魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

※2019年8月30日加筆・修正をおこないました。

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、



1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。



※アニメ映画『妖獣都市』は、アニメ嫌いの原作者・菊地秀行も大いに賞賛した大傑作ですので、未見の方は、ぜひ一度観てください。

1987年の作品ですが、現在でも充分に鑑賞に耐えうるアニメ映画ですのでおすすめいたします。


1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士 エリア』を除く)。

3月『エイリアン妖山記』(朝日ソノラマ 文庫)

3月『魔界行 復讐編』(祥伝社 ノン・ノベル)

5月『幻夢戦記 レダ』(講談社 講談社文庫)

5月『妖魔戦線』(光文社 カッパノベルス)

7月『魔界行Ⅱ 殺戮編』(祥伝社 ノン・ノベル)

7月『D-妖殺行』(朝日ソノラマ 文庫)

7月『妖獣都市』(徳間書店 トクマ・ノベルス)

8月『切り裂き街のジャック』(早川書房 ハヤカワ文庫)

9月『妖魔陣』(光文社 光文社文庫)

9月『夢幻舞踏会』(大和書房 ハードカバー)

10月『妖戦地帯Ⅰ 淫鬼編』(講談社 講談社ノベルス)

10月『妖人狩り』(有楽出版社 ジョイ・ノベルス)

10月『妖魔軍団』(光文社 カッパノベルス)

11月『魔戦記 第1部 バルバロイの覇王』(角川書店 カドカワノベルス)

12月『魔界行Ⅲ 淫獄編』(祥伝社 ノン・ノベル)

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に新刊を上梓し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。


2019年現在も新刊を上梓しており、現役バリバリです。

「400冊以上も著作があったら、どれを読んでいいのかわからない」

という方もおられると思います。

これは私見ですが、1994年までに書かれた作品は総じてレベルが高いので、どれを読まれてもハズレだったということはないでしょう(好みの問題はありますが)。

なかでも、1980年代に書かれた作品は、一際クオリティが高いので、オススメです。

また、作品の最後に書かれている『あとがき』も菊地ファンなら、楽しみのひとつです。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこ


は、菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルやコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイの時代と作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。

父は徳太郎・母は知可子。長男であった。

実家は、当時、銚子随一の歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。
しかも、菊地が生まれた当時、この店は銚子で一番の店だったという。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、菊地が生まれた当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

また、先祖は九州の〝菊池郷〟にいたという。
あるとき、そこから出航した船が難破して銚子沖に辿り着き、銚子に定住することになった。
元々、苗字は〝菊池〟だったが、信心深く、姓名判断にも凝っていた父・徳太郎が〝菊地〟に姓をあらためた経緯がある。

昔も今も、銚子は港町だ。

鈴木智彦の『サカナとヤクザ』にも銚子の町が登場するが、菊地がこの世に生を受けて上京するまで、海に出る男たちとアウトローが幅を利かせる場所だった。
この原体験は、作家となって以降の菊地の作品に色濃く反映しているように思えてならない。


幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。小学校2年時には肺結核に罹り、一時は長野で静養を余儀なくされた。

そんな少年は、家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。
邦画の怪談で、菊地が唯一気に入ったのは〝怪猫〟モノだった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代から、テレビで放送される番組と身近に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。

実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、いや、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。


菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。成績優秀な生徒なのに、禁止されている映画館通いを頻繁におこなう。
そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では、のちに『ワイルド7』で大ヒットを飛ばす望月三起也の『ムサシ』『秘密探偵JA』、一般的な人気を得ることはなく横山光輝のアシスタントとして活躍した岸本修、そして小説では山田風太郎の作品に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、いわゆる〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父・徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。
父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理店の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。

そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
日本料理人である彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに四六時中、夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

しかし、父・徳太郎にも苦悩があった。
源太郎から店を継いだが、源太郎時代ほど経営がうまくいっていなかったのだ。

成孔は、“「私が生まれた頃は、店の凋落期。祖父の頃は銚子でナンバーワンだったのが、ナンバー7くらいに落ちた」”と語っている。

経営していた店は大衆向きで、決して名門料亭ではないが、個人的に焦りもあっただろう。
それに、

「菊地の店は、息子の代になってから落ちたな」

と銚子の人々が口にしたり、思っていたことも考えられる。
徳太郎は店を移転して捲土重来を期したが、再び、銚子でナンバーワンの店に戻ることはなかった。

徳太郎は菊地に、

「(店を)継がなくていい」

と言っていた。

また、成孔は少年時代、店を潰すのではないかと、常に必要以上におびえている徳太郎の姿を見ている。
徳太郎は、信心深いだけではなく姓名判断に凝っていた。

「店が先代よりうまくいかないのは、自分の名前が悪いのではないか」

と考え、名前を徳太郎から秀満に変えている。
ただし、この改名は正式な法的手段を踏んだものではなかった。あくまでも通称である。

菊地秀満は、菊地徳太郎として、2004年の冬、80年の生涯を閉じることになる。

菊地自身は、

「俺は扁桃腺をやっちゃって、週に一度は熱を出して寝込んでいるような子どもだったから、(徳太郎は)こういう商売は無理だと思い込んだんだな」

と回想しているが、徳太郎の思いはそれだけではなかっただろう。
また、菊地も本当のところを語っているわけではないように思う。

事実、菊地の扁桃腺炎は、小学5年生のときにおこなった切除手術によって治っている。
店の仕事を手伝わせることで、料理の基本を教え、高校・大学卒業後にでも、日本料理人として他の店に修行へ出して、店を継がせることもできたはずだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

これらは菊地にとって『エピソード』と語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

ただし、徳太郎が経営していた菊地食堂の天丼と玉子丼はたいへん美味であった、と、当時を知る銚子の人々は現在に伝えている。

高校進学・ますます映画とSF小説に没頭する

1965年(昭和40年)地元の進学校である銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、勉強そっちのけで、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。

これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。

本人は、

「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」

と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、法律家の「菊地先生」と呼ばれ、いくらかの尊敬と依頼者から感謝される息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

そんな徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。

法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
本当は、「SF研究会」に入りたかったのだが、当時の青学には、SF関係のクラブや研究会はなかった。
そこで、推理研究会に入会することにしたのだった。

菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科卒業)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

推理研究会に部室は与えられておらず、彼等の溜まり場は大学付近の喫茶店だった。
学生は一部を除いて、そんなにお金を持っていない。
青山学院大学は、裕福な子弟が集まるイメージがあるが、全員が全員そうではない。
また、使えるお金があれば、真っ先にミステリーやSF関係に使ったはずだ。

コーヒー一杯で、延々と話を続ける彼等は、店側にとって必ずしも歓迎される存在ではなかった。
彼等は転々と居場所を求め続けることになるが、ミステリーやSFの話をできる仲間がいることが、彼等にとっては最高の喜びだった。

また、青山学院大学推理研究会は、立教大学と少し繋がりがあるだけで、早稲田大学や慶應義塾大学の同研究会とは、あまり関わりがなかった。
趣味も嗜好も知っている、心許せる同じ大学に通う仲間と濃密な時間を過ごせることは、菊地の大学生活を充実したものにしたに違いない。

菊地の下宿は原宿にあった。
六畳一間で家賃は1万円。
三河荘といい、その名のとおり、三河屋という酒屋が大家だった。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400円 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。また、酒は飲めないが酒の肴はどれも好きだった。
ちなみに、菊地の好物は豚の生姜焼きとマグロとイカの刺身。嫌いなものは固体のチーズ(ピザのように溶けている状態だと好きだという)である

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊地氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊地氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊地氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリウールリッチをこよなく愛していた菊地氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、代々木上原の1Kに居を移すまで、大学卒業後も3,4年間、この部屋で暮らしている。

菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

大学時代に所属したゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。

ちなみに卒論は、

「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」

というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、東京バーテンダースクールに通った。一応、卒業したのだが、父とのあいだで諍いが起こったことで、実家を喫茶店という形で継ぐのをやめてしまう。
この頃、銚子の町は以前のような賑わいから遠ざかっていた。

菊地曰く“「ゴーストタウンのようなところ」”

この表現は大袈裟かもしれないが、銚子の最盛期を肌で感じながら育った菊地にとっては、上京後、たまに帰省したときに目に映る故郷の風景は、幼少期とかなりの落差があったことは違いないだろう。

このことで菊地は徳太郎から勘当同然となり、以降しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

また、徳太郎は菊地がどんな形にしても店を継ぐことがないと悟ると、当時、小学生だった成孔を調理場に立たせて、庖丁の使い方や天ぷらの揚げ方を教えている。
やがて、成孔は調理場から逃げ出すが、やはり徳太郎は三代続いた店を、自分の代で閉めることに、申し訳なさとやりきれなさを感じていたのだろう。

余談だが、菊地の同級生が銚子でジャズ喫茶を開いている。
その店の客となり、ジャズへの目を開かされたのが弟の成孔だった。
もし、菊地が父の命に従って、喫茶店主となっていたら、ホラー・SFマニアが集う喫茶店のオーナーとして、名物マスターになっていたかもしれない。

話を菊地に戻す。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、大衆食堂の皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、この話の乗った。
ライターのグループに所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

そのライターグループは、講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場にしていた。
他にも、集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、菊地は講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、ルポライター見習いの菊地に親しく声を掛けてくれたという。

当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を、

「編集長だと思っちゃった」

と述懐している。

菊地は、この出会いに何か温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

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参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴(げんようまえん)』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書
(1996年4月15日発行 スコラ)