生涯収入9億6400万円 !代表作『復讐するは我にあり』の直木賞作家・佐木隆三氏が晩年に公表した30年間の収支一覧表
直木賞作家の生涯収入は?
はる坊です。
人間は他人のことが気になる生き物です。
例えば、収入。
あの人は幾らくらいひと月に稼いでいるんだろう?
あの職業に就いている人はどれくらいの年収があるんだろう?
例えば、作家・小説家。
2015年11月、作家の森博嗣さんが『作家の収支』という新書で、“「19年間で、総発行部数1400万部。累計で15億円の収入を得た」”と公表されました。
森さんは、事あるごとに、ご自身を〝マイナ〟であると定義されていますが、
著書はコンスタントに出されており、同時にコンスタントに売れ続けている作家です。
2018年には著書の累計売上数が1600万部を突破していますので、
〝出版巨大不況〟のご時世で、稼ぎは〝超メジャ〟であると思います。
2020年11月に刊行された『勉強の価値』も非常に面白くオススメです。
しかし、コンスタントに売れる本を出し続けていると言い難い作家の収入はどうなんだろう?
という疑問が出てきます。
そんななか、2007年(平成17年)に過去30年間の収支を公表した方がいます。
代表作のひとつ『身分帳』を原作にした映画『すばらしき世界』が2021年2月11日に西川美和監督・役所広司主演で公開された、直木賞作家の佐木隆三さんです。
ネタバレは避けますが、映画の原作小説となる『身分帳』は、実在の人物である田村明義をモデルに、主人公・山川一の人生を、佐木さんが得意とする〝ノンフィクション・ノベル〟の形で進んでいきます。
原作小説は1990年に講談社よりハードカバーが刊行され、1993年に文庫化。
1991年には第2回伊藤整文学賞を受賞しています。
文庫は絶版の状態が続いていましたが、今回の映画公開により文庫が復刊(併せて電子書籍化も)されました。
今回の復刊にあたって、主人公・山川一の最後を描いた『行路病死人──小説『身分帳』補遺』と西川美和さんによる解説も収録されています。
さて、佐木さんが公表された数字ですごい点は、毎年の収入だけではなく、
・経費
・課税対象額
・所得税額
・源泉徴収税額
・差引納付額
と、支出や納税額についても、細かく公にされたことでしょう。
佐木さんの代表作と言えば、直木賞受賞作であり、今村昌平監督・緒形拳主演で映画化された『復讐するは我にあり』ですが、
タイトルのせいか、意外にこの作品は西村寿行作品だと思っている方も一定数おられるようです。
ちなみに『復讐するは我にあり』は、新約聖書の(ローマ人への手紙 第12章 第19節)に出てくる『愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」とあり』という言葉の一部であり、これは、《悪人に復讐を与えるのは神である》という意味といわれています。
佐木さんは『新約聖書』の言葉をタイトルに引用した形です。
しかし、最も一般的な佐木隆三さんのイメージは、何か物騒な事件が起きると、
ワイドショーやニュース番組で「作家のサキリューゾーさんは」とコメントをしていたおじさんではないでしょうか。
それでは、佐木隆三さんの30年間の収支一覧表です。
その下に、佐木隆三さんの詳しいプロフィールを紹介していますので、興味のある方はご覧ください。
1976年(昭和51年)~2005年(平成17年)分 佐木隆三 連年収支一覧表
1976年(昭和51年)
収入額:5,288万6,000円
経費額:1,449万9,000円
課税対象額:3,798万7,000円
所得税額:772万4,000円
源泉徴収税額:773万4,000円
差引納付額:-1万円
※備考 『復讐するは我にあり』の直木賞受賞で、前年度より急激に収入が増えたため、課税は平均課税方式がとられている。
出版された著作
1975年11月『復讐するは我にあり(上下)』(講談社)
1976年2月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(新人物往来社)
1976年2月『大将とわたし』(講談社)
1976年5月『狼からの贈物』(河出書房新社)
1976年6月『大罷業』(田畑書店)
1976年6月『ジャンケンポン協定』(講談社文庫)
1976年9月『偉大なる祖国アメリカ』(勁文社)
※『復讐するは我にあり』は1975年11月の刊行ですが、直木賞受賞で43万部を超えるベストセラーとなり、1976年分の収入に大きく寄与しているため、この年に出版された著作に含めました。
1976年に刊行された本の多くは、過去に一度刊行されて絶版状態にあったものや単行本化されていなかった原稿をまとめたものが目立ちます。
佐木さんは、直木賞受賞まで11冊の本を出されていますが、それらが版元を変えたり文庫化されて再度刊行されている形です。
『新宿鮫』シリーズが累計600万部以上の大ベストセラーになるまでに出した28冊ことごとくが売れず(28冊目は『氷の森』で大沢在昌作品の文庫では一番売れているのにわからないものです)、29冊目の『新宿鮫』が大ヒットして、それまでに書いて絶版になっていた本が次々に復刊されて、それらを〝ゾンビ本〟と呼んだ大沢在昌さんみたいな感じでしょうか。
1977年(昭和52年)
収入額:2,590万円
経費額:864万9,000円
課税対象額:1,685万1,000円
所得税額:482万4,000円
源泉徴収税額:269万8,000円
差引所得税納付額:212万5,000円
出版された著作
1977年2月『ドキュメント狭山事件』(文藝春秋)
1977年2月『日本漂民物語』(講談社)
1977年4月『越山田中角栄』(朝日新聞社)
1977年5月『殺人百科 』(徳間書店)
1977年10月『人生漂泊』(時事通信社)
1978年(昭和53年)
収入額:2,626万1,000円
経費額:939万円
課税対象額:1,649万1,000円
所得税額:465万2,000円
源泉徴収税額:268万円
差引所得税納付額:197万1,000円
出版された著作
1978年1月『偉大なる祖国アメリカ』(角川文庫)
1978年1月『実験的生活』(講談社)
1978年2月『閃光に向かって走れ』(文藝春秋)
1978年3月『男たちの祭り』(角川文庫)
1978年4月『詐欺師』(潮出版社)
1978年6月『愛の潮路』(光文社)
1978年9月『続人生漂泊』(時事通信社)
1978年10月『娼婦たちの天皇陛下』
1978年11月『大罷業』(角川文庫)
1978年12月『誓いて我に告げよ』(角川書店)
1978年12月『復讐するは我にあり(上)』(講談社)
1978年12月『復讐するは我にあり(下)』(講談社)
1979年(昭和54年)
収入額:4,963万8,000円
経費額:1,389万2,000円
課税対象額:3,536万7,000円
所得税額:11,787,000円
源泉徴収税額:682万7,000円
差引所得税納付額:495万9,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1979年4月『曠野へ 死刑囚の手記から』(講談社)
1979年5月『事件百景-陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1979年5月『ドキュメント狭山事件』(文春文庫)
1979年6月『男と女のいる風景』(文藝春秋)
1979年9月『無宿の思想』(時事通信社)
1979年12月『錆びた機械』(潮出版社)
※1977年分(昭和52年分)・1978年分(昭和53年分)から収入が大幅に増加しているのは、1979年(昭和54年)4月21日に、今村昌平監督・緒形拳主演で公開された『復讐するは我にあり』の映画化により、講談社から出版された文庫本が版を重ねたのが理由と考えられる。
1980年(昭和55年)
収入額:3,283万8,000円
経費額:1,136万9,000円
課税対象額:2,105万9,000円
所得税額:684万7,000円
源泉徴収税額:352万2,000円
差引所得税納付額:332万4,000円
出版された著作
1980年2月『海燕ジョーの奇跡』(新潮社)
1980年2月『殺人百科 PARTⅡ』(徳間書店)
1980年5月『旅人たちの南十字星』(文藝春秋)
1980年11月『波に夕陽の影もなく 海軍少佐竹内十次郎の生涯』(中央公論社)
1980年11月『風恋花』(潮出版社)
1981年(昭和56年)
収入額:3,570万2,000円
経費額:1,117万9,000円
課税対象額:2,412万6,000円
所得税額:850万5,000円
源泉徴収税額:409万8,000円
差引所得税納付額:440万4,000円
出版された著作
1981年2月『越山田中角栄』(徳間文庫)
1981年4月『殺人百科』(文春文庫)
1981年4月『冷えた鋼塊(上巻)』(集英社)
1981年4月『冷えた鋼魂(下巻)』(集英社)
1981年5月『幸せの陽だまり』(潮出版社)
1981年6月『欲望の塀』(文藝春秋)
1981年10月『日本漂民物語』(徳間文庫)
1981年12月『右の腕』(学習研究社)
1982年(昭和57年)
収入額:4,219万5,000円
経費額:1,506万1,000円
課税対象額:2,873万4,000円
所得税額:1,022万2,000円
源泉徴収税額:468万5,000円
差引所得税納付額:553万7,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1982年1月『大将とわたし』(講談社文庫)
1982年2月『詐欺師』(文春文庫)
1982年3月『殺人百科 PARTⅢ』(徳間書店)
1982年4月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(徳間文庫)
1982年5月『政商 小佐野賢治』(講談社)
1982年5月『我が沖縄ノート』(潮出版社)
1982年6月『土曜日の騎士』(河出書房新社)
1982年7月『新撰組』(文藝春秋)
1982年8月『きのこ雲』(中央公論社)
1982年8月『ジミーとジョージ』(集英社)
1982年9月『娼婦たちの天皇陛下』(徳間文庫)
1982年10月『噂になった女たち』(文藝春秋)
1982年12月『閃光に向かって走れ』(文春文庫)
1983年(昭和58年)
収入額:2,533万4,000円
経費額:1,005万9,000円
課税対象額:1,527万5,000円
所得税額:391万5,000円
源泉徴収税額:312万円
差引所得税納付額:79万4,000円
出版された著作
1983年3月『曠野へ』(講談社文庫)
1983年4月『英雄』(集英社)
1983年6月『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋)
1983年9月『海燕ジョーの奇跡』(新潮文庫)
1983年10月『田中角栄の風景―戦後初期・炭管疑獄』(徳間書店)
1983年10月『波に夕陽の影もなく』(中公文庫)
1983年10月『冷えた鋼塊(上)』集英社文庫
1983年10月『冷えた鋼塊(下)』集英社文庫
1984年(昭和59年)
収入額:3,961万3,000円
経費額:1,493万円
課税対象額:2,468万3,000円
所得税額:783万2,000円
源泉徴収税額:415万6,000円
差引所得税納付額:367万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1984年2月『誓いて我に告げよ』(角川文庫)
1984年6月『殺人百科 一』(徳間文庫)
1984年6月『殺人百科 二』(徳間文庫)
1984年9月『男の自画像』(佼正出版社)
1984年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間書店)
1984年9月『殺人百科 三』(徳間文庫)
1984年10月『人生漂泊』(潮文庫)
1985年(昭和60年)
収入額:2,615万4,000円
経費額:931万1,000円
課税対象額:1,684万3,000円
所得税額:424万5,000円
源泉徴収税額:297万9,000円
差引所得税納付額:126万5,000円
出版された著作
1985年4月『ありふれた奇蹟』(講談社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(上)』(潮出版社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(下)』(潮出版社)
1985年7月『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(毎日新聞社)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(毎日新聞社)
1985年10月『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫)
1985年12月『犯罪するは我にあり―佐木隆三文学ノート』(作品社)
1986年(昭和61年)
収入額:3,126万9,000円
経費額:1,077万5,000円
課税対象額:2,049万4,000円
所得税額:638万6,000円
源泉徴収税額:338万4,000円
差引所得税納付額:300万3,000円
出版された著作
1986年1月『ジミーとジョージ』(潮文庫)
1986年2月『政商 小佐野賢治』(徳間文庫)
1986年5月『殺人百科〈Part4〉―陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1986年7月『旅人たちの南十字星』(文春文庫)
1986年7月『南へ走れ、海の道を!』(徳間書店)
1986年12月『恋文三十年 沖縄・仲間翻訳事務所の歳月』(学習研究社)
1987年(昭和62年)
収入額:3,315万5,000円
経費額:1,053万9,000円
課税対象額:2,261万6,000円
所得税額:600万1,000円
源泉徴収税額:356万7,000円
差引所得税納付額:243万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1987年4月『華やかな転落』(潮出版社)
1987年5月『男の責任―女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1987年7月『わが沖縄ノート』(徳間文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈2〉』(文春文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈3〉 』(文春文庫)
1987年10月『深川通り魔殺人事件』(文春文庫)
1988年(昭和63年)
収入額:2,279万9,000円
経費額:778万8,000円
課税対象額:1,501万9,000円
所得税額:337万3,000円
源泉徴収税額:246万円
差引所得税納付額:91万3,000円
出版された著作
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(文春文庫)
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(文春文庫)
1989年(昭和64年・平成元年)
収入額:2,883万1,000円
経費額:845万4,000円
課税対象額:2,037万7,000円
所得税額:537万9,000円
源泉徴収税額:297万4,000円
差引所得税納付額:240万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1989年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間文庫)
1989年11月『リクルート帝王の白日夢』(双葉社)
1990年(平成2年)
収入額:3,734万6,000円
経費額:1,220万3,000円
課税対象額:2,514万3,000円
所得税額:647万7,000円
源泉徴収税額:410万5,000円
差引所得税納付額:237万1,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。
出版された著作
1990年2月『バカなふりして生きてみな』(青春出版社)
1990年3月『裁判長大岡淳三』(講談社)
1990年6月『身分帳』(講談社)※第2回伊藤整文学賞受賞
1990年7月『新撰組事件帳』(文春文庫)
1990年9月『別府三億円保険金殺人事件』(徳間文庫)
1991年(平成3年)
収入額:2,961万8,000円
経費額:1,259万1,000円
課税対象額:1,702万7,000円
所得税額:393万6,000円
源泉徴収税額:303万8,000円
差引所得税納付額:89万8,000円
出版された著作
1991年8月『宮崎勤裁判〈上〉 』(朝日新聞社)
1991年9月『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1991年9月『親が知らなかった子の愛し方』(青春出版社)
1991年12月『いま、裁判が面白い』(蒼樹社)
1992年(平成4年)
収入額:5,574万7,000円
経費額:1,883万4,000円
課税対象額:3,619万2,000円
所得税額:1,127万7,000円
源泉徴収税額:576万2,000円
差引所得税納付額:551万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。
出版された著作
1992年2月『恩讐海峡』(双葉社)
1992年4月『法廷の賓客たち』(河出書房新社)
1992年7月『正義の剣』(講談社)
1992年7月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1992年10月『しぶとさの自分学』(青春出版社)
1992年11月『越山田中角栄』(現代教養文庫)
1992年11月『伊藤博文と安重根』(文藝春秋)
※1990年前後に、オリジナルキャラクターを造形した小説を何冊か刊行されましたが、
こちらの売れ行きは良くなかったと佐木隆三氏ご本人が述懐されています。
1993年(平成5年)
収入額:2,909万円
経費額:1,075万5,000円
課税対象額:1,835万5,000円
所得税額:444万2,000円
源泉徴収税額:332万6,000円
差引所得税納付額:111万5,000円
出版された著作
1993年1月『殺人百科 四』(徳間文庫)
1993年2月『矯正労働者の明日』(河出書房新社)
1993年3月『裁判長大岡淳三』(講談社文庫)
1993年6月『生きている裁判官』(中央公論社)
1993年6月『身分帳』(講談社文庫)
1993年9月『闇の中の光』(徳間書店)
1993年9月『錬金術師の白日夢』(双葉文庫)
1994年(平成6年)
収入額:2,821万5,000円
経費額:874万5,000円
課税対象額:1,922万円
所得税額:362万1,000円
源泉徴収税額:329万6,000円
差引所得税納付額:32万5,000円
出版された著作
1994年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉社)
1994年4月『恩讐海峡』(双葉文庫)
1994年6月『バカなふりして生きてみな』(青春文庫)
1994年7月『死刑囚 永山則夫』(講談社)
1994年10月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1995年(平成7年)
収入額:3,049万4,000円
経費額:1,125万円
課税対象額:1,880万4,000円
所得税額:365万7,000円
源泉徴収税額:325万9,000円
差引所得税納付額:39万7,000円
出版された著作
1995年4月『司法卿 江藤新平』(文藝春秋)
1995年6月『白鳥正宗刑事の事件帳』(中央公論社)
1995年6月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日文芸文庫)
1995年8月『正義の剣』(講談社文庫)
1996年(平成8年)
収入額:3,521万2,000円
経費額:1,183万4,000円
課税対象額:2,321万8,000円
所得税額:490万6,000円
源泉徴収税額:355万7,000円
差引所得税納付額:134万8,000円
※備考:平均課税方式がとられている。
出版された著作
1996年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉文庫)
1996年3月『伊藤博文と安重根』(文春文庫)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記①』(小学館)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記 (2) 麻原出廷②』(小学館)
1996年10月『オウム裁判を読む』(岩波書店)
1996年10月『ハダカの自分を生きてみな』(青春文庫)
1997年(平成9年)
収入額:4,676万7,000円
経費額:1,563万2,000円
課税対象額:3,024万2,000円
所得税額:716万9,000円
源泉徴収税額:536万8,000円
差引所得税納付額:180万1,000円
※備考:平均課税方式がとられている。
出版された著作
1997年2月『法廷のなかの人生』(岩波新書)
1997年8月『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)
1997年10月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日新聞社)
1997年10月『宮崎勤裁判〈下〉』(朝日新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1998年(平成10年)
収入額:3,854万5,000円
経費額:1,328万9,000円
課税対象額:2,487万9,000円
所得税額:587万1,000円
源泉徴収税額:384万9,000円
差引所得税納付額:202万2,000円
出版された著作
1998年3月『人が人を裁くということ』(青春出版社)
1998年4月『司法卿 江藤新平』(文春文庫)
1998年9月『裁判』(作品社)
1999年(平成11年)
収入額:2,987万7,000円
経費額:1,324万6,000円
課税対象額:1,741万円
所得税額:346万円
源泉徴収税額:307万5,000円
差引所得税納付額:385,000円
※備考:消費税課税事業者
出版された著作
1999年5月『もう一つの青春』(岩波書店)
1999年8月『悪女の涙―福田和子の逃亡十五年』(新潮社)
1999年9月『少年犯罪の風景-「親子の法廷」で考えたこと』(東京書籍)
1999年11月『死刑執行―隣りの殺人者〈1〉』(小学館文庫) ※『曠野へ 死刑囚の手記から』改題
この年、東京暮らしに別れを告げ、福岡県北九州市門司区に移住されています。
2000年(平成12年)
収入額:2,935万2,000円
経費額:1,317万5,000円
課税対象額:1,617万7,000円
所得税額:313万4,000円
源泉徴収税額:317万7,000円
差引所得税納付額:-4万3,000円(還付)
※備考:消費税課税事業者
出版された著作
2000年1月『白昼凶刃―隣りの殺人者〈2〉』(小学館文庫) ※『深川通り魔殺人事件』改題
2000年3月『法廷のなかの隣人たち』(潮出版社)
2000年4月『逃亡射殺 隣りの殺人者3』(小学館文庫) ※『旅人たちの南十字星』改題
2000年5月『成就者たち』(講談社)
2000年6月『女医絞殺 隣りの殺人4』(小学館文庫) ※『千葉大女医殺人事件』改題
2000年8月『組長狙撃 海燕ジョーの奇跡 隣りの殺人者5』(小学館文庫)
2000年9月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日学芸文庫)
2000年12月『宮崎勤裁判』(朝日学芸文庫)
2001年(平成13年)
収入額:2,478万円
経費額:1,567万円
課税対象額:1,395万円
所得税額:245万5,000円
源泉徴収税額:249万9,000円
差引所得税納付額:-4万4,000円(還付)
出版された著作
2001年1月『小説 大逆事件』(文藝春秋)
2001年4月『供述調書―佐木隆三作品集』(文藝春秋)
2001年7月『裁かれる家族―断たれた絆を法廷でみつめて』(東京書籍)
2001年11月『法廷の内と外で考える―犯罪者たちとの十年』(文芸社)
2002年(平成14年)
収入額:2,296万8,000円
経費額:1,048万7,000円
課税対象額:1,248万1,000円
所得税額:229万7,000円
源泉徴収税額:238万8,000円
差引所得税納付額:-34万1,000円(還付)
出版された著作
2002年4月『三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件 』(小学館)
2002年11月『大義なきテロリスト―オウム法廷の16被告』(日本放送出版協会)
2003年(平成15年)
収入額:1,685万4,000円
経費額:936万4,000円
課税対象額:658万2,000円
所得税額:78万9,000円
源泉徴収税額:171万4,000円
差引所得税納付額:-92万4,000円(還付)
出版された著作
2003年5月『成就者たち』(講談社文庫)
2003年10月『少女監禁―「支配と服従」の密室で、いったい何が起きたのか』(青春出版社)
2004年(平成16年)
収入額:1,946万1,000円
経費額:1,053万8,000円
課税対象額:768万4,000円
所得税額:96万5,000円
源泉徴収税額:202万4,000円
差引所得税納付額:-105万9,000円(還付)
出版された著作
2004年2月『小説 大逆事件』
2004年2月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社)
2004年6月『証言台の母―小説医療過誤裁判』(弦書房)
2004年9月『深川通り魔殺人事件』(新風舎文庫)
2004年10月『宿老・田中熊吉伝』(文藝春秋)
2005年(平成17年)
収入額:1,763万9,000円
経費額:1,101万5,000円
課税対象額:662万3,000円
所得税額:66万8,000円
源泉徴収税額:177万8,000円
差引所得税納付額:-111万円(還付)
出版された著作 はる坊です。 福嶋さんが考えたのは、素人でも扱える機械を導入して、寿司づくりの自動化を図ることでした。 そして、自動寿司握りロボットを導入します。 ただ、機械自体が高額な為に、最初のお店は素人でもできる型押しロボットを導入しました。 目標は、5年間で全国490店舗を展開して、当時急成長で注目を浴びていた小僧寿しを抜いて、テイクアウト寿司市場でNo.1を獲ることです。 1979年(昭和54年)持ち帰り寿司全国No.1を目指して、寿司をロボットが握る持ち帰り寿司店を狛江市の狛江団地近くにオープンします。 当時の小僧寿しは、店が路面に向いており、衛生面に疑問を持った福嶋さんは、マクドナルド型に、店舗に入ってすぐ持ち帰りカウンターのある店舗を造り、衛生面にも気を配った店舗を完成させました。 店舗の向かい側はスーパーマーケット。 開店当初の店舗は大盛況。大行列。 福嶋さんは、「これは大成功だ!」と胸を躍らせます。 次々に、持ち帰り寿司店舗を展開していけば、小僧寿しを超えられる! しかし、やがて客足は遠のき始めます。 「なぜだろう?」 と思った福嶋さんは、自転車のカゴに寿司を入れて走ってみました。 しばらく走って、狛江団地のベンチに座り寿司折りを開けてみると、客足が遠のいた理由がハッキリと分かりました。 寿司のネタとシャリの握りが甘く、ネタがシャリからすべて落ちていたのです。 まだ、導入したロボットの技術が拙く、しっかりと握るところまでできていなかったのです。 この事業の目的は、寿司屋として成功することではなく、小僧寿しよりローコストの持ち帰り寿司チェーンを高利益体質で急速展開することにありました。ローコスト実現のために導入したロボットが型押しした寿司をパート従業員が握り直していたのでは、設備投資をした分、福嶋さんの持ち帰り寿司店は小僧寿しよりコストがかかってしまいます。 結局、持ち帰り寿司事業は頓挫します。 しかし、福嶋さんに後悔はありませんでした。 最初から損切りの金額を決めていたからです。 営団社募集サービスセンター自体に年間で7,000万円の利益が出ていたため、「3,000万円までの赤字なら、本業に差し支えない」そういう計算が出来ており、落ち込むこともありませんでした。 次に進出したのが、コンピューター事業でした。 1980年のこと、福嶋さんは再度渡米して、ロサンゼルスで新規事業を検討します。 ただ、可能性があるからといって、いきなり事業を興すことはしませんでした。 コンピュータはビジネスになる 福嶋さんの確信は深まりました。 このとき、福嶋さんはセールスマンに命じた言葉があります。 なぜかというと、当時は、企業にコンピュータが入り始めた頃です。 事実、大手メーカーがオフコンを売りだして、多くの販売代理店が生まれましたが、利益を得ていたのはごく少数でした。 福嶋さんの戦略は、客の要望を聞いてそれに合わせた商品を売るというものでした。 また、アフターサービスもおこない、顧客の信頼を勝ち得ていきます。 このとき設立した株式会社 エム・シー・ビー(MCB)には、のちにドラゴンクエストの初代プロデューサーとなる千田幸信さんが入社してきました。 エム・シー・ビーは東京で1位の東芝代理店になります。 中古パソコンはBe-Stockで!最短即日配送!安心半年無償保証!法人掛売対応 福嶋さんが次に目を付けたのはパソコンゲーム事業でした。 1982年8月、経営していた株式会社営団社募集サービスセンターの子会社・株式会社営団社システムの商号を株式会社エニックスに変更します。 代表取締役社長には福嶋康博さん。 現在も、東京都新宿区西新宿7丁目1-8にある1972年築のヒノデビル。 エニックスを設立した福嶋さんは、すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。 最優秀プログラム賞受賞者には賞金100万円。 当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。 しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。 ・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった そして、これがいちばん大きな理由でした。 エニックスが、まったくの無名会社だったから。 さすがに、社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。 千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。 このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。 依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。 四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。 マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。 また、NHKが取材に入るという機会が訪れ、ゲームコンテストは一気に加速がつきました。 最終的には、コンテストに100本以上のゲームが集まりました。ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。 審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さん(東京工業大学中退後、当時は埼玉医科大学医学部在学中)の『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。 中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀プログラム賞でした。 堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』は入選プログラム賞を受賞。 このコンテストで、堀井雄二さんと中村光一さんを発掘することができたのは、エニックスにとって大収穫でした。 ゲームコンテストで入賞したゲームを製品化して売り出すと、『ドアドア』の8万本を始め、パソコンゲームの売上上位にエニックスのソフトが名を連ねます。 エニックスは設立初年度で、3億5,000万円の利益をはじき出しました。 1983年10月には、取引銀行の支店長の仲立ちで、コニカ(当時は、小西六写真工業)と合弁で小西六エニックス(コニカエニックス)を設立します。 資本金は6,000万円。 コニカエニックス社長にも就任した福嶋さんは、ゲームソフト流通業に力を入れます。 この会社は設立してから数年で、年間売上高30億円の企業に成長しました。 福嶋さんにとって一番大きな収穫は、コニカエニックスに出向してきたコニカの優秀な人材を、エニックスに入社させられたことでしょう。 この頃、少しずつ注目経営者となっていった福嶋さんは雑誌のインタビューに登場しています。 年収はこの頃で1700万円。月のお小遣いは30万円。 次に福嶋さんは、任天堂が発売したファミコンに『ドアドア』を移植して発売。 そして続いて、堀井雄二さんシナリオ・ゲームデザインの『ポートピア連続殺人事件』を発売60万本のヒットとなります。 これが、『ドラゴンクエスト』開発への足がかりとなります。 千田幸信さんがプロデューサーとなり、シナリオ・ゲームデザインに堀井雄二さん、キャラクターデザインに鳥山明さん、音楽にすぎやまこういちさん、そして、メインプログラムにチュンソフトを設立して代表取締役社長兼メインプログラマーとなっていた中村光一さんという主要スタッフの元で開発された『ドラゴンクエスト』はⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳと発売される毎に、人気とその発売本数を増やしていきます。 そして、発売日当日には大行列ができるのが風物詩になります、 3DS・DSがあればシリーズ全作が遊べる『ドラゴンクエスト』シリーズについてまとめた記事はこちらです。(新しいページが開きます)⇒3DSとDSがあれば、ドラクエシリーズが全作品が遊べるんです!! ゲーム業界で任天堂のようにゲーム用ハードウェアを製造しない、ソフトウェアメーカーで最初に株式を上場したのはコナミ(現:コナミホールディングス)でした。 1984年10月に大阪証券取引場第2部に設けられたベンチャー企業向けの新2部に上場を果たしたのです。(コナミはその後1988年2月に東証2部への上場を果たすと、8ヶ月後の10月に東証1部に上場しています。) コナミが株式上場企業となったことや〝ファミコンブーム〟の到来で、証券会社もゲーム関係企業に注目を向けて、ゲーム業界では店頭公開(ジャスダック上場)や東証・大証上場を果たす企業が増えていました。 1986年4月 セガ・エンタープライゼス(現:セガゲームス)が店頭公開⇒1988年4月に東証2部上場⇒1990年10月に東証1部上場 1988年1月 ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)が東証2部上場⇒1991年9月に東証1部上場 1988年9月 ジャレコが店頭公開(現:ジャスダック上場) 1990年1月 カプコンが店頭公開(現:ジャスダック上場)⇒1993年10月大証2部上場⇒1999年9月大証1部に指定替え⇒2000年10月東証1部上場 『ドラゴンクエスト』の大ヒットと共に発売元のエニックスも注目を受けることになり、証券会社から株式上場の誘いが頻繁に来るようになります。 株式上場について、福嶋さんは当初慎重で断り続けました。 一番、株式を上場しやすい店頭公開(ジャスダック上場)でも、準備に2~3年かかるのが当たり前で、そこまで労力を払って株式公開や上場をするのは割に合わないのではないかという考えがあった為です。 また、株式を上場させると、経営の自由度が下がるのではないかという不安もあったようです。 しかし、福嶋さんが欲しいのは優秀な人材でした。 1990年2月11日に発売された『ドラゴンクエストⅣ』のメガヒットで、1990年3月期のエニックスの業績は、 売上高:162億6,600万円 と順調な伸びを見せます。 そして1991年2月1日、エニックスは店頭公開(JASDAQ上場)を果たします。 会社設立から9年の株式上場は、当時としてはかなりのスピードであり、福嶋さんは辣腕経営者と認められます。 上場後初となる、1991年3月決算でも、昨年度に引き続き『ドラゴンクエストⅣ』効果が持続して、 1992年5月に公示された、1991年分の高額納税者の公示では、福嶋さんは株式売却益を得て3億2,950万円を納税しています。 福嶋さんは、上場で得た利益で、川崎市多摩区から、杉並区浜田山の豪邸に移り住みます。 ここで非常にたいせつなことは、福嶋さんが必要以上に所有している株式を売却しなかったことです。 店頭公開後も福嶋さんは、福嶋康博個人と資産管理会社の福嶋企画、そして、奥様の福嶋美知子で70%の株式を保有していました。広大な邸宅の建築が目標だったわけではないでしょうが、10数年後に建てることになる渋谷区初台の大豪邸に向けて、重要な資産となっていきます。 杉並区浜田山に移る前に福嶋さん一家が暮らしていた、敷地面積:約80坪の川崎市多摩区の旧福嶋邸は、エニックスと深い関わりがあった開発会社・クインテットの橋本昌哉さんが買取り、その後、クインテットが保有しています。 福嶋さんが川崎市多摩区に自宅を構えていたのも理由があると考えています。 「この場所に住んでいれば、ビジネスにも有利だ」 まだ、30代半ばの若き経営者だった福嶋さんが、そう考えたのではないかと思います。 クインテットは、日本ファルコムで『イース』シリーズなどを手掛けていた、橋本昌哉さん・宮崎友好さんが中心となって1989年4月に設立され、 トライエースが設立され、『スターオーシャン』『ヴァルキリープロファイル』シリーズをリリースするまで、『ドラクエ』頼みだったエニックスを支えました。 『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』『【推しの子】』(原作担当)の人気漫画家・赤坂アカさんの父親・曽根康征さんです。 さて、ジャスダック上場からまもない1990年代前半に、証券会社からは東証2部への上場準備を持ち掛けられますが、福嶋さんは断ります。 当時は、上場審査が厳しく、上場を希望する企業には、○○という部署がないとダメだという内規が定められていました。 株式を公開して上場企業の仲間入りを果たしたことにより、新卒採用で現在に至るまでスクウェア・エニックスを支える人材が集まるなど、福嶋さんが望んだことが現実となる一方で、古参の役員や従業員がエニックスを去るということも起こりました。 エニックス株を保有していた彼らのなかには、株式上場によって、億単位の資産を得ている者もいました。 例えば、エニックスの創業メンバーのひとりで、ゲームプロデューサーを経て、エニックス 取締役 営業部長となった高野豊さんや クインテット開発の『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』やランダムハウス開発の隠れた名作『ジャストブリード』で、 エニックス 取締役 ソフトウェア企画部長としてプロデューサー等を務めた川口貴雄さんも1990年代半ばにエニックスを離れています。 それでも、無借金で自社ビル(通称〝ドラクエビル〟)を持つことができたり、経営者として、会社をより客観的に見るよう心を配るようになったのも、店頭公開の収穫でした。 上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場) 代表取締役社長:福嶋康博 専務取締役:千田幸信 常務取締役:前川敏雄 取締役:川口貴雄 取締役:才藤智宏 取締役:蟹江元 取締役:上條弘 取締役:高野豊 常勤監査役:舟田正男 監査役:河野先 福嶋康博 46.6% ⇒エニックスも含めた、当時株式上場していたゲームソフトメーカーの会社情報はこちらです【1993年1月】上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成はこうだった 1999年8月 エニックスは東京証券取引所第1部に上場を果たします。 時はあたかもネットバブル全盛期、ネット関連企業だけでなく、ゲーム業界の株価も上がっていたのです。 ジャスダック上場企業と東証1部上場企業では、創業者など大株主が所有してよい株数(パーセンテージ)に違いがあります。 福嶋さんは1部上場の折に福嶋さん個人と福嶋企画名義で保有していた持株を売却して、莫大なキャッシュを得ることになります。 そして、2001年5月に公示された長者番付では、納税額3億5,890万円で全国第56位登場。 福嶋康博さんが名を連ねた2001年分の長者番付全国トップ100名のリストです。他のゲーム会社の会長・社長や芸能人では、浜崎あゆみ・宇多田ヒカル・稲葉浩志・松本孝弘(B’z)が名を連ねています(新しいページが開きます)⇒【懐かしの平成】2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100にはこの人が登場していた。 すこし前後しますが、2000年10月にエニックスの経営体制は大きく変わります。 本多圭司さんは1957年福岡県に生まれ。 そして、福嶋さんは代表取締役会長になると、従来の事業は本多社長以下新体制に任せて、新規事業の開発に専念します。 2003年4月エニックスはスクウェアを吸収する形で合併、スクウェア・エニックスとなります。 その後、スクウェアが映画事業失敗により、武市智行会長・坂口博信副社長の退任があり、和田洋一社長体制になったことから、福嶋さんの見る目が変わり、約3年後に再度持ち込まれた合併提案に賛成したという形です。 突然、代表権も取締役の職からも退いたことに、ゲーム業界は驚きました。 まだ、福嶋さんは56歳という若さでした。 これに対する福嶋さんのコメントは、“「30年間、仕事のことだけを考えてきた。これからは人生について考えたい」”というものでした。 福嶋さんが事業家として20代から邁進してきた理由。 それは漠然とした不安でした。 いまのままいることに、常に不安を感じてしまう性格の持ち主だったのです。 その上、大変に慎重。 常に最悪を想定して事業に取り組むため、事業企画に自信があっても、常に不安がつきまとう。 成功の確率を上げるために必死に努力をして、事業の成功に確信を持っても、不安は消えない。 事業が大成功を収めても、大喜びすることはなく、 「そうか、うまくいったか」 と思うだけ。 だからこそ、事業家として成功され、大資産家にもなられたのだと思いますが、 ご自身で、“「昔からの友人に会ったとき、相手が会社員や公務員で、「仕事は楽しい?」と訊ねて、「そこそこ楽しいよ」という答えが返ってくると、相手がうらやましくて仕方ない」”と、気持ちを吐露されています。 中野ブロードウェイのフリーペーパー構想と持ち帰り寿司チェーン展開構想は失敗に終わりましたが、福嶋康博さんは事業家として、“当てる確率の高い方です”。 公団住宅の募集冊子から事業を始めて、東芝のオフィス向けコンピュータ代理店、ゲームソフト事業、すべてを当てています。 実際、『ドラゴンクエスト』を中心にゲームソフト事業が大成して、上場企業となってからも、オフィス向けの机や椅子を安く輸入して中古販売を手掛けたり、2002年には早稲田大学とスポーツビービーという合弁会社を設立して、自ら先頭に立ってブロードバンド配信事業に取り組んだりしています。 しかし、どこまで事業で成功しても、スクウェアを吸収合併して、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』という強力IP・キラーコンテンツを保有するスクウェア・エニックスの会長になっても、福嶋さん自身、事業を通じて、自分自身の抱える不安を消すことはできなかった。 これが第一線から退かれた原因のようです。 実のところ福嶋さんは50歳のときに、経営から退く決意をされていました。 おそらく、他の候補者は、 ・取締役 出版事業部長 田口浩司さん だったのではないかと思います。 また、2001年に起こった、いわゆる“エニックスお家騒動”がなければ、福嶋さんの第一線からの完全引退はもっと遅かったかも知れません。 ・取締役 商品企画本部 出版企画部長 保坂 嘉弘さん。 スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際のところのようです。 本来は、55歳での勇退を考えられていましたが、 スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際のところのようです。 実業の第一線から退いた福嶋さんは、若い頃、かつて放浪した東南アジアを巡る旅に出ます。 東南アジア4カ国を歴訪した福嶋さんは、そのひとつであったカンボジアでのボランティア活動に取り組み始めます。 カンボジア現地のNGO団体・CEDACと協力して困窮している家庭を自立させるための農業講習をおこないます。 モノを与えるのではなく、自立して生活するための知識や知恵を現地の人々に与えるのが福嶋流のようです。 そして、2003年8月に渋谷区初台に約1050坪の土地を購入します。 地上2階・地下1階に加えて、バーベキューハウスも別にある大豪邸です。 その後、福嶋さんは南米のゲーム事業に携わったり、東南アジアでボランティア活動をして過ごしているようです。 また、2009年秋には、CESAでの活動が認められ、藍綬褒章を受章しました。 自由な大資産家。 https://www.youtube.com/watch?v=CSSmLYOSskc 福嶋康博さんは奥さまとの間に一男一女を儲けました。 息子さんは、福嶋さんが卒業した大学の附属高校を卒業後、スポーツ科学が学べる大学へ進学しました。 福嶋さん自身「本は読まない」と公言しており、それは事実のようですが、そんな福嶋さんが、大切に読み返してきた本がありました。 -自分の幸、不幸は自分の行動、考え方で定まる。 この言葉は、福嶋さんがまだ故郷・北海道旭川市にいたころ、友人のお父さんが常日頃言っていた言葉を自分でアレンジした上で、自分の心に刻み、息子さんにもことあるごとに伝えられていたようです。 世間的に大成功を収めた福嶋康博のこの言葉は、深く響きます。 参考文献: 大下英治『エニックスの飛翔―実録・ゲーム業界戦国史』 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。 何かございましたら、こちらまでお願いいたします。 はる坊です。 1996年分~2000年分の高額納税者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』上位20位までにランクインした面々を紹介させていただきます。 3位 石橋貴明 1億6980万円(とんねるず) 4位 ビートたけし1億1113万円 5位 永六輔 1億0721万円 7位 三田佳子 9279万円 8位 タモリ 8245万円 9位 みのもんた 6532万円 10位 梅宮辰夫 6395万円 11位 飯島直子 6201万円 12位 関口宏 6170万円 13位 所ジョージ 5400万円 14位 峰竜太 5339万円 15位 明石家さんま 4943万円 16位 吉永小百合 4831万円 17位 中村吉右衛門 4701万円 18位 間寛平 4539万円 19位 地井武男 4479万円 20位 中村玉緒 4414万円 1位 藤井フミヤ 1億7532万円 2位 中村正人 1億4420万円(DREAMS COME TRUE) 3位 竹内まりや 1億3370万円 4位 吉田美和 1億2875万円(DREAMS COME TRUE) 5位 布袋寅泰 1億2266万円 6位 桜井和寿 1億2052万円(Mr.Children) 7位 森進一 1億1232万円 8位 美川憲一 9989万円 9位 長渕剛 9878万円 10位 大黒摩季 9852万円 11位 桑田佳祐 9503万円 12位 松任谷由実 9316万円 13位 山下達郎 8801万円 14位 中島みゆき 8733万円 17位 矢沢永吉 7721万円 19位 飛鳥涼 6582万円(CHAGE&ASKA) 20位 松田聖子 6528万円 1位 小室哲哉 10億0051万円(音楽プロデューサー) 2位 秋元康 4億2930万円(作詞家) 3位 小堀宗慶 3億7808万円(茶道家元) 4位 青山剛昌 3億0731万円(漫画家) 5位 薗部博之 2億8429万円(ゲームデザイナー) 6位 千宗室 2億5695万円(茶道家元) 7位 小林武史 2億0237万円(音楽プロデューサー) 8位 さとうふみや2億0029万円(漫画家) 9位 平山郁夫 1億8958万円(日本画家) 10位 千宗左 1億3775万円(茶道家元) 11位 井上雄彦 1億2575万円(漫画家) 12位 神尾葉子 1億1541万円(漫画家) 14位 秋本治 1億0227万円(漫画家) 15位 芦田淳 9227万円(ファッションデザイナー) 16位 水島新司 9179万円(漫画家) 17位 羽生善治 9122万円(棋士) 19位 コシノジュンコ 8300万円(ファッションデザイナー) ※4位の青山剛昌は、週刊少年サンデーに94年から連載を開始した ※5位の薗部博之はゲーム『ダービースタリオン』で有名なゲームクリエイター。 8位のさとうふみやは週刊少年マガジン連載の『金田一少年の事件簿』の作画担当。 11位の井上雄彦は96年夏に週刊少年ジャンプ連載の『スラムダンク』が終了するもランクイン。 12位の神尾葉子はマーガレットに連載した『花より男子』が大ヒット。現在までに6100万部を発行し、少女漫画史上最大の大ヒット作となった。 茶道・華道の家元関係は以下のとおり。 ※3位の小堀宗慶・・・遠州流十二世。 ※6位の千宗室・・・茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。現在の千玄室 ※10位の千宗左・・・茶道表千家13代家元 ※20位の池坊専永・・・華道池坊華道家元四十五世。 1位 石橋貴明 3億1050万円(とんねるず) 2位 松本人志 1億8888万円(ダウンタウン) 4位 三田佳子 1億3043万円 5位 松たか子 1億1515万円 6位 木梨憲武 1億0508万円(とんねるず) 7位 ビートたけし 9987万円 8位 峰竜太 9441万円 9位 タモリ 9149万円 10位 永六輔 9066万円 11位 堺正章 7542万円 12位 飯島直子 7088万円 13位 黒柳徹子 6999万円 14位 中村玉緒 6890万円 15位 鈴木京香 6729万円 16位 菅野美穂 6583万円 17位 みのもんた 6484万円 18位 松本幸四郎 6421万円(二代目松本白鸚) 19位 関口宏 5945万円 20位 所ジョージ 5752万円 1位 藤井フミヤ 2億6995万円 2位 桑田佳祐 1億3777万円 3位 槇原敬之 1億3612万円 4位 桜井和寿 1億2421万円(Mr.Children) 5位 森進一 1億1826万円 7位 松田聖子 1億1626万円 9位 草野マサムネ 1億0140万円(スピッツ) 10位 稲葉浩志 9982万円(B’z) 11位 松任谷由実 9612万円 12位 木村拓哉 8835万円(SMAP) 13位 五木ひろし 8586万円 14位 長渕剛 8395万円 16位 井上陽水 8185万円 18位 吉井和哉 7815万円(THE YELLOW MONKEY) 19位 中島みゆき 7497万円 1位 小室哲哉 11億7342万円(音楽プロデューサー) 2位 秋元康 3億7789万円(作詞家) 3位 青山剛昌 3億0615万円(漫画家) 4位 平山郁夫 2億7040万円(日本画家) 5位 千宗室 2億7025万円(茶道家元) 6位 薗部博之 2億3801万円(ゲームデザイナー) 7位 織田哲郎 2億1906万円(音楽プロデューサー) 8位 東山魁夷 1億4549万円(日本画家) 9位 芦田淳 1億3824万円(ファッションデザイナー) 10位 千宗左 1億3060万円(茶道家元) 11位 神尾葉子 1億2096万円(漫画家) 12位 妹尾河童 1億1501万円(舞台芸術家) 13位 小林武史 1億0708万円(音楽プロデューサー) 14位 さとうふみや 1億0471万円(漫画家) 15位 久米宏 1億0002万円(ニュースキャスター) 16位 堀井雄二 8772万円(ゲームデザイナー) 17位 秋本治 8648万円(漫画家) 18位 池坊専永 8634万円(華道家元) 19位 浅利慶太 7992万円(舞台演出家) 20位 永楽即全 7612万円(陶芸家) 1位 石橋貴明 2億8809万円(とんねるず) 2位 浜田雅功 1億8230万円(ダウンタウン) 3位 松本人志 1億6352万円(ダウンタウン) 4位 松たか子 1億5433万円 5位 飯島直子 1億2680万円 6位 中村玉緒 1億1489万円 7位 木梨憲武 1億1217万円(とんねるず) 8位 ビートたけし 1億0917万円 9位 タモリ 9918万円 10位 堺正章 9906万円 11位 木村拓哉 7258万円(SMAP) 12位 樹木希林 7123万円 13位 内村光良 6833万円(ウッチャンナンチャン
2005年6月『
天性の起業家 【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる③
引き続き、スクウェア・エニックス創業者の福嶋康博さんの足跡を追っていきます。持ち帰り寿司事業⇒東芝オフィスコンピュータ代理店 エムシービー⇒エニックス創業
ターゲットとする客層に、アピールできる最高の立地でした。
早急にパート従業員を採用して、ロボットが握った寿司を、人の手でもう一度握り直すことで、客足は戻ってきましたが、福嶋さんはこの事業から撤退することを決断します。
店自体に利益は出ていましたが、寿司握りロボットの導入と清潔さを求めた店舗の内装費を投資をしたため、3ヶ月で3000万円の赤字を出しました。
といっても、ハドソンのようにソフトウエアを開発して通信販売したのではありません。
結果、パーソナルコンピュータのソフトビジネスに将来性があると判断して、確信を持って帰国します。
そこで、実験的に福嶋さんがパソコンと顧客管理ソフトを持って市場調査の為に、会社を飛び込み訪問して様子をみました。すると関心を持っている人が意外に多いことに気付きます。なかには、その場でシステムを売ってくれという人までいました。
そして、株式会社 エム・シー・ビー(MCB)を設立して、東芝のオフィス・コンピュータ(オフコン)の販売代理店になったのです。
営業マンは営団社募集サービスセンターから数名の社員を出向する形で事業を開始しました。
『コンピュータがあれば何でもできますと絶対に言うな』というものでした。
しかし、セールスマンに「コンピュータがあれば何でもできます」と言われて、機能をどんどん追加した挙げ句、見積書が非常に高額となってしまい、客側がコンピュータ導入に躊躇する状態でもありました。
千田さんはエム・シー・ビー(MCB)で働いた後、一旦退職。
フリーのプログラマー・システムエンジニアとして仕事をしたあと、仕事をもらいに福嶋さんの元に訪れた際に、エニックス設立への参加を要請されています。
エニックス事業開始。ゲームコンテストを開催してゲームソフト事業で成功。JASDAQ上場まで
賞金総額300万円「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」
取締役には千田幸信さん。
そして、営団社募集サービスセンター設立まもなくから福嶋さんと働いていた高野豊さんという3人で事業を開始します。
1Fにモスバーガーの入った何の変哲もない雑居ビルですが、すべては、この場所からはじまりました。
優秀プログラム賞受賞者(2名)には賞金50万円。
入選プログラム賞受賞者(10名)には10万円。
参加者全員に記念品を用意。
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)
そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。
最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。
少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。
鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。
鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。
中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8801を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。
大きな才能が集まることとなるコンテストとなった
当初エニックスの出資比率が50.6%でした。
彼らは、エニックスの役員や幹部となり、1980年代後半から1990年代半ばのエニックスを支える存在になります。
しかし、営団社募集サービスセンター・エニックス・コニカエニックスと3社の代表取締役社長を務めていた福嶋さんは忙しく、
昼食は、立ち食いそばで済ませて、朝から夜遅くまで働いていたようです。
20万本のヒットとなります。
1991年2月1日。当時としては異例のスピードの会社設立から実質9年での株式店頭公開(ジャスダック上場)達成
福嶋さんは500億円の株式資産を得て、辣腕経営者として注目される
エニックスが上場すれば、社会的信用も増して、優れた人材が集まって来やすいのは確かでした。
当時の取締役社長室長 前川敏雄さんと総務部長が店頭公開時に主幹事証券会社となった山一証券と中心となって進めていきました。
営業利益:38億8,600万円
経常利益:39億5,700万円
株式の初値は12,000円。
また、この株式上場によって福嶋さんは500億円の株式資産を保有することになります。
売上高:150億6,200万円
営業利益:32億8,400万円
経常利益:35億2,000万円
を記録します。
(ちなみに、同公示では、エニックス創業メンバーで専務取締役の千田幸信さんが7,107万円、『ドラゴンクエスト』の作者である堀井雄二さんが2,245万円を納税しています。)
敷地450坪。地下1階地上2階の建物には、福嶋さんの好きな麻雀が思う存分楽しめる麻雀ルームと健康のためスポーツジムが設えられました。
また、広い庭の草むしりは、福嶋さん休日の日課になりました。
かわさきマイコンシティ(川崎市マイコンシティ)に近かったことです。
エニックスは川崎市多摩区にエニックス研究所を設置して、センサーの開発販売を目的に、ピーエムエフという会社に出資していました。エニックスを支えた開発会社・クインテット。エニックス側の担当プロデューサーは人気漫画家・赤坂アカさんの父親
エニックス向けに『アクトレイザー』『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』『天地創造』などを開発。
エニックスの社員がまだ10人に満たない頃に入社され、エニックスのソフトウェア企画部 課長・ゲームプロデューサーとしてパソコン用ゲームソフトを経て、クインテット開発のゲームに深く関わられたのが、上場企業となったエニックスの発展
福嶋さんは、無理をして東証2部に替えることはないと、自分の考えを貫きました。
(※これは、いわゆる〝エニックスお家騒動〟のことではありません)
そのような立場になれば、新たにチャレンジしたいことや起業、またはアーリーリタイアメントも可能となります。1992年時点でのエニックス 会社情報は以下のとおりです
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期決算)
営業利益12億0200万円(1992年3月期決算)
経常利益18億5200万円(1992年3月期決算)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円役員構成:
生年月日:1947年8月18日
出身地:北海道旭川市
最終学歴:1970年 日本大学理工学部建築学科卒業
ソフトウェア企画部担当・出版企画部担当・玩具企画部担当・出版営業部担当
生年月日:1950年9月29日
出身地:岩手県
最終学歴:1972年 東海大学工学部中退
総務部長・経理部担当
生年月日:1944年4月3日
出身地:千葉県
最終学歴:1967年 慶應義塾大学商学部卒業
※日本道路より1989年エニックスに転職
ソフトウェア企画部長
生年月日:1948年1月31日
出身地:北海道
最終学歴:1970年 東海大学工学部卒業
※営団社募集サービスセンターに1978年入社
営業部担当・業務部長・エニックス研究所長
生年月日:1941年5月1日
出身地:東京都
最終学歴:1965年 中央大学法学部卒業
※エニックスとコニカの合弁会社・コニカエニックスの取締役に1983年就任。
社長室長
生年月日:1948年8月29日
出身地:兵庫県
最終学歴:1971年 日本大学法学部卒業
※コニカより1989年エニックスに転職
事業開発室長
生年月日:1952年1月30日
出身地:神奈川県
最終学歴:1974年 神奈川大学経済学部卒業
※三和銀行より1990年エニックスに転職
株式会社 エニックスアカデミー代表取締役社長
生年月日:1947年11月21日
出身地:埼玉県
最終学歴:1970年 日本大学理工学部卒業
※営団社募集サービスセンターに1976年入社
(学科が建築学科だったかどうかは不明ですが、社長の福嶋さんと同い年で同じ年に日大を卒業されています。
ひょっとしたら、大学時代からの友人・知人関係だったのかもしれません。また、ワインソムリエの方は同姓同名の方です。)
生年月日:1926年6月16日
出身地:石川県
最終学歴:京都大学工学部卒業
生年月日:1932年1月28日
出身地:東京都
最終学歴:慶應義塾大学経済学部中退株主構成:
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子 5.9%
千田幸信 2.2%
三和銀行 1.9%
高野豊 1.8%
川口貴雄 1.8%
東洋信託銀行 1.6%
三菱銀行 1.3%
才藤智宏 0.9%1999年8月エニックスは最高のタイミングで東証1部上場
東証2部を通さずに、ジャスダック上場から東証1部に直接上場できるように証券取引所のルールが変わっていたこと、エニックスの社内体制が整っていたこともありますが、この上場は、最高のタイミングでした。
エニックス会長 福嶋康博の名を知らしめることになりました。
取締役 商品企画開発本部 ソフトウェア企画部長の本多圭司さんに代表取締役社長のバトンが渡されました。
当時本多さんは42歳の若さでした。
福嶋氏によると、社長就任を要請したのは、この半年前の2000年4月頃、関西出張の折だったとのことです。
大阪市立大学工学部建築学科を卒業後、早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程に進学。
修士課程を修了後は乃村工藝社に入社。
30歳を前に退職して、福嶋さん同様、海外放浪を経て、1987年に求人雑誌を見てエニックスに入社。
アメリカのエニックス・コーポレーションの責任者を経て、1997年に取締役に就任していました。
裏話として、2000年頃に、スクウェアオーナーの宮本雅史さんより福嶋さんに合併話が持ち込まれましたが、福嶋さんが当時のスクウェアの経営状況を見て、あまりに開発部門がイケイケ過ぎるのを不安視していたので、断った経緯があります。
福嶋さんは同社のスクウェア・エニックス代表取締役会長を務めますが、2004年に相談役名誉会長に、2005年には名誉会長に退きます。
「取締役からも外れるなんて」という声が聞かれました。
実際に、“「企画には自信があります」”と自負されていますし、エニックス自体をゲーム会社ではなく、“「現在、たまたまゲームソフト事業を中心にしているだけで、うちは企画会社」”と捉えられていました。
また、中国で醤油事業を展開して、何と中国で第2位にした実績もあります。(これは1位のメーカーがほぼ独占的なシェアを持っていたという事情もありますが)2005年杉並区浜田山から渋谷区初台の大豪邸に
3年掛けて社内から後継者を選び、53歳のとき、3~4人いた後継者候補のなかから本多圭司さんを後継者に決めてからは、2年間、会長として見守った後、55歳で経営から完全に身を引くと決めていました。
・取締役副会長 千田幸信さん
1950年9月29日岩手県生まれ。東海大学工学部中退。
CIS・ソフトウエア興業でプログラマー・システムエンジニアとして勤務後、エニックスの設立に参画した最古参メンバー。
(エニックス設立メンバーで、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサー。取締役⇒常務⇒専務⇒副会長を歴任)。
1961年11月3日福岡県生まれ。ラサール中学校・高等学校卒業。早稲田大学教育学部卒業。
早大在学中から編集プロダクション運営に携わり、卒業と同時に編集プロダクションを経営。27歳でエニックスに入社。
(営業担当としても実績を持ち、ゲーム事業・出版事業に事業部長として関わり、“エニックスお家騒動”でも、マッグガーデンと和解に持ち込むなど、数年前はTwitterで暴れておられましたが、旧エニックス時代は、部長や取締役に就任するスピードは早く、旧エニックスの社風が合っていたのであたりだったのではないかと思います。)
おそらく、大きなショックだったでしょうから。
ゼロからエニックスの出版事業を収益の柱にしたのですから、福嶋さんもその力を認めていたでしょう。
1955年3月8日生まれ。亜細亜大学経済学部卒業。
漫画原作者を経て、1984年エニックス入社。1992年出版企画部長。1996年取締役。
現在、IGポート取締役。マッグガーデン代表取締役会長。現在は、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長 福嶋 康博
2005年11月、この地に福嶋康博邸は完成します。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。
2012年まではスクウェア・エニックスホールディングスとスクウェア・エニックスの事業には関わらず、ボランティアに専念されていたようです。
20代で起業家の道を歩み始めた男は、70代にして人生を満喫しているように思えます。福嶋康博さんが成人を迎えた息子さんにプレゼントした本とは?
そして、息子さんが20歳を迎えた日に、福嶋さんは一冊の本をプレゼントしました。
それは、D・カーネギーの『人を動かす』でした。
福嶋康博『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』
心よりお礼を申し上げます。長者番付を振り返ってみましょうか(1996年分~2000年分 俳優・タレント・歌手&文化人部門)
1996年分芸能人・文化人長者番付所得税納税額
俳優・タレント部門
歌手部門
その他・文化人部門
『名探偵コナン』が本格的に人気沸騰してのランクイン。
また、〝スタープログラマー〟〝バランスオブゲーム〟〝
アブソリュート〟〝インディーズゲーム〟などのサラブレッドを保有する馬主としても有名。1997年分芸能人・文化人長者番付所得税納税額
俳優・タレント部門
歌手部門
その他・文化人部門
1998年分芸能人・文化人長者番付所得税納税額
俳優・タレント部門
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