円
10位 藤井フミヤ 8789万円
11位 TAKURO 8064万円(GLAY)
12位 北島三郎 7829万円
13位 松田聖子 7773万円
14位 吉田美和 6809万円(DREAMS COME TRUE)
15位 椎名林檎 6585万円
16位 中島みゆき 6561万円
17位 河村隆一 6328万円(LUNA SEA)
18位 中村正人 6283万円(DREAMS COME TRUE)
19位 長渕剛 6097万円
20位 倉木麻衣 5678万円
1位 千宗室 1億9377万円(茶道家元)
2位 河合リツ子 1億7863万円(漫画家・とっとこハム太郎作者)
3位 浅利慶太 1億7765万円(舞台演出家)
4位 高橋留美子 1億7064万円(漫画家)
5位 千玄室 1億6544万円(前 茶道家元)
6位 青山剛昌 1億5943万円(漫画家)
7位 つんく 1億5160万円(音楽プロデューサー)
8位 大川隆法 1億4997万円(幸福の科学 総裁)
9位 綾小路きみまろ 1億3691万円(漫談家)
10位 秋元康 1億2787万円(作詞家)
11位 許斐剛 1億2267万円(漫画家)
12位 久石譲 1億2040万円(作曲家)
13位 石原まき子 9944万円(石原プロモーション会長)
14位 久米宏 9455万円(ニュースキャスター)
15位 平山郁夫 9327万円(日本画家)
16位 熊川哲也 9250万円(バレエダンサー)
17位 山本耀司 7983万円(ファッションデザイナー)
18位 小林祥晃 7617万円(Dr.コパ 風水師)
19位 小室哲哉 7575万円(音楽プロデューサー)
20位 芦田淳 7572万円(ファッションデザイナー)
21位 堀井雄二 7226万円(ゲームデザイナー)
※1位の千宗室は、茶道裏千家家元16代玄黙宗室。2003年に15代汎叟宗室から家元を継いだ。
※12位の久石譲はジブリ作品で有名な作曲家。
納税額1,000万円以上で公示された2003年分の漫画家の納税額一覧は以下のとおり
横山光輝 6231万円
赤塚不二夫 5793万円
車田正美 5754万円
佐藤秀峰 5257万円
浦沢直樹 4423万円
やなせたかし 4386万円
水島新司 3941万円
松本大洋 3752万円
浜岡賢次 3296万円
宮崎駿 2248万円
弘兼憲史 2148万円
宮下あきら 2116万円
あだち充 1713万円
中原アヤ 1623万円
山咲トオル 1586万円
かわぐちかいじ 1460万円
川原正敏 1447万円
江川達也 1327万円
やくみつる 1210万円
また、売れっ子漫画家はプロダクションを作っていることが多く、その大半が法人化されている。
漫画家本人は社長や役員に就任しており、プロダクションから給与をもらう形で報酬を得ている。
これは、節税を兼ねており、1960年代よりこのシステムは導入されている。
2003年分の漫画家プロダクションの申告所得一覧は以下のとおり
鳥山明 16億0500万円 バードスタジオ
尾田栄一郎 5億2400万円 ビリーウッド
藤子F不二雄 3億4400万円 藤子エフ不二雄プロ
許斐剛 3億0600万円 テイケイワークス
高橋和希 2億8200万円 スタジオダイス
やなせたかし 2億7400万円 やなせスタジオ
井上雄彦 2億6200万円 アイティプランニング
長谷川町子 2億4800万円 (財)長谷川町子美術館
佐藤秀峰 2億0800万円 佐藤漫画製作所
楳図かずお 1億4700万円 楳図プロダクション
森川ジョージ 1億3700万円 スタジオジェイ
矢沢あい 1億3600万円 矢沢漫画製作所
弘兼憲史 1億2800万円 ヒロカネプロダクション
けらえいこ 1億2800万円 ママレードカンパニー
高橋陽一 1億1900万円 ヨウヨウスタジオ
天王寺大 1億1600万円 天王寺大事務所
小畑健 1億1200万円 ノエル
岸本斉史 1億1100万円 スコット
水島新司 1億0500万円 水島プロダクション
武論尊 1億0000万円 プロダクション一家
秋本治 8600万円 アトリエびーだま
ハロルド作石 6400万円 作石プロ
石森章太郎 6400万円 石森章太郎プロ
臼井儀人 6300万円 らくだ社
北条司 5800万円 アトリエねこまんま
神尾葉子 5700万円 リーフプロダクション
武内直子 5000万円 プリンセス・ナオコ・プランニング
安彦良和 4800万円 九月社
ちばてつや 4300万円 ちばてつやプロダクション
手塚治虫 4200万円 手塚プロダクション
石森章太郎 4200万円 石森プロ
※石森章太郎プロとは別法人
高橋留美子 4000万円 るーみっくプロダクション
1位 みのもんた 2億0101万円
2位 中居正広 1億8745万円(SMAP)
3位 石橋貴明 1億5291万円(とんねるず)
4位 木梨憲武 1億3505万円(とんねるず)
5位 浜田雅功 1億2528万円(ダウンタウン)
6位 中村玉緒 1億0794万円
7位 松本人志 1億0738万円(ダウンタウン)
8位 太田光 1億0639万円(爆笑問題)
9位 田中裕二 1億0176万円(爆笑問題)
10位 木村拓哉 9803万円(SMAP)
11位 草彅剛 9796万円(SMAP)
12位 松たか子 8379万円
13位 島田紳助 8131万円
14位 峰竜太 7828万円
15位 タモリ 7690万円
16位 明石家さんま 7602万円
17位 田村正和 7332万円
18位 堺正章 7055万円
19位 ビートたけし 6932万円
20位 関口宏 6855万円
1位 宇多田ヒカル 3億6595万円
2位 稲葉浩志 1億7577万円(B’z)
3位 矢沢永吉 1億7042万円
4位 浜崎あゆみ 1億3785万円
5位 松本孝弘 1億2913万円(B’z)
6位 桑田佳祐 1億1906万円
7位 桜井和寿 1億1417万円(Mr.Children)
8位 長渕剛 1億0584万円
9位 藤井フミヤ 1億0093万円
10位 北島三郎 9445万円
11位 吉田美和 8994万円(DREAMS COME TRUE)
12位 槇原敬之 8254万円
13位 TAKURO 8081万円(GLAY)
14位 綾戸智恵 7456万円
15位 中村正人 7287万円(DREAMS COME TRUE)
16位 松田聖子 7211万円
17位 MISIA 7068万円
18位 中島みゆき 7037万円
19位 倉木麻衣 6396万円
20位 福山雅治 5860万円
1位 平山郁夫 1億6883万円(日本画家)
2位 高橋留美子 1億4271万円(漫画家)
3位 大川隆法 1億4160万円(幸福の科学 総裁)
4位 千玄室 1億4087万円(前 茶道家元)
5位 青山剛昌 1億3831万円(漫画家)
7位 秋元康 1億3407万円(作詞家)
8位 千宗室 1億2466万円(茶道家元)
9位 岸本斉史 1億1269万円(漫画家)
10位 つんく 1億1268万円(音楽プロデューサー)
11位 NIGO 1億0874万円(ファッションデザイナー)
12位 浅利慶太 9463万円(舞台演出家)
13位 石井和義 9292万円(K-1プロデューサー)
14位 河合りつ子 9238万円(漫画家・とっとこハム太郎作者)
16位 山本耀司 7951万円(ファッションデザイナー
)
17位 芦田淳 7362万円(ファッションデザイナー)
※6位に華道家の假屋崎省吾が登場。
※9位に登場した岸本斉史は『NARUTO』の作者。
※11位に登場したNIGOは裏原宿系ブランド〝A BATHING APE®〟の創業者。現在は同ブランドから離れて、〝HUMAN MADE〟のデザイナーや音楽プロデューサーとして活動。妻は女優の牧瀬里穂。
納税額1,000万円以上で公示された2004年分の漫画家の納税額一覧は以下のとおり
浦沢直樹 6266万円
井上雄彦 5726万円
赤塚不二夫 5679万円
やなせたかし 5654万円
車田正美 4174万円
水島新司 3276万円
宮下あきら 3039万円
福本伸行 2718万円
森川ジョージ 2554万円
川原正敏 2446万円
しげの秀一 2213万円
弘兼憲史 2131万円
あだち充 1940万円
佐藤秀峰 1433万円
かわぐちかいじ1344万円
江川達也 1236万円
2004年分の漫画家プロダクションの申告所得一覧は以下のとおり
鳥山明 14億8300万円 バードスタジオ
高橋和希 5億1000万円 スタジオダイス
藤子F不二雄 4億5600万円 藤子エフ不二雄プロ
長谷川町子 4億4700万円 (財)長谷川町子美術館
岸本斉史 3億7400万円 スコット
許斐剛 3億4700万円 テイケイワークス
尾田栄一郎 3億3300万円 ビリーウッド
やなせたかし2億7000万円 やなせスタジオ
井上雄彦 2億2000万円 アイティプランニング
北条司 2億0700万円 アトリエねこまんま
矢沢あい 2億0300万円 矢沢漫画製作所
佐藤秀峰 1億2200万円 佐藤漫画製作所
秋本治 1億2100万円 アトリエびーだま
弘兼憲史 1億0700万円 ヒロカネプロダクション
武井宏之 8400万円 武井プロダクション
天王寺大 8200万円 天王寺大事務所
けらえいこ 7900万円 ママレードカンパニー
高橋陽一 6900万円 ヨウヨウスタジオ
臼井儀人 6700万円 らくだ社
ハロルド作石 5400万円 作石プロ
石森章太郎 4700万円 石森章太郎プロ
永井豪 4000万円 ダイナミックプロダクション
※『ジョジョの奇妙な冒険』で有名な荒木飛呂彦
は、個人事務所
兼プロダクションの有限会社ラッキーランドコミュニケーションズで納税しているが、今回対象とした期間では、申告所得4,000万円未満で公示対象外だった。
しかし、公示されている年では、年間4~5,000万円の申告所得があったことが確認できる。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
長者番付
はる坊です。
1996年分~2000年分の高額納税者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』上位20位までにランクインした面々を紹介させていただきます。
3位 石橋貴明 1億6980万円(とんねるず)
4位 ビートたけし1億1113万円
5位 永六輔 1億0721万円
7位 三田佳子 9279万円
8位 タモリ 8245万円
9位 みのもんた 6532万円
10位 梅宮辰夫 6395万円
11位 飯島直子 6201万円
12位 関口宏 6170万円
13位 所ジョージ 5400万円
14位 峰竜太 5339万円
15位 明石家さんま 4943万円
16位 吉永小百合 4831万円
17位 中村吉右衛門 4701万円
18位 間寛平 4539万円
19位 地井武男 4479万円
20位 中村玉緒 4414万円
1位 藤井フミヤ 1億7532万円
2位 中村正人 1億4420万円(DREAMS COME TRUE
)
3位 竹内まりや 1億3370万円
4位 吉田美和 1億2875万円(DREAMS COME TRUE
)
5位 布袋寅泰 1億2266万円
6位 桜井和寿 1億2052万円(Mr.Children
)
7位 森進一 1億1232万円
8位 美川憲一 9989万円
9位 長渕剛 9878万円
10位 大黒摩季 9852万円
11位 桑田佳祐 9503万円
12位 松任谷由実 9316万円
13位 山下達郎 8801万円
14位 中島みゆき 8733万円
17位 矢沢永吉 7721万円
19位 飛鳥涼 6582万円(CHAGE&ASKA
)
20位 松田聖子 6528万円
1位 小室哲哉 10億0051万円(音楽プロデューサー)
2位 秋元康 4億2930万円(作詞家)
3位 小堀宗慶 3億7808万円(茶道家元)
4位 青山剛昌 3億0731万円(漫画家)
5位 薗部博之 2億8429万円(ゲームデザイナー)
6位 千宗室 2億5695万円(茶道家元)
7位 小林武史 2億0237万円(音楽プロデューサー)
8位 さとうふみや2億0029万円(漫画家)
9位 平山郁夫 1億8958万円(日本画家)
10位 千宗左 1億3775万円(茶道家元)
11位 井上雄彦 1億2575万円(漫画家)
12位 神尾葉子 1億1541万円(漫画家)
14位 秋本治 1億0227万円(漫画家)
15位 芦田淳 9227万円(ファッションデザイナー)
16位 水島新司 9179万円(漫画家)
17位 羽生善治 9122万円(棋士)
19位 コシノジュンコ 8300万円(ファッションデザイナー)
※4位の青山剛昌は、週刊少年サンデーに94年から連載を開始した
『名探偵コナン』が本格的に人気沸騰してのランクイン。
※5位の薗部博之はゲーム『ダービースタリオン』で有名なゲームクリエイター。
また、〝スタープログラマー〟〝バランスオブゲーム〟〝
アブソリュート〟〝インディーズゲーム〟などのサラブレッドを保有する馬主としても有名。
8位のさとうふみやは週刊少年マガジン連載の『金田一少年の事件簿』の作画担当。
11位の井上雄彦は96年夏に週刊少年ジャンプ
連載の『スラムダンク
』が終了するもランクイン。
12位の神尾葉子はマーガレット
に連載した『花より男子
』が大ヒット。現在までに6100万部を発行し、少女漫画史上最大の大ヒット作となった。
茶道・華道の家元関係は以下のとおり。
※3位の小堀宗慶・・・遠州流十二世。
※6位の千宗室・・・茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。現在の千玄室
※10位の千宗左・・・茶道表千家13代家元
※20位の池坊専永・・・華道池坊華道家元四十五世。
1位 石橋貴明 3億1050万円(とんねるず)
2位 松本人志 1億8888万円(ダウンタウン)
4位 三田佳子 1億3043万円
5位 松たか子 1億1515万円
6位 木梨憲武 1億0508万円(とんねるず)
7位 ビートたけし 9987万円
8位 峰竜太 9441万円
9位 タモリ 9149万円
10位 永六輔 9066万円
11位 堺正章 7542万円
12位 飯島直子 7088万円
13位 黒柳徹子 6999万円
14位 中村玉緒 6890万円
15位 鈴木京香 6729万円
16位 菅野美穂 6583万円
17位 みのもんた 6484万円
18位 松本幸四郎 6421万円(二代目松本白鸚)
19位 関口宏 5945万円
20位 所ジョージ 5752万円
1位 藤井フミヤ 2億6995万円
2位 桑田佳祐 1億3777万円
3位 槇原敬之 1億3612万円
4位 桜井和寿 1億2421万円(Mr.Children)
5位 森進一 1億1826万円
7位 松田聖子 1億1626万円
9位 草野マサムネ 1億0140万円(スピッツ)
10位 稲葉浩志 9982万円(B’z)
11位 松任谷由実 9612万円
12位 木村拓哉 8835万円(SMAP)
13位 五木ひろし 8586万円
14位 長渕剛 8395万円
16位 井上陽水 8185万円
18位 吉井和哉 7815万円(THE YELLOW MONKEY
)
19位 中島みゆき 7497万円
1位 小室哲哉 11億7342万円(音楽プロデューサー)
2位 秋元康 3億7789万円(作詞家)
3位 青山剛昌 3億0615万円(漫画家)
4位 平山郁夫 2億7040万円(日本画家)
5位 千宗室 2億7025万円(茶道家元)
6位 薗部博之 2億3801万円(ゲームデザイナー)
7位 織田哲郎 2億1906万円(音楽プロデューサー)
8位 東山魁夷 1億4549万円(日本画家)
9位 芦田淳 1億3824万円(ファッションデザイナー)
10位 千宗左 1億3060万円(茶道家元)
11位 神尾葉子 1億2096万円(漫画家)
12位 妹尾河童 1億1501万円(舞台芸術家)
13位 小林武史 1億0708万円(音楽プロデューサー)
14位 さとうふみや 1億0471万円(漫画家)
15位 久米宏 1億0002万円(ニュースキャスター)
16位 堀井雄二 8772万円(ゲームデザイナー)
17位 秋本治 8648万円(漫画家)
18位 池坊専永 8634万円(華道家元)
19位 浅利慶太 7992万円(舞台演出家)
20位 永楽即全 7612万円(陶芸家)
1位 石橋貴明 2億8809万円(とんねるず)
2位 浜田雅功 1億8230万円(ダウンタウン)
3位 松本人志 1億6352万円(ダウンタウン)
4位 松たか子 1億5433万円
5位 飯島直子 1億2680万円
6位 中村玉緒 1億1489万円
7位 木梨憲武 1億1217万円(とんねるず)
8位 ビートたけし 1億0917万円
9位 タモリ 9918万円
10位 堺正章 9906万円
11位 木村拓哉 7258万円(SMAP)
12位 樹木希林 7123万円
13位 内村光良 はる坊です。 1975年分~1979年分の高額所得者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』のベストテンにランクインした面々を紹介させていただきます。 1982年分までは、納税額ではなく、“申告所得”額が公示されていました。 実際の年収-必要経費=申告所得 となります。 ちなみにこの必要経費ですが、芸能人の場合、対象となるのは、 この時代、交通費・衣装代・楽器大。交際費などで、最大限で収入の約40%までが認められており、男性芸能人より女性芸能人のほうが、化粧品代や衣装代がかさむという理由で、やや多めに認められていたようです。 また、この時代は所得税率と住民税率が高額(最高で年収の93%!)だった為、芸能人は、所属している事務所・プロダクションとは別に、個人事務所として株式会社・有限会社を設立して、自らは給与・役員報酬を受け取る形にして、節税に励むのが当然の防衛策でした。 それでは、1975年分から1979年分までの芸能界長者番付データをご覧いただきますが、1979年分に関しては資料が揃っている為、10位以下の俳優・タレント・歌手・その他文化人のデータが充実したものとなっております。 1位 藤山寛美 2位 大川橋蔵 3位 高田浩吉 4位 石原裕次郎 5位 三波伸介 6398万円 6位 坂上二郎 5862万円 7位 尾上松緑 5377万円(二代目) 8位 森光子 5307万円 9位 丹波哲郎 5019万円 10位 長谷川一夫 4872万円 1位 井上陽水 1億1226万円 2位 五木ひろし 8995万円 3位 美空ひばり 8066万円 4位 吉田拓郎 7822万円 5位 南こうせつ 7371万円 6位 森進一 7290万円 7位 伊勢正三 5785万円 8位 水前寺清子 5702万円 9位 布施明 5408万円 10位 前川清 4835万円 1位 勅使河原蒼風 3億1352万円(華道家元) 2位 小原豊雲 2億3192万円(華道家元) 3位 池坊専永 1億6041万円(華道家元) 4位 勅使河原霞 1億3948万円(華道家元) 5位 千宗室 1億3063万円(茶道家元) 6位 古賀政男 1億0998万円(作曲家) 7位 千宗左 9631万円(茶道家元) 8位 水島新司 9330万円(漫画家) 9位 千家和也 8825万円(作詞家) ※勅使河原蒼風・・・いけばな草月流創始者 1位 藤山寛美 1億4568万円 2位 大川橋蔵 8390万円 3位 石原裕次郎 4位 坂上二郎 6719万円 5位 小林桂樹 5632万円 6位 三波伸介 5595万円 7位 山村聡 8位 森光子 4549万円 9位 愛川欽也 4285万円 10位 浜木綿子 1位 井上陽水 2位 南こうせつ 9617万円 3位 美空ひばり 7995万円 4位 五木ひろし 7316万円 5位 前川清 7236万円 6位 布施明 7位 森進一 5795万円 8位 橋幸夫 4920万円 9位 矢沢永吉 10位 佐良直美 4661万円 1位 勅使河原蒼風 2億4308万円(華道家元) 2位 小原豊雲 1億8652万円(華道家元) 3位 池田理代子 4位 千宗室 1億6219万円(茶道家元) 5位 水島新司 1億2015万円(漫画家) 6位 千宗左 1億1749万円(茶道家元) 7位 木下恵介 8位 吉田拓郎 9470万円(作曲家 9位 田中仙翁 8430万円(茶道家元) 10位 平山郁夫 8120万円(日本画家 ※3位の池田理代子は『ベルサイユのばら ※8位の吉田拓郎は、提供曲の大ヒットにより、作詞・作曲家扱いとなり、その他・文化人部門にランクイン。 ※9位の田中仙翁は、大日本茶道学会第四代会長 1位 藤山寛美 1億6415万円 2位 石原裕次郎 3位 大川橋蔵 9176万円 4位 中村伸郎 6688万円 5位 坂上二郎 6373万円 6位 山城新伍 6363万円 7位 草刈正雄 8位 渥美清 9位 加山雄三 10位 黒柳徹子 5585万円 1位 井上陽水 9621万円 2位 矢沢永吉 3位 布施明 6616万円 4位 松任谷由実 6524万円 5位 南こうせつ 6325万円 6位 五木ひろし 6015万円 7位 前川清 5805万円 8位 美空ひばり 5729万円 9位 森進一 5205万円 10位 越路吹雪 1位 水島新司 2億9167万円(漫画家) 2位 古賀政男 2億4448万円(作曲家) 3位 千宗室 2億3771万円(茶道家元) 4位 勅使河原蒼風 2億2034万円(華道家元) 5位 小原豊雲 1億8453万円(華道家元) 6位 池沢さとし 1億4527万円(漫画家)『サーキットの狼 7位 森英恵 9770万円(服飾デザイナー) 8位 阿久悠 9121万円(作詞家) 9位 田中仙翁 8634万円(茶道家元) 10位 中村乃武夫 8461万円(服飾デザイナー) 1位 草刈正雄 2位 大川橋蔵 9708万円 3位 石原裕次郎 4位 黒柳徹子 8285万円 5位 坂上二郎 7512万円 6位 森繁久弥 6971万円 7位 小林桂樹 6673万円 8位 森光子 6373万円 9位 山田五十鈴 6330万円 10位 三田佳子 6017万円 1位 矢沢永吉 2位 南こうせつ 7833万円 3位 五木ひろし 6645万円 4位 谷村新司 6383万円 5位 北島三郎 5959万円 6位 越路吹雪 5655万円 7位 森進一 5508万円 8位 イルカ 5374万円 9位 沢田研二 10位 山口百恵 1位 勅使河原蒼風 2億8742万円(華道家元) 2位 千宗室 2億6318万円(茶道家元) 3位 水島新司 2億1605万円(漫画家) 4位 小原豊雲 1億9465万円(華道家元) 5位 荒川豊蔵 1億5632万円(陶芸家) 6位 阿久悠 1億3953万円(作詞家) 7位 清水六兵衛 1億2748万円(陶芸家) 8位 加山又造 1億2432万円(日本画家) 9位 遠藤実 1億2082万円(作曲家) 10位 梅原龍三郎 1位 石原裕次郎 2位 森光子 1億0991万円 3位 市川染五郎 1億0235万円(初代松本白鸚) 4位 大川橋蔵 9811万円 5位 山城新伍 9616万円 6位 坂上二郎 9482万円 7位 黒柳徹子 8997万円 8位 三波伸介 8979万円 9位 草刈正雄 7757万円 10位 西川きよし 7752万円 11位以下 小林桂樹 7497万円 いかりや長介 7494万円 若山富三郎 7188万円 田中邦衛 6549万円 井上順 6488万円 高田浩吉 6432万円 桃井かおり 6370万円 森繁久彌 6359万円 大橋巨泉 6312万円 桂三枝 5964万円 尾上辰之助 5951万円 尾上松緑 5923万円 高島忠夫 5796万円 高橋英樹 5747万円 山口百恵 5520万円 西田敏行 5506万円 水沢アキ 4976万円 寺島純子 4957万円 尾上菊五郎 4949万円 山田五十鈴 4935万円 萩本欽一 4750万円 若尾文子 4676万円 渡哲也 4585万円 京塚昌子 4533万円 竹下景子 4471万円 山村聰 4454万円 浜木綿子 4315万円 大原麗子 4290万円 石坂浩二 4234万円 鶴田浩二 4206万円 加山雄三 4200万円 三船敏郎 4192万円 藤山寛美 4167万円 二谷英明 4120万円 水谷豊 3989万円 佐久間良子 3929万円 大竹しのぶ 3820万円 佐分利信 3741万円 川谷拓三 3707万円 渡辺文雄 3695万円 池内淳子 3681万円 川崎敬三 3670万円 フランキー堺 3669万円 萩原健一 3619万円 岩下志麻 3509万円 1位 美空ひばり 2億8363万円 2位 矢沢永吉 3位 谷村新司 1億3613万円 4位 南こうせつ 1億1054万円 5位 五木ひろし 7364万円 6位 田端義夫 6342万円 7位 北島三郎 5880万円 9位 山口百恵 10位 さだまさし 11位以下 森進一 5109万円 越路吹雪 4963万円 吉田拓郎 4892万円 村田英雄 4540万円 松山千春 4461万円 堀内孝雄 4458万円(当時、アリス) 三波春夫 4232万円 青江三奈 4152万円 三橋美智也 4084万円 橋幸夫 4076万円 布施明 4044万円 イルカ 3877万円 西城秀樹 3827万円 フランク永井 3769万円 沢田研二 3754万円 野口五郎 3374万円 前川清 3334万円 井上陽水 3280万円 水前寺清子 3242万円 小柳ルミ子 3166万円 渡辺真知子 3164万円 五輪真弓 3099万円 春日八郎 2980万円 松任谷由実 2862万円 ※1978年から1979年に掛けて、 ※また、すでに人気のピークは過ぎていたピンクレディーのふたりは、 1位 千宗室 2億7537万円(茶道家元) 2位 小原豊雲 2億5230万円(華道家元) 3位 遠藤実 2億1781万円(作曲家) 4位 勅使河原蒼風 1億9784万円(華道家元) 5位 東山魁夷 1億8102万円(日本画家) 6位 西崎義展 7位 梅原龍三郎 1億7020万円(洋画家) 8位 加山又造 1億6272万円(日本画家) 9位 阿久悠 1億4374万円(作詞家) 10位 森英恵 1億2872万円(服飾デザイナー) 11位以下 清水六兵衛 1億2091万円(陶芸家・公示時、故人) 水島新司 1億1747万円(漫画家) 小磯良平 1億1681万円(画家) 吉村華泉 1億1259万円(華道家元) 平山郁夫 1億1251万円(画家) 中村乃武夫 1億0864万円(服飾デザイナー) 小田恒雄 1億0654万円(画家) 肥原康甫 9898万円(華道家元) 千芩一郎 8741万円(茶道家元) 木下恵介 8182万円(映画監督) 吉田正 6428万円(作曲家) 松本零士 5994万円(漫画家) 藤本弘 5596万円(漫画家 藤子・F・不二雄) 安孫子素雄 5556万円(漫画家 藤子不二雄A) 秋山庄太郎 5376万円(写真家) 鶴岡一人 5067万円(野球評論家) はらたいら 4895万円(漫画家) 東海林さだお 4870万円(漫画家) 浪越徳治郎 4504万円(指圧師) 手塚治虫 4135万円(漫画家) 花柳寿輔 4010万円(舞踊家元) ちばてつや 3975万円(漫画家) 筒美京平 3900万円(作曲家) 黒川紀章 3834万円(建築家) 西川鯉三郎 3771万円(舞踊家元) 岩谷時子 3751万円(作詞家) 園山俊二 3750万円(漫画家) 里中満智子 3720万円(漫画家) 山川啓介 3613万円(作詞家) 團伊玖磨 3467万円(作曲家) 池田大作 3450万円(宗教家) 星野哲郎 3409万円(作詞家) 小林亜星 3372万円(作曲家) 宮川泰 3324万円(作曲家) 山藤章二 3295万円(イラストレーター) 和田誠 3229万円(イラストレーター) 太田博之 3213万円(元俳優・小銭すし創業者・社長) 田村魚菜 3161万円(料理研究家) 別所毅彦 3065万円(野球評論家) 都倉俊一 3036万円(作曲家) 阿木燿子 2904万円(作詞家) 宇崎竜童 2843万円(作曲家) 楳図かずお 2821万円(漫画家) 芥川也寸志 2778万円(作曲家) 入江徳郎 2675万円(ジャーナリスト・「ニュースコープ」キャスター) 金田正一 2580万円(野球評論家) 竜真知子 2523万円(作詞家) ⇒現在でも活躍中の人物がランクインしている1980年分~1985年分はこちらです 平成のアスリート界を彩ったスポーツ選手・プロアスリートの長者番付はこちらです。 6833万円(ウッチャンナンチャン
1970年代の話
長者番付を振り返ってみましょうか(1975年分~1979年分 俳優・タレント・歌手&文化人部門)
申告所得額とは、実収入から必要経費を差し引いた額です。1975年分芸能界長者番付申告所得額
俳優・タレント部門
1億2502万円
8052万円
7706万円
6443万円
歌手部門
その他・文化人部門
※小原豊雲・・・いけばな小原流三世家元
※池坊専永・・・華道池坊華道家元四十五世
※勅使河原霞・・・いけばな草月流二代目家元
※千宗室・・・茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。現在の千玄室
※千宗左・・・茶道表千家13代家元1976年分芸能界長者番付申告所得額
俳優・タレント部門
8043万円
4737万円
4230万円
歌手部門
1億3298万円
6126万円
4775万円
その他・文化人部門
1億6285万円(漫画家)
9695万円(映画監督)
)
)
(ベルバラ)』の連載は終了していたものの、同作を宝塚歌劇団が演劇化したことにより大ヒットしたことによるもの。
1977年分芸能界長者番付申告所得額
俳優・タレント部門
9399万円
6270万円
6221万円
5697万円
歌手部門
8282万円
4533万円
その他・文化人部門
』
1978年分芸能界長者番付申告所得額
俳優・タレント部門
1億3405万円
9345万円
歌手部門
1億7123万円
4075万円
4015万円
その他・文化人部門
1億1776万円(洋画家)
1979年分芸能界長者番付申告所得額
俳優・タレント部門
1億1008万円
歌手部門
1億7763万円
5520万円
5307万円
「ガンダーラ」「Monkey Magic」「ビューティフル・ネーム」「銀河鉄道999」が大ヒットして、
人気のピークを迎えたゴダイゴは、
株式会社ゴダイゴからメンバーが給与を受け取る仕組みだった為、
プロデューサー・作詞担当の奈良橋陽子が申告所得1965万円。
ボーカル・作曲担当のタケカワユキヒデが申告所得2203万円。
編曲担当のミッキー吉野が申告所得1011万円。
ミー(未唯mie)とケイ(増田恵子)ともに、申告所得は1149万円。
人気とは裏腹に月給制でしかも薄給だったという話を裏付けるデータになる。その他・文化人部門
1億7049万円(『宇宙戦艦ヤマト
』プロデューサー)
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