人物伝

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大藪春彦本人の食事シーンは小説よりも奇なりだった!

小説の食事シーンは魅力的です

はる坊です。

映画やTVドラマで食をテーマにしたモノには人気があります。
その原作となっているのは、漫画や小説であることが多いです。
コミック作品がアニメ化されるのは珍しいことではありませんが、映画化やTVドラマ化されるのは、一般的にグルメものは視聴者にウケがいいと制作サイドが考えているからではないでしょうか。

漫画なら
『孤独のグルメ』(原作:久住昌之 作画:谷口ジロー)
『ワカコ酒』(新久千映)
『忘却のサチコ』(阿部潤)
『サチのお寺ごはん』(かねもりあやみ 原案協力:久住昌之 監修:青江覚峰)
『ラーメン大好き小泉さん』(鳴見なる)

などなど。

小説においても、
村上春樹や池波正太郎の料理や食事シーンの描写は特に巧みです。
村上作品の料理については『村上レシピ』として出版されていますし、池波正太郎はグルメについてのエッセイや生前愛した店をまとめた本も出版されています。

また、
『強運の持ち主』(瀬尾まいこ)
『食堂かたつむり』『喋々喃々』(小川糸)

の食に関するシーンは魅力的ですし、

『みをつくし料理帳』(高田郁)に至っては、この作品内に登場する料理のレシピ集『澪の料理帖』が出版されるまでになりました。

基本的に、作中の料理や食事シーンは、著者が、

「このキャラクターならこんなメニューが好きだろう。似合うだろうな」
とか、
「このキャラクターにはこういう料理を作らせたい」

という願望や読者サービスで描いているケースが多いのではないかと思います。
無論、作者の趣味・趣向が反映されていることはいうまでもありませんが。

大藪春彦作品は昭和時代を映し出す鏡

そんななか、日本におけるハードボイルド小説の先駆者である大藪春彦は、作中のキャラクターと作者自身を同化させている人物であったと思います。

『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』が代表作になると思いますが、早稲田大学教育学部英文学科在学中に『野獣死すべし』を発表して、一躍〝売れっ子作家〟となった大藪は、これまでの貧弱な食生活に復讐するかのように、好き放題に食材を買い込み、外食に出掛けます。

実際のところ、大藪自身は『野獣死すべし』がベストセラーとなり映画化された(大藪が映画化の際に受けとった原作料は大卒初任給1万3000円の時代に50万円でした)といっても、専業作家・筆一本の生活に不安を覚えて、教員免許取得を目指して都内の私立女子高で教育実習をおこなっています。

ただ、その実習で黒板に銃の絵を描いて女子高生相手に銃の構造を説明したところ、現場の教師に怒られたエピソードもあるようですが。
また、卒業論文も執筆しましたが、作家稼業が多忙になり、結局のところ教員免許取得はできないまま早大を中退しています。

さて、大藪作品の特徴は、銃やクルマなどのメカニックについての描写が延々と続くイメージがありますが、実際のところは、作中全体にあらゆるもののディテールが盛り込まれています。

例えば、1960年代に書かれた大藪作品を読むと、時代背景や舞台となった場所の様子が克明に書かれています。
1970年代に描かれた作品も同じです。

大藪春彦は作品執筆中に少しでも気になることがあると、徹底的に調べ、時には自ら赴いて場所を正確に確認することを怠りませんでした。

そして、これは食事に関してもです。

大藪春彦の食生活

大藪春彦は早大在学中の1958年(昭和33年)に『野獣死すべし』でデビューを果たし、一躍ベストセラー作家となると、23歳の若き青年作家は、小説執筆のエネルギー源として、買い物かごいっぱいに食材を買い込みます。

“「毎日、モツの焼き肉2キロ。カニだとでっかい毛ガニ三匹。マグロだとネギマ用の骨つき大なべにいっぱい」”
(引用:大藪春彦『荒野からの銃火』1979年 角川文庫より)

1961年(昭和36年)に、大藪は静龍子さんと結婚します。
龍子さんは日本大学文学部卒業後に、森脇文庫の『週刊スリラー』の編集者となり、大藪の担当編集者になったのが縁でした。

1996年(平成8年)2月26日に大藪春彦は61歳で亡くなります。
大藪と縁の深かった徳間書店では、その年の7月に『問題小説 増刊号 大藪春彦の世界』を出版しています。

この雑誌で、森村誠一と船戸与一が対談をしています。
そのなかで、大藪の早世を悼みながら、

“船戸:「前に大藪さんと対談したときに、新婚当初に夫婦ですき焼きとなるとだいたい一キロ肉を買ってきたというんですね。いくら何でも奥さんは、二百グラムも食えばいいと思うんですよ。そうしたらやっぱり大藪さんが八百グラム食っている(笑)」

森村:「めちゃくちゃなパワーですよね」”

という箇所がありますが、実際に大藪春彦と船戸与一が対談をした『諸士乱想 トーク・セッション18』(1994年 ベストセラーズ)を読むと、

大藪は、“「(龍子夫人と)ふたりですき焼きをするときには、肉を三キロ入れて食った」”

と語っています。

大藪春彦も船戸与一も故人となったいまでは、確認の仕様もありませんが、当時は、今よりも高級品だったすき焼き用の牛肉を大量に食べていたことだけは間違いないでしょう。

気に入った食材・食事には徹底的に凝る

イノシシのすき焼き

作家デビューを果たし、一躍流行作家となった大藪春彦は膨大な原稿を書きながら、狩猟にも精を出します。

あるとき、友人が和歌山県有田市にイノシシ猟に行き、大成果を挙げた報告を受けた大藪は居ても立ってもいられず、仕事を無理矢理に片付けて、勇躍、有田に向かいます。
大藪もイノシシ猟で大きな成果を挙げて、夜には地元の人と酒を飲みながらイノシシ肉を平らげます。

これが3日続いたあと、すっかりイノシシ肉を気に入った大藪は、お土産に大量のシシ肉を持ち帰り、東京でもイノシシ肉のすき焼きを楽しみます。

しかし、このときの大藪は鯨飲馬食で血圧が上昇していました。紀州でイノシシを追い続けていた3日間は汗まみれになって活動しているからいいのですが、東京で手先しか動かさない日々に戻ると、慢性的な睡眠不足と精神的な疲労もあり、大量の鼻血を鼻から吹き出す仕儀となります。
(イノシシ肉を大量に食べ続けると赤血球を破壊する作用があるようですね)

それでも、編集者は横で原稿を急ぐようにせっつきますが、ついに意識が朦朧としてきた大藪は病院に担ぎこまれて、1ヶ月ものあいだ、輸血を受ける羽目になります。
そのあいだも、大藪は口述筆記で仕事を続けなければなりませんでした。

世界中のチーズを味わう

1963年(昭和38年)頃には、チーズに凝ります。
世界中のチーズを収集して、グリュイエールをパンと同じ厚さに切ってロシアピクルスと一緒にサンドイッチにしてパクつきます。

しかし、ブルーチーズは分厚く切るのではなく、薄く切って2,3切れつまむほうが風味を味わえるとの結論に達します。

ちなみにチーズについては、一体どれだけの量を集めたのか、最後には冷蔵庫から耐えがたい肥だめのようなニオイを発し出したというオチがつきました。

BAR OYABU オーナーバーテンダー・大藪春彦

この頃には、酒も自家製カクテルに凝り出します。
ウォッカ・マルティーニ(ウォッカ・マティーニ)をストリーチナヤ(ストリチナヤ)のウォッカを2本分痛飲します。

また、自家製カクテルでは、ジンフィズに凝った時期もあり、各社の担当編集者は、バーテンダー・大藪春彦に付き合わされることになりました。

ボロニアソーセージ・レバーソーセージがお気に入り

また、ソーセージにも凝りました。
大藪はハムが好きではなく、ソーセージが大好物でした。
ソーセージのなかでも、ボロニアソーセージやレバーソーセージがお気に入りで、1万円分ほどを買い込んでは、3日と保たず食べ尽くしました。

ちなみにこの話は1966年(昭和41年)に発表されたものです。
当時の大卒初任給は24,900円。
そんな時代に、1万円分のソーセージを3日足らずで食べ尽くしてしまうエネルギーには驚かされます。

「男の料理は俺に任せろ!」シェフ・大藪春彦

大藪春彦は自分で料理をすることもありました。

自信のメニューはカツオのたたき、ビーフステーキ、ローストビーフ。

ときには、家族で、そして自宅に集った仲間に振る舞い。好評を博したようです。

自身の作品世界に登場する主人公・伊達邦彦 朝倉哲也 北野晶夫 西城秀夫 石川克也 杉田淳たちが好むメニューを大藪自身も好みました。

肉類だけではなく中華料理や魚介類も好物

元々、大藪は中華料理好きでしたが、香港に取材旅行に赴いた際に現地で味わった美味が忘れられず、帰国後は、“「同じような味にめぐり会いたい」”と横浜中華街を一軒一軒試し歩きます。
大金をはたいて、巡礼者のごとく中華街をうろつきますが、満足できる店が見つからず、ついにあるお店で〝アワビのハラワタのからあげ〟を見つけたときは、感動をしたようです。
(これは馳星周の『マンゴープリン』のエピソードと少し似ていますね。)

また、大藪春彦=肉類・ステーキというイメージがありますが、海産物も大好きで、新潟に猟へ出掛けた際には、寒ブリと子持ちスケソウダラ、そして越後米の味に感激しています。

ウニ・アワビ・エビなどは、わざわざ新鮮なものを求めて、海岸にある店に食べに出掛け、晩酌の肴に刺身を食べるときは、最低3人前を食べないと気が済みませんでした。

海外ハンティングと野性の味覚

大藪春彦は1964年(昭和39年)の終わりに、東南アジアとヨーロッパを訪れます。
そして、〝アブランド・ゲーム〟と呼ばれる、ヤマドリ・キジ・コジュウケイなどを標的とする猟にのめり込みます。

そして、1970年代に入ると、本格的に海外にハンティングに出掛けるようになります。

1972年 アラスカ

1973年 ニュージーランド・オーストラリア

1975年 アフリカ・ザンビア

1977年 モンゴル・ハエ・アルタイ山脈、カナダロッキー、モンタナロッキー

1980年 アフリカのサファリ

1981年 アメリカでシューティングツアーに参加

1982年に急性膵炎に倒れるまで、世界中で〝ザ・ビッグ・ゲーム〟を続けました。

そのなかで、野性の味に舌鼓を打ちます。

大藪曰く、

・ムース(大ヘラジカ)は、ステーキやカツレツにすると美味い。

・赤シカはステーキやシチューにするといい。ただしメス。

・ナイル川を泳ぐナイルワニの尻尾は、エビの味に似ている。

・象の鼻はゼラチン質。

・オーストラリアのオオトカゲのしっぽの蒸し焼きは、イカの生干しそっくりの味。

前述しましたように、1982年に大藪は膵炎に倒れます。そして、亡くなるまでに3度の入院を経験して、最後までこの病に悩まされることとなります。

晩年の大藪春彦は、酒もほとんど飲まず、タバコも1日5本までに制限されます。

それでも、退院後は、ラーメンを食し、やがて大盛りを頼むようになります。

最晩年は、自宅近くのそば屋の天盛りを好みました。(もちろん、大盛りです)

1996年2月26日 夕方近く 大藪春彦はこの世から旅立ちました。

享年61。

最後に食したのは、龍子夫人とともにした昼食で出された甘塩鮭でした。
自分のぶんを平らげると、龍子夫人の分まで手を付けます。

大藪春彦は、最後までグルマン・食いしん坊を貫き通しました。

大藪春彦の愛犬チリーも食いしん坊だった

大藪春彦は鳥猟の相棒として、チリーと名付けたセッターを千葉県のハンターから譲り受けました。

大藪の相棒として、そして猟犬としては優れていましたが、大藪が仲間と狩りに出掛けて、仲間が撃った鳥は口にくわえて戻ってこずに、土の中に埋めてしまうという癖もありました。

ある日、大藪が家族とともに自宅に戻ると、異臭が漂っていました。

チリーが大藪の酒の肴であるスルメを大量に食べて、水を飲み、胃の中で膨らんだスルメを吐き出していたからです。

ビックリする大藪家の面々をよそに、チリーは洋室でグーグーと大いびきをかきながらお休み中でした。

チリーは、大藪の晩酌風景を見ていて、スルメに興味を持ったのでしょう。

家庭に飼われる犬としては、少し間抜けな面があったようですが、チリーは大藪家にとってかけがえのない家族だった、と思います。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その5

預金証書を武器にノンバンクから巨額の金を獲得する

はる坊です。

その4では、杉山治夫がどのように金融債権を回収していたか、そして、限りなく残酷にみえる杉山の意外な一面、そしてバブル期の不動産への進出についてご紹介しました。

続いて、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

杉山の新たな標的、それはノンバンクでした。

ノンバンクは百戦錬磨の杉山にとって、格好の狩り場となったのです。

ノンバンクは銀行に比べて、貸す相手の身元審査も緩く、融資可能と判断すればドンドン金を貸しました。

担保としては土地が一番確かですが、杉山がおこなったのは、〝銀行預金証書〟による巨額の〝パクリ〟でした

時は、バブル経済期、金あまりで融資先を血眼で探していたノンバンクは、杉山にとって、赤子を捻るような存在でした。

もちろん、杉山は詐欺罪に問われないように、合法・非合法スレスレに身を置いて、完全金融犯罪を目論みます。

杉山がまず取り込んだのは、銀行員でした。

高額の給与を得ている彼らですが、毎日のように億単位の融資話が決まっていく中で、自らの収入に不満を持っていることに、目を付けたのです。

そんな不満を抱えている銀行員を、杉山は口八丁で持ち上げ、酒と女性の接待を繰り返して、取り込んでいきます。

すっかり杉山の忠実な僕と化した銀行員は、支店長に、杉山グループの信頼度や将来性を吹き込んで、大型の貸付先として有望であると吹き込みます。

無論、杉山もその支店に相当額の預金をおこないます。

そうすると、支店長との付き合いも始まります。
すでに、手先となっていた銀行員から、支店長の個人情報を掴んでいた杉山は、接待に加えて、封筒に入れた100万円の裏金を渡します。

最初は、淡々と杉山に接していた支店長も、度重なる接待とその都度渡される裏金によって、杉山に取り込まれていきます。

3ヶ月が過ぎると、支店長の金銭感覚も狂いはじめ、杉山の裏金を頼りにするようになりました。

そこからが、杉山の本領が発揮されるときです。
預金証書を多めに作ってくれるよう、耳元に囁くのです。

一瞬は、躊躇する支店長ですが、一度くらいはいいかという気持ちで、翌日には、預金証書を杉山に渡すことになります。
これから、杉山の餌食となることも知らずに・・・

預金証書を偽造して、それを担保にノンバンクから金を借り、それがバレれば即逮捕ですが、杉山は本物の預金証書を、現役の銀行員に用意させていたのです。

その預金証書の金額は、実際の預金証書の数百倍の額が記入されていました。

杉山は、この預金証書を担保に、ノンバンクから巨額の融資を受けます。

利子の返済はすべて手形によっておこないました、最初は500万円程度、そしてノンバンクからの信用度を深める為に、1000万円、2000万円、3000万円、5000万円と額を上げていきます。

ノンバンクの金利は銀行に比べて高額ですが、杉山はこの金利を気前よく払います。ノンバンクの幹部にも、杉山は例の接待攻勢で近付いていきます。

杉山率いる杉山グループの傘下企業は無数に存在しました。

その傘下企業に銀行の預金証書を担保にノンバンクからどんどん融資をさせていったのです。

やがて、銀行の支店長からは泣きが入ります。
これ以上、預金証書の件は、勘弁して欲しいと。

ここで杉山は本性を現して、支店長に預金証書をドンドン持ってくるように迫ります。

いつのまにか、杉山との立場が完全に逆転していたことを知った支店長は青ざめながら、あらためて自分の置かれた地位が断崖絶壁にあることを悟ります。

支店長は、杉山のいいなりになる駒に過ぎなくなっていました。

杉山グループ傘下の企業は、ほとんどが実態の経営状態にないダミー企業でした。

あるとき、そのダミー企業群から相次いで不渡り手形が乱発されます。

1989年、総額1200億円の巨額の不渡り手形を出して、ダミー企業はどんどん偽装倒産をしていきました。

杉山は、1200億円の巨額資産を得たことになります。

被害にあったノンバンクは20数社に及ぶと杉山は語っていますが、杉山自身にどこまで良心の呵責があったかどうか。

この件に関しては、羊が狼に喰われるのはあたりまえだと思っていたと感じます。

大阪の女相場師と呼ばれた料亭経営者・尾上縫との違い

バブル経済期に、大阪で女相場師と呼ばれた尾上縫という女性がいました。

1930年に奈良県で生まれていますが、生い立ちは貧しいものでした。

結婚生活にも破れ、料亭の仲居として過ごす中で、関西の有力財界人のお眼鏡に叶い、自分の料亭を構えるまでになります。

尾上は、一介の料亭の女将でしたが、博才のあった女性のようで、ギャンブルやどの銘柄の株が上がるかなど、次々に当てては、周囲を驚かせていたようです。

そしてバブル期に突入すると、大阪・北浜では、

「あの料亭の女将が上がると言った株は必ず上がる」

と噂されるようになり、証券マンたちが彼女の元へ日参するようになります。

尾上は、後ろに証券マンたちを跪かせては、祈祷をおこない、

「○○株は上がるぞよ」

「○○株は下がるぞよ」

と、まるで神がかり的な存在であるかのように見せては、預金証書を担保にノンバンクから、株式投資用の資金を借り集めて、派手に儲けていました。

バブル期は、株価がどんどん上がっていった時代です。
そんな、わけのわからないまじない師のような真似をしなくとも、株式投資で利益を得ることは簡単だったはずですが、自らの力を大きく見せることと、大勢の男たちが自分に跪く快感に、尾上縫は溺れていきました。

尾上も預金証書を担保に、ノンバンクから資金を借り入れていましたが、この預金証書は、偽造したものでした。

完全な詐欺です。

バブルが弾けた1991年8月13日、尾上縫は逮捕されました。

金融機関からの総借入額は何と2兆7700億円。
偽造した架空預金証書の総額は7400億円に上ったといわれ、うち東洋信用金庫は、この巨額詐欺事件が主因となり経営破綻しました。

結果、尾上縫は、破産手続きをおこないますが、その額は負債総額4320億円という個人としては史上最高額でした。

尾上はその後、実刑12年が確定。

仮釈放後の2014年に亡くなっています。

さすがの杉山治夫も、尾上がでっち上げた架空預金証書の総額には驚きを隠せなかったと語り、バブル経済についても、

「所詮は、バブル。いつしかみずからもはじけて消える。はかないものだ」

という感想を残しています。

バブル後も生き残った杉山治夫 そして全国金満家協会

バブル経済崩壊で、次々と名を馳せた人々が破滅していくなかで、杉山治夫はしぶとく生き残ります。

しかし、1990年6月25日に恐喝事件の共犯として逮捕された経験を持っています。

この件について杉山は、

「事実無根だった」

と語り、連日朝6時から深夜12時までに及ぶ取り調べにも抵抗します。

また、毎日、500万円から5000万円の金を差し入れさせて、弁護士費用が潤沢にあることを示した上で、7人の敏腕弁護士による弁護団を結成、杉山本人も一切食事を取らないハンガーストライキをおこなって、検事たちを慌てさせます。

独房に入れられていたとき、久々に味わうひもじさに、杉山は極貧時代を思い出し、感傷的な気持ちになったと語っています。

「そういやあ、わしも昔は庶民やったんや・・・。いやいや、庶民よりももっと低い生活をしていたんや・・・。いつのまにか、そのときのことを忘れかけていたのかもしれんなあ」

結果、7月16日。

杉山は不起訴処分となって釈放されます。

この件に関しては、無実でしたが、杉山はまったく〝シロ〟の人間ではありませんでした。

1985年に、杉山は550億円の脱税容疑で、国税庁に踏み込まれたことがあります。
しかし、脱税の時効を迎えていた為、結局は、脱税の罪に問われることはなかった、と語っています。

また、バブル期には〝株式会社 全国金満家協会〟という会社を立ち上げ、〝驚異の高収益事業〟として、資金を集めます。

総資産550億円 配当率 年1割以上保証、1989年・1990年は連続配当率2割をうたいました。

杉山の手掛けていたビジネスからすると、出資者から年に1割~2割の配当を支払っても、杉山の元には、余りある巨額の金が舞い込んでいたのでしょう。

自らを〝金儲けの生き神〟と称した杉山治夫。

1992年に放送を開始した『浅草ヤング洋品店』(通称『浅ヤン』のちの『ASAYAN』)にも、愛人兼本妻(結局、愛人なのか本妻なのかどっちだ?)のゆかりさんという女性とともに登場しています。

このあたりまでが、杉山治夫の人生が輝いていた時代といえると思います。

人間には、その能力を最大限に活かせる期限があると、私は考えています。
いかに恵まれた能力や才能を持っていても、時間とともに消費されていきます。
また、時代も変わっていきます。

ここらで引退宣言をして、余生を過ごせば良かったのかもしれないと感じます。

例えば、これまでの経験を語りおろして小説や漫画原作にすれば、リアリティのある面白いものができたのではないかとも思います。

しかし、持って生まれた杉山の本能は、留まることを知りませんでした。

2002年3月21日 杉山治夫逮捕。そして獄中生活へ

時代は流れ、2002年3月21日に杉山治夫は逮捕されます。

偽造した借用証書を使用して民事訴訟を起こし、相手から金銭をだまし取ろうとした訴訟詐欺の疑いでした。

杉山治夫64歳でした。

公判で、杉山は暴れに暴れます。

被告人席に座らず、傍聴席に向かって、「おまえのせいだ」と叫び、果てには「俺は天皇の孫だ」とまで、法廷にその叫び声を響かせます。
公判は休廷を挟みながらおこなわれました。

杉山は、長期間の実刑判決が下ることを、その法知識から確信していたでしょう。

少しでも、刑を軽くする為、あわよくば逃れる為、精神異常、精神耗弱状態にあることを装いたかったのかもしれません。

しかし、それは無駄なあがきでした。

2003年4月17日、杉山治夫に対して東京地方裁判所は懲役7年6ヶ月の実刑判決を言い渡しました。
求刑は8年でしたが、ほぼ求刑どおりの判決が出たことになります。

収監された杉山は、2009年に癌で死亡します。
獄中死でした。

その死は、公にされることはありませんでした。

理由として、杉山は多くの愛人を抱えており、そのあいだには子どもも儲けていたようです。
いわゆる相続問題を表に出したくなかったことが考えられます。

そして、現在・・・

杉山治夫亡き後、杉山グループの企業はこの世からなくなっています。

日本百貨通信販売も全国金満家協会も登記簿は既に閉鎖されています。

杉山が稼ぎに稼いだ巨額の資産も、いまでは散逸しているのではないでしょうか。

獄窓で杉山が何を思っていたか。

癌による死の寸前、杉山の脳裏によぎったものはなにか。

それを知りたい気持ちはありますが、知る術はないでしょう。

極貧の生い立ちから商売人として成り上がるも2度の倒産を経験して、金融業にばく進していった人生。

極悪人と自他ともに認め、金と刺激を求め続けた71年間の生涯でした。

杉山治夫の名言

最後に、杉山治夫が残した言葉から、名言と呼べるものを選んでみました。

案外、まともというか、金科玉条にしてもいいくらいのことを言っています。

「会社が潰れても、別会社を作ればいくらでもチャンスは転がっている。わしもここまで来るのにたくさんの会社を潰してきた」

「杉山流金銭哲学を伝授しよう。傘一本の理論。こう呼んでいるのがわしの根本的金銭哲学だ。雨の日に傘を持ち合わせていない人は、傘を買おうとして平気で財布を開いてしまう。これでは金を残せるわけがない。雨の日には傘は落ちてはいない。ならば晴れの日はどうだ。手持ち無沙汰になったり、いらなくなった傘が無造作にそこらじゅうに捨ててあるではないか。晴れの日に傘を拾い、雨の日に使う、これが傘一本の理論だ」

「ルンペンを見習うことだ。連中のほうがあなたよりも金を残しているかもしれない。衣食住すべてただの生活をしているのだ。ちょっとでも働けば金が残る計算になる。ルンペンになった気になればなんでもできる」

「金はないところには集まらない。金はあるところに集まるものだ。さみしがり屋の金どものために、まずは彼らの友だちを作ってやることだ。それがいつのまにか増えて、次へとステップを踏ませてくれる」

「金が金を呼ぶ。たまったらわしのようにマネーゲームと思って、何かをするもよし、負けても命をとられることはめったにない」

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
特に、その1から読み続けてくださった方には、厚く御礼申し上げます。

杉山治夫の生い立ちから知りたい方は、こちらからお願いいたします

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

その2・その3・その4の杉山治夫の記事を読んでくださる方は、こちらからお願いいたします。

その2

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

その3

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

その4

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!
(※杉山治夫の自著のなかでは、この本が一番のおすすめです)

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

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日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身とは

はる坊です。

その3では、杉山治夫が唯一尊敬していた人物・小林大二郎氏に諭され、組織を抜けることを決意し、東京に移り住み、川崎で一年間のヒモ生活を送りながら100万円を元手に金融業を始め、翌年に東京・新宿に拠点を移し、金融債権取り立て屋として名を馳せて、日本百貨通信販売を核とした杉山グループの形成までをご紹介しました。

それでは、引き続き杉山治夫の生涯をみていきましょう。

1983年に貸金業規制法(サラ金規制法)が制定される以前は、貸金の取り立てはまさにやりたい放題だったと杉山が述懐しています。

では、〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身をみていきましょう。
これは、サラ金業者に広く伝わり、現在では当たり前、いや、それ以上のことをする業者もいるかもしれません。

ただし、絶対にマネをしたりしないでください。

もし、あなたがマネをして不利益を被ることがあっても、私は一切責任を持ちません。

岡田法律事務所

杉山の元に金を借りに来る人間は、そもそも他の消費者金融から相手にされなくなった人間でした。

そんな彼らに、杉山は金を貸します。それは、どんな相手からでも取り立てる確信があるからです。

貸金の返済期限が過ぎると、日本百貨通信販売 管理本部に関係書類が上がってきます。

ここには、借主の住所・氏名・家族構成・勤務先などが明記されています。

まずは、女性社員が電話連絡を入れて、返済を求めます。

あくまでもやんわりとした口調で、返済意志の有無を確認します。ここで、相手に返済意志があれば、少しの猶予を与えます。

電話が掛かってきた時点で、杉山がどんな人物か、杉山グループがどんな存在かを相手が知っていれば、借主は慌てて返済をしてきたといいます。

しかし、借金に慣れてのらりくらりと返済を渋る態度を見せたり、行方をくらませたりする客も出てきます。

そのときには、〝杉山式幸福の手紙〟なるものが借主に送られます。

杉山治夫 催告状

一番はじめに送る、〝催告状〟と大書きされたハガキは、縁も印字もすべて真っ赤なインクで印刷されています。

こんなハガキを受け取ったら、一体、何事が起こったのかと思います。
このハガキの効果は抜群で、多くの借主は不気味さを覚えて返済をしてきたようですが、それでも、居直って返済をしてこない人間もいます。

そんな人間に対して、〝杉山式幸福の手紙〟はどんどんエスカレートしていきます。

何だか文面がとんでもなくとんちんかんでですが、これはわざとだと杉山が語っています。

読む者に不安感を抱かせるのが一番の目的だと。

このあたりについては、感心はしませんが、長年の経験からか、杉山が人間心理を読むのに長けていたと感じます。

行方をくらませた債務者へ仕掛けるワナ

杉山の取り立てに耐えかねて、行方をくらませる債務者もいました。

ところが、杉山はそんな債務者からも、取り立てを成功させています。

行方をくらませたものの、自分の家がどうなっているかが気になり、闇に紛れて、家の様子を探りにくるのが、人間の心理だと杉山は見抜いていました。

そこで、郵便ポストにこんな返信用ハガキを入れておくのです。

送り主は『日本運命学協会 抽出者現金送付係』

裏面には、債務者に希望を与える文面が書かれていました。

「よかったですね。おめでとうございます」

続けて、あなたに1,620円が当たったという報せが書かれていました。

更に、ダブルプレゼントとして、最高賞金100万円が当たるチャンスの申込書も添えられていました。

債務者は、『日本運命学協会』など知りません。
普通なら気味悪がって、破り捨ててしまうところです。

しかし、切羽詰まった債務者は、ワラにもすがる気持ちで、返信用ハガキに、現住所を書き込んで投函してしまうのです。

『日本運命学協会』の所在地は、東京都豊島区東池袋。

これも、杉山が自らの拠点である新宿区内だと、債務者に勘づかれる恐れがあると、まったく関係なさそうな東池袋に所在地をもってきたのでしょう。

やがて、日本運命学協会を名乗る人間から、債務者に電話連絡が行き、家にいることを確認してから、債務者の元へ向かい、当選金1,620円を手渡しで渡します。

「おめでとうございます。本当によかったですね。これもあなたが常日頃真面目に生きてきたからですよ

債務者(当選者)はありがたそうに賞金を受け取ります。

ところが、現金を渡してくれた柔和な顔をした男の後ろに、獰猛な顔つきの男たちがいることを知って愕然となります。

当選金1,620円をキチンと渡した上で、借金を返済するように強く迫ります。

子どもだましのようなやり口ですが、金に困り、切羽詰まった人間が相手なので、この方法は面白いほど決まったようです。

しかし、1,620円を受け取り安堵している債務者が、そのすぐ後ろに杉山グループの取り立て人が控えていたことを知るやいなや、まさに天国から地獄で、発狂してしまった例もあるようです。

名村法律事務所

杉山グループの本拠地は、なぜ新宿二丁目にあったのか?

さて、杉山治夫とそのグループの拠点は、新宿二丁目にありました。
新宿二丁目といいますと、ゲイバー・ゲイスポットが乱立している場所です。

なぜ、杉山はこの場所に拠点を構えていたかというと、その理由を杉山は、

「わしの俗悪趣味にぴったりだったから」

と語っていますが、この言葉を額面通りに受け取るのは早いと思います。

前述したようにゲイバー・ゲイスポットとして知られる新宿二丁目に拠点を構えることで、不気味さを演出する部分もあったとは思います。

しかし同時に、現在のようにLGBTや同性愛に理解がなかった時代。
そんななかで、たくましく生きている彼らに、世間から忌み嫌われていた杉山は、どこかでシンパシーを覚えていたのかも知れないと感じます。

杉山治夫は、極貧の生い立ちがトラウマになって、弱者に対して必要以上に残酷な取り立てをおこないました。

しかし、必死で頑張ろうとする者には、

「まだ若いんやから、死ぬ気でがんばればなんでもできるやないか」

と励ましの言葉を掛けたり、就職の世話をして、返済の猶予をする一面もあったようです。

-「死んだ気でやればなんでもできるんや」

杉山の取り立て行為はとても許されるものではありませんが、人間は奥深いものです。
鬼畜としかいいようのない言動をみせる人間にも、こんな一面は隠されていました。

しかし、拠点のビル内には、取り立て用のファイルが棚にギッシリと収められていました。

1万件以上の債務者資料が整頓されてファイルされていたのです。

転居者不明・差し押さえ・当て所知らず・執行不要・内容証明・異議申し立て・訴訟和解・興信所調査中・戸籍謄本申請・会社謄本申請・・・

そして、死亡・自殺・一家心中・殺人・逃亡・夜逃げという物騒な項目も。

杉山は取り立て成功率98%と豪語していました。

残り2%は、自殺・一家心中を選んだ方々です。

杉山がどれほど過酷な取り立てをしていたかがわかるエピソードです。

マスコミは、杉山の取り立ての残酷さを報じて、〝極悪人〟の烙印を押しました。

しかし、皮肉なことに、マスコミが杉山を取り上げれば取り上げるほど、〝極悪人〟のイメージが高まりに、杉山の取り立てがはかどったのも事実であったようです。

杉山がマスコミで話題になったときに、取材に来た著名人を紹介すると、フジテレビの須田哲夫アナウンサー・タレントのミッキー安川・漫画原作者の梶原一騎・弁護士の木村晋介・政治家の渡辺美智雄と多士済々です。

いずれも、当時大きな影響力を持っていた人物です。現代的に言えば〝インフルエンサー〟でもあった彼らが、杉山を取り上げるほど、杉山のビジネスは順調に進み、更なるビジネスに邁進していきました。

日本初の腎臓移植ビジネスを手掛ける

杉山治夫は、更なる商売に着手します。

『未来への希望 じん移植 全国腎臓器移植協力会』という不気味な団体を立ち上げ、腎臓移植ビジネスに手を染めるのです。

これには、表に出てこないニーズがあったからでしょう。
杉山の顧客は、都内の上場企業元社長や大地主、また地方の有力者など、

「金で健康が買えるなら、いくらでも出す」

という人物たちでした。

杉山が狙うのは、借金返済にやってくるものの。もう首が回らなくなった人間たちです。
彼らは、自分から臓器提供を杉山に持ちかけるのです。
杉山は本人に意思確認を取り、健康状態をチェックすると、あらかじめ金を掴ませていた医師の元で腎臓移植がおこなわれたようです。

杉山に密着取材していた作家・本橋信宏氏は、その現場に立ち会ったことを、のちに綴っています。

適合性の問題で、どうしても臓器提供者が見つからない場合は、消費者金融で多額の借金を抱えた人間に恩を売り、豪華な食事や酒、そして女をあてがって、説得します。

また、腎臓だけではなく、睾丸まで抜き取って売りつけることもしていたようです。

マスコミに散々叩かれても、杉山はどこ吹く風。

自らを〝現代に蘇った『ヴェニスの商人』のシャイロック〟と呼び、

「借金返せにゃ腎臓を売れ」

-人間の欲望を巧みに金に換えていくのが、自分の錬金術。

-法の裏道は、どこでも抜けられる、それがわしの金銭哲学

と嘯く始末でした。

そんな杉山が50歳を迎える頃、日本はバブル経済に突入します。

バブル期には地上げに進出

バブル経済が始めると、杉山は土地に着目します。

バブル期といえば、同時に株式投資も思い当たりますが、杉山には、株は性に合わなかったようで、あるとき、持株のすべてを売却した直後に、ブラックマンデーが世界の株式市場を襲ったのを見て、やはり自分には土地のほうが合っていると確信したようです。

時は1987年後半。
東京の地価はすでに値が上がりすぎていると判断した杉山は、まだ、値上がりが波及していなかった地方に目を付けます。

第一に、杉山が目を向けたのは、高知県でした。

生まれ故郷の高知で地上げを開始したのです。

杉山自身、イギリス製高級スーツに身を包み、左腕には黄金のローレックスをはめ、足元はイタリア製高級革靴というスタイルで高知に乗り込みます。

東京では、地上げが横行していましたが、高知では、地上げの波は押し寄せていませんでした。
杉山と杉山グループの独壇場となった高知での地上げは順調に進み、やがては、全国に波及していきます。

地上げした土地は高額で売却、あるいは担保にして更なる地上げ資金としていきました。

普通なら、ここでバブルに踊り狂って、破滅の道へ進むところですが、杉山の嗅覚は恐ろしいものでした。

家庭の主婦までが、株式投資に熱中し、一介のサラリーマンが高額の住宅ローンを組んで投資用マンションを争って購入する姿をみて、バブル経済の先行きに危機感を覚えて、バブルが弾ける前に、地上げからスッパリ手を引いていたのです。

何という悪運の強さ。

何という強運の持ち主。

杉山治夫は、まだまだ悪の快進撃を続けます。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(その5に続きます。後日更新予定です)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

杉山治夫が唯一尊敬していた人物

はる坊です。

その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。

それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。

日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。

杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。

やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。

東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。

その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。

といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。

話を少し昔に戻します。

杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。

その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。

その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。

『定通新聞』

その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。

この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。

杉山は、この新聞をよく読んでいました。

一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。

この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。

杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。

杉山も、一、二度はこの会に出席しました。

そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。

杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。

小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。

『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。

しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。

杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。

二度目の東京出張時でも無理でした。

杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。

そして、三度目の東京出張。

同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。

杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。

杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。

翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。

杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。

この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。

しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。

「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」

そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。

それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。

その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。

杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。

しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。

そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。

取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。

杉山から話を聞いた小林氏は、

「わかりました」

とうなずきました。

そして、

「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」

と続けます。

小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。

そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。

「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」

この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。

1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。

杉山治夫東京進出。金融取り立て人として名を馳せる

杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。

杉山が降り立ったのは、川崎でした。

東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。

杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。

川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。

暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。

しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。

ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。

100万円の金は面白いように増えていきました。

そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。

杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。

1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。

それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。

すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。

-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。

地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。

杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。

〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。

連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。

また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。

〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。

それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。

暴力団相手の債権取り立てにも進出する

東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。

十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。

こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。

そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。

杉山は、こんなことを語っています。

「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。

恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。

そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。

かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。

彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。

杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。

殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。

杉山はその場で一本の電話を掛けました。

相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。

「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」

杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。

杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。

日本百貨通信販売を核にして、杉山グループを形成する

杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。

金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。

そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。

社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。

杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。

もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・

杉山は、どこまでも狡猾でした。

暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。

また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。

小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。

数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。

杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。

(その4に続きます・後日更新予定です。)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

杉山治夫も金融業者としての新人時代があった

はる坊です。

その1では、杉山治夫の出生から極貧の少年時代、中学を2年で中退して時計屋に丁稚奉公。17歳で独立して店を構え、その後、家電も扱うようになり、一躍、地域で一、二を争う金持ちとなり、良家の娘と結婚するも、放漫経営が祟って、黒字倒産する羽目になり、そのときに現れた暴力金融業者の元で働くまでをご紹介しました。

今回は、金融業者の元で〝社長秘書〟の肩書きで働き始めるところからです。

後年、名うての金融取り立て屋として名を馳せる杉山治夫ですが、高知の金融業者の元で働き始めた頃は、いくら時計店や家電量販店を経営していたとはいえ、実際の金融業に関して全くの素人でした。

早速、杉山は六法全書や金融関係の専門書を買い漁って勉強を始めました。
しかし、なかなか内容を理解することができなかったのです。

杉山は、(自分には基礎的な学力がないんや)と悟ります。

事実、中学2年の秋に、時計店に丁稚奉公に出て以来、学問とは縁がなく、商売で成功を収めてからは、目先の金儲けと芸者遊びに精をだしていたのですから、こういった書籍に触れたのも生まれて初めてのことでした。

自らの無知を知った杉山は、高知市内の県立高校夜間部に進学します。
(中学校は義務教育ですので、中途退学をした杉山も、おそらくは形だけ卒業扱いになっていたのでしょう)

24歳の杉山は早朝からから夜6時までは、秘書として金融取立業に従事して、夜7時からは、夜間高校で勉強に励みます。

夜間高校に来ている他の生徒は、実家が貧しい為に昼間の高校へ行けない16,7歳の生徒だらけでした。
そんな10代の生徒に交じって、杉山は当用漢字や一次方程式から勉強を始めます。やる気は誰にも負けませんでした。

社長秘書として働いていると、毎日、様々な法律用語が飛び交います。

債権・担保・根担保・公正証書・違法性阻却事由etc.

昼間は、実践を通しての法律の勉強。夜は、高校で国語・数学・物理などを学ぶ日々。

杉山は寝る間を惜しんで、両方の勉強に打ち込みました。

そして、

“「(金融)取り立ては、暴力的手段と法律的手段で成り立つ」”

という持論を身に付けます。

一から、いや、ゼロから金融業を実地で学び、このままこの会社で暴力金融業の道へ進むかと思われた杉山ですが、ここで意外な行動に出ます。

暴力金融業者の社長秘書として勤め始めて半年が過ぎた頃、杉山は社内でナンバー2の地位を得ていました。

しかし、杉山は社長に退職を申し出ます。
自分自身が組織のトップでなければ、とにかく頭に立っていなければ、ダメな性格だということを、ナンバー2になって痛感したのです。

退職を申し出ると、すんなりと認められました。
これは半年間、杉山が粉骨砕身仕事にあたって、会社に莫大な利益をもたらしており、「借りを返す」以上の働きをしていたからです。

再び、実業家の道へ しかし、再び転落・・・

暴力金融業者の元を去った杉山は、妻とふたりでメガネを売ることにします。

このときの杉山には資金がなかったので、商売の軍資金はすべて借金でした。
暴力金融にいた半年のあいだで、地元の商売人には、杉山が切れ者であることは知れ渡っていました。

杉山は、借りられるところから、金を借りまくります。

そして、新たに始めた『杉山眼鏡』も絶好調でした。メガネを大量に仕入れて、従業員を雇い入れ、外交販売で売りまくったのです。
メガネに加えて、時計や宝石も抱き合わせで販売しました。

商売の回転資金はまったく心配をしていませんでした。
杉山の商売がうまくいっているのを見て、商売人たちはますます多額の金を杉山に貸し続けたのです。

メガネ・貴金属の商売と並行して、杉山は金融業にも進出します。
人から借りた金を月九分の利息で、別の人間に貸し付けたのです。

月九分で貸しを複利にすれば、3年後には何と10倍に膨れ上がります。
まだ、金融関係の法整備が甘かった時代でした。

また杉山はホテル経営にも乗り出します。
高知で一番のホテルを建てようと、超豪華ラブホテルを、当時の金で1億2,000万円で新築したのです。
そのうち1億円は借金でした。

多角経営を推し進めた杉山は、金融業に精を出します。
当時の高知には、街の金貸しはそういませんでした。
杉山の独壇場だったのです。

地元の漁民・農家・サラリーマンに金を貸して、高利を取りました。
金主は、地元銀行・地主、さらには他の高利貸し。

しかし、ここで杉山は初めて警察の厄介になることになります。
「借金取り立ての際に、相手を暴力で脅し、かつ監禁せしめた」
のが理由でした。

2ヶ月間近くに渡って留置場へぶちこまれた杉山ですが、一向にへこたれませんでした。

この頃に、のちの杉山グループの中核となる『日本百貨通信販売』を設立。従業員は90名を数えるまでになりました。

プライベートでは長女に恵まれ、商売は絶好調。

しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受けていました。

会社の規模が大きくなり、杉山自身の目の届かないところで、地位を与えていた部下が融通手形を乱発して、市中の金融業者に流れた手形は何と2億円に上りました。

杉山の元には債権者が押し寄せてきます。
この騒ぎで、これまで無尽蔵に金を貸し続けてくれていた銀行・地主・金融業者は、そっぽを向いて、杉山を見捨てます。

さらに、杉山の身に不幸が舞い降ります。

部下が乱発した融通手形の一部が、大阪の暴力団関係の会社に流れていたのです。
その会社のバックにいるのは、関西で有名な暴力団でした。

杉山は金策に奔走しますが、その甲斐もなく経営する会社は倒産。
杉山自身も無一文となります。

そして、杉山は暴力団員に、今後の債務関係について話し合うという名目の元、強制的に大阪へ連れて行かれます。

1971年夏のことでした。
杉山治夫、33歳。

六甲山中に首まで埋められ・・・ そして・・・

暴力団員に大阪まで連れてこられた杉山は、大阪・ミナミの倉庫に監禁されました。
組員たちは、盛んに〝隠し金〟のありかを吐くよう、杉山を脅し続けます。

これは杉山の身に覚えのないことでした。
正真正銘の無一文だったからです。

それでも執拗に組員たちは杉山から金のありかを聞きだそうとします。

“「杉山よお、悪いことは言わん。おまえの隠し金、あらいざらい喋りよったらそれでええんや」”

“「嘗めたらあかんでえ!〝杉山は二億円握ってとんずらきめこんだ〟って話が入っとるんや!」”

そんな金はどこにもありませんでした。
杉山自身、後年、高知で自分のの活躍ぶりを快く思っていなかった者の悪意ある流言だったと綴っています。

精も根も尽き果てた杉山は、

“「もうどうにでもしてくれ、わしは、疲れた。金など本当に無い。借金をしまくって成り立ってきた日本百貨通信販売だ。不渡りを出して金の循環が途切れればぶっつぶれるのはわけもない・・・」”

と悲鳴に近い声を上げました。

すると、暴力団員たちは杉山を縛り上げて、表に停まっていたリンカーンに押し込みます。

そして、ひとりの組員がポツリと発した言葉に、杉山の心臓は凍りつきました。

「もう、金はいらん。そのかわり、おまえ、死ねや」

リンカーンは神戸・六甲山へ向かいました。

山中で車から降ろされた杉山は、さらに奥へと歩を進めるよう命令されます。

そのとき、4、5メートル後ろで若い男が必死に哀願する叫び声が聞こえてきました。

その若い男は暴力団員でした。

杉山から一銭も取り立てられなかった責任を取らされて、スコップで穴を掘らされようとしていたのです。

そして、杉山にもスコップが手渡され、杉山は絶望的な気分のなかで、穴を掘り始めました。

穴を掘り終えると、杉山と若い暴力団員はそれぞれ穴の中に身体を押し込まれます。

他の組員は、容赦なく赤土を穴に被せてきます。

若い組員は恐怖のあまり脱糞して、失神してしまいました。

さすがの杉山も、完全に絶望するかにみえました。

そんな杉山の耳に、野鳥の囀りが聞こえてきました。山鳥の囀りが、ほんの僅かでも杉山を楽観的な気分にさせてくれたのです。

その様子を目ざとく見た初老の男が、杉山に話しかけました。
初老の男は、一味の親分でした。

“「ええ根性しとるのう、われ。殺すのは惜しいがな」”

-この男はわしを救ってくれる!

杉山は本能的にそう察しました。

そして、最後の力を振り絞って、叫びました。

“「親分!わしも男や!危ない仕事でもなんでもする。高知では三ヶ月で一億稼いだ杉山だ。わしを入れてくれ、必ず、あんたんとこの組のためになるはずだ!取り立てをやらしてください。必ず回収してみせます!わし、何年かやってきたから、自信があるんですわ」”

杉山必死の願いは、親分に届きました。
こいつは使える男だと判断したのでしょう。

失神した若い暴力団員も土中から救出され、行きと変わらない人数で、六甲山を下ることになりました。

金融債権取り立て人・杉山治夫の誕生

大阪の暴力団で金融債権取り立て人となった杉山は、イヤというほど暴力の力を知ることになります。
取り立ての凄まじさは、生まれ故郷・高知の比ではありませんでした。

取り立てにいくのは、街のサラ金業者がどうしても回収できない貸し付け金です。

杉山は、入れ墨を見せつけるように胸を開けた数人の暴力団員とともに回収に向かいます。
依頼主の要望に応じて、連日昼夜を問わず、取り立てに赴かねばなりません。
回収した金は依頼主と組との折半です。

回収に失敗すると、組のお偉方に恥を欠かせることになります。杉山は必死で債権の取り立てをおこないました。

杉山の役目は、いわゆる〝止め役〟でした。
交渉の最中で、若いやくざが刃物を机上に刺したり、テーブルごとひっくり返して暴れます。
これが、相手に恐怖を与える〝暴れ役〟です。

頃合いを見計らって、杉山が組員を止めて、口八丁で説得に入ります。

これで90%は回収に成功していたようです。

残り10%の回収に必要なのは、リボルバーでした。

深夜、大阪湾の倉庫裏まで連れて行って、銃をちらつかせるのです。相手の頬に押し当てると、それまで、どんな強がりを言っていた人間も失禁して陥落したようです。

拳銃について、杉山はいい印象を持っていなかったようです。
スーツの内ポケットにリボルバーをしまい込むと、その重みで身動きが鈍くなり、また銃独特の不気味な冷たさが身体に伝わってくる感覚が、たまらなく嫌だったと述懐しています。
殺害用具を所持しているという緊張感と不安感で、さすがの杉山も外を歩くときは必ず震えたようです。

暴力団の取り立てを肌で感じていった杉山は、このままやくざに使われ続けることをよしとしませんでした。

実際に取り立てた回収金の一部をプールして、金を貯めていったのです。

そして、暴力団金融の取り立て人となって3年が過ぎる頃、杉山個人の金融会社を内緒で設立します。

なぜ、回収金の一部をプールして、内緒で金融会社を設立できたのか。

それは、一緒に取り立てに行く組員に小遣いをやって、手懐けていき、完全に杉山の味方にしてしまったからでした。

この頃の気持ちを杉山は以下のように述懐しています。

“「いつまでもやくざの下で使われることに安住しているわしではない。一度は六甲の山奥で首まで埋められた男だ。何も恐れるものはない。髪の先からつま先までどっぷりと暴力の世界に染まったわしは、四国の平凡な成り上がり実業家とはまったくの別人に変身してしまったのだ。人間一度堕ちるところまで堕ちると、その状態で居直るタイプとなんとかまっとうな方向へ歩みたいとあがくタイプがある。わしは完全に前者であり、その居直りぶりも徹底していた。子供時分、とことん弱者の立場にいたわしは、弱い者、虐げられた者を見ると無性に襲いかかりたくなる。同類嫌悪感情。遠い昔の近親憎悪感情のなせる術かもしれない」”

法を犯すか犯さないか、虚実皮膜の回収作業を連日続けた挙げ句、2度留置場へ身柄を拘置され、一度は大阪刑務所に2年半服役します。

それでも、杉山は金融取り立て人としての活動を止めませんでした。

杉山は、地元高知の夜間高校を卒業した後、中央大学法学部通信教育課程に進学して、法律を徹底的に勉強しています。
その法知識、法武装ぶりは、留置場送りとなり刑務所の囚人を経験して以降、さらに磨きがかかり、金融に関する法律では弁護士と同程度といわれるようになります。

関西の暴力団の間で、杉山治夫の名はどんどん知れ渡っていきました。

内緒で設立した、金融会社も順調に伸びました。

しかし、杉山の会社から金を借りた土建業者が、組長に密告した為、この裏会社の存在がバレてしまいます。

代償は、せっかく順調にいっている裏会社の取り上げでした。

このとき杉山は、ここにいるのも、もう潮時だと感じました。
このままやくざの世界に棲み着いても、抜けられなくなるだけだ。
そうだ、東京へ行こう。

しかし、東京へ逃げれば、必ず大阪のやくざを敵に回す。そしてつかまる。
今度こそ、地獄行き・・・

そんななか、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、組員3名とともに東京へ向かいます。

杉山の頭の中には、東京でひとりだけ、自分を助けてくれるかもしれない人物が浮かんでいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(※その3へ続きます)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

借金は本当に怖いです

はる坊です。

いきなりですが、『雪だるま式に』という言葉があります。

続いて『資産が増えていった』なら素晴らしいのですが、たいていの場合、この言葉の次にくるのは『借金が増えていった』ではないでしょうか。

〝借金はできる限りしないほうがいい〟

というのが私の考えですが、住宅を購入する折に、一括で現金払いができるのは、ほんの一部の方で、ほとんどの方は住宅ローンを組んで、マイホームを購入します。
もちろん、私もそのひとりです。

住宅ローンを組むときや借り換えはよく考えておこないましょう。



ローンと言えば、表現がすこし穏やかになりますが、要は借金です。

もし、あなたが何らかの理由で借金をしなければならないときは、まず銀行へ相談に行くと思います。

しっかりとした担保があれば、銀行も貸してくれることでしょう。

しかし、銀行が貸してくれない場合、銀行系ローン、消費者金融・事業者金融に出向くことになります。

銀行以外で借りると、当然のことながら利息は高いです。下手をすると、元金を返すどころか利息も返済できない状況に陥り、ドンドン膨らんでいきます。

あなたの人生を狂わせる原因にもなりかねません。

さて、昭和後期、消費者金融(正確にいうと金融債権取り立て業)を生業として、暴利を貪って、それを自慢。
TVにも出演して強烈な個性を見せつけた男がいます。

男の名は杉山治夫。

まずは、この映像を観ていただきましょう。

杉山治夫 大暴れ映像

ここまでの成金ぶり。悪役キャラぶり。

ふたむかし前のマンガ(というより劇画?)に出てきそうです。
口論の末タレントのミッキー安川と喧嘩をするまでに至ります。
(実は、この喧嘩はテレビ局のヤラセだったことを杉山は自著で暴露しています。)

また、ワイドショーに出演して、観客席に札束をばらまきます。
(実は、杉山はばらまいた1万円札の枚数を憶えており、番組終了後に集めて数えたところ、数枚足りなかったと、これも自著で暴露しています。)

今回は、そんな強烈なキャラクターをもった杉山治夫の生涯を追っていきます。

小学校2年で自殺未遂! あまりに悲惨すぎる幼年時代

杉山治夫は1938年(昭和13年)高知県高知市長浜で産声を上げました。

父親は船乗りで、フィリピンあたりにまで長い航海に出るため、ほとんど家にはいませんでした。

しかし、父親が家に居ないほうが平和だったのかも知れません。

稼いだお金を家に入れることはなく、酒とバクチで使い果たしてしまう人物だったからです。
おまけに愛人を作ってしまいます。

さらに悪いことに、父親がフィリピンで春をひさぐ仕事をしている女性から梅毒をうつされ、それが、治夫の母親に二次感染してしまい、母親は視力を失います。

生家は農家の脇に、ベニヤ板を何枚か立てかけただけの納屋を借りたものでした。
杉山が4歳の頃、日本は戦争中で国民の食糧は乏しくなっていきます。
杉山少年は、目の見えない母の手を引いて、付近の山林を歩きます。

松の葉を手に入れるためです。

石油も石炭も手に入らない時代。この地方では風呂を焚くときには松の葉を使っていました。

杉山は毎日、松の葉を集めます。それしかお金を得る方法がありませんでした。
しかも、いくら松の葉を集めたところでたいしたお金にはなりません。

しかし、母子が生き抜いていくのに、糧を得る手段はそれしかありませんでした。

1945年、杉山は地元の高知市立長浜小学校へ入学します。

しかし、杉山は小学校にほとんど通えませんでした。
松の葉集めと畑泥棒、そして、周囲からのいじめ。
そしてついには、いじめを通り越して、周囲の誰も相手にしてくれない状況へとエスカレート。

1940年には弟も生まれており、杉山家の家計はより悲惨なものになっていました。
学校に行く余裕はなかったのです。

学校へいく余裕はありませんでしたが、杉山は勉強が好きでした。
特に算数が得意だったと述懐しています。

鉛筆もノートもないので、地面に数式を書いて、問題を解いていったのです。

杉山治夫は小学2年の冬、自殺を図ります。

慢性的な栄養失調と厳しい冬の季節も身に付けるものは着物一枚だけ。
冬になると、身体が衰弱して内臓に異常がでていました。
たまに出席した小学校の共同トイレで用を足すと、杉山少年の尿は真っ赤に染まっていました。
何日も何日も、血尿が続くのです。

それを見たクラスメイトは、血尿をする杉山少年をからかいの対象としか見ませんでした。
それから、杉山少年は用を足すのも、休み時間に学校を抜け出し、裏山で小便をすることになります。

自殺場所に選んだのは、納屋のそばにあった汲み取り式のトイレ。
梁に荒縄をくくりつけて首を吊ろうとしたのです。

杉山はのちに自著でこの時の気持ちを述懐しています。

“見るものすべてが悪に見えた。

-なんでこんなに貧乏なんやろ。
-なんでうちだけいじめられるんやろ。
-なんで夏も冬も着物一枚なんやろ。
-なんで腹いっぱい飯喰えんのやろ。
-なんで、なんで、なんで!”

しかし、杉山少年は首吊りの方法を知りませんでした。
何度も板の間で跳ねては、首にまとわりついた荒縄を食い込ませようとしますが、うまくいきません。

そのとき、たまたま母親が用を足しにきました。
母親の顔を見た杉山少年は、ただ泣きじゃくるだけでした。

中学中退、時計屋で丁稚奉公

そんな頃、音信不通になっていた父親が杉山家に戻ってきます。
父親は米の闇ブローカーに転身しており、羽振りが良くなり、近所の土地を借りて小さな家を建てました。

母親の視力も徐々に戻ってきました。

杉山少年は、松の葉集め、そして、道や空き地に落ちている鉄くずを拾い集め、秋には山へ栗を拾いにいきました。
「やっと、うちもしあわせになれるんや」という嬉しさから、これまでの倍以上働きました。

ささやかながらも幸せな家庭が、杉山の身にも訪れる、かに見えました。

しかし、父親は酒浸りとなり、アルコール中毒で働かなくなります。

一家を支えるのは、再び杉山治夫の双肩にかかることになったのです。

1951年、杉山は高知市立長浜南海中学校へ進学します。

杉山が中学生になっても、父親のアルコール中毒は治る気配をみせませんでした。

そして、中学2年に進級すると、杉山はある情報を手に入れます。
地元の小さな時計店が丁稚奉公を探しているというのです。

「給料は出ないが、飯は喰わせてもらえる。時計の修理・分解が主な仕事で、4,5年も我慢すれば立派な時計職人になれる」

杉山少年は一晩考えた末に、中学を中退して、時計店に丁稚奉公へ行くことを決意します。
1952年の秋でした。

いざ、時計店での丁稚奉公が始まりましたが、それは過酷なものでした。
最初は、慣れない作業ですから、時計を分解してネジをどこかへ落としてしまう度に、嫌というほどのビンタの嵐を受けます。

おまけに、朝早くから夜遅くまでの一日15時間労働。

それでも、杉山少年はこの生活に嬉しささえ感じていました。
生まれて初めて、キチンとした布団で眠れ、三度三度の食事にはありつける。
杉山少年にしてみれば、実家で生活しているより、ずっといい環境だったのです。
それだけ、これまでの生活が悲惨を極めていたということになります。

また、この頃に初恋も経験しています。
相手は2,3歳年上の女子高生でした。

毎日、杉山少年が店の前でまき水をしていると、「おはよう」と声をかけてくれたのです。
いままで、杉山少年に挨拶をしてくれる女性などいませんでした。
女子高生にしてみれば、いつもの通学路でみかける丁稚奉公の少年に挨拶をしていただけに過ぎません。

杉山少年は、「おはようございます」と挨拶を返すことができませんでした。
ただ、砂利道に柄杓で水をまくことに没頭するフリをしているだけでした。

杉山は自著で、

“「あの頃のわしにはあまりにも眩しすぎたのだ。デートに誘おうにも無給の小僧には到底不可能だった。わしと彼女の逢瀬はいつも夢の中だけだった」”

と振り返っています。

のちに多くの愛人を作る杉山ですが、こんなウブな時代もあったのです。

17歳で時計店の経営者となる

1956年、杉山17歳のとき、大きなチャンスが訪れます。

丁稚奉公の時計職人として3年間真面目に働き、職人としての腕も確かなものになっていました。

そんなとき、この時計店が大きな借金を抱えていることを知ったのです。
やがて、借金取りが店に来るようになります。

杉山はこの時初めて、金貸しの存在を知りました。

この時計店は、いわゆる〝トイチ〟、十日で一割の利息を取る金融業者から金を借りていて、にっちもさっちもいかなくなっていたのです。

時計店の主人は店を売却して、金を返済する相談を家族としていました。
その額を知った杉山の頭に閃くものがありました。

-これはチャンスかもしれない、と。

3年間の修行中に顔見知りとなった家が百軒近く。なかには町工場の社長や金融業者もいました。

杉山少年は、いそいで実家にいる父親を呼びました。

杉山少年の計画を聞いた父親は、自宅を担保に入れ、杉山とふたりで金策に奔走します。
その結果、高利息の金でしたが、一週間で10万円を借りることに成功します。

杉山は、丁稚奉公をしていた時計店を買い取ります。
看板は新たに〝杉山時計店〟になりました。

時計店の店主との立場も逆転しました。
元店主は、時計職人以外で食べていく術がありません。働く場所は、杉山が買収した、かつての自分の店しかありません。

杉山時計店の経営は順調そのものでした。

といっても、なかなかセコいやり口で儲けていたのです。

まず、中古の時計を大量に仕入れて、分解・修理をしたあと、ケースを変えて新品まがいの商品として大安売りしたのです。

時計は売れに売れました。

中古時計の仕入れが足りなくなると、杉山は密輸品の時計を分解・修理して、補います。

時計店は大繁盛します。

しかし、それで満足する杉山ではありませんでした。

電化ブームに乗って事業の多角化を目指す

昭和も30年代を迎えると、〝もはや戦後ではない〟という言葉が象徴するように、人々が喰うためだけの生活から、豊かな生活を求めるようになりました。

杉山はここで電気製品を取り扱うことを考え、まずは時計店にラジオ・洗濯機・テレビ・蛍光灯を置いて様子をみます。

電化製品の売れ行きは上々でした。

そこで杉山は繁華街にあった雑貨店を買い取って、杉山時計店の移転をおこない、松下電器(現:パナソニック)・ソニー・東芝・日立の製品を扱い、大型冷蔵庫やテレビを大量に仕入れます。



ここで杉山は商才を発揮します。

販売方法を一括ではなく、月賦(分割払い)販売にしたのです。

-6万円の冷蔵庫でも、月2000円あれば買える。

この販売方法は大当たりでした。

家電量販店のハシリといえるでしょう。

-隣の家がテレビを買った。我が家にも欲しい。

-隣の家が洗濯機を買った。我が家にも欲しい。

仕入れた電話製品は、右から左に次々に売れていきました。

杉山は電化製品の販売で大もうけをします。

また、月賦販売については、別の思惑もありました。

「電化製品を購入する客は、地元の人間ばかり。ここは都会ではなく田舎だから知った者同士だ。だから、月賦未払いで逃げることはできない」

20歳にして地元でトップの金持ちに、そして23歳で結婚。しかし・・・

杉山治夫は20歳にして、〝地元長浜一の出世頭〟と評判になり、〝長浜でも一、二を争う金持ち〟と羨望の眼差しで見られる存在になりました。

杉山が一躍、金持ちの仲間入りを果たすと、自然に人が寄ってきました。これまで遊びを知らなかった杉山ですが、大金を懐にして毎晩のように芸者とバカ騒ぎを繰り広げるようになります。

杉山は金の威力の凄さを肌身で感じました。
そして、その金に惹かれて女性が寄ってくることも。

いままでの禁欲的な生活のタガが外れたように派手に遊びまくっていた杉山ですが、23歳のとき、転機が訪れます。

23歳の杉山は、家電量販店5店舗を経営する実業家として、ますます勢いを増していました。

そんな頃、杉山は自分の前を歩いていた、ひとりの女性に一目惚れをします。

もの凄い美人でした。

店の従業員にそのことを漏らすと、相手の素性を知り、何とお見合いのセッティングが整えられることになりました。

お見合いの席で、店の従業員が杉山のことをこれでもかこれでもかと褒めそやし、将来有望であることを相手の女性と両親に吹き込みます。

相手は資産家でしたが、お見合いはトントン拍子で話が進み、あっという間に話がまとまりました。

高知でおこなわれた結婚式は盛大なものになりました。

披露宴は三日三晩続き、仕事先の問屋、友人・知人関係、親類縁者の元へたらい回しにされながらも祝福を受けます。

羨望と嫉妬、そして、驚嘆と畏怖の表情を浮かべる地元民のあいだをモーニング姿で杉山は練り歩きました。

杉山は、「人生の絶頂」と自身で感じるほど、充実したときを迎えたのです。

しかし、転落はすぐそこに待ち構えていました。

電化製品量販店の店舗が増えるごとに、杉山自身の目が行き届かず、放漫経営におちいっていたのです。

従業員が勝手に手形を切り、仕入れを独断でおこなっていました。

そして、突然手形が不渡りとなって、黒字倒産に見舞われたのです。

「うちは儲かっているんだ! なのに、なぜなんだ」

半狂乱になった杉山の元に現れたのは、街金融の仮面を被った暴力団でした。

暴力団員は、杉山に短刀を突きつけながら、不渡り手形をどうしてくれる、と凄みます。

そんな状態でも杉山の頭に閃いたことがありました。

-こいつらは金に弱い。

そして、ヤクザの親分に言い放ちました。

“「親分! いや社長。お願いだ。わしをあんたとこの秘書にしてくれ。こう見えても、わしはまだ長浜じゃ顔がきく。わしの頼みなら金貸しする金持ちも知ってる。お、お願いじゃき!」”

杉山の必死の訴えは届きました。

杉山の元に現れた暴力金融業者は、金を貸し付けたり、大口融資をしてもらうためには、杉山のような販売店ルートと人脈を持った人間が必要だったのです。

結局、杉山の会社は、暴力金融会社に吸収合併される形となり、杉山は〝社長秘書〟の肩書きで、この会社に入社することになります。

杉山治夫が本格的に〝金融業〟と出合った瞬間でした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

(※その2に続きます)

人物伝

直木賞作家の生涯収入9億6400万円 !『復讐するは我にあり』佐木隆三が公表した30年間の収支一覧表

直木賞作家の生涯収入9億6,400万円!

はる坊です。

人間は他人のことが気になる生き物です。
例えば、収入。

あの人は幾らくらいひと月に稼いでいるんだろう?

あの職業に就いている人はどれくらいの年収があるんだろう?
例えば、作家・小説家。

2015年11月、作家の森博嗣さんが『作家の収支』という新書で、“「19年間で、総発行部数1400万部。累計で15億円の収入を得た」”と公表されました。

森さんは、事あるごとに、ご自身を〝マイナ〟であると定義されていますが、

著書はコンスタントに出されており、同時にコンスタントに売れ続けている作家です。

2018年には著書の累計売上数が1600万部を突破していますので、

〝出版巨大不況〟のご時世で、稼ぎは〝超メジャ〟であると思います。

しかし、コンスタントに売れる本を出し続けていると言い難い作家の収入はどうなんだろう?
という疑問が出てきます。

そんななか、2007年(平成17年)に過去30年間の収支を公表した方がいます。
直木賞作家の佐木隆三さんです。

佐木さんが公表された数字ですごい点は、毎年の収入だけではなく、
・経費
・課税対象額
・所得税額
・源泉徴収税額
・差引納付額
と、支出や納税額についても、細かく公にされたことでしょう。

佐木さんの代表作と言えば、直木賞受賞作であり、今村昌平監督・緒形拳主演で映画化された『復讐するは我にあり』ですが、


映画「復讐するは我にあり」 [DVD]

タイトルのせいか、意外にこの作品は西村寿行作品だと思っている方も一定数おられるようです。

ちなみに『復讐するは我にあり』は、新約聖書の(ローマ人への手紙 第12章 第19節)に出てくる『愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」とあり』という言葉の一部であり、これは、《悪人に復讐を与えるのは神である》という意味といわれています。

佐木さんは『新約聖書』の言葉をタイトルに引用した形です。

しかし、最も一般的な佐木隆三さんのイメージは、何か物騒な事件が起きると、

ワイドショーやニュース番組で「作家のサキリューゾーさんは」とコメントをしていたおじさんではないでしょうか。

それでは、佐木隆三さんの30年間の収支一覧表です。

その下に、佐木隆三さんの詳しいプロフィールを紹介していますので、興味のある方はご覧ください。

1976年(昭和51年)~2005年(平成17年)分 佐木隆三 連年収支一覧表

1976年(昭和51年)

収入額:5,288万6,000円
経費額:1,449万9,000円
課税対象額:3,798万7,000円
所得税額:772万4,000円
源泉徴収税額:773万4,000円
差引納付額:-1万円
※備考 『復讐するは我にあり』の直木賞受賞で、前年度より急激に収入が増えたため、課税は平均課税方式がとられている。

出版された著作
1975年11月『復讐するは我にあり(上下)』(講談社)
1976年2月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(新人物往来社)
1976年2月『大将とわたし』(講談社)
1976年5月『狼からの贈物』(河出書房新社)
1976年6月『大罷業』(田畑書店)
1976年6月『ジャンケンポン協定』(講談社文庫)
1976年9月『偉大なる祖国アメリカ』(勁文社)

※『復讐するは我にあり』は1975年11月の刊行ですが、直木賞受賞で43万部を超えるベストセラーとなり、1976年分の収入に大きく寄与しているため、この年に出版された著作に含めました。

1976年に刊行された本の多くは、過去に一度刊行されて絶版状態にあったものや単行本化されていなかった原稿をまとめたものが目立ちます。
佐木さんは、直木賞受賞まで11冊の本を出されていますが、それらが版元を変えたり文庫化されて再度刊行されている形です。

『新宿鮫』シリーズが累計600万部以上の大ベストセラーになるまでに出した28冊ことごとくが売れず(28冊目は『氷の森』で大沢在昌作品の文庫では一番売れているのにわからないものです)、29冊目の『新宿鮫』が大ヒットして、それまでに書いて絶版になっていた本が次々に復刊されて、それらを〝ゾンビ本〟と呼んだ大沢在昌さんみたいな感じでしょうか。

1977年(昭和52年)

収入額:2,590万円
経費額:864万9,000円
課税対象額:1,685万1,000円
所得税額:482万4,000円
源泉徴収税額:269万8,000円
差引所得税納付額:212万5,000円

出版された著作
1977年2月『ドキュメント狭山事件』(文藝春秋)
1977年2月『日本漂民物語』(講談社)
1977年4月『越山田中角栄』(朝日新聞社)
1977年5月『殺人百科 』(徳間書店)
1977年10月『人生漂泊』(時事通信社)

1978年(昭和53年)

収入額:2,626万1,000円
経費額:939万円
課税対象額:1,649万1,000円
所得税額:465万2,000円
源泉徴収税額:268万円
差引所得税納付額:197万1,000円

出版された著作

1978年1月『偉大なる祖国アメリカ』(角川文庫)
1978年1月『実験的生活』(講談社)
1978年2月『閃光に向かって走れ』(文藝春秋)
1978年3月『男たちの祭り』(角川文庫)
1978年4月『詐欺師』(潮出版社)
1978年6月『愛の潮路』(光文社)
1978年9月『続人生漂泊』(時事通信社)
1978年10月『娼婦たちの天皇陛下』
1978年11月『大罷業』(角川文庫)
1978年12月『誓いて我に告げよ』(角川書店)
1978年12月『復讐するは我にあり(上)』(講談社)
1978年12月『復讐するは我にあり(下)』(講談社)

1979年(昭和54年)

収入額:4,963万8,000円
経費額:1,389万2,000円
課税対象額:3,536万7,000円
所得税額:11,787,000円
源泉徴収税額:682万7,000円
差引所得税納付額:495万9,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1979年4月『曠野へ 死刑囚の手記から』(講談社)
1979年5月『事件百景-陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1979年5月『ドキュメント狭山事件』(文春文庫)
1979年6月『男と女のいる風景』(文藝春秋)
1979年9月『無宿の思想』(時事通信社)
1979年12月『錆びた機械』(潮出版社)

※1977年分(昭和52年分)・1978年分(昭和53年分)から収入が大幅に増加しているのは、1979年(昭和54年)4月21日に、今村昌平監督・緒形拳主演で公開された『復讐するは我にあり』の映画化により、講談社から出版された文庫本が版を重ねたのが理由と考えられる。

1980年(昭和55年)

収入額:3,283万8,000円
経費額:1,136万9,000円
課税対象額:2,105万9,000円
所得税額:684万7,000円
源泉徴収税額:352万2,000円
差引所得税納付額:332万4,000円

出版された著作
1980年2月『海燕ジョーの奇跡』(新潮社)
1980年2月『殺人百科 PARTⅡ』(徳間書店)
1980年5月『旅人たちの南十字星』(文藝春秋)
1980年11月『波に夕陽の影もなく 海軍少佐竹内十次郎の生涯』(中央公論社)
1980年11月『風恋花』(潮出版社)

1981年(昭和56年)

収入額:3,570万2,000円
経費額:1,117万9,000円
課税対象額:2,412万6,000円
所得税額:850万5,000円
源泉徴収税額:409万8,000円
差引所得税納付額:440万4,000円

出版された著作
1981年2月『越山田中角栄』(徳間文庫)
1981年4月『殺人百科』(文春文庫)
1981年4月『冷えた鋼塊(上巻)』(集英社)
1981年4月『冷えた鋼魂(下巻)』(集英社)
1981年5月『幸せの陽だまり』(潮出版社)
1981年6月『欲望の塀』(文藝春秋)
1981年10月『日本漂民物語』(徳間文庫)
1981年12月『右の腕』(学習研究社)

1982年(昭和57年)

収入額:4,219万5,000円
経費額:1,506万1,000円
課税対象額:2,873万4,000円
所得税額:1,022万2,000円
源泉徴収税額:468万5,000円
差引所得税納付額:553万7,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1982年1月『大将とわたし』(講談社文庫)
1982年2月『詐欺師』(文春文庫)
1982年3月『殺人百科 PARTⅢ』(徳間書店)
1982年4月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(徳間文庫)
1982年5月『政商 小佐野賢治』(講談社)
1982年5月『我が沖縄ノート』(潮出版社)
1982年6月『土曜日の騎士』(河出書房新社)
1982年7月『新撰組』(文藝春秋)
1982年8月『きのこ雲』(中央公論社)
1982年8月『ジミーとジョージ』(集英社)
1982年9月『娼婦たちの天皇陛下』(徳間文庫)
1982年10月『噂になった女たち』(文藝春秋)
1982年12月『閃光に向かって走れ』(文春文庫)

1983年(昭和58年)

収入額:2,533万4,000円
経費額:1,005万9,000円
課税対象額:1,527万5,000円
所得税額:391万5,000円
源泉徴収税額:312万円
差引所得税納付額:79万4,000円

出版された著作
1983年3月『曠野へ』(講談社文庫)
1983年4月『英雄』(集英社)
1983年6月『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋)
1983年9月『海燕ジョーの奇跡』(新潮文庫)
1983年10月『田中角栄の風景―戦後初期・炭管疑獄』(徳間書店)
1983年10月『波に夕陽の影もなく』(中公文庫)
1983年10月『冷えた鋼塊(上)』集英社文庫
1983年10月『冷えた鋼塊(下)』集英社文庫

1984年(昭和59年)

収入額:3,961万3,000円
経費額:1,493万円
課税対象額:2,468万3,000円
所得税額:783万2,000円
源泉徴収税額:415万6,000円
差引所得税納付額:367万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作

1984年2月『誓いて我に告げよ』(角川文庫)
1984年6月『殺人百科 一』(徳間文庫)
1984年6月『殺人百科 二』(徳間文庫)
1984年9月『男の自画像』(佼正出版社)
1984年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間書店)
1984年9月『殺人百科 三』(徳間文庫)
1984年10月『人生漂泊』(潮文庫)


[まとめ買い] 殺人百科(電子復刻版)

1985年(昭和60年)

収入額:2,615万4,000円
経費額:931万1,000円
課税対象額:1,684万3,000円
所得税額:424万5,000円
源泉徴収税額:297万9,000円
差引所得税納付額:126万5,000円

出版された著作
1985年4月『ありふれた奇蹟』(講談社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(上)』(潮出版社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(下)』(潮出版社)
1985年7月『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(毎日新聞社)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(毎日新聞社)
1985年10月『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫)
1985年12月『犯罪するは我にあり―佐木隆三文学ノート』(作品社)

1986年(昭和61年)

収入額:3,126万9,000円
経費額:1,077万5,000円
課税対象額:2,049万4,000円
所得税額:638万6,000円
源泉徴収税額:338万4,000円
差引所得税納付額:300万3,000円

出版された著作
1986年1月『ジミーとジョージ』(潮文庫)
1986年2月『政商 小佐野賢治』(徳間文庫)
1986年5月『殺人百科〈Part4〉―陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1986年7月『旅人たちの南十字星』(文春文庫)
1986年7月『南へ走れ、海の道を!』(徳間書店)
1986年12月『恋文三十年 沖縄・仲間翻訳事務所の歳月』(学習研究社)

1987年(昭和62年)

収入額:3,315万5,000円
経費額:1,053万9,000円
課税対象額:2,261万6,000円
所得税額:600万1,000円
源泉徴収税額:356万7,000円
差引所得税納付額:243万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1987年4月『華やかな転落』(潮出版社)
1987年5月『男の責任―女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1987年7月『わが沖縄ノート』(徳間文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈2〉』(文春文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈3〉 』(文春文庫)
1987年10月『深川通り魔殺人事件』(文春文庫)

1988年(昭和63年)

収入額:2,279万9,000円
経費額:778万8,000円
課税対象額:1,501万9,000円
所得税額:337万3,000円
源泉徴収税額:246万円
差引所得税納付額:91万3,000円

出版された著作
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(文春文庫)
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(文春文庫)

1989年(昭和64年・平成元年)

収入額:2,883万1,000円
経費額:845万4,000円
課税対象額:2,037万7,000円
所得税額:537万9,000円
源泉徴収税額:297万4,000円
差引所得税納付額:240万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1989年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間文庫)
1989年11月『リクルート帝王の白日夢』(双葉社)

1990年(平成2年)

収入額:3,734万6,000円
経費額:1,220万3,000円
課税対象額:2,514万3,000円
所得税額:647万7,000円
源泉徴収税額:410万5,000円
差引所得税納付額:237万1,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。

出版された著作
1990年2月『バカなふりして生きてみな』(青春出版社)
1990年3月『裁判長大岡淳三』(講談社)
1990年6月『身分帳』(講談社)※第2回伊藤整文学賞受賞
1990年7月『新撰組事件帳』(文春文庫)
1990年9月『別府三億円保険金殺人事件』(徳間文庫)

1991年(平成3年)

収入額:2,961万8,000円
経費額:1,259万1,000円
課税対象額:1,702万7,000円
所得税額:393万6,000円
源泉徴収税額:303万8,000円
差引所得税納付額:89万8,000円

出版された著作
1991年8月『宮崎勤裁判〈上〉 』(朝日新聞社)
1991年9月『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1991年9月『親が知らなかった子の愛し方』(青春出版社)
1991年12月『いま、裁判が面白い』(蒼樹社)

1992年(平成4年)

収入額:5,574万7,000円
経費額:1,883万4,000円
課税対象額:3,619万2,000円
所得税額:1,127万7,000円
源泉徴収税額:576万2,000円
差引所得税納付額:551万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。

出版された著作
1992年2月『恩讐海峡』(双葉社)
1992年4月『法廷の賓客たち』(河出書房新社)
1992年7月『正義の剣』(講談社)
1992年7月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1992年10月『しぶとさの自分学』(青春出版社)
1992年11月『越山田中角栄』(現代教養文庫)
1992年11月『伊藤博文と安重根』(文藝春秋)

1993年(平成5年)

収入額:2,909万円
経費額:1,075万5,000円
課税対象額:1,835万5,000円
所得税額:444万2,000円
源泉徴収税額:332万6,000円
差引所得税納付額:111万5,000円

出版された著作
1993年1月『殺人百科 四』(徳間文庫)
1993年2月『矯正労働者の明日』(河出書房新社)
1993年3月『裁判長大岡淳三』(講談社文庫)
1993年6月『生きている裁判官』(中央公論社)
1993年6月『身分帳』(講談社文庫)
1993年9月『闇の中の光』(徳間書店)
1993年9月『錬金術師の白日夢』(双葉文庫)

1994年(平成6年)

収入額:2,821万5,000円
経費額:874万5,000円
課税対象額:1,922万円
所得税額:362万1,000円
源泉徴収税額:329万6,000円
差引所得税納付額:32万5,000円

出版された著作

1994年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉社)
1994年4月『恩讐海峡』(双葉文庫)
1994年6月『バカなふりして生きてみな』(青春文庫)
1994年7月『死刑囚 永山則夫』(講談社)
1994年10月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)

1995年(平成7年)

収入額:3,049万4,000円
経費額:1,125万円
課税対象額:1,880万4,000円
所得税額:365万7,000円
源泉徴収税額:325万9,000円
差引所得税納付額:39万7,000円

出版された著作

1995年4月『司法卿 江藤新平』(文藝春秋)
1995年6月『白鳥正宗刑事の事件帳』(中央公論社)
1995年6月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日文芸文庫)
1995年8月『正義の剣』(講談社文庫)

1996年(平成8年)

収入額:3,521万2,000円
経費額:1,183万4,000円
課税対象額:2,321万8,000円
所得税額:490万6,000円
源泉徴収税額:355万7,000円
差引所得税納付額:134万8,000円
※備考:平均課税方式がとられている。

出版された著作
1996年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉文庫)
1996年3月『伊藤博文と安重根』(文春文庫)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記①』(小学館)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記 (2) 麻原出廷②』(小学館)
1996年10月『オウム裁判を読む』(岩波書店)
1996年10月『ハダカの自分を生きてみな』(青春文庫)

1997年(平成9年)

収入額:4,676万7,000円
経費額:1,563万2,000円
課税対象額:3,024万2,000円
所得税額:716万9,000円
源泉徴収税額:536万8,000円
差引所得税納付額:180万1,000円
※備考:平均課税方式がとられている。

出版された著作
1997年2月『法廷のなかの人生』(岩波新書)
1997年8月『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)
1997年10月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日新聞社)
1997年10月『宮崎勤裁判〈下〉』(朝日新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)

1998年(平成10年)

収入額:3,854万5,000円
経費額:1,328万9,000円
課税対象額:2,487万9,000円
所得税額:587万1,000円
源泉徴収税額:384万9,000円
差引所得税納付額:202万2,000円

出版された著作
1998年3月『人が人を裁くということ』(青春出版社)
1998年4月『司法卿 江藤新平』(文春文庫)
1998年9月『裁判』(作品社)

1999年(平成11年)

収入額:2,987万7,000円
経費額:1,324万6,000円
課税対象額:1,741万円
所得税額:346万円
源泉徴収税額:307万5,000円
差引所得税納付額:385,000円
※備考:消費税課税事業者

出版された著作
1999年5月『もう一つの青春』(岩波書店)
1999年8月『悪女の涙―福田和子の逃亡十五年』(新潮社)
1999年9月『少年犯罪の風景-「親子の法廷」で考えたこと』(東京書籍)
1999年11月『死刑執行―隣りの殺人者〈1〉』(小学館文庫) ※『曠野へ 死刑囚の手記から』改題

この年、東京暮らしに別れを告げ、福岡県北九州市門司区に移住されています。

2000年(平成12年)

収入額:2,935万2,000円
経費額:1,317万5,000円
課税対象額:1,617万7,000円
所得税額:313万4,000円
源泉徴収税額:317万7,000円
差引所得税納付額:-4万3,000円(還付)
※備考:消費税課税事業者

出版された著作
2000年1月『白昼凶刃―隣りの殺人者〈2〉』(小学館文庫) ※『深川通り魔殺人事件』改題
2000年3月『法廷のなかの隣人たち』(潮出版社)
2000年4月『逃亡射殺  隣りの殺人者3』(小学館文庫) ※『旅人たちの南十字星』改題
2000年5月『成就者たち』(講談社)
2000年6月『女医絞殺 隣りの殺人4』(小学館文庫) ※『千葉大女医殺人事件』改題
2000年8月『組長狙撃 海燕ジョーの奇跡 隣りの殺人者5』(小学館文庫)
2000年9月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日学芸文庫)
2000年12月『宮崎勤裁判』(朝日学芸文庫)

2001年(平成13年)

収入額:2,478万円
経費額:1,567万円
課税対象額:1,395万円
所得税額:245万5,000円
源泉徴収税額:249万9,000円
差引所得税納付額:-4万4,000円(還付)

出版された著作
2001年1月『小説 大逆事件』(文藝春秋)
2001年4月『供述調書―佐木隆三作品集』(文藝春秋)
2001年7月『裁かれる家族―断たれた絆を法廷でみつめて』(東京書籍)
2001年11月『法廷の内と外で考える―犯罪者たちとの十年』(文芸社)

2002年(平成14年)

収入額:2,296万8,000円
経費額:1,048万7,000円
課税対象額:1,248万1,000円
所得税額:229万7,000円
源泉徴収税額:238万8,000円
差引所得税納付額:-34万1,000円(還付)

出版された著作
2002年4月『三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件 』(小学館)
2002年11月『大義なきテロリスト―オウム法廷の16被告』(日本放送出版協会)

2003年(平成15年)

収入額:1,685万4,000円
経費額:936万4,000円
課税対象額:658万2,000円
所得税額:78万9,000円
源泉徴収税額:171万4,000円
差引所得税納付額:-92万4,000円(還付)

出版された著作
2003年5月『成就者たち』(講談社文庫)
2003年10月『少女監禁―「支配と服従」の密室で、いったい何が起きたのか』(青春出版社)

2004年(平成16年)

収入額:1,946万1,000円
経費額:1,053万8,000円
課税対象額:768万4,000円
所得税額:96万5,000円
源泉徴収税額:202万4,000円
差引所得税納付額:-105万9,000円(還付)

出版された著作
2004年2月『小説 大逆事件』
2004年2月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社)
2004年6月『証言台の母―小説医療過誤裁判』(弦書房)
2004年9月『深川通り魔殺人事件』(新風舎文庫)
2004年10月『宿老・田中熊吉伝』(文藝春秋)

2005年(平成17年)

収入額:1,763万9,000円
経費額:1,101万5,000円
課税対象額:662万3,000円
所得税額:66万8,000円
源泉徴収税額:177万8,000円
差引所得税納付額:-111万円(還付)

出版された著作
2005年6月『なぜ家族は殺し合ったのか』(青春出版社)
2005年11月『人はいつから「殺人者」になるのか』(青春出版社)

2006年(平成18年)以降の佐木隆三さんは

30年間に渡る佐木隆三さんの収支はいかがだったでしょうか?

私自身の感想は「意外にコンスタントに、結構な額を稼いでおられたんだな」というものです。

また、著書が多く刊行された年も、そうでない年も収入に大差がないことが特徴的です。

これは佐木さんが、事件の裁判傍聴記を週刊誌に寄稿するなど、週刊雑誌分野での活動が多く、それなりの原稿料を受け取られていたからだと思います。

あと、経費が収入が下がっても、毎年ある程度必要だったのは、取材活動に必要だったこともあるでしょうが、秘書を雇っておられたことも大きな要因だと思います。

2006年以降の佐木隆三さんの著作をご紹介します。

2006年 刊行書籍なし

2007年4月『復讐するは我にあり(改訂新版)』(弦書房)
2007年12月『高炉の神様 宿老・田中熊吉伝』(文春文庫)

2008年8月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社文庫)

2009年2月『法廷に吹く風』(弦書房)
2009年11月『復讐するは我にあり(改訂新版)』(文春文庫)

2011年9月『越山田中角栄』(七つの森書館)

2012年2月『わたしが出会った殺人者たち

人物伝

いまこそ日本マクドナルド創業者・藤田田(デンと発音して下さい)を再検証する。2019年4月13日「ユダヤの商法」復刊!

2019年4月13日 ついに藤田田『ユダヤの商法』復刊!

はる坊です。

長い間、謎だったことがあります。
それは、なぜあの本は絶版・品切れ中になったままなのか。

絶対に、ニーズのある本なのに、ご遺族の意向なのか?

その本は、1972年に発売され年間ベストセラーで第6位にランクインした、藤田田『ユダヤの商法』。

これほど普遍的な事柄を書いた本はないのに、いつのまにか書店・古本屋から姿を消して、古書は1万円以上の値が付く状態。

そんな本がようやくこの4月13日に復刊されることになりました。
題して、藤田田『
ユダヤの商法(新装版)

本当に嬉しいことです。

また、勝てば官軍(新装版)〝Den Fujitaの商法 〟シリーズも新装版が同時発売となります。

推薦文も幻冬舎社長 見城徹・SHOWROOM社長 前田裕二・AMF社長 椎木里佳・オリエンタルラジオ 中田敦彦と藤田田の本が好きそうなメンツが寄せています。

どの本も、読んで絶対に損をすることはありませんので、おすすめします。
『ユダヤの商法』と『勝てば官軍』が1,588円。
〝Den Fujitaの商法〟が各994円。

ハッキリ言って、書いてある内容に比べたら安すぎます。

特に『ユダヤの商法』は久留米大学附設高等学校に在学中だった、当時16歳のソフトバンクグループの孫正義を感激させ、どうしても藤田田に会いたいと電話を掛け続けるも、会ってもらえなかった為、アポなしで九州から東京へ飛行機で向かい、秘書との激しいやりとりの末に、ようやく藤田田本人との面会が叶い、

孫正義が放った「これからアメリカへ行って勉強してくるが、何を勉強したらいいか?」との質問に、

藤田田が「コンピュータだ。私が君の歳ならコンピュータをやる。これからコンピュータはどんどん小さくなっていく、その過程で絶対に儲かるチャンスがある」と答えたエピソードは有名です。

後日談として、ソフトバンクを成長させ、株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たした孫正義が藤田田を訪ねると、藤田田は「あのときの少年か!」と感激して、早速ソフトバンクの300台のパソコンを発注したというええ話もあります。

ソフトバンクについては、後に孫正義の誘いに応じて社外取締役に就任しました。

藤田田の任期が終わったあと、社外取締役の後任となったのがファーストリテイリングの柳井正でした。挨拶に来た柳井に、藤田は「君が柳井君か。ええもんをやろう」といって手渡したのは、ハンバーガーの無料券数枚でした。

また、ユニクロの柳井正や少年時代の宇野康秀が愛読していたりと、現在活躍している実業家・経済人がむさぼり読んだ本として知られています。

藤田田(デンと発音して下さい)って誰?

まず、「藤田田(デンと発音して下さい)って誰?」という方のために、Wikipediaより高い精度のプロフィールを。

藤田田は1926年3月13日に大阪府大阪市に生まれました。(城東区生まれと淀川区生まれとふたつの記述があります)
父親はイギリス企業の日本支社で働く電気技師。母親は敬虔なクリスチャンでした。
3歳で吹田市千里山に転居して、小学校時代を過ごしますが、旧制中学受験に失敗。1年間の浪人生活を送る羽目になります。

1年後、再受験で旧制北野中学に入学。北野中には1年違いで手塚治虫が在籍していました。
北野中学を経て旧制松江高校に入学。ここで英語とドイツ語をマスターします。
卒業後は、東京大学に進学。

そして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。
焼け野原の東京でひとりぼっち。

しかし、藤田田には感傷に浸っている暇はありませんでした。
戦時中に父親が亡くなり、学生でありながら残った家族に仕送りをしなければならない立場になったのです。

当時の東大生のアルバイトは家庭教師が中心でしたが、それでは自分の生活費と家族への仕送りはまかなえません。
そこで藤田は英字新聞で見つけたGHQの通訳募集の求人に臨んで、試験に合格します。

ところが、実際にアメリカ兵が使っている英語は学校で習ったものとまったく違うもの。
困った藤田は、将校に頼んで泊まり込みで実地の英語を勉強します。
半年ほどすると、英語が解り出します。

そして、ユダヤ人との付き合いも始まり、彼らにビジネスを教わります。

藤田田の東大時代は忙しいものでした。
朝は東大。
昼は銀座2丁目で始めたフジタ&カンパニーの仕事。
夜は進駐軍の通訳。

進駐軍の通訳の仕事は収入が良く、国家公務員の給与が1000円~2000円だった当時、月額1万円でした。

当時、三鷹に住んでいた太宰治との交遊も有名で、太宰治が玉川上水で入水を遂げた夜も一緒に飲んでおり、後年まで「あれは自殺ではなく、事故だった」と主張していました。

1950年に藤田商店を設立。(法人化は1960年)
国家公務員試験(高等文官試験行政科)を受け、大蔵省に合格しますが、辞退をして、1951年3月に東京大学法学部を卒業すると、実業の世界に飛び込んでいきます。

日本マクドナルドを始めるまで、藤田田が手掛けたのは高級雑貨の輸出入業でした。
クリスチャン・ディオールの正規輸入代理店を長く手掛け、東京タワーの蝋人形館も藤田田が手掛けた仕事のひとつです。

そして1971年渡米した際に、アメリカマクドナルドの創設者 レイ・クロック氏に会うことを勧められた藤田田は、50:50の合弁会社ならやるといい、レイ・クロックと合意します。

そして1971年三越銀座店の一角に日本マクドナルド一号店が開店。
瞬く間に大人気となり、1976年には100号店達成。
1979年に200号店達成。
1982年に300号店達成。
1984年に売上高1,000億円を突破。
1985年に500号店達成。
1987年に600号店達成。
1989年に700号店達成。
1993年に1000号店達成。
1996年に2000号店達成。
1999年に3000号店達成。

〝ハンバーガー王〟〝外食王〟と呼ばれるようになっていきました。

“「頭の悪い奴は損をする」”と断言した藤田田の凄さ

藤田田は生前、“「人生はカネや」”と公言していました。
しかし、金儲けだけの人間ではありませんでした。

現在、日本マクドナルドでは創業者である藤田田の影響力やイメージは消し去られてしまいました。
ここに『日本マクドナルド20年のあゆみ』に収められている「藤田田物語」には、真っ正直な藤田田の本音が綴られています。

“肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった経験から、確信をもっていえることは、人間には裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが人生で一番大切なことではないかと思います。それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは結局は目的ではなく、チャンスを得るための手段ではないかと思います。(中略します)要は、目的を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか”

お読みになっていかがだったでしょうか?

露悪的で、金の亡者的な発言や文章を残している藤田田ですが、本当は繊細で優しく、そして誰よりも勁い人間だったのではないかと思えてきます。
学生の身で父親を亡くし、学びながら家族を養ったこと。
東大法学部在学中に、光クラブ事件の山崎晃嗣や太宰治の死に出会ったこと。
そんななかでユダヤ人のたくましい生き方に出会い、やがては、“銀座のユダヤ人”を自称するまでになります。

藤田田の商法は、完全な合理主義と義理人情のバランスをうまく取るものでした。
そんな藤田田の名言を集めました

藤田田の名言集

・物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間として半人前だが、商人としても失格だ。

・不況なんてみんな同じ。その中でどうすれば勝てるかや! 考えろ!考えろ!

・1円にこだわれ!もっと粘れ

・人間は忘れる生き物だから、24時間メモを取れ。

・その国の教育と商売はリンクして進まないといけない。早すぎても、遅すぎても駄目なんだ。

・人件費は投資。設備投資と同じで、絞れば会社は弱くなる。

・高い給料でも儲かる仕組みを作るのが社長の仕事。人件費を下げて利益を出したら社長とは言えん。
-藤田田が社長を務めていた1998年当時、マクドナルドの店長の平均年収は819万円。
20代後半の店長も少なくなかった。
もちろん、外食産業の中では際だって高い給与水準だった。

そして・・・

・凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり

総資産数千億といわれた大富豪・藤田田

藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなります。
(70代を迎えても元気に、マクドナルドの社長・会長業に励んでいましたが、実は糖尿病と心臓に病を抱えていたようです)
2005年3月に遺産総額が公示されました。
その額491億円。
歴代6位の遺産額でした。
(ちなみに歴代1位はパナソニック創業者・松下幸之助氏です。2,450億円でした。)

そんな藤田田の資産は生前、1,500億円とも3,210億円とも伝えられていました。

一番大きかったのは、日本マクドナルド株ですが、長年に渡って、そのマクドナルドの売上の1%が契約役務・コンサルタント料として、藤田商店に入る仕組みになっていました。

またポテトの納入元が藤田田のファミリーカンパニーだったりと、個人で保有していた株式の他にも、現金が手元に流れ込む仕組みを作っていたことから、資産が膨大な額だと目され、また、日本マクドナルドがあれほどの大企業なのに東証1部ではなくJASDAQ上場となったのは、藤田田と日本マクドナルドの契約に不透明性があったからだと報じられました。

現在も、藤田商店は存在しており、息子さんが社長を務めていますが、デン・フジタやデン・フジタ興産といった無数にあったファミリー企業の多くは藤田商店に吸収合併されています。

息子さんは2人。藤田元(ゲンと発音して下さい)・藤田完(カンと発音して下さい)です。
元はジェネラル・将軍を意味する。
完はカーン・王様を意味する。

息子たちは、名前で得をするはずだ、と藤田田は生前に語っています。

ふたりとも成城大学出身という話がありますが、正確なところは、
どちらかが早稲田大学商学部卒業、そしてもうひとりが成城大学経済学部卒業。
日本マクドナルド2代目社長となった八木康行氏が成城大学出身だったのは、息子の友人であったことで藤田田と出会い、創業まもないマクドナルドに飛び込んだことが後の出世に繋がりました。

藤田田は、息子に日本マクドナルドを継がせることはありませんでした。
2003年に会長を退任するとき、取締役に就いていた息子も同時に退任しました。

日本マクドナルドは2000年にハンバーガーの価格を半額にして、一時は売上が好調に推移し、〝デフレの勝ち組〟ともて囃されました。
最安値でハンバーガー1個59円という時代がありました。

しかし、為替差損で2002年には初の赤字決算に陥り、ブランドイメージは落ち、決定的な打開策を見いだせないまま、2003年に藤田田は日本マクドナルドを去りました。

実は、この値下げ商法は自著『ユダヤの商法』に反したものでした。
彼自身が著書の中に安売り商法はしてはいけないと断じていたのです。
慢心したのか、それともこの時代は値下げしてモノを売る方法しかないと思ったのか・・・
永遠の謎ですが、現代に生きる私たちは『ユダヤの商法』を読んで、〝藤田田 金儲けの教え〟について学ぶべきところはしっかりと学ぶべきだと思います。

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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人物伝

エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんのプロフィール

はる坊です。
今回は、エニックス2代目社長を務め、スクウェア・エニックス・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんについて触れたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。

まずは、本多圭司さんのプロフィールです。
1957年(昭和32年)12月29日福岡県生まれ。山羊座。
現在、61歳です。

◎学歴
1980年(昭和55年) 3月 大阪市立大学工学部建築学科卒業。
1982年(昭和57年) 3月 早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了

◎職歴
1982年(昭和57年) 4月 株式会社乃村工藝社 入社
1987年(昭和62年)10月 エニックス 入社
1990年(平成2年)  7月 エニックスアメリカコーポレーション駐在(現地責任者)
1994年(平成6年)  4月 エニックス 商品企画本部 ソフトウェア企画部長
1998年(平成10年) 6月 エニックス 取締役 商品企画本部 ソフトウェア企画部長
2000年(平成12年)10月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO
2001年(平成13年) 4月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO兼出版事業部長 
2002年(平成14年) 9月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO兼ソフトウェア事業部長
2003年(平成15年) 4月 スクウェア・エニックス 代表取締役副社長
2004年(平成16年) 6月 スクウェア・エニックス 取締役副社長(中国・上海駐在)
2005年(平成17年) 1月 SQUARE ENIX(China)CO.LTD 董事長(代表取締役に相当)
2006年(平成18年) 4月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役副社長
2008年(平成20年)10月 スクウェア・エニックス 代表取締役副社長
2009年(平成21年)10月 SQUARE ENIX OF AMERICA HOLDINGS, INC.取締役
2013年(平成25年) 4月 スクウェア・エニックス 取締役
2013年(平成25年) 6月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役
2018年(平成30年) 3月 スクウェア・エニックス 取締役を退任
2018年(平成30年) 6月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役を退任

◎ご家族や趣味
ご家族は奥さまと3人のお嬢様。
趣味は仕事と家庭。
「この2つから得られる満足感に人生の豊かさを感じます」
とコメントされています。

ゴルフとテニスを嗜み、音楽もバッハ、キース・ジャレット、ビートルズとクラシック、ジャズ、ロックと垣根を超えて好きなモノを聞くという方です。

愛読書にしているのは加藤周一さんの『羊のうた』。これは名著ですね。

座右の銘は「転石、苔生せず」
-物事についてのんびり構えず、スピーディに対処するという意味に独自で解釈されています。

エニックス入社までの本多圭司さんについて

早稲田大学大学院を修了した本多さんは、乃村工藝社に入社します。
乃村工藝社は、百貨店等の商業施設、美術館、博物館等の展示施設、万国博覧会等のイベント展示の企画、デザイン、設計・制作施工を手掛けている企業で、筒井康隆さんがサラリーマン生活を過ごした企業としても知られています。

本多さんは乃村工藝社で、文化施設のデザイン・プランニングを担当します。
そして、30歳を迎えようとしているあるとき、仕事である企業の社長と話す機会を得ます。
その折に、“「本多さん、経営もデザインなんですよ」
という言葉を掛けられます。
その言葉は、本多さんのなかに残りました。

仕事に不満があったわけではありませんでしたが、新しい仕事をしてみたいという思いが強くなり、乃村工藝社を退職。ヨーロッパ放浪の旅に出ます。途中で、パスポート盗難の被害にも遭いますが、放浪の旅を満喫して帰国します。

帰国した本多さんは仕事を探すことにします。
「小さい会社でもいい、自分の力が発揮できるところに」と求人雑誌を開いたところ、目に入ったのがエニックスの求人でした。その求人広告は、他の企業と違っていて、手作り感に溢れていたところが特徴的で、本多さんは興味を覚えました。

早速、アポイントメントを取り、当時のエニックス本社に向かうと、そこは西新宿の雑居ビル。
そのなかのエニックスを訪ねると、本多さんが声を掛けるより早く、小太りのおじさんが段ボール箱を抱えて出てきました。
「ウチの会社に何か用なの?」
「面接にまいりました本多ですが」
「ああそう。じゃあ入って」

面接担当者は、その小太りのおじさんでした。
社長の福嶋康博さんです。

「最近、何してたの?」
「ヨーロッパをぶらぶらしてました」
「いいねえ」

話は本多さんのヨーロッパ放浪に始まり、若き福嶋康博さんのアメリカ・インド・東南アジア放浪の話に移り、一向に面接らしい話に移りませんでした。

「OK。じゃあ一緒にやろう」
結局、そのまま本多さんの採用が決まりました。

エニックス入社後の本多圭司さん

本多圭司さんはエニックスに入社するまで、ファミコンの存在は知っていましたが、『ドラゴンクエスト』のことは知りませんでした。
そんな本多さんは、千田幸信さんの元でドラクエグッズの商品企画を担当します。
そして、入社3年弱が過ぎた頃、アメリカの現地法人であるエニックスアメリカコーポレーション現地責任者となります。

実力主義のエニックス・福嶋康博イズムでは珍しくもないことかもしれませんが、入社してまだ3年に満たない、30歳過ぎの人間を現地法人の責任者にするとは、かなり大胆な人事といえます。
それだけ、福嶋さんは本多さんを買っていたともいえると思います。

アメリカ現地法人に渡った本多さんは、忘れられない経験をすることになります。
ある玩具卸問屋がいきなり倒産してしまい、本多さんは売掛金の回収に走りますが、結果としてほとんど売掛金の回収をすることができませんでした。
しかし、同じゲーム業界の企業で、完璧に売掛金の回収をおこなっていた企業がありました。
NOA。ニンテンドウ・オブ・アメリカです。
本多さんは「さすが任天堂・・・」と脅威を感じたといいます。

このようにシビアなビジネス体験をしたアメリカでしたが、後年スクウェア・エニックスとして合併するスクウェアの鈴木尚さんも、時を同じくしてアメリカの現地法人にいた為、ふたりは遊び友達になり楽しい時間も過ごしたようです。

ミリオンセラーソフトを目指す

帰国した本多さんは、1994年4月にソフトウェア企画部長に就任しました。
そして、千田幸信さんに次いで〝アシスタント・プロデューサー〟として『ドラゴンクエスト』シリーズにも関わりますが、目指したのは、ドラクエに続く柱を作ることでした。

つまりは、ミリオンセラーとなるゲームソフトを作ること。

現在、スクウェア・エニックス取締役 執行役員を務め『ドラゴンクエストX』『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』でプロデューサーを務め、『ニーア オートマタ』で世界的に大ヒットを飛ばした齊藤陽介さんをソフトウェア企画に引き入れたのは本多さんの大きな功績でしょう。

結果、本多さんはミリオンセラーを作ることが出来たか?
これは否です。
最高のヒットは、『スターオーシャン セカンドストーリー』でしたが、国内のみでは売上は70数万本。
しかし、『バスト ア ムーブ』(発売本数 約40万本)を生み出すなど、ドラクエシリーズとクインテット開発のゲームしかなかったエニックスのゲーム企画部門を大きく発展させた功績は非常に大きいと思います。

取締役、そしてエニックス2代目社長に就任

1998年6月 本多圭司さんは、エニックス 取締役 ソフトウェア企画部長に就任します。
ちょうど40歳。
エニックスに入社して10年半。早い出世であることは間違いありません。

そして、2000年10月に福嶋康博さんのあとを継いで、エニックス2代目社長に就任します。
本多さんが代表取締役社長兼COOとなり既存の事業を担当。
福嶋康博さんは代表取締役会長兼CEOとなり新規事業の企画に専念します。
本多さんは、まだ42歳の若さでした。

エニックスの社長交代は、内外で驚きをもって迎えられたようですが、社長交代から5ヶ月前に福嶋さんと本多さんが共に関西出張に出掛けた際に、福嶋さんが「ブロードバンド事業をやりたい」と言いだし、「面白そうじゃないですか」と返した本多さんに、「いまのままじゃ時間が取れない。だから本多君が社長やって」と福嶋さんが伝え、本多さんがそれを承諾したのが実際のところです。

〝エニックスお家騒動〟勃発

本多圭司さんの社長就任から半年が経過した2001年春、エニックスに激震が走ります。
出版事業部門の実質的創設者で、取締役 出版事業部長の保坂嘉弘氏をはじめ、出版事業部の幹部数名がエニックスを退社して、新会社マッグガーデンを設立して、同時にエニックスのコミック誌で活動していた漫画家を引き抜いたのです。
エニックスの出版部門(コミックス部門)には大ダメージでした。

結局、当時、取締役 営業本部 営業部長だった田口浩司さんが和解条項をとりまとめますが、2001年5月から9月までは、出版事業部長を社長である本多圭司さんが担当することになります。(以後は田口浩司さんにバトンタッチ)

これは経営者・本多圭司にとって大きなショックだったと思います。

スクウェア・エニックス誕生

2003年4月、スクウェアを吸収合併する形で、スクウェア・エニックスが誕生しました。
代表取締役会長CEOに福嶋康博さん
代表取締役社長COOに和田洋一さん
代表取締役副社長に本多圭司さん
取締役に鈴木尚さん・千田幸信さん・成毛眞さんが就任します。

この合併について、和田洋一社長と実質的に話を進めたのが本多圭司さんでした。
本多さんから報告を受けた福嶋さんが和田社長の経営能力を評価して、合併へOKサインを出しました。
合併については、旧スクウェアの株式を50数%保有していたオーナーの宮本雅史さんから、スクウェア株式への評価が低いとして、
エニックス1:0.81スクウェアから、
エニックス1:0.85スクウェアに株式の評価があらためられるという一幕もありましたが、合併は無事におこなわれました。

スクウェア・エニックス時代の本多圭司さん

当初、代表取締役副社長に就いた本多圭司さんでしたが、仕事を終えたのちに立ち寄った新宿の居酒屋で和田洋一社長に「現場に戻してください」と直訴して、代表権を返上。
上海に駐在して、中国事業全般を担当することになります。
中国事業においては、現地法人の代表も兼ねて利益を出し続けました。
スクウェア・エニックスホールディングスが誕生して持株会社化されてからも取締役副社長を務め、子会社となったスクウェア・エニックスでは代表取締役副社長を務めます。

しかし、2013年にはスクウェア・エニックス全体の業績悪化の為、取締役兼業務執行担当に降格。
2018年4月には、スクウェア・エニックス取締役を退任。
同年6月にはスクウェア・エニックスホールディングス取締役も退任されました。

旧エニックスに入社されてから30年。
そして、旧エニックスから役員として20年間、本当にお疲れさまでしたと申し上げたいです。

これだけの実績をお持ちの方ですので、どこかのゲーム関連企業の社外取締役などを務められるのではないかと思います。

本多圭司さんの年収は?

前述しましたが、本多圭司さんは2018年6月をもって、スクウェア・エニックスホールディングス取締役を退任されました。
本多さんが2017年度に受け取っておられた役員報酬は、金銭報酬として8900万円+ストックオプションとして1500万円の1億400万円でした。
2016年以前は、年間報酬1億円以上の取締役として公示されたことはありませんでしたので、最高でも年収8~9000万円だったのではないかと思います。