人物伝

【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ

社員の最高平均年収2,279万円!資産約3兆1700億円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス③

はる坊です。

引き続き、キーエンスと創業者・滝崎武光さんの足跡を追っていきます。

怒濤の急成長を遂げた1980年代のリード電機(キーエンス)

リード電機が急成長を遂げたのは、1980年(昭和55年)4月から光電センサの分野に進出してからです。

いままでの自動車業界や弱電業界だけではなく、一般の工場でも導入できる製品の開発販売を手掛け始めました。
1981年(昭和56年)には本社を大阪府吹田市に移転。

1982年(昭和57年)に自動線材切断機事業を売却しています。

この事業は年間売上高の10%を占め、経常利益率も20%ありました。

普通なら、この利益率に満足するところですが、滝崎氏は利益率が低いと感じ、将来性も薄いと判断してこの事業を売却します。そして得た売却益を、電子部品業界向けのセンサ事業につぎ込みます。

センサ事業を軸としたリード電機は、翌1983年(昭和57年)には年間売上高13億円を超え、経常利益率は37%台に伸びます。

この年以降、売上高は25億円(1984年3月期分)⇒42億円(1985年3月期分)⇒60億円(1986年3月期分)⇒73億円(1987年3月期分)と急激に伸び、経常利益率も38~40%をキープし続けます。

上場を1年後に控えた1986年秋の時点で、取引先企業は、NEC・日立製作所・東芝・新日本製鐵(当時)・武田薬品工業などの大企業から中小零細企業まで1万社を数え、

営業拠点は、東京・名古屋・広島・福岡など全国に12拠点を擁して、従業員は330名。
そのうち100名が営業マンでした。

当時、センサ業界で先行していたのは、横河北辰電機(現:横河電機)・山武ハネウエル(現:アズビル)・立石電機(現:オムロン)でしたが、

先行メーカーの製品が、液体や粉体の計測を主としていたのに対して、リード電機の製品は、FA(ファクトリー・オートメーション)センサー、つまりは、主に検査・組立ラインに設置されるものでした。

なかでも注目すべきは、当時から〝業界初のオリジナル製品〟が売上の90%を占め、独占商品が70%を占める状態であったことです。

他の企業が参入してこない分野であれば、リード電機の商品が自動的にプライスリーダーになれます。

このことで、

〝キーエンスはニッチ商品を開発して成長した〟

と言われることになるのですが、この時代から、基本的に製造は外注でおこない、販売方法も直販のコンサルティング営業で、顧客側から、

「こういうものを作って欲しい」

「こういう風にできないか?」

と提案をされてから応えるのではなく、顧客の潜在需要を拾い上げる考え方を重要視していました。

顧客の現場で、営業マンが顧客の潜在需要を拾い集めて、会社に持ち帰ります。

顧客より先回りして、

「こういう商品が必要になるのではないか?」

と予測を立てて、それを精度の高いものにした上で、

キーエンスが100%リスクを負って

商品開発と製造をおこなって、顧客にその製品を提案して販売していくやり方です。

直販方式なのは、キーエンスが扱う先端技術商品は、商社を使って販売するとそのマージンが非常に高かったこと、そして製品の価値がうまく顧客に伝わらないと滝崎氏が考えた為ですが、結果的に、製品の価値を顧客に直接PR可能で、また、現場での潜在需要を拾い上げることもでき、営業利益を大きく取れるスタイルとして確立したといえるでしょう。

キーエンスは、メーカーでありながらセンサ事業で注目され始めた頃には、すでにファブレス経営に徹しています。
これはなぜなのか、滝崎氏の答えは明解です。

(生産を外部に委託するやり方のままで、会社を大きくしていくことに不安はないか)との問いに、

“「いいえ、設備投資をしたら、その設備を遊ばないようにしなくてはならない。そういう理由から、本当に有名な会社が「キーエンスさん、仕事ないですか」と言ってこられることもあるんですよ。自分で設備を持つ方がずっと大変ですね」”

キーエンス 設立13年で上場企業に

1987年10月29日大阪証券取引所第2部上場

1984年(昭和59年)11月には、本社を大阪府高槻市に移転。

1985年(昭和60年)3月には、米カリフォルニア州にキーエンス・コーポレーション・オブ・アメリカ(KEYENCE CORPORATION OF AMERICA)を設立。
(KEYENCEはリード電機時代から商品のブランド名でした。米国子会社は先駆けて商号をKEYENCEにしたわけです)

同年9月には製造子会社として、本社と同じ高槻市にクレポ株式会社(現:キーエンスエンジニアリング)を設立します。

ちなみに、このクレポという商号は〝クイックレスポンス〟の略で、滝崎氏の思考が堂々と表れている社名だと思います。
キーエンスエンジニアリングでは、協力会社に依頼することの出来ない極めて機密性の高い商品を開発・製造しています。

1986年(昭和61)年10月には、リード電機 株式会社から、商品ブランド名との統一を図るために、商号を株式会社 キーエンスに変更します。

そして、1987年10月29日キーエンスは大阪証券取引所第2部に上場します。一株の公募価格は5540円。上場初値は6800円でした。

会社設立から13年。滝崎武光氏は42歳でした。

株式上場については、滝崎氏は早い段階から考えており、まだ零細企業に過ぎなかった会社設立6年目で、

「会社らしい会社をつくりたい。株式上場をするためには、組織や財務体質をどうしたらいいのか?」

と自ら証券会社を訪ねていった経験をもっています。

上場初となる1988年3月期決算では売上高101億4800万円(前年比38.6%増)

営業利益40億1300万円(前年比58.0%増)経常利益35億5900万円(前年比36.6%増)

と極めて高い成長を見せ、売上高に対する営業利益は39.5%となります。

翌1989年(平成元年)3月期決算では、売上高146億6300万円(前年比44.5%)
営業利益62億9700万円(前年比57.0%増)
経常利益64億1000万円(前年比80.1%)

となり、営業利益率は42.9%と40%台に突入します。

同年12月25日には、東京証券取引所第2部に上場します。

1990年10月 東証・大証1部上場企業に

1990年10月には東京証券取引所第1部・大阪証券取引所第1部に上場。

名実ともに1部上場企業の仲間入りを果たしました。

時に滝崎氏は45歳の若さでした。

この時代、創業社長でも45歳で東証1部上場企業の社長は最年少に近かったのではないでしょうか。

そして、翌1991年4月下旬には、任天堂を抜いて株価日本一を記録します。

しかし、滝崎氏は株価にはあくまでもクールな姿勢を保っていました。

インタビューを受けても

“「株価はしょせん人気指標。知名度が上がるのはありがたいのですが、浮かれることはありません」”

と株価にはそっけない対応に終始します。

滝崎氏が、

“「株価日本一なんかより、こっちのほうが自慢なんですよ」”

と言ったのは、やはり、売上高に対する営業利益率の高さでした。

“「これ(営業利益率)なんか、社員1人1人が付加価値の高い、いい仕事をした証でしょ。こっちのほうが私としてはうれしいですね。(中略)何年かしたら、30歳で1000万円は超せる給料を出せると思います。そしてゆくゆくは給料でも日本一にしたいと思ってるんですよ」”

何よりも付加価値の高い仕事をすることが大切だという滝崎氏の考えが率直に表れています。

また、すでに20代で高給が得られる会社という噂は立っており、1991年時点には、30歳で平均年収900万円。

その後、この発言のとおり、

“30歳で年収1000万円超え”

“給料(年収)日本一”も達成したのですから、すごいものだと感じます。

ここで1990年~1994年の決算を見てみましょう。

1990年(平成2年)3月期決算
売上高187億7700万円 営業利益 77億1000万円 経常利益 86億5600万円(営業利益率41.0%)

1991年(平成3年)3月期決算
売上高262億6700万円 営業利益108億7300万円 経常利益129億2800万円(営業利益率41.4%)

1992年(平成4年)3月期決算
売上高301億4500万円 営業利益120億5600万円 経常利益106億4300万円(営業利益率40.0%)

1993年(平成5年)3月期決算
売上高298億9300万円 営業利益102億4300万円 経常利益116億1600万円(営業利益率34.2%)

1994年(平成6年)3月期決算
売上高313億0700万円 営業利益115億5400万円 経常利益124億3000万円(営業利益率36.9%)

1992年下半期から1993年上半期にかけては、国内企業の設備投資圧縮のあおりを受けて、1993年3月期決算においては、キーエンスも厳しい年も経験しています。

しかし、この経験を糧に、海外部門を強化する重要性に気付き、アメリカ・オハイオ州に営業拠点を設けています。

この時代、売上高・営業利益の海外比率は9~10%でした。
現在は53%です。

これほど急速に確実性を持って成長した企業があるでしょうか?
わたしは、正直なところ奇跡的にすら感じます。

また、この間に私が注目したいのは、従業員の給与についてです。

1992年9月時点では、従業員は855名 平均年齢は28.1歳 平均賃金は諸手当を含んで339,166円で、30歳のモデル賃金が439,000円でした。

これが1994年9月時点では、従業員832名 平均年齢28.5歳と1992年の時点とあまり変わりがないのですが、
諸手当を含む平均賃金は400,283円と大幅にアップしています。

キーエンス高成長の理由

さて、お話をキーエンス高成長の理由に戻したいと思います。

〝キーエンスはニッチ商品を開発して成長したと言われた〟

と前述しましたが、滝崎氏は1991年のインタビューで高成長ができた理由を次のように語っています。

“「巷間、キーエンスは隙間商品を開発して伸びた、と言われていますが、私は市場創造ができたからだと思っています。われわれの商品政策は、従来からある商品でも非常に精度を高くするとか、精度は同じでも非常に小さい商品にするとか、はっきり特徴を出すやり方であり、こうして付加価値の高い商品を開発し、それを汎用品として売る力があるからこそ、高い成長力を維持できるのです」”

ちなみに、大阪証券取引所第2部に上場した際、キーエンスの発行済株式は1820万株でした。
以後、公募もありましたが、無償株式分割・株式無償割当ては何度もおこなわれて、現在の発行済株式は12160万株です。
その時にキーエンス株を100万円分買っておけば、今頃はどうなったでしょうか。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

何かございましたら、こちらまでお願いいたします。

はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)

メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)

元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。

次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。

【2018年11月に出版】キーエンスでの経験を生かしたサイト運営について普遍的で重要な事柄が凝縮された一冊。
キーエンスの社内ベンチャー・イプロスでウェブサイト作成・運営に携われた方の本です。

「心に触れるホームページをつくる」

筆者の秋山典丈さんは、キーエンスの社内ベンチャー・イプロスで『製造業向けマッチングサイト』を企画された方です。

東京工業大学大学院理工学研究科情報工学専攻修士課程修了後、1995年にキーエンスに入社。

2000年にキーエンスの社内ベンチャーとしてスタートしたイプロス(株式会社 イプロスとして法人設立は2001年)の立ち上げに参画され、「徹底的に受け手の身になってサイトを作る」ことに向き合われた経験を生かして書かれた本です。

秋山さんは2003年に独立され、現在はシステム開発とサイトコンサルティング・商品企画コンサルティングに携わる株式会社 レクタスの代表取締役を務められています。

この本では、個人でも法人でも、また初心者から上級者までサイト作成・運営にとって重要なことが満載されています。

私も折に触れて読み返しています。

サイト作成に関する本は多く出版されていますが、ここまで普遍的で重要な事柄が凝縮されている本はめったにありません。

キーエンスに興味のない方でも、ご自分のブログやサイト、そしてSNSで見る人の心をガッチリ掴みたいと少しでも思われている方なら、ぜひお読みになってください。

一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。

ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。

『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。

また、もう一冊だけ、現在紙の書籍で入手することは困難ですが、機会があればぜひ読んでいただきたい本があります。

キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた、

新規事業の競争戦略 高い利益を獲得するスピード経営: キーエンスに新卒入社、ライバル会社に転職後独立したコンサルタントのノウハウ公開

という書籍です。

キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。

立石氏のホームページによると、2016年9月の時点で30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
これには、著者の立石氏も戸惑われたようですが、この本にそれだけの価値があると認められていることも、また事実でないかと私は思っております。

そのような状況が長く続きましたが、2020年8月にアマゾンKindleにて、この本が第2刷として出版されました。

Kindle Unlimited 会員の方は、このタイトルを追加料金なし(¥0円)でお読みになれます。

ご一読をおすすめいたします。

他にも元キーエンスの方が書かれた本があります。
参考にはなりますが、あえてこの場でおすすめするのは、控えさせていただきます。

一部引用・参考文献:
サンデー毎日 1991年7月 株価日本一「キーエンス」社長の倒産歴
週刊ダイヤモンド1997年 編集長インタビュー 滝崎武光氏(キーエンス社長)大企業の悪い面に学ぶ 将来考えぬ役員が規律乱す
Will 1991年 株価日本一「キーエンス」の秘密



100日のお試し期間 10年長期保証。

そして、送料無料、返品時の引取手数料も全国無料。

安心できるアフターサービスが整っています。

ドイツの厳しい品質基準をクリアして世界で100万人が愛用しています。
その品質から、数々のアワードを受賞している信頼されたブランドでもあります。

プレミアムマットレスは人気ですが、少々お値段が張るものが多いのがネックです。
一体どれがいいのか、違いがわかりにくいのもネックです。

口コミや評判を調べてみても、高評価と低評価が混ざっていれば、判断に迷います。
また、最安値を調べてみても商品を取り扱っている業者が信用出来るのかどうか、という問題もあります。

しかし、このエマ・スリープ 快眠マットレスは、エマ・スリープ・ジャパン(Emma Sleep Japan)合同会社 (住所:東京都港区赤坂2-11-7 ATT新館11階)からのメーカー直販ですので、そのような問題は解決できます。

もし、100日のお試し期間中、使用してみてあなたの身体に合わなかったら、全額返金・返品無料。

これは自分に合わないと判断した場合は、エマ・スリープにメールを送れば回収費用も同社が負担して製品を受け取ってくれます。
追加の費用は、一切必要ありません。

それだけ、自社の製品に自信を持っていることの証明と言えます。

エマ・スリープは、他社同等の製品より、20~30%程度安い価格設定がなされています。

なぜ、他のプレミアムマットレスよりも安価なのか?
⇒これは世界25カ国での販売網を活かして、サプライチェーンマネジメントを精密化しているからです。

いわゆる、「安かろう、悪かろう」ではありません。
私も使用していますが、それまでに使用していたプレミアムマットレスよりも、

・通気性が良い。

・体圧を分散してくれて、背骨をまっすぐに保ってくれているのを体感できる。

・抵抗力が低くて、寝返りもしやすい。身体が楽。

・マットレスカバーは取り外して洗濯が可能。よって、常に清潔に保てる。

と、人間工学に基づいた非常に良い製品だと感じています。

⇒エマ・スリープの紹介動画です(新しいタブでYouTubeが開きます)

ぜひ、リスクフリー(お試し期間、送料無料、10年保証)で体験してください。

マットレスは圧縮梱包された状態で届きますので、届いてからの持ち運びも便利です。

ぜひ、3つのリスクフリーで

・100日のお試し期間

・送料無料

・返品時の引取手数料も全国無料

エマ・スリープ 快眠マットレス

を体験してください。



人物伝

天性の起業家 【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる①

はる坊です。

渋谷区初台に大豪邸を構えるスクウェア・エニックス創業者・福嶋康博さんとは?

東京の高級住宅街といえばどこが思い浮かびますか?
大昔は、田園調布。一昔前は成城。

しかし、現在の富裕層は都心に住まうようになりました。
特に渋谷区や港区。

渋谷区なら高級住宅地として、まず、松濤や広尾が有名ですが、初台(はつだい)にも大豪邸があります。
ロッテの重光武雄氏や戸田建設の故・戸田順之助氏。

そして、スクウェア・エニックスの創業者で名誉会長の福嶋康博さんの邸宅です。
初台の福嶋邸は敷地面積は約1050坪。

地上2階・地下1階。
加えて、別にバーベキューハウスもある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。

緑に囲まれて、道路から邸宅の様子はうかがい知ることができませんが、建物の外壁は総タイル張りの非常に立派なものです。

法人所有ではなく、福嶋康博さんご夫妻が個人名義で所有されている自宅ですが、土地や建物を合わせると、一体何十億円の価値があるでしょう。

それでは、福嶋さんが一代で、どうやってこの御殿を築き上げるまでになったのかをみていきましょう。

スクウェア・エニックス創業者・名誉会長 福嶋康博さんの足跡

1947年北海道旭川市に生まれる。

福嶋康博さんは1947年8月18日に北海道旭川市に生まれました。星座は獅子座・血液型はA型。
当時、父親は旭川市内で映画館と質屋を経営していました。

ところが、この映画館が火事になり全焼。焼け残った自宅を改装して父母は食堂を始めます。
このときに福嶋さんは初めて〝商売〟を経験します。全焼した映画館に落ちていた紙芝居の道具を拾って、紙芝居師のまねをして近所の子どもたちに物語を聞かせたのです。子どもひとりにつき5円のお金を得ました。

また、近所で火事があったときは、焼け跡に落ちていた金属を拾い集めて、業者に売りました。これは子どもにしてはいいお金になったと福嶋さん自身が述懐しています。

しかし、プライベートでは両親が離婚して、父親は札幌に出て行き、母親が食堂を切り盛りします。

福嶋さんが“「母親が寝ているところを見たことがない」”くらい、母親は働き者だったようです。

中学校は、地元の旭川市立常盤中学校に進みますが、勉強はあまり得意ではなかったようです。しかし、高校受験に際して、このままでは希望校の合格が危ういことを担任の教師から教えられると、自分で勉強のスケジュール表を作り勉強に励みます。

元々、数学だけは得意だったこともあり、無事に北海道立旭川工業高等学校建築科へ進学します。

旭川工業高校入学後は、まずはラグビー部に入部しますが、3ヶ月で退部。
入部した理由が、〝試合の日には学校を休めるから〟であったので、ラグビー自体にはあまり興味がなかったのかもしれません。
しかし、恋愛も経験するなど、充実した高校時代を送ったようです。

高校2年の夏ごろ、離れて暮らす札幌の父親から連絡がありました。「おまえ、大学へ行け」というものでした。福嶋さんは大学進学について、あまり考えていませんでしたが、反射的に「うん」と答えてしまいます。

しかしここで2つの壁にぶち当たります。まず、工業高校では大学受験に必要な科目の授業ではやっていませんでした。

そこで福嶋さんは堂々と授業中に大学受験の勉強を始めます。当然、教師からは睨まれて職員室に呼び出されます。

しかし、福嶋さんはひるみませんでした。“「ぼくの人生にとってここで、学校の勉強するのが大事か、受験勉強の方が大事か。大学受験です」”と教師に言い放って授業中に受験勉強を続けます。

もうひとつは、先に大学に進学していた兄の一博さんから「親父はたいして仕送りをしてくれないぞ」と聞かされたことです。福嶋さんは受験勉強の傍らで、下級生の家庭教師をしてお金を貯めながら、残りの高校生活を過ごします。

18歳で上京、日本大学理工学部建築学科へ進学

仕送りが足りない分は、アルバイトではなく自分の得意な事で稼ぐ

1966年(昭和41年)4月、福嶋さんは晴れて日本大学理工学部建築学科に合格して上京します。なぜ、建築学科だったかといえば、工業高校の建築科だったからで、あまり深く考えた結果ではありませんでした。

事実、福嶋さんの仕送りは、他の学生の3分の1ほどしかありませんでした。アパートの家賃が6000円なのに仕送りは5000円程度。

しかし、福嶋さんは足りない分を普通のアルバイトで稼ごうとは考えませんでした。

自分の得意な事で稼ごうとしたのです。

建築学科には図学という講義がありました。
福嶋さんは友達の分も作品を作っては、それを売って稼ぎました。

そして、麻雀です。福嶋さんは中学時代から麻雀に親しんでいましたが、メキメキと腕を上げて、大学生にしてかなりの強者でした。
友達と麻雀をするといつも福嶋さんの大勝。

そうすると、友達が一緒に麻雀をやってくれないので、福嶋さんの勝ち点を半分にする特別ルールを条件に、友人たちと麻雀卓を囲み、また、雀荘に行っては、社会人や他の学生相手に稼ぎます。

麻雀で稼いだお金で問屋へ行き、コンドームを仕入れて団地へ販売に行ったり、ストッキングを仕入れて美容院に売り込みに行ったりもしました。
当時から行動力には目を見張るものがあったようです。

1970年前後は学生運動真っ盛り。

特に1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)にかけては、日大紛争と呼ばれる大規模な学生運動があり、日本大学は講義どころではなくなりました。卒業式も行われないほどの激しさでした。

大学も3年生になると、周囲は就職準備に入ります。しかし、福嶋さんには疑問がありました。

それは「建築学科を出たからといって、建築会社に入るしか道はないのか?」というものでした。

建築学科の友達に聞いて回ると、建築学科=建築会社・設計会社へ就職というのが当然じゃないかという答えでしたが、福嶋さんはその答えはすんなりと馴染めないものでした。
実のところ、福嶋さんは構造計算が得意でしたが、少しも好きではなかったのです。

(構造計算を一生続けていって何になる。そのまま人生が終わるのは嫌だ。自分がやりたいことと何かが違う)

おぼろげに(事業をやってみたい)と考えてはいましたが、アテがあるわけでもありませんでした。

結局、福嶋さんは就職をすることなく1970年(昭和45年)3月日本大学理工学部建築学科を卒業しました。

就職をしたことがない!いきなり起業

中野ブロードウェイPRフリーペーパー構想

日本大学を卒業した福嶋さんは、当時付き合っていた女性の元に身を寄せます。

そこで、福嶋さんはある事業を思いつきます。

当時、よく行っていた中野ブロードウェイは、建物の造りが入り組んで複雑な上に小さな店がほとんどでわかりにくかったのです。

当時の中野ブロードウェイは地下1階から地上4階まで、日用雑貨・ファッション・レストラン等が雑然と並んでいる場所でした。

エスカレーターの作りも特殊で、2階を素通りして3階へ行くというもので、慣れないと方向感覚が狂って目的とはまったく違う場所に出てしまうことがしばしばでした。

初めて行ったときには、どこにどんな店があるか分からず、それからも買物へ行く度に、目的の店とは違うところへ出てしまったり。

福嶋さんは、いつも「何とかならないものかなあ」と考えていました。

オーディオ/AV機器の新品・中古販売【フジヤエービック】



あるとき、ぼんやりと、わかりやすい案内図があればいいんだよ、という考えが頭をよぎったとき、福嶋さんは「これは事業になる」と直感しました。

わかりやすい案内図を載せた中野ブロードウェイのPR雑誌を作ればいいじゃないか。

中野ブロードウェイを中心とした住宅地に5万部程度のPR誌を無料で毎月配布するという事業アイデアでした。

各店をPRする雑誌を発行すれば、儲かるんじゃないか!

現在でいうところのフリーペーパー事業です。

早速、福嶋さんは、一緒に暮らしていた彼女にブロードウェイのイラストマップを描いてもらい、
〝株式会社 ジャポン・アノンス 福嶋康博〟という名刺を作って、各階の商店会会長と交渉を開始します。

彼女に描いてもらったイラストマップと簡単な見本を持ってプレゼンテーションをしてみると、好意的な反応を示してきました。

福嶋さんが目を付けた通り、建物が入り組んでいること、小さな店が多くて、それぞれの店がわかりにくいことは、中野ブロードウェイの商店主たちも気にしていたことでした。

ただ、ネックがありました。

福嶋さんは、普通の会社が5万部程度のPR誌を出すとすれば、当時で月に350万円ぐらいかかると概算で考えていました。商店会会長たちのあいだでは、この金額が高いのではないかと二の足を踏むことになったのです。

しかし、福嶋さんはこの金額を譲るつもりはありませんでした。金額を巡って押し問答を繰り返していると、耳寄りな情報が入りました。

中野ブロードウェイを建てた不動産会社の社長が社会福祉活動に熱心だという話でした。

「(社会福祉とはちょっと違うかもしれないが、PR誌の発行は地域社会の為になる仕事だ)」と思った福嶋さんは、早速、その社長に事業プランをプレゼンしました。すると、この社長は毎月50万円出すことを約束してくれたのです。

※これは私の推測ですが、この不動産会社社長は、東京コープ(東京コープ販売)社長の宮田慶三郎ではないかと思います。1906年1月7日生まれ。
旧制中学校から1931年に大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)を卒業。その後、歯科冶金の研究をきっかけに、合金の魅力に取り憑かれて、「ミヤタ・ロイ」と呼ばれる超高質合金を開発。

その後、病気療養中に大脳生理学の研究により1960年に医学博士号を取得。学会発表の際にワシントンを訪れ、アメリカに比べて日本の建築物が貧弱であることを知って、不動産事業を始めた経験を持つ異色の経営者です。

中野ブロードウェイ開発を最後に不動産事業からは身を引き、教育者として朝日大学と明海大学を創立しました。明海大学に不動産学部があるのは、宮田慶三郎の意思でしょう。
1997年7月に亡くなっています。

宮田慶三郎が、福嶋さんと同じ北海道出身だったことや福嶋さんが日大理工学部建築学科出身だったことも、若き福嶋さんの提案を受け入れ援助する約束をする一因になったのではないかと思います。

月々50万円の協賛金を得られることになり、金銭的なネックも消え、PR誌作りについて商店会会長たちの納得を得た福嶋さんは、いよいよ発刊準備作業に入ります。
編集作業を進めながら、福嶋さんはここが成功したら、今度は中央線の違う主要駅で挑戦しようと、夢を広げていきました。
しかし、事業を開始する段になって、福嶋さんは商店街の組合長から呼び出されます。

「おまえの会社は、登記されていないじゃないか!どういうことだ?社長は誰だ?」
「えっ、登記ってなんですか? 会社は僕ひとりでやってますが・・・」

福嶋さんは会社を登記することを知りませんでした。
名刺に社名と名前を刷ればそれでいいと思っていたのです。

結局、会社を登記していなかったことは、中野ブロードウェイ側からの信用の失墜を招き、この事業は開始直前になって頓挫してしまいました。

スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる②

最大8.3万円のキャッシュバックを含めた、最大12万円以上の申込特典は必見です!しかも、下り最大2Gbpsの超高速インタネット回線

NURO光の販売代理店の中で、以下の内容で1位を獲得した代理店(楽天リサーチ調べ(2017年2月) が提案する、特典豊富な超高速インターネット回線サービスです。

■キャッシュバック特典満足度 1位
■スタッフ対応満足度 1位
■NURO優良代理店 1位

<1>当社独自の最大8.3万円のキャッシュバックを含めた、最大12万円以上の申込特典
<2>下り最大2Gbpsの超高速インタネット回線
<3>無線LANやセキュリティーもコミコミで業界最安級4,743円の使い放題
<4>ソフトバンクのスマートフォンのセット割引あり
NURO光最大8.3万円キャッシュバック!



人物伝

現在は、スクエニHD顧問 ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信さんはもっと評価されるべき

はる坊です。

この2021年2月10日で、任天堂ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストⅢ』の発売から33周年を迎えました。

ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。

それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。

お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。

[embed]https://www.youtube.com/watch?v=k4BEEzogc0U&t=743s[/embed]
『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。

また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、

「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、「えーっ、と思った」と語られています。

たしかに、真面目でビジネスマンというよりもクリエーター・職人気質の方だと思います。

すぎやまこういちさんとの対談でも、

“「プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。
僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。」”

と語られており、表舞台には立たずに裏方に徹することで、『ドラゴンクエスト』を支えてこられました。

2021年6月 千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役を退任

千田幸信さんは、エニックス創業から、同社の取締役、常務、専務、副会長を務められ、スクウェア・エニックスとなってからも取締役を続投されました。
(こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任)
2008年10月からは持株会社のスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めてこられましたが、2021年6月をもって勇退をされました。

こちらで本多圭司さんについてまとめました。エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサーを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。

千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?

千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。

1950年9月29日岩手県生まれ。血液型はO型。
1972年に東海大学工学部を中退。

奥様はソプラノ歌手の千田知都子さん。
何枚かCDをリリースされており、なかでも2002年にリリースされた『こころのうた』では、『ドラゴンクエスト』関連の曲も歌われています。


ドラゴンクエストⅡの『この道 わが旅』とドラゴンクエストⅦの『哀しみの日々』なのですが、ヴォカリーズ(いわゆるハミングですね。歌詞はなく、さだまさし『北の国から』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』を思い出していただけるとイメージがしやすいかと思います)で歌い上げられています。

また、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。

役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝確率統計論の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。

大学中退後は、1974年3月にCISに入社。
1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。

その後、1979年にエニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。

フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの創業に参画して取締役に就任。

このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして、福嶋氏が1974年8月に個人創業され、
翌1975年9月に設立された公団住宅情報誌発行会社である、株式会社営団社募集サービスセンターに1976年から勤められていた古参社員の高野豊氏の3名だけでした。

ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。

エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発

エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。

最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。

当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。

・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった

・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた

そして、これがいちばん大きな理由でした。

・エニックスが無名会社だったから

社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)

それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。

最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。

ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。

依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。

鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

『ドラゴンクエスト』誕生にも関わった、鳥山明を見いだした名編集者・マシリトこと鳥嶋和彦は現在、白泉社代表取締役会長 兼 生涯ー編集者

そして四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。

中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。

エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。

中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。

そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。

このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。

また、エニックスはゲームの作者に対して、ゲームを買切りではなく印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。

中村さんは、上京したての大学生でありながらトヨタ・ソアラを手に入れ、飲食費や遊興代で月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。
代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。

中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。

千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』

堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。

しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。

シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信

ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。

音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。

キャラクターデザイン 鳥山明
音楽         すぎやまこういち

このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。

出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。

『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて

堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。

Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。
スケジュールを巡って千田さんは、社長の福嶋康博さんとかなりやりあっていたようですね。

ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。

中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。

そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン   鳥山明
音楽           すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。

マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』、

1992年の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、

1995年の『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、

そして1998年の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、プロデューサーを務め続けます。

それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。

この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。

1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、

ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当

とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。

もっとも、ゲームソフト事業においては、『ジャストブリード』のプロデューサーを務めた川口貴雄さんが取締役 ソフトウェア企画部長を務め、出版事業に関しては、同時に保坂嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが。

1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部長となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。

1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。

2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。

2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、
前述しましたように、2019年6月までスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務められました

馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!

1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。

1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、公募価格8,270円に対して上場時の初値は12,000円を付けました。

株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)

また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入(現在は、都心にある別のタワーマンションにお住まいです)。

エニックス上場による株式の売却益で、千田さんは1991年分の高額納税者(長者番付)では、納税額は7,107万円となっています。

(ちなみに、同年の納税額は、福嶋康博さんが3億2,950万円、堀井雄二さんが2,245万円です)

そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

馬主となった千田さんは所有馬に「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。

活躍した馬には

「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円

「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円

「バロンカラノテガミ」獲得賞金8936万円

「パブロカラノテガミ」獲得賞金5213万円

「ベルベットスマイル」獲得賞金4994万円

「ベガスカラノテガミ」獲得賞金4877万円

がいます。

中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。

ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの

「バランスオブゲーム」

「アブソリュート」

「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。



専門紙の予想情報が無料!【オッズパーク競輪】

スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務めていた千田幸信さんの役員報酬は年間2900万円

2018年度にスクウェア・エニックス・ホールディングスが取締役である千田幸信さんに支払った役員報酬は2,900万円です。
すでに、事業会社のスクウェア・エニックスの取締役は退任されておられますので、スクウェア・エニックスの役員として受けとられる収入は年収2,900万円です。

2017年で常勤取締役のフィリップ ティモ ロジャースさんと本多圭司さんがホールディングスの役員を外れて、常勤の取締役は、社長の松田洋祐さんと千田さんの2名だけになりましたので、2017年度より報酬がアップしています。

ユニクロの持株会社であるファーストリテイリングは、長らく代表取締役会長兼社長の柳井正さん以外は、取締役を社外取締役で固めていましたが、持株会社の常勤取締役が2人体制というのには、若干の不安があります。

2018年6月に事業会社の専務取締役に橋本真司さん(1958年5月24日生まれ。駒沢大学経済学部卒業。バンダイ入社後は〝橋本名人〟として、ハドソンの高橋名人とともにファミコンブーム時に名を馳せ、その後、独立してソリッド(コブラチーム)を設立。ソリッドがスクウェアグループになると、スクウェア取締役、執行役員に就任。スクウェア・エニックスとなってからも執行役員・取締役を歴任が、千田さんの後継としてスクウェア・エニックス・ホールディングスの役員になられるかと思いましたが、
すでに退任をされています。

ちなみに、2017年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。

これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、

・代表取締役社長:松田洋祐さん 
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円

・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円

・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円

この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。

また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。

そういえば、松田洋祐社長は町田市玉川学園の一戸建てにお住まいでしたが、社長就任後は港区のマンションに居を移されています。
賃貸か所有かは不明ですが、やはり本社に近い都心部に住まわれている方ほうが、代表取締役社長として、何かと便利です。

スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?

現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。

持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。

ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。

旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?

旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。

また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。

たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。

もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。

さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。

・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円

・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円

確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。

非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。

役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。

そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。

また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強。

ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。

もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。

〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?

千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。

この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。

果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
(※現在、当時の千田さんの顔写真が見られなくなっております。本当に申し訳ありません。)

どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・

ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。

エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。

エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。

タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。

そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。

これからの千田幸信さん

千田さんも70歳。旧エニックス創業から走り続けて38年以上が経ちました。
現役から勇退された今、ユーザーのひとりとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。

以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。

千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。
本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?

⇒(新しいページが開きます)

福嶋康博さんの後継者としてエニックス2代目社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司さんの足跡をまとめたページはこちらです。
⇒エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんの足跡をまとめました

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期をまとめたページはこちらです。

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!のページはこちらです(新しいタブが開きます)

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。

心より御礼申し上げます。

何かございましたら、こちらまでお願いいたします。

はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)

メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6

※2022年1月22日加筆修正をおこないました。

1990年代の西村寿行 病魔との闘い

はる坊です。

1990年代以降の西村寿行と、その晩年について綴っていきます。

世間はバブル景気崩壊により長い不況のトンネルに入っていた1993年。

62歳となっていた西村寿行は執筆意欲も薄くなり、代々木の仕事場で過ごす時間は多かったものの、この年には、幻獣の森』『魔性の岩鷹』の2冊のみが発行されています。

そして、5月31日。

西村寿行は重大な宣告を受けることになります。
ガンを患っていることを報されたのです。

西村が体調の異変に気付いたのは、その1、2ヶ月前のことです。

喉にチクッチクッと痛みを感じるようになったのです。最初は、魚の小骨が喉に刺さったと思ったようです。
痛みは酒を飲んでいるうちに消え去りますが、断続的に、チクリと喉の痛みが西村を襲います。

体調の異変を感じ始めた西村は、いつからか、かかりつけとなった、西新宿の会員制クリニックに赴いて、内視鏡検査を受けます。
医師は「喉に炎症ができている」と話し、組織片を採取されます。

そして、1週間後、仕事場にほど近い大学附属病院で、飲み友達になっていた医師から電話が掛かってきました。
西村は、酒の誘いだと軽く考えて、病院に向かいました。

しかし、病院で待っていたのは、残酷な宣告でした。

医師は西村の身体が癌に蝕まれていることを告げられます。
西村は、自分が酒飲みであることもあり、食道癌だと思ったようですが、医師の診断は下咽頭癌(扁平上皮癌)でした。

「ほっておいたら、どうなります?」と訊ねた西村に医師は、
「ほっておいたら、半年保たない」

と医師に告げます。

西村は混乱しながらも入院を決意します。
最初の幾日かは、宣告を受けた東京の大学付属病院で過ごしますが、治療のため、神奈川県内にある同じ大学の付属病院本院に入院した彼は、当初、誰もそして何も寄せつけませんでした。

病院は自宅からも比較的近い場所にありましたが、西村はただ独りの時間を過ごします。

見舞い・面会は不要。
花も不要。

家族も一人娘が手続きに来たときに、立ち寄っただけでした。

家族仲が悪かったわけではありません。
西村自身が「来るな」と厳命したからです。

そして、家族も西村の気性を理解していました。

出版関係では、ただひとり、徳間書店の編集者に電話連絡をするのみでした。

大学付属病院の院長が主治医となり、ガン治療を33回の放射線照射でおこなうことに決定します。

毎朝、早くにおこなわれる数分の放射線治療が終わると、西村は病院を抜け出します。

(病院では死にたくない)と決意した彼は身体を鍛える為に、山歩きに没頭します。
西村は動物好きであった為、人間と共に働いた牛馬に思いを寄せ、それらを祀った道祖神に興味を持ち、自宅の庭に地蔵を2体祀っていましたが、特別な信仰を持ってはいませんでした。

しかし、最初に向かったのは庶民の山岳信仰で知られる大山でした。

やはり、ガン=死という幻影が、西村を大山へ駆り立てたのではないかと思います。

毎日のように丹沢山系を歩いたおかげで、西村の足腰はすっかり丈夫になります。

元々、作家になる前は、狩猟に生きていた時期もあり、山歩きをしていた西村ですが、このときの山歩きは、また別の思いを持ちながら歩を進めて行ったと思います。

下咽頭癌治療は手術こそしないものの辛いものとなり、放射線照射で放射線による火傷が頸部全体に広がり、内部までもが爛れました。

西村はネルシャツにジーンズ、そして首回りにスカーフを巻くというファッションを好みました。
しかし、今やそのスカーフは、おしゃれではなく、喉の火傷を覆い隠すものに変わっていました。

喉麻酔をしなくては、食事が採れない状態になりましたが、33回の照射治療でがん細胞は西村寿行の身体から消えました。
そして、6月27日に退院します。

しかし、退院した西村寿行を待っていたのは、痛恨の出来事でした。

入院して2週間は誰にも会いませんでしたが、考えをあらためて信頼していた徳間書店と光文社の担当編集者と丹沢の温泉旅館で食事をします。
「西村寿行、癌で入院」の報せは、各社の〝西村番〟編集者に届きました。
西村は「騒ぐな。大きな話にするな!」と厳命しました。
長年の担当編集者である徳間書店のひとりだけに入院したことだけを報せて、自身の体調について詳しい状況を話していないことに、西村自身の気がとがめたようです。

温泉旅館での席で、西村は旧知の週刊誌記者が胃癌で入院したことを知らされます。

その記者は、西村が孤北丸という名のサロン・クルーザーを所有していたとき、キャプテンを務めた人物でした。
それだけ、西村と強い信頼関係で結ばれていた人物だといえるでしょう。
彼の容体を訊ねた西村に返ってきた答えは、
「3ヶ月の命だそうです・・・」
という残酷な言葉でした。
西村は絶句するしかありませんでした。

西村寿行が所有していたサロンクルーザー・孤北丸については、徳間文庫版『雲の城』の巻末に『サロン・クルーザー』というエッセイが掲載されています。amazon kindleやDMM電子版でも読めます。

自らのガン治療を終えて退院した西村は、早速タクシーを飛ばして彼の元へ向かいました。
しかし医師の宣告どおり、旧知の週刊誌記者は3ヶ月後に亡くなります。
西村は彼の葬儀には参列しませんでした。ひとり娘を名代として赴かせたその日、西村はただひとりで涙を流していました。

記者の死の3週間前に、彼の妻が西村担当の編集者とともに、西村の元へ訪れます。

そして、

「しっかりとした病院へ移りたい」

と本人が言っていると聞かされます。

最初に行った病院では胃潰瘍と診断されたこと、現在入院している病院では、医師は何もしてくれないという、訴えも聞かされることになります。

しかし、すべては遅すぎました。
西村は自分自身を責めました。

「俺が入院するとき、誰にも会わないと言わなければ・・・」
「寿行さんなら、しかるべき病院と医師を、紹介してくれるのではないか、と本人が思っていたのなら・・・」

西村寿行、下咽頭癌治療を終えるも、今度は右手首を粉砕骨折

災難は更に降りかかります。
同年12月に転倒した折に、右手首を粉砕骨折してしまいます。
そして、翌1994年の3月まで再度の入院を余儀なくされます。
雑誌に連載中の小説はこの間、休載。

ガン治療と右手首の粉砕骨折での入院。
旧知の人物のガン死。
そして、自らのガンに対する放射線治療の代償として得た、頭重と嘔吐感、持病の蕁麻疹。

これらのことが、西村寿行を執筆から更に遠ざけた気がしてなりません。

西村寿行、執筆生活の終焉

かつての勢いをなくし、酒に耽溺する時間の増えた西村から離れる編集者もいました。

それでも、かつての西村を知る編集者は、雑誌連載や短編掲載で、西村を盛りたてようとします。
退院してから、執筆・刊行された本を以下のとおりです。

1994年『深い眸(中編集)』(光文社)(小説宝石掲載)

1995年『幻覚の鯱―神軍の章』(講談社)
(メフィスト 1994年8月号~1995年4月号連載)

1995年『世にも不幸な男の物語(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載)

1995年『デビルズ・アイランド』(角川書店)
(小説王 1994年9月号~1995年1月号 及び 野性時代 1995年4月号~7月号連載 )

1996年『大厄病神

1997年『』(徳間書店)

1998年『牡牛の渓(短編集)』(光文社)(小説宝石掲載)

1998年『幻覚の鯱―天翔の章』(講談社)(小説現代増刊 メフィスト連載)

2000年『月を撃つ男』(光文社)(小説宝石 1999年4月号~9月号連載)

2001年『碇の男(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載)

まだ、小説現代の臨時増刊号という位置づけで、誌面の性格が決まっていなかったことも影響していたでしょうが、『幻覚の鯱―神軍の章』が、『メフィスト』に連載されていたのは少し意外な気がします。

このほかに、短編集や中編集を違うタイトルで二次出版化されたものもありますが、それらは省きました。
内容は、かつて西村作品を愛読していた読者が物足りなさを感じるものになっていました。

1994年~2001年までに刊行された本は、ピーク時なら1年で刊行していた冊数です。
1999年に光文社『小説宝石』で最後の長編となる『月を撃つ男』を6回に分けて連載。

そして、2000年10月に同誌に掲載された短編『刑事』(『碇の男』に収録)を最後に西村寿行の新作小説が発表されることはありませんでした。
それでも、最後の長編『月を撃つ男』は文庫化されると増刷を重ね、第8刷まで重版されています。

一頭の紀州犬とともに独り孤城で過ごした西村寿行の最後の時間

西村は晩年、家族を自宅とは別にマンションに住まわせ、西村とボスと名付けた一頭の紀州犬と邸宅に籠もり、週末だけ家族と食事を共にする生活となりました。
パイプを口にくわえて、好々爺となった晩年の姿を捉えた顔写真は珍しいと思います。

『犬族からの通信』という近況報告を兼ねたエッセイが、2001年から徳間書店の小説誌『問題小説』に連載されていた時期もありますが、いつのまにかそれもなくなり、死の数年前に執筆していたという、自らの半生記もついに公に発表されることはありませんでした。

体調を損ねながらもアルコールの量は減ることなく、一人娘が注意しても聞き入れませんでした。

西村曰く、

〝俺はアルコールと妄想と幻覚で生きていたんだ〟

そして、2007年8月23日朝。
様子を見に来ていた家族が、ベッドで亡くなっている西村寿行を発見します。
その死を看取り、傍にいたのは3代目の紀州犬・ボスだけでした。

死因は肝不全。
享年78(満76歳)。

徳間書店発行の『問題小説』では、【追悼・西村寿行】と題して、出世作となった『君よ憤怒の河を渉れ』が全編再掲載されました。

最後に残した西村寿行『遺言状』

通夜と告別式は近親者のみでひっそりとおこなわれました。
その後、旧知の人々が集ったお別れ会の席上、生前、弁護士に宛てて書かれながら、書斎の机の中に置かれたままで、投函されることのなかった西村寿行の『遺言状』が読まれました。

西村は自他共に認める〝晴れ男〟でした。
しかし、お別れ会当日は冷たい雨が東京に降り注いでいました。
まるで、寂しがり屋の西村が、〝自分抜きで別れの会なぞを執り行うな〟と言っているかのように。

この会が執り行われてから、『遺言状』の全文が光文社発行の『小説宝石』に掲載されました。

〝愉しかった人生に御礼申し上げます〟から始まるこの遺言状は、独特の死生観を綴った後に、こう締めくくられていました。

〝ぼくの死は誰にもいうな。死を発表するほどおろかしいことはない。
魚もだが、牛や馬は親仔、兄弟の死をあの大きな澄んだ瞳に浮かべることはない。
己の死を特別なことと捉えるのはひと類のおごりだろう。
ひっそり--それがぼくには似合っている。
海から這い上がって、いつの間にか消えていた--というような生と死--。〟

70代を迎えて、小説を書くことからは遠ざかっていましたが、西村寿行らしい文章は最後まで健在でした。

お別れ会の祭壇には、毛蟹を調理する73歳の西村の写真が飾られ、最も愛した酒であるアーリー・タイムズが供えられました。

そして、現在・・・

西村の逝去後も、代表作品の文庫は新装版として刊行され続けています。

そして、逝去から10年が経った2017年には、1976年に公開された『君よ憤怒の河を渉れ』のリメイク作『マンハント』が、ジョン・ウー監督 チャン・ハンユー 福山雅治主演で公開されました。

西村寿行作品に影響を受けた人々は数多くいます。
なかには、現在人気作家・漫画家として活躍中の方も。

小説家では篠田節子夢枕獏樋口明雄五條瑛

そして、飴村行赤松利市

漫画家では、藤田和日郎

そして、荒木飛呂彦

2015年暮れには、半生を共にされた奥様・西村八千子さんも亡くなられ、西村寿行の時代はさらに遠くなった気もしますが、多摩市連光寺に建てられた邸宅は、まだその存在感を放っています。

つたない文章を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

ファンのひとりとして、このまま忘れ去られてしまうのは、あまりに惜しい作家だと思いますので、手持ちの資料を読みながら思いを込めて綴りました。

2018年6月 本の雑誌2018年7月号で、『巨魁・西村寿行伝説』と特集記事が組まれた!

2018年6月に西村寿行ファンとして、大変嬉しいことがありました。

本の雑誌社が発行している『本の雑誌420号2018年7月号』で、

『巨魁・西村寿行伝説』と題した特集記事が組まれたのです。

担当編集者だった講談社の鈴木宣幸氏、徳間書店の平野健一氏、光文社の丸山弘順氏、そして、愛娘の西村亜子氏が登場して、主に1980年代の西村寿行について語っています。

ちょうど『地獄』に登場していた担当編集者が寿行先生のお相手に疲れて、若手が投入されはじめた頃からのお話がメインになります。
そのエピソードがすべて面白すぎるので、気になる方は、ぜひチェックをしてみてください。

西村寿行 北海道取材旅行での超絶エピソード集

以下は、1990年代半ばにおこなわれた北海道取材旅行で、実際にあったエピソードです。

・根室の旅館に宿泊して、宴会をおこなう際に、花咲ガニはあったものの大好物の毛ガニがなく、

「みんな、飲めーッ!、喰えーッ!」

というどんちゃん騒ぎがしたかった寿行先生はご立腹。
ちなみに、寿行先生は浜茹でされた毛ガニが大好物でした。

寿行先生は同行の編集者たちに、「好きなだけ飲み食いをさせられず、申し訳ない」と詫びたあと、その席の幹事だった角川書店の宍戸健司氏に集中攻撃をします。
(宍戸氏は、専修大学卒業後に角川書店に入社。10年来、担当編集者として西村を支える一方、角川ホラー文庫を立ち上げ、日本ホラー大賞、山田風太郎賞創設も手掛けた敏腕編集者にして、馳星周氏を『不夜城』で華々しくデビューさせた方です)

このときに、ブチ切れた寿行先生が、宍戸健司氏に向かって発言した

「おまえは根室市長に連絡したか!」

は重要な寿行ワードです。

あまりにネチネチと、寿行先生から怒りをぶつけられ続けた宍戸氏は我慢をしていましたが、ついに耐えきれなくなり、

「じゃあ、いいっすよ。俺、帰りますよ」

とキレ始める始末。

次の日は知床泊で、前日のことがあったので、編集者が気を利かせて旅館側に、

「いくらかかってもいいからカニづくしにしてくれ」

と頼んだところ、宴席にやってきた寿行先生は、

「こんなにカニばっかりあって気持ちが悪い」

と言いだしてご機嫌を損ねます。

更に、「カニが俺を見ている」と名言を吐きます。

それから、不機嫌になって酒を飲みながら海を眺めていた寿行先生でしたが、何を見間違えたのか、

「ロシアのスパイ船がいる」

と言い始めて、海上保安庁に「今、スパイ船が入ってきた」と電話連絡をするも、酔っ払いの戯言だと相手にされず、「クジラか何かじゃないでしょうか?」と返されると、「何言ってんだ!」と怒って、電話を叩きつけて壊しました。
(実際に、不審船が領海内に侵入していれば、海上保安庁は早々にレーダーで発見していたでしょう)

それからも、

・港に停泊中のロシア船に勝手に乗り込んでいった。

・釧路動物園で、「あいつを殴ってやる」

と言ってヒグマのいる柵を上り始めた。その横に写生をしにきていた地元の小学生がいたが、みんなびっくりしていた。
等々。

また、日常生活においても面白エピソードが満載です。

でも、担当編集者は右往左往させられながらも、寿行先生のことが大好きで、この特集のなかで、

“「本当、寂しがりやだった。でも才能はすごい。鬼気迫るというか」”

“「寿行さんは担当できてよかったなっていう一番の作家ですね」”

と思い出を愉しそうに語られています。

これを期に、亜子氏が『父・西村寿行』とサブタイトルがつくような本を書いてくださると有難いのですが。
叶わない願いかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
もう一度、心より御礼申し上げます。

何かございましたら、こちらまでお願いいたします。

はる坊 拝

はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)

メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)

アマゾンKindleでは、西村寿行作品を安く読めます。

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その5

1980年代の西村寿行

はる坊です。
まず、1980年代になっても、西村寿行がどれだけ売れていたのかを示すデータから。
俗にいう長者番付。高額納税者番付作家部門です。
1983年度分からは、従来の申告所得額ではなく、納税額が公示されるようになりました。

1983年度分 1億2,588万円 4位
1984年度分 1億5,615万円 5位
1985年度分 1億3,745万円 5位
1986年度分 1億1,809万円 5位
1987年度分 1億3,190万円 4位
1988年度分 1億0,072万円 5位
1989年度分   9,508万円 7位
1990年度分   8,185万円 6位

1980年度分から1990年度分までに公示された申告所得額・納税額をみると、
この時代に売れて税金を多く納めた作家は次の順になります。
1位 赤川次郎   6位  池波正太郎
2位 西村京太郎  7位  森村誠一
3位 司馬遼太郎  8位  笹沢左保
4位 西村寿行   9位  渡辺淳一
5位 松本清張   10位 遠藤周作

西村寿行は、なぜ、ここまで売れたのか?
・小説本がもっとも売れた昭和50~60年代に活躍したこと。

・1975年の『君よ憤怒の河を渉れ』以降、特に77年からは、毎月のように新刊を出し続け、その全作が水準以上の出来栄えで、西村寿行作品は面白いという評価を読者から受けていたこと。

1975年に角川書店が角川文庫を発刊して、西村寿行作品に廉価で身近に触れられたこと。角川文庫の売り上げ部数は、横溝正史・赤川次郎・森村誠一に次いで歴代第4位です。

・寿行作品の多くを出版した徳間書店が、80年に徳間文庫を発刊して、ここでも寿行作品が文庫化されたこと。

さらに、徳間書店では『西村寿行選集(NISHIMURA HARD-ROMAN SERIES)』をノベルスで別に刊行し続けたこと。

新刊のハードカバー・ノベルスは15万部程度売れ、文庫の初版は20万部。
もちろん、増刷が繰り返されます。

徳間書店の創業者・徳間康快(とくま やすよし《名前はこうかいとも呼ばれました》)は反権力の立場にいる作家を愛しました。
なかでも大藪春彦とは親友同士で、大藪の葬儀で弔辞を読んだのも徳間康快でした。

エンタメ系のプロ作家が対象の大藪春彦賞も制定しています。

賞金300万円は、デビュー後の作家がもらえる賞の賞金としては、柴田錬三郎賞と並んで最高額タイです。

実業家としては、本業の徳間書店のほかにも、スタジオジブリの初代社長も務めています。
また、映画会社の大映や徳間ジャパンの経営もおこないました。

〝徳間文庫、いや、徳間書店を支えている一因は西村寿行〟と囁かれるほどの人気ぶりでした。

しかし、一番の理由は、

“俺は芸術家じゃなくて、職人だから、面白おかしく書いて、たくさんの人に読んでもらえればいいんだ。”

と語っていた読者を大切に考える西村寿行自身の姿勢にあったと思います。
では、年ごとに出版された作品をみていきたいと思います。

1983年(昭和58年)に刊行された本

『霖雨の時計台』『宴は終わりぬ』(唯一のエッセイ集)『石塊の衢』『鬼(中編集)』『狼のユーコン河』『濫觴の宴』『花に三春の約あり』『魔境へ、無頼船』『幻戯』『頻闇にいのち惑ひぬ』『襤褸の詩』
エッセイを含んで11冊を上梓しています。

この年の作品では、田中邦衛主演でドラマ化された『霖雨の時計台』が白眉です。

インタビュー嫌いの西村寿行にしては珍しく、この『霖雨の時計台』に関しては、この小説に対しての強い思い入れを取材に応じて、機嫌よく語っているのです。

同時に、幻想小説として傑作であり、夢枕獏が雑誌掲載時に驚愕したという『鬼(中編集)』はおすすめです。

また、『花に三春の約あり』は『峠に棲む鬼』のヒロイン・逢魔麻紀子の娘、逢魔紀魅が登場します。


そして、『襤褸の詩』では『蘭菊の狐』のヒロイン・出雲阿紫が再登場しますが、扱いが他の寿行作品で描かれるヒロインと同じ道を辿ったのが、個人的には残念でした。

生涯で唯一刊行されたエッセイ集『宴は終わりぬ』は人間・西村寿行が余すところなく感じられて面白いです。

また、表紙の絵を愛娘の西村亜子さんが描いています。そして題字は西村寿行本人によるものです。

1984年(昭和59年)に刊行された本

『空蝉の街』『監置零号』『鉛の法廷』『風紋の街』『妖しの花乱れにぞ』『垰 大魔縁』『垰よ永遠に』『夢想幻戯』『沈黙の渚』『緋の鯱』『黒猫の眸のほめき』『憑神(中編集)』
12冊を上梓しています。
垰シリーズが、『垰よ永遠に』をもって終わりました。
『鉛の法廷』は司法で裁くことができない犯罪者を、私設裁判所にて裁くという重くも救いのある作品です。
『黒猫の眸のほめき』は、西村寿行が主役です(物語の序盤に西村寿行は、実際の愛車で、本当に1リットルで2キロしか走らなかったという、恐ろしく燃費の悪いチューンアップ済みのメルセデスベンツ500SLC AMG仕様に乗って登場しますが、その後は・・・)。『地獄』の世界観を楽しめるのなら、この作品も面白いはずです。

1985年(昭和60年)に刊行された本

『雲の城(中編集)』『牙(短編集)』『異常者』『鬼の跫』『人類法廷』『ガラスの壁』『無頼船、極北光に消ゆ』『鷲の巣』
上梓した冊数は8冊に減りました。
ポリティカルフィクションというジャンルにあてはまる『人類法廷』『ガラスの壁』が刊行されます。
寿行作品中期以降のなかでも異質な存在感を放つ、『異常者』もこの年に発表されています。

これは読み手によって様々な意見があると思うのですが、個人的にはこの1985年に発表された作品あたりから、徐々に全体のバランスが崩れた作品が出始めたように感じます。

夢枕獏・菊地秀行が伝奇バイオレンス・伝奇アクション小説を書き出した時期

前年の84年に、西村寿行の影響を公言している夢枕獏の伝奇バイオレンス小説『魔獣狩り 淫楽編』『魔獣狩り 暗黒編』『闇狩り師』が単巻で10万部以上のヒット作になります。

『闇狩り師』を刊行した徳間書店の編集者は“「ウチはもう完全なバックアップ態勢です。第二の西村寿行になりうると確信しています」”と発言しています。(出典:週刊文春1984年9月27日号「バイオレンスのニューパワー夢枕獏の正体」より)

当時、夢枕獏自身がインタビューで“「昨年(前年の1983年分)の年収は780万円だったのに、今年は6800万円でした。あるときに、通帳記帳に行ったら、機械がダダダッて印字がとまらなくて、『来たな』と思いました」”と話しているように、翌1985年分、1986年分では長者番付の作家部門14位に登場します。

そして、この時期から伝奇小説だけではなく格闘小説『餓狼伝』や『陰陽師』の執筆も開始して、月産500~800枚という多産に耐えながら、作家としてのフィールドを拡げていきます。

98年に『神々の山頂』で柴田錬三郎賞を受賞したのを皮切りに、一般文芸を対象とした文学賞にも縁ができはじめ、泉鏡花文学賞、吉川英治文学賞も受賞し、2018年春には紫綬褒章を受章しています。

また、朝日ソノラマで、『魔界都市〈新宿〉』でデビューを果たし、『トレジャーハンター(エイリアン)』やシリーズ『吸血鬼ハンターD』シリーズジョブナイル小説(現在のライトノベル)を書いていた菊地秀行がこの年にノベルス界に進出すると矢継ぎ早に『魔界行Ⅰ(復讐編)』『魔界行Ⅱ(殺戮編)』『魔界行Ⅲ(淫獄編)』『妖魔戦線』『妖魔陣』『妖魔軍団』『妖人狩り』『妖獣都市』など伝奇小説を量産して、そのほとんどが10万部を軽く超えるベストセラーとなりました。

1987年には、21冊もの伝奇バイオレンス小説を主にノベルスで発表して、ベストセラー作家の座を確固たるものにします。

年間10冊以上の新刊を長期間にわたって発表し続け、2017年2月には『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作400冊を達成しています。また、1986年分から1995年分までの10年間、長者番付・作家部門ではベストテンにランクインし続けました。

このような新しい動きがあったことは、西村寿行に追随したバイオレンス小説の大家・勝目梓もその半自伝的著書『小説家』のなかで触れています。

勝目が年間15冊平均でノベルスを出していた時期で、一番多忙であった頃ですが、半自叙伝的な著書に夢枕獏と菊地秀行の台頭を記しているところをみると、当時としては、かなり脅威に映ったのではないかと思います。

1986年(昭和61年)に刊行された本

『珍らしや蟾蜍、吐息す』『死神 ザ・デス』『山姥が哭く(短編集)』『曠野の狼』『無頼船 ブーメランの日』『遺恨の鯱』『時の旅』『癌病船応答セズ』『まぼろしの獣』
長編を中心に9冊を上梓しています。
癌病船シリーズが『癌病船応答セズ』をもって終結しました。

1987年(昭和62年)に刊行された本

『凩の蝶』『魔の山(短編集)』『人間の十字路(短編集)』『陽炎の街』『風の渚』『幽鬼の鯱』『母なる鷲』『コロポックルの河』『旅券のない犬』
昨年同様、9冊を上梓していますが、個人的に消化不良に思える作品が増えてきます。
特に鯱シリーズではそれが顕著に感じられました。
『風の渚』は渚シリーズ最後の作品になりました。

1988年(昭和63年)に刊行された本

『残像(短編集)』『執鬼(短編集)』『賞金犬(ウォンテッド)(短編集)』『道』『無法者の独立峠』『無頼船、緑地獄からのSOS』『幻想都市』『聖者の島』『悪霊刑事』『衄られた寒月(中編集)』
刊行数は久々に二桁、10冊になりました。
この年の作品を読むと、前半は面白いけれど、後半になってからが・・・という感じでしょうか。
『賞金犬(ウォンテッド)』が、1995年オリジナルビデオで映像化されています。北野武監督映画『ソナチネ』の出演がきっかけとなり、演技派俳優として認知をされていく大杉漣も、この作品に出演しています。
(残念ながら、大杉漣さんは2018年2月21日に急性心不全で急逝されました。ご冥福をお祈りいたします)
また、『無頼船、緑地獄からのSOS』は無頼船シリーズ、『幻想都市』は幻戯シリーズ(宮田雷四郎シリーズ)最後の作品となりました。

1989年(平成元年)に刊行された本

『学歴のない犬(上・下)』『頽れた神々(上・下)』『神聖の鯱』『風と雲の街』

息を吹き返したかのように面白い長編が発表されました。
特に『学歴のない犬(上・下)』は作家生活後半で、もっとも優れた長編になると思います。

1990年(平成2年)~1992年(平成4年)に刊行された本

1990年(平成2年)
『呪医 ウィッチ・ドクター』『魔物』『涯の鷲』『矛盾の壁を超えた男』『蟹の目(短編集)』

1991年(平成3年)
『凩の犬』『呪いの鯱』

1992年(平成4年)
『消えた島』『魔獣(短編集)』『鬼の都』『ここ過ぎて滅びぬ』

1990年代に上梓された本を92年分までひとまとめにしてしまいましたが、これには理由があります。
90年代に入ると、思わず首を捻ってしまう作品が増えます。

着想は、さすが西村寿行だなと思わせるのですが、内容にまとまりがなく支離滅裂と感じられるものになってきます。
鯱シリーズの『呪いの鯱』は週刊現代に連載されていますし、その他の作品も雑誌連載・掲載作がほとんどですが、雑誌を読むと他の小説家と比べて浮いている印象を受けざるを得ないのです。

1989年12月、徳間書店では文芸書籍編集部の求人の応募して、中途入社した芝田暁氏が西村寿行の担当編集者になっています。
芝田氏の著書『共犯者 -編集者のたくらみ- 』には、西村寿行番編集者の大変さが綴られています。

第一に、徳間書店が文芸書籍編集部の求人を出した理由は、西村寿行の担当編集者が、あまりの大変さに逃げ出してしまい、先輩編集者たちも敬遠しており、やむを得ず、新たに中途採用で担当編集者を補おうとしたからでした。

その大変さはハンパなものではありませんが、初めて、西村寿行に受け入れられたときの喜びも書かれています。
最初、付き合うのには我慢と時間がかかりますが、一度信頼関係を築けると「ホントに仕方のない人だな」と思いながらも惹きつけられてしまう。
そんな人間的魅力が西村寿行にはありました。

それが、第一線から退いた1990年代にも小説連載の仕事が続いた理由ではないでしょうか。

しかし、この頃、作品の雑誌連載・掲載時の煽り文句も〝不条理〟〝奇想〟〝奇作〟と付けられており、どうにも編集者が扱いに困りだしているのが目に浮かんでしまうのです。

また、1990年度分を最後に長者番付作家部門からも姿を消します。

ですが、この時期になっても、西村寿行の新作は単行本(ハードカバー)で初版5万部。
ノベルスもで初版で5万部が刷られていました。

当時税務署で公示されていた高額納税者と納税額を集計した資料をみると、1991年以降も数年間、年間1,000万円以上を納税していたことがわかります。

〝西村寿行 指〟や〝西村寿行 ポキポキ〟に対する反論

さて、ここからは余談になりますが、ネットで〝西村寿行〟と検索すると、〝西村寿行 指〟や〝西村寿行 ポキポキ〟という検索がされているのに気がつきます。
どうやら、『「金を払うから女性に指を折らせてくれ」と西村寿行が言った』というもののようです。
なかには、〝西○○行〟と卑怯な書き方をしているところもあります。

これに関しては、私は強く否定します。

西村寿行の小説やエッセイを読み、その考え方や人となりを知ると、とてもではないですが、そういう人物だったとは思えないのです。

〝ホステスに対して言った〟〝風俗関係の女性に対して言った〟という文章もネットに上がっていますが、確かな情報ソースがあるわけではなく、大変に無責任で西村寿行の名誉を毀損する書き込みだと思います。

銀座など女性のいるクラブやラウンジを西村は嫌いました。
大流行作家となっても、足を向けることはありませんでした。
これらは西村寿行のエッセイや、その執筆活動をささえた編集者たちの思い出話の中に出て来ます。

また、女性関係でも、長年秘書としてもそれ以上の関係としても作家生活を支えた女性がいること。
一時期は女優と交際したこと。
どこのソープランドへ編集者と連れだって行くことなど、神秘的なイメージを持ちたい作家なら絶対に公言しないことも、「別に隠すことでもなんでもないじゃねえか」というふうに、堂々とあっけらかんとインタビューで答えています。

こういう人物にそのような噂自体そぐわないと思います。

喜怒哀楽が激しい寂しがり屋で、お山の大将気質。
酔いに任せた部分もあったのでしょうが、夜に宴会をしているときには、北海道から九州まで方々へ電話を掛けまくり1日の電話代が2万円に及ぶこともありました。
自身が飲むのは、売れっ子作家となって、年収が毎年3億円になっても、ビールとバーボンウイスキー・アーリータイムズ。
酒が大好きで、気心の知れた仲間と宴会をするのが大好き。

小説家として一番忙しく、そして輝きを放っていた時期には、渋谷区代々木のマンション最上階に構えた仕事場での執筆が終わる18時頃から、各社の担当編集者が西村の元にアーリータイムズ持参で集まり、毎夜、打ち合わせを兼ねた飲み会を開き、週末になると、編集者たちと『雑木の会』という宴会を開いてもいました。

晩年になって、小説の執筆を完全にストップさせてからも、多摩市連光寺の自邸で宴を催した折りには、長年の戦友とも呼べる旧知の編集者だけではなく出入りの庭師なども呼び、かつて〝海賊料理〟と称した活魚料理店の経営者兼板前だった経験を生かして、自ら客に料理を振る舞いました。
宴の主役はいつも大好物の蟹でした。慣れた手つきで蟹を調理しては、客に蟹の身肉を存分に味わってもらい、蟹雑炊で締めるという何とも贅沢な時間を西村寿行自らが提供していたのです。

【送料無料】身入り9割以上 最上級堅蟹 超特大サイズ 毛がに 1尾

私は、西村寿行という人物についてこう思います。
自分からは進んで徒党を組もうとはしない孤高の人。
でも、縁あって知り合い、気心の知れた人を大切にしたのが、西村寿行という人間だったと思います。

⇒現在、アマゾンのKindleでは電子書籍のキャンペーン実施中で、西村寿行作品が270円から読めます。

話が横道に逸れました。

⇒そして、1993年(平成5年)を迎えます。その6に続きます。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その4

大流行作家・売れっ子作家となった西村寿行

西村寿行は超売れっ子作家に登りつめました。
年収は3億円台をキープ。

山田風太郎や柳田邦男も居を構えた、多摩市聖蹟桜ヶ丘に邸宅を構え、仕事場は渋谷区代々木の高層マンション最上階。

愛車は、垰(たわ)シリーズで秋葉文七が愛用し、俳優・根津甚八も所有していた、アメリカ製ジープのゴールデン・イーグルと、エンジ色のメルセデスベンツ500SLC AMG仕様

そして、奥様用にボルボを購入。

また、80年代半ばに差し掛かる頃には、約5,000万円のサロン・クルーザーを購入。

〈孤北丸〉と命名して、俗称は〈無頼船〉と呼び、クルーザー前方には〈BURAISEN〉と、ローマ字表記で黒い文字が書かれました。

〈孤北丸〉については、徳間文庫版『雲の城』の巻末に『サロン・クルーザー』というエッセイが掲載されています。amazon kindleやDMM電子版でも読めます。

【DMM.com 電子書籍】

ここまで読んでいただくと、羨ましい限りだと思われるかもしれませんが、売れっ子作家としての生活は過酷そのものでした。
月曜日から金曜日までは、仕事場で寝泊まりして、金曜の夜に自宅へ帰る生活。
しかし、自宅に戻っても来客がやってくる有様。

まさに千客万来。

西村寿行流 執筆の流儀と方法

まず、判を押したように毎朝7時30分に仕事場で目を覚ますと、シャワーを浴びてレモンをかじり、さらに二日酔いの頭を覚ますために頭痛薬を服用して、執筆の準備を整えると、ソファーに腰掛け、足も別のソファーに伸ばします。
ひどい二日酔いの為に、起床してから、ここまでで3時間かかっています。

冷凍してある麦9:白米1のおにぎりを解凍して食べると、仕事開始です。

太ももあたりに画板やトランクケースを置いて、原稿を書き始めます。
西村寿行は机に向かっては、原稿が書けませんでした。

後年には、自らが座るソファーに、角度を調節できる台を設えた特注のもので原稿を書きました。

原稿は手書きで、生涯、万年筆で書き進められました。
万年筆はイタリア製のアウロラが好みだったようです。

作家になってしばらくしてからは、モンブランを使用していましたが、“俺は芸術家じゃなくて、職人だから”とインタビューで答えていたように、職人の仕事道具のような、俗に“サリサリ”と評されるアウロラ独特の少し引っ掛かりを覚える書き心地が気に入ったのかもしれません。

執筆量は1日35枚。
タバコは峰か赤LARK。
1日に2箱ほど吸いながら原稿を埋めていきました。

西村寿行の作品は〝ハードロマン〟と呼ばれ、アクションや冒険をテーマとし、バイオレンス小説とも呼ばれることが多いですが、作風とは異なり、原稿用紙に書かれた字は小さく、どこか繊細さを窺わせるものでした。

小説の執筆にあたっては、とことん資料を読み込むのが寿行流でした。
ひとつの小説を執筆するのに1メートル以上の資料を読みあさり、「京大式」と呼ばれるB6サイズのカードで整理をおこない、最大で3名のデータマンを雇って、時間的に取材をおこなえない箇所を補いました。

このデータマンのなかには、のちにノンフィクション作家となり、週刊ポスト誌上で『メタルカラーの時代』を、長年に渡って連載した山根一眞もいました。
午前中から午後6時、7時まで、仕事漬けの日々を送って作品を書き上げていきました。

一日の仕事を終えてからの酒盛り アーリータイムズ

仕事が終わる頃になると、各出版社の担当編集者が仕事場を訪れ、打ち合わせを兼ねた酒盛りが始まります。
西村寿行が愛したのは、バーボンウイスキー。
銘柄は『アーリータイムズ』でした。

夜に西村の仕事場へ赴く編集者は、このバーボンを何本か買っていくのが習慣でした。
西村が飲みたいといえば、どんな高級な酒でも編集者は持参したでしょう。
しかし、大の売れっ子作家でありながら、当時でも決して高価ではなかったこの酒を、西村は最後まで手放しませんでした。

30代半ばから飲み始めた酒が、日常生活の一部になってしまうほど好きだったこともありますが、大量の原稿を書く疲れを癒やす意味もあったのでしょう。少なくてボトル半分、多いときではボトル1本を一晩で開けてしまうほど酒量は凄まじく、翌朝に目覚めたときは、いつも二日酔いで頭痛薬が手放せませんでした。
これほどの酒を飲みながら仕事第一の生活を貫き、西村本人も〝仕事には律儀〟と語っていたように、〆切りに遅れたことはありませんでした。

1980年代の西村寿行の仕事ぶりを、まずは、刊行した本でみていきましょう。
今回は1980年~1982年まで。

1980年(昭和55年)に刊行された本

『滅びの宴』(『滅びの笛』の続編)『風は悽愴』『滅びざる大河』『虎落笛』『陽は陰翳してぞゆく』『捜神鬼(短編集)』『鬼女哀し』『汝は日輪に背く』『怨霊孕む』『血の翳り』

昨年より刊行数は減っていますが、安定して名作を放ち続けた一年だと思います。
この中でも、『血の翳り』(血は〝ルジラ〟と読みます)と短編集『捜神鬼』は名作中の名作です。
もし、直木賞候補を受け続けていたなら、この作品で、受賞をしたかもしれないと私は思っています。

1981年(昭和56年)に刊行された本

『扉のない闇(短編集)』『虚空の舞い』『老人と狩りをしない猟犬物語』『秋霖(上・下)』『虚空の影落つ』『癌病船』『蘭菊の狐』『ふたたび渚に』『無頼船』『鷲の啼く北回帰線』『闇の法廷』『白い鯱』
この年には無頼船シリーズと癌病船シリーズの刊行が始まります。
連載媒体に目を移すと『虚空の舞い』が産経新聞に連載されています。スポーツ紙連載は何度もありましたが、全国紙連載はこれが初めてでした。
また、『蘭菊の狐』のヒロイン・出雲阿紫は、これまでに西村寿行作品に登場したヒロインとは違い、性の対象とはならず、気高く凛とした姿が印象的です。

1982年(昭和57年)に刊行された本

『妖魔(短編集)』『鬼狂い』『牛馬解き放ち;太政官布告第二九五号』『碧い鯱』『攻旗だ、無頼船よ』『地獄(上・下)』『裸の冬』『オロロンの呪縛』『晩秋の陽の炎ゆ』
この年の作品では、『晩秋の陽の炎ゆ』のヒロインである槐帰雲(えんじゅ・かえりくも)が魅力的です。
また、コアな寿行ファンなら『地獄』は見逃せません。
西村寿行本人が主人公の小説で、編集者たちとともにフグにあたって地獄へ落ちて冒険をする物語です。

最後に、1980年~1982年の長者番付においての西村寿行の順位
をみてみます。

例によって申告所得が発表となっています。
1980年度分 2億5,017万円 作家部門3位
1981年度分 1億8,746万円 作家部門3位
1982年度分 2億5,946万円 作家部門3位

信用金庫の担当者がついて、節税を行っていた分は経費に計上されており、申告所得は、年収3億円から経費を差し引いた分が公表されています。
この時代は、所得税率が最高で75%。住民税が最高で18%でした。

それに予定納税もありますので、いくら稼いでも、内情は自転車操業だったようです。

1960年代から長きにわたって活躍した、『木枯らし紋次郎』や『取調室』(いかりや長介主演の2時間ドラマのほうが有名でしょうか)で著名な笹沢左保は、「税金を払うために借金をしたこともある」と語っていますので、幾ら本が売れていた時代であっても、作家の台所事情は意外に苦しいものだったようです。

⇒アマゾンのKindleでは、電子書籍のキャンペーン実施中で、西村寿行作品が270円から読めます。

⇒それでは、1980年代半ば以降の西村寿行はその4でどうぞ。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その4