いまこそ日本マクドナルド創業者・藤田田(デンと発音して下さい)を再検証する。祝・「ユダヤの商法」復刊!

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※2024年3月11日に加筆・修正をおこないました。
はる坊拝

2019年4月13日 ついに藤田田『ユダヤの商法』復刊!

はる坊です。

長い間、謎だったことがあります。
それは、なぜあの本は絶版・品切れ中になったままなのか。

絶対に、ニーズのある本なのに、ご遺族の意向なのか?

その本は、1972年に発売され年間ベストセラーで第6位にランクインした、藤田田『ユダヤの商法』。
82万7000部を売った正真正銘のベストセラー本です。

現在でも充分に通用することが書かれており、これほど普遍的な事柄を書いた本はないのに、いつのまにか書店・古本屋から姿を消して、古書は高値が付く状態に(復刊された現在は落ちついています)。


そんな本がようやく2019年4月13日に復刊されました。

題して、藤田田『ユダヤの商法(新装版)


本当に嬉しいことです。

また、勝てば官軍(新装版)〝Den Fujitaの商法 〟シリーズも新装版が同時発売となります。

推薦文も幻冬舎社長 見城徹

SHOWROOM社長 前田裕二

〝女子高生社長〟として話題を呼び、現在、慶應義塾大学文学部在学中のAMF社長 椎木里佳

オリエンタルラジオ 中田敦彦と

藤田田の本が好きそうなメンツが寄せています。

どの本も、読んで絶対に損をすることはありませんので、おすすめします。

『ユダヤの商法』と『勝てば官軍』が1,588円。

〝Den Fujitaの商法〟が各994円。

ハッキリ言って、書いてある内容に比べたら安すぎます。



特に『ユダヤの商法』は久留米大学附設高等学校に在学中だった、当時16歳のソフトバンクグループの孫正義を感激させ、どうしても藤田田に会いたいと電話を掛け続けるも、会ってもらえなかった為、アポなしで九州から東京へ飛行機で向かい、秘書との激しいやりとりの末に、ようやく藤田田本人との面会が叶い、

孫正義が放った「これからアメリカへ行って勉強してくるが、何を勉強したらいいか?」との質問に、

藤田田が「コンピュータだ。私が君の歳ならコンピュータをやる。これからコンピュータはどんどん小さくなっていく、その過程で絶対に儲かるチャンスがある」と答えたエピソードは有名です。

後日談として、ソフトバンクを成長させ、1994年7月22日に株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たした孫正義が藤田田を訪ねると、藤田田は「君があのときの少年か!」と感激して、早速ソフトバンクに300台のパソコンを発注したというええ話もあります。

ソフトバンクについては、後に孫正義の誘いに応じて社外取締役に就任しました。

藤田田の任期が終わったあと、社外取締役の後任となったのがファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井正でした。

挨拶にやって来た柳井に、藤田は、

「おお、君が柳井君か。ええもんをやろう」

といって手渡したのは、[マクドナルドハンバーガー無料券]数枚だったという、これまたええ話もあります。

また、ユニクロの柳井正やU-NEXTグループを築き上げた宇野康秀が少年時代に愛読していたりと、現在活躍している実業家・経済人がむさぼり読んだ本として知られています。

藤田田(デンと発音して下さい)って誰?

まず、「藤田田(デンと発音して下さい)って誰?」という方のために、Wikipediaより高い精度のプロフィールを。

藤田田は1926年3月13日に大阪府大阪市に生まれました。(城東区生まれと淀川区生まれとふたつの記述があります)
五人兄妹の次男で、父親はイギリス企業の日本支社で働く電気技師。母親は敬虔なクリスチャンでした。
当時としてはモダンな家庭に育ち、3歳で吹田市千里山に転居。
小学校時代を過ごしますが、旧制中学受験に失敗。1年間の浪人生活を送る羽目になります。

1年後、再受験で旧制北野中学に入学。北野中には1年違いで手塚治虫が在籍していました。
北野中学を経て旧制松江高校に入学。ここで英語とドイツ語をマスターします。
卒業後は、東京大学に進学。

そして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。
焼け野原の東京でひとりぼっち。

しかし、藤田田には感傷に浸っている暇はありませんでした。
戦時中に父親が亡くなり、学生でありながら残った家族に仕送りをしなければならない立場になったのです。

東大へ進学したのも父親の遺言に従ってのことでした。
“「日本は官僚主義の国だ。東大法学部へ行って官僚になるか、慶應経済学部に行って経済人になるのがいい」”

結局、藤田田は、東京大学法学部を卒業して経済人になっています。

当時の東大生のアルバイトは家庭教師が中心でしたが、それでは自分の生活費と家族への仕送りはまかなえません。

そこで藤田は英字新聞で見つけたGHQの通訳募集の求人に臨んで、試験に合格します。

試験と言っても大変簡単なもので、GHQ担当者から英語で、

「君の名前は?」

と訊ねられ、

「藤田田(デンと発音して下さい)です」

と返せば、

「合格だ」

というものでした。

ところが、実際に通訳業務に携わると、アメリカ兵が使っている英語は学校で習ったものとまったく違うもの。
困った藤田は、将校に頼んで泊まり込みで実地の英語を勉強します。
半年ほどすると、英語が解り出します。

そして、ユダヤ人との付き合いも始まり、彼らにビジネスを教わります。

藤田田の東大時代は忙しいものでした。
朝は東大。
昼は銀座2丁目で始めたフジタ&カンパニーの仕事。
夜は進駐軍の通訳。

進駐軍の通訳の仕事は収入が良く、国家公務員の給与が1000円~2000円だった当時、月額1万円でした。

当時、三鷹に住んでいた太宰治との交遊も有名で、

「あなたの文学は嫌いだが、あなた自身は好きだ」

と堂々と語り、

「あなたは、日本国民を奮い立たせるものを書きなさい」

と、無理難題を押しつけて、太宰を困らせてもいます。

太宰治が玉川上水で入水死を遂げた夜も三鷹の屋台で一緒に飲んでおり、後年まで「あれは自殺ではなく、事故だった」と主張していました。

また、日本のハードボイルド小説の始祖のひとりである直木賞作家・生島治郎(1973年~1980年に、第3シリーズまで放映された人気TVドラマ『非情のライセンス』の原作者)とも交流を持ち、藤田が白内障を患った折には、生島治郎が名古屋の病院を紹介しています。

1950年に藤田商店を設立。(法人化は1960年)
国家公務員試験(高等文官試験行政科)を受け、大蔵省に合格しますが、辞退をして、1951年3月に東京大学法学部を卒業すると、実業の世界に飛び込んでいきます。

日本マクドナルドを始めるまで、藤田田が手掛けたのは高級雑貨の輸出入業でした。
クリスチャン・ディオールの正規輸入代理店を長く手掛け、東京タワーの蝋人形館も藤田田が手掛けた仕事のひとつです。

そして1971年渡米した際に、知人からアメリカマクドナルドの創設者 レイ・クロック氏に会うことを勧められた藤田田は、50:50の合弁会社ならやるといい、レイ・クロック(50歳を過ぎた彼を主人公に、米マクドナルド社の創業から発展に至るストーリー映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』が公開され評判を呼びました)と合意します。



そして1971年三越銀座店の一角に日本マクドナルド一号店が開店。
瞬く間に大人気となり、1976年には100号店達成。
1979年に200号店達成。
1982年に300号店達成。
1984年に売上高1,000億円を突破。
1985年に500号店達成。
1987年に600号店達成。
1989年に700号店達成。
1993年に1000号店達成。
1996年に2000号店達成。
1999年に3000号店達成。

2000年12月期決算では
売上高:3578億8600万円
営業利益:294億4000万円

2001年12月期決算では
売上高:3616億2700万円
営業利益:192億9900万円

となります。

ハンバーガー王〟〝外食王〟と呼ばれるようになっていきました。

“「頭の悪い奴は損をする」”と断言した藤田田の凄さ

藤田田は生前、“「人生はカネや」”と公言していました。
しかし、金儲けだけの人間ではありませんでした。

現在、日本マクドナルドでは創業者である藤田田の影響力やイメージは消し去られてしまいました。
しかし、『日本マクドナルド20年のあゆみ』に収められている「藤田田物語」には、真っ正直な藤田田の本音が綴られています。

“肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった経験から、確信をもっていえることは、人間には裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが人生で一番大切なことではないかと思います。それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは結局は目的ではなく、チャンスを得るための手段ではないかと思います。(中略します)要は、目的を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか”

お読みになっていかがだったでしょうか?

露悪的で、金の亡者的な発言や文章を残している藤田田ですが、本当は繊細で優しく、そして誰よりも勁い人間だったのではないかと思えてきます。

学生の身で父親を亡くし、学びながら家族を養ったこと。

東大法学部在学中に、光クラブ事件の山崎晃嗣や太宰治の死に出会ったこと。

そんななかでユダヤ人のたくましい生き方に出会い、やがては、“銀座のユダヤ人”を自称するまでになります。

藤田田の商法は、完全な合理主義と義理人情のバランスをうまく取るものでした。

藤田田の仰天エピソード

藤田田時代の日本マクドナルドでは、社長以下本社勤務の役員・従業員が店舗に出て働く〝店舗実習〟が存在しました。

もちろん藤田田もマクドナルドの制服を着て、実際の店舗に立ちます。

ここで少しでも客足が途絶えると、藤田はエプロンを着けたまま、店の外へ出て、店の前を通り過ぎようとしている人々に「どうして、マクドナルドに入らないの?」と訊ねまくるのです。
(一緒にいた社員は、冷や汗もので大変だったと思いますが・・・)

藤田田が知りたかったのは、どうしてこの人は買うのか、なぜあの人は買わないのかという消費者の行動心理でした。
これは徹底しており、思い込みや憶測を嫌って、休日には妻の運転するメルセデスベンツの助手席に乗っては、マクドナルドの店舗を巡回して、客席に駆け寄っては「美味しいですか?」「味のほうはいかがですか?」と老若男女問わずにどんどん話しかけて、その声に率直に耳を傾け続けました。

また、他社の店舗を視察するときはこっそりとおこなうのではなく、来店客に「ここの味はどうですか?」と聞いて回り、その店の店長をつかまえて、「どうも、藤田田ですわ、こんにちは!」と大きな声で挨拶すると、「どれが一番売れているの?」「それは全体の何%くらいになるの?」と単刀直入に次々に質問の矢を浴びせて、相手の店長を押しに押して、知りたいことを答えさせてしまっていました。

また、藤田田は従業員の妻・家族も身内と考える人でした。
男性社員の妻の誕生日には、社長名で自宅に花が届けられ、毎年3月に支払われた決算賞与は〝奥様ボーナス〟として、既婚の男性社員については、妻名義の銀行口座に賞与を振り込みました。

また、桃の節句には男性社員の妻へ1万円の祝儀を用意して感謝状を添えて贈りました。

男性社員には、1万円の入ったのし袋を妻に手渡すよう指導がされていました。

ある社員が、藤田に「妻名義の口座への振込でいいのではないでしょうか?」と勧めると、

「君はアホか!現金やから意味があるんやないか!」

と怒鳴りつけています。

これには「夫が会社で面白くないことがあって愚痴っても、妻が『いい会社じゃない』と励ましてくれる」という藤田田の狙いがありましたが、徹底的な合理主義と並行して、浪花節的な部分をさらけ出していたのが、藤田田の特長です。

藤田田の名言集

そんな藤田田の名言を集めました。

・物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間として半人前だが、商人としても失格だ。

・不況なんてみんな同じ。その中でどうすれば勝てるかや! 考えろ!考えろ!

・1円にこだわれ!もっと粘れ

・人間は忘れる生き物だから、24時間メモを取れ。

・その国の教育と商売はリンクして進まないといけない。早すぎても、遅すぎても駄目なんだ。

・人件費は投資。設備投資と同じで、絞れば会社は弱くなる。

・高い給料でも儲かる仕組みを作るのが社長の仕事。人件費を下げて利益を出したら社長とは言えん。
-藤田田が社長を務めていた1998年当時、マクドナルドの店長の平均年収は819万円。
20代後半の店長も少なくなかった。
もちろん、外食産業の中では際だって高い給与水準だった。

・人間は欲望を持った動物だ。そういう動物はどこをどのようにしてやれば便利だと感じるか、快適になるか、満足するか。ビジネスとは、そういうことを考えるところから始まる。

そして・・・

・凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり

総資産数千億といわれた大富豪・藤田田

藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなります。
(70代を迎えても元気に、マクドナルドの社長・会長業に励んでいましたが、実は糖尿病と心臓に病を抱えていたようです)
2005年3月に遺産総額が公示されました。

その額491億円。
歴代6位の遺産額でした。
(ちなみに歴代1位はパナソニック創業者・松下幸之助氏です。2,450億円でした。)

そんな藤田田の資産は生前、1,500億円とも3,210億円とも伝えられていました。

一番大きかったのは、日本マクドナルド株ですが、長年に渡って、そのマクドナルドの売上の1%が契約役務・コンサルタント料として、藤田商店に入る仕組みになっていました。

またポテトの納入元が藤田田のファミリーカンパニーだったりと、個人で保有していた株式の他にも、現金が手元に流れ込む仕組みを作っていたことから、資産が膨大な額だと目され、また、日本マクドナルドがあれほどの大企業なのに東証1部ではなくJASDAQ上場となったのは、藤田田と日本マクドナルドの契約に不透明性があったからだと報じられました。

現在も、藤田商店は存在しており、息子さんが社長を務めていますが、デン・フジタやデン・フジタ興産といった無数にあったファミリー企業の多くは藤田商店に吸収合併されています。

息子さんは2人。藤田元(ゲンと発音して下さい)・藤田完(カンと発音して下さい)です。

元はジェネラル・将軍を意味する。
完はカーン・王様を意味する。

息子たちは、名前で得をするはずだ、と藤田田は生前に語っています。

ふたりとも成城大学出身という話がありますが、正確なところは、
藤田元さんは早稲田大学商学部卒業。
藤田完さんがが成城大学卒業です。
日本マクドナルド2代目社長となった八木康行氏が成城大学出身だったのは、大学時代に息子の友人であったことで藤田田と出会い、創業まもないマクドナルドに飛び込んだことが後の出世に繋がりました。

藤田田は、息子に日本マクドナルドを継がせることはありませんでした。
2003年に会長を退任するとき、取締役に就いていた息子も同時に退任しました。

日本マクドナルドは2000年にハンバーガーの価格を半額にして、一時は売上が好調に推移し、〝デフレの勝ち組〟ともて囃されました。
最安値でハンバーガー1個59円という時代がありました。

しかし、為替差損で2002年には初の赤字決算に陥り、ブランドイメージは落ち、決定的な打開策を見いだせないまま、2003年に藤田田は日本マクドナルドを去りました。

実は、この値下げ商法は自著『ユダヤの商法』に反したものでした。
彼自身が著書の中に安売り商法はしてはいけないと断じていたのです。
慢心したのか、それともこの時代は値下げしてモノを売る方法しかないと思ったのか・・・
永遠の謎ですが、現代に生きる私たちは『ユダヤの商法』を読んで、〝藤田田 金儲けの教え〟について学ぶべきところはしっかりと学ぶべきだと思います。




最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

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