※この記事は2021年2月6日に作成投稿し、2022年10月29日に最終更新しました。
餃子の王将のはじまり そして、王将フードサービス創業者の加藤朝雄氏とは?
餃子の王将を運営する王将フードサービスは、加藤朝雄氏が、1967年に四条大宮に王将という中華料理店を営み始めたことにはじまります。
創業者の加藤朝雄氏は、1924年7月10日に福岡県飯塚市に生まれました。
生家は小さな鮮魚店でしたが、生活は貧しく、本人がのちのインタビューで、
“「9歳から家計を助けるために働いた。新聞配達にはじまり、なんやかんやと。私は毎日自分に誓うとりましたわ。いまに見ておれ、絶対に大金持ちになってやる。父ちゃんと母ちゃんにうまいものを食わせて、楽をさせてやるんだと」”
と語っているように、恵まれたものではありませんでした。
それどころか、貧乏であることで周囲に軽んじられたこともあったのでしょう。
幼少の頃から、〝大金持ちになってやる〟と自分自身に誓うに至ります。
加藤氏は地元の飯塚尋常小学校(現:飯塚市立飯塚小学校)を卒業後、本格的に働きはじめ、1941年に17歳で中国大陸・山西省臨汾に渡ります。
先に長兄が現地に渡って飲食店を経営していたのが理由でした。
ここで加藤氏は、初めて餃子に出会い、口にします。
そして、加藤氏は一旦は洋食を勉強するために帰国して、梅田新道のアサヒビールが運営するビアホールでコック見習いとなりますが、1944年に徴兵され、陸軍二等兵となった彼は、新京(長春)にあった関東軍憲兵学校で訓練を受け、憲兵教習隊員となり旧満州・大連で勤務中に終戦を迎えます。
その後、1947年に日本へ引き揚げた後は、料理店勤務、行商人、進駐軍食堂コック、薪炭商、小口金融業、ファッションホテル共同経営と様々な経歴を重ねます。
薪炭商をはじめた頃に1歳年下の梅子夫人(1925年2月21日生まれ)と知り合い結婚。
潔(1950年3月2日生まれ)さんと欣吾さん(1953年10月5日生まれ)というふたりの息子に恵まれます。
ですが、加藤氏が経済的に安定を迎えるのは、ファッションホテル共同経営をはじめる40歳の頃で、それまでは商売で辛酸を舐めて、まとまった借金を背負ったこともあったようです。
「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」
そして、1967年12月25日に、現在も餃子の王将第1号店である京都・四条大宮に王将を開店。
加藤氏は43歳になっていました。
最初は家族経営の10坪の店でした。
加藤氏自身が中華鍋を振るい、梅子さんが客の注文を聞き、会計を担当。
当時、平安高校生だった長男・潔さんが出前に走ります。
店は瞬く間に繁盛しました。
周囲の中華料理店がだいたい80円で出していた一人前の焼餃子を、王将では50円にして目玉商品としたのです。
そして、第2号店として出店した山科店では、「餃子10人前食べたら無料」と宣伝して、一気に客を呼び込みます。
四条大宮に店を構えてからわずか3年で、王将は6店舗に成長します。
1969年には、妻・梅子さんの16歳年下の弟・大東隆行氏を王将に迎え入れています。
大東氏が関西経理専門学校に進んだのは、加藤氏の助言があった為と、生前の同氏が語っています。
しかし、ここで加藤氏は大きな壁にぶつかります。
それは人材難でした。
“「この世の中で使いにくいのは運転手と職人でっせ。腕があるさかい、定着しない。
給料に不満だったり、ちょっとでも気に入らんことがあると、プイとやめていってしまいまんのや」”
この時代の苦労を、後年のインタビューで加藤氏は率直に振り返っています。
ここで加藤氏は考えに考え抜いた挙げ句、従業員を集めてこう訴えました。
“「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」”
すると、従業員のやる気に火が付きました。
店の売り上げが2倍、3倍と増えていったのです。
店舗を拡大後の1974年7月には、株式会社 王将チェーンとして会社組織に変更。
加藤氏は代表取締役社長に就任します。
そして、専務取締役には若干24歳の長男・加藤潔氏が就任。その後、次男・欣吾氏も常務取締役に就任しています。
1984年10月まで、王将の役員は、加藤朝雄氏(社長)・加藤潔氏(専務)・加藤欣吾氏(常務)・加藤梅子氏(監査役)のみと創業者一族で固められていました。
営業本部長を務めておられた大東隆行前社長は、この1984年10月に取締役に、2ヶ月後の同年12月には常務取締役に就任されました。
大卒初任給日本一の企業 ただし、労働条件は過酷だった
加藤氏は店舗の拡大とともに、新卒採用を徹底しておこないました。
1975年の大卒者初任給は15万円。
大卒の平均初任給は89,300円の時代でした(年次統計より)
1979年には一気に初任給を20万円にアップさせました。
同じく大卒者初任給の平均は109,500円でした(同じく年次統計より)
しかも、毎月4,000円の昇給があり、基本給が30万円になれば、すぐに基本給40万円の店長に昇格、または、開業資金の1割を用意できる者には、フランチャイズ店を出せるようにしました。
王将のフランチャイズ第1号店は、1972年、京都市内の中立にオープンしています。
高収入と独立を目当てに、大学新卒採用も進みました。
新卒者は、近畿大学・九州産業大学・岡山商科大学・大阪商業大学・桃山学院大学・京都産業大学・立命館大学など、関西・九州圏を中心に集まります。
しかし、給料が高ければ高い分だけの労働が求められました。
1日の労働時間は14時間以上。
朝9時30分に出勤して、掃除や仕込みを分担して10時30分に開店。
そのまま、まとまった休憩を取ることなく、23時の閉店後に店の片付けを終えて店を後にするのが24時。
月に休みは1日もなし。
皆勤手当が月額25,000円支給されていましたが、1日でも休んでしまえば、この皆勤手当は0円になります。
また、各店舗の売上に順位を付けて、最高9万円から最低1,000円支給される〝順位賞〟も1日休めば半額支給になってしまう仕組みでした。
そして、店長はさらに大変でした。
店長の給与は50万円と高額でしたが、店の掃除のやり方や皿やどんぶりの洗い方が悪く、客に悪印象を与えた場合は、加藤氏自らが1万円~5万円の減給を決定しており、さらに、本部へ客からクレームが入ると、監督責任を問われて10万円の減給となりました。
“「働けば働くほど収入は確かに増えるけど、辛いのも一般のサラリーマンの倍ですね」”(当時の店長談)
“「店長は責任のすべてを、一身に被らなければならない」”(同じく当時の店長談)
それでも、高収入と独立制度に惹かれて、王将に勤めたいという志願者はあとを絶ちませんでした。
1980年7月には、商号を株式会社 餃子の王将チェーンに変更しています。
この当時、餃子の王将は関西に124店舗、名古屋に9店舗、東京に26店舗を運営しており、年間売上高は80億円 経常利益7億円となっていました。
ちなみに、この当時の餃子一人前の値段は140円。
結果として株式上場は1993年3月となりましたが、1980年当時から、加藤朝雄氏は餃子の王将の株式上場を考えていたようです。
この間、餃子の王将は成長を続け、年間売上高は100億円、200億円を突破。
関西圏から全国に店舗を展開していきました。
1990年12月には、商号を王将フードサービス変更。
年商300億円を狙えるところまで迫っていました。
ところが、株式上場まもない1993年6月10日に加藤氏は68歳で急逝します。
一説によると、晩年の朝雄氏は大腸がんを患い、人工肛門を装着していたという話があります。
アサヒビール時代に加藤氏よりスカウトされた副社長の望月邦彦氏が社長を継ぎますが、1994年には加藤氏の長男である加藤潔氏にバトンタッチ。その後、経営悪化により大東隆行氏が2000年に社長に就任する流れとなっています。
大東隆行氏は、社長就任後、ある夕刊紙のインタビューで、〝「年収は5,000万円」〟と発言されています。
また、同時期には大東氏の息子さんが、現在は撤退している和食事業〝いけすの王将〟三雲店の店長をされていました。
現在の王将フードサービス社長である渡邊直人氏の年間役員報酬(年収)は1億1,200万円。
内訳は、金銭報酬が8,300万円 非金銭報酬等が2,900万円となっています。(王将フードサービス有価証券報告書より)
餃子の王将を展開する 王将フードサービス店頭公開(JASDAQ上場)時の情報
餃子の王将を展開する王将フードサービスは、1993年3月16日に株式店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たしました。
上場時のデータは以下のとおりです。
株式会社 王将フードサービス
会社設立:1974年7月
店頭公開:1993年3月
資 本 金:19億100万円
総 資 産:394億5600万円
株主資本:88億8300万円(22.5% 748円)
借 入 金:198億1000万円
金融収支:▲6億7300万円
従業員数:748名(平均年齢 31.6歳)
平均賃金:378,158円
株主構成:
加藤欣吾 287万1000株(24.1%)
加藤潔 265万1000株(22.3%)
加藤朝雄 179万5000株(15.1%)
加藤梅子 93万2000株(7.8%)
従業員持株会 30万1000株(2.5%)
加藤ひろみ 22万0000株(1.8%)
大東隆行 20万3000株(1.7%)
加藤貴司 20万3000株(1.7%)
加藤英里 20万3000株(1.7%)
加藤真人 20万3000株(1.7%)
役員構成:
代表取締役社長:加藤朝雄
取締役副社長 :望月邦彦
専務取締役 :加藤潔
常務取締役 :加藤欣吾
常務取締役 :大東隆行
常務取締役 :鈴木和久
取締役 :土肥原啓二
取締役 :宮嶋廣正
取締役 :宮光正
取締役 :知久平芳美
取締役 :森田八寿広
取締役 :村上武敏
常勤監査役 :小坂晴一郎
監査 :野中智弘
上場当時の王将は、日銭が入る商売とはいえ、あまり財務状況が良いとはいえず、公募株式で得た資金は、借入金返済に充てるつもりだったようです。
王将フードサービス 業績推移
それでは、1989年~1992年までの餃子の王将の決算を見ていきましょう。
急成長期には終わりを告げていますが、しっかり順調に伸びています。
1989年3月期決算:
(こちらのみ変則決算)
売上高:221億1,700万円
営業利益:24億2,100万円
経常利益:12億7,700万円
最終利益:5億1,900万円
1990年3月期決算:
売上高:265億3,200万円
営業利益:29億2,000万円
経常利益:13億8,300万円
最終利益:5億1,900万円(1989年3月期と同額)
1991年3月期決算
売上高:276億7,770万円
営業利益:32億6,000万円
経常利益:20億6,800万円
最終利益:9億2,000万円
1992年3月期決算
売上高:288億9,000万円
営業利益:35億6,900万円
経常利益:20億6,800万円
最終利益:12億5,100万円
餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)との関係は?
日本に〝王将〟は2つあります。
王将フードサービスが運営する「餃子の王将」
イートアンドホールディングス傘下の事業会社・大阪王将が運営する「大阪王将」です。
大阪王将の創業者・文野新造氏は加藤朝雄氏の親族といわれています。
最初、京都に店舗展開を進めていた餃子の王将からのれん分けをしてもらう形で、1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を開いたのが大阪王将の始まりです。
餃子の王将との違いは、まず経営スタイルです。
文野氏の中華料理店のメニューは、餃子とチャーハン、ラーメンの3品のみでしたが、餃子が一人前50円であったことから、安くてうまいものに目のない大阪人のハートを、いきなりガッチリと掴みます。
文野氏は店の売上が餃子中心であることに着目して、1969年3月から餃子専門店に業態を変更します。
餃子のみにメニューを絞ったことで、構えの大きい店舗展開が必要がなくなり、大阪王将は順調に店舗を増やしていきます。
そして、文野新造氏の個人事業から、1977年8月には、大阪王将食品株式会社に法人成りを果たします。
二代目社長となる文野直樹氏は、この頃から厨房に立って店の経営に携わっていました。
1982年には100店舗を達成しますが、一説によると、大阪王将の店舗を京都に出店したことにより、加藤朝雄氏との関係が悪化。商標権を巡って裁判沙汰にまでなってしまします。
結局、1985年に和解が成立しますが、1980年代前半に大阪証券取引所(新市場ベンチャー向け)2部への上場を目指していた加藤氏にとっては、この裁判が上場への大きなネックになったのかもしれません。
この当時、この大阪証券取引所2部に新しく作られた新市場で上場を果たして、のちに東証1部上場企業となった会社にコナミホールディングスがあります。
その後、餃子の王将と大阪王将は袂を分かち、お互いに独自の経営戦略で事業を発展させていきます。
大阪王将は、1990年代初めに商事部という部署を創設します。1993年9月には商事部から冷凍食品の餃子を生協向けに販売を開始。
自宅でも大阪王将の味が楽しめるようになりました。
その後、社名も大阪王将食品から大阪王将に変更。
そして、2002年1月にはイートアンド株式会社にまたも商号変更します。
堅実な店舗展開と冷凍食品の販売を進めながら、東京進出を果たし、2011年6月には大阪証券取引所JASDAQ市場に株式を上場。
2002年11月に東京証券取引所第2部上場を経て、2013年11月に東京証券取引所第1部に指定替えをおこないました。
晴れて、東証1部上場企業となった訳です。
餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)歴代社長
ちなみに、『餃子の王将』を展開する王将フードサービスの創業者・社長が加藤朝雄氏で、
二代目社長がアサヒビールより招聘した望月邦彦氏。
三代目社長が加藤朝雄氏の長男・加藤潔氏。
四代目社長が大東隆行氏。
現在の五代目社長が渡邊直人氏です。
渡邊氏は、1955年8月19日生まれの67歳。1979年に桃山学院大学経済学部を卒業後、新卒入社。
1984年12月には早くも営業部次長となり、主に東京地区のエリアマネージャーや地区本部長を経て、
2004年に取締役、2008年に常務取締役となり、2013年12月に代表取締役社長に就任されています。
『大阪王将』を展開するイートアンドホールディングスの創業者が現在の代表取締役会長の文野直樹氏の父親である文野新造氏です。
創業メンバーである佐野文夫氏と本木健二氏とともに1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を出店したところ、
餃子の売れ行きがダントツであったことから、早々に、餃子専門店に業態を変えています。
株式会社イートアンドホールディングスの代表取締役会長CEO 文野直樹氏の経歴
イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOは文野直樹(ふみの なおき)氏です。
1959年11月29日生まれの62歳。
啓光学園高校を卒業後、大阪学院大学経営学部に進学するも1980年に中退。
実父・文野新造氏が経営する大阪王将食品に正式入社して、1984年7月に社長に就任したという経歴の持ち主です。
1996年8月に株式会社大阪王将に商号を変更。
2002年1月にイートアンド株式会社に商号を変更。
2011年6月に株式をJASDAQ市場に上場。
2012年11月に東京証券取引所第2部に上場。
2013年11月には、ついに東京証券取引所第1部上場を果たしています。
そして、2020年11月には、持株会社への移行とともに、株式会社イートアンドホールディングスとなり、大阪王将の運営会社は株式会社大阪王将となっています。
株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COO 仲田浩康氏の経歴
株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COOは仲田浩康(なかた ひろやす)氏です。
大阪王将の冷凍食品を扱う事業会社の株式会社イートアンドの代表取締役社長も兼任されています。
仲田氏は1964年4月26日生まれの57歳で、高校を卒業後、当時、流通業界で最大手だったダイエーに入社。
23歳で最年少主任となるなど活躍をしたのち、2000年8月に大阪王将に転職。
ご本人がインタビューで語られているところでは、ダイエーでは実績を残されていたので、大阪王将に移られた際には、給与・年収ともにダウンしたそうです。
その後、2001年7月に商事部部門長。2004年6月に取締役。2009年4月に取締役 常務執行役員 トレーディング本部長。
2012年4月 専務取締役。2017年6月にはついにイートアンドの代表取締役社長に就任。
持株会社移行後は、取締役社長COOに就任されています。
また、社会人となっても向学心を忘れず、関西学院大学大学院に進み修了されています。
よって、最終学歴は関西学院大学大学院修了となっています。
株式会社大阪王将の代表取締役社長 植月剛氏の経歴
大阪王将を運営する株式会社大阪王将の代表取締役社長は植月剛(うえつき たけし)氏です。
持株会社である株式会社イートアンドホールディングスの取締役も兼任されています。
植月氏は1972年7月13日生まれの49歳で、龍谷大学社会学部卒業後、1995年4月に大阪王将に新卒入社。
その後、2006年6月に取締役。2009年4月に取締役 執行役員 王将営業本部長。
大阪王将の海外事業部門も統括します。
2012年4月には、取締役 常務執行役員 王将営業本部長。
2019年4月に常務取締役 外食事業統括兼海外戦略本部長。
と順調にキャリアを積んで、2020年10月に大阪王将の代表取締役社長に就任されています。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
はる坊拝
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