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はる坊の雑記

【期間限定】黄金の月見バーガーは美味だったけど、発売はいつまで?日本マクドナルドと近くの店舗に電話してみました。

黄金の月見バーガーをレビューします

はる坊です。
今年もマクドナルドの月見バーガーの季節が始まりました。
2019年は9月4日(水)から10月上旬までの限定発売です。

商品ラインナップは・・・

・月見バーガー \340-

・チーズ月見 \370-

・黄金の月見バーガー \390-

・月見マフィン \330-

・月見パイ \150-

の5種類です。

購入されるときは、チラシかアプリのクーポンを利用されることをおすすめします。
ちなみに黄金の月見バーガーは、チーズバーガーと比べるとこんな感じです。

普通の月見バーガーとの違いは、チーズが挟まっているか否か、そして、ベーコンの分厚さがぜんぜん違うところです。

ベーコンの分厚さは目玉焼きの3分の1ほどですので、マクドナルドの公式情報に偽りなし。
かなりの分厚さですね。

バンズは普通の月見バーガーと違い、ゴマがかかっていませんが、ふっくらとしていて、とても風味がいいです。

さて、実食!

うん、美味い!
合格点。

ひとつだけ難を言えば、これから皆さんの口コミや評判がネット上に出てくると思いますが、私は厚切りベーコンが若干塩辛いかな、と感じました。
もっとも、これは個人差がありますので、何とも言えない部分がありますが。

ですので、私にはベーコンが薄いチーズ月見が合っているのかなと感じました。

10月上旬までに3回は食べたいですね。

チーズ月見と朝マックメニューの月見マフィンは必ず。

30円~50円でも、絶対に損はしたくありませんし、少しでもお得にお安く食べたいものです。
特に、マックフライポテトについては、150~190円で、クーポン利用前提での購入が浸透しているように感じます。

マックデリバリーもおすすめです

もし、天候が悪かったり体調が優れなかったり、自宅を空けられない用事があったりする場合は、スマホで出前・デリバリーを頼むことをおすすめします。
お手持ちのポイントが利用できますし、デリバリーを利用するとまたポイントが貯まります。
昔から、「あればいいな」と思っていましたが、すっかり、マクドナルドまでデリバリーできるようになる時代なのですね。



魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回第2回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

『吸血鬼ハンター〝D〟』『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズ始動

1983年1月、菊地秀行の第2作目『吸血鬼ハンター〝D〟』が刊行された。

タイトルのとおり、ダンピール(吸血鬼と人間との混血)の吸血鬼ハンター〝D〟の物語だ。
このシリーズ第1作目は、1985年12月にOVA化されている。
最新刊『D-黒い来訪者』まで、35作(46巻)が発表され続けている人気シリーズである。

意外なことに、この作品は、第1作発表当時、あまり読者の反応を得られなかった。
デビュー作『魔界都市〈新宿〉』が発売後すぐに増刷したこともあり、初版は1万5000部に増えたが、増刷が一度あったかどうか菊地自身記憶が曖昧というレベルだった。

ただ、天野喜孝のカバーイラストも相俟って、続編を望む読者の声はあった。

1983年5月、第3作『エイリアン秘宝街』が刊行される。
トレジャー・ハンターの高校生・八頭大と太宰ゆきが活躍するシリーズの第1弾だ。
この作品は、すぐ人気作となった。

1983年と1984年だけで、下記のとおりこのシリーズが立て続けに出版されていることからも、人気の程がわかる。

1983年11月30日『エイリアン魔獣境Ⅰ』

1983年12月30日『エイリアン魔獣境Ⅱ』

1984年3月30日『エイリアン黙示録』

1984年8月31日『エイリアン怪猫伝』

1984年12月20日『エイリアン魔界航路』

また菊地は、この『エイリアン秘宝街』と『エイリアン魔獣境Ⅰ』が刊行される半年のあいだに、

インベーダー・サマー』(1983年8月30日)

風の名はアムネジア』(1983年10月31日)

を上梓している。

『魔界都市〈新宿〉』でも『吸血鬼ハンター〝D〟』そして、『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズとも色彩が大きく異なる2作品を放っていることは特筆に値する。

この年、菊地の本はすべて朝日ソノラマから刊行されていた。
それ以外では、『幻想文学』に寄稿しているが、ノベルス界に進出してベストセラーを連発する1985年以降と比べると、作品の発表は年5冊と当時からハイペースだが、菊地にとっては一作品に時間をたっぷり掛けられる、いささか牧歌的な時代だったのかもしれない。

菊地秀行の1984年

1984年に入って、菊地は『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを中心に朝日ソノラマで作品を執筆していく。

先に挙げた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを除くと、

3月11日『風立ちて〝D〟』

5月9日『妖神グルメ

を刊行している。

菊地秀行作品のタイトルではおなじみの〝妖〟の字がここで登場する。

7月頃から、朝日ソノラマ一辺倒だった菊地に他出版社から執筆依頼がやってくる。
早川書房、祥伝社、光文社。

すべて、朝日ソノラマのようなジョヴナイル小説ではなく、一般文芸やノベルスの依頼だった。

菊地は喜んで引き受けた。

この時期、立て続けに菊地に他社から執筆依頼が来始めたのには理由がある。

同じく朝日ソノラマで『幻獣少年キマイラ』(1982年7月30日刊)に始まる『キマイラ』シリーズを刊行していた夢枕獏が、1984年2月に祥伝社 ノン・ノベルから『魔獣狩り 淫楽編』、7月に『魔獣狩り 暗黒編』、12月に『魔獣狩り 鬼哭編』。

徳間書店 トクマ・ノベルスから同年7月に『闇狩り師』10月に『闇狩り師2』を上梓して、それぞれが、10万部から15万部を売るベストセラーとなっていたのだ。

夢枕獏もソノラマ文庫では、菊地同様に、いままでのソノラマ文庫作品とは、すこし毛色の違う作品を書いていた。

菊地も“「いい小説、面白い小説がでてきた」”と感じていた。

その夢枕獏が、ノベルスに進出して一気にブレイクを果たした。

次に、出版社が注目したのは菊地秀行だった。

才能は爆発する

まずは、下記のリストを見ていただきたい。
菊地秀行が1985年の1年間に上梓した著作リストである。

3月『エイリアン妖山記』(朝日ソノラマ 文庫)

3月『魔界行 復讐編』(祥伝社 ノン・ノベル)

5月『幻夢戦記 レダ』(講談社 講談社文庫)

5月『妖魔戦線』(光文社 カッパノベルス)

7月『魔界行Ⅱ 殺戮編』(祥伝社 ノン・ノベル)

7月『D-妖殺行』(朝日ソノラマ 文庫)

7月『妖獣都市』(徳間書店 トクマ・ノベルス)

8月『切り裂き街のジャック』(早川書房 ハヤカワ文庫)

9月『妖魔陣』(光文社 光文社文庫)

9月『夢幻舞踏会』(大和書房 ハードカバー)

10月『妖戦地帯Ⅰ 淫鬼編』(講談社 講談社ノベルス)

10月『妖人狩り』(有楽出版社 ジョイ・ノベルス)

10月『妖魔軍団』(光文社 カッパノベルス)

11月『魔戦記 第1部 バルバロイの覇王』(角川書店 カドカワノベルス)

12月『魔界行Ⅲ 淫獄編』(祥伝社 ノン・ノベル)

合計15冊。

このなかでも、『魔界行』と『妖獣都市』は一気に20万部を発行する勢いを見せた。

しかし、作品執筆については苦労があった。
これまで主戦場だった朝日ソノラマ文庫は、現在でいえばライトノベル的な位置にあった。
性描写や暴力描写、そして菊地が最も得意とするホラー描写には制限があった。

ノベルスにはそれが一切ない。
だが、一切制限がないということは、作家の個性が最大限に試される舞台でもある。

菊地が最初に手掛けたのは、光文社 カッパノベルスから刊行された『妖魔戦線』だった。
この作品に挑んだとき、菊地は丸3日間、何も書けず机の前に座っていただけだった。
現代社会を舞台に妖魔を暴れさせる――
「どう書けばいいのか?」
悩みの連続だったことが、あとがきに記されている。

それでも、菊地は『妖魔戦線』を1984年中に書き上げた。
本来は、この『妖魔戦線』がノベルス第1作目となるはずだったが、出版社の都合で刊行が繰り下げになる。

続けて書いた『魔界行 復讐編』が、1985年3月に祥伝社 ノン・ノベルから刊行された。初版は2万5000部。
しかし、すぐに増刷、そして増刷が続き、10万部、15万部、20万部を超えていった。

この『魔界行』シリーズ第一作は、一気にベストセラーの仲間入りを果たす。

そして、『妖魔戦線』『妖獣都市』が続けて、ベストセラーとなる。

また、12月に『吸血鬼ハンター〝D〟』がアニメ化され、一気にその人気に火が付いた。

文庫は、毎週増刷を重ねた。

売上ではこれまでリードしてきた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを一気に飛び越していった。

余談だが、このOVA『吸血鬼ハンター〝D〟』の音楽は、まだブレイク前の小室哲哉が担当している。

小室はこの年の7月にリリースされた渡辺美里のシングル『My Revolution』で作曲を担当し、コンポーザーとして注目されたばかりで、主題歌の『Your Song』もTM NETWORKだったが、まだ、一般的な知名度と人気を得ては居なかった。
(TM NETWORKは一気に知名度を上げ、注目されるのは1987年4月にリリースした『Get Wild』まで時間がかかっている)

〝夢枕獏が火をつけて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟

と云われる、伝奇バイオレンスブームが、ついに幕を開けた。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

その4に続きます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

人物伝

ハードボイルド作家・大藪春彦本人の食事シーンは小説よりも奇なりだった!

小説の食事シーンは魅力的です

はる坊です。

映画やTVドラマで食をテーマにしたモノには人気があります。
その原作となっているのは、漫画や小説であることが多いです。
コミック作品がアニメ化されるのは珍しいことではありませんが、映画化やTVドラマ化されるのは、一般的にグルメものは視聴者にウケがいいと制作サイドが考えているからではないでしょうか。

漫画なら
孤独のグルメ』(原作:久住昌之 作画:谷口ジロー)

ワカコ酒』(新久千映)

忘却のサチコ』(阿部潤)

サチのお寺ごはん』(かねもりあやみ 原案協力:久住昌之 監修:青江覚峰)

ラーメン大好き小泉さん』(鳴見なる)

などなど。

小説においても、
村上春樹や池波正太郎の料理や食事シーンの描写は特に巧みです。
村上作品の料理については『村上レシピ』として出版されていますし、池波正太郎はグルメについてのエッセイや生前愛した店をまとめた本も出版されています。

また、
『強運の持ち主』(瀬尾まいこ

『食堂かたつむり』『喋々喃々』(小川糸

の食に関するシーンは魅力的ですし、

『みをつくし料理帳』(高田郁)に至っては、この作品内に登場する料理のレシピ集『澪の料理帖』が出版されるまでになりました。

基本的に、作中の料理や食事シーンは、著者が、

「このキャラクターならこんなメニューが好きだろう。似合うだろうな」
とか、
「このキャラクターにはこういう料理を作らせたい」

という願望や読者サービスで描いているケースが多いのではないかと思います。
無論、作者の趣味・趣向が反映されていることはいうまでもありませんが。

大藪春彦作品は昭和時代を映し出す鏡

そんななか、日本におけるハードボイルド小説の先駆者である大藪春彦は、作中のキャラクターと作者自身を同化させている人物であったと思います。

『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』が代表作になると思いますが、早稲田大学教育学部英文学科在学中に『野獣死すべし』を発表して、一躍〝売れっ子作家〟となった大藪は、これまでの貧弱な食生活に復讐するかのように、好き放題に食材を買い込み、外食に出掛けます。

実際のところ、大藪自身は『野獣死すべし』がベストセラーとなり映画化された(大藪が映画化の際に受けとった原作料は大卒初任給1万3000円の時代に50万円でした)といっても、専業作家・筆一本の生活に不安を覚えて、教員免許取得を目指して都内の私立女子高で教育実習をおこなっています。

ただ、その実習で黒板に銃の絵を描いて女子高生相手に銃の構造を説明したところ、現場の教師に怒られたエピソードもあるようですが。
また、卒業論文も執筆しましたが、作家稼業が多忙になり、結局のところ教員免許取得はできないまま早大を中退しています。

さて、大藪作品の特徴は、銃やクルマなどのメカニックについての描写が延々と続くイメージがありますが、実際のところは、作中全体にあらゆるもののディテールが盛り込まれています。

例えば、1960年代に書かれた大藪作品を読むと、時代背景や舞台となった場所の様子が克明に書かれています。
1970年代に描かれた作品も同じです。

大藪春彦は作品執筆中に少しでも気になることがあると、徹底的に調べ、時には自ら赴いて場所を正確に確認することを怠りませんでした。

そして、これは食事に関してもです。

大藪春彦の食生活

大藪春彦は早大在学中の1958年(昭和33年)に『野獣死すべし』でデビューを果たし、一躍ベストセラー作家となると、23歳の若き青年作家は、小説執筆のエネルギー源として、買い物かごいっぱいに食材を買い込みます。

“「毎日、モツの焼き肉2キロ。カニだとでっかい毛ガニ三匹。マグロだとネギマ用の骨つき大なべにいっぱい」”
(引用:大藪春彦『荒野からの銃火』1979年 角川文庫より)

1961年(昭和36年)に、大藪は静龍子さんと結婚します。
龍子さんは日本大学文学部卒業後に、森脇文庫の『週刊スリラー』の編集者となり、大藪の担当編集者になったのが縁でした。

1996年(平成8年)2月26日に大藪春彦は61歳で亡くなります。
大藪と縁の深かった徳間書店では、その年の7月に『問題小説 増刊号 大藪春彦の世界』を出版しています。

この雑誌で、森村誠一と船戸与一が対談をしています。
そのなかで、大藪の早世を悼みながら、

“船戸:「前に大藪さんと対談したときに、新婚当初に夫婦ですき焼きとなるとだいたい一キロ肉を買ってきたというんですね。いくら何でも奥さんは、二百グラムも食えばいいと思うんですよ。そうしたらやっぱり大藪さんが八百グラム食っている(笑)」

森村:「めちゃくちゃなパワーですよね」”

という箇所がありますが、実際に大藪春彦と船戸与一が対談をした『諸士乱想―トーク・セッション18』(1994年 ベストセラーズ)を読むと、

大藪は、“「(龍子夫人と)ふたりですき焼きをするときには、肉を三キロ入れて食った」”

と語っています。

大藪春彦も船戸与一も故人となったいまでは、確認の仕様もありませんが、当時は、今よりも高級品だったすき焼き用の牛肉を大量に食べていたことだけは間違いないでしょう。

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気に入った食材・食事には徹底的に凝る

イノシシのすき焼き

作家デビューを果たし、一躍流行作家となった大藪春彦は膨大な原稿を書きながら、狩猟にも精を出します。

あるとき、友人が和歌山県有田市にイノシシ猟に行き、大成果を挙げた報告を受けた大藪は居ても立ってもいられず、仕事を無理矢理に片付けて、勇躍、有田に向かいます。
大藪もイノシシ猟で大きな成果を挙げて、夜には地元の人と酒を飲みながらイノシシ肉を平らげます。

これが3日続いたあと、すっかりイノシシ肉を気に入った大藪は、お土産に大量のシシ肉を持ち帰り、東京でもイノシシ肉のすき焼きを楽しみます。

しかし、このときの大藪は鯨飲馬食で血圧が上昇していました。紀州でイノシシを追い続けていた3日間は汗まみれになって活動しているからいいのですが、東京で手先しか動かさない日々に戻ると、慢性的な睡眠不足と精神的な疲労もあり、大量の鼻血を鼻から吹き出す仕儀となります。
(イノシシ肉を大量に食べ続けると赤血球を破壊する作用があるようですね)

それでも、編集者は横で原稿を急ぐようにせっつきますが、ついに意識が朦朧としてきた大藪は病院に担ぎこまれて、1ヶ月ものあいだ、輸血を受ける羽目になります。
そのあいだも、大藪は口述筆記で仕事を続けなければなりませんでした。

世界中のチーズを味わう

1963年(昭和38年)頃には、チーズに凝ります。
世界中のチーズを収集して、グリュイエールをパンと同じ厚さに切ってロシアピクルスと一緒にサンドイッチにしてパクつきます。


しかし、ブルーチーズは分厚く切るのではなく、薄く切って2,3切れつまむほうが風味を味わえるとの結論に達します。

ちなみにチーズについては、一体どれだけの量を集めたのか、最後には冷蔵庫から耐えがたい肥だめのようなニオイを発し出したというオチがつきました。

BAR OYABU オーナーバーテンダー・大藪春彦

この頃には、酒も自家製カクテルに凝り出します。
ウォッカ・マルティーニ(ウォッカ・マティーニ)をストリーチナヤ(ストリチナヤ)のウォッカを2本分痛飲します。

また、自家製カクテルでは、ジンフィズに凝った時期もあり、各社の担当編集者は、バーテンダー・大藪春彦に付き合わされることになりました。

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ボロニアソーセージ・レバーソーセージがお気に入り

また、ソーセージにも凝りました。
大藪はハムが好きではなく、ソーセージが大好物でした。
ソーセージのなかでも、ボロニアソーセージやレバーソーセージがお気に入りで、1万円分ほどを買い込んでは、3日と保たず食べ尽くしました。

ちなみにこの話は1966年(昭和41年)に発表されたものです。
当時の大卒初任給は24,900円。
そんな時代に、1万円分のソーセージを3日足らずで食べ尽くしてしまうエネルギーには驚かされます。

「男の料理は俺に任せろ!」シェフ・大藪春彦

大藪春彦は自分で料理をすることもありました。

自信のメニューはカツオのたたき、ビーフステーキ、ローストビーフ。

ときには、家族で、そして自宅に集った仲間に振る舞い。好評を博したようです。

自身の作品世界に登場する主人公・伊達邦彦 朝倉哲也 北野晶夫 西城秀夫 石川克也 杉田淳たちが好むメニューを大藪自身も好みました。


肉類だけではなく中華料理や魚介類も好物

元々、大藪は中華料理好きでしたが、香港に取材旅行に赴いた際に現地で味わった美味が忘れられず、帰国後は、“「同じような味にめぐり会いたい」”と横浜中華街を一軒一軒試し歩きます。
大金をはたいて、巡礼者のごとく中華街をうろつきますが、満足できる店が見つからず、ついにあるお店で〝アワビのハラワタのからあげ〟を見つけたときは、感動をしたようです。
(これは馳星周の『マンゴープリン』のエピソードと少し似ていますね。)

馳星周公式サイト「Sleepless City」内 Hase’s Note「マンゴープリン」(新しいタブが開きます)

また、大藪春彦=肉類・ステーキというイメージがありますが、海産物も大好きで、新潟に猟へ出掛けた際には、寒ブリと子持ちスケソウダラ、そして越後米の味に感激しています。

ウニ・アワビ・エビなどは、わざわざ新鮮なものを求めて、海岸にある店に食べに出掛け、晩酌の肴に刺身を食べるときは、最低3人前を食べないと気が済みませんでした。

海外ハンティングと野性の味覚

大藪春彦は1964年(昭和39年)の終わりに、東南アジアとヨーロッパを訪れます。
そして、〝アブランド・ゲーム〟と呼ばれる、ヤマドリ・キジ・コジュウケイなどを標的とする猟にのめり込みます。

そして、1970年代に入ると、本格的に海外にハンティングに出掛けるようになります。

1972年 アラスカ

1973年 ニュージーランド・オーストラリア

1975年 アフリカ・ザンビア

1977年 モンゴル・ハエ・アルタイ山脈、カナダロッキー、モンタナロッキー

1980年 アフリカのサファリ

1981年 アメリカでシューティングツアーに参加

1982年に急性膵炎に倒れるまで、世界中で〝ザ・ビッグ・ゲーム〟を続けました。

そのなかで、野性の味に舌鼓を打ちます。

大藪曰く、

・ムース(大ヘラジカ)は、ステーキやカツレツにすると美味い。

・赤シカはステーキやシチューにするといい。ただしメス。

・ナイル川を泳ぐナイルワニの尻尾は、エビの味に似ている。

・象の鼻はゼラチン質。

・オーストラリアのオオトカゲのしっぽの蒸し焼きは、イカの生干しそっくりの味。

前述しましたように、1982年に大藪は膵炎に倒れます。そして、亡くなるまでに3度の入院を経験して、最後までこの病に悩まされることとなります。

晩年の大藪春彦は、酒もほとんど飲まず、タバコも1日5本までに制限されます。

それでも、退院後は、ラーメンを食し、やがて大盛りを頼むようになります。

最晩年は、自宅近くのそば屋の天盛りを好みました。(もちろん、大盛りです)

1996年2月26日 夕方近く 大藪春彦はこの世から旅立ちました。

享年61。

最後に食したのは、龍子夫人とともにした昼食で出された甘塩鮭でした。
自分のぶんを平らげると、龍子夫人の分まで手を付けます。

大藪春彦は、最後までグルマン・食いしん坊を貫き通しました。

大藪春彦の愛犬チリーも食いしん坊だった

大藪春彦は鳥猟の相棒として、チリーと名付けたセッターを千葉県のハンターから譲り受けました。

大藪の相棒として、そして猟犬としては優れていましたが、大藪が仲間と狩りに出掛けて、仲間が撃った鳥は口にくわえて戻ってこずに、土の中に埋めてしまうという癖もありました。

ある日、大藪が家族とともに自宅に戻ると、異臭が漂っていました。

チリーが大藪の酒の肴であるスルメを大量に食べて、水を飲み、胃の中で膨らんだスルメを吐き出していたからです。

ビックリする大藪家の面々をよそに、チリーは洋室でグーグーと大いびきをかきながらお休み中でした。

チリーは、大藪の晩酌風景を見ていて、スルメに興味を持ったのでしょう。

家庭に飼われる犬としては、少し間抜けな面があったようですが、チリーは大藪家にとってかけがえのない家族だった、と思います。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

ちなみに、管理人自身が一番好きな大藪作品は、

『戦士の挽歌(バラード)』

『ヘッド・ハンター』です。

ひとつには絞りきれません。
この記事をここまで読んでくださった方なら、大藪ワールドを楽しんでいただけると思います。

おすすめです。



人物伝

いまこそ日本マクドナルド創業者・藤田田(デンと発音して下さい)を再検証する。祝・「ユダヤの商法」復刊!

2019年4月13日 ついに藤田田『ユダヤの商法』復刊!

はる坊です。

長い間、謎だったことがあります。
それは、なぜあの本は絶版・品切れ中になったままなのか。

絶対に、ニーズのある本なのに、ご遺族の意向なのか?

その本は、1972年に発売され年間ベストセラーで第6位にランクインした、藤田田『ユダヤの商法』。

これほど普遍的な事柄を書いた本はないのに、いつのまにか書店・古本屋から姿を消して、古書は1万円以上の値が付く状態。

そんな本がようやくこの4月13日に復刊されることになりました。
題して、藤田田『
ユダヤの商法(新装版)

本当に嬉しいことです。

また、勝てば官軍(新装版)〝Den Fujitaの商法 〟シリーズも新装版が同時発売となります。

推薦文も幻冬舎社長 見城徹・SHOWROOM社長 前田裕二・AMF社長 椎木里佳・オリエンタルラジオ 中田敦彦と藤田田の本が好きそうなメンツが寄せています。

どの本も、読んで絶対に損をすることはありませんので、おすすめします。
『ユダヤの商法』と『勝てば官軍』が1,588円。
〝Den Fujitaの商法〟が各994円。

ハッキリ言って、書いてある内容に比べたら安すぎます。

特に『ユダヤの商法』は久留米大学附設高等学校に在学中だった、当時16歳のソフトバンクグループの孫正義を感激させ、どうしても藤田田に会いたいと電話を掛け続けるも、会ってもらえなかった為、アポなしで九州から東京へ飛行機で向かい、秘書との激しいやりとりの末に、ようやく藤田田本人との面会が叶い、

孫正義が放った「これからアメリカへ行って勉強してくるが、何を勉強したらいいか?」との質問に、

藤田田が「コンピュータだ。私が君の歳ならコンピュータをやる。これからコンピュータはどんどん小さくなっていく、その過程で絶対に儲かるチャンスがある」と答えたエピソードは有名です。

後日談として、ソフトバンクを成長させ、株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たした孫正義が藤田田を訪ねると、藤田田は「あのときの少年か!」と感激して、早速ソフトバンクの300台のパソコンを発注したというええ話もあります。

ソフトバンクについては、後に孫正義の誘いに応じて社外取締役に就任しました。

藤田田の任期が終わったあと、社外取締役の後任となったのがファーストリテイリングの柳井正でした。挨拶に来た柳井に、藤田は「君が柳井君か。ええもんをやろう」といって手渡したのは、ハンバーガーの無料券数枚でした。

また、ユニクロの柳井正や少年時代の宇野康秀が愛読していたりと、現在活躍している実業家・経済人がむさぼり読んだ本として知られています。

藤田田(デンと発音して下さい)って誰?

まず、「藤田田(デンと発音して下さい)って誰?」という方のために、Wikipediaより高い精度のプロフィールを。

藤田田は1926年3月13日に大阪府大阪市に生まれました。(城東区生まれと淀川区生まれとふたつの記述があります)
父親はイギリス企業の日本支社で働く電気技師。母親は敬虔なクリスチャンでした。
3歳で吹田市千里山に転居して、小学校時代を過ごしますが、旧制中学受験に失敗。1年間の浪人生活を送る羽目になります。

1年後、再受験で旧制北野中学に入学。北野中には1年違いで手塚治虫が在籍していました。
北野中学を経て旧制松江高校に入学。ここで英語とドイツ語をマスターします。
卒業後は、東京大学に進学。

そして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。
焼け野原の東京でひとりぼっち。

しかし、藤田田には感傷に浸っている暇はありませんでした。
戦時中に父親が亡くなり、学生でありながら残った家族に仕送りをしなければならない立場になったのです。

当時の東大生のアルバイトは家庭教師が中心でしたが、それでは自分の生活費と家族への仕送りはまかなえません。
そこで藤田は英字新聞で見つけたGHQの通訳募集の求人に臨んで、試験に合格します。

ところが、実際にアメリカ兵が使っている英語は学校で習ったものとまったく違うもの。
困った藤田は、将校に頼んで泊まり込みで実地の英語を勉強します。
半年ほどすると、英語が解り出します。

そして、ユダヤ人との付き合いも始まり、彼らにビジネスを教わります。

藤田田の東大時代は忙しいものでした。
朝は東大。
昼は銀座2丁目で始めたフジタ&カンパニーの仕事。
夜は進駐軍の通訳。

進駐軍の通訳の仕事は収入が良く、国家公務員の給与が1000円~2000円だった当時、月額1万円でした。

当時、三鷹に住んでいた太宰治との交遊も有名で、太宰治が玉川上水で入水を遂げた夜も一緒に飲んでおり、後年まで「あれは自殺ではなく、事故だった」と主張していました。

1950年に藤田商店を設立。(法人化は1960年)
国家公務員試験(高等文官試験行政科)を受け、大蔵省に合格しますが、辞退をして、1951年3月に東京大学法学部を卒業すると、実業の世界に飛び込んでいきます。

日本マクドナルドを始めるまで、藤田田が手掛けたのは高級雑貨の輸出入業でした。
クリスチャン・ディオールの正規輸入代理店を長く手掛け、東京タワーの蝋人形館も藤田田が手掛けた仕事のひとつです。

そして1971年渡米した際に、アメリカマクドナルドの創設者 レイ・クロック氏に会うことを勧められた藤田田は、50:50の合弁会社ならやるといい、レイ・クロックと合意します。

そして1971年三越銀座店の一角に日本マクドナルド一号店が開店。
瞬く間に大人気となり、1976年には100号店達成。
1979年に200号店達成。
1982年に300号店達成。
1984年に売上高1,000億円を突破。
1985年に500号店達成。
1987年に600号店達成。
1989年に700号店達成。
1993年に1000号店達成。
1996年に2000号店達成。
1999年に3000号店達成。

〝ハンバーガー王〟〝外食王〟と呼ばれるようになっていきました。

“「頭の悪い奴は損をする」”と断言した藤田田の凄さ

藤田田は生前、“「人生はカネや」”と公言していました。
しかし、金儲けだけの人間ではありませんでした。

現在、日本マクドナルドでは創業者である藤田田の影響力やイメージは消し去られてしまいました。
ここに『日本マクドナルド20年のあゆみ』に収められている「藤田田物語」には、真っ正直な藤田田の本音が綴られています。

“肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった経験から、確信をもっていえることは、人間には裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが人生で一番大切なことではないかと思います。それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは結局は目的ではなく、チャンスを得るための手段ではないかと思います。(中略します)要は、目的を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか”

お読みになっていかがだったでしょうか?

露悪的で、金の亡者的な発言や文章を残している藤田田ですが、本当は繊細で優しく、そして誰よりも勁い人間だったのではないかと思えてきます。
学生の身で父親を亡くし、学びながら家族を養ったこと。
東大法学部在学中に、光クラブ事件の山崎晃嗣や太宰治の死に出会ったこと。
そんななかでユダヤ人のたくましい生き方に出会い、やがては、“銀座のユダヤ人”を自称するまでになります。

藤田田の商法は、完全な合理主義と義理人情のバランスをうまく取るものでした。
そんな藤田田の名言を集めました

藤田田の名言集

・物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間として半人前だが、商人としても失格だ。

・不況なんてみんな同じ。その中でどうすれば勝てるかや! 考えろ!考えろ!

・1円にこだわれ!もっと粘れ

・人間は忘れる生き物だから、24時間メモを取れ。

・その国の教育と商売はリンクして進まないといけない。早すぎても、遅すぎても駄目なんだ。

・人件費は投資。設備投資と同じで、絞れば会社は弱くなる。

・高い給料でも儲かる仕組みを作るのが社長の仕事。人件費を下げて利益を出したら社長とは言えん。
-藤田田が社長を務めていた1998年当時、マクドナルドの店長の平均年収は819万円。
20代後半の店長も少なくなかった。
もちろん、外食産業の中では際だって高い給与水準だった。

そして・・・

・凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり

総資産数千億といわれた大富豪・藤田田

藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなります。
(70代を迎えても元気に、マクドナルドの社長・会長業に励んでいましたが、実は糖尿病と心臓に病を抱えていたようです)
2005年3月に遺産総額が公示されました。
その額491億円。
歴代6位の遺産額でした。
(ちなみに歴代1位はパナソニック創業者・松下幸之助氏です。2,450億円でした。)

そんな藤田田の資産は生前、1,500億円とも3,210億円とも伝えられていました。

一番大きかったのは、日本マクドナルド株ですが、長年に渡って、そのマクドナルドの売上の1%が契約役務・コンサルタント料として、藤田商店に入る仕組みになっていました。

またポテトの納入元が藤田田のファミリーカンパニーだったりと、個人で保有していた株式の他にも、現金が手元に流れ込む仕組みを作っていたことから、資産が膨大な額だと目され、また、日本マクドナルドがあれほどの大企業なのに東証1部ではなくJASDAQ上場となったのは、藤田田と日本マクドナルドの契約に不透明性があったからだと報じられました。

現在も、藤田商店は存在しており、息子さんが社長を務めていますが、デン・フジタやデン・フジタ興産といった無数にあったファミリー企業の多くは藤田商店に吸収合併されています。

息子さんは2人。藤田元(ゲンと発音して下さい)・藤田完(カンと発音して下さい)です。
元はジェネラル・将軍を意味する。
完はカーン・王様を意味する。

息子たちは、名前で得をするはずだ、と藤田田は生前に語っています。

ふたりとも成城大学出身という話がありますが、正確なところは、
どちらかが早稲田大学商学部卒業、そしてもうひとりが成城大学経済学部卒業。
日本マクドナルド2代目社長となった八木康行氏が成城大学出身だったのは、息子の友人であったことで藤田田と出会い、創業まもないマクドナルドに飛び込んだことが後の出世に繋がりました。

藤田田は、息子に日本マクドナルドを継がせることはありませんでした。
2003年に会長を退任するとき、取締役に就いていた息子も同時に退任しました。

日本マクドナルドは2000年にハンバーガーの価格を半額にして、一時は売上が好調に推移し、〝デフレの勝ち組〟ともて囃されました。
最安値でハンバーガー1個59円という時代がありました。

しかし、為替差損で2002年には初の赤字決算に陥り、ブランドイメージは落ち、決定的な打開策を見いだせないまま、2003年に藤田田は日本マクドナルドを去りました。

実は、この値下げ商法は自著『ユダヤの商法』に反したものでした。
彼自身が著書の中に安売り商法はしてはいけないと断じていたのです。
慢心したのか、それともこの時代は値下げしてモノを売る方法しかないと思ったのか・・・
永遠の謎ですが、現代に生きる私たちは『ユダヤの商法』を読んで、〝藤田田 金儲けの教え〟について学ぶべきところはしっかりと学ぶべきだと思います。

長者番付

長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1996年分~2004年分)

はる坊です。

個人情報保護の為、2005年(平成17年)以降は、発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年(平成16)分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1996年(平成8年)から2004年(平成16年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。
ソースは、当時の新聞報道・各年の『全国高額納税者名簿』(東京商工リサーチ刊)によるものです。

1996年分~1998年分の所得税率について

課税所得330万円以下・・・10%

課税所得330万円超~900万円以下・・・20%

課税所得900万円超~1800万円以下・・・30%

課税所得1800万円超~3000万円・・・40%

課税所得3000万円超・・・50%

参考までに、1996年分~1998年分の住民税の税率です。

課税所得200万円以下・・・5%

課税所得200万円超~700万円以下・・・10%

課税所得700万円超・・・15%

それでは、長者番付・作家部門(1996年分~2004年分)です

1996年(平成8年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  内田康夫 1億4657万円

2位  西村京太郎 1億3351万円

3位  森村誠一 8222万円

4位  神坂一 8010万円

5位  津本陽 7450万円

6位  渡辺淳一 7327万円

7位  田中芳樹 6568万円

8位  椎名誠 6199万円

9位  石原慎太郎 6096万円

10位  斎藤栄 5933万円

11位  宮部みゆき 5291万円

12位  菊地秀行 5017万円

13位  五木寛之 4960万円

14位  群ようこ 4112万円

15位  童門冬二 3976万円

16位  宮本輝 3973万円

17位  荒巻義雄 3860万円

18位  赤川次郎 3805万円

19位  平岩弓枝 3795万円

20位  宮城谷昌光 3696万円

※赤川次郎首位陥落の理由
13年連続で長者番付・作家部門の1位を守り続けた赤川次郎氏が一気に18位まで順位を下げたのは、バブル期に購入した自宅兼仕事場の売却損で、作家活動による印税・原稿料・著作権収入と売却損が相殺された為。
収入は例年と同様の額があったとのこと。

※司馬遼太郎の遺産評価額
1997年2月、1996年2月に逝去した司馬遼太郎氏の遺産評価額が管内税務署にて公示されました。
遺産額は約26億4000万円。
約20億1000万円が銀行等金融機関への預貯金。
約3億9000万円が著作権。
約2億4000万円が自宅の土地建物でした。

1997年(平成9年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  赤川次郎 2億7760万円

2位  渡辺淳一 2億2675万円

3位  西村京太郎 2億1257万円

4位  内田康夫 2億0827万円

5位  村上春樹 9244万円

6位  浅田次郎 9187万円

7位  森村誠一 8611万円

8位  林真理子 6980万円

9位  宮部みゆき 6942万円

10位  津本陽 6752万円

11位  神坂一 6336万円

12位  菊地秀行 5817万円

13位  群ようこ 5298万円

14位  斎藤栄 5147万円

15位  星野富弘 5103万円

16位  田中芳樹 4981万円

17位  平岩弓枝 4632万円

18位  髙村薫 4439万円

19位  椎名誠 4293万円

20位  大沢在昌 4247万円

落合信彦 3311万円

1998年(平成10年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  西村京太郎 2億5196万円

2位  赤川次郎 1億9087万円

3位  鈴木光司 1億4207万円

4位  宮部みゆき 1億1679万円

5位  内田康夫 1億0594万円

6位  浅田次郎 1億0474万円

7位  五木寛之 7780万円

8位  森村誠一 7128万円

9位  宮城谷昌光 6738万円

10位  神坂一 5612万円

11位  菊地秀行 5495万円

12位  群ようこ 5357万円

13位  渡辺淳一 4998万円

14位  星野富弘 4962万円

15位  椎名誠 4927万円

16位  落合信彦 4687万円

17位  馳星周 4412万円

18位  斎藤栄 4399万円

19位  田中芳樹 4385万円

20位  筒井康隆 4220万円

北方謙三 3905万円

河合隼雄 3563万円

林真理子 3211万円

平岩弓枝 1974万円

1999年分以降は、所得税率が過去最低にダウン

1998年(平成10年)分までは、最高税率が所得税50%+住民税15%でしたが、
所得税率は最高で37%までダウンしました。

そのせいか、下記に挙げる作家の納税額も前年までに比べて減少していますが、2000年に入ると出版不況が深刻化して、作家の収入自体が減少していく様子が分かります。

1990年代初頭では、年収1億円あったとしてもランキングのベスト20に入れるかどうかでしたが、2000年分以降では、ベストテンに入れる年収になっています。

それほど、本が売れずに印税収入が細ってきている模様もうかがえます。

2006年分まで使用された所得税率表は下記のとおりです。
課税所得330万円以下・・・・・・・・・・・10%
課税所得330万円超~900万円・・・・20%
課税所得900万円超~1800万円・・・30%
課税所得1800万円超・・・・・・・・・・・・・37%

参考までに、2006年分まで使用された住民税税率表は下記のとおりです。
課税所得200万円以下・・・5%
課税所得200万円超~700万円以下・・・10%
課税所得700万円超・・・13%

1998年分までに比べると最高税率が大幅に下がりました。

1998年分まで、所得税50%+住民税15%=最高税率65%
1999年分から、所得税37%+住民税10%=最高税率47%

1999年(平成11年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  西村京太郎 1億6519万円

2位  内田康夫 1億3929万円

3位  宮部みゆき 1億1492万円

4位  鈴木光司  7656万円

5位  浅田次郎  7315万円

6位  五木寛之  6320万円

7位  森村誠一  6199万円

8位  桐生操(堤幸子) 5640万円

9位  桐生操(上田加代子) 5610万円

10位  星野富弘 5246万円

11位  村上春樹 4664万円

12位  津本陽 4329万円

13位  赤瀬川源平 4015万円

14位  山崎豊子 3940万円

15位  東野圭吾 3803万円

16位  菊地秀行 3777万円

17位  天童荒太 3718万円

18位  桐野夏生 3355万円

19位  京極夏彦 3300万円

20位  神坂一 3282万円

21位以下で公示された作家

林真理子 2719万円

平岩弓枝 2174万円

馳星周 1412万円

2000年(平成12年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  西村京太郎 1億5603万円

2位  赤川次郎 1億1108万円

3位  宮部みゆき 7873万円

4位  山崎豊子 7559万円

5位  内田康夫 7265万円

6位  浅田次郎 6758万円

7位  五木寛之 6468万円

8位  天童荒太 6465万円

9位  真保裕一 4153万円

10位  北方謙三 3956万円

11位  菊地秀行 3886万円

12位  夢枕獏 3591万円

13位  江國香織 3412万円

14位  阿川佐和子 3227万円

15位  落合信彦 3188万円

16位  津本陽 3176万円

17位  星野富弘 3108万円

18位  森村誠一 2887万円

19位  東野圭吾 2878万円

20位  林真理子 2746万円

21位以下で公示された作家

山口洋子 2624万円

森博嗣 2392万円

大沢在昌 2223万円

渡辺淳一 1932万円

柳美里 1891万円

宮尾登美子 1724万円

曽野綾子 1714万円

花村萬月 1332万円

平岩弓枝 1116万円

2001年(平成12年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  西村京太郎 1億5946万円

2位  宮部みゆき 1億4566万円

3位  赤川次郎  8648万円

4位  内田康夫  7743万円

5位  浅田次郎  6633万円

6位  夢枕獏   5960万円

7位  江國香織   4331万円

8位  

長者番付

長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1989年分~1995年分)

はる坊です。

個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1989年(平成元年)から1995年(平成7年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。

この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。

1989年(平成元年)分所得税納税額

個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1989年(平成元年)から1995年(平成7年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。

この時代、新刊の小説本が売れた最後の時期にあたっており、作家には印税収入を主として、まだ大きな収入がありました。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。

長者番付・作家部門(1989年分~1995年分)です

1989年(平成元年)分所得税納税額

1位  赤川次郎 4億6173万円

2位  西村京太郎 2億6262万円

3位  吉本ばなな 2億3699万円

4位  村上春樹 1億5111万円

5位  司馬遼太郎 1億4012万円

6位  池波正太郎 1億0920万円

7位  西村寿行 9508万円

8位  菊地秀行 8208万円

9位  渡辺淳一 7829万円

10位  藤島泰輔 7197万円

11位  藤川桂介 7190万円

12位  笹沢左保 6656万円

13位  遠藤周作 6637万円

14位  山村美紗 6485万円

15位  斎藤栄 6011万円

16位  内田康夫 5759万円

17位  森村誠一 5718万円

18位  椎名誠 5671万円

19位  胡桃沢耕史 5526万円

20位  田中芳樹 5103万円

※10位にランクインしている藤島泰輔は、作家・評論家として活動。学習院時代の学友だった明仁天皇(上皇明仁)をモデルにした『孤獨の人』で衝撃的なデビューを果たす。
〝在日フランス人〟ポール・ポネ名義での著作もある。
また、ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川の妹、藤島メリー泰子とのあいだに藤島ジュリー景子を儲けている。
馬主としても有名でランニングフリーなど名馬を所有していた。
収入には、本業の作家活動の他、ジャニーズ事務所からの役員報酬。馬主としての収入が大きかったといわれている。

1990年(平成2年)分所得税納税額

1位  赤川次郎 3億7980万円

2位  西村京太郎 2億4497万円

3位  司馬遼太郎 1億1140万円

4位  松本清張 8736万円

5位  菊地秀行 8622万円

6位  西村寿行 8185万円

7位  田中芳樹 7944万円

8位  内田康夫 7927万円

9位  渡辺淳一 7572万円

10位  斎藤栄 7266万円

11位  門田泰明 6705万円

12位  笹沢左保 6618万円

13位  山村美紗 6578万円

14位  遠藤周作 6239万円

15位  椎名誠 6127万円

16位  落合信彦 5929万円

17位  森村誠一 5801万円

18位  藤島泰輔 5760万円

19位  村上春樹 5890万円

20位  田辺聖子 5404万円

※20位圏外で登場した作家

北方謙三 3716万円

森瑤子  3095万円

大藪春彦 2890万円

柳田邦男 2081万円 

草柳大蔵 1709万円

1991年(平成3年)分所得税納税額

1位  赤川次郎 3億5512万円

2位  西村京太郎 2億5489万円

3位  内田康夫 1億7140万円

4位  司馬遼太郎 9101万円

5位  椎名誠 8577万円

6位  山村美紗 8404万円

7位  菊地秀行 8325万円

8位  遠藤周作 8171万円

9位  落合信彦 7378万円

10位  笹沢左保 7290万円

11位  渡辺淳一 6643万円

12位  田中芳樹 6508万円

13位  森村誠一 6414万円

14位  斎藤栄 6003万円

15位  山崎豊子 5315万円

16位  橋本治 5294万円

17位  門田泰明 5062万円

18位  陳舜臣 4933万円

19位  豊田行二 4794万円

20位  松本清張 4393万円

※20位圏外で登場した作家

西村寿行 3873万円

森瑤子  3737万円

大藪春彦 3692万円

北方謙三 3584万円

夢枕獏  2875万円

草柳大蔵 2078万円

柳田邦男 1602万円

1992年(平成4年)分所得税納税額

1位  赤川次郎 3億5093万円

2位  西村京太郎 2億3698万円

3位  内田康夫 1億8649万円

4位  司馬遼太郎 1億1944万円

5位  菊地秀行 7890万円

6位  田中芳樹 7650万円

7位  渡辺淳一 7318万円

8位  山村美紗 7261万円

9位  豊田行二 7187万円

10位  辺見じゅん 7155万円

11位  森村誠一 6530万円

12位  斎藤栄 5902万円

13位  椎名誠 5728万円

14位 荒巻義雄 5486万円

15位  落合信彦 5244万円

16位  津本陽 5233万円

17位  門田泰明 4846万円

18位  笹沢左保 4822万円

19位  平岩弓枝 4720万円

20位  宮本輝 4673万円

※20位圏外では、

西村寿行が納税額4098万円

夢枕獏が納税額2000万円

佐木隆三が納税額1127万円で登場している。

『生涯収入9億6400万円 !『身分帳』が原作となる映画『すばらしき世界』が2月11日に西川美和監督・役所広司主演で公開。代表作『復讐するは我にあり』の直木賞作家・佐木隆三が公表した30年間の収支一覧表』はこちらから。(新しいタブが開きます)

1993年(平成5年)分所得税納税額

1位  赤川次郎 3億2209万円

2位  西村京太郎 2億2168万円

3位  内田康夫 1億7412万円

4位  司馬遼太郎 9969万円

5位  山村美紗 8624万円

6位  津本陽 7765万円

7位  森村誠一 7689万円

8位  荒巻義雄 7680万円

9位  菊地秀行 6970万円

10位  斎藤栄 6650万円

11位  宮尾登美子 6384万円

12位  藤沢周平 6351万円

13位  椎名誠 6050万円

14位  童門冬二 5686万円

15位  渡辺淳一 5365万円

16位  志茂田景樹 5272万円

17位  豊田行二 5224万円

18位  遠藤周作 5029万円

19位  平岩弓枝 4979万円

20位  門田泰明 4777万円

1994年(平成6年)分所得税納税額

1位  赤川次郎 3億2209万円

2位  西村京太郎 2億2500万円

3位  内田康夫 1億7700万円

4位  司馬遼太郎 1億0287万円

5位  森村誠一 8864万円

6位  斎藤栄 7957万円

7位  菊地秀行 7586万円

8位  荒巻義雄 6786万円

9位  椎名誠 6694万円

10位  津本陽 6449万円

11位  山村美紗 5991万円

12位  藤沢周平 5986万円

13位 

長者番付

長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1984年分~1988年分)

はる坊です。

個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1984年(昭和59年)から1988年(昭和63)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。各年のベスト20までを列挙しています。

この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。

記事の一番下に、当時の所得税率・住民税率を記載しておりますので、ご興味のある方はご覧ください。

それでは長者番付・作家部門(1984年分~1988年分)です

1984年(昭和59年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  赤川次郎 6億3836万円

2位  西村京太郎 1億8276万円

3位  司馬遼太郎 1億7432万円

4位  松本清張 1億7240万円

5位  西村寿行 1億5615万円

6位  渡辺淳一 1億0481万円

7位  笹沢左保 9941万円

8位  森村誠一 8300万円

9位  平岩弓枝 8157万円

10位  片岡義男 8064万円

11位  池波正太郎 7429万円

12位  栗本薫中島梓)7357万円

13位  田辺聖子 7104万円

14位  筒井康隆 6714万円

15位  斎藤栄 6251万円

16位  夏樹静子 5884万円

17位  遠藤周作 4774万円

18位  柳田邦男 4521万円

19位  大藪春彦 4316万円

20位  和久俊三 4251万円

1985年(昭和60年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  赤川次郎 7億5709万円

2位  西村京太郎 2億4789万円

3位  池波正太郎 1億9872万円

4位  松本清張 1億4105万円

5位  西村寿行 1億3745万円

6位  司馬遼太郎 1億2567万円

7位  栗本薫中島梓) 9717万円

8位  渡辺淳一 9333万円

9位  森村誠一 8665万円

10位  笹沢左保 8061万円

11位  平岩弓枝 6712万円

12位  斎藤栄 6459万円

13位  田辺聖子 6059万円

14位  夢枕獏 5971万円

15位  遠藤周作 5560万円

16位  大藪春彦 5131万円

17位  和久俊三 5073万円

18位  高城肇 5007万円

19位  平井和正 4355万円

20位  胡桃沢耕史 4300万円

21位以下

菊地秀行 3981万円

1986年(昭和61年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  赤川次郎 8億6100万円

2位  西村京太郎 2億9662万円

3位  司馬遼太郎 1億4368万円

4位  渡辺淳一 1億4036万円

5位  西村寿行 1億1809万円

6位  松本清張 1億0914万円

7位  遠藤周作 1億0621万円

8位  菊地秀行 1億0458万円

⇒菊地秀行の生誕から爆発的な人気を得る1980年代後半に至る軌跡をまとめた記事はこちらです。魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回~第4回』(新しいタブが開きます)

9位  栗本薫中島梓)1億0430万円

10位  池波正太郎 9919万円

11位  畑正憲 8904万円

12位  田辺聖子 7290万円

13位  笹沢左保 6774万円

14位  夢枕獏 6769万円

15位  胡桃沢耕史 6664万円

16位  斎藤栄 6452万円

17位  平岩弓枝 6064万円

18位  井上ひさし 6006万円

19位  山村美紗 5781万円

20位  森村誠一 5370万円

1987年(昭和62年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  赤川次郎 6億4860万円

2位  西村京太郎 2億8468万円

3位  司馬遼太郎 1億4980万円

4位  西村寿行 1億3190万円

5位  池波正太郎 1億0257万円

6位  菊地秀行 9533万円

7位  田辺聖子 9531万円

8位  渡辺淳一 9331万円

9位  松本清張 8866万円

10位  栗本薫中島梓) 8437万円

11位  山村美紗 7536万円

12位  遠藤周作 7080万円

13位  胡桃沢耕史 6404万円

14位  椎名誠 6390万円

15位  安部譲二 6255万円

16位  笹沢左保 6157万円

17位  斎藤栄 6111万円

18位  森村誠一 6060万円

19位  新井素子 5576万円

20位  平岩弓枝 5482万円

1988年(昭和63年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額

1位  赤川次郎 5億8233万円

2位  西村京太郎 2億8833万円

3位  村上春樹 2億5369万円

4位  池波正太郎 1億3898万円

5位  西村寿行 1億0072万円

6位  司馬遼太郎 9920万円

7位  菊地秀行 8673万円

8位  松本清張 7903万円

9位  山村美紗 7376万円

10位  斎藤栄 7018万円

11位  平岩弓枝 6957万円

12位  遠藤周作 6931万円

13位  田辺聖子 6711万円

14位  笹沢左保 6237万円

15位  藤川桂介 6235万円

16位  渡辺淳一 6079万円

17位  藤島泰輔 5918万円

18位  椎名誠 5913万円

19位  門田泰明 5871万円

20位  森村誠一 5598万円

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

何かございましたら、こちらまでお願いいたします。

はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)

1989年から1995年分はこちらです。

1996年から2004年分はこちらです

1984年分~1986年分の所得税率について

なんと15分類に分かれていました

課税所得50万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・10.5%

課税所得50万円超~120万円以下・・・・・・12%

課税所得120万円超~200万円以下・・・・・14%

課税所得200万円超~300万円以下・・・・・17%

課税所得300万円超~400万円以下・・・・・21%

課税所得400万円超~600万円以下・・・・・25%

課税所得600万円超~800万円以下・・・・・30%

課税所得800万円超~1000万円以下・・・・35%

課税所得1000万円超~1200万円以下・・・40%

課税所得1200万円超~1500万円以下・・・45%

課税所得1500万円超~2000万円以下・・・50%

課税所得2000万円超~3000万円以下・・・55%

課税所得3000万円超~5000万円以下・・・60%

課税所得5000万円超~8000万円以下・・・65%

課税所得2000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・70%

1987年分の所得税率について

まだ、12分類に分かれていました。

課税所得150万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・10.5%

課税所得150万円超~200万円以下・・・・・12%

課税所得200万円超~300万円以下・・・・・16%

課税所得300万円超~500万円以下・・・・・20%

課税所得500万円超~600万円以下・・・・・25%

課税所得600万円超~800万円以下・・・・・30%

課税所得800万円超~1000万円以下・・・・35%

課税所得600万円超~1000万円以下・・・・40%

課税所得1000万円超~2000万円以下・・・45%

課税所得600万円超~1000万円以下・・・・50%

課税所得1000万円超~2000万円以下・・・55%

課税所得2000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・60%

1988年分の所得税率について

やっと6分類まで減りました。

課税所得300万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

課税所得300万円超~600万円以下・・・・・20%

課税所得600万円超~1000万円以下・・・・30%

課税所得1000万円超~2000万円以下・・・40%

課税所得2000万円超~5000万円以下・・・50%

課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・60%

参考までに、1984年分の住民税の税率です。

1980年分から使用されていました。
こちらもなんと、14分類に分かれていました。

課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

課税所得30万円超~45万円以下・・・・・・・5%

課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・6%

課税所得70万円超~100万円以下・・・・・・7%

課税所得100万円超~130万円以下・・・・・8%

課税所得130万円超~150万円以下・・・・・9%

課税所得150万円超~230万円以下・・・・・11%

課税所得230万円超~370万円以下・・・・・12%

課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13%

課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14%

課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15%

課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16%

課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17%

課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・18%

よって、1984年分の所得税と住民税の最高税率は驚異の88%でした。

1985年分~1987年分の住民税の税率です。

同じく14分類に分かれていました

課税所得20万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4.5%

課税所得20万円超~45万円以下・・・・・・・・5%

課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・・6%

課税所得70万円超~95万円以下・・・・・・・・7%

課税所得95万円超~120万円以下・・・・・・・8%

課税所得120万円超~150万円以下・・・・・・9%

課税所得150万円超~220万円以下・・・・・11%

課税所得220万円超~370万円以下・・・・・12%

課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13%

課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14%

課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15%

課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16%

課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17%

課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%

1987年分の所得税と住民税の最高税率は、所得税の最高税率が10%下がったため78%でした。

1988年分の住民税の税率です。

所得税と同じく7分類に簡略化されました

課税所得60万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

課税所得60万円超~130万円以下・・・・・・・7%

課税所得130万円超~260万円以下・・・・・10%

課税所得260万円超~460万円以下・・・・・12%

課税所得460万円超~950万円以下・・・・・14%

課税所得950万円超~1900万円以・・・・・・15%

課税所得1900万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・16%

1988年分の所得税と住民税の最高税率は、住民税の最高税率が2%下がったため76%でした。

本当の最後まで読んでくださって、心より御礼申し上げます。



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1970年代の話

長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1974年分~1983年分)

個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1974年(昭和49年)から1983年(昭和58)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。

ちなみに、1982年分(昭和57年)までは納税額ではなく申告所得額が発表されていました。

1981年分(昭和56年)までは、ベスト10。1982年分(昭和57年)以降はベスト20までを列挙しています。

1983年度(昭和58年)からは、発表されるのが申告所得額から所得税納税額に変更されています。
この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。

ソースは、当時の新聞報道によるものです。

申告所得額とは?
簡単に説明をしますと、実収入ー経費=申告所得になります。
小説家の経費は実収入の30%が認められていたようです。
例)実収入・・・1億円
経費・・・3000万円
申告所得・・・7000万円

この申告所得に下の所得税率が掛かるのです。

当時の所得税率は恐ろしいものでした!

1974年分~1983年分の所得税率は、過去・現在に至るまで日本の所得税率の推移を見た上で、最も税率が厳しかった時代です。下の税率表をご覧になっていただくと、国税ではなく“酷税”と呼ばれていたことがご理解いただけるかと思います。

1974年分~1979年分は所得税+住民税=最高93%時代!

1974年分~1983年分の所得税率について

なんと19分類に分かれていました。

課税所得60万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
課税所得60万円超~120万円以下・・・・・・12%
課税所得120万円超~180万円以下・・・・・14%
課税所得180万円超~240万円以下・・・・・16%
課税所得240万円超~300万円以下・・・・・18%
課税所得300万円超~400万円以下・・・・・21%
課税所得400万円超~500万円以下・・・・・24%
課税所得500万円超~600万円以下・・・・・27%
課税所得600万円超~700万円以下・・・・・30%
課税所得700万円超~800万円以下・・・・・34%
課税所得800万円超~1000万円以下・・・・38%
課税所得1000万円超~1200万円以下・・・42%
課税所得1200万円超~1500万円以下・・・46%
課税所得1500万円超~2000万円以下・・・50%
課税所得2000万円超~3000万円以下・・・55%
課税所得3000万円超~4000万円以下・・・60%
課税所得4000万円超~6000万円以下・・・65%
課税所得6000万円超~8000万円以下・・・70%
課税所得8000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・75%

参考までに、1974年分~1979年分の住民税の税率です。

1973年分から使用されていましたが、細かく13分類に分かれていました。

課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
課税所得30万円超~50万円以下・・・・・・・5%
課税所得50万円超~80万円以下・・・・・・・6%
課税所得80万円超~110万円以下・・・・・・7%
課税所得110万円超~150万円以下・・・・・8%
課税所得150万円超~250万円以下・・・・・9%
課税所得250万円超~400万円以下・・・・・11%
課税所得400万円超~600万円以下・・・・・12%
課税所得600万円超~1000万円以下・・・・13%
課税所得1000万円超~2000万円以下・・・14%
課税所得2000万円超~3000万円以下・・・15%
課税所得3000万円超~5000万円以下・・・16%
課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%

よって、1974年分~1983年分の所得税と住民税の最高税率は驚愕の93%でした。

参考までに、1980年分~1983年分の住民税の税率です。

1984年分まで使用されていました。さらに細かく14分類に分かれていました。
課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
課税所得30万円超~45万円以下・・・・・・・5%
課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・6%
課税所得70万円超~100万円以下・・・・・・7%
課税所得100万円超~130万円以下・・・・・8%
課税所得130万円超~150万円以下・・・・・9%
課税所得150万円超~230万円以下・・・・・11%
課税所得230万円超~370万円以下・・・・・12%
課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13%
課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14%
課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15%
課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16%
課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17%
課税所得4900万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%

よって、1980年分~1983年分の所得税と住民税の最高税率は、驚異の88%でした。

長者番付・作家部門(1974年分~1983年分)です

1974年(昭和49年)分申告所得額

1位 松本清張   3億0959万円

2位 司馬遼太郎 2億1463万円

3位 五木寛之   2億1226万円

4位 遠藤周作   1億8637万円

5位 石川達三   1億0710万円

6位 山岡荘八   1億0283万円

7位 宇能鴻一郎    9712万円

8位 北杜夫      8803万円

9位 川上宗薫     8488万円

10位 花登筺      8023万円

1975年(昭和50年)分申告所得額

1位 松本清張 3億0027万円

2位 司馬遼太郎 2億3512万円

3位 五木寛之 2億2587万円

4位 石川達三 1億3422万円

5位 遠藤周作 1億3403万円

6位 横溝正史 1億1547万円

7位 有吉佐和子 1億1474万円

8位 山岡荘八 1億1259万円

9位 宇能鴻一郎 1億0656万円

10位 井上ひさし 9484万円

1976年(昭和51年)分申告所得額分

1位 松本清張   3億3461万円

2位 司馬遼太郎  3億3032万円

3位 横溝正史   3億3825万円

4位 五木寛之   1億4125万円

5位 森村誠一   1億1042万円

6位 城山三郎   1億0654万円

7位 宇能鴻一郎  1億0477万円

8位 石川達三   1億0237万円

9位 遠藤周作    9947万円

10位 高木彬光    8799万円

1977年(昭和52年)分申告所得額分

1位 森村誠一   6億2264万円

2位 横溝正史   4億0416万円

3位 松本清張   3億0545万円

4位 司馬遼太郎  2億1785万円

5位 新田次郎   1億7766万円

6位 五木寛之   1億5034万円

7位 城山三郎   1億2768万円

8位 梶原一騎   1億1504万円

9位 高木彬光   1億0564万円

10位 池波正太郎  1億0470万円

1978年(昭和53年)分申告所得額分

1位 森村誠一   4億3139万円

2位 松本清張   3億1856万円

3位 西村寿行   2億3487万円

4位 司馬遼太郎  1億8863万円

5位 五木寛之   1億7058万円

6位 横溝正史   1億6815万円

7位 新田次郎   1億5140万円

8位 有吉佐和子  1億4812万円

9位 池波正太郎  1億3878万円

10位 梶原一騎   1億3240万円

1979年(昭和54年)分申告所得額分

1位 西村寿行   2億6932万円

2位 大藪春彦   2億3452万円

3位 五木寛之   2億2013万円

4位 高木彬光   1億9313万円

5位 松本清張   1億7942万円

6位 司馬遼太郎  1億7085万円

7位 池波正太郎  1億5487万円

8位 横溝正史   1億5360万円

9位 花登筺   1億5085万円

10位 半村良   1億4451万円

1980年(昭和55年)分申告所得額

1位 司馬遼太郎  3億0102万円

2位 五木寛之   2億7570万円

3位 西村寿行   2億5017万円

4位 松本清張   2億4733万円

5位 大藪春彦   2億0029万円

6位 井上靖    1億6792万円

7位 森村誠一   1億4427万円

8位 遠藤周作   1億2251万円

9位 池波正太郎  1億1704万円

10位 小松左京   1億1435万円

1981年(昭和56年)分申告所得額

1位 司馬遼太郎  2億9193万円

2位 石坂洋次郎  2億1670万円

3位 西村寿行   1億8746万円

4位 松本清張   1億7853万円

5位 横溝正史   1億4582万円(発表時故人)

6位 五木寛之   1億4264万円

7位 森村誠一   1億4254万円

8位 勝目梓    1億4065万円

9位 笹沢左保   1億3832万円

10位 遠藤周作   1億2961万円

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1982年(昭和57年)分申告所得額

1位  松本清張   3億1489万円

2位  赤川次郎   2億7041万円

3位  西村寿行   2億5946万円

4位  司馬遼太郎  2億5731万円

5位  森村誠一   2億4362万円

6位  笹沢左保   1億7016万円

7位  渡辺淳一   1億4707万円

8位  大藪春彦   1億3650万円

9位  池波正太郎  1億1935万円

10位 井上ひさし  1億1861万円

11位 平岩弓枝   1億1492万円

12位 田辺聖子   1億0886万円

13位 西村京太郎  1億0720万円

14位 黒岩重吾   1億0158万円

15位 遠藤周作   1億0131万円

16位 筒井康隆    9823万円

17位 五木寛之    9800万円

18位 梅原猛     9545万円

19位 井上靖      9295万円

20位 平井和正     9003万円

1983年(昭和58年)分所得税納税額
1位  赤川次郎   4億0838万円

2位  松本清張   1億9201万円

3位  司馬遼太郎  1億5360万円

4位  西村寿行   1億2588万円

5位  西村京太郎  1億0969万円

6位  笹沢左保   1億0733万円

7位  渡辺淳一   1億0117万円

8位  平岩弓枝     9085万円

9位  池波正太郎    8353万円

10位  筒井康隆     8005万円

11位  森村誠一      7933万円

12位  田辺聖子     6815万円

13位  勝目梓      6167万円

14位  大藪春彦     6043万円

15位  平井和正     5800万円

16位  中島梓(栗本薫) 5155万円

17位  和久俊三     5149万円

18位  斎藤栄      5100万円

19位  三浦綾子     5085万円

20位  遠藤周作     5026万円

1984年から1988年分はこちらです。

1989年から1995年分はこちらです。

1970年代の話

長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1959年分~1973年分)

はる坊です。

個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1959年(昭和34年)から1973年(昭和48)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。

ちなみに、1982年分(昭和57年)までは納税額ではなく申告所得額が発表されていました。

この時代、売れている小説家は凄まじい年収があり、名声と地位に包まれ、俳優やタレント、そして歌手よりも稼いでいる存在でした。

ソースは当時の新聞発表によるものです。

申告所得額とは何か?

簡単に説明をしますと、実収入ー経費=申告所得になります。

それでは、長者番付・作家部門(1959年分~1973年分)をごらんください。

1959年(昭和34年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 吉川英治   3948万円

2位 源氏鶏太   2951万円

3位 松本清張   2728万円

4位 川口松太郎  2694万円

5位 井上靖    2206万円

6位 舟橋聖一  2176万円

7位 柴田錬三郎  1692万円

8位 谷崎潤一郎  1662万円

9位 菊田一夫   1619万円

10位 山手樹一郎 1613万円

1960年(昭和35年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 松本清張   3842万円

2位 源氏鶏太   3738万円

3位 川口松太郎  2823万円

4位 吉川英治   2735万円

5位  舟橋聖一   2521万円

6位 菊田一夫   2455万円

7位 井上靖   2397万円

8位 富田常雄   1979万円

9位 柴田錬三郎  1967万円

10位 山手樹一郎  1926万円

1961年(昭和36年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位  松本清張   6150万円

2位  源氏鶏太   4150万円

3位 川口松太郎  2980万円

4位 丹羽文雄   2650万円

5位 吉川英治   2560万円

6位 山手樹一郎  2480万円

7位 井上靖   2360万円

8位 柴田錬三郎  2200万円

9位 舟橋聖一   2140万円

10位 菊田一夫   2050万円

1962年(昭和37年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 松本清張 6013万円

2位 山岡荘八 5837万円

3位 源氏鶏太 4620万円

4位 川口松太郎 2983万円

5位 柴田錬三郎 2913万円

6位 山手樹一郎 2882万円

7位 丹羽文雄 2866万円

8位 石原慎太郎 2432万円

9位 今東光 2232万円

10位 水上勉 2191万円

1963年(昭和38年)分 長者番付・作家部門 申告所得額は発表資料なし

1964年(昭和39年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 山岡荘八 7046万円

2位  松本清張 6654万円

3位 源氏鶏太 5552万円

4位 石坂洋次郎 4708万円

5位 山田風太郎 4453万円

6位 柴田錬三郎 4427万円

7位 川口松太郎 4338万円

※この年の公表はなぜか7位まででした。

1965年(昭和35年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 山岡荘八 9699万円

2位 源氏鶏太 5645万円

3位  松本清張 5298万円

4位 谷崎潤一郎 4551万円

5位 川口松太郎 4532万円

6位 柴田錬三郎 4238万円

7位 司馬遼太郎 4034万円

本当の年収はいくらだったのか? 柴田錬三郎の場合

申告所得が、実収入から経費を差し引いたものであると説明しました。
では、実収入はどれくらいだったのか?
1965年に柴田錬三郎がかなりあけすけに語っていますので、ご紹介します。

実収入  6000万円
経費   1800万円弱
申告所得 4238万円

申告所得から、どれだけ税金をとられるか・・・
所得税  2500万円
住民税  800万円
合計   3300万円

ダウンタウンの松本人志がTwitterで“高額納税者は高額所得者と知れ”とツイートして、様々な意見が出たことがありますが、高額所得者に課せられる税金は、この頃も酷なものだったようです。

1966年(昭和41年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 松本清張 7527万円

2位 源氏鶏太 5371万円

3位 石坂洋次郎 4920万円

4位 山岡荘八 4807万円

5位 柴田錬三郎 4760万円

6位 井上靖 4164万円

7位 黒岩重吾 3679万円

8位 石原慎太郎 3534万円

1967年(昭和42年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 松本清張 7353万円

2位 司馬遼太郎 5954万円

3位 源氏鶏太 5335万円

4位  石坂洋次郎 4822万円

5位 梶山季之 4081万円

6位 谷崎松子 4019万円谷崎潤一郎(夫人)

7位 柴田錬三郎 3964万円

8位 井上靖 3844万円

9位 黒岩重吾 3565万円

10位 山岡荘八 3408万円

11位 大久保康雄 3201万円

12位 北杜夫 3143万円

1968年(昭和43年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 司馬遼太郎 7593万円

2位 松本清張 6370万円

3位 佐賀潜 6043万円

4位 梶山季之 5182万円

5位 源氏鶏太 4545万円

6位 柴田錬三郎 4492万円

7位 石坂洋次郎 4461万円

8位 北杜夫 4093万円

9位 黒岩重吾 4092万円

10位 山岡荘八 3706万円

11位 川端康成 3189万円

1969年(昭和44年)分 長者番付・作家部門 申告所得

1位 梶山季之 7786万円

2位 松本清張 6514万円

3位 佐賀潜 6046万円

4位 司馬遼太郎 5538万円

5位 吉田健一 4630万円

6位 海音寺潮五郎 4305万円

7位 山岡荘八 4256万円

8位 川端康成  4136万円

9位 柴田錬三郎 4056万円

10位 源氏鶏太 4050万円

※漫画原作者・梶原一騎の申告所得額は2099万円

1970年(昭和45年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 松本清張  7825万円

2位 司馬遼太郎 7565万円

3位 山岡荘八 6949万円

4位 梶山季之 6897万円

5位 五木寛之 4979万円

6位 石原慎太郎 4958万円

7位 黒岩重吾 4662万円

8位 井上靖 4502万円

9位 曽野綾子 4491万円

※この年の発表は、なぜか上位9名まででした。

漫画原作者・梶原一騎の申告所得額は3761万円でした。

※『銭ゲバ』『アシュラ』などの衝撃作で、一躍スターダムにのしあがった漫画家・ジョージ秋山の年収が5000万円でした。

ちばてつやは、すでにちばプロダクションを設立していましたので、個人の所得は把握できませんが、1967年頃に、まだ『男一匹ガキ大将』を週刊少年ジャンプに連載する前、デビューまもない本宮ひろ志がちばてつやの家を訪れた際には、練馬区に仕事場を兼ねた豪邸を構え、当時庶民には到底手の届かなかった高級車・メルセデスベンツを所有していました。

また、石ノ森章太郎(石森章太郎)も同じ練馬区に、プール付きの豪邸を1960年代後半に新築しています。

1971年(昭和46年)分 長者番付・作家部門 申告所得額

1位 松本清張 1億4538万円

2位 司馬遼太郎 1億1862万円

3位 山岡荘八 8782万円

4位 五木寛之 6761万円

5位 川上宗薫 5920万円

6位 梶山季之 5864万円

7位 井上靖 5835万円

8位 柴田錬三郎</p