印税だけで食べていける作家 長者番付・作家部門(1989年分~1995年分)
はる坊です。
個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。
ここでは1989年(平成元年)から1995年(平成7年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。
この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。
1989年(平成元年)分所得税納税額
個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。
ここでは1989年(平成元年)から1995年(平成7年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。
この時代、新刊の小説本が売れた最後の時期にあたっており、作家には印税収入を主として、まだ大きな収入がありました。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。
長者番付・作家部門(1989年分~1995年分)です
1989年(平成元年)分所得税納税額
1位 赤川次郎 4億6173万円
2位 西村京太郎 2億6262万円
3位 吉本ばなな 2億3699万円
4位 村上春樹 1億5111万円
5位 司馬遼太郎 1億4012万円
6位 池波正太郎 1億0920万円
7位 西村寿行 9508万円
8位 菊地秀行 8208万円
9位 渡辺淳一 7829万円
10位 藤島泰輔 7197万円
11位 藤川桂介 7190万円
12位 笹沢左保 6656万円
13位 遠藤周作 6637万円
14位 山村美紗 6485万円
15位 斎藤栄 6011万円
16位 内田康夫 5759万円
17位 森村誠一 5718万円
18位 椎名誠 5671万円
19位 胡桃沢耕史 5526万円
20位 田中芳樹 5103万円
※10位にランクインしている藤島泰輔は、作家・評論家として活動。学習院時代の学友だった明仁天皇(上皇明仁)をモデルにした『孤獨の人』で衝撃的なデビューを果たす。
〝在日フランス人〟ポール・ポネ名義での著作もある。
また、ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川の妹、藤島メリー泰子とのあいだに藤島ジュリー景子を儲けている。
馬主としても有名でランニングフリーなど名馬を所有していた。
収入には、本業の作家活動の他、ジャニーズ事務所からの役員報酬。馬主としての収入が大きかったといわれている。
1990年(平成2年)分所得税納税額
1位 赤川次郎 3億7980万円
2位 西村京太郎 2億4497万円
3位 司馬遼太郎 1億1140万円
4位 松本清張 8736万円
5位 菊地秀行 8622万円
6位 西村寿行 8185万円
7位 田中芳樹 7944万円
8位 内田康夫 7927万円
9位 渡辺淳一 7572万円
10位 斎藤栄 7266万円
11位 門田泰明 6705万円
12位 笹沢左保 6618万円
13位 山村美紗 6578万円
14位 遠藤周作 6239万円
15位 椎名誠 6127万円
16位 落合信彦 5929万円
17位 森村誠一 5801万円
18位 藤島泰輔 5760万円
19位 村上春樹 5890万円
20位 田辺聖子 5404万円
※20位圏外で登場した作家
北方謙三 3716万円
森瑤子 3095万円
大藪春彦 2890万円
柳田邦男 2081万円
草柳大蔵 1709万円
1991年(平成3年)分所得税納税額
1位 赤川次郎 3億5512万円
2位 西村京太郎 2億5489万円
3位 内田康夫 1億7140万円
4位 司馬遼太郎 9101万円
5位 椎名誠 8577万円
6位 山村美紗 8404万円
7位 菊地秀行 8325万円
8位 遠藤周作 8171万円
9位 落合信彦 7378万円
10位 笹沢左保 7290万円
11位 渡辺淳一 6643万円
12位 田中芳樹 6508万円
13位 森村誠一 6414万円
14位 斎藤栄 6003万円
15位 山崎豊子 5315万円
16位 橋本治 5294万円
17位 門田泰明 5062万円
18位 陳舜臣 4933万円
19位 豊田行二 4794万円
20位 松本清張 4393万円
※20位圏外で登場した作家
西村寿行 3873万円
森瑤子 3737万円
大藪春彦 3692万円
北方謙三 3584万円
夢枕獏 2875万円
草柳大蔵 2078万円
柳田邦男 1602万円
1992年(平成4年)分所得税納税額
1位 赤川次郎 3億5093万円
2位 西村京太郎 2億3698万円
3位 内田康夫 1億8649万円
4位 司馬遼太郎 1億1944万円
5位 菊地秀行 7890万円
6位 田中芳樹 7650万円
7位 渡辺淳一 7318万円
8位 山村美紗 7261万円
9位 豊田行二 7187万円
10位 辺見じゅん 7155万円
11位 森村誠一 6530万円
12位 斎藤栄 5902万円
13位 椎名誠 5728万円
14位 荒巻義雄 5486万円
15位 落合信彦 5244万円
16位 津本陽 5233万円
17位 門田泰明 4846万円
18位 笹沢左保 4822万円
19位 平岩弓枝 4720万円
20位 宮本輝 4673万円
※20位圏外では、
西村寿行が納税額4098万円
夢枕獏が納税額2000万円
佐木隆三が納税額1127万円で登場している。
1993年(平成5年)分所得税納税額
1位 赤川次郎 3億2209万円
2位 西村京太郎 2億2168万円
3位 内田康夫 1億7412万円
4位 司馬遼太郎 9969万円
5位 山村美紗 8624万円
6位 津本陽 7765万円
7位 森村誠一 7689万円
8位 荒巻義雄 7680万円
9位 菊地秀行 6970万円
10位 斎藤栄 6650万円
11位 宮尾登美子 6384万円
12位 藤沢周平 6351万円
13位 椎名誠 6050万円
14位 童門冬二 5686万円
15位 渡辺淳一 5365万円
16位 志茂田景樹 5272万円
17位 豊田行二 5224万円
18位 遠藤周作 5029万円
19位 平岩弓枝 4979万円
20位 門田泰明 4777万円
1994年(平成6年)分所得税納税額
1位 赤川次郎 3億2209万円
2位 西村京太郎 2億2500万円
3位 内田康夫 1億7700万円
4位 司馬遼太郎 1億0287万円
5位 森村誠一 8864万円
6位 斎藤栄 7957万円
7位 菊地秀行 7586万円
8位 荒巻義雄 6786万円
9位 椎名誠 6694万円
10位 津本陽 6449万円
11位 山村美紗 5991万円
12位 藤沢周平 5986万円
13位
※2022年1月22日加筆修正をおこないました。 はる坊です。 1990年代以降の西村寿行と、その晩年について綴っていきます。 世間はバブル景気崩壊により長い不況のトンネルに入っていた1993年。 62歳となっていた西村寿行は執筆意欲も薄くなり、代々木の仕事場で過ごす時間は多かったものの、この年には、『幻獣の森』『魔性の岩鷹』の2冊のみが発行されています。 そして、5月31日。 西村寿行は重大な宣告を受けることになります。 西村が体調の異変に気付いたのは、その1、2ヶ月前のことです。 喉にチクッチクッと痛みを感じるようになったのです。最初は、魚の小骨が喉に刺さったと思ったようです。 体調の異変を感じ始めた西村は、いつからか、かかりつけとなった、西新宿の会員制クリニックに赴いて、内視鏡検査を受けます。 そして、1週間後、仕事場にほど近い大学附属病院で、飲み友達になっていた医師から電話が掛かってきました。 しかし、病院で待っていたのは、残酷な宣告でした。 医師は西村の身体が癌に蝕まれていることを告げられます。 「ほっておいたら、どうなります?」と訊ねた西村に医師は、 と医師に告げます。 西村は混乱しながらも入院を決意します。 病院は自宅からも比較的近い場所にありましたが、西村はただ独りの時間を過ごします。 見舞い・面会は不要。 家族も一人娘が手続きに来たときに、立ち寄っただけでした。 家族仲が悪かったわけではありません。 そして、家族も西村の気性を理解していました。 出版関係では、ただひとり、徳間書店の編集者に電話連絡をするのみでした。 大学付属病院の院長が主治医となり、ガン治療を33回の放射線照射でおこなうことに決定します。 毎朝、早くにおこなわれる数分の放射線治療が終わると、西村は病院を抜け出します。 (病院では死にたくない)と決意した彼は身体を鍛える為に、山歩きに没頭します。 しかし、最初に向かったのは庶民の山岳信仰で知られる大山でした。 やはり、ガン=死という幻影が、西村を大山へ駆り立てたのではないかと思います。 毎日のように丹沢山系を歩いたおかげで、西村の足腰はすっかり丈夫になります。 元々、作家になる前は、狩猟に生きていた時期もあり、山歩きをしていた西村ですが、このときの山歩きは、また別の思いを持ちながら歩を進めて行ったと思います。 下咽頭癌治療は手術こそしないものの辛いものとなり、放射線照射で放射線による火傷が頸部全体に広がり、内部までもが爛れました。 西村はネルシャツにジーンズ、そして首回りにスカーフを巻くというファッションを好みました。 喉麻酔をしなくては、食事が採れない状態になりましたが、33回の照射治療でがん細胞は西村寿行の身体から消えました。 しかし、退院した西村寿行を待っていたのは、痛恨の出来事でした。 入院して2週間は誰にも会いませんでしたが、考えをあらためて信頼していた徳間書店と光文社の担当編集者と丹沢の温泉旅館で食事をします。 温泉旅館での席で、西村は旧知の週刊誌記者が胃癌で入院したことを知らされます。 その記者は、西村が孤北丸という名のサロン・クルーザーを所有していたとき、キャプテンを務めた人物でした。 西村寿行が所有していたサロンクルーザー・孤北丸については、徳間文庫版『雲の城』の巻末に『サロン・クルーザー』というエッセイが掲載されています。amazon kindleやDMM電子版でも読めます。 自らのガン治療を終えて退院した西村は、早速タクシーを飛ばして彼の元へ向かいました。 記者の死の3週間前に、彼の妻が西村担当の編集者とともに、西村の元へ訪れます。 そして、 「しっかりとした病院へ移りたい」 と本人が言っていると聞かされます。 最初に行った病院では胃潰瘍と診断されたこと、現在入院している病院では、医師は何もしてくれないという、訴えも聞かされることになります。 しかし、すべては遅すぎました。 「俺が入院するとき、誰にも会わないと言わなければ・・・」 災難は更に降りかかります。 ガン治療と右手首の粉砕骨折での入院。 これらのことが、西村寿行を執筆から更に遠ざけた気がしてなりません。 かつての勢いをなくし、酒に耽溺する時間の増えた西村から離れる編集者もいました。 それでも、かつての西村を知る編集者は、雑誌連載や短編掲載で、西村を盛りたてようとします。 1994年『深い眸(中編集)』(光文社)(小説宝石掲載) 1995年『幻覚の鯱―神軍の章』(講談社) 1995年『世にも不幸な男の物語(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載) 1995年『デビルズ・アイランド』(角川書店) 1996年『大厄病神』 1997年『鷲』(徳間書店) 1998年『牡牛の渓(短編集)』(光文社)(小説宝石掲載) 1998年『幻覚の鯱―天翔の章』(講談社)(小説現代増刊 メフィスト連載) 2000年『月を撃つ男』(光文社)(小説宝石 1999年4月号~9月号連載) 2001年『碇の男(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載) まだ、小説現代の臨時増刊号という位置づけで、誌面の性格が決まっていなかったことも影響していたでしょうが、『幻覚の鯱―神軍の章』が、『メフィスト』に連載されていたのは少し意外な気がします。 このほかに、短編集や中編集を違うタイトルで二次出版化されたものもありますが、それらは省きました。 1994年~2001年までに刊行された本は、ピーク時なら1年で刊行していた冊数です。 そして、2000年10月に同誌に掲載された短編『刑事』(『碇の男』に収録)を最後に西村寿行の新作小説が発表されることはありませんでした。 西村は晩年、家族を自宅とは別にマンションに住まわせ、西村とボスと名付けた一頭の紀州犬と邸宅に籠もり、週末だけ家族と食事を共にする生活となりました。 『犬族からの通信』という近況報告を兼ねたエッセイが、2001年から徳間書店の小説誌『問題小説』に連載されていた時期もありますが、いつのまにかそれもなくなり、死の数年前に執筆していたという、自らの半生記もついに公に発表されることはありませんでした。 体調を損ねながらもアルコールの量は減ることなく、一人娘が注意しても聞き入れませんでした。 西村曰く、 〝俺はアルコールと妄想と幻覚で生きていたんだ〟。 そして、2007年8月23日朝。 死因は肝不全。 徳間書店発行の『問題小説』では、【追悼・西村寿行】と題して、出世作となった『君よ憤怒の河を渉れ』が全編再掲載されました。 通夜と告別式は近親者のみでひっそりとおこなわれました。 西村は自他共に認める〝晴れ男〟でした。 この会が執り行われてから、『遺言状』の全文が光文社発行の『小説宝石』に掲載されました。 〝愉しかった人生に御礼申し上げます〟から始まるこの遺言状は、独特の死生観を綴った後に、こう締めくくられていました。 〝ぼくの死は誰にもいうな。死を発表するほどおろかしいことはない。 70代を迎えて、小説を書くことからは遠ざかっていましたが、西村寿行らしい文章は最後まで健在でした。 お別れ会の祭壇には、毛蟹を調理する73歳の西村の写真が飾られ、最も愛した酒であるアーリー・タイムズが供えられました。 西村の逝去後も、代表作品の文庫は新装版として刊行され続けています。 そして、逝去から10年が経った2017年には、1976年に公開された『君よ憤怒の河を渉れ』のリメイク作『マンハント』が、ジョン・ウー監督 チャン・ハンユー 福山雅治主演で公開されました。 西村寿行作品に影響を受けた人々は数多くいます。 漫画家では、藤田和日郎。 そして、荒木飛呂彦。 2015年暮れには、半生を共にされた奥様・西村八千子さんも亡くなられ、西村寿行の時代はさらに遠くなった気もしますが、多摩市連光寺に建てられた邸宅は、まだその存在感を放っています。 つたない文章を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。 ファンのひとりとして、このまま忘れ去られてしまうのは、あまりに惜しい作家だと思いますので、手持ちの資料を読みながら思いを込めて綴りました。 2018年6月に西村寿行ファンとして、大変嬉しいことがありました。 本の雑誌社が発行している『本の雑誌420号2018年7月号』で、 『巨魁・西村寿行伝説』と題した特集記事が組まれたのです。 担当編集者だった講談社の鈴木宣幸氏、徳間書店の平野健一氏、光文社の丸山弘順氏、そして、愛娘の西村亜子氏が登場して、主に1980年代の西村寿行について語っています。 ちょうど『地獄』に登場していた担当編集者が寿行先生のお相手に疲れて、若手が投入されはじめた頃からのお話がメインになります。 以下は、1990年代半ばにおこなわれた北海道取材旅行で、実際にあったエピソードです。 ・根室の旅館に宿泊して、宴会をおこなう際に、花咲ガニはあったものの大好物の毛ガニがなく、 「みんな、飲めーッ!、喰えーッ!」 というどんちゃん騒ぎがしたかった寿行先生はご立腹。 寿行先生は同行の編集者たちに、「好きなだけ飲み食いをさせられず、申し訳ない」と詫びたあと、その席の幹事だった角川書店の宍戸健司氏に集中攻撃をします。 このときに、ブチ切れた寿行先生が、宍戸健司氏に向かって発言した 「おまえは根室市長に連絡したか!」 は重要な寿行ワードです。 あまりにネチネチと、寿行先生から怒りをぶつけられ続けた宍戸氏は我慢をしていましたが、ついに耐えきれなくなり、 「じゃあ、いいっすよ。俺、帰りますよ」 とキレ始める始末。 次の日は知床泊で、前日のことがあったので、編集者が気を利かせて旅館側に、 「いくらかかってもいいからカニづくしにしてくれ」 と頼んだところ、宴席にやってきた寿行先生は、 「こんなにカニばっかりあって気持ちが悪い」 と言いだしてご機嫌を損ねます。 更に、「カニが俺を見ている」と名言を吐きます。 それから、不機嫌になって酒を飲みながら海を眺めていた寿行先生でしたが、何を見間違えたのか、 「ロシアのスパイ船がいる」 と言い始めて、海上保安庁に「今、スパイ船が入ってきた」と電話連絡をするも、酔っ払いの戯言だと相手にされず、「クジラか何かじゃないでしょうか?」と返されると、「何言ってんだ!」と怒って、電話を叩きつけて壊しました。 それからも、 ・港に停泊中のロシア船に勝手に乗り込んでいった。 ・釧路動物園で、「あいつを殴ってやる」 と言ってヒグマのいる柵を上り始めた。その横に写生をしにきていた地元の小学生がいたが、みんなびっくりしていた。 また、日常生活においても面白エピソードが満載です。 でも、担当編集者は右往左往させられながらも、寿行先生のことが大好きで、この特集のなかで、 “「本当、寂しがりやだった。でも才能はすごい。鬼気迫るというか」” “「寿行さんは担当できてよかったなっていう一番の作家ですね」” と思い出を愉しそうに語られています。 これを期に、亜子氏が『父・西村寿行』とサブタイトルがつくような本を書いてくださると有難いのですが。 最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。 何かございましたら、こちらまでお願いいたします。 はる坊 拝 はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます) メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6
1990年代の西村寿行 病魔との闘い
ガンを患っていることを報されたのです。
痛みは酒を飲んでいるうちに消え去りますが、断続的に、チクリと喉の痛みが西村を襲います。
医師は「喉に炎症ができている」と話し、組織片を採取されます。
西村は、酒の誘いだと軽く考えて、病院に向かいました。
西村は、自分が酒飲みであることもあり、食道癌だと思ったようですが、医師の診断は下咽頭癌(扁平上皮癌)でした。
「ほっておいたら、半年保たない」
最初の幾日かは、宣告を受けた東京の大学付属病院で過ごしますが、治療のため、神奈川県内にある同じ大学の付属病院本院に入院した彼は、当初、誰もそして何も寄せつけませんでした。
花も不要。
西村自身が「来るな」と厳命したからです。
西村は動物好きであった為、人間と共に働いた牛馬に思いを寄せ、それらを祀った道祖神に興味を持ち、自宅の庭に地蔵を2体祀っていましたが、特別な信仰を持ってはいませんでした。
しかし、今やそのスカーフは、おしゃれではなく、喉の火傷を覆い隠すものに変わっていました。
そして、6月27日に退院します。
「西村寿行、癌で入院」の報せは、各社の〝西村番〟編集者に届きました。
西村は「騒ぐな。大きな話にするな!」と厳命しました。
長年の担当編集者である徳間書店のひとりだけに入院したことだけを報せて、自身の体調について詳しい状況を話していないことに、西村自身の気がとがめたようです。
それだけ、西村と強い信頼関係で結ばれていた人物だといえるでしょう。
彼の容体を訊ねた西村に返ってきた答えは、
「3ヶ月の命だそうです・・・」
という残酷な言葉でした。
西村は絶句するしかありませんでした。
しかし医師の宣告どおり、旧知の週刊誌記者は3ヶ月後に亡くなります。
西村は彼の葬儀には参列しませんでした。ひとり娘を名代として赴かせたその日、西村はただひとりで涙を流していました。
西村は自分自身を責めました。
「寿行さんなら、しかるべき病院と医師を、紹介してくれるのではないか、と本人が思っていたのなら・・・」西村寿行、下咽頭癌治療を終えるも、今度は右手首を粉砕骨折
同年12月に転倒した折に、右手首を粉砕骨折してしまいます。
そして、翌1994年の3月まで再度の入院を余儀なくされます。
雑誌に連載中の小説はこの間、休載。
旧知の人物のガン死。
そして、自らのガンに対する放射線治療の代償として得た、頭重と嘔吐感、持病の蕁麻疹。西村寿行、執筆生活の終焉
退院してから、執筆・刊行された本を以下のとおりです。
(メフィスト 1994年8月号~1995年4月号連載)
(小説王 1994年9月号~1995年1月号 及び 野性時代 1995年4月号~7月号連載 )
内容は、かつて西村作品を愛読していた読者が物足りなさを感じるものになっていました。
1999年に光文社『小説宝石』で最後の長編となる『月を撃つ男』を6回に分けて連載。
それでも、最後の長編『月を撃つ男』は文庫化されると増刷を重ね、第8刷まで重版されています。一頭の紀州犬とともに独り孤城で過ごした西村寿行の最後の時間
パイプを口にくわえて、好々爺となった晩年の姿を捉えた顔写真は珍しいと思います。
様子を見に来ていた家族が、ベッドで亡くなっている西村寿行を発見します。
その死を看取り、傍にいたのは3代目の紀州犬・ボスだけでした。
享年78(満76歳)。最後に残した西村寿行『遺言状』
その後、旧知の人々が集ったお別れ会の席上、生前、弁護士に宛てて書かれながら、書斎の机の中に置かれたままで、投函されることのなかった西村寿行の『遺言状』が読まれました。
しかし、お別れ会当日は冷たい雨が東京に降り注いでいました。
まるで、寂しがり屋の西村が、〝自分抜きで別れの会なぞを執り行うな〟と言っているかのように。
魚もだが、牛や馬は親仔、兄弟の死をあの大きな澄んだ瞳に浮かべることはない。
己の死を特別なことと捉えるのはひと類のおごりだろう。
ひっそり--それがぼくには似合っている。
海から這い上がって、いつの間にか消えていた--というような生と死--。〟
そして、現在・・・
なかには、現在人気作家・漫画家として活躍中の方も。2018年6月 本の雑誌2018年7月号で、『巨魁・西村寿行伝説』と特集記事が組まれた!
そのエピソードがすべて面白すぎるので、気になる方は、ぜひチェックをしてみてください。西村寿行 北海道取材旅行での超絶エピソード集
ちなみに、寿行先生は浜茹でされた毛ガニが大好物でした。
(宍戸氏は、専修大学卒業後に角川書店に入社。10年来、担当編集者として西村を支える一方、角川ホラー文庫を立ち上げ、日本ホラー大賞、山田風太郎賞創設も手掛けた敏腕編集者にして、馳星周氏を『不夜城』で華々しくデビューさせた方です)
(実際に、不審船が領海内に侵入していれば、海上保安庁は早々にレーダーで発見していたでしょう)
等々。
叶わない願いかもしれません。
もう一度、心より御礼申し上げます。
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