王将フードサービス「餃子の王将」創業者・加藤朝雄氏の人生とは?①

王将フードサービスの創業者・加藤朝雄さんの人生を追ってみます

はる坊です。

今回は、コロナウィルス禍でも業績好調な『餃子の王将』を運営する王将フードサービスの創業者・加藤朝雄さんの生涯を追っていきます。

餃子の王将の社長といえば、凶弾に倒れた三代目社長・大東隆行氏が有名で、創業者・加藤朝雄氏の人物像については、あまり知られていません。

現在は、王将フードサービスの大株主でもあり、1993年12月1日に設立された財団法人を公益化した、公益財団法人 加藤朝雄国際奨学財団にその名を留めていますが、前半生については謎多きの人物とされることも多いようです。

餃子の王将創業者・加藤朝雄さんは福岡県生まれ

加藤朝雄氏は1924年7月10日生まれ。出身は福岡県飯塚市です。
9人兄姉の末っ子として生まれました。
生家は小さな魚屋でしたが、生活は貧しく、生前に朝雄氏がインタビューで語ったところによると、

“「9歳から家計を助けた。ゼニになることなら、子どもでできることなら何でもやりました。炭鉱から石炭を盗み、それを袋につめてかついで帰ったり、新聞配達をしたり」”

と、なりふり構わずに家のために働き、

幼心に、

“「絶対に金持ちになってやる」”

と誓っていたようです。

そんな朝雄氏の最終学歴は飯塚尋常高等小学校卒業。
朝雄氏は徒手空拳で社会に出ます。

中国大陸で味わった餃子の味

1941年、17歳の朝雄氏は一躍中国大陸へと渡ります。
そして、山西省・臨汾(リンフェン)という町に辿り着き、先に大陸へ渡り飲食業を営んでいた長兄の店で働きます。
朝雄氏が餃子に出会ったのはこの時です。

1年が過ぎ、帰国した朝雄氏は大阪へ移り住み、大阪・梅田新道にあったアサヒビールのビアホールでコック見習いとして働きはじめます。
のちに、餃子の王将を設立して成長企業となった際には、アサヒビールがバックアックして、現在は、同社が王将フードサービスの筆頭株主になっていることを鑑みると、〝縁〟というものは不思議なものだと感じます。

1944年には再度、中国大陸へ移ります。
これは朝雄氏の意志ではなく、徴兵を受けての中国行でした。

朝雄氏は当時の新京(吉林省・長春市)にあった関東軍の憲兵学校で訓練を受けた後、憲兵教習隊員として大連で終戦を迎えました。

戦後の混乱のなかで、朝雄氏が日本へ引き揚げてきたのは1947年2月でした。
ここから朝雄氏の悪戦苦闘がスタートします。

悪戦苦闘の末に辿り着いた〝餃子の王将〟

朝雄氏は大阪に出て薪炭商となりますが、この商売はうまくいきませんでした。
この時代の収穫は、妻・梅子さんと出会い結婚、そして、のちの王将の社長と専務となる長男の加藤潔さん(1950年生まれ)、次男の加藤欣吾さん(1953年生まれ)という2人の息子に恵まれたことでした。

この妻・梅子さんの16歳年下の弟が王将フードサービスの三代目社長となる大東隆行氏です。

さて、薪炭の商いがうまくいかず、多額の借金を抱えた朝雄氏は京都に移り住みます。
京都に移り住んだ朝雄氏が手掛けたのは、小口の金融業、いわゆる消費者金融業でした。
借金を抱えて自らも取り立てに追われながら、朝雄氏は自らの持ち金を他人に貸しては取り立てていたのです。

時代は1960年代初め、法整備が行き届いていなかった消費者金融業は濡れ手に粟の儲けとなります。
借金を抱えていた朝雄氏は、借金を完済するどころか、何と1,000万円の現金を手にしました。

現在の価値に換算すれば、どれほどのものか?
年次統計によりますと、1960年のサラリーマン月間給料所得が18,458円、1965年で30,300円とあります。
当時は経済成長期でイケイケだった日本ですが、1,000万円はとんでもないお金であったことがお分かりいただけると思います。

さて、一財産を作った朝雄氏ですが、ここでパチンコ業者と共同出資でファッションホテルの経営を計画します。
1964年、40歳を迎えて、東京のファッションホテルを下見に行った朝雄氏ですが、東京行きの途中で熱海に立ち寄ったことが大きな人生の転換期になります。

熱海のラーメン屋に入って食事をしているうちに、ラーメン屋経営に興味を持ちだしたのです。
なかなか言えないことですが、朝雄氏の行動は早く、その店の主人に「私を使って欲しい」と頼んで了解を得ると、1ヶ月間、朝から晩まで出前を担当する傍らで、調理も勉強しました。

その結果、朝雄氏は、(ラーメン屋の商売は原価が低いので、ボロい商売になる)ことに気付きます。

その後、予定どおりに京都市東山区でファッションホテルの経営にあたった朝雄氏でしたが、カップルに部屋を貸すだけの商売に飽き足らなくなり、共同経営から手を引きます。

たまたまだった〝王将〟という名前

1967年、43歳となっていた朝雄氏は、七条烏丸にあった飲食店の権利を200万円で購入しました。
このお店の名前が〝王将〟でした。

餃子の〝王将〟』の〝王将〟の2文字は朝雄氏が考えて決めたわけではなく、たまたまだった訳です。

ところが、この飲食店の営業権は詐欺でした。
本当の経営者が出てきて、朝雄氏とトラブルになります。

結局、折角手に入れた店から、朝雄氏は手を引かざるを得なくなりました。
朝雄氏は憤怒の感情を胸に抱きながら、〝王将〟ののれんだけを受け継ぐことになり、今度は四条大宮で中華料理店を開くことになります。

1967年12月24日のことでした。

朝雄氏自らが調理人となり、妻・梅子さんが注文取りと会計を担当。
平安高校に在学していた長男・潔さんも出前を手伝います。

〝「王将の最初の店舗は失敗して、2度目の店舗で再スタートした」〟

という話がありますが、実際のところはこういうことだったんですね。

朝雄氏は一軒の中華料理屋の主人で終わることは考えませんでした。
「王将といえば将棋。将棋の駒は40枚。だったら40店ぐらいにはしたい・・・」
早速、二号店を現在本社のある京都市山科区に出店します。

ここで朝雄氏はお店の認知戦略として、「餃子を10人前食べたお客さんはタダにします」と宣伝したところ、これが大いに当たって『餃子の王将』の知名度は、狭い京都で一気に上がり、1号店開店から3年目には6号店まで店を拡げることになりました。
この時期、1969年8月に3代目社長となる大東隆行氏が、朝雄氏の誘いにより王将に加わっています。
(大東氏は中学卒業後の身の振り方について朝雄氏に相談したところ、高校ではなく経理学校へ進むことを提案され、関西経理専門学校に進学。また、王将の経営に参加する前に、自営で大東商事という個人事業をしていましたが、薪炭と製氷の販売業でしたので、朝雄氏の影響を感じます)

京都王将と大阪王将

現在、〝王将〟には、王将フードサービスが経営する〝餃子の王将(京都王将)〟とイートアンドが経営する〝大阪王将〟があります。
大阪王将はイートアンドの創業者・文野新造氏が1969年2月から、朝雄氏の経営する王将に勤務した後、7ヶ月後の1969年9月に大阪・京橋に出店したことがすべてのはじまりです。
文野氏の下で働きはじめた佐野文夫氏と本木健二氏が大阪王将の創業メンバーになります。

創業まもない当時の餃子の王将では、新規出店にかかる費用のうち10%を負担できれば、最低で3ヶ月間の勤務でフランチャイズ権を獲得することができました。

文野氏の店は、開店当初からラーメンとチャーハン、そして一皿50円の餃子だけにメニューを絞っていましたが、餃子に人気が集中したこともあり、1970年3月には餃子専門店に鞍替えして、1977年8月には大阪王将食品株式会社として法人化しています。
独自のフランチャイズ化も進めていきました。

この1977年には、朝雄氏が率いる餃子の王将は、京都府・大阪府・兵庫県・滋賀県を中心に75店舗以上を展開していました。
1982年4月には、関東と東海、そして九州にも進出してフランチャイズを含むと224店舗となりますが、大阪王将も同じ年には100店舗を達成しています。

餃子の王将と大阪王将は商標権侵害で訴訟となり、1985年には和解が成立していますが、現在に至るまで因縁の関係となってしまいました。

さて、時代を戻して1969年。

朝雄氏の経営する王将は6店舗に拡大していました。
ですが、ここで大きな壁にぶつかることになります。

その②に続きます。