印税だけで食べていける作家 長者番付・作家部門(1996年分~2004年分)
はる坊です。
個人情報保護の為、2005年(平成17年)以降は、発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年(平成16)分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。
ここでは1996年(平成8年)から2004年(平成16年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。
ソースは、当時の新聞報道・各年の『全国高額納税者名簿』(東京商工リサーチ刊)によるものです。
1996年分~1998年分の所得税率について
課税所得330万円以下・・・10%
課税所得330万円超~900万円以下・・・20%
課税所得900万円超~1800万円以下・・・30%
課税所得1800万円超~3000万円・・・40%
課税所得3000万円超・・・50%
参考までに、1996年分~1998年分の住民税の税率です。
課税所得200万円以下・・・5%
課税所得200万円超~700万円以下・・・10%
課税所得700万円超・・・15%
それでは、長者番付・作家部門(1996年分~2004年分)です
1996年(平成8年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
1位 内田康夫 1億4657万円
2位 西村京太郎 1億3351万円
3位 森村誠一 8222万円
4位 神坂一 8010万円
5位 津本陽 7450万円
6位 渡辺淳一 7327万円
7位 田中芳樹 6568万円
8位 椎名誠 6199万円
9位 石原慎太郎 6096万円
10位 斎藤栄 5933万円
11位 宮部みゆき 5291万円
12位 菊地秀行 5017万円
13位 五木寛之 4960万円
14位 群ようこ 4112万円
15位 童門冬二 3976万円
16位 宮本輝 3973万円
17位 荒巻義雄 3860万円
18位 赤川次郎 3805万円
19位 平岩弓枝 3795万円
20位 宮城谷昌光 3696万円
※赤川次郎首位陥落の理由
13年連続で長者番付・作家部門の1位を守り続けた赤川次郎氏が一気に18位まで順位を下げたのは、バブル期に購入した自宅兼仕事場の売却損で、作家活動による印税・原稿料・著作権収入と売却損が相殺された為。
収入は例年と同様の額があったとのこと。
※司馬遼太郎の遺産評価額
1997年2月、1996年2月に逝去した司馬遼太郎氏の遺産評価額が管内税務署にて公示されました。
遺産額は約26億4000万円。
約20億1000万円が銀行等金融機関への預貯金。
約3億9000万円が著作権。
約2億4000万円が自宅の土地建物でした。
1997年(平成9年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
1位 赤川次郎 2億7760万円
2位 渡辺淳一 2億2675万円
3位 西村京太郎 2億1257万円
4位 内田康夫 2億0827万円
5位 村上春樹 9244万円
6位 浅田次郎 9187万円
7位 森村誠一 8611万円
8位 林真理子 6980万円
9位 宮部みゆき 6942万円
10位 津本陽 6752万円
11位 神坂一 6336万円
12位 菊地秀行 5817万円
13位 群ようこ 5298万円
14位 斎藤栄 5147万円
15位 星野富弘 5103万円
16位 田中芳樹 4981万円
17位 平岩弓枝 4632万円
18位 髙村薫 4439万円
19位 椎名誠 4293万円
20位 大沢在昌 4247万円
落合信彦 3311万円
1998年(平成10年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
1位 西村京太郎 2億5196万円
2位 赤川次郎 1億9087万円
3位 鈴木光司 1億4207万円
4位 宮部みゆき 1億1679万円
5位 内田康夫 1億0594万円
6位 浅田次郎 1億0474万円
7位 五木寛之 7780万円
8位 森村誠一 7128万円
9位 宮城谷昌光 6738万円
10位 神坂一 5612万円
11位 菊地秀行 5495万円
12位 群ようこ 5357万円
13位 渡辺淳一 4998万円
14位 星野富弘 4962万円
15位 椎名誠 4927万円
16位 落合信彦 4687万円
17位 馳星周 4412万円
18位 斎藤栄 4399万円
19位 田中芳樹 4385万円
20位 筒井康隆 4220万円
北方謙三 3905万円
河合隼雄 3563万円
林真理子 3211万円
平岩弓枝 1974万円
1999年分以降は、所得税率が過去最低にダウン
1998年(平成10年)分までは、最高税率が所得税50%+住民税15%でしたが、
所得税率は最高で37%までダウンしました。
そのせいか、下記に挙げる作家の納税額も前年までに比べて減少していますが、2000年に入ると出版不況が深刻化して、作家の収入自体が減少していく様子が分かります。
1990年代初頭では、年収1億円あったとしてもランキングのベスト20に入れるかどうかでしたが、2000年分以降では、ベストテンに入れる年収になっています。
それほど、本が売れずに印税収入が細ってきている模様もうかがえます。
2006年分まで使用された所得税率表は下記のとおりです。
課税所得330万円以下・・・・・・・・・・・10%
課税所得330万円超~900万円・・・・20%
課税所得900万円超~1800万円・・・30%
課税所得1800万円超・・・・・・・・・・・・・37%
参考までに、2006年分まで使用された住民税税率表は下記のとおりです。
課税所得200万円以下・・・5%
課税所得200万円超~700万円以下・・・10%
課税所得700万円超・・・13%
1998年分までに比べると最高税率が大幅に下がりました。
1998年分まで、所得税50%+住民税15%=最高税率65%
1999年分から、所得税37%+住民税10%=最高税率47%
1999年(平成11年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
1位 西村京太郎 1億6519万円
2位 内田康夫 1億3929万円
3位 宮部みゆき 1億1492万円
4位 鈴木光司 7656万円
5位 浅田次郎 7315万円
6位 五木寛之 6320万円
7位 森村誠一 6199万円
8位 桐生操(堤幸子) 5640万円
9位 桐生操(上田加代子) 5610万円
10位 星野富弘 5246万円
11位 村上春樹 4664万円
12位 津本陽 4329万円
13位 赤瀬川源平 4015万円
14位 山崎豊子 3940万円
15位 東野圭吾 3803万円
16位 菊地秀行 3777万円
17位 天童荒太 3718万円
18位 桐野夏生 3355万円
19位 京極夏彦 3300万円
20位 神坂一 3282万円
21位以下で公示された作家
林真理子 2719万円
平岩弓枝 2174万円
馳星周 1412万円
2000年(平成12年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
1位 西村京太郎 1億5603万円
2位 赤川次郎 1億1108万円
3位 宮部みゆき 7873万円
4位 山崎豊子 7559万円
5位 内田康夫 7265万円
6位 浅田次郎 6758万円
7位 五木寛之 6468万円
8位 天童荒太 6465万円
9位 真保裕一 4153万円
10位 北方謙三 3956万円
11位 菊地秀行 3886万円
12位 夢枕獏 3591万円
13位 江國香織 3412万円
14位 阿川佐和子 3227万円
15位 落合信彦 3188万円
16位 津本陽 3176万円
17位 星野富弘 3108万円
18位 森村誠一 2887万円
19位 東野圭吾 2878万円
20位 林真理子 2746万円
21位以下で公示された作家
山口洋子 2624万円
森博嗣 2392万円
大沢在昌 2223万円
渡辺淳一 1932万円
柳美里 1891万円
宮尾登美子 1724万円
曽野綾子 1714万円
花村萬月 1332万円
平岩弓枝 1116万円
2001年(平成12年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
1位 西村京太郎 1億5946万円
2位 宮部みゆき 1億4566万円
3位 赤川次郎 8648万円
4位 内田康夫 7743万円
5位 浅田次郎 6633万円
6位 夢枕獏 5960万円
7位 江國香織 4331万円
8位
※2022年1月22日加筆修正をおこないました。 はる坊です。 1990年代以降の西村寿行と、その晩年について綴っていきます。 世間はバブル景気崩壊により長い不況のトンネルに入っていた1993年。 62歳となっていた西村寿行は執筆意欲も薄くなり、代々木の仕事場で過ごす時間は多かったものの、この年には、『幻獣の森』『魔性の岩鷹』の2冊のみが発行されています。 そして、5月31日。 西村寿行は重大な宣告を受けることになります。 西村が体調の異変に気付いたのは、その1、2ヶ月前のことです。 喉にチクッチクッと痛みを感じるようになったのです。最初は、魚の小骨が喉に刺さったと思ったようです。 体調の異変を感じ始めた西村は、いつからか、かかりつけとなった、西新宿の会員制クリニックに赴いて、内視鏡検査を受けます。 そして、1週間後、仕事場にほど近い大学附属病院で、飲み友達になっていた医師から電話が掛かってきました。 しかし、病院で待っていたのは、残酷な宣告でした。 医師は西村の身体が癌に蝕まれていることを告げられます。 「ほっておいたら、どうなります?」と訊ねた西村に医師は、 と医師に告げます。 西村は混乱しながらも入院を決意します。 病院は自宅からも比較的近い場所にありましたが、西村はただ独りの時間を過ごします。 見舞い・面会は不要。 家族も一人娘が手続きに来たときに、立ち寄っただけでした。 家族仲が悪かったわけではありません。 そして、家族も西村の気性を理解していました。 出版関係では、ただひとり、徳間書店の編集者に電話連絡をするのみでした。 大学付属病院の院長が主治医となり、ガン治療を33回の放射線照射でおこなうことに決定します。 毎朝、早くにおこなわれる数分の放射線治療が終わると、西村は病院を抜け出します。 (病院では死にたくない)と決意した彼は身体を鍛える為に、山歩きに没頭します。 しかし、最初に向かったのは庶民の山岳信仰で知られる大山でした。 やはり、ガン=死という幻影が、西村を大山へ駆り立てたのではないかと思います。 毎日のように丹沢山系を歩いたおかげで、西村の足腰はすっかり丈夫になります。 元々、作家になる前は、狩猟に生きていた時期もあり、山歩きをしていた西村ですが、このときの山歩きは、また別の思いを持ちながら歩を進めて行ったと思います。 下咽頭癌治療は手術こそしないものの辛いものとなり、放射線照射で放射線による火傷が頸部全体に広がり、内部までもが爛れました。 西村はネルシャツにジーンズ、そして首回りにスカーフを巻くというファッションを好みました。 喉麻酔をしなくては、食事が採れない状態になりましたが、33回の照射治療でがん細胞は西村寿行の身体から消えました。 しかし、退院した西村寿行を待っていたのは、痛恨の出来事でした。 入院して2週間は誰にも会いませんでしたが、考えをあらためて信頼していた徳間書店と光文社の担当編集者と丹沢の温泉旅館で食事をします。 温泉旅館での席で、西村は旧知の週刊誌記者が胃癌で入院したことを知らされます。 その記者は、西村が孤北丸という名のサロン・クルーザーを所有していたとき、キャプテンを務めた人物でした。 西村寿行が所有していたサロンクルーザー・孤北丸については、徳間文庫版『雲の城』の巻末に『サロン・クルーザー』というエッセイが掲載されています。amazon kindleやDMM電子版でも読めます。 自らのガン治療を終えて退院した西村は、早速タクシーを飛ばして彼の元へ向かいました。 記者の死の3週間前に、彼の妻が西村担当の編集者とともに、西村の元へ訪れます。 そして、 「しっかりとした病院へ移りたい」 と本人が言っていると聞かされます。 最初に行った病院では胃潰瘍と診断されたこと、現在入院している病院では、医師は何もしてくれないという、訴えも聞かされることになります。 しかし、すべては遅すぎました。 「俺が入院するとき、誰にも会わないと言わなければ・・・」 災難は更に降りかかります。 ガン治療と右手首の粉砕骨折での入院。 これらのことが、西村寿行を執筆から更に遠ざけた気がしてなりません。 かつての勢いをなくし、酒に耽溺する時間の増えた西村から離れる編集者もいました。 それでも、かつての西村を知る編集者は、雑誌連載や短編掲載で、西村を盛りたてようとします。 1994年『深い眸(中編集)』(光文社)(小説宝石掲載) 1995年『幻覚の鯱―神軍の章』(講談社) 1995年『世にも不幸な男の物語(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載) 1995年『デビルズ・アイランド』(角川書店) 1996年『大厄病神』 1997年『鷲』(徳間書店) 1998年『牡牛の渓(短編集)』(光文社)(小説宝石掲載) 1998年『幻覚の鯱―天翔の章』(講談社)(小説現代増刊 メフィスト連載) 2000年『月を撃つ男』(光文社)(小説宝石 1999年4月号~9月号連載) 2001年『碇の男(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載) まだ、小説現代の臨時増刊号という位置づけで、誌面の性格が決まっていなかったことも影響していたでしょうが、『幻覚の鯱―神軍の章』が、『メフィスト』に連載されていたのは少し意外な気がします。 このほかに、短編集や中編集を違うタイトルで二次出版化されたものもありますが、それらは省きました。 1994年~2001年までに刊行された本は、ピーク時なら1年で刊行していた冊数です。 そして、2000年10月に同誌に掲載された短編『刑事』(『碇の男』に収録)を最後に西村寿行の新作小説が発表されることはありませんでした。 西村は晩年、家族を自宅とは別にマンションに住まわせ、西村とボスと名付けた一頭の紀州犬と邸宅に籠もり、週末だけ家族と食事を共にする生活となりました。 『犬族からの通信』という近況報告を兼ねたエッセイが、2001年から徳間書店の小説誌『問題小説』に連載されていた時期もありますが、いつのまにかそれもなくなり、死の数年前に執筆していたという、自らの半生記もついに公に発表されることはありませんでした。 体調を損ねながらもアルコールの量は減ることなく、一人娘が注意しても聞き入れませんでした。 西村曰く、 〝俺はアルコールと妄想と幻覚で生きていたんだ〟。 そして、2007年8月23日朝。 死因は肝不全。 徳間書店発行の『問題小説』では、【追悼・西村寿行】と題して、出世作となった『君よ憤怒の河を渉れ』が全編再掲載されました。 通夜と告別式は近親者のみでひっそりとおこなわれました。 西村は自他共に認める〝晴れ男〟でした。 この会が執り行われてから、『遺言状』の全文が光文社発行の『小説宝石』に掲載されました。 〝愉しかった人生に御礼申し上げます〟から始まるこの遺言状は、独特の死生観を綴った後に、こう締めくくられていました。 〝ぼくの死は誰にもいうな。死を発表するほどおろかしいことはない。 70代を迎えて、小説を書くことからは遠ざかっていましたが、西村寿行らしい文章は最後まで健在でした。 お別れ会の祭壇には、毛蟹を調理する73歳の西村の写真が飾られ、最も愛した酒であるアーリー・タイムズが供えられました。 西村の逝去後も、代表作品の文庫は新装版として刊行され続けています。 そして、逝去から10年が経った2017年には、1976年に公開された『君よ憤怒の河を渉れ』のリメイク作『マンハント』が、ジョン・ウー監督 チャン・ハンユー 福山雅治主演で公開されました。 西村寿行作品に影響を受けた人々は数多くいます。 漫画家では、藤田和日郎。 そして、荒木飛呂彦。 2015年暮れには、半生を共にされた奥様・西村八千子さんも亡くなられ、西村寿行の時代はさらに遠くなった気もしますが、多摩市連光寺に建てられた邸宅は、まだその存在感を放っています。 つたない文章を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。 ファンのひとりとして、このまま忘れ去られてしまうのは、あまりに惜しい作家だと思いますので、手持ちの資料を読みながら思いを込めて綴りました。 2018年6月に西村寿行ファンとして、大変嬉しいことがありました。 本の雑誌社が発行している『本の雑誌420号2018年7月号』で、 『巨魁・西村寿行伝説』と題した特集記事が組まれたのです。 担当編集者だった講談社の鈴木宣幸氏、徳間書店の平野健一氏、光文社の丸山弘順氏、そして、愛娘の西村亜子氏が登場して、主に1980年代の西村寿行について語っています。 ちょうど『地獄』に登場していた担当編集者が寿行先生のお相手に疲れて、若手が投入されはじめた頃からのお話がメインになります。 以下は、1990年代半ばにおこなわれた北海道取材旅行で、実際にあったエピソードです。 ・根室の旅館に宿泊して、宴会をおこなう際に、花咲ガニはあったものの大好物の毛ガニがなく、 「みんな、飲めーッ!、喰えーッ!」 というどんちゃん騒ぎがしたかった寿行先生はご立腹。 寿行先生は同行の編集者たちに、「好きなだけ飲み食いをさせられず、申し訳ない」と詫びたあと、その席の幹事だった角川書店の宍戸健司氏に集中攻撃をします。 このときに、ブチ切れた寿行先生が、宍戸健司氏に向かって発言した 「おまえは根室市長に連絡したか!」 は重要な寿行ワードです。 あまりにネチネチと、寿行先生から怒りをぶつけられ続けた宍戸氏は我慢をしていましたが、ついに耐えきれなくなり、 「じゃあ、いいっすよ。俺、帰りますよ」 とキレ始める始末。 次の日は知床泊で、前日のことがあったので、編集者が気を利かせて旅館側に、 「いくらかかってもいいからカニづくしにしてくれ」 と頼んだところ、宴席にやってきた寿行先生は、 「こんなにカニばっかりあって気持ちが悪い」 と言いだしてご機嫌を損ねます。 更に、「カニが俺を見ている」と名言を吐きます。 それから、不機嫌になって酒を飲みながら海を眺めていた寿行先生でしたが、何を見間違えたのか、 「ロシアのスパイ船がいる」 と言い始めて、海上保安庁に「今、スパイ船が入ってきた」と電話連絡をするも、酔っ払いの戯言だと相手にされず、「クジラか何かじゃないでしょうか?」と返されると、「何言ってんだ!」と怒って、電話を叩きつけて壊しました。 それからも、 ・港に停泊中のロシア船に勝手に乗り込んでいった。 ・釧路動物園で、「あいつを殴ってやる」 と言ってヒグマのいる柵を上り始めた。その横に写生をしにきていた地元の小学生がいたが、みんなびっくりしていた。 また、日常生活においても面白エピソードが満載です。 でも、担当編集者は右往左往させられながらも、寿行先生のことが大好きで、この特集のなかで、 “「本当、寂しがりやだった。でも才能はすごい。鬼気迫るというか」” “「寿行さんは担当できてよかったなっていう一番の作家ですね」” と思い出を愉しそうに語られています。 これを期に、亜子氏が『父・西村寿行』とサブタイトルがつくような本を書いてくださると有難いのですが。 最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。 何かございましたら、こちらまでお願いいたします。 はる坊 拝 はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます) メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします) 7月19日に築地4丁目の料亭「新喜楽」で第157回芥川賞・直木賞の選考が行われました、 芥川賞には、沼田真佑氏の「影裏」(えいり)(文學界5月号)。 直木賞には、佐藤正午氏の「月の満ち欠け」(岩波書店)が選ばれました。 …昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6
1990年代の西村寿行 病魔との闘い
ガンを患っていることを報されたのです。
痛みは酒を飲んでいるうちに消え去りますが、断続的に、チクリと喉の痛みが西村を襲います。
医師は「喉に炎症ができている」と話し、組織片を採取されます。
西村は、酒の誘いだと軽く考えて、病院に向かいました。
西村は、自分が酒飲みであることもあり、食道癌だと思ったようですが、医師の診断は下咽頭癌(扁平上皮癌)でした。
「ほっておいたら、半年保たない」
最初の幾日かは、宣告を受けた東京の大学付属病院で過ごしますが、治療のため、神奈川県内にある同じ大学の付属病院本院に入院した彼は、当初、誰もそして何も寄せつけませんでした。
花も不要。
西村自身が「来るな」と厳命したからです。
西村は動物好きであった為、人間と共に働いた牛馬に思いを寄せ、それらを祀った道祖神に興味を持ち、自宅の庭に地蔵を2体祀っていましたが、特別な信仰を持ってはいませんでした。
しかし、今やそのスカーフは、おしゃれではなく、喉の火傷を覆い隠すものに変わっていました。
そして、6月27日に退院します。
「西村寿行、癌で入院」の報せは、各社の〝西村番〟編集者に届きました。
西村は「騒ぐな。大きな話にするな!」と厳命しました。
長年の担当編集者である徳間書店のひとりだけに入院したことだけを報せて、自身の体調について詳しい状況を話していないことに、西村自身の気がとがめたようです。
それだけ、西村と強い信頼関係で結ばれていた人物だといえるでしょう。
彼の容体を訊ねた西村に返ってきた答えは、
「3ヶ月の命だそうです・・・」
という残酷な言葉でした。
西村は絶句するしかありませんでした。
しかし医師の宣告どおり、旧知の週刊誌記者は3ヶ月後に亡くなります。
西村は彼の葬儀には参列しませんでした。ひとり娘を名代として赴かせたその日、西村はただひとりで涙を流していました。
西村は自分自身を責めました。
「寿行さんなら、しかるべき病院と医師を、紹介してくれるのではないか、と本人が思っていたのなら・・・」西村寿行、下咽頭癌治療を終えるも、今度は右手首を粉砕骨折
同年12月に転倒した折に、右手首を粉砕骨折してしまいます。
そして、翌1994年の3月まで再度の入院を余儀なくされます。
雑誌に連載中の小説はこの間、休載。
旧知の人物のガン死。
そして、自らのガンに対する放射線治療の代償として得た、頭重と嘔吐感、持病の蕁麻疹。西村寿行、執筆生活の終焉
退院してから、執筆・刊行された本を以下のとおりです。
(メフィスト 1994年8月号~1995年4月号連載)
(小説王 1994年9月号~1995年1月号 及び 野性時代 1995年4月号~7月号連載 )
内容は、かつて西村作品を愛読していた読者が物足りなさを感じるものになっていました。
1999年に光文社『小説宝石』で最後の長編となる『月を撃つ男』を6回に分けて連載。
それでも、最後の長編『月を撃つ男』は文庫化されると増刷を重ね、第8刷まで重版されています。一頭の紀州犬とともに独り孤城で過ごした西村寿行の最後の時間
パイプを口にくわえて、好々爺となった晩年の姿を捉えた顔写真は珍しいと思います。
様子を見に来ていた家族が、ベッドで亡くなっている西村寿行を発見します。
その死を看取り、傍にいたのは3代目の紀州犬・ボスだけでした。
享年78(満76歳)。最後に残した西村寿行『遺言状』
その後、旧知の人々が集ったお別れ会の席上、生前、弁護士に宛てて書かれながら、書斎の机の中に置かれたままで、投函されることのなかった西村寿行の『遺言状』が読まれました。
しかし、お別れ会当日は冷たい雨が東京に降り注いでいました。
まるで、寂しがり屋の西村が、〝自分抜きで別れの会なぞを執り行うな〟と言っているかのように。
魚もだが、牛や馬は親仔、兄弟の死をあの大きな澄んだ瞳に浮かべることはない。
己の死を特別なことと捉えるのはひと類のおごりだろう。
ひっそり--それがぼくには似合っている。
海から這い上がって、いつの間にか消えていた--というような生と死--。〟
そして、現在・・・
なかには、現在人気作家・漫画家として活躍中の方も。2018年6月 本の雑誌2018年7月号で、『巨魁・西村寿行伝説』と特集記事が組まれた!
そのエピソードがすべて面白すぎるので、気になる方は、ぜひチェックをしてみてください。西村寿行 北海道取材旅行での超絶エピソード集
ちなみに、寿行先生は浜茹でされた毛ガニが大好物でした。
(宍戸氏は、専修大学卒業後に角川書店に入社。10年来、担当編集者として西村を支える一方、角川ホラー文庫を立ち上げ、日本ホラー大賞、山田風太郎賞創設も手掛けた敏腕編集者にして、馳星周氏を『不夜城』で華々しくデビューさせた方です)
(実際に、不審船が領海内に侵入していれば、海上保安庁は早々にレーダーで発見していたでしょう)
等々。
叶わない願いかもしれません。
もう一度、心より御礼申し上げます。第157回芥川賞受賞作 沼田真佑「影裏」の感想。
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