2019年7月

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【カクヨム&アルファポリス&NOVELDAYSへ移行】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回第2回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

『吸血鬼ハンター〝D〟』『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズ始動

1983年1月、菊地秀行の第2作目『吸血鬼ハンター〝D〟』が刊行された。

タイトルのとおり、ダンピール(吸血鬼と人間との混血)の吸血鬼ハンター〝D〟の物語だ。
このシリーズ第1作目は、1985年12月にOVA化されている。
最新刊『D-黒い来訪者』まで、35作(46巻)が発表され続けている人気シリーズである。

意外なことに、この作品は、第1作発表当時、あまり読者の反応を得られなかった。
デビュー作『魔界都市〈新宿〉』が発売後すぐに増刷したこともあり、初版は1万5000部に増えたが、増刷が一度あったかどうか菊地自身記憶が曖昧というレベルだった。

ただ、天野喜孝のカバーイラストも相俟って、続編を望む読者の声はあった。

1983年5月、第3作『エイリアン秘宝街』が刊行される。
トレジャー・ハンターの高校生・八頭大と太宰ゆきが活躍するシリーズの第1弾だ。
この作品は、すぐ人気作となった。

1983年と1984年だけで、下記のとおりこのシリーズが立て続けに出版されていることからも、人気の程がわかる。

1983年11月30日『エイリアン魔獣境Ⅰ』

1983年12月30日『エイリアン魔獣境Ⅱ』

1984年3月30日『エイリアン黙示録』

1984年8月31日『エイリアン怪猫伝』

1984年12月20日『エイリアン魔界航路』

また菊地は、この『エイリアン秘宝街』と『エイリアン魔獣境Ⅰ』が刊行される半年のあいだに、

インベーダー・サマー』(1983年8月30日)

風の名はアムネジア』(1983年10月31日)

を上梓している。

『魔界都市〈新宿〉』でも『吸血鬼ハンター〝D〟』そして、『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズとも色彩が大きく異なる2作品を放っていることは特筆に値する。

この年、菊地の本はすべて朝日ソノラマから刊行されていた。
それ以外では、『幻想文学』に寄稿しているが、ノベルス界に進出してベストセラーを連発する1985年以降と比べると、作品の発表は年5冊と当時からハイペースだが、菊地にとっては一作品に時間をたっぷり掛けられる、いささか牧歌的な時代だったのかもしれない。

菊地秀行の1984年

1984年に入って、菊地は『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを中心に朝日ソノラマで作品を執筆していく。

先に挙げた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを除くと、

3月11日『風立ちて〝D〟』

5月9日『妖神グルメ

を刊行している。

菊地秀行作品のタイトルではおなじみの〝妖〟の字がここで登場する。

7月頃から、朝日ソノラマ一辺倒だった菊地に他出版社から執筆依頼がやってくる。
早川書房、祥伝社、光文社。

すべて、朝日ソノラマのようなジョヴナイル小説ではなく、一般文芸やノベルスの依頼だった。

菊地は喜んで引き受けた。

この時期、立て続けに菊地に他社から執筆依頼が来始めたのには理由がある。

同じく朝日ソノラマで『幻獣少年キマイラ』(1982年7月30日刊)に始まる『キマイラ』シリーズを刊行していた夢枕獏が、1984年2月に祥伝社 ノン・ノベルから『魔獣狩り 淫楽編』、7月に『魔獣狩り 暗黒編』、12月に『魔獣狩り 鬼哭編』。

徳間書店 トクマ・ノベルスから同年7月に『闇狩り師』10月に『闇狩り師2』を上梓して、それぞれが、10万部から15万部を売るベストセラーとなっていたのだ。

夢枕獏もソノラマ文庫では、菊地同様に、いままでのソノラマ文庫作品とは、すこし毛色の違う作品を書いていた。

菊地も“「いい小説、面白い小説がでてきた」”と感じていた。

その夢枕獏が、ノベルスに進出して一気にブレイクを果たした。

次に、出版社が注目したのは菊地秀行だった。

才能は爆発する

まずは、下記のリストを見ていただきたい。
菊地秀行が1985年の1年間に上梓した著作リストである。

3月『エイリアン妖山記』(朝日ソノラマ 文庫)

3月『魔界行 復讐編』(祥伝社 ノン・ノベル)

5月『幻夢戦記 レダ』(講談社 講談社文庫)

5月『妖魔戦線』(光文社 カッパノベルス)

7月『魔界行Ⅱ 殺戮編』(祥伝社 ノン・ノベル)

7月『D-妖殺行』(朝日ソノラマ 文庫)

7月『妖獣都市』(徳間書店 トクマ・ノベルス)

8月『切り裂き街のジャック』(早川書房 ハヤカワ文庫)

9月『妖魔陣』(光文社 光文社文庫)

9月『夢幻舞踏会』(大和書房 ハードカバー)

10月『妖戦地帯Ⅰ 淫鬼編』(講談社 講談社ノベルス)

10月『妖人狩り』(有楽出版社 ジョイ・ノベルス)

10月『妖魔軍団』(光文社 カッパノベルス)

11月『魔戦記 第1部 バルバロイの覇王』(角川書店 カドカワノベルス)

12月『魔界行Ⅲ 淫獄編』(祥伝社 ノン・ノベル)

合計15冊。

このなかでも、『魔界行』と『妖獣都市』は一気に20万部を発行する勢いを見せた。

しかし、作品執筆については苦労があった。
これまで主戦場だった朝日ソノラマ文庫は、現在でいえばライトノベル的な位置にあった。
性描写や暴力描写、そして菊地が最も得意とするホラー描写には制限があった。

ノベルスにはそれが一切ない。
だが、一切制限がないということは、作家の個性が最大限に試される舞台でもある。

菊地が最初に手掛けたのは、光文社 カッパノベルスから刊行された『妖魔戦線』だった。
この作品に挑んだとき、菊地は丸3日間、何も書けず机の前に座っていただけだった。
現代社会を舞台に妖魔を暴れさせる――
「どう書けばいいのか?」
悩みの連続だったことが、あとがきに記されている。

それでも、菊地は『妖魔戦線』を1984年中に書き上げた。
本来は、この『妖魔戦線』がノベルス第1作目となるはずだったが、出版社の都合で刊行が繰り下げになる。

続けて書いた『魔界行 復讐編』が、1985年3月に祥伝社 ノン・ノベルから刊行された。初版は2万5000部。
しかし、すぐに増刷、そして増刷が続き、10万部、15万部、20万部を超えていった。

この『魔界行』シリーズ第一作は、一気にベストセラーの仲間入りを果たす。

そして、『妖魔戦線』『妖獣都市』が続けて、ベストセラーとなる。

また、12月に『吸血鬼ハンター〝D〟』がアニメ化され、一気にその人気に火が付いた。

文庫は、毎週増刷を重ねた。

売上ではこれまでリードしてきた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを一気に飛び越していった。

余談だが、このOVA『吸血鬼ハンター〝D〟』の音楽は、まだブレイク前の小室哲哉が担当している。

小室はこの年の7月にリリースされた渡辺美里のシングル『My Revolution』で作曲を担当し、コンポーザーとして注目されたばかりで、主題歌の『Your Song』もTM NETWORKだったが、まだ、一般的な知名度と人気を得ては居なかった。
(TM NETWORKは一気に知名度を上げ、注目されるのは1987年4月にリリースした『Get Wild』まで時間がかかっている)

〝夢枕獏が火をつけて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟

と云われる、伝奇バイオレンスブームが、ついに幕を開けた。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

その4に続きます。

昔の大学偏差値&学費

1983年【昭和58年】大学入試 私立大学学部系統別偏差値一覧表

1983年【昭和58年】大学入試 私立大学学部系統別偏差値一覧表をお送りします

はる坊です。

今回は、1982年(昭和57年)8月に、河合塾が発表した1983年私立大学入試の学部系統別の偏差値一覧表です。

法律・政治学系

偏差値69.9~67.5

早稲田大学政治経済学部政治学科

偏差値67.4~65.0

慶應義塾大学法学部法律学科

上智大学法学部法律学科

早稲田大学法学部

偏差値62.4~60.0

中央大学法学部法律学科

同志社大学法学部法律学科

偏差値59.9~57.5

青山学院大学法学部

学習院大学法学部法律学科

立教大学法学部

南山大学法学部

立命館大学法学部

関西大学法学部

関西学院大学法学部

偏差値57.4~55.0

青山学院大学国際政治経済学部国際政治学科

成蹊大学法学部政治学科

成城大学法学部

法政大学法学部政治学科

甲南大学法学部

西南学院大学法学部

偏差値54.9~52.5

成城大学法学部

日本大学法学部

明治学院大学法学部

愛知大学法経学部法学科

偏差値52.4~50.0

獨協大学法学部

國學院大學法学部

創価大学法学部

京都産業大学法学部

龍谷大学法学部

近畿大学法学部法律学科

福岡大学法学部法律学科

偏差値49.9~47.5

東北学院大学法学部

駒沢大学法学部法律学科

東海大学政治経済学部政治学科

神奈川大学法学部

名城大学法学部

偏差値47.4~45.0

北海学園大学法学部

大東文化大学法学部

東洋大学法学部経営法学科

近畿大学法学部経営法学科

神戸学院大学法学部

偏差値44.9~42.5

亜細亜大学法学部

東海大学政治経済学部地方行政学科

立正大学法学部

中京大学法学部

偏差値42.4~40.0

明治学院大学法学部第二部法律学科

偏差値39.9~37.5

国士舘大学政治経済学部政治学科

帝京大学法学部

日本文化大学法学部

経済学系

偏差値69.9~67.5

早稲田大学政治経済学部経済学科

偏差値64.9~62.5

慶應義塾大学経済学部

偏差値62.4~60.0

上智大学経済学部経済学科

同志社大学経済学部経済学科

関西学院大学経済学科

偏差値59.9~57.5

青山学院大学経済学部

学習院大学経済学部経済学科

明治大学政治経済学部経済学科

立教大学経済学部経済学科

立命館大学経済学部

関西大学経済学部

偏差値57.4~55.0

青山学院大学国際政治経済学部国際経済学科

成蹊大学経済学部経済学科

成城大学経済学部経済学科

中央大学経済学部経済学科

法政大学経済学部

関西大学社会学部

西南学院大学経済学部

偏差値54.9~52.5

國學院大學経済学部

専修大学経済学部

明治学院大学経済学部経済学科

愛知大学法経学部経済学科

南山大学経済学部

甲南大学経済学部

偏差値52.4~50.0

駒沢大学経済学部経済学科

東海大学経済学部

日本大学経済学部経済学科

武蔵大学経済学部経済学科

神奈川大学経済学部経済学科

京都産業大学経済学部

龍谷大学経済学部

福岡大学経済学部経済学科

偏差値49.9~47.5

東海大学政治経済学部経済学科

東京経済大学経済学部

日本福祉大学経済学部

大阪経済大学経済学部

近畿大学商経学部経済学科

偏差値47.4~45.0

東北学院大学経済学部経済学科

獨協大学経済学部経済学科

創価大学経済学部

名城大学商学部経済学科

神戸学院大学経済学部

松山商科大学経済学部

偏差値44.9~42.5

北海学園大学経済学部

亜細亜大学経済学部経済学科

大東文化大学経済学部経済学科

立正大学経済学部

桃山学院大学経済学部

広島経済大学経済学部経済学科

偏差値42.4~40.0

北星学園大学経済学部

関東学院大学経済学部経済学科

追手門学院大学経済学部経済学科

医学・薬学・保険学系

偏差値72.4~70.0

慶應義塾大学医学部

偏差値67.4~65.0

自治医科大学医学部

偏差値62.4~60.0

東京慈恵会医科大学医学部

日本医科大学医学部

大阪医科大学医学部

偏差値59.9~57.5

昭和大学医学部

東京医科大学医学部

東京理科大学薬学部薬学科

日本大学医学部医学科

近畿大学医学部

偏差値57.4~55.0

東邦大学医学部

久留米大学医学部

偏差値54.9~52.5

岩手医科大学医学部

順天堂大学医学部

東京女子医科大学医学部

聖マリアンナ医科大学医学部

近畿大学薬学部

兵庫医科大学医学部

福岡大学医学部

偏差値52.4~50.0

東海大学医学部

東京歯科大学歯学部

東京薬科大学薬学部

日本大学歯学部

星薬科大学薬学部

名古屋保健衛生大学医学部

京都薬科大学薬学部薬学科

大阪歯科大学歯学部

福岡大学歯学部

偏差値49.9~47.5

岩手医科大学歯学部

獨協医科大学医学部

埼玉医科大学医学部

共立薬科大学薬学部

聖路加看護大学衛生看護学部

神戸学院大学薬学部

川崎医科大学医学部

偏差値47.4~45.0

杏林大学医学部

昭和大学歯学部

東邦大学薬学部薬学科

鶴見大学歯学部

金沢医科大学医学部

名城大学薬学部薬学科

偏差値44.9~42.5

東北歯科大学歯学部

城西歯科大学歯学部

昭和大学薬学部

日本大学理工学部薬学科

松本歯科大学歯学部

愛知医科大学医学部

武庫川女子大学薬学部

福岡歯科大学歯学部

理学系

偏差値64.9~62.5

早稲田大学理学部物理学科

偏差値62.4~60.0

早稲田大学理工学部数学科

東京理科大学理学部数学科

早稲田大学教育学部理学科数学専修

偏差値59.9~57.5

慶應義塾大学理工学部1系

国際基督教大学教養学部理学科

上智大学理工学部物理学科

東京女子大学文理学部数理学科

関西学院大学理学部物理学科

偏差値57.4~55.0

学習院大学理学部化学科

慶應義塾大学理工学部2系

津田塾大学学芸学部数学科

東京理科大学理学部応用物理学科

立教大学理学部物理学科

偏差値54.9~52.5

学習院大学理学部化学科

上智大学理工学部化学科

中央大学理工学部数学科

東京理科大学理工学部数学科

立教大学理学部化学科

京都産業大学理学部計算機科学科

偏差値52.4~50.0

青山学院大学理工学部物理学科

日本大学文理学部数学科

中央大学理工学部物理学科

京都産業大学理学部数学科

立命館大学理工学部数学物理学科

甲南大学理学部第1類

偏差値49.9~47.5

東邦大学理学部物理学科

立命館大学理工学部化学科

福岡大学理学部応用数学科

偏差値47.4~45.0

日本大学文理学部物理学科

名城大学理工学部数学科

近畿大学理工学部数学科

福岡大学理学部化学科

偏差値44.9~42.5

東海大学理学部数学科

日本大学物理学部応用地学科

東京理科大学第二部化学科

偏差値42.4~40.0

東京電機大学理工学部数理学科

東海大学理学部化学科

岡山理科大学理学部数学科

偏差値39.9~37.5

城西大学理学部数学科

岡山理科大学理学部化学科

電気・電子工学系

偏差値62.4~60.0

早稲田大学理工学部電気工学科

東京理科大学工学部電気工学科

偏差値59.9~57.5

慶應義塾大学理工学部1系

偏差値57.4~55.0

上智大学理工学部電気電子工学科

東京理科大学理工学部電気工学科

武蔵工業大学工学部電子通信学科

偏差値54.9~52.5

青山学院大学理工学部電気電子工学科

明治大学工学部電子通信工学科

同志社大学工学部電子工学科

偏差値52.4~50.0

芝浦工業大学工学部工学部電子工学科

成蹊大学工学部電気工学科

中央大学理工学部電気工学部

東京電機大学理工学部電子工学科

法政大学工学部電気電子工学科

立命館大学理工学部電気工学科

関西大学工学部電気工学科

偏差値49.9~47.5

名城大学理工学部電気工学科

大阪工業大学工学部電子工学科

関西大学工学部電子工学科

福岡大学工学部電気工学科

偏差値47.4~45.0

工学院大学工学部電気工学科

日本大学理工学部電気工学科

近畿大学理工学部電気工学科

偏差値44.9~42.5

千葉工業大学工学部電気工学科

東海大学工学部電子工学科

東洋大学工学部電気工学科

日本大学理工学部電子工学科

神奈川大学工学部電気工学科

広島工業大学工学部電子工学科

偏差値42.4~40.0

東北学院大学工学部電気工学科

玉川大学工学部電子工学科

日本大学生産工学部電気工学科

関東学院大学工学部電気工学科

福井工業大学工学部電気工学科

愛知工業大学工学部電子工学科

大阪電気通信大学工学部通信工学科

摂南大学工学部電気工学科

長崎総合科学大学工学部電気工学科

偏差値39.9~37.5

国士舘大学工学部電気工学科

東海大学工学部電気工学科

明星大学理工学部電気工学科

東京工芸大学工学部電子工学科

中部工業大学工学部電子工学科

福山大学工学部電気電子工学科

九州産業大学工学部電子工学科

福岡工業大学工学部電子工学科

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

昔の大学偏差値&学費

1979年【昭和54年】全国主要私立大学偏差値一覧表

1979年主要私立大学文科系偏差値・難易度表一覧

偏差値65.0以上

早稲田大学政治経済学部

早稲田大学法学部

早稲田大学商学部

早稲田大学第一文学部

慶應義塾大学経済学部

慶應義塾大学文学部国文学専攻

上智大学法学部

上智大学外国語学部英米語学科

偏差値62.5以上

中央大学法学部法律学科

上智大学経済学部経営学科

上智大学文学部英文学科

上智大学外国語学部ドイツ語学科

上智大学文学部仏文科

国際基督教大学(ICU)教養学部言語学科

早稲田大学教育学部英語英文学科

早稲田大学教育学部教育心理学科

同志社大学文学部心理学専攻

偏差値60.0以上

早稲田大学教育学部国語国文学科

上智大学文学部史学科

上智大学文学部国文学科

上智大学外国語学部比較文化学科

上智大学経済学部経済学科

青山学院大学文学部史学科

青山学院大学文学部英米文学科

中央大学法学部政治学科

学習院大学法学部法律学科

立教大学法学部法律学科

国際基督教大学(ICU)教養学部人文科学科

同志社大学文学部史学科

同志社大学文学部英文学科

同志社大学文学部国文学科

同志社大学法学部法律学科

立命館大学文学部日本史学科

立命館大学文学部英米文学科

関西学院大学経済学部

偏差値57.5以上

慶應義塾大学商学部

慶應義塾大学法学部法律学科

学習院大学経済学部経済学科

学習院大学文学部仏文学科

学習院大学文学部国文学科

学習院大学文学部心理学科

立教大学経済学部経済学科

立教大学社会学部産業関係学科

立教大学文学部英米文学科

立教大学文学部日本文学科

立教大学文学部心理学科

青山学院大学経済学部

青山学院大学法学部

青山学院大学文学部日本文学科

明治大学政治経済学部経済学科

明治大学法学部政治学科

明治大学文学部東洋史学科

上智大学文学部哲学科

中央大学文学部心理学科

東京女子大学文理学部文系

成城大学文芸学部国文学科

國學院大學文学部史学科

南山大学外国語学部英米語学科

南山大学文学部国語国文学科

同志社大学経済学部

同志社大学法学部政治学科

同志社大学文学部新聞学専攻

関西大学経済学部

関西大学法学部法律学科

関西大学文学部史学科

関西学院大学商学部

関西学院大学法学部

関西学院大学文学部

立命館大学文学部日本文学科

偏差値55.0以上

中央大学経済学部経済学科

中央大学商学部会計学科

中央大学文学部英文学科

学習院大学文学部独文科

明治大学商学部

明治大学文学部仏文科

明治大学文学部西洋史学科

成城大学法学部

成城大学文芸学部

法政大学法学部

法政大学文学部英文学科

法政大学文学部史学科

明治学院大学文学部英文学科

立教大学文学部教育学科

國學院大學文学部日本文学科

日本女子大学文学部国文学科

南山大学文学部仏文学科

南山大学法学部

立命館大学経済学部経済学科

立命館大学文学部中国文学科

関西大学商学部

関西大学法学部政治学科

関西大学文学部英文学科

関西大学文学部国文学科

関西学院大学社会学部

同志社大学文学部哲学・倫理専攻

京都女子大学文学部英文学科

偏差値52.5以上

中央大学経済学部国際経済学科

中央大学商学部経営学科

中央大学文学部仏文科

早稲田大学教育学部体育学科

早稲田大学社会科学部

法政大学経営学部

法政大学文学部日本文学科

成城大学経済学部経済学科

成蹊大学経済学部経済学科

成蹊大学法学部法律学科

成蹊大学文学部日本文学科

成蹊大学文学部英米文学科

明治学院大学法学部

明治学院大学文学部仏文科

明治大学文学部演劇学科

駒沢大学文学部史学科

専修大学経済学部

専修大学文学部人文学科

愛知大学法経学部法学科

愛知大学文学部英文学科

南山大学文学部哲学科

甲南大学経済学部

甲南大学法学部

京都産業大学経済学部

京都産業大学外国語学部

同志社大学商学部

関西大学文学部仏文科

関西大学文学部哲学科

西南学院大学経済学部

偏差値50.0以上

早稲田大学第二文学部

中央大学法学部第二部

明治大学政治経済学部第二部

日本大学法学部法律学科

日本大学文理学部心理学科

青山学院大学第二経済学部

専修大学商学部商学科

専修大学法学部

専修大学文学部英米文学科

明治学院大学経済学部経済学科

明治学院大学社会学部社会学科

國學院大學経済学部

國學院大學文学部哲学科

駒沢大学経済学部経済学科

武蔵大学経済学部経済学科

武蔵大学人文学部社会学科

創価大学法学部

東洋大学文学部国文学科

神奈川大学経済学部経済学科

愛知大学法経学部経済学科

南山大学経営学部

龍谷大学経済学部

甲南大学文学部

同志社大学経済学部第2部

西南学院大学商学部商学科

京都産業大学法学部

関西学院大学神学部

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【カクヨム&アルファポリス&NOVELDAYSへ移行】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

伝奇バイオレンス・アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

売れないルポライター

ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。
初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。
電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

と頼むのだ。

現在の『○○Walker』や『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。

取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての仕事をこなしていった。

菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。
経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。

早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”
(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”
(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター (電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

菊地にはないネットワークと営業力があった。

しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。
原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。
早く大量の記事を短時間で書き上げる。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。
一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。
この具体的に書くということは、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。

翻訳家志望

だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。
1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。
第1期生は約250名。

同期に、漫画家では高橋留美子・たなか亜希夫・山本貴嗣。
漫画原作者では、狩撫麻礼・工藤かずや・早乙女正幸。
また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンエームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。
しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

この頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。
「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。
ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。
このグラビアは一部の好事家に注目された。

そして、菊地は『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。
この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

菊地は作家になることを目指していた。
しかし、“「自信がなかった」”、と語っている。

山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。
1974年に『神狩り』で作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。
打ちのめされるのが目に見えていたからだという。
結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

だがこれは、菊地に限ったことではない。
『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。
銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。

その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)
※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)
※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

そして、この頃、通っていた伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。
彼女にはふたりの兄がいた。長兄がニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年である出版社の記者だった。
菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。
この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。
船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。
1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。
菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

1982年9月30日『魔界都市〈新宿〉』で作家デビュー

フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。
朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」と声が掛かったのだ。
菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。
理由は、「長すぎる」。

その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。
自負はあったが、没にされたことで一時自信を失ったのではないだろうか。

しかし、映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。
この小説が出版されるまでには、紆余曲折もあった。

菊地の持ち味であるエロスとホラー要素が、「ソノラマ文庫の読者と合っていない」と編集者から指摘を受け、数箇所を削除しなければならなかった。
菊地には不愉快な出来事だっただろう。
しかし、菊地は指摘を受けた箇所を直して作品を完成させた。夫人の励ましもあったのだろう。原稿の清書では、半分を夫人がおこなった。

夫婦が一体となって完成させたといってもさしつかえない作品『魔界都市〈新宿〉』は1982年9月30日に発売となった。

菊地秀行33歳での作家デビュー。

初版は1万3000部。

9月25日生まれの菊地にとっては5日遅れではあったが、最高のバースデープレゼントだったのではないだろうか。

1ヶ月後には1万部の増刷が決まる。
当時のソノラマ文庫で増刷がかかっていたのは、『機動戦士ガンダム』のノベライズと高千穂遙の『クラッシャージョウ』くらいだった。

ソノラマ文庫編集部にとって、読者の反応は意外なことだったのではないか。

菊地は、ソノラマ文庫を戦場に次なる作品を放っていくことになる。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第3回に続きます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【カクヨムへ移行】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

人物伝

ハードボイルド作家・大藪春彦本人の食事シーンは小説よりも奇なりだった!

小説の食事シーンは魅力的です

はる坊です。

映画やTVドラマで食をテーマにしたモノには人気があります。
その原作となっているのは、漫画や小説であることが多いです。
コミック作品がアニメ化されるのは珍しいことではありませんが、映画化やTVドラマ化されるのは、一般的にグルメものは視聴者にウケがいいと制作サイドが考えているからではないでしょうか。

漫画なら
孤独のグルメ』(原作:久住昌之 作画:谷口ジロー)

ワカコ酒』(新久千映)

忘却のサチコ』(阿部潤)

サチのお寺ごはん』(かねもりあやみ 原案協力:久住昌之 監修:青江覚峰)

ラーメン大好き小泉さん』(鳴見なる)

などなど。

小説においても、
村上春樹や池波正太郎の料理や食事シーンの描写は特に巧みです。
村上作品の料理については『村上レシピ』として出版されていますし、池波正太郎はグルメについてのエッセイや生前愛した店をまとめた本も出版されています。

また、
『強運の持ち主』(瀬尾まいこ

『食堂かたつむり』『喋々喃々』(小川糸

の食に関するシーンは魅力的ですし、

『みをつくし料理帳』(高田郁)に至っては、この作品内に登場する料理のレシピ集『澪の料理帖』が出版されるまでになりました。

基本的に、作中の料理や食事シーンは、著者が、

「このキャラクターならこんなメニューが好きだろう。似合うだろうな」
とか、
「このキャラクターにはこういう料理を作らせたい」

という願望や読者サービスで描いているケースが多いのではないかと思います。
無論、作者の趣味・趣向が反映されていることはいうまでもありませんが。

大藪春彦作品は昭和時代を映し出す鏡

そんななか、日本におけるハードボイルド小説の先駆者である大藪春彦は、作中のキャラクターと作者自身を同化させている人物であったと思います。

『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』が代表作になると思いますが、早稲田大学教育学部英文学科在学中に『野獣死すべし』を発表して、一躍〝売れっ子作家〟となった大藪は、これまでの貧弱な食生活に復讐するかのように、好き放題に食材を買い込み、外食に出掛けます。

実際のところ、大藪自身は『野獣死すべし』がベストセラーとなり映画化された(大藪が映画化の際に受けとった原作料は大卒初任給1万3000円の時代に50万円でした)といっても、専業作家・筆一本の生活に不安を覚えて、教員免許取得を目指して都内の私立女子高で教育実習をおこなっています。

ただ、その実習で黒板に銃の絵を描いて女子高生相手に銃の構造を説明したところ、現場の教師に怒られたエピソードもあるようですが。
また、卒業論文も執筆しましたが、作家稼業が多忙になり、結局のところ教員免許取得はできないまま早大を中退しています。

さて、大藪作品の特徴は、銃やクルマなどのメカニックについての描写が延々と続くイメージがありますが、実際のところは、作中全体にあらゆるもののディテールが盛り込まれています。

例えば、1960年代に書かれた大藪作品を読むと、時代背景や舞台となった場所の様子が克明に書かれています。
1970年代に描かれた作品も同じです。

大藪春彦は作品執筆中に少しでも気になることがあると、徹底的に調べ、時には自ら赴いて場所を正確に確認することを怠りませんでした。

そして、これは食事に関してもです。

大藪春彦の食生活

大藪春彦は早大在学中の1958年(昭和33年)に『野獣死すべし』でデビューを果たし、一躍ベストセラー作家となると、23歳の若き青年作家は、小説執筆のエネルギー源として、買い物かごいっぱいに食材を買い込みます。

“「毎日、モツの焼き肉2キロ。カニだとでっかい毛ガニ三匹。マグロだとネギマ用の骨つき大なべにいっぱい」”
(引用:大藪春彦『荒野からの銃火』1979年 角川文庫より)

1961年(昭和36年)に、大藪は静龍子さんと結婚します。
龍子さんは日本大学文学部卒業後に、森脇文庫の『週刊スリラー』の編集者となり、大藪の担当編集者になったのが縁でした。

1996年(平成8年)2月26日に大藪春彦は61歳で亡くなります。
大藪と縁の深かった徳間書店では、その年の7月に『問題小説 増刊号 大藪春彦の世界』を出版しています。

この雑誌で、森村誠一と船戸与一が対談をしています。
そのなかで、大藪の早世を悼みながら、

“船戸:「前に大藪さんと対談したときに、新婚当初に夫婦ですき焼きとなるとだいたい一キロ肉を買ってきたというんですね。いくら何でも奥さんは、二百グラムも食えばいいと思うんですよ。そうしたらやっぱり大藪さんが八百グラム食っている(笑)」

森村:「めちゃくちゃなパワーですよね」”

という箇所がありますが、実際に大藪春彦と船戸与一が対談をした『諸士乱想―トーク・セッション18』(1994年 ベストセラーズ)を読むと、

大藪は、“「(龍子夫人と)ふたりですき焼きをするときには、肉を三キロ入れて食った」”

と語っています。

大藪春彦も船戸与一も故人となったいまでは、確認の仕様もありませんが、当時は、今よりも高級品だったすき焼き用の牛肉を大量に食べていたことだけは間違いないでしょう。

WEBで和歌山県の熊野牛を変えるのはここだけ!【Meat Factory】



気に入った食材・食事には徹底的に凝る

イノシシのすき焼き

作家デビューを果たし、一躍流行作家となった大藪春彦は膨大な原稿を書きながら、狩猟にも精を出します。

あるとき、友人が和歌山県有田市にイノシシ猟に行き、大成果を挙げた報告を受けた大藪は居ても立ってもいられず、仕事を無理矢理に片付けて、勇躍、有田に向かいます。
大藪もイノシシ猟で大きな成果を挙げて、夜には地元の人と酒を飲みながらイノシシ肉を平らげます。

これが3日続いたあと、すっかりイノシシ肉を気に入った大藪は、お土産に大量のシシ肉を持ち帰り、東京でもイノシシ肉のすき焼きを楽しみます。

しかし、このときの大藪は鯨飲馬食で血圧が上昇していました。紀州でイノシシを追い続けていた3日間は汗まみれになって活動しているからいいのですが、東京で手先しか動かさない日々に戻ると、慢性的な睡眠不足と精神的な疲労もあり、大量の鼻血を鼻から吹き出す仕儀となります。
(イノシシ肉を大量に食べ続けると赤血球を破壊する作用があるようですね)

それでも、編集者は横で原稿を急ぐようにせっつきますが、ついに意識が朦朧としてきた大藪は病院に担ぎこまれて、1ヶ月ものあいだ、輸血を受ける羽目になります。
そのあいだも、大藪は口述筆記で仕事を続けなければなりませんでした。

世界中のチーズを味わう

1963年(昭和38年)頃には、チーズに凝ります。
世界中のチーズを収集して、グリュイエールをパンと同じ厚さに切ってロシアピクルスと一緒にサンドイッチにしてパクつきます。


しかし、ブルーチーズは分厚く切るのではなく、薄く切って2,3切れつまむほうが風味を味わえるとの結論に達します。

ちなみにチーズについては、一体どれだけの量を集めたのか、最後には冷蔵庫から耐えがたい肥だめのようなニオイを発し出したというオチがつきました。

BAR OYABU オーナーバーテンダー・大藪春彦

この頃には、酒も自家製カクテルに凝り出します。
ウォッカ・マルティーニ(ウォッカ・マティーニ)をストリーチナヤ(ストリチナヤ)のウォッカを2本分痛飲します。

また、自家製カクテルでは、ジンフィズに凝った時期もあり、各社の担当編集者は、バーテンダー・大藪春彦に付き合わされることになりました。

ワイン初心者からソムリエ資格取得まで【アカデミー・デュ・ヴァン】

ボロニアソーセージ・レバーソーセージがお気に入り

また、ソーセージにも凝りました。
大藪はハムが好きではなく、ソーセージが大好物でした。
ソーセージのなかでも、ボロニアソーセージやレバーソーセージがお気に入りで、1万円分ほどを買い込んでは、3日と保たず食べ尽くしました。

ちなみにこの話は1966年(昭和41年)に発表されたものです。
当時の大卒初任給は24,900円。
そんな時代に、1万円分のソーセージを3日足らずで食べ尽くしてしまうエネルギーには驚かされます。

「男の料理は俺に任せろ!」シェフ・大藪春彦

大藪春彦は自分で料理をすることもありました。

自信のメニューはカツオのたたき、ビーフステーキ、ローストビーフ。

ときには、家族で、そして自宅に集った仲間に振る舞い。好評を博したようです。

自身の作品世界に登場する主人公・伊達邦彦 朝倉哲也 北野晶夫 西城秀夫 石川克也 杉田淳たちが好むメニューを大藪自身も好みました。


肉類だけではなく中華料理や魚介類も好物

元々、大藪は中華料理好きでしたが、香港に取材旅行に赴いた際に現地で味わった美味が忘れられず、帰国後は、“「同じような味にめぐり会いたい」”と横浜中華街を一軒一軒試し歩きます。
大金をはたいて、巡礼者のごとく中華街をうろつきますが、満足できる店が見つからず、ついにあるお店で〝アワビのハラワタのからあげ〟を見つけたときは、感動をしたようです。
(これは馳星周の『マンゴープリン』のエピソードと少し似ていますね。)

馳星周公式サイト「Sleepless City」内 Hase’s Note「マンゴープリン」(新しいタブが開きます)

また、大藪春彦=肉類・ステーキというイメージがありますが、海産物も大好きで、新潟に猟へ出掛けた際には、寒ブリと子持ちスケソウダラ、そして越後米の味に感激しています。

ウニ・アワビ・エビなどは、わざわざ新鮮なものを求めて、海岸にある店に食べに出掛け、晩酌の肴に刺身を食べるときは、最低3人前を食べないと気が済みませんでした。

海外ハンティングと野性の味覚

大藪春彦は1964年(昭和39年)の終わりに、東南アジアとヨーロッパを訪れます。
そして、〝アブランド・ゲーム〟と呼ばれる、ヤマドリ・キジ・コジュウケイなどを標的とする猟にのめり込みます。

そして、1970年代に入ると、本格的に海外にハンティングに出掛けるようになります。

1972年 アラスカ

1973年 ニュージーランド・オーストラリア

1975年 アフリカ・ザンビア

1977年 モンゴル・ハエ・アルタイ山脈、カナダロッキー、モンタナロッキー

1980年 アフリカのサファリ

1981年 アメリカでシューティングツアーに参加

1982年に急性膵炎に倒れるまで、世界中で〝ザ・ビッグ・ゲーム〟を続けました。

そのなかで、野性の味に舌鼓を打ちます。

大藪曰く、

・ムース(大ヘラジカ)は、ステーキやカツレツにすると美味い。

・赤シカはステーキやシチューにするといい。ただしメス。

・ナイル川を泳ぐナイルワニの尻尾は、エビの味に似ている。

・象の鼻はゼラチン質。

・オーストラリアのオオトカゲのしっぽの蒸し焼きは、イカの生干しそっくりの味。

前述しましたように、1982年に大藪は膵炎に倒れます。そして、亡くなるまでに3度の入院を経験して、最後までこの病に悩まされることとなります。

晩年の大藪春彦は、酒もほとんど飲まず、タバコも1日5本までに制限されます。

それでも、退院後は、ラーメンを食し、やがて大盛りを頼むようになります。

最晩年は、自宅近くのそば屋の天盛りを好みました。(もちろん、大盛りです)

1996年2月26日 夕方近く 大藪春彦はこの世から旅立ちました。

享年61。

最後に食したのは、龍子夫人とともにした昼食で出された甘塩鮭でした。
自分のぶんを平らげると、龍子夫人の分まで手を付けます。

大藪春彦は、最後までグルマン・食いしん坊を貫き通しました。

大藪春彦の愛犬チリーも食いしん坊だった

大藪春彦は鳥猟の相棒として、チリーと名付けたセッターを千葉県のハンターから譲り受けました。

大藪の相棒として、そして猟犬としては優れていましたが、大藪が仲間と狩りに出掛けて、仲間が撃った鳥は口にくわえて戻ってこずに、土の中に埋めてしまうという癖もありました。

ある日、大藪が家族とともに自宅に戻ると、異臭が漂っていました。

チリーが大藪の酒の肴であるスルメを大量に食べて、水を飲み、胃の中で膨らんだスルメを吐き出していたからです。

ビックリする大藪家の面々をよそに、チリーは洋室でグーグーと大いびきをかきながらお休み中でした。

チリーは、大藪の晩酌風景を見ていて、スルメに興味を持ったのでしょう。

家庭に飼われる犬としては、少し間抜けな面があったようですが、チリーは大藪家にとってかけがえのない家族だった、と思います。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

ちなみに、管理人自身が一番好きな大藪作品は、

『戦士の挽歌(バラード)』

『ヘッド・ハンター』です。

ひとつには絞りきれません。
この記事をここまで読んでくださった方なら、大藪ワールドを楽しんでいただけると思います。

おすすめです。



昔の大学偏差値&学費

1965年【昭和40年】東京大学・京都大学・北海道大学・東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学 高校別合格者数一覧表

東大・京大・北大・東北大・名大・阪大・九大 高校別合格者数一覧表です。

はる坊です。

今回は、1965年(昭和40年)の東京大学・京都大学・北海道大学・東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学、いわゆる旧帝国大学の高校別合格者数をご紹介します。
東京大学合格者のベスト20校においては、現役生・浪人生別の人数もあります。

合格者の出身高校を見てみますと、現在でも偏差値の高い名門・伝統校が並んでいますが、私立高校よりも国公立高校出身者が多いことが判ります。

当時の大学進学率は17.0%(引用元『年次統計』)でしたが、地元の公立高校から一番近い難関国公立大学を目指すというのが、当時の大学進学のスタイルだったのではないでしょうか。

理由は、学費にあります。

1965年のサラリーマンの平均月給は30,300円でした。(引用『年次統計』より)

東大と早大・慶大の入学初年度学費を比べてみましょう。

東京大学

受験料:1,500円
入学金:1,500円
授業料:12,000円
施設費:0円
実習費:300円
諸会費:5,700円
入学初年度学費合計:21,000円

早稲田大学

受験料:5,000円
入学金:30,000円
授業料:50,000円
施設費:50,000円
実習費:0円
諸会費:5,200円
入学初年度学費合計:140,200円

慶應義塾大学

受験料:5,000円
入学金:70,000円
授業料:80,000円
施設費:25,000円
実習費:1,500円
諸会費:5,100円
入学初年度学費合計:186,600円

現在以上の差があることがわかります。

他の国公立大学も見てみましょう。
(音楽大学・美術大学は除きますが、医学部を含みます)

受験料:1,500円~2,000円
入学金:1,500円~8000円
授業料:12,000円
施設費:0円~24,000円
実習費:0円~4,000円
諸会費:0円~23,000円

他の私立大学も見てみましょう。

(音楽大学・美術大学・医学部は除きます)
受験料: 3,000円~8,000円
入学金: 15,000円~70,000円
授業料: 38,000円~90,000円
施設費: 0円~80,000円
実習費: 0円~20,650円
諸会費: 0円~28,650円

私立大学医学部はどうだったのか?

東京女子医科大学と久留米大学を見てみましょう。

東京女子医科大学

受験料:10,000円
入学金:150,000円
授業料:150,000円
施設費:350,000円
実習費:20,000円
諸会費:24,500円
入学初年度学費合計:704,500円

久留米大学医学部

受験料:10,000円
入学金:150,000円
授業料:150,000円
施設費:200,000円
実習費:10,500円
諸会費:42,100円
入学初年度学費合計:562,600円

1968年に廃止されましたが、インターン(〝診療実施修練〟)を終え医師国家試験に合格すれば、一人前の医師としてのスタートを切れますが、この学費は到底一般家庭では支払えるものではありませんね。

それでは、旧帝国大学の高校別合格者数を見ていきましょう。

数は少ないですが、名門校だけではなく、大学検定合格者・実業校(工業高校・商工高校)出身者もいます。

東京大学

日比谷高校・・・181名
(現役生:77名 浪人生:104名)

西高校・・・127名
(現役生:63名 浪人生:64名)

戸山高校・・・110名
(現役生:44名 浪人生:66名)

麻布高校・・・88名
(現役生:55名 浪人生:33名)

東京教育大学附属高校・・・87名
(現役生:55名 浪人生:32名)

新宿高校・・・71名
(現役生:29名 浪人生:42名)

東京教育大学附属駒場高校・・・69名
(現役生:53名 浪人生:16名)

灘高校・・・66名
(現役生:55名 浪人生:11名)

小石川高校・・・63名
(現役生:30名 浪人生:33名)

開成高校・・・55名
(現役生:35名 浪人生:20名)

浦和高校・・・52名
(現役生:24名 浪人生:28名)

湘南高校・・・51名
(現役生:25名 浪人生:26名)

旭丘高校・・・49名
(現役生:34名 浪人生:15名)

栄光学園高校・・・46名
(現役生:32名 浪人生:14名)

小山台高校・・・46名
(現役生:23名 浪人生:23名)

両国高校・・・42名
(現役生:21名 浪人生:21名)

上野高校・・・40名
(現役生:10名 浪人生:30名)

鹿児島ラ・サール高校・・・38名
(現役生:26名 浪人生:12名)

広島大学附属高校・・・34名
(現役生:23名 浪人生:11名)

東京学芸大学附属高校・・・33名
(現役生:16名 浪人生:17名)

武蔵高校・・・33名
(現役生:15名 浪人生:18名)

立川高校・・・29名
(現役生:10名 浪人生:19名)

高松高校・・・27名
(現役生:19名 浪人生:8名)

修猷館高校・・・24名
(現役生:12名 浪人生:12名)

天王寺高校・・・23名
(現役生:15名 浪人生:8名)

朝日高校・・・22名
(現役生:17名 浪人生:5名)

松本深志高校・・・21名
(現役生:12名 浪人生:9名)

小倉高校・・・20名
(現役生:13名 浪人生:7名)

長野高校・・・20名
(現役生:15名 浪人生:5名)

広島大学附属福山高校・・・19名

九段高校・・・18名

静岡高校・・・17名

前橋高校・・・16名

平塚江南高校・・・16名

富山中部高校・・・15名

金沢大学附属高校・・・15名

甲府高校・・・15名

岐阜高校・・・15名

合格者数:14名~12名

水戸第一高校

千葉高校

桐朋高校

愛光高校

舞鶴高校

熊本高校

甲府第一高校

神戸高校

操山高校

宇都宮高校

熊谷高校

浜松北高校

大手前高校

合格者数:11名~9名

盛岡第一高校

お茶の水女子大学附属高校

横須賀高校

上田高校

修道高校

鶴丸高校

新潟高校

富山高校

高崎高校

東海高校

住吉高校

北野高校

宇部高校

城南高校

大分上野丘高校

沼津東高校

高岡高校

時習館高校

甲陽学院高校

鳥取西高校

丸亀高校

土佐高校

甲南高校

合格者数:8名~6名

札幌北高校

仙台第一高校

福島高校

東京都立大学附属高校

成蹊高校

藤島高校

長崎東高校

大泉高校

横浜翠嵐高校

小田原高校

岡崎高校

明和高校

奈良女子大学文学部附属高校

今治西高校

久留米大学附設高校

芝高校

飯田高校

六甲高校

甲陽学院高校

淳心学院高校

明善高校

合格者数5名~4名

磐城高校

安積高校

長生高校

青山高校

長岡高校

津高校

広島高校

下関西高校

佐賀高校

長崎西高校

宮崎大宮高校

秋田高校

高田高校

太田高校

土浦第一高校

佐原高校

北園高校

豊多摩高校

駒場東邦高校

希望ヶ丘高校

川崎高校

聖光学院高校

豊中高校

高津高校

大手前高校

加古川東高校

出雲高校

浜田高校

徳山高校

合格者数3名以下(都道府県順)

【北海道】

札幌南高校

旭川北高校

室蘭栄高校

紋別高校

藤女子高校

帯広三条高校

砂川北高校

札幌第一高校

函館北高校

函館中部高校

北海道ラ・サール高校

札幌東高校

月形高校

釧路湖陵高校

美唄東高校

長沼高校

旭川東高校

苫小牧東高校

【青森県】

青森高校

弘前高校

八戸高校

三本木高校

【秋田県】

能代高校

横手高校

角館高校

大館鳳鳴高校

【岩手県】

水沢高校

花巻北高校

【山形県】

山形東高校

酒田東高校

【宮城県】

古川高校

角田高校

白石高校

石巻高校

【栃木県】

栃木高校

足利高校

佐野女子高校

栃木女子高校

佐野高校

大田原高校

茂木高校

真岡高校

烏山高校

【群馬県】

桐生高校

沼田高校

渋川高校

富岡高校

前橋女子高校

【茨城県】

竜ヶ崎第一高校

下妻第一高校

日立第一高校

【千葉県】

成東高校

匝瑳高校

木更津高校

安房高校

銚子高校

麗澤高校

市川高校

大学検定合格者

【埼玉県】

春日部高校

川越高校

不動丘高校

川越工業高校

【東京都】

富士高校

都立武蔵高校

成城高校

明正高校

広尾高校

北高校

駒場高校

三田高校

田園調布高校

暁星高校

武蔵丘高校

学習院女子高校

忍岡高校

城南高校

石神井高校

桜蔭高校

大崎高校

鷺宮高校

北野高校

隅田川高校

明星高校

東京大学教育学部附属高校

千歳高校

京華高校

北豊島高校

江北高校

自由学園高等科

桜町高校

法政大学第一高校

松原高校

国立高校

小松川高校

玉川高校

杉並高校

学習院高等科

千歳丘高校

【神奈川県】

関東学院六浦高校

浅野高校

鶴見高校

桜丘高校

金沢高校

横浜平沼高校

厚木高校

慶應義塾高校

横浜緑ケ丘高校

戸塚高校

フェリス女学院高校

神奈川商工高校

多摩高校

【新潟県】

柏崎高校

三条高校

佐渡高校

村上高校

新津高校

巻高校

六日市高校

【山梨県】

甲府高校

日川高校

石和高校

吉田高校

【長野県】

諏訪清陵高校

伊那北高校

【静岡県】

清水東高校

韮山高校

磐田南高校

榛原高校

掛川西高校

富士高校

浜松工業高校

【富山県】

桜井高校

砺波高校

新湊高校

魚津高校

【石川県】

輪島高校

小松高校

泉丘高校

大聖寺高校

津幡高校

七尾高校

【岐阜県】

大垣北高校

大垣南高校

【愛知県】

国府高校

半田高校

瀬戸高校

刈谷高校

一宮高校

滝高校

【福井県】

若狭高校

武生高校

【滋賀県】

彦根東高校

虎姫高校

膳所高校

【京都府】

日吉ヶ丘高校

洛星高校

洛北高校

洛西高校

同志社高校

鴨沂高校

綾部高校

朱雀高校

堀川高校

【大阪府】

大阪学芸大学附属高校池田校舎

三国丘高校

高槻高校

生野高校

寝屋川高校

富田林高校

大阪学芸大学附属高校天王寺校舎

市岡高校

八尾高校

【三重県】

四日市高校

伊勢高校

上野高校

【和歌山県】

桐蔭高校

星林高校

新宮高校

海南高校

田辺高校

橋本高校

南部高校

【奈良県】

奈良高校

天理高校

【兵庫県】

長田高校

姫路西高校

西宮高校

篠山鳳鳴高校

龍野高校

兵庫高校

小野高校

赤穂高校

三木高校

明石高校

尼崎高校

甲陽学院高校

【岡山県】

総社高校

高梁高校

倉敷青陵高校

津山高校

金光学園高校

児島高校

倉敷天城高校

岡山工業高校

【鳥取県】

倉吉東高校

鳥取東高校

米子東高校

【島根県】

益田高校

平田高校

松江南高校

【広島県】

呉宮原高校

呉三津田高校

尾道北高校

大柿高校

因島高校

広高校

広島学院高校

忠海高校

国泰寺高校

【山口県】

下松高校

山口高校

防府高校

豊北高校

豊浦高校

萩高校

柳井高校

大津高校

熊毛南高校

【香川県】

観音寺第一高校

三本松高校

坂出高校

善通寺第一高校

【愛媛県】

新居浜西高校

松山東高校

松山南高校

今治北高校

松山北高校

【高知県】

高知学芸高校

高知高校

【福岡県】

嘉穂高校

福岡高校

豊津高校

宗像高校

門司高校

伝習館高校

【佐賀県】

鹿島高校

武雄高校

伊万里高校

【長崎県】

大村高校

島原高校

佐世保北高校

佐世保南高校

諫早高校

長崎高校

長崎南高校

【大分県】

中津北高校

鶴崎高校

佐伯鶴城高校

中津南高校

鶴見丘高校

津久見高校

【宮崎県】

延岡高校

妻高校

真鍋高校

【熊本県】

天草高校

熊本マリスト学園高校

人吉高校

済々黌高校

【鹿児島県】

玉龍高校

加治木高校

【アメリカ】

キンガム高校

ワバッシュ高校

合格者総数:2827名(うち女子92名)

京都大学

天王寺高校・・・98名

大手前高校・・・76名

洛星高校・・・66名

北野高校・・・55名

神戸高校・・・55名

灘高校・・・53名

旭丘高校・・・51名

甲陽学院高校・・・51名

膳所高校・・・48名

高津高校・・・45名

姫路西高校・・・40名

住吉高校・・・37名

豊中高校・・・35名

鴨沂高校・・・34名

紫野高校・・・33名

茨木高校・・・27名

朝日高校・・・27名

岐阜高校・・・25名

高松高校・・・23名

堀川高校・・・22名

三国丘高校・・・22名

藤島高校・・・21名

嵯峨野高校・・・21名

桃山高校・・・21名

操山高校・・・21名

小倉高校・・・21名

朱雀高校・・・20名

東海高校・・・19名

静岡高校・・・18名

修猷館高校・・・18名

合格者15名~17名

金沢大学附属高校

修道高校

彦根東高校

六甲高校

桂高校

山城高校

市岡高校

長田高校

城南高校

熊本高校

合格者:14名~12名

広島学院高校

広島大学附属福山高校

丸亀高校

土佐高校

津高校

広島大学附属高校

松本深志高校

淳心学院高校

桐蔭高校

合格者:11名~10名

高岡高校

明和高校

奈良女子大学文学部附属高校

愛光学園高校

洛東高校

大阪学芸大学附属高校

合格者総数:2,310名

北海道大学

札幌南高校・・・126名

札幌西高校・・・113名

札幌北高校・・・107名

札幌旭丘高校・・・83名

小樽潮陵高校・・・79名

札幌東高校・・・49名

小樽桜陽高校・・・48名

旭川東高校・・・34名

旭川北高校・・・31名

函館中央高校・・・27名

北海道ラ・サール高校・・・26名

旭川西高校・・・26名

帯広三条高校・・・25名

岩見沢東高校・・・25名

江別高校・・・24名

帯広柏葉高校・・・24名

月寒高校・・・20名

岩見沢西高校・・・19名

滝川高校・・・19名

苫小牧東高校・・・17名

深川西高校・・・15名

函館西高校・・・15名

室蘭栄高校・・・14名

室蘭清水ヶ丘高校・・・14名

小樽千秋高校・・・14名

小樽緑陵高校・・・14名

函館東高校・・・13名

釧路湖陵高校・・・13名

合格者:12名~10名

北見柏陽高校

藤女子高校

留萌高校

芦別高校

合格者総数 1,880名

東北大学

仙台第一高校・・・166名

仙台第二高校・・・73名

山形東高校・・・48名

宮城第一女子高校・・・38名

盛岡第一高校・・・36名

秋田高校・・・31名

福島高校・・・30名

宇都宮高校・・・29名

水戸第一高校・・・29名

長野高校・・・29名

沼津東高校・・・27名

富山中部高校・・・26名

松本深志高校・・・25名

土浦第一高校・・・25名

八戸高校・・・24名

石巻高校・・・23名

静岡高校・・・23名

安積高校・・・22名

磐城高校・・・21名

古川高校・・・21名

合格者19名~15名

会津高校

東北学院高校

青森高校

高岡高校

大田原高校

前橋高校

熊谷高校

合格者14名~10名

甲府第一高校

浜松北高校

新潟高校

上田高校

栃木高校

北海道ラ・サール高校

弘前高校

酒田東高校

大館鳳鳴高校

鶴岡南高校

栄光学園高校

飯田高校

湘南高校

長岡高校

諏訪清陵高校

白石高校

合格者総数 1,867名

名古屋大学

旭丘高校・・・160名

明和高校・・・160名

東海高校・・・100名

岐阜高校・・・96名

時習館高校・・・68名

瑞陵高校・・・62名

刈谷高校・・・49名

岡崎高校・・・40名

大垣北高校・・・38名

一宮高校・・・38名

向陽高校・・・31名

四日市高校・・・26名

半田高校・・・25名

津高校・・・23名

桜台高校・・・23名

名古屋西高校・・・21名

横須賀高校・・・20名

合格者13名~10名

西尾高校

南山高校

熱田高校

岐阜北高校

滝高校

豊橋東高校

合格者総数:1346名

大阪大学

住吉高校・・・82名

大手前高校・・・78名

天王寺高校・・・75名

北野高校・・・70名

神戸高校・・・68名

豊中高校・・・55名

高津高校・・・50名

茨木高校・・・37名

甲陽学院高校・・・30名

灘高校・・・30名

大阪学芸大学附属高校・・・29名

奈良高校・・・28名

八尾高校・・・23名

高松高校・・・23名

畝傍高校・・・23名

三国丘高校・・・22名

兵庫高校・・・22名

池田高校・・・21名

市岡高校・・・19名

桐蔭高校・・・18名

藤島高校・・・17名

長田高校・・・16名

城南高校・・・15名

六甲高校・・・14名

合格者:13名・12名

新居浜西高校

東淀川高校

丸亀高校

修道高校

合格者:11名~7名

加古川東高校

淳心学院高校

今治西高校

愛光高校

今宮高校

土佐高校

県立西宮高校

伊勢高校

桃山高校

静岡高校

尼崎北高校

県立芦屋高校

広島大学附属福山高校

合格者総数:1,675名

九州大学

修猷館高校・・・183名

福岡高校・・・159名

大分舞鶴高校・・・54名

小倉高校・・・54名

明善高校・・・51名

上野丘高校・・・49名

鶴丸高校・・・46名

佐賀高校・・・43名

久留米大学附設高校・・・36名

宮崎大宮高校・・・30名

八幡高校・・・28名

筑紫丘高校・・・27名

甲南高校・・・27名

熊本高校・・・26名

別府鶴見丘高校・・・26名

東筑高校・・・24名

佐世保北高校・・・22名

門司高校・・・22名

若松高校・・・22名

宇部高校・・・21名

戸畑高校・・・21名

合格者:20名~15名

長崎東高校

嘉穂高校

長崎西高校

豊津高校

京都高校

玉龍高校

鹿児島ラ・サール高校

山口高校

徳山高校

下関西高校

済々黌高校

長崎南高校

田川高校

唐津東高校

合格者:14名~10名

伝習館高校

延岡高校

八幡中央高校

鞍手高校

武雄高校

三池高校

山門高校

大牟田北高校

加治木高校

築上中部高校

杵築高校

中津北高校

島原高校

山田高校

西南学院高校

福岡中央高校

宗像高校

合格者総数:1,768名

参考・引用元

『婦人倶楽部』(講談社 1965年6月)

昔の大学偏差値&学費

1962年【昭和37年】東京大学・一橋大学・東京工業大学・お茶の水女子大学・東京教育大学・早稲田大学・慶應義塾大学・東京女子大学合格・進学者高校別一覧表まとめ

1962年(昭和37年)4月 首都圏著名大学進学者を高校別にまとめたデータをご紹介します

はる坊です。

今回は、1962年(昭和37年)4月 首都圏著名大学進学者を高校別にまとめたデータをご紹介します。

現役生で、1943年(昭和18年)4月2日~1944年(昭和19年)4月1日生まれの方ですね。

現在、75歳~76歳。
〝後期高齢者〟の仲間入りを果たされてどう思われているのでしょうか。

過去何十年にも遡って東大合格者をまとめているところは多いですが、それ以外の大学進学者の出身高校のデータは、少し珍しいのではないかと思います。

東京都立高校の〝学校群制度〟導入前になりますので、私立高校より旧制中学校・旧制高等女学校(ナンバースクール)の流れを引く都立高校の強かったことがハッキリとわかります。

それでは見ていきましょう。

東京大学

日比谷高校・・・184名

西高校・・・121名

戸山高校・・・105名

新宿高校・・・92名

小石川高校・・・73名

麻布高校・・・72名

開成高校・・・67名

東京教育大学附属高校・・・60名

両国高校・・・58名

一橋大学

立川高校・・・20名

西高校・・・18名

小山台高校・・・11名

開成高校・・・9名

新宿高校・・・8名

上野高校・・・8名

桐朋高校・・・8名

両国高校・・・7名

豊多摩高校・・・7名

東京工業大学

小山台高校・・・38名

新宿高校・・・18名

立川高校・・・17名

開成高校・・・16名

上野高校・・・14名

両国高校・・・12名

麻布高校・・・11名

北園高校・・・11名

戸山高校・・・10名

小石川高校・・・10名

お茶の水女子大学

お茶の水女子大学附属高校・・・23名

女子学院高校・・・14名

駒場高校・・・9名

西高校・・・7名

三田高校・・・7名

東京学芸大学附属高校・・・6名

白鴎高校・・・6名

東京教育大学附属高校・・・5名

富士高校・・・5名

新宿高校・・・4名

竹早高校・・・3名

日比谷高校・・・3名

大泉高校・・・3名

東京教育大学

立川高校・・・15名

大泉高校・・・14名

小石川高校・・・12名

北園高校・・・12名

西高校・・・11名

両国高校・・・11名

豊多摩高校・・・10名

東京教育大学附属駒場高校・・・10名

千歳高校・・・9名

上野高校・・・9名

白鴎高校・・・8名

早稲田大学

早稲田大学高等学院・・・511名

小石川高校・・・79名

新宿高校・・・77名

立川高校・・・62名

戸山高校・・・56名

両国高校・・・54名

大泉高校・・・53名

西高校・・・53名

成城高校・・・51名

早稲田高校・・・50名

開成高校・・・50名

上野高校・・・49名

青山高校・・・48名

慶應義塾大学

慶應義塾高校・・・960名

慶應義塾志木高校・・・199名

慶應義塾女子高校・・・127名

麻布高校・・・103名

日比谷高校・・・82名

開成高校・・・74名

新宿高校・・・66名

西高校・・・63名

東京教育大学附属高校・・・53名

戸山高校・・・52名

小山台高校・・・52名

小石川高校・・・47名

東京女子大学

駒場高校・・・18名

女子学院高校・・・10名

富士高校・・・10名

西高校・・・9名

雙葉高校・・・8名

お茶の水女子大学附属高校・・・7名

桜蔭高校・・・6名

白鴎高校・・・5名

新宿高校・・・5名

三田高校・・・5名

日比谷高校・・・4名

戸山高校・・・4名

参考文献

『都立高校のすべてがわかる本』(山崎謙著 山下出版)