1972年長者番付全国1位になった中国出身・韓黎(範統万寿)は何者だったのか?

はる坊です。

2004年度分まで、1000万円以上の高額納税者は税務署に公示されていましたが、個人情報保護を理由に廃止されました。
それまでランクインしてきた人々には様々なドラマがありました。

今回は1972年度分の年間所得で全国第1位となった韓黎という人物にスポットをあててみたいと思います。

奥さんは元ミス東京!1972年当時、南麻布の土地は1坪200万円だった!!!

15億8783万6000円。

これが1972年中に韓黎さんが稼いだ金額です。この所得のほとんどは、所有していた南麻布の土地750坪を売却して得たものでした。

韓黎さんは1972年度分の長者番付全国1位となり、一躍マスコミに注目されます。

マスコミが注目した理由として、初の外国人による長者番付1位だったというものがあります。
当時、韓黎さんはナボー開発・新雅・弁慶地所という3つの不動産会社の代表取締役社長を務めていました。

また、夫人が代表を務めるミュージック・ランドという会社もあり、この会社だけでも三重県の伊勢に50万坪の土地を所有していました。
この夫人は、1952年のミス・ユニバースで準ミス日本代表に選ばれ、韓黎さんとは18歳も歳が離れていました。

夫人は日劇ミュージックホールのダンサーでした。しかし、ひとことにダンサーといっても、その他大勢ではなく、非常に人気のあるダンサーで、ソロでダンスを披露していました。画像のように作家に転身する前の深沢七郎とも共演しています。
韓黎さんと結婚後は、経済学を学ぶために、夫の仕事を手伝う傍ら、国士舘大学に併設されていた国士舘短期大学経済科第二部に通い、二年で卒業しています。

韓黎さんは港区高輪の150坪の敷地に建てられた建坪110坪の豪邸に住んでいました。南欧風の外観で、1968年に建物ごと購入したときは1億円でしたが、その後、自分好みにリフォームしました。

また、鎌倉市稲村ヶ崎には敷地面積1500坪の別荘を設けて、大島と富士山が見られることが自慢だったようです。

韓黎(範統万寿)さんのプロフィール

1915年中国・広東省に生まれ、祖父は銀行業と宝石商を手広く営んでいましたが、事業を引き継いだ父親がことごとく失敗。一家は上海に移り住みますが、まもなく父親は死亡。母親が英語に堪能だったため、英語塾を開いて韓黎さんら7人の子どもを育て上げます。

1937年に韓黎さんは上海セント・ジョンズ大学経済学部を卒業。
イギリスの化学企業グループICI(インペリアル・ケミカル・インダストリーズ)の極東支社に入社します。

1945年、韓黎さん30歳の時に、転機が訪れます。
日本の敗戦です。韓黎さんはICIを辞めて外務省に入り、台湾に赴任します。そして、1946年4月21日に戦勝国の代表団の一員として来日します。当時の代表団の事務所は麻布にあり、韓黎さんは商務部に所属。

日中貿易の再開を担当して、石炭・大豆・塩を取り扱いました。

代表団時代の韓黎さんは、とても羽振りがよく、アメ車のマーキュリーを乗り回していました。

1949年のこと、ある人に頼まれて、そのマーキュリーを貸すことになります。
貸したマーキュリーが何に使われたかというと、当時、少女歌手として売出し中だった美空ひばりさんが、劇場や興行先に挨拶回りをするのに使われたのです。

1950年になって韓黎さんは、代表団を辞めて独立します。
代表団を辞めた理由について、韓黎さんは“「代表団を辞めた理由ですか? 国がスタッフを縮小したからです。それを機会に独立しました。」

韓黎さんは、西銀座と三原橋に日用品を扱う店を始めます。
日本人とアメリカ人を使い、店は繁盛しましたが、2年半で店を閉じました。

理由は、日本に物資が豊富に出回りだしたから、でした。

今度は、新橋にあった中華料理店『新雅酒家』を買収して経営にあたります。このお店は新橋亭のすぐ近くにありました。

“「根っからの商売上手なんでしょうね。代表団時代に出入りした外人が常連客でした。別にトラブルもなく評判もよかったようです」”(新橋亭支配人の話)

“「わたしがまだ銀行にいたころです。新橋にうまい中華料理屋があるというので行ったのが、韓黎さんの『新雅酒家』でした。何度か通ううちに顔見知りになり個人的に付き合うようになりました。温厚で立派な人です。今度売られた土地だって、以前遊ばせておくにはもったいないからボウリング場でもやろうかと思うといって相談を持ち掛けられたことがあります。商売がうまいのは事実で、その点、典型的な華僑ですが、決してあくどいことなどしていないと思います」”(元銀行頭取の話)

韓黎さんが750坪に及ぶ土地をどうやって手に入れたのかは、当時の資料を調べてもハッキリしません。
本人が過去については、なかなか語りたがらなかったからです。

そのなかで、こんな声も聞かれました。
“「麻布の土地2475平方メートルを売って得た15億円ですか。まるで濡れ手に粟ですよ。もともと麻布一帯は代表団が乗り込んできたところだし、あのへんは戦後のドサクサにまぎれて、ただのような値段で買い取られたところです。韓黎さんがどのようにしてあの土地を手に入れたのか、はっきりしませんね」”(港区の中華料理店主の話)

“「戦後、日本で成功した中国人はごく一部の例外を除いて、かなりあぶない橋を渡っているものがほとんどだ。過去を語りたがらないのがそのいい例だ。何らかの形で敗戦による〝うまみ〟があったと思う。だが、そんな〝大物〟たちはあまり表面に出ないもんですよ。彼らは決して文書を取り交わしたりしない。口約束ですべて通じる。月1回単位ですごい頼母子講をやる。億単位の金が動くことだってザラなんだ。それをグルグル回す。仲間内のことは決してしゃべらない。それが彼らの鉄則なんだ」”終戦直後、東京や大阪、神戸などの闇市で起こった対立に詳しいルポライターの猪野健治氏の話)

“「一般的な例ですが、当時のいわゆる第三国人ならどんなことでもやれた。ヤミ市などの不法占拠、ヤミ物資の横流し、空き地の横取り、ともかく警察だって手も足も出ないんだ。ずいぶんあくどいことをやって莫大な財産をこしらえた連中もいますよ。そんな連中はその後、混乱期がすぎるとうまく立ち回っていずれも正業についてますよ」”(同上。終戦直後、東京や大阪、神戸などの闇市で起こったテキ屋と第三国人の対立に詳しいルポライターの猪野健治氏の話)

元妻の会社・霊南地所だけが現在も残っている

実は韓黎さんと元ミス東京の奥様は再婚でした。

これは、前妻とのあいだに長年子どもができなかったことが理由のようです。
それが、韓黎さんと後妻となる元ミス東京の女性のあいだに子どもが出来てしまった。

ふたりは離婚して、前妻の女性は、慰謝料として当時住んでいた千代田区紀尾井町の家(土地850平方メートル・建物・200平方メートル)とアメリカ大使館裏の霊南坂の土地(2200平方メートル)を受け取り、別に霊南地所という会社を譲り受けました。

1984年の長者番付の全国8位に呉という姓の霊南地所の専務がランクインしています。そして、現在も霊南地所という会社は存続していますが、韓黎さんの会社は、どれも当時の社名では残っていません。どこかでつまずいて倒産したのか、それとも商号を変えたのかはわかりません。

韓黎さんは長者番付全国1位となり、マスコミにコメントを求められたとき、こう答えました。

「ベリベリ、ハッピィね。(庶民の)みなさん、お気の毒」

当時、長者番付が発表されるのは5月1日でしたが、その1ヶ月前の3月30にちに日本に帰化しており、正式には、日本人・範 統万寿(はん・とーます)という名前でした。

再婚した奥様との間には、当時16歳と13歳になる息子がいました。
そのふたりも、当時58歳だった韓黎さん(範統万寿さん)の年齢を超えています。

父の遺産を元に、どこかで事業家として成功したのか? 
それともどこかで父の遺産を守り続けているのか?

韓黎さんのその後が分からないだけに、気になるところではあります。

ウォールストリート・ジャーナル日本版

3年連続で「アメリカでもっとも影響力の高いメディア」として選ばれた『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』の電子版ですが、アメリカ版、アジア版、ヨーロッパ版の記事から、厳選した金融・経済・投資・IT・政治、それにライフスタイルなど多くの情報を、日本の編集チームが翻訳・編集していますので、英語力に自信のない方でも、安心して世界の経済情勢に触れることができます。

また、言語も日本語はもちろんのこと、英語・スペイン語・中国語版も対応していますので、現在の経済情勢をテキストに、英語力を身に付けるにも有効な方法といえます。

今なら、『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)日本版』デジタル版にフルアクセス可能で3ヶ月100円のキャンペーン中です。

閲覧可能な記事のなかには、〝機関投資家のバイブル〟とさえ呼ばれているBARRON’S (バロンズ)の日本語記事も含まれています。

日本国内のニュースソースでは詳しく知ることのできない情報を、『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』でしか読めないニュースと分析記事をタイムリーに知ることによって、あなたの視野を広げてみませんか。

きっと、あなたのビジネスや投資に大いに参考になると確信しています。



最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

文中参考並びに一部引用:
「サンデー毎日」1973年21号『韓黎改め範統万寿氏の知られざる素顔』『在日外人の富力ー財産づくりの知恵とバイタリティ』
「サンデー毎日」1973年第23号『異国で〝妻の座〟を追われた私--億万長者韓黎氏の前夫人は語る』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です