ツイート

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回第2回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第3回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

『吸血鬼ハンター〝D〟』『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズ始動

1983年1月、菊地秀行の第2作目『吸血鬼ハンター〝D〟』が刊行された。

タイトルのとおり、ダンピール(吸血鬼と人間との混血)の吸血鬼ハンター〝D〟の物語だ。
このシリーズ第1作目は、1985年12月にOVA化されている。
最新刊『D-黒い来訪者』まで、35作(46巻)が発表され続けている人気シリーズである。

意外なことに、この作品は、第1作発表当時、あまり読者の反応を得られなかった。
デビュー作『魔界都市〈新宿〉』が発売後すぐに増刷したこともあり、初版は1万5000部に増えたが、増刷が一度あったかどうか菊地自身記憶が曖昧というレベルだった。

ただ、天野喜孝のカバーイラストも相俟って、続編を望む読者の声はあった。

1983年5月、第3作『エイリアン秘宝街』が刊行される。
トレジャー・ハンターの高校生・八頭大と太宰ゆきが活躍するシリーズの第1弾だ。
この作品は、すぐ人気作となった。

1983年と1984年だけで、下記のとおりこのシリーズが立て続けに出版されていることからも、人気の程がわかる。

1983年11月30日『エイリアン魔獣境Ⅰ』

1983年12月30日『エイリアン魔獣境Ⅱ』

1984年3月30日『エイリアン黙示録』

1984年8月31日『エイリアン怪猫伝』

1984年12月20日『エイリアン魔界航路』

また菊地は、この『エイリアン秘宝街』と『エイリアン魔獣境Ⅰ』が刊行される半年のあいだに、

インベーダー・サマー』(1983年8月30日)

風の名はアムネジア』(1983年10月31日)

を上梓している。

『魔界都市〈新宿〉』でも『吸血鬼ハンター〝D〟』そして、『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズとも色彩が大きく異なる2作品を放っていることは特筆に値する。

この年、菊地の本はすべて朝日ソノラマから刊行されていた。
それ以外では、『幻想文学』に寄稿しているが、ノベルス界に進出してベストセラーを連発する1985年以降と比べると、作品の発表は年5冊と当時からハイペースだが、菊地にとっては一作品に時間をたっぷり掛けられる、いささか牧歌的な時代だったのかもしれない。

菊地秀行の1984年

1984年に入って、菊地は『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを中心に朝日ソノラマで作品を執筆していく。

先に挙げた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを除くと、

3月11日『風立ちて〝D〟』

5月9日『妖神グルメ

を刊行している。

菊地秀行作品のタイトルではおなじみの〝妖〟の字がここで登場する。

7月頃から、朝日ソノラマ一辺倒だった菊地に他出版社から執筆依頼がやってくる。
早川書房、祥伝社、光文社。

すべて、朝日ソノラマのようなジョヴナイル小説ではなく、一般文芸やノベルスの依頼だった。

菊地は喜んで引き受けた。

この時期、立て続けに菊地に他社から執筆依頼が来始めたのには理由がある。

同じく朝日ソノラマで『幻獣少年キマイラ』(1982年7月30日刊)に始まる『キマイラ』シリーズを刊行していた夢枕獏が、1984年2月に祥伝社 ノン・ノベルから『魔獣狩り 淫楽編』、7月に『魔獣狩り 暗黒編』、12月に『魔獣狩り 鬼哭編』。

徳間書店 トクマ・ノベルスから同年7月に『闇狩り師』10月に『闇狩り師2』を上梓して、それぞれが、10万部から15万部を売るベストセラーとなっていたのだ。

夢枕獏もソノラマ文庫では、菊地同様に、いままでのソノラマ文庫作品とは、すこし毛色の違う作品を書いていた。

菊地も“「いい小説、面白い小説がでてきた」”と感じていた。

その夢枕獏が、ノベルスに進出して一気にブレイクを果たした。

次に、出版社が注目したのは菊地秀行だった。

才能は爆発する

まずは、下記のリストを見ていただきたい。
菊地秀行が1985年の1年間に上梓した著作リストである。

3月『エイリアン妖山記』(朝日ソノラマ 文庫)

3月『魔界行 復讐編』(祥伝社 ノン・ノベル)

5月『幻夢戦記 レダ』(講談社 講談社文庫)

5月『妖魔戦線』(光文社 カッパノベルス)

7月『魔界行Ⅱ 殺戮編』(祥伝社 ノン・ノベル)

7月『D-妖殺行』(朝日ソノラマ 文庫)

7月『妖獣都市』(徳間書店 トクマ・ノベルス)

8月『切り裂き街のジャック』(早川書房 ハヤカワ文庫)

9月『妖魔陣』(光文社 光文社文庫)

9月『夢幻舞踏会』(大和書房 ハードカバー)

10月『妖戦地帯Ⅰ 淫鬼編』(講談社 講談社ノベルス)

10月『妖人狩り』(有楽出版社 ジョイ・ノベルス)

10月『妖魔軍団』(光文社 カッパノベルス)

11月『魔戦記 第1部 バルバロイの覇王』(角川書店 カドカワノベルス)

12月『魔界行Ⅲ 淫獄編』(祥伝社 ノン・ノベル)

合計15冊。

このなかでも、『魔界行』と『妖獣都市』は一気に20万部を発行する勢いを見せた。

しかし、作品執筆については苦労があった。
これまで主戦場だった朝日ソノラマ文庫は、現在でいえばライトノベル的な位置にあった。
性描写や暴力描写、そして菊地が最も得意とするホラー描写には制限があった。

ノベルスにはそれが一切ない。
だが、一切制限がないということは、作家の個性が最大限に試される舞台でもある。

菊地が最初に手掛けたのは、光文社 カッパノベルスから刊行された『妖魔戦線』だった。
この作品に挑んだとき、菊地は丸3日間、何も書けず机の前に座っていただけだった。
現代社会を舞台に妖魔を暴れさせる――
「どう書けばいいのか?」
悩みの連続だったことが、あとがきに記されている。

それでも、菊地は『妖魔戦線』を1984年中に書き上げた。
本来は、この『妖魔戦線』がノベルス第1作目となるはずだったが、出版社の都合で刊行が繰り下げになる。

続けて書いた『魔界行 復讐編』が、1985年3月に祥伝社 ノン・ノベルから刊行された。初版は2万5000部。
しかし、すぐに増刷、そして増刷が続き、10万部、15万部、20万部を超えていった。

この『魔界行』シリーズ第一作は、一気にベストセラーの仲間入りを果たす。

そして、『妖魔戦線』『妖獣都市』が続けて、ベストセラーとなる。

また、12月に『吸血鬼ハンター〝D〟』がアニメ化され、一気にその人気に火が付いた。

文庫は、毎週増刷を重ねた。

売上ではこれまでリードしてきた『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズを一気に飛び越していった。

余談だが、このOVA『吸血鬼ハンター〝D〟』の音楽は、まだブレイク前の小室哲哉が担当している。

小室はこの年の7月にリリースされた渡辺美里のシングル『My Revolution』で作曲を担当し、コンポーザーとして注目されたばかりで、主題歌の『Your Song』もTM NETWORKだったが、まだ、一般的な知名度と人気を得ては居なかった。
(TM NETWORKは一気に知名度を上げ、注目されるのは1987年4月にリリースした『Get Wild』まで時間がかかっている)

〝夢枕獏が火をつけて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟

と云われる、伝奇バイオレンスブームが、ついに幕を開けた。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

その4に続きます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

伝奇バイオレンス・アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

売れないルポライター

ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。
初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。
電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

と頼むのだ。

現在の『○○Walker』や『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。

取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての仕事をこなしていった。

菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。
経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。

早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”
(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”
(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター (電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

菊地にはないネットワークと営業力があった。

しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。
原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。
早く大量の記事を短時間で書き上げる。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。
一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。
この具体的に書くということは、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。

翻訳家志望

だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。
1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。
第1期生は約250名。

同期に、漫画家では高橋留美子・たなか亜希夫・山本貴嗣。
漫画原作者では、狩撫麻礼・工藤かずや・早乙女正幸。
また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンエームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。
しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

この頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。
「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。
ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。
このグラビアは一部の好事家に注目された。

そして、菊地は『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。
この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

菊地は作家になることを目指していた。
しかし、“「自信がなかった」”、と語っている。

山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。
1974年に『神狩り』で作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。
打ちのめされるのが目に見えていたからだという。
結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

だがこれは、菊地に限ったことではない。
『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。
銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。

その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)
※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)
※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

そして、この頃、通っていた伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。
彼女にはふたりの兄がいた。長兄がニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年である出版社の記者だった。
菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。
この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。
船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。
1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。
菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

1982年9月30日『魔界都市〈新宿〉』で作家デビュー

フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。
朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」と声が掛かったのだ。
菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。
理由は、「長すぎる」。

その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。
自負はあったが、没にされたことで一時自信を失ったのではないだろうか。

しかし、映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。
この小説が出版されるまでには、紆余曲折もあった。

菊地の持ち味であるエロスとホラー要素が、「ソノラマ文庫の読者と合っていない」と編集者から指摘を受け、数箇所を削除しなければならなかった。
菊地には不愉快な出来事だっただろう。
しかし、菊地は指摘を受けた箇所を直して作品を完成させた。夫人の励ましもあったのだろう。原稿の清書では、半分を夫人がおこなった。

夫婦が一体となって完成させたといってもさしつかえない作品『魔界都市〈新宿〉』は1982年9月30日に発売となった。

菊地秀行33歳での作家デビュー。

初版は1万3000部。

9月25日生まれの菊地にとっては5日遅れではあったが、最高のバースデープレゼントだったのではないだろうか。

1ヶ月後には1万部の増刷が決まる。
当時のソノラマ文庫で増刷がかかっていたのは、『機動戦士ガンダム』のノベライズと高千穂遙の『クラッシャージョウ』くらいだった。

ソノラマ文庫編集部にとって、読者の反応は意外なことだったのではないか。

菊地は、ソノラマ文庫を戦場に次なる作品を放っていくことになる。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第3回に続きます。

はる坊の雑記

【期間限定】黄金の月見バーガーは美味だったけど、発売はいつまで?日本マクドナルドと近くの店舗に電話してみました。

黄金の月見バーガーをレビューします

はる坊です。
今年もマクドナルドの月見バーガーの季節が始まりました。
2019年は9月4日(水)から10月上旬までの限定発売です。

商品ラインナップは・・・

・月見バーガー \340-

・チーズ月見 \370-

・黄金の月見バーガー \390-

・月見マフィン \330-

・月見パイ \150-

の5種類です。

購入されるときは、チラシかアプリのクーポンを利用されることをおすすめします。
ちなみに黄金の月見バーガーは、チーズバーガーと比べるとこんな感じです。

普通の月見バーガーとの違いは、チーズが挟まっているか否か、そして、ベーコンの分厚さがぜんぜん違うところです。

ベーコンの分厚さは目玉焼きの3分の1ほどですので、マクドナルドの公式情報に偽りなし。
かなりの分厚さですね。

バンズは普通の月見バーガーと違い、ゴマがかかっていませんが、ふっくらとしていて、とても風味がいいです。

さて、実食!

うん、美味い!
合格点。

ひとつだけ難を言えば、これから皆さんの口コミや評判がネット上に出てくると思いますが、私は厚切りベーコンが若干塩辛いかな、と感じました。
もっとも、これは個人差がありますので、何とも言えない部分がありますが。

ですので、私にはベーコンが薄いチーズ月見が合っているのかなと感じました。

10月上旬までに3回は食べたいですね。

チーズ月見と朝マックメニューの月見マフィンは必ず。

30円~50円でも、絶対に損はしたくありませんし、少しでもお得にお安く食べたいものです。
特に、マックフライポテトについては、150~190円で、クーポン利用前提での購入が浸透しているように感じます。

マックデリバリーもおすすめです

もし、天候が悪かったり体調が優れなかったり、自宅を空けられない用事があったりする場合は、スマホで出前・デリバリーを頼むことをおすすめします。
お手持ちのポイントが利用できますし、デリバリーを利用するとまたポイントが貯まります。
昔から、「あればいいな」と思っていましたが、すっかり、マクドナルドまでデリバリーできるようになる時代なのですね。



人物伝

大藪春彦本人の食事シーンは小説よりも奇なりだった!

小説の食事シーンは魅力的です

はる坊です。

映画やTVドラマで食をテーマにしたモノには人気があります。
その原作となっているのは、漫画や小説であることが多いです。
コミック作品がアニメ化されるのは珍しいことではありませんが、映画化やTVドラマ化されるのは、一般的にグルメものは視聴者にウケがいいと制作サイドが考えているからではないでしょうか。

漫画なら
『孤独のグルメ』(原作:久住昌之 作画:谷口ジロー)
『ワカコ酒』(新久千映)
『忘却のサチコ』(阿部潤)
『サチのお寺ごはん』(かねもりあやみ 原案協力:久住昌之 監修:青江覚峰)
『ラーメン大好き小泉さん』(鳴見なる)

などなど。

小説においても、
村上春樹や池波正太郎の料理や食事シーンの描写は特に巧みです。
村上作品の料理については『村上レシピ』として出版されていますし、池波正太郎はグルメについてのエッセイや生前愛した店をまとめた本も出版されています。

また、
『強運の持ち主』(瀬尾まいこ)
『食堂かたつむり』『喋々喃々』(小川糸)

の食に関するシーンは魅力的ですし、

『みをつくし料理帳』(高田郁)に至っては、この作品内に登場する料理のレシピ集『澪の料理帖』が出版されるまでになりました。

基本的に、作中の料理や食事シーンは、著者が、

「このキャラクターならこんなメニューが好きだろう。似合うだろうな」
とか、
「このキャラクターにはこういう料理を作らせたい」

という願望や読者サービスで描いているケースが多いのではないかと思います。
無論、作者の趣味・趣向が反映されていることはいうまでもありませんが。

大藪春彦作品は昭和時代を映し出す鏡

そんななか、日本におけるハードボイルド小説の先駆者である大藪春彦は、作中のキャラクターと作者自身を同化させている人物であったと思います。

『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』が代表作になると思いますが、早稲田大学教育学部英文学科在学中に『野獣死すべし』を発表して、一躍〝売れっ子作家〟となった大藪は、これまでの貧弱な食生活に復讐するかのように、好き放題に食材を買い込み、外食に出掛けます。

実際のところ、大藪自身は『野獣死すべし』がベストセラーとなり映画化された(大藪が映画化の際に受けとった原作料は大卒初任給1万3000円の時代に50万円でした)といっても、専業作家・筆一本の生活に不安を覚えて、教員免許取得を目指して都内の私立女子高で教育実習をおこなっています。

ただ、その実習で黒板に銃の絵を描いて女子高生相手に銃の構造を説明したところ、現場の教師に怒られたエピソードもあるようですが。
また、卒業論文も執筆しましたが、作家稼業が多忙になり、結局のところ教員免許取得はできないまま早大を中退しています。

さて、大藪作品の特徴は、銃やクルマなどのメカニックについての描写が延々と続くイメージがありますが、実際のところは、作中全体にあらゆるもののディテールが盛り込まれています。

例えば、1960年代に書かれた大藪作品を読むと、時代背景や舞台となった場所の様子が克明に書かれています。
1970年代に描かれた作品も同じです。

大藪春彦は作品執筆中に少しでも気になることがあると、徹底的に調べ、時には自ら赴いて場所を正確に確認することを怠りませんでした。

そして、これは食事に関してもです。

大藪春彦の食生活

大藪春彦は早大在学中の1958年(昭和33年)に『野獣死すべし』でデビューを果たし、一躍ベストセラー作家となると、23歳の若き青年作家は、小説執筆のエネルギー源として、買い物かごいっぱいに食材を買い込みます。

“「毎日、モツの焼き肉2キロ。カニだとでっかい毛ガニ三匹。マグロだとネギマ用の骨つき大なべにいっぱい」”
(引用:大藪春彦『荒野からの銃火』1979年 角川文庫より)

1961年(昭和36年)に、大藪は静龍子さんと結婚します。
龍子さんは日本大学文学部卒業後に、森脇文庫の『週刊スリラー』の編集者となり、大藪の担当編集者になったのが縁でした。

1996年(平成8年)2月26日に大藪春彦は61歳で亡くなります。
大藪と縁の深かった徳間書店では、その年の7月に『問題小説 増刊号 大藪春彦の世界』を出版しています。

この雑誌で、森村誠一と船戸与一が対談をしています。
そのなかで、大藪の早世を悼みながら、

“船戸:「前に大藪さんと対談したときに、新婚当初に夫婦ですき焼きとなるとだいたい一キロ肉を買ってきたというんですね。いくら何でも奥さんは、二百グラムも食えばいいと思うんですよ。そうしたらやっぱり大藪さんが八百グラム食っている(笑)」

森村:「めちゃくちゃなパワーですよね」”

という箇所がありますが、実際に大藪春彦と船戸与一が対談をした『諸士乱想 トーク・セッション18』(1994年 ベストセラーズ)を読むと、

大藪は、“「(龍子夫人と)ふたりですき焼きをするときには、肉を三キロ入れて食った」”

と語っています。

大藪春彦も船戸与一も故人となったいまでは、確認の仕様もありませんが、当時は、今よりも高級品だったすき焼き用の牛肉を大量に食べていたことだけは間違いないでしょう。

気に入った食材・食事には徹底的に凝る

イノシシのすき焼き

作家デビューを果たし、一躍流行作家となった大藪春彦は膨大な原稿を書きながら、狩猟にも精を出します。

あるとき、友人が和歌山県有田市にイノシシ猟に行き、大成果を挙げた報告を受けた大藪は居ても立ってもいられず、仕事を無理矢理に片付けて、勇躍、有田に向かいます。
大藪もイノシシ猟で大きな成果を挙げて、夜には地元の人と酒を飲みながらイノシシ肉を平らげます。

これが3日続いたあと、すっかりイノシシ肉を気に入った大藪は、お土産に大量のシシ肉を持ち帰り、東京でもイノシシ肉のすき焼きを楽しみます。

しかし、このときの大藪は鯨飲馬食で血圧が上昇していました。紀州でイノシシを追い続けていた3日間は汗まみれになって活動しているからいいのですが、東京で手先しか動かさない日々に戻ると、慢性的な睡眠不足と精神的な疲労もあり、大量の鼻血を鼻から吹き出す仕儀となります。
(イノシシ肉を大量に食べ続けると赤血球を破壊する作用があるようですね)

それでも、編集者は横で原稿を急ぐようにせっつきますが、ついに意識が朦朧としてきた大藪は病院に担ぎこまれて、1ヶ月ものあいだ、輸血を受ける羽目になります。
そのあいだも、大藪は口述筆記で仕事を続けなければなりませんでした。

世界中のチーズを味わう

1963年(昭和38年)頃には、チーズに凝ります。
世界中のチーズを収集して、グリュイエールをパンと同じ厚さに切ってロシアピクルスと一緒にサンドイッチにしてパクつきます。

しかし、ブルーチーズは分厚く切るのではなく、薄く切って2,3切れつまむほうが風味を味わえるとの結論に達します。

ちなみにチーズについては、一体どれだけの量を集めたのか、最後には冷蔵庫から耐えがたい肥だめのようなニオイを発し出したというオチがつきました。

BAR OYABU オーナーバーテンダー・大藪春彦

この頃には、酒も自家製カクテルに凝り出します。
ウォッカ・マルティーニ(ウォッカ・マティーニ)をストリーチナヤ(ストリチナヤ)のウォッカを2本分痛飲します。

また、自家製カクテルでは、ジンフィズに凝った時期もあり、各社の担当編集者は、バーテンダー・大藪春彦に付き合わされることになりました。

ボロニアソーセージ・レバーソーセージがお気に入り

また、ソーセージにも凝りました。
大藪はハムが好きではなく、ソーセージが大好物でした。
ソーセージのなかでも、ボロニアソーセージやレバーソーセージがお気に入りで、1万円分ほどを買い込んでは、3日と保たず食べ尽くしました。

ちなみにこの話は1966年(昭和41年)に発表されたものです。
当時の大卒初任給は24,900円。
そんな時代に、1万円分のソーセージを3日足らずで食べ尽くしてしまうエネルギーには驚かされます。

「男の料理は俺に任せろ!」シェフ・大藪春彦

大藪春彦は自分で料理をすることもありました。

自信のメニューはカツオのたたき、ビーフステーキ、ローストビーフ。

ときには、家族で、そして自宅に集った仲間に振る舞い。好評を博したようです。

自身の作品世界に登場する主人公・伊達邦彦 朝倉哲也 北野晶夫 西城秀夫 石川克也 杉田淳たちが好むメニューを大藪自身も好みました。

肉類だけではなく中華料理や魚介類も好物

元々、大藪は中華料理好きでしたが、香港に取材旅行に赴いた際に現地で味わった美味が忘れられず、帰国後は、“「同じような味にめぐり会いたい」”と横浜中華街を一軒一軒試し歩きます。
大金をはたいて、巡礼者のごとく中華街をうろつきますが、満足できる店が見つからず、ついにあるお店で〝アワビのハラワタのからあげ〟を見つけたときは、感動をしたようです。
(これは馳星周の『マンゴープリン』のエピソードと少し似ていますね。)

また、大藪春彦=肉類・ステーキというイメージがありますが、海産物も大好きで、新潟に猟へ出掛けた際には、寒ブリと子持ちスケソウダラ、そして越後米の味に感激しています。

ウニ・アワビ・エビなどは、わざわざ新鮮なものを求めて、海岸にある店に食べに出掛け、晩酌の肴に刺身を食べるときは、最低3人前を食べないと気が済みませんでした。

海外ハンティングと野性の味覚

大藪春彦は1964年(昭和39年)の終わりに、東南アジアとヨーロッパを訪れます。
そして、〝アブランド・ゲーム〟と呼ばれる、ヤマドリ・キジ・コジュウケイなどを標的とする猟にのめり込みます。

そして、1970年代に入ると、本格的に海外にハンティングに出掛けるようになります。

1972年 アラスカ

1973年 ニュージーランド・オーストラリア

1975年 アフリカ・ザンビア

1977年 モンゴル・ハエ・アルタイ山脈、カナダロッキー、モンタナロッキー

1980年 アフリカのサファリ

1981年 アメリカでシューティングツアーに参加

1982年に急性膵炎に倒れるまで、世界中で〝ザ・ビッグ・ゲーム〟を続けました。

そのなかで、野性の味に舌鼓を打ちます。

大藪曰く、

・ムース(大ヘラジカ)は、ステーキやカツレツにすると美味い。

・赤シカはステーキやシチューにするといい。ただしメス。

・ナイル川を泳ぐナイルワニの尻尾は、エビの味に似ている。

・象の鼻はゼラチン質。

・オーストラリアのオオトカゲのしっぽの蒸し焼きは、イカの生干しそっくりの味。

前述しましたように、1982年に大藪は膵炎に倒れます。そして、亡くなるまでに3度の入院を経験して、最後までこの病に悩まされることとなります。

晩年の大藪春彦は、酒もほとんど飲まず、タバコも1日5本までに制限されます。

それでも、退院後は、ラーメンを食し、やがて大盛りを頼むようになります。

最晩年は、自宅近くのそば屋の天盛りを好みました。(もちろん、大盛りです)

1996年2月26日 夕方近く 大藪春彦はこの世から旅立ちました。

享年61。

最後に食したのは、龍子夫人とともにした昼食で出された甘塩鮭でした。
自分のぶんを平らげると、龍子夫人の分まで手を付けます。

大藪春彦は、最後までグルマン・食いしん坊を貫き通しました。

大藪春彦の愛犬チリーも食いしん坊だった

大藪春彦は鳥猟の相棒として、チリーと名付けたセッターを千葉県のハンターから譲り受けました。

大藪の相棒として、そして猟犬としては優れていましたが、大藪が仲間と狩りに出掛けて、仲間が撃った鳥は口にくわえて戻ってこずに、土の中に埋めてしまうという癖もありました。

ある日、大藪が家族とともに自宅に戻ると、異臭が漂っていました。

チリーが大藪の酒の肴であるスルメを大量に食べて、水を飲み、胃の中で膨らんだスルメを吐き出していたからです。

ビックリする大藪家の面々をよそに、チリーは洋室でグーグーと大いびきをかきながらお休み中でした。

チリーは、大藪の晩酌風景を見ていて、スルメに興味を持ったのでしょう。

家庭に飼われる犬としては、少し間抜けな面があったようですが、チリーは大藪家にとってかけがえのない家族だった、と思います。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

昔の大学偏差値&学費

1965年(昭和40年)東京大学・京都大学・北海道大学・東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学 高校別合格者数一覧表

東大・京大・北大・東北大・名大・阪大・九大 高校別合格者数一覧表です。

はる坊です。

今回は、1965年(昭和40年)の東京大学・京都大学・北海道大学・東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学、いわゆる旧帝国大学の高校別合格者数をご紹介します。
東京大学合格者のベスト20校においては、現役生・浪人生別の人数もあります。

合格者の出身高校を見てみますと、現在でも偏差値の高い名門・伝統校が並んでいますが、私立高校よりも国公立高校出身者が多いことが判ります。

当時の大学進学率は17.0%(引用元『年次統計』)でしたが、地元の公立高校から一番近い難関国公立大学を目指すというのが、当時の大学進学のスタイルだったのではないでしょうか。

理由は、学費にあります。

1965年のサラリーマンの平均月給は30,300円でした。(引用『年次統計』より)

東大と早大・慶大の入学初年度学費を比べてみましょう。

東京大学

受験料:1,500円
入学金:1,500円
授業料:12,000円
施設費:0円
実習費:300円
諸会費:5,700円
入学初年度学費合計:21,000円

早稲田大学

受験料:5,000円
入学金:30,000円
授業料:50,000円
施設費:50,000円
実習費:0円
諸会費:5,200円
入学初年度学費合計:140,200円

慶應義塾大学

受験料:5,000円
入学金:70,000円
授業料:80,000円
施設費:25,000円
実習費:1,500円
諸会費:5,100円
入学初年度学費合計:186,600円

現在以上の差があることがわかります。

他の国公立大学も見てみましょう。
(音楽大学・美術大学は除きますが、医学部を含みます)

受験料:1,500円~2,000円
入学金:1,500円~8000円
授業料:12,000円
施設費:0円~24,000円
実習費:0円~4,000円
諸会費:0円~23,000円

他の私立大学も見てみましょう。

(音楽大学・美術大学・医学部は除きます)
受験料: 3,000円~8,000円
入学金: 15,000円~70,000円
授業料: 38,000円~90,000円
施設費: 0円~80,000円
実習費: 0円~20,650円
諸会費: 0円~28,650円

私立大学医学部はどうだったのか?

東京女子医科大学と久留米大学を見てみましょう。

東京女子医科大学

受験料:10,000円
入学金:150,000円
授業料:150,000円
施設費:350,000円
実習費:20,000円
諸会費:24,500円
入学初年度学費合計:704,500円

久留米大学医学部

受験料:10,000円
入学金:150,000円
授業料:150,000円
施設費:200,000円
実習費:10,500円
諸会費:42,100円
入学初年度学費合計:562,600円

1968年に廃止されましたが、インターン(〝診療実施修練〟)を終え医師国家試験に合格すれば、一人前の医師としてのスタートを切れますが、この学費は到底一般家庭では支払えるものではありませんね。

それでは、旧帝国大学の高校別合格者数を見ていきましょう。

数は少ないですが、名門校だけではなく、大学検定合格者・実業校(工業高校・商工高校)出身者もいます。

東京大学

日比谷高校・・・181名
(現役生:77名 浪人生:104名)

西高校・・・127名
(現役生:63名 浪人生:64名)

戸山高校・・・110名
(現役生:44名 浪人生:66名)

麻布高校・・・88名
(現役生:55名 浪人生:33名)

東京教育大学附属高校・・・87名
(現役生:55名 浪人生:32名)

新宿高校・・・71名
(現役生:29名 浪人生:42名)

東京教育大学附属駒場高校・・・69名
(現役生:53名 浪人生:16名)

灘高校・・・66名
(現役生:55名 浪人生:11名)

小石川高校・・・63名
(現役生:30名 浪人生:33名)

開成高校・・・55名
(現役生:35名 浪人生:20名)

浦和高校・・・52名
(現役生:24名 浪人生:28名)

湘南高校・・・51名
(現役生:25名 浪人生:26名)

旭丘高校・・・49名
(現役生:34名 浪人生:15名)

栄光学園高校・・・46名
(現役生:32名 浪人生:14名)

小山台高校・・・46名
(現役生:23名 浪人生:23名)

両国高校・・・42名
(現役生:21名 浪人生:21名)

上野高校・・・40名
(現役生:10名 浪人生:30名)

鹿児島ラ・サール高校・・・38名
(現役生:26名 浪人生:12名)

広島大学附属高校・・・34名
(現役生:23名 浪人生:11名)

東京学芸大学附属高校・・・33名
(現役生:16名 浪人生:17名)

武蔵高校・・・33名
(現役生:15名 浪人生:18名)

立川高校・・・29名
(現役生:10名 浪人生:19名)

高松高校・・・27名
(現役生:19名 浪人生:8名)

修猷館高校・・・24名
(現役生:12名 浪人生:12名)

天王寺高校・・・23名
(現役生:15名 浪人生:8名)

朝日高校・・・22名
(現役生:17名 浪人生:5名)

松本深志高校・・・21名
(現役生:12名 浪人生:9名)

小倉高校・・・20名
(現役生:13名 浪人生:7名)

長野高校・・・20名
(現役生:15名 浪人生:5名)

広島大学附属福山高校・・・19名

九段高校・・・18名

静岡高校・・・17名

前橋高校・・・16名

平塚江南高校・・・16名

富山中部高校・・・15名

金沢大学附属高校・・・15名

甲府高校・・・15名

岐阜高校・・・15名

合格者数:14名~12名

水戸第一高校

千葉高校

桐朋高校

愛光高校

舞鶴高校

熊本高校

甲府第一高校

神戸高校

操山高校

宇都宮高校

熊谷高校

浜松北高校

大手前高校

合格者数:11名~9名

盛岡第一高校

お茶の水女子大学附属高校

横須賀高校

上田高校

修道高校

鶴丸高校

新潟高校

富山高校

高崎高校

東海高校

住吉高校

北野高校

宇部高校

城南高校

大分上野丘高校

沼津東高校

高岡高校

時習館高校

甲陽学院高校

鳥取西高校

丸亀高校

土佐高校

甲南高校

合格者数:8名~6名

札幌北高校

仙台第一高校

福島高校

東京都立大学附属高校

成蹊高校

藤島高校

長崎東高校

大泉高校

横浜翠嵐高校

小田原高校

岡崎高校

明和高校

奈良女子大学文学部附属高校

今治西高校

久留米大学附設高校

芝高校

飯田高校

六甲高校

甲陽学院高校

淳心学院高校

明善高校

合格者数5名~4名

磐城高校

安積高校

長生高校

青山高校

長岡高校

津高校

広島高校

下関西高校

佐賀高校

長崎西高校

宮崎大宮高校

秋田高校

高田高校

太田高校

土浦第一高校

佐原高校

北園高校

豊多摩高校

駒場東邦高校

希望ヶ丘高校

川崎高校

聖光学院高校

豊中高校

高津高校

大手前高校

加古川東高校

出雲高校

浜田高校

徳山高校

合格者数3名以下(都道府県順)

【北海道】

札幌南高校

旭川北高校

室蘭栄高校

紋別高校

藤女子高校

帯広三条高校

砂川北高校

札幌第一高校

函館北高校

函館中部高校

北海道ラ・サール高校

札幌東高校

月形高校

釧路湖陵高校

美唄東高校

長沼高校

旭川東高校

苫小牧東高校

【青森県】

青森高校

弘前高校

八戸高校

三本木高校

【秋田県】

能代高校

横手高校

角館高校

大館鳳鳴高校

【岩手県】

水沢高校

花巻北高校

【山形県】

山形東高校

酒田東高校

【宮城県】

古川高校

角田高校

白石高校

石巻高校

【栃木県】

栃木高校

足利高校

佐野女子高校

栃木女子高校

佐野高校

大田原高校

茂木高校

真岡高校

烏山高校

【群馬県】

桐生高校

沼田高校

渋川高校

富岡高校

前橋女子高校

【茨城県】

竜ヶ崎第一高校

下妻第一高校

日立第一高校

【千葉県】

成東高校

匝瑳高校

木更津高校

安房高校

銚子高校

麗澤高校

市川高校

大学検定合格者

【埼玉県】

春日部高校

川越高校

不動丘高校

川越工業高校

【東京都】

富士高校

都立武蔵高校

成城高校

明正高校

広尾高校

北高校

駒場高校

三田高校

田園調布高校

暁星高校

武蔵丘高校

学習院女子高校

忍岡高校

城南高校

石神井高校

桜蔭高校

大崎高校

鷺宮高校

北野高校

隅田川高校

明星高校

東京大学教育学部附属高校

千歳高校

京華高校

北豊島高校

江北高校

自由学園高等科

桜町高校

法政大学第一高校

松原高校

国立高校

小松川高校

玉川高校

杉並高校

学習院高等科

千歳丘高校

【神奈川県】

関東学院六浦高校

浅野高校

鶴見高校

桜丘高校

金沢高校

横浜平沼高校

厚木高校

慶應義塾高校

横浜緑ケ丘高校

戸塚高校

フェリス女学院高校

神奈川商工高校

多摩高校

【新潟県】

柏崎高校

三条高校

佐渡高校

村上高校

新津高校

巻高校

六日市高校

【山梨県】

甲府高校

日川高校

石和高校

吉田高校

【長野県】

諏訪清陵高校

伊那北高校

【静岡県】

清水東高校

韮山高校

磐田南高校

榛原高校

掛川西高校

富士高校

浜松工業高校

【富山県】

桜井高校

砺波高校

新湊高校

魚津高校

【石川県】

輪島高校

小松高校

泉丘高校

大聖寺高校

津幡高校

七尾高校

【岐阜県】

大垣北高校

大垣南高校

【愛知県】

国府高校

半田高校

瀬戸高校

刈谷高校

一宮高校

滝高校

【福井県】

若狭高校

武生高校

【滋賀県】

彦根東高校

虎姫高校

膳所高校

【京都府】

日吉ヶ丘高校

洛星高校

洛北高校

洛西高校

同志社高校

鴨沂高校

綾部高校

朱雀高校

堀川高校

【大阪府】

大阪学芸大学附属高校池田校舎

三国丘高校

高槻高校

生野高校

寝屋川高校

富田林高校

大阪学芸大学附属高校天王寺校舎

市岡高校

八尾高校

【三重県】

四日市高校

伊勢高校

上野高校

【和歌山県】

桐蔭高校

星林高校

新宮高校

海南高校

田辺高校

橋本高校

南部高校

【奈良県】

奈良高校

天理高校

【兵庫県】

長田高校

姫路西高校

西宮高校

篠山鳳鳴高校

龍野高校

兵庫高校

小野高校

赤穂高校

三木高校

明石高校

尼崎高校

甲陽学院高校

【岡山県】

総社高校

高梁高校

倉敷青陵高校

津山高校

金光学園高校

児島高校

倉敷天城高校

岡山工業高校

【鳥取県】

倉吉東高校

鳥取東高校

米子東高校

【島根県】

益田高校

平田高校

松江南高校

【広島県】

呉宮原高校

呉三津田高校

尾道北高校

大柿高校

因島高校

広高校

広島学院高校

忠海高校

国泰寺高校

【山口県】

下松高校

山口高校

防府高校

豊北高校

豊浦高校

萩高校

柳井高校

大津高校

熊毛南高校

【香川県】

観音寺第一高校

三本松高校

坂出高校

善通寺第一高校

【愛媛県】

新居浜西高校

松山東高校

松山南高校

今治北高校

松山北高校

【高知県】

高知学芸高校

高知高校

【福岡県】

嘉穂高校

福岡高校

豊津高校

宗像高校

門司高校

伝習館高校

【佐賀県】

鹿島高校

武雄高校

伊万里高校

【長崎県】

大村高校

島原高校

佐世保北高校

佐世保南高校

諫早高校

長崎高校

長崎南高校

【大分県】

中津北高校

鶴崎高校

佐伯鶴城高校

中津南高校

鶴見丘高校

津久見高校

【宮崎県】

延岡高校

妻高校

真鍋高校

【熊本県】

天草高校

熊本マリスト学園高校

人吉高校

済々黌高校

【鹿児島県】

玉龍高校

加治木高校

【アメリカ】

キンガム高校

ワバッシュ高校

合格者総数:2827名(うち女子92名)

京都大学

天王寺高校・・・98名

大手前高校・・・76名

洛星高校・・・66名

北野高校・・・55名

神戸高校・・・55名

灘高校・・・53名

旭丘高校・・・51名

甲陽学院高校・・・51名

膳所高校・・・48名

高津高校・・・45名

姫路西高校・・・40名

住吉高校・・・37名

豊中高校・・・35名

鴨沂高校・・・34名

紫野高校・・・33名

茨木高校・・・27名

朝日高校・・・27名

岐阜高校・・・25名

高松高校・・・23名

堀川高校・・・22名

三国丘高校・・・22名

藤島高校・・・21名

嵯峨野高校・・・21名

桃山高校・・・21名

操山高校・・・21名

小倉高校・・・21名

朱雀高校・・・20名

東海高校・・・19名

静岡高校・・・18名

修猷館高校・・・18名

合格者15名~17名

金沢大学附属高校

修道高校

彦根東高校

六甲高校

桂高校

山城高校

市岡高校

長田高校

城南高校

熊本高校

合格者:14名~12名

広島学院高校

広島大学附属福山高校

丸亀高校

土佐高校

津高校

広島大学附属高校

松本深志高校

淳心学院高校

桐蔭高校

合格者:11名~10名

高岡高校

明和高校

奈良女子大学文学部附属高校

愛光学園高校

洛東高校

大阪学芸大学附属高校

合格者総数:2,310名

北海道大学

札幌南高校・・・126名

札幌西高校・・・113名

札幌北高校・・・107名

札幌旭丘高校・・・83名

小樽潮陵高校・・・79名

札幌東高校・・・49名

小樽桜陽高校・・・48名

旭川東高校・・・34名

旭川北高校・・・31名

函館中央高校・・・27名

北海道ラ・サール高校・・・26名

旭川西高校・・・26名

帯広三条高校・・・25名

岩見沢東高校・・・25名

江別高校・・・24名

帯広柏葉高校・・・24名

月寒高校・・・20名

岩見沢西高校・・・19名

滝川高校・・・19名

苫小牧東高校・・・17名

深川西高校・・・15名

函館西高校・・・15名

室蘭栄高校・・・14名

室蘭清水ヶ丘高校・・・14名

小樽千秋高校・・・14名

小樽緑陵高校・・・14名

函館東高校・・・13名

釧路湖陵高校・・・13名

合格者:12名~10名

北見柏陽高校

藤女子高校

留萌高校

芦別高校

合格者総数 1,880名

東北大学

仙台第一高校・・・166名

仙台第二高校・・・73名

山形東高校・・・48名

宮城第一女子高校・・・38名

盛岡第一高校・・・36名

秋田高校・・・31名

福島高校・・・30名

宇都宮高校・・・29名

水戸第一高校・・・29名

長野高校・・・29名

沼津東高校・・・27名

富山中部高校・・・26名

松本深志高校・・・25名

土浦第一高校・・・25名

八戸高校・・・24名

石巻高校・・・23名

静岡高校・・・23名

安積高校・・・22名

磐城高校・・・21名

古川高校・・・21名

合格者19名~15名

会津高校

東北学院高校

青森高校

高岡高校

大田原高校

前橋高校

熊谷高校

合格者14名~10名

甲府第一高校

浜松北高校

新潟高校

上田高校

栃木高校

北海道ラ・サール高校

弘前高校

酒田東高校

大館鳳鳴高校

鶴岡南高校

栄光学園高校

飯田高校

湘南高校

長岡高校

諏訪清陵高校

白石高校

合格者総数 1,867名

名古屋大学

旭丘高校・・・160名

明和高校・・・160名

東海高校・・・100名

岐阜高校・・・96名

時習館高校・・・68名

瑞陵高校・・・62名

刈谷高校・・・49名

岡崎高校・・・40名

大垣北高校・・・38名

一宮高校・・・38名

向陽高校・・・31名

四日市高校・・・26名

半田高校・・・25名

津高校・・・23名

桜台高校・・・23名

名古屋西高校・・・21名

横須賀高校・・・20名

合格者13名~10名

西尾高校

南山高校

熱田高校

岐阜北高校

滝高校

豊橋東高校

合格者総数:1346名

大阪大学

住吉高校・・・82名

大手前高校・・・78名

天王寺高校・・・75名

北野高校・・・70名

神戸高校・・・68名

豊中高校・・・55名

高津高校・・・50名

茨木高校・・・37名

甲陽学院高校・・・30名

灘高校・・・30名

大阪学芸大学附属高校・・・29名

奈良高校・・・28名

八尾高校・・・23名

高松高校・・・23名

畝傍高校・・・23名

三国丘高校・・・22名

兵庫高校・・・22名

池田高校・・・21名

市岡高校・・・19名

桐蔭高校・・・18名

藤島高校・・・17名

長田高校・・・16名

城南高校・・・15名

六甲高校・・・14名

合格者:13名・12名

新居浜西高校

東淀川高校

丸亀高校

修道高校

合格者:11名~7名

加古川東高校

淳心学院高校

今治西高校

愛光高校

今宮高校

土佐高校

県立西宮高校

伊勢高校

桃山高校

静岡高校

尼崎北高校

県立芦屋高校

広島大学附属福山高校

合格者総数:1,675名

九州大学

修猷館高校・・・183名

福岡高校・・・159名

大分舞鶴高校・・・54名

小倉高校・・・54名

明善高校・・・51名

上野丘高校・・・49名

鶴丸高校・・・46名

佐賀高校・・・43名

久留米大学附設高校・・・36名

宮崎大宮高校・・・30名

八幡高校・・・28名

筑紫丘高校・・・27名

甲南高校・・・27名

熊本高校・・・26名

別府鶴見丘高校・・・26名

東筑高校・・・24名

佐世保北高校・・・22名

門司高校・・・22名

若松高校・・・22名

宇部高校・・・21名

戸畑高校・・・21名

合格者:20名~15名

長崎東高校

嘉穂高校

長崎西高校

豊津高校

京都高校

玉龍高校

鹿児島ラ・サール高校

山口高校

徳山高校

下関西高校

済々黌高校

長崎南高校

田川高校

唐津東高校

合格者:14名~10名

伝習館高校

延岡高校

八幡中央高校

鞍手高校

武雄高校

三池高校

山門高校

大牟田北高校

加治木高校

築上中部高校

杵築高校

中津北高校

島原高校

山田高校

西南学院高校

福岡中央高校

宗像高校

合格者総数:1,768名

参考・引用元

『婦人倶楽部』(講談社 1965年6月)

1970年代の話

1972年(昭和47年)の大学入試偏差値・難易度を調べてみました。

40年前や50年前の大学受験って、難易度とか偏差値ってどうだったんだろう?

1970年や1975年頃の大学って、今よりも難しかったのか?

はる坊です。
私が大学受験を経験したのも遙か昔のことになってしまいました。
ふと、「大昔の大学受験はどうだったのだろう?」という疑問が湧いてきて、調べてみました。

手に入ったのは、1972年(昭和47年)の大学入試難易度(偏差値)表です。

当時の受験生は、現役生で1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)生まれの方になります。現在は64~65歳、仕事の第一線からリタイアされた方、企業の役員を務められている方、専門職でバリバリ働きながら後進に指導をおこなっておられる方、いろいろな方がおられると思います。

ちなみに大学卒業時には、オイルショックに見舞われて、例年より就職に苦労した経験を持たれている世代でもあります。

民間企業への就職が狭き門となった為に、国家公務員中級職(国家公務員Ⅱ種を経て、現在の国家公務員一般職)や地方公務員に本格的に目を向けて、入庁、入職した最初の世代でもあります。(地方の役場では、それまで大卒が仕事をしていることは珍しかったところもあります)

私が大学受験に臨む頃や社会へ出てから、何かの拍子で「××大なんて、名前を書けば誰でも入れた」とか「○○大は難しかった」という話を、ホンネか冗談か真に受けることもなく聞いたことがありますが、今回のデータで「なるほどなあ」と思うものもありました。
世間の評価は時代によって移り変わっていくものですね。
もっとも、東大・京大と国公立医学部が最難関であることは変わりませんが。