USENグループ創業者・宇野元忠の人生にせまる

はる坊です。

今回は、大阪有線放送社の創業者・宇野元忠(于元忠)さんについて書きます。

元忠さんの次男は、宇野元忠さん亡き後、大阪有線を継いで、現在、USEN-NEXT HOLDINGS代表取締役社長CEOを務めている宇野康秀さんです。

宇野康秀さんは、インテリジェンス(現:パーソルキャリア)・有線ブロードネットワークス・USEN-NEXT HOLDINGSの3社を株式上場企業にしたことでも知られる実業家であり、また超絶イケメンな経営者としても有名で、最近ではトライアスロンに本気で取り組む方としても知られています。

宇野元忠さんの顔を見ると、目の部分が康秀さんに似ているような気がしますが、オールバックでメガネを掛け、あまりオシャレに興味を持たない、どこにでもいる普通のおじさんという雰囲気の方でした。

ただ、どこか不気味さを漂わせる存在ではありました。

宇野元忠さんは成績優秀なのに変わり者の少年だった

宇野元忠さんは1935年2月に生まれました。
于元忠という本名が示すとおり国籍は中国(台湾)でした。
次男の宇野康秀さんは、29歳の時に日本国籍を取得して帰化されていますが、元忠さんは帰化されることはありませんでした。

元忠さんの両親は戦前に中国・安徽省から来日しました。
しかし、日本に来ても食べられない時期もあって、幼い元忠さんを連れて、中国に戻ったこともあるようです。

戦後になると状況はガラリと変わります。
1948年元忠さんの父親は、大阪・千日前に25坪ほどの食堂を始めました。当時は、圧倒的にモノ不足の時代でした。千日前の食堂は繁盛しました。

真面目で働き者だった父親は稼いだお金を不動産に投資しました。
戦後、まもない時期、不動産価格は安く、やがて、父親はパチンコ屋・雀荘・貸しビル業・金融業に進出していきました。

元忠少年は、勉強ばかりしている子どもでした。そして読書好きでした。
中学生になると、ラジオの組立やに凝り始めます。

大阪府立夕陽丘高等学校に進学しても、多くの本やラジオや無線機、それにオーディオのパーツで彼の部屋は足の踏み場もありませんでした。

宇野元忠さんは大阪大学経済学部卒業のインテリ

1954年、元忠さんは大阪大学工学部に合格します。そして入学後に経済学部に編入しています。これは、いずれは親の事業を継ごうと思っていたからだと、元忠さんは回想しています。

当時の大学新卒者の初任給は1万円ほど。しかし、事業家の息子だった元忠さんは、その何倍ものお金を小遣いとして使える立場にありました。

元忠さんは、商売人の息子たちと飲み屋に通います。
通っていた飲み屋の名称はアルバイトサロン(略して〝アルサロ〟)。
簡単にいうと、素人の女性がアルバイトで勤めていて、酒の接客をする店です。
当然、居酒屋とは違って会計は高く、“「モデルクラスの子もぎょうさんおった」”と、後年、元忠さんが振り返っています。

(水商売経験の浅い女性をウリにしているキャバクラのような感じですね)

また、元忠さんは旅行にもよく出かけました。
それも、北海道から九州まで。

また、ただの旅行客としてではなく、常に旅行先を自分のホームグラウンドである大阪ミナミと比較して、「この街にはパチンコ屋が○軒あって、雀荘が○軒あって、ミナミに比べたら・・・」と商売人の目線で旅をしたと回想しています。

阪大を卒業した元忠さんは、小さな貿易会社に勤めます。
しかし、1年ほどで退職します。
退職理由は、親の事業を継ぐためでしたが、いざ、事業を手伝っていると父親と衝突が続きました。

中国からやってきて裸一貫で事業を築いた父親と阪大卒の二代目である元忠さんとのあいだには、意見の食い違いが続き、やがて、お互いに気まずい雰囲気になります。

1961年6月 宇野元忠さんは個人で大阪有線放送を創業する

元忠さんは、学生時代から飲み屋通いをつづけていました。
アルバイトサロンやバーで飲んでいると、ホステスがレコードを裏返すために席を外します。
この姿を見た元忠さんにひらめくモノがありました。
(これは不合理や。誰かが1ヶ所でレコードを掛けて、飲み屋に供給すれば、儲かるやないか)

当時、元忠さんが目を付けた有線放送は草創期でした。
業者は飲み屋街のなかにアパートを借りてプレーヤーを置いて、飲食店の軒伝いに配線を張り巡らせていました。
簡単に始めることができる商売だったのです。

東京や横浜の業者を下見すると、元忠さんは個人事業として大阪有線放送を創業します。
1961年6月1日、元忠さんは26歳でした。

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まず元忠さんは、日本橋でスピーカー線を買い込み、父親が所有する千日前の借家にレコードプレーヤーを8台並べ、レコードを揃えました。
投資額、しめて100万円。

当時の飲み屋は今以上に1ヶ所に集中していました。
これが元忠さんにとっては好都合でした。

「有線はどないですか? 一度、試してもらえませんか。最初の1週間は無料で、よかったら契約してください」
元忠さんは、ミナミのバーやスナック、居酒屋を回って営業活動を始めます。

店主の了承を取ると、弁当箱のような形をした手作りの接続チューナーを、店のアンプに繋ぎました。

1週間が経って、元忠さんが、

「有線の調子はどうですか?」

と様子を見に行くと、

「有線って便利やねえ」

という返答が店側から返ってきて、必ず契約がとれたといいます。

そこには、店側の事情もありました。

・有線放送を入れれば、場所を取るジュークボックスを置かなくてもいい。
・BGMのレコードを掛ける手間が省ける。
・そして、「うちは有線を入れとるからええねん」とギターを抱えた流しの歌手が、店に入ってくるのを断る理由にもなりました。

大阪有線放送社の契約料は月々1500円。
これは、当時のLP(アルバムCD)1枚分の値段でした。

面白いほど契約が取れて、開業してからわずか1ヶ月で加入件数は100軒を数えました。
元忠さんの有線は、バーやスナックなど飲食店の軒下伝いにあっという間に延びていきます。

屋根に登ったり、時には道頓堀を泳いで線を渡したりして作業を進めていきました。

ときには、警官から、

「ちょっとあんた、何してんねん」

と声を掛けられることもありましたが、時代がおおらかだったのか、

「お隣の電気工事をしてるんですわ」

と元忠さんが答えると、特にそれ以上苦情が来ることはなかったといいます。

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大阪ミナミとキタで加入件数500軒。大阪有線は僅か1年で順調に伸びる

宇野元忠さんの有線は最初から特徴がありました。

演歌とポピュラーを流せるよう2チャンネルになっていたのです。
これは、飲み屋だけではなく、喫茶店やその他の店も意識していたからです。

演歌とポピュラーが混信するトラブルに悩まされながらも、1962年をむかえる頃には、有線は大阪ミナミ全域に渡り、加入件数は300軒を超えます。

「ミナミがいけたんやキタもいけるやろ」

そう考えた元忠さんは、大阪キタの飲み屋街の真ん中に事務所を借りて、プレーヤーを置き、そこから屋根伝いに有線を引きます。

開業して1年後には、加入件数は500軒を超え、月の売上高は150万円を超えるようになりました。

宇野元忠さんの家族とは?

宇野元忠さんが結婚したのは1960年のことでした。
お相手は、華僑の娘である依月さん。

ところが、依月さんの父親は、結婚に反対します。
依月さんの父親は、理髪店を経営していました。父親には、家業を継がせたい男がいたのです。

困った依月さんが、元忠さんに、あなたと結婚できないと言いに行くと、元忠さんは、

「おまえと結婚できないなら、おれは死ぬ!」

と叫びました。

結局、2人は結婚。

1961年には長男・康彦さんが生まれています。
康彦さんは同志社大学卒業後にリクリートを経て、大阪有線放送社に入社。のちに取締役を務めました。

また、1963年には次男の康秀さんが生まれています。
そしてさらに、ふたりの女の子にも恵まれ、二男二女の父親となります。

大阪の飲み屋街を制した元忠さんは、1962年に徳島市内に進出します。

まだ、同業者がいない飲み屋街があったのです。

1964年9月7日に大阪有線放送社は株式会社化。
従業員も50名を数え、大阪ミナミに放送所を兼ねた40坪のビルのフロアを借りました。

その2に続きます。

USENグループ創業者・宇野元忠の人生にせまる その2

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