王将フードサービス「餃子の王将」創業者・加藤朝雄氏の人生とは?①
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直木賞作家の生涯収入って?
はる坊です。
人間は他人のことが気になる生き物です。
例えば、収入。
あの人は幾らくらいひと月に稼いでいるんだろう?
あの職業に就いている人はどれくらいの年収があるんだろう?
例えば、作家・小説家。
2015年11月、作家の森博嗣さんが『作家の収支』という新書で、
“「19年間で、総発行部数1400万部。累計で15億円の収入を得た」”
と公表されました。
森さんは、事あるごとに、ご自身を〝マイナ〟であると定義されていますが、著書はコンスタントに出されており、同時にコンスタントに売れ続けている作家です。
2018年には著書の累計売上数が1600万部を突破していますので、〝出版巨大不況〟のご時世で、稼ぎは〝超メジャ〟であると思います。
しかし、コンスタントに売れる本を出し続けていると言い難い作家の収入はどうなんだろう?
という疑問が出てきます。
そんななか、2007年(平成17年)に過去30年間の収支を公表した方がいます。
直木賞作家の佐木隆三さんです。
佐木さんが公表された数字ですごい点は、毎年の収入だけではなく、
・経費
・課税対象額
・所得税額
・源泉徴収税額
・差引納付額
と、支出や納税額についても、細かく公にされたことでしょう。
佐木さんの代表作と言えば、直木賞受賞作であり、今村昌平監督・緒形拳主演で映画化された『復讐するは我にあり』ですが、タイトルのせいか、意外にこの作品は西村寿行作品だと思っている方も一定数おられるようです。
ちなみに『復讐するは我にあり』は、新約聖書の(ローマ人への手紙 第12章 第19節)に出てくる『愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」とあり』という言葉の一部であり、これは、《悪人に復讐を与えるのは神である》という意味といわれています。
佐木さんは『新約聖書』の言葉をタイトルに引用した形です。
しかし、最も一般的な佐木隆三さんのイメージは、何か物騒な事件が起きると、
ワイドショーやニュース番組で「作家のサキリューゾーさんは」とコメントをしていたおじさんではないでしょうか。
それでは、佐木隆三さんの30年間の収支一覧表です。
その下に、佐木隆三さんの詳しいプロフィールを紹介していますので、興味のある方はご覧ください。
1976年(昭和51年)~2005年(平成17年)分 佐木隆三 各年収入・支出一覧表
1976年(昭和51年)
収入額:5,288万6,000円
経費額:1,449万9,000円
課税対象額:3,798万7,000円
所得税額:772万4,000円
源泉徴収税額:773万4,000円
差引納付額:-1万円
※備考 『復讐するは我にあり』の直木賞受賞で、前年度より急激に収入が増えたため、課税は平均課税方式がとられている。
出版された著作
1975年11月『復讐するは我にあり(上下)』(講談社)
1976年2月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(新人物往来社)
1976年2月『大将とわたし』(講談社)
1976年5月『狼からの贈物』(河出書房新社)
1976年6月『大罷業』(田畑書店)
1976年6月『ジャンケンポン協定』(講談社文庫)
1976年9月『偉大なる祖国アメリカ』(勁文社)
※『復讐するは我にあり』は1975年11月の刊行ですが、直木賞受賞で43万部を超えるベストセラーとなり、1976年分の収入に大きく寄与しているため、この年に出版された著作に含めました。
1976年に刊行された本の多くは、過去に一度刊行されて絶版状態にあったものや単行本化されていなかった原稿をまとめたものが目立ちます。
佐木さんは、直木賞受賞まで11冊の本を出されていますが、それらが版元を変えたり文庫化されて再度刊行されている形です。
『新宿鮫』シリーズが累計760万部以上の大ベストセラーになるまでに出した28冊ことごとくが売れず(28冊目は『氷の森』で大沢在昌作品の文庫では一番売れているのにわからないものです)、29冊目の『新宿鮫』が大ヒットして、それまでに書いて絶版になっていた本が次々に復刊されて、それらを〝ゾンビ本〟と呼んだ大沢在昌さんみたいな感じでしょうか。
1977年(昭和52年)
収入額:2,590万円
経費額:864万9,000円
課税対象額:1,685万1,000円
所得税額:482万4,000円
源泉徴収税額:269万8,000円
差引所得税納付額:212万5,000円
出版された著作
1977年2月『ドキュメント狭山事件』(文藝春秋)
1977年2月『日本漂民物語』(講談社)
1977年4月『越山田中角栄』(朝日新聞社)
1977年5月『殺人百科』(徳間書店)
1977年10月『人生漂泊』(時事通信社)
1978年(昭和53年)
収入額:2,626万1,000円
経費額:939万円
課税対象額:1,649万1,000円
所得税額:465万2,000円
源泉徴収税額:268万円
差引所得税納付額:197万1,000円
出版された著作
1978年1月『偉大なる祖国アメリカ』(角川文庫)
1978年1月『実験的生活』(講談社)
1978年2月『閃光に向かって走れ』(文藝春秋)
1978年3月『男たちの祭り』(角川文庫)
1978年4月『詐欺師』(潮出版社)
1978年6月『愛の潮路』(光文社)
1978年9月『続人生漂泊』(時事通信社)
1978年10月『娼婦たちの天皇陛下』
1978年11月『大罷業』(角川文庫)
1978年12月『誓いて我に告げよ』(角川書店)
1978年12月『復讐するは我にあり(上)』(講談社文庫)
1978年12月『復讐するは我にあり(下)』(講談社文庫)
1979年(昭和54年)
収入額:4,963万8,000円
経費額:1,389万2,000円
課税対象額:3,536万7,000円
所得税額:11,787,000円
源泉徴収税額:682万7,000円
差引所得税納付額:495万9,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1979年4月『曠野へ 死刑囚の手記から』(講談社)
1979年5月『事件百景-陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1979年5月『ドキュメント狭山事件』(文春文庫)
1979年6月『男と女のいる風景』(文藝春秋)
1979年9月『無宿の思想』(時事通信社)
1979年12月『錆びた機械』(潮出版社)
※1977年分(昭和52年分)・1978年分(昭和53年分)から収入が大幅に増加しているのは、1979年(昭和54年)4月21日に、今村昌平監督・緒形拳主演で公開された『復讐するは我にあり』の映画化により、講談社から出版された文庫本が版を重ねたのが理由と考えられる。
1980年(昭和55年)
収入額:3,283万8,000円
経費額:1,136万9,000円
課税対象額:2,105万9,000円
所得税額:684万7,000円
源泉徴収税額:352万2,000円
差引所得税納付額:332万4,000円
出版された著作
1980年2月『海燕ジョーの奇跡』(新潮社)
1980年2月『殺人百科 PARTⅡ』(徳間書店)
1980年5月『旅人たちの南十字星』(文藝春秋)
1980年11月『波に夕陽の影もなく 海軍少佐竹内十次郎の生涯』(中央公論社)
1980年11月『風恋花』(潮出版社)
1981年(昭和56年)
収入額:3,570万2,000円
経費額:1,117万9,000円
課税対象額:2,412万6,000円
所得税額:850万5,000円
源泉徴収税額:409万8,000円
差引所得税納付額:440万4,000円
出版された著作
1981年2月『越山田中角栄』(徳間文庫)
1981年4月『殺人百科』(文春文庫)
1981年4月『冷えた鋼塊(上巻)』(集英社)
1981年4月『冷えた鋼魂(下巻)』(集英社)
1981年5月『幸せの陽だまり』(潮出版社)
1981年6月『欲望の塀』(文藝春秋)
1981年10月『日本漂民物語』(徳間文庫)
1981年12月『右の腕』(学習研究社)
1982年(昭和57年)
収入額:4,219万5,000円
経費額:1,506万1,000円
課税対象額:2,873万4,000円
所得税額:1,022万2,000円
源泉徴収税額:468万5,000円
差引所得税納付額:553万7,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1982年1月『大将とわたし』(講談社文庫)
1982年2月『詐欺師』(文春文庫)
1982年3月『殺人百科 PARTⅢ』(徳間書店)
1982年4月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(徳間文庫)
1982年5月『政商 小佐野賢治』(講談社)
1982年5月『我が沖縄ノート』(潮出版社)
1982年6月『土曜日の騎士』(河出書房新社)
1982年7月『新撰組』(文藝春秋)
1982年8月『きのこ雲』(中央公論社)
1982年8月『ジミーとジョージ』(集英社)
1982年9月『娼婦たちの天皇陛下』(徳間文庫)
1982年10月『噂になった女たち』(文藝春秋)
1982年12月『閃光に向かって走れ』(文春文庫)
1983年(昭和58年)
収入額:2,533万4,000円
経費額:1,005万9,000円
課税対象額:1,527万5,000円
所得税額:391万5,000円
源泉徴収税額:312万円
差引所得税納付額:79万4,000円
出版された著作
1983年3月『曠野へ』(講談社文庫)
1983年4月『英雄』(集英社)
1983年6月『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋)
1983年9月『海燕ジョーの奇跡』(新潮文庫)
1983年10月『田中角栄の風景―戦後初期・炭管疑獄』(徳間書店)
1983年10月『波に夕陽の影もなく』(中公文庫)
1983年10月『冷えた鋼塊(上)』集英社文庫
1983年10月『冷えた鋼塊(下)』集英社文庫
1984年(昭和59年)
収入額:3,961万3,000円
経費額:1,493万円
課税対象額:2,468万3,000円
所得税額:783万2,000円
源泉徴収税額:415万6,000円
差引所得税納付額:367万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1984年2月『誓いて我に告げよ』(角川文庫)
1984年6月『殺人百科 一』(徳間文庫)
1984年6月『殺人百科 二』(徳間文庫)
1984年9月『男の自画像』(佼正出版社)
1984年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間書店)
1984年9月『殺人百科 三』(徳間文庫)
1984年10月『人生漂泊』(潮文庫)
1985年(昭和60年)
収入額:2,615万4,000円
経費額:931万1,000円
課税対象額:1,684万3,000円
所得税額:424万5,000円
源泉徴収税額:297万9,000円
差引所得税納付額:126万5,000円
出版された著作
1985年4月『ありふれた奇蹟』(講談社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(上)』(潮出版社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(下)』(潮出版社)
1985年7月『<一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(毎日新聞社)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(毎日新聞社)
1985年10月『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫)
1985年12月『犯罪するは我にあり―佐木隆三文学ノート』(作品社)
1986年(昭和61年)
収入額:3,126万9,000円
経費額:1,077万5,000円
課税対象額:2,049万4,000円
所得税額:638万6,000円
源泉徴収税額:338万4,000円
差引所得税納付額:300万3,000円
出版された著作
1986年1月『ジミーとジョージ』(潮文庫)
1986年2月『政商 小佐野賢治』(徳間文庫)
1986年5月『殺人百科〈Part4〉―陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1986年7月『旅人たちの南十字星』(文春文庫)
1986年7月『南へ走れ、海の道を!』(徳間書店)
1986年12月『恋文三十年 沖縄・仲間翻訳事務所の歳月』(学習研究社)
1987年(昭和62年)
収入額:3,315万5,000円
経費額:1,053万9,000円
課税対象額:2,261万6,000円
所得税額:600万1,000円
源泉徴収税額:356万7,000円
差引所得税納付額:243万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1987年4月『華やかな転落』(潮出版社)
1987年5月『男の責任―女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1987年7月『わが沖縄ノート』(徳間文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈2〉』(文春文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈3〉』(文春文庫)
1987年10月『<深川通り魔殺人事件』(文春文庫)
1988年(昭和63年)
収入額:2,279万9,000円
経費額:778万8,000円
課税対象額:1,501万9,000円
所得税額:337万3,000円
源泉徴収税額:246万円
差引所得税納付額:91万3,000円
出版された著作
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(文春文庫)
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(文春文庫)
1989年(昭和64年・平成元年)
収入額:2,883万1,000円
経費額:845万4,000円
課税対象額:2,037万7,000円
所得税額:537万9,000円
源泉徴収税額:297万4,000円
差引所得税納付額:240万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
出版された著作
1989年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間文庫)
1989年11月『リクルート帝王の白日夢』(双葉社)
1990年(平成2年)
収入額:3,734万6,000円
経費額:1,220万3,000円
課税対象額:2,514万3,000円
所得税額:647万7,000円
源泉徴収税額:410万5,000円
差引所得税納付額:237万1,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。
出版された著作
1990年2月『バカなふりして生きてみな』(青春出版社)
1990年3月『裁判長大岡淳三』(講談社)
1990年6月『身分帳』(講談社)※第2回伊藤整文学賞受賞
1990年7月『新撰組事件帳』(文春文庫)
1990年9月『<別府三億円保険金殺人事件』(徳間文庫)
1991年(平成3年)
収入額:2,961万8,000円
経費額:1,259万1,000円
課税対象額:1,702万7,000円
所得税額:393万6,000円
源泉徴収税額:303万8,000円
差引所得税納付額:89万8,000円
出版された著作
1991年8月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日新聞社)
1991年9月『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1991年9月『親が知らなかった子の愛し方』(青春出版社)
1991年12月『いま、裁判が面白い』(蒼樹社)
1992年(平成4年)
収入額:5,574万7,000円
経費額:1,883万4,000円
課税対象額:3,619万2,000円
所得税額:1,127万7,000円
源泉徴収税額:576万2,000円
差引所得税納付額:551万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。
出版された著作
1992年2月『恩讐海峡』(双葉社)
1992年4月『法廷の賓客たち』(河出書房新社)
1992年7月『正義の剣』(講談社)
1992年7月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1992年10月『しぶとさの自分学』(青春出版社)
1992年11月『越山田中角栄』(現代教養文庫)
1992年11月『伊藤博文と安重根』(文藝春秋)
1993年(平成5年)
収入額:2,909万円
経費額:1,075万5,000円
課税対象額:1,835万5,000円
所得税額:444万2,000円
源泉徴収税額:332万6,000円
差引所得税納付額:111万5,000円
出版された著作
1993年1月『殺人百科 四』(徳間文庫)
1993年2月『矯正労働者の明日』(河出書房新社)
1993年3月『裁判長大岡淳三』(講談社文庫)
1993年6月『生きている裁判官』(中央公論社)
1993年6月『身分帳』(講談社文庫)
1993年9月『闇の中の光』(徳間書店)
1993年9月『錬金術師の白日夢』(双葉文庫)
1994年(平成6年)
収入額:2,821万5,000円
経費額:874万5,000円
課税対象額:1,922万円
所得税額:362万1,000円
源泉徴収税額:329万6,000円
差引所得税納付額:32万5,000円
出版された著作
1994年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉社)
1994年4月『恩讐海峡』(双葉文庫)
1994年6月『バカなふりして生きてみな』(青春文庫)
1994年7月『死刑囚 永山則夫』(講談社)
1994年10月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1995年(平成7年)
収入額:3,049万4,000円
経費額:1,125万円
課税対象額:1,880万4,000円
所得税額:365万7,000円
源泉徴収税額:325万9,000円
差引所得税納付額:39万7,000円
出版された著作
1995年4月『司法卿 江藤新平』(文藝春秋)
1995年6月『白鳥正宗刑事の事件帳』(中央公論社)
1995年6月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日文芸文庫)
1995年8月『正義の剣』(講談社文庫)
1996年(平成8年)
収入額:3,521万2,000円
経費額:1,183万4,000円
課税対象額:2,321万8,000円
所得税額:490万6,000円
源泉徴収税額:355万7,000円
差引所得税納付額:134万8,000円
※備考:平均課税方式がとられている。
出版された著作
1996年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉文庫)
1996年3月『伊藤博文と安重根』(文春文庫)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記①』(小学館)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記 (2) 麻原出廷②』(小学館)
1996年10月『オウム裁判を読む』(岩波書店)
1996年10月『ハダカの自分を生きてみな』(青春文庫)
1997年(平成9年)
収入額:4,676万7,000円
経費額:1,563万2,000円
課税対象額:3,024万2,000円
所得税額:716万9,000円
源泉徴収税額:536万8,000円
差引所得税納付額:180万1,000円
※備考:平均課税方式がとられている。
出版された著作
1997年2月『法廷のなかの人生』(岩波新書)
1997年8月『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)
1997年10月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日新聞社)
1997年10月『宮崎勤裁判〈下〉』(朝日新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1998年(平成10年)
収入額:3,854万5,000円
経費額:1,328万9,000円
課税対象額:2,487万9,000円
所得税額:587万1,000円
源泉徴収税額:384万9,000円
差引所得税納付額:202万2,000円
出版された著作
1998年3月『人が人を裁くということ』(青春出版社)
1998年4月『司法卿 江藤新平』(文春文庫)
1998年9月『裁判』(作品社)
1999年(平成11年)
収入額:2,987万7,000円
経費額:1,324万6,000円
課税対象額:1,741万円
所得税額:346万円
源泉徴収税額:307万5,000円
差引所得税納付額:385,000円
※備考:消費税課税事業者
出版された著作
1999年5月『もう一つの青春』(岩波書店)
1999年8月『<悪女の涙―福田和子の逃亡十五年』(新潮社)
1999年9月『少年犯罪の風景-「親子の法廷」で考えたこと』(東京書籍)
1999年11月『死刑執行―隣りの殺人者〈1〉』(小学館文庫)
※『曠野へ 死刑囚の手記から』改題
この年、長年の東京暮らしに別れを告げ、福岡県北九州市門司区に移住されています。
2000年(平成12年)
収入額:2,935万2,000円
経費額:1,317万5,000円
課税対象額:1,617万7,000円
所得税額:313万4,000円
源泉徴収税額:317万7,000円
差引所得税納付額:-4万3,000円(還付)
※備考:消費税課税事業者
出版された著作
2000年1月『<白昼凶刃―隣りの殺人者〈2』(小学館文庫) ※『深川通り魔殺人事件』改題
2000年3月『法廷のなかの隣人たち』(潮出版社)
2000年4月『逃亡射殺 隣りの殺人者3』(小学館文庫) ※『旅人たちの南十字星』改題
2000年5月『成就者たち』(講談社)
2000年6月『女医絞殺 隣りの殺人4』(小学館文庫) ※『千葉大女医殺人事件』改題
2000年8月『組長狙撃 海燕ジョーの奇跡 隣りの殺人者5』(小学館文庫)
2000年9月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日学芸文庫)
2000年12月『宮崎勤裁判』(朝日学芸文庫)
2001年(平成13年)
収入額:2,478万円
経費額:1,567万円
課税対象額:1,395万円
所得税額:245万5,000円
源泉徴収税額:249万9,000円
差引所得税納付額:-4万4,000円(還付)
出版された著作
2001年1月『小説 大逆事件』(文藝春秋)
2001年4月『供述調書―佐木隆三作品集』(文藝春秋)
2001年7月『裁かれる家族―断たれた絆を法廷でみつめて』(東京書籍)
2001年11月『法廷の内と外で考える―犯罪者たちとの十年』(文芸社)
2002年(平成14年)
収入額:2,296万8,000円
経費額:1,048万7,000円
課税対象額:1,248万1,000円
所得税額:229万7,000円
源泉徴収税額:238万8,000円
差引所得税納付額:-34万1,000円(還付)
出版された著作
2002年4月『三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件』(小学館)
2002年11月『大義なきテロリスト―オウム法廷の16被告』(日本放送出版協会)
2003年(平成15年)
収入額:1,685万4,000円
経費額:936万4,000円
課税対象額:658万2,000円
所得税額:78万9,000円
源泉徴収税額:171万4,000円
差引所得税納付額:-92万4,000円(還付)
出版された著作
2003年5月『成就者たち』(講談社文庫)
2003年10月『少女監禁―「支配と服従」の密室で、いったい何が起きたのか』(青春出版社)
2004年(平成16年)
収入額:1,946万1,000円
経費額:1,053万8,000円
課税対象額:768万4,000円
所得税額:96万5,000円
源泉徴収税額:202万4,000円
差引所得税納付額:-105万9,000円(還付)
出版された著作
2004年2月『小説 大逆事件』
2004年2月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社)
2004年6月『証言台の母―小説医療過誤裁判』(弦書房)
2004年9月『深川通り魔殺人事件』(新風舎文庫)
2004年10月『宿老・田中熊吉伝』(文藝春秋)
2005年(平成17年)
収入額:1,763万9,000円
経費額:1,101万5,000円
課税対象額:662万3,000円
所得税額:66万8,000円
源泉徴収税額:177万8,000円
差引所得税納付額:-111万円(還付)
出版された著作
2005年6月『なぜ家族は殺し合ったのか』(青春出版社)
2005年11月『人はいつから「殺人者」になるのか』(青春出版社)
佐木隆三さんの生涯収入は?
30年間に渡る佐木隆三さんの収支はいかがだったでしょうか?
佐木隆三さんの30年間の総収入は9億6,400万円でした。
私自身の感想は「意外にコンスタントに、結構な額を稼いでおられたんだな」というものです。
また、著書が多く刊行された年も、そうでない年も収入に大差がないことが特徴的です。
これは佐木さんが、事件の裁判傍聴記を週刊誌に寄稿するなど、週刊雑誌分野での活動が多く、それなりの原稿料を受け取られていたからだと思います。
あと、経費については、収入が下がっても、毎年ある程度必要だったのは、取材活動に必要だったこともあるでしょうが、秘書を雇っておられたことも大きな要因だと思います。
2006年(平成18年)以降の佐木隆三さんは?
それでは、2006年以降の佐木隆三さんの著作をご紹介します。
2006年 刊行書籍なし
2007年4月『復讐するは我にあり(改訂新版)』(弦書房)
2007年12月『高炉の神様 宿老・田中熊吉伝』(文春文庫)
2008年8月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社文庫)
2009年2月『法廷に吹く風』(弦書房)
2009年11月『復讐するは我にあり 改訂新版』(文春文庫)
2011年9月『越山田中角栄 (ノンフィクション・シリーズ“人間”)』(七つの森書館)
2012年2月『わたしが出会った殺人者たち』(新潮社)
2013年 刊行書籍なし
2014年8月『わたしが出会った殺人者たち』(新潮文庫)
2015年10月31日逝去。
2018年1月『死刑囚 永山則夫 (P+D BOOKS)』(小学館)
2019年5月『沖縄と私と娼婦』(ちくま文庫)
佐木隆三さんのプロフィール・生涯をご紹介します
佐木隆三(さきりゅうぞう)さんプロフィール
1937年4月15日 朝鮮半島・朝鮮咸鏡北道穏城郡生まれ。
1941年 父親の召集により母親・兄姉とともに、両親の本籍地である広島県に引き上げる(父親は1945年7月1日にフィリピン・ミンダナオ島 サンボアンガにおいて戦死)。
1950年 母と兄姉とともに、福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)に移り住む。
1953年3月 八幡市立花尾中学校卒業(8歳年下で同じ花尾中学校OGに芥川賞作家の村田喜代子さんがいます)
1956年3月 福岡県立八幡中央高等学校卒業(ずっと後輩にパチンコを題材にしたマンガで有名な谷村ひとしさんがいます)
1956年4月 八幡製鉄株式会社(現・日本製鉄)入社
1963年5月 『ジャンケンポン協定』で、第3回新日本文学賞短編部門受賞
1964年7月 八幡製鉄株式会社(現・日本製鉄)退社
八幡製鉄を退職したあとは、NHK福岡放送局の〝放送台本のライター〟を中心に活動します。
そして1967年、ちょうど30歳で上京を果たします。
これは、学研(当時の社名は学習研究社)の嘱託として月額7万円がもらえることが決まったからです。
当時の大卒初任給は、まだ3万円に届かず、勤続年数25年~30年の地方公務員の平均給与が7万円弱でした。
嘱託とはいえかなりの好待遇です。
本当は、学研が週刊誌の取材記者、つまりは契約ライターを募集しており、その求人に応募したのですが、佐木さんは、面接試験後になぜか社長に呼ばれて、「雇わないことにしたから。取材記者は止めなさい」と告げられます。
佐木さんが理由を尋ねると「せっかく小説を書いて、短編集まで出している。嘱託として雇うから」といわれます。
学研の創業社長・古岡秀人は、幼くして父親を亡くした苦労人で九州・小倉の師範学校(現在の福岡教育大学)を出ていた、いわば佐木さんの故郷の先輩でした。
また、古川社長は五木寛之さんのお父さんとも親しい間柄で、こう見ていくと北九州だけでいろいろな有名人・著名人やその親族が繋がっていく気がします。
佐木さんは、社長の言葉に甘える形で上京を果たします。
昔のライター業は技能職で待遇も良かった!
ちなみに、当時のライターは技能職で、佐木さんより早くライターとなり、40歳を過ぎてから作家に転身して、『飢えて狼』でデビューを飾り、『背いて故郷』『裂けて海峡』などの傑作冒険小説を書いた作家の志水辰夫さんによると、
“当時のライターは、
「ひと月のうち一週間働けば食えた」”
“「週2日働けばよかった」”
と、現在とはまったく認識の違う、技能が必要と認知されている職業でした。
志水辰夫さんが1990年に発表して、日本冒険小説協会大賞を受賞、当時の『このミステリーがすごい』では、宮部みゆきさんの『龍は眠る』・大沢在昌さんの『毒猿-新宿鮫Ⅱ』を押さえて1位になった『行きずりの街』は、文庫<が2006年から売れ始め、2010年には映画化もされました。
現在までに文庫は70万部を超すロングセラーになっています
さて、この故郷が同じ学研の社長のおかげで、上京を果たした佐木さんは、嘱託の仕事が毎日出社しなくてもいい性格のものであったことから、小説執筆の時間を得ることになり、翌年『奇蹟の市』(文藝・河出書房新社)で第58回芥川賞候補になります。
残念ながら落選となり、選考委員では三島由紀夫や舟橋聖一、石川淳、そして、井上靖からは完全に黙殺されていますが、大岡昇平と瀧井孝作からは高評価を得ています。
そして、半年後には、『大将とわたし』が第59回の今度は直木賞候補に挙がります。
この回も落選でしたが、選考委員で露骨に黙殺されているのは2名だけで、褒めないまでも選評で触れられており、そのなかでも、大佛次郎と水上勉からは強く推されています。
そして佐木さんは1970年代初頭には、まだ本土復帰前の沖縄ゴザ市に移住して、今度はルポライターとして活躍します。
当時の佐木さんにとって収入源は『朝日ジャーナル』と『週刊アサヒ芸能』の原稿料でした。
この2つの雑誌はまったく性格が異なっており、佐木さんは『朝日ジャーナル』には、沖縄米軍基地で働く人々のストライキ運動など労働運動を中心に書き、『アサヒ芸能』には、娼婦を生業にしている女性のことや沖縄住民の生活ぶりを書きます。
実は、このように器用な書き分けができるライターは他におらず、佐木さん自身も当時の沖縄の現実を伝えたい思いが強く、このときは「小説家ではなく、ルポライターになってしまってもいい」と考えたようです。
しかし、運命の皮肉か、佐木さんは沖縄・ゴザでいきなり逮捕されます。
しかも、沖縄返還をめぐるデモの首謀者と疑われての逮捕でした。
結局、12日間の拘留の末、誤認逮捕で無実とわかって釈放されますが、そのとき逮捕された理由のひとつが〝作家だから〟というもの。
いい加減さに憤った佐木さんですが、本格的に〝犯罪〟へ目を向けるきっかけにもなりました。
そして、1978年11月後半、丹念に取材を重ねた『復讐するは我にあり (現在は文春文庫)』が講談社から出版されると、すぐに第74回直木賞候補となり、ぶっちぎりの強さで受賞します。
受賞作もベストセラーとなり、執筆依頼が相次ぎ月産300枚の状態が続きます。
そんな佐木さんですが、誤認逮捕ではなく、不祥事を起こして逮捕された経験があります。
1978年6月末に銀座で飲んだ帰り、佐木さんはタクシーに乗ろうとします。
同行していた友人にタクシーを止めてもらい、友人がタクシー運転手に「乗せてほしい」と交渉しますが、運転手からは「いや、タクシー乗り場でお願いします」と断られます。
これは、乗車拒否ではなくタクシー運転手の言い分が正しいのです。
銀座では、午後10時(22時)から午前1時間までは、タクシー乗り場でしか客を乗せないというルールがありました(いまでもあります)。
ところが、この友人が交渉をしているうちに、運転手側が(これ以上は関わり合いになりたくない)と思ったのか、まだ、窓ガラスに佐木さんの友人の手が入っている間にクルマを動かしました。
その光景を見た佐木さんは、何とタクシーのボンネットに飛び乗って暴れてしまいます。
結局、タクシー運転手も怒り出して、警察に言って白黒つけようと話し合いをとなるのですが、佐木さんはタクシーの窓ガラスを傷つけたとして、運転手から器物損壊罪で告訴され、現行犯逮捕されます。
翌日、ちょうど7月1日。
酔いが醒めた佐木さんは、とんでもないことをやらかしたことに気付いて、タクシー運転手に謝罪と破損させた窓ガラス代金を支払うことで、示談が成立。釈放されます。
このときはいまのネット社会の書き込みと同様に、多くの脅迫めいたハガキ・電話・手紙が自宅に送りつけられ、佐木さんの仕事の場であるマスコミでも、かなり叩かれます。
しかし、佐木さんは謝罪するところには謝罪して、反省すべきところは反省をして、したたかにこの状況を切り抜けると、しばらく禁酒をして〝月産400枚〟の新記録を打ち立てます。
その後、騒ぎも沈静化。
佐木さんは仕事から干されることはなく、この事件も忘れ去られ、何か物騒な事件が起これば「作家のサキリューゾーさんは」(場合によっては、小林久三さんだったりしましたが)と、独自の路を切り開いて、20世紀末まで駆け抜けます。
1999年に東京を離れ、福岡県北九州市門司区に新たに建ったマンションに移住します。
新築マンションで「さあ、落ちついて仕事をしよう」としようと思うまもなく、あの『下関通り魔殺人事件』が起こり、前後して『佐賀・長崎連続保険金殺人事件』の犯人逮捕と、佐木さんは故郷に戻っても事件と縁が続きました。
そして、2002年には『北九州監禁殺人事件』が発生。
この事件をモデルに書かれたフィクションは数多いです。
誉田哲也『ケモノの城 (双葉文庫)』
櫛木理宇『侵蝕 壊される家族の記録 (角川ホラー文庫)』
新堂冬樹『殺し合う家族 (徳間文庫)』
真梨幸子『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実 (徳間文庫)』
2005年には『広島小1女児殺人事件』発生。
たいへん不謹慎なのは承知の上なのですが、
〝佐木さんの行くところに事件が起こるのか〟
〝事件が起こるところに佐木さんがいるのか〟
正直、わからなくなってきます。
この2つの事件のあいだには、
『奈良小1女児殺害事件』が起こり、佐木さんは裁判の傍聴席に座り、故郷で落ちつくことのないまま〝裁判傍聴業〟を続けます。
並行して、佐木さんは故郷の為に尽くします。
2006年4月に北九州市立文学館館長に就任(2012年3月末の任期満期解嘱後は名誉館長に就任)
2009年4月からは北九州市立大学 特任教授を務め、九州国際大学 客員教授にも就任します。
プライベートでは、佐木さん自身が〝老老離婚〟と表現したように、2011年に二度目の離婚を経験。
住まいも、門司の高層マンションから風師山中腹にある元割烹料理店の和風家屋に移し、どの部屋に居ても海が眺められるように改装した〝風林山房〟(名付けは直木賞作家・古川薫氏)に移します。
ときおりは、NHK『サラメシ』でも放映された地元の老舗イタリアンのお店「ラ・パペリーナ-LaPaperina-」で、関門海峡でとれるワタリガニのトマトソースパスタに舌鼓を打ちながらこれまでの人生に思いを馳せたのでしょうか?
関門海峡がどの部屋からも見渡せる山荘で〝ふうちゃん〟と名付けた猫を友にして、10年弱の時間を過ごした佐木隆三さんは、2015年10月31日に下咽頭癌のため、北九州市内の病院で亡くなります。78歳でした。
遺骨は遺言どおり、関門海峡に散骨されました。
『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞してから40年が経っていました。
松本清張ほどではありませんが、佐木さんの人生は、『復讐するは我にあり』で二分されるような感を覚えます。
純文学に始まり、沖縄でルポライターとして活躍、そして辿り着いたノンフィクション・ノベルの世界。
その世界を人生の半分を費やして、見つめ続け書き続けた人生だったと感じます。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
参考資料
※以下の文献・資料を参考並びに引用させていただきました。
ありがとうございました。
『敍説. 3 : 文学批評』 (花書院)
佐木隆三『もう一つの青春―日曜作家のころ』(岩波書店)
佐木隆三『人生漂泊』(時事通信社)
佐木隆三『続人生漂泊』(時事通信社)
佐木隆三『無宿の思想』(時事通信社)
はる坊です。
今回は、キーエンスの新卒採用についてお伝えします。
2019年3月卒業の大学卒と大学院修了者の合算ですが、一流大学・有名大学以外からもキーエンスに採用されている学生はいます。
成蹊大学・・・2名
日本大学・・・4名
東洋大学・・・1名
愛知学院大学・・・1名
中京大学・・・1名
名城大学・・・1名
京都産業大学・・・1名
京都女子大学・・・1名
近畿大学・・・2名
東洋大学からは経済学部の学生。
愛知学院大学からは経営学部経営学科の男子学生。
中京大学からは経営学部の学生。
近畿大学からは法学部の学生。
が採用されています。
また、名城大学では2019年3月卒業生に続いて、2020年3月卒業見込みの法学部生が内定を勝ち取った模様です。
このデータを見ていきますと、いわゆる『学歴フィルター』による選別は、キーエンスではおこなわれていないことがわかります。
採用実績としては、国公立大学上位校・早慶上理・MARCH・関関同立以上の学生が数の上では多いことは確かです。
しかし、日東駒専・愛愛名中・産近甲龍クラスの学生も内定を勝ち取り、就職しています。
チャンスと可能性はあるのです。
最近は、入試でも就職でも安全志向が高まっており、
「『学歴フィルター』で落とされるからエントリーしない」
「どうせ一流企業・大企業は無理」
「自信がない」
「自分は○○大学だから・・・」
などの理由で、最初からその大学のレベルで内定を獲得できそうな企業を狙う学生も増えていますが、大企業・一流企業を最初から諦めるのはもったいないことです。
新卒就職のチャンス人生で一度きりです。
だったら、キーエンスに限らずですが、どんな有名企業・大企業でも、自分がすこしでも、
「行きたいな」
「働きたいな」
と思う企業があれば、挑戦してみたほうが、絶対にいいです。
何かをしなかった後悔は、ずっと続きますから・・・
キーエンスの採用についての考え方について、創業者で現在は名誉会長を務められている滝崎武光氏が、興味深い発言をインタビューのなかでされているので引用します。
“「偏差値の高い学生と低い学生を100名ずつ採用して、キーエンスで仕事をしてもらったら、偏差値の高い学生のほうが成果を挙げています。しかし、地頭の良さは別です」”
要するに、学力の高い学生を評価するものの、それは全てではなく、地頭の良さ・キーエンスに向いている学生という要素も充分に加味して、採用活動をおこなうのが基本路線であると考えることができます。
よって、世間的に偏差値の低い大学であっても、キーエンスに採用される可能性は充分に残されているわけです。
また、リード電機という社名だった当時から、キーエンスに商号が変更され、大阪証券取引所2部上場から東京証券取引所1部上場を果たしてからしばらくのあいだ、1980年代から1990年代初頭のキーエンスの役員を調べると、東京大学法学部出身者もいれば、世間的に馴染みのない学校の出身者もいました。
このことも、滝崎氏が上記の考えを持つに至った理由ではないかと、私は感じます。
いまでこそ、キーエンスは『モンスター企業』と呼ばれ、従業員の平均年収が2,000万円を超える企業になりましたが、1980年代は新卒採用でも中途採用でも、常に頭を悩ませていました。
離職率が高かったのです。
離職率の高さについては、キーエンスが1987年に大阪証券取引所第2部に新規上場する際にも、記者から指摘されており、滝崎氏は「改善している」と述べていますが、記者が質問事項に加えるほどですから、平均勤続年数が低い状況にあり、外部から投資対象として見た場合、不安要素であったことがうかがえます。
これは、
売上高ではなく営業利益・営業利益率を一番に考え、従業員に極めてロジカルな思考を求める滝崎氏の考え方に、経験者採用者を中心に、まだついていける風潮ではなかったこと。
また、
この時代には年間賞与も6ヶ月~7ヶ月分。
残業代もフル支給されていましたが、まだ、キーエンスの売上高は73億円(1987年3月期決算)に過ぎず、営業利益率は30%台後半とこの頃から高かったものの、激務に対して、給与も年収ベースでいくと他社よりも100万円ほど高い状況で、「割に合わない」と考える従業員が一定数おり、
退職したのが要因と考えられます。
次に、この時代と現在のキーエンスの業績から、従業員に与えられるインセンティブを見ていきましょう。
1987年のキーエンスは従業員330名程度でした。
売上高73億円(1987年3月期決算)で営業利益率が38%と仮定します。そうすると営業利益27億7400万円。
このうちの10%を、インセンティブとして、従業員の給与と賞与に加算します。
ひとり頭の年間インセンティブは84万円ほど。
2019年6月17日に第50期有価証券報告書が、関東財務局長宛に提出されました。
連結決算ではなく、キーエンス単体の数字を見ていきます。
2019年3月期決算(2018年4月1日~2019年3月31日)
売 上 高:4,584億2,300万円
経常利益:2,902億3,800万円
従 業 員:2,388名
営業利益ではなく経常利益ですが、キーエンスの場合、毎年、営業利益と経常利益に大きな差違は見受けられませんので、経常利益率を算出しますが、経常利益率は63.31%です。
このうちの10%を、インセンティブとして、従業員の給与と賞与に加算します。
ひとり頭の年間インセンティブは1215万4020円になります。
単純計算ですが1987年と比較して、従業員に与えられるインセンティブは14.47倍に増加しています。
このインセンティブがキーエンス従業員の年収に反映されます。
キーエンスが高収入・高年収を誇る企業である秘密と理由がここにあります。
キーエンスの新卒採用では、エントリーシートの提出はありません。
面接を重ねた選考をおこなっています。
まず、説明会に参加すること。
ここから選考がスタートします。
この説明会は、キーエンス本社ではなく、有名ホテルの大広間が使用されます。
4年制大学の卒業見込みであれば、どこの大学でも性別に関係なく、どなたでも参加できます。
これは、広く門戸を開いていることを学生にアピールすることも、狙いなのでしょう。
この説明会は、東京と大阪で複数回おこなわれます。
説明会終了後に、性格検査と20秒で自己PRを人事担当者の前でおこないます。
これが第1次選考です。
(ここは通過する学生が相当数います)
説得面接です
ここで、すでに営業力を図る段階に入っています。
「私は○○が嫌いです。そんな私を○○が好きになるように話してください」というものです。
面接官は、○○が嫌いだという理由を述べて、学生を説得しようとします。
ここで面接官に説得されてしまった学生は、ここで選考から落ちる傾向が強いです。
また、制限時間内に面接官を説得できなくても、学生側が面接官を○○好きになるよう話す内容によっては、次の選考に進む学生もいます。
第3次選考は、カメラ面接
カメラで学生の姿を360度映して、面接をおこないます。
これは、多面的に学生を評価する狙いがあります。ここで最終選考に残す学生が決められます。
(ここで一気にふるいに掛けられます)
最終選考は、人事担当者と1対1での面接です。
ここでは、質問に対する回答について、かなり深いところまで突っ込まれます。
キーエンスに向いている学生かどうか?
キーエンスで働いていくことに必要なロジカルな思考の持ち主かどうか?
深いところまで突っ込まれ、突き詰められても破綻なく会話を成立させることができるかどうか?
これをクリアすれば、内定です。
元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。
↓
次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。
↓
一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。
ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。
『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。
↓
他にも元キーエンスの方が書かれた本があります。
参考にはなりますが、あえてこの場でおすすめするのは、控えさせていただきます。
2019年3月卒業生の大学別キーエンス就職実績一覧表です。
大学か大学院修士か、学部・学科はどこかまでは記載しておりませんが、参考にはなるかと思います。
東京大学・・・9名
京都大学・・・8名
北海道大学・・・2名
東北大学・・・1名
大阪大学・・・5名
九州大学・・・1名
東京工業大学・・・8名
筑波大学・・・3名
千葉大学・・・1名
東京外国語大学・・・1名
首都大学東京・・・1名
横浜国立大学・・・3名
横浜市立大学・・・1名
大阪市立大学・・・1名
大阪府立大学・・・1名
神戸大学・・・1名
広島大学・・・1名
早稲田大学・・・33名
慶應義塾大学・・・38名
上智大学・・・4名
明治大学・・・17名
青山学院大学・・・4名
立教大学・・・8名
中央大学・・・8名
法政大学・・・4名
成蹊大学・・・2名
日本大学・・・4名
東洋大学・・・1名
東京理科大学・・・1名
芝浦工業大学・・・1名
愛知学院大学・・・1名
中京大学・・・1名
南山大学・・・3名
名城大学・・・1名
同志社大学・・・19名
立命館大学・・・16名
関西大学・・・4名
関西学院大学・・・9名
京都産業大学・・・1名
京都女子大学・・・1名
近畿大学・・・2名
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
最初からキーエンスと創業者・滝崎武光氏について読んでくださる方はこちらから。
↓
↓
⇒資産約2兆円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス①
元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。
↓
次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。
↓
一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。
ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。
『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。
↓
はる坊です。
映画やTVドラマで食をテーマにしたモノには人気があります。
その原作となっているのは、漫画や小説であることが多いです。
コミック作品がアニメ化されるのは珍しいことではありませんが、映画化やTVドラマ化されるのは、一般的にグルメものは視聴者にウケがいいと制作サイドが考えているからではないでしょうか。
漫画なら
『孤独のグルメ』(原作:久住昌之 作画:谷口ジロー)
『ワカコ酒』(新久千映)
『忘却のサチコ』(阿部潤)
『サチのお寺ごはん』(かねもりあやみ 原案協力:久住昌之 監修:青江覚峰)
『ラーメン大好き小泉さん』(鳴見なる)
などなど。
小説においても、
村上春樹や池波正太郎の料理や食事シーンの描写は特に巧みです。
村上作品の料理については『村上レシピ』として出版されていますし、池波正太郎はグルメについてのエッセイや生前愛した店をまとめた本も出版されています。
また、
『強運の持ち主』(瀬尾まいこ)
『食堂かたつむり』『喋々喃々』(小川糸)
の食に関するシーンは魅力的ですし、
『みをつくし料理帳』(高田郁)に至っては、この作品内に登場する料理のレシピ集『澪の料理帖』が出版されるまでになりました。
基本的に、作中の料理や食事シーンは、著者が、
「このキャラクターならこんなメニューが好きだろう。似合うだろうな」
とか、
「このキャラクターにはこういう料理を作らせたい」
という願望や読者サービスで描いているケースが多いのではないかと思います。
無論、作者の趣味・趣向が反映されていることはいうまでもありませんが。
そんななか、日本におけるハードボイルド小説の先駆者である大藪春彦は、作中のキャラクターと作者自身を同化させている人物であったと思います。
『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』が代表作になると思いますが、早稲田大学教育学部英文学科在学中に『野獣死すべし』を発表して、一躍〝売れっ子作家〟となった大藪は、これまでの貧弱な食生活に復讐するかのように、好き放題に食材を買い込み、外食に出掛けます。
実際のところ、大藪自身は『野獣死すべし』がベストセラーとなり映画化された(大藪が映画化の際に受けとった原作料は大卒初任給1万3000円の時代に50万円でした)といっても、専業作家・筆一本の生活に不安を覚えて、教員免許取得を目指して都内の私立女子高で教育実習をおこなっています。
ただ、その実習で黒板に銃の絵を描いて女子高生相手に銃の構造を説明したところ、現場の教師に怒られたエピソードもあるようですが。
また、卒業論文も執筆しましたが、作家稼業が多忙になり、結局のところ教員免許取得はできないまま早大を中退しています。
さて、大藪作品の特徴は、銃やクルマなどのメカニックについての描写が延々と続くイメージがありますが、実際のところは、作中全体にあらゆるもののディテールが盛り込まれています。
例えば、1960年代に書かれた大藪作品を読むと、時代背景や舞台となった場所の様子が克明に書かれています。
1970年代に描かれた作品も同じです。
大藪春彦は作品執筆中に少しでも気になることがあると、徹底的に調べ、時には自ら赴いて場所を正確に確認することを怠りませんでした。
そして、これは食事に関してもです。
大藪春彦は早大在学中の1958年(昭和33年)に『野獣死すべし』でデビューを果たし、一躍ベストセラー作家となると、23歳の若き青年作家は、小説執筆のエネルギー源として、買い物かごいっぱいに食材を買い込みます。
“「毎日、モツの焼き肉2キロ。カニだとでっかい毛ガニ三匹。マグロだとネギマ用の骨つき大なべにいっぱい」”
(引用:大藪春彦『荒野からの銃火』1979年 角川文庫より)
1961年(昭和36年)に、大藪は静龍子さんと結婚します。
龍子さんは日本大学文学部卒業後に、森脇文庫の『週刊スリラー』の編集者となり、大藪の担当編集者になったのが縁でした。
1996年(平成8年)2月26日に大藪春彦は61歳で亡くなります。
大藪と縁の深かった徳間書店では、その年の7月に『問題小説 増刊号 大藪春彦の世界』を出版しています。
この雑誌で、森村誠一と船戸与一が対談をしています。
そのなかで、大藪の早世を悼みながら、
“船戸:「前に大藪さんと対談したときに、新婚当初に夫婦ですき焼きとなるとだいたい一キロ肉を買ってきたというんですね。いくら何でも奥さんは、二百グラムも食えばいいと思うんですよ。そうしたらやっぱり大藪さんが八百グラム食っている(笑)」
森村:「めちゃくちゃなパワーですよね」”
という箇所がありますが、実際に大藪春彦と船戸与一が対談をした『諸士乱想 トーク・セッション18』(1994年 ベストセラーズ)を読むと、
大藪は、“「(龍子夫人と)ふたりですき焼きをするときには、肉を三キロ入れて食った」”
と語っています。
大藪春彦も船戸与一も故人となったいまでは、確認の仕様もありませんが、当時は、今よりも高級品だったすき焼き用の牛肉を大量に食べていたことだけは間違いないでしょう。
作家デビューを果たし、一躍流行作家となった大藪春彦は膨大な原稿を書きながら、狩猟にも精を出します。
あるとき、友人が和歌山県有田市にイノシシ猟に行き、大成果を挙げた報告を受けた大藪は居ても立ってもいられず、仕事を無理矢理に片付けて、勇躍、有田に向かいます。
大藪もイノシシ猟で大きな成果を挙げて、夜には地元の人と酒を飲みながらイノシシ肉を平らげます。
これが3日続いたあと、すっかりイノシシ肉を気に入った大藪は、お土産に大量のシシ肉を持ち帰り、東京でもイノシシ肉のすき焼きを楽しみます。
しかし、このときの大藪は鯨飲馬食で血圧が上昇していました。紀州でイノシシを追い続けていた3日間は汗まみれになって活動しているからいいのですが、東京で手先しか動かさない日々に戻ると、慢性的な睡眠不足と精神的な疲労もあり、大量の鼻血を鼻から吹き出す仕儀となります。
(イノシシ肉を大量に食べ続けると赤血球を破壊する作用があるようですね)
それでも、編集者は横で原稿を急ぐようにせっつきますが、ついに意識が朦朧としてきた大藪は病院に担ぎこまれて、1ヶ月ものあいだ、輸血を受ける羽目になります。
そのあいだも、大藪は口述筆記で仕事を続けなければなりませんでした。
1963年(昭和38年)頃には、チーズに凝ります。
世界中のチーズを収集して、グリュイエールをパンと同じ厚さに切ってロシアピクルスと一緒にサンドイッチにしてパクつきます。
しかし、ブルーチーズは分厚く切るのではなく、薄く切って2,3切れつまむほうが風味を味わえるとの結論に達します。
ちなみにチーズについては、一体どれだけの量を集めたのか、最後には冷蔵庫から耐えがたい肥だめのようなニオイを発し出したというオチがつきました。
この頃には、酒も自家製カクテルに凝り出します。
ウォッカ・マルティーニ(ウォッカ・マティーニ)をストリーチナヤ(ストリチナヤ)のウォッカを2本分痛飲します。
また、自家製カクテルでは、ジンフィズに凝った時期もあり、各社の担当編集者は、バーテンダー・大藪春彦に付き合わされることになりました。
また、ソーセージにも凝りました。
大藪はハムが好きではなく、ソーセージが大好物でした。
ソーセージのなかでも、ボロニアソーセージやレバーソーセージがお気に入りで、1万円分ほどを買い込んでは、3日と保たず食べ尽くしました。
ちなみにこの話は1966年(昭和41年)に発表されたものです。
当時の大卒初任給は24,900円。
そんな時代に、1万円分のソーセージを3日足らずで食べ尽くしてしまうエネルギーには驚かされます。
大藪春彦は自分で料理をすることもありました。
自信のメニューはカツオのたたき、ビーフステーキ、ローストビーフ。
ときには、家族で、そして自宅に集った仲間に振る舞い。好評を博したようです。
自身の作品世界に登場する主人公・伊達邦彦 朝倉哲也 北野晶夫 西城秀夫 石川克也 杉田淳たちが好むメニューを大藪自身も好みました。
元々、大藪は中華料理好きでしたが、香港に取材旅行に赴いた際に現地で味わった美味が忘れられず、帰国後は、“「同じような味にめぐり会いたい」”と横浜中華街を一軒一軒試し歩きます。
大金をはたいて、巡礼者のごとく中華街をうろつきますが、満足できる店が見つからず、ついにあるお店で〝アワビのハラワタのからあげ〟を見つけたときは、感動をしたようです。
(これは馳星周の『マンゴープリン』のエピソードと少し似ていますね。)
また、大藪春彦=肉類・ステーキというイメージがありますが、海産物も大好きで、新潟に猟へ出掛けた際には、寒ブリと子持ちスケソウダラ、そして越後米の味に感激しています。
ウニ・アワビ・エビなどは、わざわざ新鮮なものを求めて、海岸にある店に食べに出掛け、晩酌の肴に刺身を食べるときは、最低3人前を食べないと気が済みませんでした。
大藪春彦は1964年(昭和39年)の終わりに、東南アジアとヨーロッパを訪れます。
そして、〝アブランド・ゲーム〟と呼ばれる、ヤマドリ・キジ・コジュウケイなどを標的とする猟にのめり込みます。
そして、1970年代に入ると、本格的に海外にハンティングに出掛けるようになります。
1972年 アラスカ
1973年 ニュージーランド・オーストラリア
1975年 アフリカ・ザンビア
1977年 モンゴル・ハエ・アルタイ山脈、カナダロッキー、モンタナロッキー
1980年 アフリカのサファリ
1981年 アメリカでシューティングツアーに参加
1982年に急性膵炎に倒れるまで、世界中で〝ザ・ビッグ・ゲーム〟を続けました。
そのなかで、野性の味に舌鼓を打ちます。
大藪曰く、
・ムース(大ヘラジカ)は、ステーキやカツレツにすると美味い。
・赤シカはステーキやシチューにするといい。ただしメス。
・ナイル川を泳ぐナイルワニの尻尾は、エビの味に似ている。
・象の鼻はゼラチン質。
・オーストラリアのオオトカゲのしっぽの蒸し焼きは、イカの生干しそっくりの味。
前述しましたように、1982年に大藪は膵炎に倒れます。そして、亡くなるまでに3度の入院を経験して、最後までこの病に悩まされることとなります。
晩年の大藪春彦は、酒もほとんど飲まず、タバコも1日5本までに制限されます。
それでも、退院後は、ラーメンを食し、やがて大盛りを頼むようになります。
最晩年は、自宅近くのそば屋の天盛りを好みました。(もちろん、大盛りです)
1996年2月26日 夕方近く 大藪春彦はこの世から旅立ちました。
享年61。
最後に食したのは、龍子夫人とともにした昼食で出された甘塩鮭でした。
自分のぶんを平らげると、龍子夫人の分まで手を付けます。
大藪春彦は、最後までグルマン・食いしん坊を貫き通しました。
大藪春彦は鳥猟の相棒として、チリーと名付けたセッターを千葉県のハンターから譲り受けました。
大藪の相棒として、そして猟犬としては優れていましたが、大藪が仲間と狩りに出掛けて、仲間が撃った鳥は口にくわえて戻ってこずに、土の中に埋めてしまうという癖もありました。
ある日、大藪が家族とともに自宅に戻ると、異臭が漂っていました。
チリーが大藪の酒の肴であるスルメを大量に食べて、水を飲み、胃の中で膨らんだスルメを吐き出していたからです。
ビックリする大藪家の面々をよそに、チリーは洋室でグーグーと大いびきをかきながらお休み中でした。
チリーは、大藪の晩酌風景を見ていて、スルメに興味を持ったのでしょう。
家庭に飼われる犬としては、少し間抜けな面があったようですが、チリーは大藪家にとってかけがえのない家族だった、と思います。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
はる坊です。
その4では、杉山治夫がどのように金融債権を回収していたか、そして、限りなく残酷にみえる杉山の意外な一面、そしてバブル期の不動産への進出についてご紹介しました。
続いて、杉山治夫の生涯をみていきましょう。
杉山の新たな標的、それはノンバンクでした。
ノンバンクは百戦錬磨の杉山にとって、格好の狩り場となったのです。
ノンバンクは銀行に比べて、貸す相手の身元審査も緩く、融資可能と判断すればドンドン金を貸しました。
担保としては土地が一番確かですが、杉山がおこなったのは、〝銀行預金証書〟による巨額の〝パクリ〟でした。
時は、バブル経済期、金あまりで融資先を血眼で探していたノンバンクは、杉山にとって、赤子を捻るような存在でした。
もちろん、杉山は詐欺罪に問われないように、合法・非合法スレスレに身を置いて、完全金融犯罪を目論みます。
杉山がまず取り込んだのは、銀行員でした。
高額の給与を得ている彼らですが、毎日のように億単位の融資話が決まっていく中で、自らの収入に不満を持っていることに、目を付けたのです。
そんな不満を抱えている銀行員を、杉山は口八丁で持ち上げ、酒と女性の接待を繰り返して、取り込んでいきます。
すっかり杉山の忠実な僕と化した銀行員は、支店長に、杉山グループの信頼度や将来性を吹き込んで、大型の貸付先として有望であると吹き込みます。
無論、杉山もその支店に相当額の預金をおこないます。
そうすると、支店長との付き合いも始まります。
すでに、手先となっていた銀行員から、支店長の個人情報を掴んでいた杉山は、接待に加えて、封筒に入れた100万円の裏金を渡します。
最初は、淡々と杉山に接していた支店長も、度重なる接待とその都度渡される裏金によって、杉山に取り込まれていきます。
3ヶ月が過ぎると、支店長の金銭感覚も狂いはじめ、杉山の裏金を頼りにするようになりました。
そこからが、杉山の本領が発揮されるときです。
預金証書を多めに作ってくれるよう、耳元に囁くのです。
一瞬は、躊躇する支店長ですが、一度くらいはいいかという気持ちで、翌日には、預金証書を杉山に渡すことになります。
これから、杉山の餌食となることも知らずに・・・
預金証書を偽造して、それを担保にノンバンクから金を借り、それがバレれば即逮捕ですが、杉山は本物の預金証書を、現役の銀行員に用意させていたのです。
その預金証書の金額は、実際の預金証書の数百倍の額が記入されていました。
杉山は、この預金証書を担保に、ノンバンクから巨額の融資を受けます。
利子の返済はすべて手形によっておこないました、最初は500万円程度、そしてノンバンクからの信用度を深める為に、1000万円、2000万円、3000万円、5000万円と額を上げていきます。
ノンバンクの金利は銀行に比べて高額ですが、杉山はこの金利を気前よく払います。ノンバンクの幹部にも、杉山は例の接待攻勢で近付いていきます。
杉山率いる杉山グループの傘下企業は無数に存在しました。
その傘下企業に銀行の預金証書を担保にノンバンクからどんどん融資をさせていったのです。
やがて、銀行の支店長からは泣きが入ります。
これ以上、預金証書の件は、勘弁して欲しいと。
ここで杉山は本性を現して、支店長に預金証書をドンドン持ってくるように迫ります。
いつのまにか、杉山との立場が完全に逆転していたことを知った支店長は青ざめながら、あらためて自分の置かれた地位が断崖絶壁にあることを悟ります。
支店長は、杉山のいいなりになる駒に過ぎなくなっていました。
杉山グループ傘下の企業は、ほとんどが実態の経営状態にないダミー企業でした。
あるとき、そのダミー企業群から相次いで不渡り手形が乱発されます。
1989年、総額1200億円の巨額の不渡り手形を出して、ダミー企業はどんどん偽装倒産をしていきました。
杉山は、1200億円の巨額資産を得たことになります。
被害にあったノンバンクは20数社に及ぶと杉山は語っていますが、杉山自身にどこまで良心の呵責があったかどうか。
この件に関しては、羊が狼に喰われるのはあたりまえだと思っていたと感じます。
バブル経済期に、大阪で女相場師と呼ばれた尾上縫という女性がいました。
1930年に奈良県で生まれていますが、生い立ちは貧しいものでした。
結婚生活にも破れ、料亭の仲居として過ごす中で、関西の有力財界人のお眼鏡に叶い、自分の料亭を構えるまでになります。
尾上は、一介の料亭の女将でしたが、博才のあった女性のようで、ギャンブルやどの銘柄の株が上がるかなど、次々に当てては、周囲を驚かせていたようです。
そしてバブル期に突入すると、大阪・北浜では、
「あの料亭の女将が上がると言った株は必ず上がる」
と噂されるようになり、証券マンたちが彼女の元へ日参するようになります。
尾上は、後ろに証券マンたちを跪かせては、祈祷をおこない、
「○○株は上がるぞよ」
「○○株は下がるぞよ」
と、まるで神がかり的な存在であるかのように見せては、預金証書を担保にノンバンクから、株式投資用の資金を借り集めて、派手に儲けていました。
バブル期は、株価がどんどん上がっていった時代です。
そんな、わけのわからないまじない師のような真似をしなくとも、株式投資で利益を得ることは簡単だったはずですが、自らの力を大きく見せることと、大勢の男たちが自分に跪く快感に、尾上縫は溺れていきました。
尾上も預金証書を担保に、ノンバンクから資金を借り入れていましたが、この預金証書は、偽造したものでした。
完全な詐欺です。
バブルが弾けた1991年8月13日、尾上縫は逮捕されました。
金融機関からの総借入額は何と2兆7700億円。
偽造した架空預金証書の総額は7400億円に上ったといわれ、うち東洋信用金庫は、この巨額詐欺事件が主因となり経営破綻しました。
結果、尾上縫は、破産手続きをおこないますが、その額は負債総額4320億円という個人としては史上最高額でした。
尾上はその後、実刑12年が確定。
仮釈放後の2014年に亡くなっています。
さすがの杉山治夫も、尾上がでっち上げた架空預金証書の総額には驚きを隠せなかったと語り、バブル経済についても、
“「所詮は、バブル。いつしかみずからもはじけて消える。はかないものだ」”
という感想を残しています。
バブル経済崩壊で、次々と名を馳せた人々が破滅していくなかで、杉山治夫はしぶとく生き残ります。
しかし、1990年6月25日に恐喝事件の共犯として逮捕された経験を持っています。
この件について杉山は、
“「事実無根だった」”
と語り、連日朝6時から深夜12時までに及ぶ取り調べにも抵抗します。
また、毎日、500万円から5000万円の金を差し入れさせて、弁護士費用が潤沢にあることを示した上で、7人の敏腕弁護士による弁護団を結成、杉山本人も一切食事を取らないハンガーストライキをおこなって、検事たちを慌てさせます。
独房に入れられていたとき、久々に味わうひもじさに、杉山は極貧時代を思い出し、感傷的な気持ちになったと語っています。
“「そういやあ、わしも昔は庶民やったんや・・・。いやいや、庶民よりももっと低い生活をしていたんや・・・。いつのまにか、そのときのことを忘れかけていたのかもしれんなあ」”
結果、7月16日。
杉山は不起訴処分となって釈放されます。
この件に関しては、無実でしたが、杉山はまったく〝シロ〟の人間ではありませんでした。
1985年に、杉山は550億円の脱税容疑で、国税庁に踏み込まれたことがあります。
しかし、脱税の時効を迎えていた為、結局は、脱税の罪に問われることはなかった、と語っています。
また、バブル期には〝株式会社 全国金満家協会〟という会社を立ち上げ、〝驚異の高収益事業〟として、資金を集めます。
総資産550億円 配当率 年1割以上保証、1989年・1990年は連続配当率2割をうたいました。
杉山の手掛けていたビジネスからすると、出資者から年に1割~2割の配当を支払っても、杉山の元には、余りある巨額の金が舞い込んでいたのでしょう。
自らを〝金儲けの生き神〟と称した杉山治夫。
1992年に放送を開始した『浅草ヤング洋品店』(通称『浅ヤン』のちの『ASAYAN』)にも、愛人兼本妻(結局、愛人なのか本妻なのかどっちだ?)のゆかりさんという女性とともに登場しています。
このあたりまでが、杉山治夫の人生が輝いていた時代といえると思います。
人間には、その能力を最大限に活かせる期限があると、私は考えています。
いかに恵まれた能力や才能を持っていても、時間とともに消費されていきます。
また、時代も変わっていきます。
ここらで引退宣言をして、余生を過ごせば良かったのかもしれないと感じます。
例えば、これまでの経験を語りおろして小説や漫画原作にすれば、リアリティのある面白いものができたのではないかとも思います。
しかし、持って生まれた杉山の本能は、留まることを知りませんでした。
時代は流れ、2002年3月21日に杉山治夫は逮捕されます。
偽造した借用証書を使用して民事訴訟を起こし、相手から金銭をだまし取ろうとした訴訟詐欺の疑いでした。
杉山治夫64歳でした。
公判で、杉山は暴れに暴れます。
被告人席に座らず、傍聴席に向かって、「おまえのせいだ」と叫び、果てには「俺は天皇の孫だ」とまで、法廷にその叫び声を響かせます。
公判は休廷を挟みながらおこなわれました。
杉山は、長期間の実刑判決が下ることを、その法知識から確信していたでしょう。
少しでも、刑を軽くする為、あわよくば逃れる為、精神異常、精神耗弱状態にあることを装いたかったのかもしれません。
しかし、それは無駄なあがきでした。
2003年4月17日、杉山治夫に対して東京地方裁判所は懲役7年6ヶ月の実刑判決を言い渡しました。
求刑は8年でしたが、ほぼ求刑どおりの判決が出たことになります。
収監された杉山は、2009年に癌で死亡します。
獄中死でした。
その死は、公にされることはありませんでした。
理由として、杉山は多くの愛人を抱えており、そのあいだには子どもも儲けていたようです。
いわゆる相続問題を表に出したくなかったことが考えられます。
杉山治夫亡き後、杉山グループの企業はこの世からなくなっています。
日本百貨通信販売も全国金満家協会も登記簿は既に閉鎖されています。
杉山が稼ぎに稼いだ巨額の資産も、いまでは散逸しているのではないでしょうか。
獄窓で杉山が何を思っていたか。
癌による死の寸前、杉山の脳裏によぎったものはなにか。
それを知りたい気持ちはありますが、知る術はないでしょう。
極貧の生い立ちから商売人として成り上がるも2度の倒産を経験して、金融業にばく進していった人生。
極悪人と自他ともに認め、金と刺激を求め続けた71年間の生涯でした。
最後に、杉山治夫が残した言葉から、名言と呼べるものを選んでみました。
案外、まともというか、金科玉条にしてもいいくらいのことを言っています。
「会社が潰れても、別会社を作ればいくらでもチャンスは転がっている。わしもここまで来るのにたくさんの会社を潰してきた」
「杉山流金銭哲学を伝授しよう。傘一本の理論。こう呼んでいるのがわしの根本的金銭哲学だ。雨の日に傘を持ち合わせていない人は、傘を買おうとして平気で財布を開いてしまう。これでは金を残せるわけがない。雨の日には傘は落ちてはいない。ならば晴れの日はどうだ。手持ち無沙汰になったり、いらなくなった傘が無造作にそこらじゅうに捨ててあるではないか。晴れの日に傘を拾い、雨の日に使う、これが傘一本の理論だ」
「ルンペンを見習うことだ。連中のほうがあなたよりも金を残しているかもしれない。衣食住すべてただの生活をしているのだ。ちょっとでも働けば金が残る計算になる。ルンペンになった気になればなんでもできる」
「金はないところには集まらない。金はあるところに集まるものだ。さみしがり屋の金どものために、まずは彼らの友だちを作ってやることだ。それがいつのまにか増えて、次へとステップを踏ませてくれる」
「金が金を呼ぶ。たまったらわしのようにマネーゲームと思って、何かをするもよし、負けても命をとられることはめったにない」
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
特に、その1から読み続けてくださった方には、厚く御礼申し上げます。
⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1
その2・その3・その4の杉山治夫の記事を読んでくださる方は、こちらからお願いいたします。
その2
⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2
その3
⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3
その4
⇒日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4
杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!』
(※杉山治夫の自著のなかでは、この本が一番のおすすめです)
杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝』
本橋信宏『悪人志願』
本橋信宏『心を開かせる技術』
はる坊です。
その3では、杉山治夫が唯一尊敬していた人物・小林大二郎氏に諭され、組織を抜けることを決意し、東京に移り住み、川崎で一年間のヒモ生活を送りながら100万円を元手に金融業を始め、翌年に東京・新宿に拠点を移し、金融債権取り立て屋として名を馳せて、日本百貨通信販売を核とした杉山グループの形成までをご紹介しました。
それでは、引き続き杉山治夫の生涯をみていきましょう。
1983年に貸金業規制法(サラ金規制法)が制定される以前は、貸金の取り立てはまさにやりたい放題だったと杉山が述懐しています。
では、〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身をみていきましょう。
これは、サラ金業者に広く伝わり、現在では当たり前、いや、それ以上のことをする業者もいるかもしれません。
ただし、絶対にマネをしたりしないでください。
もし、あなたがマネをして不利益を被ることがあっても、私は一切責任を持ちません。
杉山の元に金を借りに来る人間は、そもそも他の消費者金融から相手にされなくなった人間でした。
そんな彼らに、杉山は金を貸します。それは、どんな相手からでも取り立てる確信があるからです。
貸金の返済期限が過ぎると、日本百貨通信販売 管理本部に関係書類が上がってきます。
ここには、借主の住所・氏名・家族構成・勤務先などが明記されています。
まずは、女性社員が電話連絡を入れて、返済を求めます。
あくまでもやんわりとした口調で、返済意志の有無を確認します。ここで、相手に返済意志があれば、少しの猶予を与えます。
電話が掛かってきた時点で、杉山がどんな人物か、杉山グループがどんな存在かを相手が知っていれば、借主は慌てて返済をしてきたといいます。
しかし、借金に慣れてのらりくらりと返済を渋る態度を見せたり、行方をくらませたりする客も出てきます。
そのときには、〝杉山式幸福の手紙〟なるものが借主に送られます。
一番はじめに送る、〝催告状〟と大書きされたハガキは、縁も印字もすべて真っ赤なインクで印刷されています。
こんなハガキを受け取ったら、一体、何事が起こったのかと思います。
このハガキの効果は抜群で、多くの借主は不気味さを覚えて返済をしてきたようですが、それでも、居直って返済をしてこない人間もいます。
そんな人間に対して、〝杉山式幸福の手紙〟はどんどんエスカレートしていきます。
何だか文面がとんでもなくとんちんかんでですが、これはわざとだと杉山が語っています。
読む者に不安感を抱かせるのが一番の目的だと。
このあたりについては、感心はしませんが、長年の経験からか、杉山が人間心理を読むのに長けていたと感じます。
杉山の取り立てに耐えかねて、行方をくらませる債務者もいました。
ところが、杉山はそんな債務者からも、取り立てを成功させています。
行方をくらませたものの、自分の家がどうなっているかが気になり、闇に紛れて、家の様子を探りにくるのが、人間の心理だと杉山は見抜いていました。
そこで、郵便ポストにこんな返信用ハガキを入れておくのです。
送り主は『日本運命学協会 抽出者現金送付係』
裏面には、債務者に希望を与える文面が書かれていました。
「よかったですね。おめでとうございます」
続けて、あなたに1,620円が当たったという報せが書かれていました。
更に、ダブルプレゼントとして、最高賞金100万円が当たるチャンスの申込書も添えられていました。
債務者は、『日本運命学協会』など知りません。
普通なら気味悪がって、破り捨ててしまうところです。
しかし、切羽詰まった債務者は、ワラにもすがる気持ちで、返信用ハガキに、現住所を書き込んで投函してしまうのです。
『日本運命学協会』の所在地は、東京都豊島区東池袋。
これも、杉山が自らの拠点である新宿区内だと、債務者に勘づかれる恐れがあると、まったく関係なさそうな東池袋に所在地をもってきたのでしょう。
やがて、日本運命学協会を名乗る人間から、債務者に電話連絡が行き、家にいることを確認してから、債務者の元へ向かい、当選金1,620円を手渡しで渡します。
「おめでとうございます。本当によかったですね。これもあなたが常日頃真面目に生きてきたからですよ
債務者(当選者)はありがたそうに賞金を受け取ります。
ところが、現金を渡してくれた柔和な顔をした男の後ろに、獰猛な顔つきの男たちがいることを知って愕然となります。
当選金1,620円をキチンと渡した上で、借金を返済するように強く迫ります。
子どもだましのようなやり口ですが、金に困り、切羽詰まった人間が相手なので、この方法は面白いほど決まったようです。
しかし、1,620円を受け取り安堵している債務者が、そのすぐ後ろに杉山グループの取り立て人が控えていたことを知るやいなや、まさに天国から地獄で、発狂してしまった例もあるようです。
さて、杉山治夫とそのグループの拠点は、新宿二丁目にありました。
新宿二丁目といいますと、ゲイバー・ゲイスポットが乱立している場所です。
なぜ、杉山はこの場所に拠点を構えていたかというと、その理由を杉山は、
“「わしの俗悪趣味にぴったりだったから」”
と語っていますが、この言葉を額面通りに受け取るのは早いと思います。
前述したようにゲイバー・ゲイスポットとして知られる新宿二丁目に拠点を構えることで、不気味さを演出する部分もあったとは思います。
しかし同時に、現在のようにLGBTや同性愛に理解がなかった時代。
そんななかで、たくましく生きている彼らに、世間から忌み嫌われていた杉山は、どこかでシンパシーを覚えていたのかも知れないと感じます。
杉山治夫は、極貧の生い立ちがトラウマになって、弱者に対して必要以上に残酷な取り立てをおこないました。
しかし、必死で頑張ろうとする者には、
“「まだ若いんやから、死ぬ気でがんばればなんでもできるやないか」”
と励ましの言葉を掛けたり、就職の世話をして、返済の猶予をする一面もあったようです。
-「死んだ気でやればなんでもできるんや」
杉山の取り立て行為はとても許されるものではありませんが、人間は奥深いものです。
鬼畜としかいいようのない言動をみせる人間にも、こんな一面は隠されていました。
しかし、拠点のビル内には、取り立て用のファイルが棚にギッシリと収められていました。
1万件以上の債務者資料が整頓されてファイルされていたのです。
転居者不明・差し押さえ・当て所知らず・執行不要・内容証明・異議申し立て・訴訟和解・興信所調査中・戸籍謄本申請・会社謄本申請・・・
そして、死亡・自殺・一家心中・殺人・逃亡・夜逃げという物騒な項目も。
杉山は取り立て成功率98%と豪語していました。
残り2%は、自殺・一家心中を選んだ方々です。
杉山がどれほど過酷な取り立てをしていたかがわかるエピソードです。
マスコミは、杉山の取り立ての残酷さを報じて、〝極悪人〟の烙印を押しました。
しかし、皮肉なことに、マスコミが杉山を取り上げれば取り上げるほど、〝極悪人〟のイメージが高まりに、杉山の取り立てがはかどったのも事実であったようです。
杉山がマスコミで話題になったときに、取材に来た著名人を紹介すると、フジテレビの須田哲夫アナウンサー・タレントのミッキー安川・漫画原作者の梶原一騎・弁護士の木村晋介・政治家の渡辺美智雄と多士済々です。
いずれも、当時大きな影響力を持っていた人物です。現代的に言えば〝インフルエンサー〟でもあった彼らが、杉山を取り上げるほど、杉山のビジネスは順調に進み、更なるビジネスに邁進していきました。
杉山治夫は、更なる商売に着手します。
『未来への希望 じん移植 全国腎臓器移植協力会』という不気味な団体を立ち上げ、腎臓移植ビジネスに手を染めるのです。
これには、表に出てこないニーズがあったからでしょう。
杉山の顧客は、都内の上場企業元社長や大地主、また地方の有力者など、
「金で健康が買えるなら、いくらでも出す」
という人物たちでした。
杉山が狙うのは、借金返済にやってくるものの。もう首が回らなくなった人間たちです。
彼らは、自分から臓器提供を杉山に持ちかけるのです。
杉山は本人に意思確認を取り、健康状態をチェックすると、あらかじめ金を掴ませていた医師の元で腎臓移植がおこなわれたようです。
杉山に密着取材していた作家・本橋信宏氏は、その現場に立ち会ったことを、のちに綴っています。
適合性の問題で、どうしても臓器提供者が見つからない場合は、消費者金融で多額の借金を抱えた人間に恩を売り、豪華な食事や酒、そして女をあてがって、説得します。
また、腎臓だけではなく、睾丸まで抜き取って売りつけることもしていたようです。
マスコミに散々叩かれても、杉山はどこ吹く風。
自らを〝現代に蘇った『ヴェニスの商人』のシャイロック〟と呼び、
“「借金返せにゃ腎臓を売れ」”
-人間の欲望を巧みに金に換えていくのが、自分の錬金術。
-法の裏道は、どこでも抜けられる、それがわしの金銭哲学。
と嘯く始末でした。
そんな杉山が50歳を迎える頃、日本はバブル経済に突入します。
バブル経済が始めると、杉山は土地に着目します。
バブル期といえば、同時に株式投資も思い当たりますが、杉山には、株は性に合わなかったようで、あるとき、持株のすべてを売却した直後に、ブラックマンデーが世界の株式市場を襲ったのを見て、やはり自分には土地のほうが合っていると確信したようです。
時は1987年後半。
東京の地価はすでに値が上がりすぎていると判断した杉山は、まだ、値上がりが波及していなかった地方に目を付けます。
第一に、杉山が目を向けたのは、高知県でした。
生まれ故郷の高知で地上げを開始したのです。
杉山自身、イギリス製高級スーツに身を包み、左腕には黄金のローレックスをはめ、足元はイタリア製高級革靴というスタイルで高知に乗り込みます。
東京では、地上げが横行していましたが、高知では、地上げの波は押し寄せていませんでした。
杉山と杉山グループの独壇場となった高知での地上げは順調に進み、やがては、全国に波及していきます。
地上げした土地は高額で売却、あるいは担保にして更なる地上げ資金としていきました。
普通なら、ここでバブルに踊り狂って、破滅の道へ進むところですが、杉山の嗅覚は恐ろしいものでした。
家庭の主婦までが、株式投資に熱中し、一介のサラリーマンが高額の住宅ローンを組んで投資用マンションを争って購入する姿をみて、バブル経済の先行きに危機感を覚えて、バブルが弾ける前に、地上げからスッパリ手を引いていたのです。
何という悪運の強さ。
何という強運の持ち主。
杉山治夫は、まだまだ悪の快進撃を続けます。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
(その5に続きます。後日更新予定です)
杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝』
本橋信宏『悪人志願』
本橋信宏『心を開かせる技術』
はる坊です。
その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。
それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。
あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。
日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。
杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。
やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。
東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。
その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。
といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。
話を少し昔に戻します。
杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。
その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。
その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。
『定通新聞』
その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。
この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。
杉山は、この新聞をよく読んでいました。
一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。
この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。
杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。
杉山も、一、二度はこの会に出席しました。
そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。
杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。
小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。
『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。
しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。
杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。
二度目の東京出張時でも無理でした。
杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。
そして、三度目の東京出張。
同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。
杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。
杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。
翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。
杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。
この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。
しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。
「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」
そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。
それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。
その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。
杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。
しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。
そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。
取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。
杉山から話を聞いた小林氏は、
「わかりました」
とうなずきました。
そして、
“「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」”
と続けます。
小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。
そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。
“「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」”
この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。
1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。
杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。
杉山が降り立ったのは、川崎でした。
東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。
杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。
川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。
暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。
しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。
ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。
100万円の金は面白いように増えていきました。
そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。
杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。
1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。
それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。
すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。
-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。
地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。
杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。
〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。
連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。
また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。
〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。
それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。
東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。
十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。
こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。
そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。
杉山は、こんなことを語っています。
〝「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。
恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。
そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。
かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。
彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。
杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。
殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。
杉山はその場で一本の電話を掛けました。
相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。
「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」
杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。
杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。
杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。
金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。
そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。
社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。
杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。
もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・
杉山は、どこまでも狡猾でした。
暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。
また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。
小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。
数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。
杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。
(その4に続きます・後日更新予定です。)
杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!』
杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝』
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