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人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

杉山治夫が唯一尊敬していた人物

はる坊です。

その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。

それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。

日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。

杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。

やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。

東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。

その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。

といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。

話を少し昔に戻します。

杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。

その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。

その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。

『定通新聞』

その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。

この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。

杉山は、この新聞をよく読んでいました。

一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。

この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。

杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。

杉山も、一、二度はこの会に出席しました。

そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。

杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。

小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。

『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。

しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。

杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。

二度目の東京出張時でも無理でした。

杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。

そして、三度目の東京出張。

同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。

杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。

杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。

翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。

杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。

この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。

しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。

「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」

そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。

それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。

その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。

杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。

しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。

そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。

取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。

杉山から話を聞いた小林氏は、

「わかりました」

とうなずきました。

そして、

「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」

と続けます。

小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。

そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。

「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」

この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。

1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。

杉山治夫東京進出。金融取り立て人として名を馳せる

杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。

杉山が降り立ったのは、川崎でした。

東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。

杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。

川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。

暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。

しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。

ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。

100万円の金は面白いように増えていきました。

そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。

杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。

1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。

それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。

すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。

-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。

地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。

杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。

〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。

連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。

また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。

〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。

それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。

暴力団相手の債権取り立てにも進出する

東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。

十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。

こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。

そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。

杉山は、こんなことを語っています。

「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。

恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。

そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。

かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。

彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。

杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。

殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。

杉山はその場で一本の電話を掛けました。

相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。

「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」

杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。

杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。

日本百貨通信販売を核にして、杉山グループを形成する

杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。

金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。

そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。

社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。

杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。

もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・

杉山は、どこまでも狡猾でした。

暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。

また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。

小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。

数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。

杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。

(その4に続きます・後日更新予定です。)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

杉山治夫も金融業者としての新人時代があった

はる坊です。

その1では、杉山治夫の出生から極貧の少年時代、中学を2年で中退して時計屋に丁稚奉公。17歳で独立して店を構え、その後、家電も扱うようになり、一躍、地域で一、二を争う金持ちとなり、良家の娘と結婚するも、放漫経営が祟って、黒字倒産する羽目になり、そのときに現れた暴力金融業者の元で働くまでをご紹介しました。

今回は、金融業者の元で〝社長秘書〟の肩書きで働き始めるところからです。

後年、名うての金融取り立て屋として名を馳せる杉山治夫ですが、高知の金融業者の元で働き始めた頃は、いくら時計店や家電量販店を経営していたとはいえ、実際の金融業に関して全くの素人でした。

早速、杉山は六法全書や金融関係の専門書を買い漁って勉強を始めました。
しかし、なかなか内容を理解することができなかったのです。

杉山は、(自分には基礎的な学力がないんや)と悟ります。

事実、中学2年の秋に、時計店に丁稚奉公に出て以来、学問とは縁がなく、商売で成功を収めてからは、目先の金儲けと芸者遊びに精をだしていたのですから、こういった書籍に触れたのも生まれて初めてのことでした。

自らの無知を知った杉山は、高知市内の県立高校夜間部に進学します。
(中学校は義務教育ですので、中途退学をした杉山も、おそらくは形だけ卒業扱いになっていたのでしょう)

24歳の杉山は早朝からから夜6時までは、秘書として金融取立業に従事して、夜7時からは、夜間高校で勉強に励みます。

夜間高校に来ている他の生徒は、実家が貧しい為に昼間の高校へ行けない16,7歳の生徒だらけでした。
そんな10代の生徒に交じって、杉山は当用漢字や一次方程式から勉強を始めます。やる気は誰にも負けませんでした。

社長秘書として働いていると、毎日、様々な法律用語が飛び交います。

債権・担保・根担保・公正証書・違法性阻却事由etc.

昼間は、実践を通しての法律の勉強。夜は、高校で国語・数学・物理などを学ぶ日々。

杉山は寝る間を惜しんで、両方の勉強に打ち込みました。

そして、

“「(金融)取り立ては、暴力的手段と法律的手段で成り立つ」”

という持論を身に付けます。

一から、いや、ゼロから金融業を実地で学び、このままこの会社で暴力金融業の道へ進むかと思われた杉山ですが、ここで意外な行動に出ます。

暴力金融業者の社長秘書として勤め始めて半年が過ぎた頃、杉山は社内でナンバー2の地位を得ていました。

しかし、杉山は社長に退職を申し出ます。
自分自身が組織のトップでなければ、とにかく頭に立っていなければ、ダメな性格だということを、ナンバー2になって痛感したのです。

退職を申し出ると、すんなりと認められました。
これは半年間、杉山が粉骨砕身仕事にあたって、会社に莫大な利益をもたらしており、「借りを返す」以上の働きをしていたからです。

再び、実業家の道へ しかし、再び転落・・・

暴力金融業者の元を去った杉山は、妻とふたりでメガネを売ることにします。

このときの杉山には資金がなかったので、商売の軍資金はすべて借金でした。
暴力金融にいた半年のあいだで、地元の商売人には、杉山が切れ者であることは知れ渡っていました。

杉山は、借りられるところから、金を借りまくります。

そして、新たに始めた『杉山眼鏡』も絶好調でした。メガネを大量に仕入れて、従業員を雇い入れ、外交販売で売りまくったのです。
メガネに加えて、時計や宝石も抱き合わせで販売しました。

商売の回転資金はまったく心配をしていませんでした。
杉山の商売がうまくいっているのを見て、商売人たちはますます多額の金を杉山に貸し続けたのです。

メガネ・貴金属の商売と並行して、杉山は金融業にも進出します。
人から借りた金を月九分の利息で、別の人間に貸し付けたのです。

月九分で貸しを複利にすれば、3年後には何と10倍に膨れ上がります。
まだ、金融関係の法整備が甘かった時代でした。

また杉山はホテル経営にも乗り出します。
高知で一番のホテルを建てようと、超豪華ラブホテルを、当時の金で1億2,000万円で新築したのです。
そのうち1億円は借金でした。

多角経営を推し進めた杉山は、金融業に精を出します。
当時の高知には、街の金貸しはそういませんでした。
杉山の独壇場だったのです。

地元の漁民・農家・サラリーマンに金を貸して、高利を取りました。
金主は、地元銀行・地主、さらには他の高利貸し。

しかし、ここで杉山は初めて警察の厄介になることになります。
「借金取り立ての際に、相手を暴力で脅し、かつ監禁せしめた」
のが理由でした。

2ヶ月間近くに渡って留置場へぶちこまれた杉山ですが、一向にへこたれませんでした。

この頃に、のちの杉山グループの中核となる『日本百貨通信販売』を設立。従業員は90名を数えるまでになりました。

プライベートでは長女に恵まれ、商売は絶好調。

しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受けていました。

会社の規模が大きくなり、杉山自身の目の届かないところで、地位を与えていた部下が融通手形を乱発して、市中の金融業者に流れた手形は何と2億円に上りました。

杉山の元には債権者が押し寄せてきます。
この騒ぎで、これまで無尽蔵に金を貸し続けてくれていた銀行・地主・金融業者は、そっぽを向いて、杉山を見捨てます。

さらに、杉山の身に不幸が舞い降ります。

部下が乱発した融通手形の一部が、大阪の暴力団関係の会社に流れていたのです。
その会社のバックにいるのは、関西で有名な暴力団でした。

杉山は金策に奔走しますが、その甲斐もなく経営する会社は倒産。
杉山自身も無一文となります。

そして、杉山は暴力団員に、今後の債務関係について話し合うという名目の元、強制的に大阪へ連れて行かれます。

1971年夏のことでした。
杉山治夫、33歳。

六甲山中に首まで埋められ・・・ そして・・・

暴力団員に大阪まで連れてこられた杉山は、大阪・ミナミの倉庫に監禁されました。
組員たちは、盛んに〝隠し金〟のありかを吐くよう、杉山を脅し続けます。

これは杉山の身に覚えのないことでした。
正真正銘の無一文だったからです。

それでも執拗に組員たちは杉山から金のありかを聞きだそうとします。

“「杉山よお、悪いことは言わん。おまえの隠し金、あらいざらい喋りよったらそれでええんや」”

“「嘗めたらあかんでえ!〝杉山は二億円握ってとんずらきめこんだ〟って話が入っとるんや!」”

そんな金はどこにもありませんでした。
杉山自身、後年、高知で自分のの活躍ぶりを快く思っていなかった者の悪意ある流言だったと綴っています。

精も根も尽き果てた杉山は、

“「もうどうにでもしてくれ、わしは、疲れた。金など本当に無い。借金をしまくって成り立ってきた日本百貨通信販売だ。不渡りを出して金の循環が途切れればぶっつぶれるのはわけもない・・・」”

と悲鳴に近い声を上げました。

すると、暴力団員たちは杉山を縛り上げて、表に停まっていたリンカーンに押し込みます。

そして、ひとりの組員がポツリと発した言葉に、杉山の心臓は凍りつきました。

「もう、金はいらん。そのかわり、おまえ、死ねや」

リンカーンは神戸・六甲山へ向かいました。

山中で車から降ろされた杉山は、さらに奥へと歩を進めるよう命令されます。

そのとき、4、5メートル後ろで若い男が必死に哀願する叫び声が聞こえてきました。

その若い男は暴力団員でした。

杉山から一銭も取り立てられなかった責任を取らされて、スコップで穴を掘らされようとしていたのです。

そして、杉山にもスコップが手渡され、杉山は絶望的な気分のなかで、穴を掘り始めました。

穴を掘り終えると、杉山と若い暴力団員はそれぞれ穴の中に身体を押し込まれます。

他の組員は、容赦なく赤土を穴に被せてきます。

若い組員は恐怖のあまり脱糞して、失神してしまいました。

さすがの杉山も、完全に絶望するかにみえました。

そんな杉山の耳に、野鳥の囀りが聞こえてきました。山鳥の囀りが、ほんの僅かでも杉山を楽観的な気分にさせてくれたのです。

その様子を目ざとく見た初老の男が、杉山に話しかけました。
初老の男は、一味の親分でした。

“「ええ根性しとるのう、われ。殺すのは惜しいがな」”

-この男はわしを救ってくれる!

杉山は本能的にそう察しました。

そして、最後の力を振り絞って、叫びました。

“「親分!わしも男や!危ない仕事でもなんでもする。高知では三ヶ月で一億稼いだ杉山だ。わしを入れてくれ、必ず、あんたんとこの組のためになるはずだ!取り立てをやらしてください。必ず回収してみせます!わし、何年かやってきたから、自信があるんですわ」”

杉山必死の願いは、親分に届きました。
こいつは使える男だと判断したのでしょう。

失神した若い暴力団員も土中から救出され、行きと変わらない人数で、六甲山を下ることになりました。

金融債権取り立て人・杉山治夫の誕生

大阪の暴力団で金融債権取り立て人となった杉山は、イヤというほど暴力の力を知ることになります。
取り立ての凄まじさは、生まれ故郷・高知の比ではありませんでした。

取り立てにいくのは、街のサラ金業者がどうしても回収できない貸し付け金です。

杉山は、入れ墨を見せつけるように胸を開けた数人の暴力団員とともに回収に向かいます。
依頼主の要望に応じて、連日昼夜を問わず、取り立てに赴かねばなりません。
回収した金は依頼主と組との折半です。

回収に失敗すると、組のお偉方に恥を欠かせることになります。杉山は必死で債権の取り立てをおこないました。

杉山の役目は、いわゆる〝止め役〟でした。
交渉の最中で、若いやくざが刃物を机上に刺したり、テーブルごとひっくり返して暴れます。
これが、相手に恐怖を与える〝暴れ役〟です。

頃合いを見計らって、杉山が組員を止めて、口八丁で説得に入ります。

これで90%は回収に成功していたようです。

残り10%の回収に必要なのは、リボルバーでした。

深夜、大阪湾の倉庫裏まで連れて行って、銃をちらつかせるのです。相手の頬に押し当てると、それまで、どんな強がりを言っていた人間も失禁して陥落したようです。

拳銃について、杉山はいい印象を持っていなかったようです。
スーツの内ポケットにリボルバーをしまい込むと、その重みで身動きが鈍くなり、また銃独特の不気味な冷たさが身体に伝わってくる感覚が、たまらなく嫌だったと述懐しています。
殺害用具を所持しているという緊張感と不安感で、さすがの杉山も外を歩くときは必ず震えたようです。

暴力団の取り立てを肌で感じていった杉山は、このままやくざに使われ続けることをよしとしませんでした。

実際に取り立てた回収金の一部をプールして、金を貯めていったのです。

そして、暴力団金融の取り立て人となって3年が過ぎる頃、杉山個人の金融会社を内緒で設立します。

なぜ、回収金の一部をプールして、内緒で金融会社を設立できたのか。

それは、一緒に取り立てに行く組員に小遣いをやって、手懐けていき、完全に杉山の味方にしてしまったからでした。

この頃の気持ちを杉山は以下のように述懐しています。

“「いつまでもやくざの下で使われることに安住しているわしではない。一度は六甲の山奥で首まで埋められた男だ。何も恐れるものはない。髪の先からつま先までどっぷりと暴力の世界に染まったわしは、四国の平凡な成り上がり実業家とはまったくの別人に変身してしまったのだ。人間一度堕ちるところまで堕ちると、その状態で居直るタイプとなんとかまっとうな方向へ歩みたいとあがくタイプがある。わしは完全に前者であり、その居直りぶりも徹底していた。子供時分、とことん弱者の立場にいたわしは、弱い者、虐げられた者を見ると無性に襲いかかりたくなる。同類嫌悪感情。遠い昔の近親憎悪感情のなせる術かもしれない」”

法を犯すか犯さないか、虚実皮膜の回収作業を連日続けた挙げ句、2度留置場へ身柄を拘置され、一度は大阪刑務所に2年半服役します。

それでも、杉山は金融取り立て人としての活動を止めませんでした。

杉山は、地元高知の夜間高校を卒業した後、中央大学法学部通信教育課程に進学して、法律を徹底的に勉強しています。
その法知識、法武装ぶりは、留置場送りとなり刑務所の囚人を経験して以降、さらに磨きがかかり、金融に関する法律では弁護士と同程度といわれるようになります。

関西の暴力団の間で、杉山治夫の名はどんどん知れ渡っていきました。

内緒で設立した、金融会社も順調に伸びました。

しかし、杉山の会社から金を借りた土建業者が、組長に密告した為、この裏会社の存在がバレてしまいます。

代償は、せっかく順調にいっている裏会社の取り上げでした。

このとき杉山は、ここにいるのも、もう潮時だと感じました。
このままやくざの世界に棲み着いても、抜けられなくなるだけだ。
そうだ、東京へ行こう。

しかし、東京へ逃げれば、必ず大阪のやくざを敵に回す。そしてつかまる。
今度こそ、地獄行き・・・

そんななか、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、組員3名とともに東京へ向かいます。

杉山の頭の中には、東京でひとりだけ、自分を助けてくれるかもしれない人物が浮かんでいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(※その3へ続きます)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

借金は本当に怖いです

はる坊です。

いきなりですが、『雪だるま式に』という言葉があります。

続いて『資産が増えていった』なら素晴らしいのですが、たいていの場合、この言葉の次にくるのは『借金が増えていった』ではないでしょうか。

〝借金はできる限りしないほうがいい〟

というのが私の考えですが、住宅を購入する折に、一括で現金払いができるのは、ほんの一部の方で、ほとんどの方は住宅ローンを組んで、マイホームを購入します。
もちろん、私もそのひとりです。

住宅ローンを組むときや借り換えはよく考えておこないましょう。



ローンと言えば、表現がすこし穏やかになりますが、要は借金です。

もし、あなたが何らかの理由で借金をしなければならないときは、まず銀行へ相談に行くと思います。

しっかりとした担保があれば、銀行も貸してくれることでしょう。

しかし、銀行が貸してくれない場合、銀行系ローン、消費者金融・事業者金融に出向くことになります。

銀行以外で借りると、当然のことながら利息は高いです。下手をすると、元金を返すどころか利息も返済できない状況に陥り、ドンドン膨らんでいきます。

あなたの人生を狂わせる原因にもなりかねません。

さて、昭和後期、消費者金融(正確にいうと金融債権取り立て業)を生業として、暴利を貪って、それを自慢。
TVにも出演して強烈な個性を見せつけた男がいます。

男の名は杉山治夫。

まずは、この映像を観ていただきましょう。

杉山治夫 大暴れ映像

ここまでの成金ぶり。悪役キャラぶり。

ふたむかし前のマンガ(というより劇画?)に出てきそうです。
口論の末タレントのミッキー安川と喧嘩をするまでに至ります。
(実は、この喧嘩はテレビ局のヤラセだったことを杉山は自著で暴露しています。)

また、ワイドショーに出演して、観客席に札束をばらまきます。
(実は、杉山はばらまいた1万円札の枚数を憶えており、番組終了後に集めて数えたところ、数枚足りなかったと、これも自著で暴露しています。)

今回は、そんな強烈なキャラクターをもった杉山治夫の生涯を追っていきます。

小学校2年で自殺未遂! あまりに悲惨すぎる幼年時代

杉山治夫は1938年(昭和13年)高知県高知市長浜で産声を上げました。

父親は船乗りで、フィリピンあたりにまで長い航海に出るため、ほとんど家にはいませんでした。

しかし、父親が家に居ないほうが平和だったのかも知れません。

稼いだお金を家に入れることはなく、酒とバクチで使い果たしてしまう人物だったからです。
おまけに愛人を作ってしまいます。

さらに悪いことに、父親がフィリピンで春をひさぐ仕事をしている女性から梅毒をうつされ、それが、治夫の母親に二次感染してしまい、母親は視力を失います。

生家は農家の脇に、ベニヤ板を何枚か立てかけただけの納屋を借りたものでした。
杉山が4歳の頃、日本は戦争中で国民の食糧は乏しくなっていきます。
杉山少年は、目の見えない母の手を引いて、付近の山林を歩きます。

松の葉を手に入れるためです。

石油も石炭も手に入らない時代。この地方では風呂を焚くときには松の葉を使っていました。

杉山は毎日、松の葉を集めます。それしかお金を得る方法がありませんでした。
しかも、いくら松の葉を集めたところでたいしたお金にはなりません。

しかし、母子が生き抜いていくのに、糧を得る手段はそれしかありませんでした。

1945年、杉山は地元の高知市立長浜小学校へ入学します。

しかし、杉山は小学校にほとんど通えませんでした。
松の葉集めと畑泥棒、そして、周囲からのいじめ。
そしてついには、いじめを通り越して、周囲の誰も相手にしてくれない状況へとエスカレート。

1940年には弟も生まれており、杉山家の家計はより悲惨なものになっていました。
学校に行く余裕はなかったのです。

学校へいく余裕はありませんでしたが、杉山は勉強が好きでした。
特に算数が得意だったと述懐しています。

鉛筆もノートもないので、地面に数式を書いて、問題を解いていったのです。

杉山治夫は小学2年の冬、自殺を図ります。

慢性的な栄養失調と厳しい冬の季節も身に付けるものは着物一枚だけ。
冬になると、身体が衰弱して内臓に異常がでていました。
たまに出席した小学校の共同トイレで用を足すと、杉山少年の尿は真っ赤に染まっていました。
何日も何日も、血尿が続くのです。

それを見たクラスメイトは、血尿をする杉山少年をからかいの対象としか見ませんでした。
それから、杉山少年は用を足すのも、休み時間に学校を抜け出し、裏山で小便をすることになります。

自殺場所に選んだのは、納屋のそばにあった汲み取り式のトイレ。
梁に荒縄をくくりつけて首を吊ろうとしたのです。

杉山はのちに自著でこの時の気持ちを述懐しています。

“見るものすべてが悪に見えた。

-なんでこんなに貧乏なんやろ。
-なんでうちだけいじめられるんやろ。
-なんで夏も冬も着物一枚なんやろ。
-なんで腹いっぱい飯喰えんのやろ。
-なんで、なんで、なんで!”

しかし、杉山少年は首吊りの方法を知りませんでした。
何度も板の間で跳ねては、首にまとわりついた荒縄を食い込ませようとしますが、うまくいきません。

そのとき、たまたま母親が用を足しにきました。
母親の顔を見た杉山少年は、ただ泣きじゃくるだけでした。

中学中退、時計屋で丁稚奉公

そんな頃、音信不通になっていた父親が杉山家に戻ってきます。
父親は米の闇ブローカーに転身しており、羽振りが良くなり、近所の土地を借りて小さな家を建てました。

母親の視力も徐々に戻ってきました。

杉山少年は、松の葉集め、そして、道や空き地に落ちている鉄くずを拾い集め、秋には山へ栗を拾いにいきました。
「やっと、うちもしあわせになれるんや」という嬉しさから、これまでの倍以上働きました。

ささやかながらも幸せな家庭が、杉山の身にも訪れる、かに見えました。

しかし、父親は酒浸りとなり、アルコール中毒で働かなくなります。

一家を支えるのは、再び杉山治夫の双肩にかかることになったのです。

1951年、杉山は高知市立長浜南海中学校へ進学します。

杉山が中学生になっても、父親のアルコール中毒は治る気配をみせませんでした。

そして、中学2年に進級すると、杉山はある情報を手に入れます。
地元の小さな時計店が丁稚奉公を探しているというのです。

「給料は出ないが、飯は喰わせてもらえる。時計の修理・分解が主な仕事で、4,5年も我慢すれば立派な時計職人になれる」

杉山少年は一晩考えた末に、中学を中退して、時計店に丁稚奉公へ行くことを決意します。
1952年の秋でした。

いざ、時計店での丁稚奉公が始まりましたが、それは過酷なものでした。
最初は、慣れない作業ですから、時計を分解してネジをどこかへ落としてしまう度に、嫌というほどのビンタの嵐を受けます。

おまけに、朝早くから夜遅くまでの一日15時間労働。

それでも、杉山少年はこの生活に嬉しささえ感じていました。
生まれて初めて、キチンとした布団で眠れ、三度三度の食事にはありつける。
杉山少年にしてみれば、実家で生活しているより、ずっといい環境だったのです。
それだけ、これまでの生活が悲惨を極めていたということになります。

また、この頃に初恋も経験しています。
相手は2,3歳年上の女子高生でした。

毎日、杉山少年が店の前でまき水をしていると、「おはよう」と声をかけてくれたのです。
いままで、杉山少年に挨拶をしてくれる女性などいませんでした。
女子高生にしてみれば、いつもの通学路でみかける丁稚奉公の少年に挨拶をしていただけに過ぎません。

杉山少年は、「おはようございます」と挨拶を返すことができませんでした。
ただ、砂利道に柄杓で水をまくことに没頭するフリをしているだけでした。

杉山は自著で、

“「あの頃のわしにはあまりにも眩しすぎたのだ。デートに誘おうにも無給の小僧には到底不可能だった。わしと彼女の逢瀬はいつも夢の中だけだった」”

と振り返っています。

のちに多くの愛人を作る杉山ですが、こんなウブな時代もあったのです。

17歳で時計店の経営者となる

1956年、杉山17歳のとき、大きなチャンスが訪れます。

丁稚奉公の時計職人として3年間真面目に働き、職人としての腕も確かなものになっていました。

そんなとき、この時計店が大きな借金を抱えていることを知ったのです。
やがて、借金取りが店に来るようになります。

杉山はこの時初めて、金貸しの存在を知りました。

この時計店は、いわゆる〝トイチ〟、十日で一割の利息を取る金融業者から金を借りていて、にっちもさっちもいかなくなっていたのです。

時計店の主人は店を売却して、金を返済する相談を家族としていました。
その額を知った杉山の頭に閃くものがありました。

-これはチャンスかもしれない、と。

3年間の修行中に顔見知りとなった家が百軒近く。なかには町工場の社長や金融業者もいました。

杉山少年は、いそいで実家にいる父親を呼びました。

杉山少年の計画を聞いた父親は、自宅を担保に入れ、杉山とふたりで金策に奔走します。
その結果、高利息の金でしたが、一週間で10万円を借りることに成功します。

杉山は、丁稚奉公をしていた時計店を買い取ります。
看板は新たに〝杉山時計店〟になりました。

時計店の店主との立場も逆転しました。
元店主は、時計職人以外で食べていく術がありません。働く場所は、杉山が買収した、かつての自分の店しかありません。

杉山時計店の経営は順調そのものでした。

といっても、なかなかセコいやり口で儲けていたのです。

まず、中古の時計を大量に仕入れて、分解・修理をしたあと、ケースを変えて新品まがいの商品として大安売りしたのです。

時計は売れに売れました。

中古時計の仕入れが足りなくなると、杉山は密輸品の時計を分解・修理して、補います。

時計店は大繁盛します。

しかし、それで満足する杉山ではありませんでした。

電化ブームに乗って事業の多角化を目指す

昭和も30年代を迎えると、〝もはや戦後ではない〟という言葉が象徴するように、人々が喰うためだけの生活から、豊かな生活を求めるようになりました。

杉山はここで電気製品を取り扱うことを考え、まずは時計店にラジオ・洗濯機・テレビ・蛍光灯を置いて様子をみます。

電化製品の売れ行きは上々でした。

そこで杉山は繁華街にあった雑貨店を買い取って、杉山時計店の移転をおこない、松下電器(現:パナソニック)・ソニー・東芝・日立の製品を扱い、大型冷蔵庫やテレビを大量に仕入れます。



ここで杉山は商才を発揮します。

販売方法を一括ではなく、月賦(分割払い)販売にしたのです。

-6万円の冷蔵庫でも、月2000円あれば買える。

この販売方法は大当たりでした。

家電量販店のハシリといえるでしょう。

-隣の家がテレビを買った。我が家にも欲しい。

-隣の家が洗濯機を買った。我が家にも欲しい。

仕入れた電話製品は、右から左に次々に売れていきました。

杉山は電化製品の販売で大もうけをします。

また、月賦販売については、別の思惑もありました。

「電化製品を購入する客は、地元の人間ばかり。ここは都会ではなく田舎だから知った者同士だ。だから、月賦未払いで逃げることはできない」

20歳にして地元でトップの金持ちに、そして23歳で結婚。しかし・・・

杉山治夫は20歳にして、〝地元長浜一の出世頭〟と評判になり、〝長浜でも一、二を争う金持ち〟と羨望の眼差しで見られる存在になりました。

杉山が一躍、金持ちの仲間入りを果たすと、自然に人が寄ってきました。これまで遊びを知らなかった杉山ですが、大金を懐にして毎晩のように芸者とバカ騒ぎを繰り広げるようになります。

杉山は金の威力の凄さを肌身で感じました。
そして、その金に惹かれて女性が寄ってくることも。

いままでの禁欲的な生活のタガが外れたように派手に遊びまくっていた杉山ですが、23歳のとき、転機が訪れます。

23歳の杉山は、家電量販店5店舗を経営する実業家として、ますます勢いを増していました。

そんな頃、杉山は自分の前を歩いていた、ひとりの女性に一目惚れをします。

もの凄い美人でした。

店の従業員にそのことを漏らすと、相手の素性を知り、何とお見合いのセッティングが整えられることになりました。

お見合いの席で、店の従業員が杉山のことをこれでもかこれでもかと褒めそやし、将来有望であることを相手の女性と両親に吹き込みます。

相手は資産家でしたが、お見合いはトントン拍子で話が進み、あっという間に話がまとまりました。

高知でおこなわれた結婚式は盛大なものになりました。

披露宴は三日三晩続き、仕事先の問屋、友人・知人関係、親類縁者の元へたらい回しにされながらも祝福を受けます。

羨望と嫉妬、そして、驚嘆と畏怖の表情を浮かべる地元民のあいだをモーニング姿で杉山は練り歩きました。

杉山は、「人生の絶頂」と自身で感じるほど、充実したときを迎えたのです。

しかし、転落はすぐそこに待ち構えていました。

電化製品量販店の店舗が増えるごとに、杉山自身の目が行き届かず、放漫経営におちいっていたのです。

従業員が勝手に手形を切り、仕入れを独断でおこなっていました。

そして、突然手形が不渡りとなって、黒字倒産に見舞われたのです。

「うちは儲かっているんだ! なのに、なぜなんだ」

半狂乱になった杉山の元に現れたのは、街金融の仮面を被った暴力団でした。

暴力団員は、杉山に短刀を突きつけながら、不渡り手形をどうしてくれる、と凄みます。

そんな状態でも杉山の頭に閃いたことがありました。

-こいつらは金に弱い。

そして、ヤクザの親分に言い放ちました。

“「親分! いや社長。お願いだ。わしをあんたとこの秘書にしてくれ。こう見えても、わしはまだ長浜じゃ顔がきく。わしの頼みなら金貸しする金持ちも知ってる。お、お願いじゃき!」”

杉山の必死の訴えは届きました。

杉山の元に現れた暴力金融業者は、金を貸し付けたり、大口融資をしてもらうためには、杉山のような販売店ルートと人脈を持った人間が必要だったのです。

結局、杉山の会社は、暴力金融会社に吸収合併される形となり、杉山は〝社長秘書〟の肩書きで、この会社に入社することになります。

杉山治夫が本格的に〝金融業〟と出合った瞬間でした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

(※その2に続きます)

長者番付

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所会長・社長・役員編)

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所代表・役員編)を年ごとにまとめました

はる坊です。

個人情報保護によって2004年分を最後に公示がされなくなりましたが、それまでは、毎年5月中に1,000万円以上を納税した人物は、所管税務署で氏名・住所・納税額が公示されていました。

公示された当日や翌日にかけては、芸能ニュースを中心に大きく取り上げられたものです。

これまで、俳優・タレント部門 歌手部門 その他芸能人部門を掲載してきました。
(※一番下にリンクを設けましたので、ご興味のある方はどうぞご覧ください)

今回は、少し趣向を変えて、芸能界の芸能事務所の代表・社長・幹部の納税額を見ていきたいと思います。

1995年分(平成7年分)からになりますが、

「この当時は、この事務所が儲かっていたんだな」

「こんな事務所知らないけど・・・」

と様々な感想をお持ちになるかと思います。

それでは、見ていきましょう。

※金額はすべて納税額です。

1995年分(平成7年)

ジャニー喜多川  1億1,864万円  ジャニーズ事務所

井澤健        9,283万円  イザワオフィス

田辺昭知       7,673万円  田辺エージェンシー

周防郁雄       4,039万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,872万円  石原プロモーション

渡辺美佐       3,696万円  渡辺プロダクション

西川幸男       2,136万円  新栄プロダクション

宮沢光子       2,038万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,529万円  ひばりプロダクション

※イザワオフィスは1979年にドリフターズいしだあゆみの事務所として、渡辺プロダクションから独立。
この頃は、いかりや長介加藤茶志村けんを中心にマネジメントしていた。
現在では、麻生祐未小泉孝太郎のマネジメントもおこなっている。

※田辺エージェンシーはタモリ・堺正章・由紀さおり永作博美を中心とした事務所だったが、最近では夏目三久のマネジメントをおこなっている。

※石原まき子氏は故・石原裕次郎氏の妻で、元女優の北原三枝氏。
裕次郎氏の死後、石原プロモーション会長に就任。

※新栄プロダクションは演歌歌手中心の芸能事務所だった。

※オフィスメイシェの宮沢光子氏は宮沢りえの実母。

※加藤和也氏は美空ひばり氏の甥で養子。

1996年分(平成8年)

ジャニー喜多川  1億8,543万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億1,588万円  イザワオフィス

松浦勝人       7,183万円  エイベックスグループ

田辺昭知       6,845万円  田辺エージェンシー

石原まき子      6,159万円  石原プロモーション

渡辺美佐       4,900万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       2,981万円  研音

西川幸男       2,086万円  新栄プロダクション

宮沢光子       1,414万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,324万円  ひばりプロダクション

1997年分(平成9年)

ジャニー喜多川  2億0,872万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億2,093万円  イザワオフィス

平哲夫      1億0,847万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       6,437万円  渡辺プロダクション

松浦勝人       5,417万円  エイベックスグループ

田辺昭知       4,628万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫       4,073万円  研音

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,769万円  石原プロモーション

1998年分(平成10年)

ジャニー喜多川  3億5,666万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億5,530万円  ジャニーズ事務所

依田巽      1億7,011万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億2,944万円  エイベックスグループ

井澤健      1億2,908万円  イザワオフィス

平哲夫      1億1,982万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       8,179万円  渡辺プロダクション

田辺昭知       4,892万円  田辺エージェンシー

石原まき子      3,109万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,286万円  アミューズ

※アミューズは、サザンオールスターズ福山雅治ポルノグラフィティのマネジメントを中心とした事務所だった。
現在では、Perfume高橋優flumpoolホラン千秋藤原さくら愛希れいかのマネジメントにも注力している。今年6月にサザンプロジェクトの責任者だった中西正樹氏が代表取締役社長に就任。

1999年分(平成11年)

平哲夫      2億4,924万円  ライジングプロダクション

メリー喜多川   2億6,040万円  ジャニーズ事務所

ジャニー喜多川  2億6,012万円  ジャニーズ事務所

長戸大幸     2億0,625万円  ビーインググループ

井澤健      1億0,312万円  イザワオフィス

依田巽        9,178万円  エイベックスグループ

松浦勝人       9,141万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       6,910万円  渡辺プロダクション

石原まき子      5,623万円  石原プロモーション

野崎俊夫       4,646万円  研音

周防郁雄       3,139万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       2,157万円  オスカープロモーション

西川幸男       1,510万円  新栄プロダクション

黒澤久雄       1,453万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉       1,206万円  アミューズ

加藤和也       1,085万円  ひばりプロダクション
 

2000年分(平成12年)

平哲夫      3億9,909万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,301万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,055万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,219万円  ジャニーズ・エンターテイメント

井澤健      1億3,572万円  イザワオフィス

依田巽      1億1,630万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億0,037万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       7,686万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫       4,503万円  研音

周防郁雄       3,609万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,288万円  石原プロモーション

古賀誠一       2,156万円  オスカープロモーション

加藤和也       1,988万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄       1,698万円  黒澤フィルムスタジオ

西川幸男       1,396万円  新栄プロダクション

2001年分(平成13年)

平哲夫      5億1,307万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,240万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,002万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,193万円  ジャニーズ・エンターテイメント

依田巽      1億2,834万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億1,539万円  エイベックスグループ

田辺昭知     1億1,088万円  田辺エージェンシー

井澤健        9,001万円  イザワオフィス

渡辺美佐       8,551万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,525万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       5,346万円  研音

石原まき子      3,201万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,880万円  アミューズ

2002年分(平成14年)

ジャニー喜多川  3億2,849万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,697万円  ジャニーズ事務所

平哲夫      1億9,671万円  ライジングプロダクション

依田巽      1億6,151万円  エイベックスグループ

藤島ジュリー景子 1億4,425万円  ジャニーズ・エンターテイメント

田辺昭知       8,824万円  田辺エージェンシー

井澤健        8,373万円  イザワオフィス

野崎俊夫       6,985万円  研音

渡辺美佐       6,671万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,351万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       6,296万円  オスカープロモーション

松浦勝人       5,221万円  エイベックスグループ

石原まき子      4,052万円  石原プロモーション

大里洋吉       2,414万円  アミューズ

堀威夫        1,575万円  ホリプロ

黒澤久雄       1,569万円  黒澤フィルムスタジオ

2003年分(平成15年)

ジャニー喜多川  3億2,953万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,825万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億8,748万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億6,039万円  ライジングプロダクション

依田巽  1億3,863万円  エイベックスグループ

井澤健  1億2,463万円  イザワオフィス

古賀誠一 1億0,347万円  オスカープロモーション

石原まき子  9,944万円  石原プロモーション

田辺昭知   9,542万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫   7,651万円  研音

渡辺美佐   7,369万円  渡辺プロダクション

川村龍夫   7,326万円  ケイダッシュ

周防郁雄   6,357万円  バーニングプロダクション

加藤和也   1,424万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄   1,424万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉   1,215万円  アミューズ

堀威夫    1,188万円  ホリプロ

2004年分(平成16年)

ジャニー喜多川  3億3,126万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,967万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 2億3,820万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億5,149万円  ライジングプロダクション

松浦勝人 1億4,088万円  エイベックスグループ

依田巽  1億3,700万円  ドリーミュージック

古賀誠一 1億3,148万円  オスカープロモーション

井澤健  1億0,244万円  イザワオフィス

川村龍夫   9,077万円  ケイダッシュ

田辺昭知   7,613万円  田辺エージェンシー  

永田洋子   7,607万円  BACコーポレーション

渡辺美佐   7,376万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫   7,287万円  研音

周防郁雄   5,964万円  バーニングプロダクション

大里洋吉   3,370万円  アミューズ

石原まき子  3,126万円  石原プロモーション

野田義治   1,713万円  サンズエンタテインメント   

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

以下に、長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)へのリンクを置いておきますので、ご興味のある方は、ぜひご覧ください

長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)

長者番付を振り返ってみましょうか(2001年分~2004年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1996年分~2000年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1991年分~1995年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1986年分~1990年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1980年分~1985年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1975年分~1979年分 芸能人&文化人部門)

人物伝

いまこそ日本マクドナルド創業者・藤田田(デンと発音して下さい)を再検証する。2019年4月13日「ユダヤの商法」復刊!

2019年4月13日 ついに藤田田『ユダヤの商法』復刊!

はる坊です。

長い間、謎だったことがあります。
それは、なぜあの本は絶版・品切れ中になったままなのか。

絶対に、ニーズのある本なのに、ご遺族の意向なのか?

その本は、1972年に発売され年間ベストセラーで第6位にランクインした、藤田田『ユダヤの商法』。

これほど普遍的な事柄を書いた本はないのに、いつのまにか書店・古本屋から姿を消して、古書は1万円以上の値が付く状態。

そんな本がようやくこの4月13日に復刊されることになりました。
題して、藤田田『
ユダヤの商法(新装版)

本当に嬉しいことです。

また、勝てば官軍(新装版)〝Den Fujitaの商法 〟シリーズも新装版が同時発売となります。

推薦文も幻冬舎社長 見城徹・SHOWROOM社長 前田裕二・AMF社長 椎木里佳・オリエンタルラジオ 中田敦彦と藤田田の本が好きそうなメンツが寄せています。

どの本も、読んで絶対に損をすることはありませんので、おすすめします。
『ユダヤの商法』と『勝てば官軍』が1,588円。
〝Den Fujitaの商法〟が各994円。

ハッキリ言って、書いてある内容に比べたら安すぎます。

特に『ユダヤの商法』は久留米大学附設高等学校に在学中だった、当時16歳のソフトバンクグループの孫正義を感激させ、どうしても藤田田に会いたいと電話を掛け続けるも、会ってもらえなかった為、アポなしで九州から東京へ飛行機で向かい、秘書との激しいやりとりの末に、ようやく藤田田本人との面会が叶い、

孫正義が放った「これからアメリカへ行って勉強してくるが、何を勉強したらいいか?」との質問に、

藤田田が「コンピュータだ。私が君の歳ならコンピュータをやる。これからコンピュータはどんどん小さくなっていく、その過程で絶対に儲かるチャンスがある」と答えたエピソードは有名です。

後日談として、ソフトバンクを成長させ、株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たした孫正義が藤田田を訪ねると、藤田田は「あのときの少年か!」と感激して、早速ソフトバンクの300台のパソコンを発注したというええ話もあります。

ソフトバンクについては、後に孫正義の誘いに応じて社外取締役に就任しました。

藤田田の任期が終わったあと、社外取締役の後任となったのがファーストリテイリングの柳井正でした。挨拶に来た柳井に、藤田は「君が柳井君か。ええもんをやろう」といって手渡したのは、ハンバーガーの無料券数枚でした。

また、ユニクロの柳井正や少年時代の宇野康秀が愛読していたりと、現在活躍している実業家・経済人がむさぼり読んだ本として知られています。

藤田田(デンと発音して下さい)って誰?

まず、「藤田田(デンと発音して下さい)って誰?」という方のために、Wikipediaより高い精度のプロフィールを。

藤田田は1926年3月13日に大阪府大阪市に生まれました。(城東区生まれと淀川区生まれとふたつの記述があります)
父親はイギリス企業の日本支社で働く電気技師。母親は敬虔なクリスチャンでした。
3歳で吹田市千里山に転居して、小学校時代を過ごしますが、旧制中学受験に失敗。1年間の浪人生活を送る羽目になります。

1年後、再受験で旧制北野中学に入学。北野中には1年違いで手塚治虫が在籍していました。
北野中学を経て旧制松江高校に入学。ここで英語とドイツ語をマスターします。
卒業後は、東京大学に進学。

そして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。
焼け野原の東京でひとりぼっち。

しかし、藤田田には感傷に浸っている暇はありませんでした。
戦時中に父親が亡くなり、学生でありながら残った家族に仕送りをしなければならない立場になったのです。

当時の東大生のアルバイトは家庭教師が中心でしたが、それでは自分の生活費と家族への仕送りはまかなえません。
そこで藤田は英字新聞で見つけたGHQの通訳募集の求人に臨んで、試験に合格します。

ところが、実際にアメリカ兵が使っている英語は学校で習ったものとまったく違うもの。
困った藤田は、将校に頼んで泊まり込みで実地の英語を勉強します。
半年ほどすると、英語が解り出します。

そして、ユダヤ人との付き合いも始まり、彼らにビジネスを教わります。

藤田田の東大時代は忙しいものでした。
朝は東大。
昼は銀座2丁目で始めたフジタ&カンパニーの仕事。
夜は進駐軍の通訳。

進駐軍の通訳の仕事は収入が良く、国家公務員の給与が1000円~2000円だった当時、月額1万円でした。

当時、三鷹に住んでいた太宰治との交遊も有名で、太宰治が玉川上水で入水を遂げた夜も一緒に飲んでおり、後年まで「あれは自殺ではなく、事故だった」と主張していました。

1950年に藤田商店を設立。(法人化は1960年)
国家公務員試験(高等文官試験行政科)を受け、大蔵省に合格しますが、辞退をして、1951年3月に東京大学法学部を卒業すると、実業の世界に飛び込んでいきます。

日本マクドナルドを始めるまで、藤田田が手掛けたのは高級雑貨の輸出入業でした。
クリスチャン・ディオールの正規輸入代理店を長く手掛け、東京タワーの蝋人形館も藤田田が手掛けた仕事のひとつです。

そして1971年渡米した際に、アメリカマクドナルドの創設者 レイ・クロック氏に会うことを勧められた藤田田は、50:50の合弁会社ならやるといい、レイ・クロックと合意します。

そして1971年三越銀座店の一角に日本マクドナルド一号店が開店。
瞬く間に大人気となり、1976年には100号店達成。
1979年に200号店達成。
1982年に300号店達成。
1984年に売上高1,000億円を突破。
1985年に500号店達成。
1987年に600号店達成。
1989年に700号店達成。
1993年に1000号店達成。
1996年に2000号店達成。
1999年に3000号店達成。

〝ハンバーガー王〟〝外食王〟と呼ばれるようになっていきました。

“「頭の悪い奴は損をする」”と断言した藤田田の凄さ

藤田田は生前、“「人生はカネや」”と公言していました。
しかし、金儲けだけの人間ではありませんでした。

現在、日本マクドナルドでは創業者である藤田田の影響力やイメージは消し去られてしまいました。
ここに『日本マクドナルド20年のあゆみ』に収められている「藤田田物語」には、真っ正直な藤田田の本音が綴られています。

“肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった経験から、確信をもっていえることは、人間には裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが人生で一番大切なことではないかと思います。それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは結局は目的ではなく、チャンスを得るための手段ではないかと思います。(中略します)要は、目的を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか”

お読みになっていかがだったでしょうか?

露悪的で、金の亡者的な発言や文章を残している藤田田ですが、本当は繊細で優しく、そして誰よりも勁い人間だったのではないかと思えてきます。
学生の身で父親を亡くし、学びながら家族を養ったこと。
東大法学部在学中に、光クラブ事件の山崎晃嗣や太宰治の死に出会ったこと。
そんななかでユダヤ人のたくましい生き方に出会い、やがては、“銀座のユダヤ人”を自称するまでになります。

藤田田の商法は、完全な合理主義と義理人情のバランスをうまく取るものでした。
そんな藤田田の名言を集めました

藤田田の名言集

・物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間として半人前だが、商人としても失格だ。

・不況なんてみんな同じ。その中でどうすれば勝てるかや! 考えろ!考えろ!

・1円にこだわれ!もっと粘れ

・人間は忘れる生き物だから、24時間メモを取れ。

・その国の教育と商売はリンクして進まないといけない。早すぎても、遅すぎても駄目なんだ。

・人件費は投資。設備投資と同じで、絞れば会社は弱くなる。

・高い給料でも儲かる仕組みを作るのが社長の仕事。人件費を下げて利益を出したら社長とは言えん。
-藤田田が社長を務めていた1998年当時、マクドナルドの店長の平均年収は819万円。
20代後半の店長も少なくなかった。
もちろん、外食産業の中では際だって高い給与水準だった。

そして・・・

・凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり

総資産数千億といわれた大富豪・藤田田

藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなります。
(70代を迎えても元気に、マクドナルドの社長・会長業に励んでいましたが、実は糖尿病と心臓に病を抱えていたようです)
2005年3月に遺産総額が公示されました。
その額491億円。
歴代6位の遺産額でした。
(ちなみに歴代1位はパナソニック創業者・松下幸之助氏です。2,450億円でした。)

そんな藤田田の資産は生前、1,500億円とも3,210億円とも伝えられていました。

一番大きかったのは、日本マクドナルド株ですが、長年に渡って、そのマクドナルドの売上の1%が契約役務・コンサルタント料として、藤田商店に入る仕組みになっていました。

またポテトの納入元が藤田田のファミリーカンパニーだったりと、個人で保有していた株式の他にも、現金が手元に流れ込む仕組みを作っていたことから、資産が膨大な額だと目され、また、日本マクドナルドがあれほどの大企業なのに東証1部ではなくJASDAQ上場となったのは、藤田田と日本マクドナルドの契約に不透明性があったからだと報じられました。

現在も、藤田商店は存在しており、息子さんが社長を務めていますが、デン・フジタやデン・フジタ興産といった無数にあったファミリー企業の多くは藤田商店に吸収合併されています。

息子さんは2人。藤田元(ゲンと発音して下さい)・藤田完(カンと発音して下さい)です。
元はジェネラル・将軍を意味する。
完はカーン・王様を意味する。

息子たちは、名前で得をするはずだ、と藤田田は生前に語っています。

ふたりとも成城大学出身という話がありますが、正確なところは、
どちらかが早稲田大学商学部卒業、そしてもうひとりが成城大学経済学部卒業。
日本マクドナルド2代目社長となった八木康行氏が成城大学出身だったのは、息子の友人であったことで藤田田と出会い、創業まもないマクドナルドに飛び込んだことが後の出世に繋がりました。

藤田田は、息子に日本マクドナルドを継がせることはありませんでした。
2003年に会長を退任するとき、取締役に就いていた息子も同時に退任しました。

日本マクドナルドは2000年にハンバーガーの価格を半額にして、一時は売上が好調に推移し、〝デフレの勝ち組〟ともて囃されました。
最安値でハンバーガー1個59円という時代がありました。

しかし、為替差損で2002年には初の赤字決算に陥り、ブランドイメージは落ち、決定的な打開策を見いだせないまま、2003年に藤田田は日本マクドナルドを去りました。

実は、この値下げ商法は自著『ユダヤの商法』に反したものでした。
彼自身が著書の中に安売り商法はしてはいけないと断じていたのです。
慢心したのか、それともこの時代は値下げしてモノを売る方法しかないと思ったのか・・・
永遠の謎ですが、現代に生きる私たちは『ユダヤの商法』を読んで、〝藤田田 金儲けの教え〟について学ぶべきところはしっかりと学ぶべきだと思います。

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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長者番付

【懐かしの平成】2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100にはこの人が登場していた。

2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100

順位・氏名・職業・住所・所得税納税額の順です。

1 高橋 洋二 ユニマットグループ代表 沖縄県八重山郡 68億4115万円
2 大川 功  元CSK名誉会長 東京都港区 39億5368万円
3 藤田 元  藤田商店社長 東京都世田谷区 33億7806万円
4 藤田 完  藤田商店副社長 東京都世田谷区 32億7696万円
5 藤田 田  日本マクドナルド会長 東京都世田谷区 21億6327万円
6 齋藤 一人 健康食品販売業 東京都江戸川区 12億4146万円
7 高橋 章恵 ユニマットグループ役員 神奈川県小田原市 11億7785万円
8 宇野 康秀 有線ブロードネットワークス社長 沖縄県那覇市 11億5434万円
9 田中 剛  不動産投資コンサルティング会社社長 東京都世田谷区 10億1822万円
10 井上 美悠紀 学生援護会会長 東京 東京都新宿区 8億7771万円
11 吉田 嘉明 ディーエイチシー社長 千葉県浦安市 8億2219万円
12 樋口 百合子 女性用下着販売会社社長 北海道札幌市 7億8729万円
13 吉田 照哉 社台ファーム経営 東京都港区 7億6042万円
14 岡田 和生 アルゼ社長 東京都品川区 7億1123万円
15 吉田 勝己 ノーザンファーム経営 東京都港区 6億7186万円
16 古川 享  米マイクロソフト社副社長 東京都渋谷区 6億3757万円
17 山内 溥  任天堂社長 京都府京都市 6億3131万円
18 柳井 正  ファーストリテイリング社長 山口県宇部市 6億1092万円
19 松本 孝利 投資コンサルティング会社社長 東京都町田市 6億0086万円
20 鈴木 まゆみ ソノコ名誉会長 オーストリア 5億8659万円
21 田中 清司 女性用下着販売会社役員 北海道札幌市 5億7608万円
22 萩原 一成 無職 東京都世田谷区 5億5034万円
23 齋藤 慎一 元牧場経営 千葉県柏市 5億3954万円
24 谷尾 凱夫 元食肉小売会社社長 福岡県福岡市 5億3559万円
25 福田 吉孝 アイフル社長 京都府京都市 5億2418万円
26 須田 洋  タクシー会社社長 埼玉県朝霞市 5億2381万円
27 石井 美恵子 大塚美容形成外科経営 東京都板橋区 5億1536万円
28 平 哲夫  フリーゲートプロモーション取締役 東京都港区 5億1307万円
29 中谷 廣耀  元会社役員 大阪府堺市 5億1102万円
30 神内 良一 プロミス名誉会長 東京都港区 5億0531万円
31 大竹 美喜 アフラック日本支社会長 東京都板橋区 5億0020万円
32 岡田 知裕 アルゼ役員 千葉県浦安市 4億7281万円
33 土屋 嘉雄 スーパー経営会社社長 群馬県伊勢崎市 4億6892万円
34 武井 健晃 武富士常務取締役 東京都杉並区 4億6581万円
35 服部 欹  セイコーエプソン取締役相談役 東京都港区 4億5936万円
36 服部 孝子 元セイコーエプソン取締役 東京都港区 4億4934万円
37 高梨 芳郎 高梨乳業名誉会長 神奈川県横浜市 4億4298万円
38 佐藤 茂  賃貸住宅ニュース社長 兵庫県宝塚市 4億3505万円
39 濱崎 歩  歌手 東京都港区 4億2611万円
40 金沢 要求 パチンコ機器製造会社社長 愛知県名古屋市 4億2158万円
41 上月 景正 コナミ社長 東京都港区 4億1734万円
42 孫 正義  ソフトバンク社長 東京都港区 4億1396万円
43 関口 眞  不動産管理会社社長 米国 N.Y 4億0689万円
44 多田 勝美 大東建託社長 東京都大田区 3億9617万円
45 小野寺 眞悟 給食サービス会社会長 北海道札幌市 3億8343万円
46 梅田 晩太 元鉄鋼商社役員 兵庫県神戸市 3億7736万円
47 降籏 由美子 無職 東京都港区 3億7620万円
48 卓 玉仙  健康器具販売会社社長 東京都渋谷区 3億7360万円
49 田中 温  セントマザー産婦人科医院院長 福岡県北九州市 3億7018万円
50 服部 靖夫 セイコーエプソン副会長 東京都港区 3億6855万円
51 北城 恪太郎 日本IBM会長 神奈川県横浜市 3億6254万円
52 川路 耕一 商品先物取引会社社長 東京都港区 3億6184万円
53 金沢 全求 パチンコ機器製造会社役員 愛知県名古屋市 3億6011万円
54 井上 雅實 福岡県議、タクシー会社会長 福岡県福岡市 3億6005万円
55 藤 隆次郎 衣料品卸小売会社社長 福岡県福岡市 3億5981万円
56 福嶋 康博 エニックス会長 東京都杉並区 3億5890万円
57 田中 邁  ベンチャー投資会社社長 東京都世田谷区 3億5752万円
58 稲葉 浩志  歌手 東京都渋谷区 3億5746万円
59 大竹 勇子 元産業廃棄物処理会社役員 千葉県成田市 3億5397万円60 河田 朝子 不動産賃貸会社社長 東京都武蔵野市 3億5294万円
61 金沢 信求 パチンコ機器製造会社役員 大阪府吹田市 3億5189万円
62 勅使河原 宏 元草月流家元 東京都新宿区 3億5178万円
63 深江 今朝夫 呉服服地販売会社社長 大阪府堺市 3億4850万円
64 大田 勝  ヴァーナル社長 福岡県福岡市 3億4773万円
65 豊田 信一 会社社長 千葉県千葉市 3億4388万円
66 升永 英俊 弁護士 東京都港区 3億4374万円
67 糸山 英太郎 新日本観光会長兼社長 東京都港区 3億4334万円
68 二重作 弘正 アエル会長 東京都足立区 3億3980万円
69 高洲 鉄郎 無職 米国 N.Y 3億3710万円
70 大久保 泉 人材サービス会社社長 東京都港区 3億3638万円
71 服部 多恵子 元会社役員 東京都港区 3億2679万円
72 服部 禮次郎 セイコー名誉会長 東京都港区 3億2593万円
73 小松 神一郎 病院経営 東京都渋谷区 3億2509万円
74 鈴木 正治 無職 神奈川県横浜市 3億2154万円
75 上原 昭二 大正製薬会長 東京都新宿区 3億1902万円
76 宇多田 光 歌手 東京都杉並区 3億1889万円
77 原田 吉蔵 会社社長 東京都港区 3億1798万円
78 松原 信男 パチンコ機器製造会社社長 愛知県名古屋市 3億1629万円
79 金海 龍海 パチンコ店経営 福岡県久留米市 3億1007万円
80 吹野 博志 デルコンピュータ会長 東京都港区 3億1000万円
81 毒島 秀行 SANKYO社長 東京都渋谷区 3億0918万円
82 平野 岳史 人材サービス会社社長 東京都世田谷区 3億0872万円
83 渡辺 寿恵子 不動産賃貸管理会社社長 東京都港区 3億0866万円
84 武井 保雄 武富士会長兼社長 東京都杉並区 3億0639万円
85 富澤 香代子 会社役員 東京都港区 3億0581万円
86 光山 照男 パチンコ機器製造会社役員 愛知県名古屋市 3億0418万円
87 服部 純一 セイコーインスツルメンツ会長 東京都渋谷区 3億0196万円
88 植木 章夫 元桐灰化学社長 大阪府豊中市 3億0108万円
89 加藤 佐平 無職 東京都西東京市 2億9721万円
90 村松 忠義 元貴金属販売会社社長 東京都世田谷区 2億9709万円
91 全本 親民 パチンコ店経営会社社長 岡山県津山市 2億9436万円
92 奥村 昌美 自動車輸入販売会社会長 東京都千代田区 2億9081万円
93 神内 由美子 無職 東京都港区 2億8412万円
94 慶松 駿輔 医薬品市場調査会社会長 東京都杉並区 2億8123万円
95 松本 孝弘 ギタリスト 東京都港区 2億7771万円
96 高桑 テイ 元会社役員 山梨県南都留郡 2億7489万円
97 青木 シヅ 無職 神奈川県藤沢市 2億6826万円
98 岡村 鉉  パチンコ機器販売会社役員 愛知県名古屋市 2億6721万円
99 大川 隆法 幸福の科学総裁 東京都杉並区 2億6631万円
100 堤 正明  通信販売会社社長 東京都渋谷区 2億6530万円

ゲーム業界昔話

【懐かしい1993年1月】株式上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成一覧

はる坊です。
今回は1993年にゲーム業界で上場していたゲーム会社の会社情報をご紹介したいと思います。

1993年1月 任天堂 役員情報

東京・大阪1部上場・京都上場
売上高:5075億円(1992年3月期)
営業利益:1403億6400万円(1992年3月期)
経常利益:1562億4700万円(1992年3月期)
従業員:890名(平均年齢35.8歳)
平均給与:352,675円
初任給:191,000円
30歳モデル賃金:315,000円

役員構成
社長:山内溥
常務:谷本克典 祖谷登希雄
取締役:福田博之 辻昭男 大西康博 荒川實
常勤監査役:近藤良明
監査役:稲葉實 澤井末造

株主構成:
山内溥 11.0%
京都銀行4.9%
大和銀行4.9%
東海銀行4.9%
三和銀行4.9%
東洋信託銀行4.4%
三菱銀行4.4%
中央信託銀行3.2%
住友信託銀行2.7%
日本興業銀行2.0%

1993年1月 コナミ(現・コナミホールディングス)会社情報

上場市場:東京証券取引所第1部・大阪証券取引所第1部上場
資本金:80億9600万円
売上高:470億8000万円(1992年2月期)
営業利益:81億1600万円(1992年2月期)
経常利益:81憶1900万円(1992年2月期)
従業員:641名(平均年齢28.0歳)
平均給与:308,875円
初任給:193,000円
30歳モデル賃金:305,580円

役員構成
会長:上月景正
社長:西村靖雄
専務:上月景彦
常務:藤田昌弘 今井中
取締役:矢野一夫 豊開壮吉 坂本進 五代友和
常勤監査役:井上更明
監査役:成瀬俊昭 森信静治

株主構成:
上月景正     13.6%
上月教育財団   13.4%
有限会社スリーケイ10.0%
住友信託銀行    5.6%
大和銀行 4.9%
さくら銀行 4.9%
あさひ銀行 3.4%
三菱信託銀行 1.4%
東洋信託銀行 1.4%
中央信託銀行 1.1%

1993年1月 カプコン会社情報

上場市場:店頭登録(JASDAQ上場)
資本金:65億6500万円
売上高:354億4500万円(1992年3月期)
営業利益:59億1400万円(1992年3月期)
経常利益:57憶3000万円(1992年3月期)
従業員:705名(平均年齢27.2歳)
平均給与:246,284円
初任給:188,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:辻本憲三
専務:門脇精
常務:中村昌弘 置塩安雄
取締役:大島平治 中山喜仁 岡田光雄 濱田典彦 保木純夫 坂井昭夫 小沢吉郎
常勤監査役:黒田守男 來栖三郎
監査役:阿部幸孝

株主構成:
辻本憲三 41.8%
辻本美之  6.4%
辻本美佐子 6.1%
辻本春弘  6.1%
辻本良三  6.1%
富士銀行  1.8%
住友信託銀行1.6%
三菱銀行  1.5%
自社持株会 0.9%
大橋幸彦  0.9%

1993年1月 エニックス(現・スクウェア・エニックスホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期)
営業利益12億0200万円(1992年3月期)
経常利益18億5200万円(1992年3月期)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円

役員構成
社長:福嶋康博
専務:千田幸信
常務:前川敏雄
取締役:川口貴雄 才藤智宏 蟹江元 上條弘
常勤監査役:舟田正男
監査役:河野先

株主構成:
福嶋康博    46.6%
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子   5.9%
千田幸信    2.2%
三和銀行    1.9%
高野豊     1.8%
川口貴雄    1.8%
東洋信託銀行  1.6%
三菱銀行    1.3%
才藤智宏    0.9%

1993年1月 光栄(現・コーエーテクモホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:70億4100万円
売上高:106億2000万円(1992年3月期)
営業利益36億2200万円(1992年3月期)
経常利益31億3000万円(1992年3月期)
従業員:258名(平均年齢26.9歳)
平均給与:271526円
初任給:189,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:襟川陽一
副社長:襟川恵子
専務:江藤弘之
常務:堀口大典 丸山侑生
取締役:伊従勝 福井清之助 栗野敏和
常勤監査役:井上清栄
監査役:長堀守弘

株主構成:
有限会社 光優  53.2%
襟川陽一     14.8%
襟川恵子     11.8%
横浜銀行     2.7%
住友信託銀行   0.7%
田邊恵造     0.7%
従業員持株会   0.7%
富士銀行     0.6%
中央信託銀行   0.5%
日本BT信託銀行  0.4%

※日本BT信託銀行⇒日本バンカーズ・トラスト信託銀行

※セガ・エンタープライゼス、ナムコ、テクモ、ジャレコはもう少々お待ちください。
旧スクウェアの株式上場は1994年です。

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人物伝

日本マクドナルド社長・日色保氏とは? 2019年も9月4日(水)から月見バーガー・黄金の月見バーガー・月見パイが味わえる季節がやってきましたよ。

日本マクドナルド新社長 日色保氏とは?

はる坊です。
日本マクドナルドホールディングスが、事業会社の日本マクドナルド社長に、同社の上席執行役員である日色保(ひいろ たもつ)氏をあてることを発表しました。社長就任は、2019年3月27日開催予定の株主総会後の取締役会で正式に決定される予定です。

これまで同社社長を務めてきたサラ・エル・カサノバ氏は、同社の代表取締役会長に就任予定です。

日本マクドナルド新社長 日色保氏のプロフィール

日色 保(ひいろ たもつ)氏は、1965年生まれで現在54歳です。

1988年に静岡大学人文学部法学科を卒業後、1988年静岡大学卒業後、ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)に入社されています。
医療機器の営業やマーケティング、トレーニングを担当されたのち、外科用器材部門と糖尿病関連事業部門の事業部長を経験。
2005年には、J&Jのグループ会社であるオーソ・クリニカル・ダイアグノスティックス株式会社の代表取締役社長に就任されています。
グループ会社とはいえ、40歳で社長就任はすごいですね。
2008年には、同社のアジアパシフィックの事業も統括。
2010年にジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社 メディカル カンパニー 成長戦略担当副社長 シニアバイスプレジデントに就任。
2018年9月に日本マクドナルドの上席執行役員 CSO(チーフ・サポート・オフィサー)に就任されて、それから半年で社長就任となる訳です。

新社長の手腕に期待したいところです。

日色保 新社長就任後の日本マクドナルドの役員体制

日本マクドナルドホールディングス株式会社
取締役会長:ロバート D.ラーソン
代表取締役社長兼 CEO:サラ L.カサノバ(日本マクドナルド 代表取締役会長兼CEO
代表取締役副社長兼 COO:下平 篤雄(日本マクドナルド 代表取締役副社長兼COO)
代表取締役 上席執行役員:佐藤 仁志
取締役 執行役員:宮下 建治
取締役:アンドリュー V.ヒプスレイ
取締役:アローシャ・ウィジェムニ
取締役:日色 保(日本マクドナルド 代表取締役社長兼COO)
社外取締役:川村 明
社外取締役:上田 昌孝
※社外取締役の川村 明 氏は弁護士で、アンダーソン・毛利・友常法律事務所の顧問。
※社外取締役の上田 昌孝 氏は実業家で、アメリカンホーム保険会社の代表取締役会長やセシール代表取締役会長、そして、フジ・ダイレクト・マーケティング代表取締役社長、ディノス・セシール代表取締役会長を歴任されてきた人物です。
また、子供向けの職業体験施設であるキッザニアのエグゼクティブ・アドバイザーを務められています。

日本マクドナルド株式会社
代表取締役会長兼CEO:サラ・エル・カサノバ
代表取締役社長兼COO:日色 保
代表取締役副社長兼COO:下平 篤雄
取締役 上席執行役員:アンドリュー R.ブラフ
社外取締役:高橋 鉄

取締役 石渡 勲 氏は退任されるようですね。

日本マクドナルド代表取締役副社長COO下平 篤雄 氏って?

さて、ここで気になるのは、
日本マクドナルドホールディングスと日本マクドナルドで代表取締役副社長COOを務められている下平 篤雄 氏の存在です。
下村篤雄 氏のプロフィールを紹介しますと、
1953年東京都生まれ。1976年國学院大学法学部卒業。1978年日本マクドナルド入社。中央地区本部長・コーポレートリレーション本部長・営業推進本部長などを経て、2005年に日本マクドナルド代表取締役。
2009年大手フランチャイズ・チェーンのクオリティーフーズ(新潟市)に出向・入社。
2015年本社に戻り、上席執行役員フィールドオペレーション本部長を経て、2015年3月から現職。
という経歴です。
創業者・藤田田時代からの生え抜きですね。
社長を務められるには、年齢が66歳とちょっと長期政権のトップでは難しかったのかもしれません。

ちなみに、一時期、出向・入社されていたクォリティフーズ株式会社は、1990年2月5日に設立され、現在118店舗のマクドナルドを運営している企業です。

【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ

社員の平均年収2,110万円!資産約2兆円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス①

はる坊です。 今回は、フォーブス誌の2018年日本人長者番付で、2017年に引き続き第4位にランクインしているキーエンス創業者で同社名誉会長・滝崎武光氏に迫っていきたいと思います。 キーエンス創業者の滝崎氏が、いち早くF…