再婚

人物伝

現在は妻と仲良く認知症の星に!異色タレント・蛭子能収さん、実は超有能伝説。

はる坊です。

そういえば、いつのまにか姿を見かけなくなったタレントが何かを機に復活することがあります。
2020年10月21日に73回目の誕生日を迎えられた蛭子能収さんもそのおひとりです。

1980年代後半に、異色タレントとして登場した蛭子さんは90年代に入ると、バラエティ番組を中心に活躍しCMにも登場。人気タレントとしてテレビで観る機会が多くなります。

しかし、98年12月に賭けマージャンで逮捕され、数ヶ月間の謹慎を余儀なくされたことも機になったのか、その後、次第にテレビ観る機会が少なくなります。

しかし、2007年にスタートした『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』を契機に、その自由すぎる言動が再注目され、人気が復活します。

今回は、そんな蛭子さんを違った角度から捉えてみたいと思います。

はたして蛭子能収はクズなのか? 有能エピソードをまとめてみました。

蛭子能収=クズ。
これはまとめサイトにも載っていますし、『水曜日のダウンタウン』で勝俣州和さんが「蛭子能収を超えるクズそうそういない説」を披露して、スタジオを納得させたこともあります。

(私としては、蛭子さんをダシにしている勝俣州和さんのほうがクズに思えますが)

蛭子さんは自分をネタにする人物がいると、真っ正直といいますか、平然と「ああ、私をネタにして食べている人ですね」と言ってしまう方なので、要注意人物ではあります。

NAVERまとめでは、蛭子さんがいかにクズかというエピソードを連ねているページが数十万以上のアクセスを集めていました。

しかし、蛭子さんはクズなのか?

今回は、蛭子さんを違う角度から検証してみます。

蛭子能収は勤勉な働き者。テレビに出る前でも年収は1000万円以上の漫画家だった。

蛭子さんの芸能界デビューのきっかけは、劇団東京乾電池のポスターを依頼されたことに始まります。

何度かポスターを手掛けるうちに、座長の柄本明さんから舞台に出てはどうか、と進められて舞台に立つことになりました。

そんな蛭子さんがテレビに出て、タレントとして人気を得るきっかけになったのは『笑っていいとも』出演でした。
素人枠で「怒って怒って大作戦・あなたも私もプンプンプン」というコーナーですが、これに約2ヶ月のうちに11回登場して、1回につき4万円のギャラを手にします。合計で44万円。

『笑っていいとも』出演には、東京乾電池の座員でもあった高田純次さんがレギュラー出演をされていた時期(1982年10月~1984年9月)があり、東京乾電池が芸能事務所を立ち上げていたことも関係していると考えられます。

ちなみに、本人が真面目に答えているところで、蛭子さんの1986年分の年収は1400万円です。

この収入の内訳はマンガとイラスト、それにエッセイで、テレビ出演分はほとんどありません。

1984年分、1985年分でも年収1000万円、同1200万円と語っています。

この2年間の収入は、テレビ出演はなく、純粋にマンガ・イラスト・エッセイの仕事で得たものです。

コアなファンが存在しているとはいえ、ヘタウマと呼ばれたジャンルのマンガやイラストがもて囃された時代だったとはいえ、メジャー誌では活躍していない(載せられない漫画を描いていた)マンガ家としては、この年収には驚かされます。

そして、「仕事は来た順に受けて、断らない」という蛭子さんの仕事に対する姿勢も、すでに語られています。

蛭子さんが再注目されて、新書や人生相談の刊行が一気に増えました。

このなかでは、一番ギャラが良い時代にCM1本で数千万もらっていたことも語っていますが、これは、タレントになってからも、ギャラで仕事を選ばず、オファーがあった順番に受けて、時たま、高額なギャラを受け取ることができるCMにありつけることがあったという話のなかでです。

蛭子さんは芸能界という特殊な世界でも、人気を得たからといって、仕事を選り好みしたり急に威張り出したりせず、ずっと地道に仕事をしてきた人物だとわたしは思います。

蛭子さんは元ダスキンのセールスマン。独立してからの仕事に対する考え方がスゴイ!!

蛭子さんは、セールスをしていたダスキン練馬を退職してから、マンガ家専業となりますが、

サラリーマン時代の収入を計算して、「一日2万円分の仕事をする」と決めて、日々、それに従った

と語っています。

2万円分とは、蛭子さんが勝手に決めた「このマンガやイラストならこれくらいの価値がある」ではなく、蛭子さんが受け取る現実的なギャラを差します。そして、「2万円に足りないときは、翌日までに埋め合わせた」と。

さらに、

仕事が順調に回り出すと、「一日5万円分の仕事をする」とハードルを上げた

というのです。
仕事を依頼されたら断らず、こなしていた結果、年収1000万円をクリアしています。
この姿勢を勤勉な働き者といわずしてなんというのでしょうか。

さらに86年には、当時在住していた所沢市に3LDKのマンションを購入しています。
時代はバブルに差し掛かったところ。わずか1年半で2.5倍に値上がりしたことが、一番嬉しいことだと告白しています。

自宅は、このマンションを経て、同じく所沢市内の中古の一戸建てに変わり、テレビに出始めてから10年ちょっとで、現金1億円一括払いで、住み慣れた所沢に新築の一戸建てを建てています。

もっとも、この家を建ててからしばらく経った98年12月に、蛭子さんは賭博容疑で逮捕され、このときには「人生、終わった」と観念したと語っています。また、2001年には前妻・貴美子さんを亡くしています。

“新築の家を建てると、5年以内に良くないことが起こる”という根拠のない話があり、私は、美輪明宏氏がテレビでこの発言をしていたことで、この言葉を知ったのですが、残念ながら、蛭子さんの場合は、偶然かどうか、見事に当たってしまいました。

2007年、再婚を機に、蛭子さんは都内へ移り、現在は都内世田谷区のタワーマンションに在住です。

高学歴より高収入。蛭子さんの学歴コンプレックス解消法

蛭子さんの最終学歴は長崎県立長崎商業高等学校商業科卒業です。

1947年10月21日生まれの蛭子さんが高校に進学したのは1963年4月。
この年、全国でみた高校進学率は64%。

おそらく、都市部はこの数字より高く、地方では中学を卒業したら働くのがあたりまえという考え方も根強く、そのなかで商業高校へ進学して卒業した蛭子さんは、当時としては恵まれた立場といえるかもしれません。

また、大阪で開かれていた万国博覧会を口実に、上京を果たすと看板屋で働きながら青山のシナリオセンターに通い、卒業証書(修了証書)を受け取っています。

グラフィックデザイナーを目指していた蛭子さんは、上京後、出版社や映画会社の入社試験を受けようとしますが、どこも大卒優遇で、高卒の蛭子さんにはそのチャンスさえありませんでした。

また、漫画家として活動をするようになり編集者との付き合いが始まると、編集者が軒並み大卒で高学歴なのが、蛭子さんを鬱屈させました。

初対面で「高卒ですか?」または「大卒ですか?」と訊ねる

のは、その証拠でしょう。

ちなみに、漫画家になることを諦めかけていた蛭子さんにチャンスをもたらした自動販売機で販売する漫画雑誌『Jam』の高杉弾さんや山崎春美さんは日本大学芸術学部文芸学科出身。漫画作品には東大卒の編集者をヒドい目に遭わせるものもあります。

まだ、サラリーマンで漫画家としても芽が出ていない頃は、“「家でも機嫌が悪くて」”と前妻の貴美子さんも共にテレビ出演を果たした際に語っています。

そんな蛭子さんですが、漫画家として独立して年収は1000万円台となり、その後、タレント活動で人気者になると年収は跳ね上がり1億円を稼ぐようになります。
学歴コンプレックスの根本は完全になくなったようではなさそうですが、以前よりは気にならなくなったと自著で語っています。

子どもには、個性に合った教育をキチンと与える父親でもあった

しかし、蛭子さんは息子の一郎さん。娘の史英さんには、しっかりと学歴や技術をつけさせています。

息子の蛭子一郎さんは中学時代に手に入れたパソコンで、独学でプログラミングを習得。現在は、株式会社ノイジークロークでサウンドデザイナーとして活躍中です。ご結婚もされており、お子さん、蛭子能収さんにとって孫にも恵まれています。

ちなみに、一郎さんは私立埼玉栄高校を卒業後、駿台電子情報専門学校(現・駿台電子情報&ビジネス専門学校)に進学しています。
大学には通われていません。

娘の蛭子史英さんは武蔵野美術大学卒業です。

最高年収1億円以上を稼いだ、息の長い異色タレント・蛭子能収

さて、蛭子さんの職業はなんでしょうか?
マンガ家・イラストレーターだと思いますが、その収入は月に数十万円です。
蛭子さんの収入の大半は、テレビ・ネット番組・イベントへの出演料が大半を占めるのではないでしょうか。

テレビ出演を機に、その特異なキャラクターが注目を受け、出演オファーが順調に増えたことで、次第に年収は高額となり、ビートたけし氏から「どーもどーもで1億円」と揶揄されるまでになりました。

1993年には所属事務所とは別に、個人で有限会社を設立していますが、これは節税対策の一環でしょう。

蛭子さんは、

“「金持ちに見られるのが嫌で貧乏人のフリをしている」”

と正直に発言しています。

2004年分までは長者番付(高額納税者)というものが発表されており、毎年、5月になるとワイドショー以外でも新聞にも掲載され、その後、週刊誌では、全国上位にランクインした人物を追う記事が載せられていました。ワイドショーや新聞で取り上げられるのは、芸能界ではベスト20まででしたが、スポーツ新聞は、全国の税務署を回って、氏名と納税額を拾い集めて、1000万円以上を納税した著名人を一覧にして発表していました。

実際、年収1億円以上を稼いだことは事実であると本人が認めています。

しかも、何年にも渡って稼ぎ続けた。そうでなくては、現金一括払いで1億円の自宅は購入できません。

5ch(当時は2ch)の過去ログや当時のまとめを見ると、その残滓がありますが、蛭子さんは、個人事務所を設立して、所得を分散して、長者番付に載らない額を給与として月々受け取っていたと思います。

当時は、現在のように個人情報の保護についてやかましく言われておらず、この番付でも、税務署では氏名、納税額のほかに住所まで公表されていました。

蛭子さんはテレビに登場するようになってから、親しくもなかった昔の知人からも借金の依頼をされて、断り切れず貸してしまったところ踏み倒されたり、悪質なセールスに騙されてしまった過去があります。

当時、長者番付に乗った人間が一番嫌っていたこと、それは、あの手この手のしつこいセールスです。氏名も住所も公表されているのですから、格好の標的になってしまうのです。

マンション投資はどうですか。

有事に備えて金を買いませんか。

秘書はいかがですか。

その他もろもろのセールスレターだけで、毎日20㎝にもなると嘆いていた人物もいましたので、それを避けるためにも、蛭子さんは身を守る意味でも、こうしてきたと思えるのです。

また、住所が番地まで公示されているのですから、空き巣や強盗に狙われる確率も上がります。

「あの家は金を持っている」

そんな情報が、世間一般に知れ渡ることはマイナス面が大きいです。

蛭子さんは2000年に「バブルは終わった」というエッセイを発表しています。1998年12月に麻雀賭博で逮捕されてから、スケジュールに穴が空くようになり、同時に収入が減ったことを嘆きつつ、これまではバブルだったんだと語っているのです。

かつて、『ろみひー』というヒロミ氏の帯番組がありました。

ゲストの履歴書をもとに、その人生を振り返る番組で、生前の飯島愛氏がご意見番役で出演していた番組でもありました。1998年から2003年まで続いたので、人気番組であったと思います。

蛭子さんがこの番組に出演したとき、当時はかなり調子に乗っていたキャラクターだったヒロミ氏に、タクシーの運転手さんから「最近、テレビで見なくなったね」と言われて落ち込んだエピソードを暴露されています。

たしかに、テレビで蛭子さんを観る機会が減った時期もありました。
しかし、タレントには地方営業という強力な武器もあります。蛭子さんは芸能界から消えることはなく、2007年の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』を契機に復活します。

蛭子さんが、もっともテレビでもて囃されるようになったのは、この4、5年ほどです。
アップダウンはあっても、80年代後半からの30年間、移り変わりの激しい芸能界で消えることなく、70代を迎える頃に、再び注目を浴びるタレントはなかなかいないでしょう。

競艇での損は通算1億円以上! それでも競艇を愛する理由、通い続ける理由

蛭子能収さんのギャンブル好きは有名です。特に競艇への情熱は並々ならないものがあります。

担当している人生相談でも、競艇の話が入り込んできたり、競艇に比べればたいしたことではないという蛭子さんらしい回答になっているときもあります。その昔はイメージキャラクターとしてCMに登場していました。

かつて、競艇必勝法を編みだしたりしたようですが、結果、大損。お金を都合してくれた前妻・貴美子さんに、自宅から叩き出される目にも遭いながらも、競艇は、蛭子さんの人生に寄り添い続けてきました。
蛭子さんは競艇を始めたのは20歳を過ぎた頃です。それから、半世紀も続けています。



蛭子さんの論理は独特です。

パチンコ依存症の人に対して、「パチンコでお金を稼ごうとしているのだから立派だ」と言い、蛭子さん自身も、競艇へ行くことを「仕事がオフの日でも、競艇場へ金を稼ぎに行っている」と表現しています。

実際は、通算で1億円以上の損をしているわけですが・・・

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

人物伝

ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信はもっと評価されるべき

はる坊です。

ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。

それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。

お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。
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『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。

また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、えーっ、と思った」と語られています。

たしかに、真面目でビジネスマンというよりも職人気質の方だと思います。

現在、千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役

千田幸信さんは現在、スクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役です。

事業会社であるスクウェア・エニックスの取締役も務めてこられましたが、こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任されました。

替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。

完全な代替わりで、その内にスクエニHDの取締役も退任されるのではないかという予感がして、何だか一時代が終わったというか、寂しい気がします。

千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?

千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。
1950年9月29日岩手県生まれ。1972年に東海大学工学部中退。
血液型はO型で、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。

役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝統計学の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。

大学中退後は、1974年3月にCISに入社。1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。
その後、エニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。

フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの設立に参画して取締役に就任。
このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして高野豊氏の3名だけでした。

ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。

エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発

エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。

最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。

当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
・エニックスが無名会社だったから

社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)

それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。

最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。

ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。

鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。

中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。
エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。

中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。

そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。

このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。

また、エニックスはゲームの作者に対して印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。

中村さんは、月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。

中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。

千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』

堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。

しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。

シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信

ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。

音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。

キャラクターデザイン 鳥山明
音楽         すぎやまこういち

このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。

出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。

『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて

堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。

Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。

ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。

中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。

そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン   鳥山明
音楽           すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。

マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストⅣ』、1992年の『ドラゴンクエストⅤ』、1995年の『ドラゴンクエストⅥ』、そして1998年の『ドラゴンクエストⅦ』まで、プロデューサーを務め続けます。
それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。

この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。
1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、
ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当
とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。
(もっとも、出版事業に関しては、同時に保阪嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが)
1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。
1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。

2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。
2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、現在はスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めています。

馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!

1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。
1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、上場時の初値は12000円を付けました。

株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)

また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入。そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

所有馬には「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。

活躍した馬には
「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円
「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円
「バロンカラノテガミ」獲得賞金  8936万円
「パブロカラノテガミ」獲得賞金  5213万円
「ベルベットスマイル」獲得賞金  4994万円
「ベガスカラノテガミ」獲得賞金  4877万円
がいます。
中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。

ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの「バランスオブゲーム」「アブソリュート」「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。

スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務める千田幸信さんの役員報酬は年間1900万円

2018年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。
これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、

・代表取締役社長:松田洋祐さん 
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円

・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円

・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円

この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。
また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。

スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?

現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。

持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。
ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。

旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?

旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。
また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。
たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。

もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。

さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。

・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円

・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円

確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。

非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。

役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。
そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。
また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強と、ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。

もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。

〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?

千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。

この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。

果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。


どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・

ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。

エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。

エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。

タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。

そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。

スクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役も退任か?

先にも書きましたが、千田さんは2018年3月31日付で、スクウェア・エニックスの取締役を退任されました。

1987年に旧エニックスに入社して、エニックス社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司氏は、2018年5月でスクウェアエニックスホールディングスの取締役も退任されました。若くして旧エニックス社長に就任された本多氏も60歳になられていました。

千田さんも68歳。旧エニックス創業から走り続けて36年が経ちました。
あと数年で、スクウェア・エニックス・ホールディングス(スクエニHD)の取締役も退任される予感がしてなりません。
そろそろ、現役を引退して、ユーザーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。

以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。

千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?⇒(新しいページが開きます)

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。




人物伝

Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅤ

自分と関わった人間を富ませる人

〝ミダス王〟と自称したのはダテではなかった

はる坊です。
『Vジャンプ』編集長だった1990年代前半、鳥嶋和彦さんは自らのことを「ミダス王」と呼びました。ギリシャ神話に出てくる、触れた物をすべて黄金に変える力を持った神のことです。

たしかに鳥嶋さんと仕事で深く関わった方は、大きな収入や資産を得ています。
クリエイターでいえば、
鳥山明さんは、『ドラゴンボール』で、桂正和さんは『ウイングマン』『電影少女』『I”s』で、堀井雄二さんは『ドラゴンクエスト』で、さくまあきらさんは『桃太郎電鉄』で、坂口博信さんは『ファイナルファンタジー』でいずれも億単位の収入を得ることになります。

エニックスとスクウェアは上場企業に

また、ゲームで関わったエニックスとスクウェア(現:スクウェア・エニックス)も、それぞれ株式を店頭公開(現在でいうJASDAQ上場)を果たします。

まず、エニックスですが、1991年(平成3年)2月の株式店頭公開(株式上場)時に公募価格の8270円を大きく超える12000円の高値をつけて話題を呼びます。

これにより株主であった創業期からのメンバーは株式上場で大きな資産を得ます。エニックス社長(現・名誉会長)の福嶋康博さんは数百億円の株式資産を得て、杉並区浜田山にスポーツジムと麻雀スペースを備えた豪邸(現在は、渋谷区初台にもっと大きな邸宅を建設して居住)を建てます。

創業メンバーでドラクエのプロデューサーだったエニックスの千田幸信さんも数%の株式を保有する大株主でしたので、多額の資産を手に入れるとともに、JRA日本中央競馬会の馬主資格を得ることになります。

当時の週刊誌には、“「今回の株式公開で、役員は億単位の資産を手に入れ、社員にも数千万円の資産を手に入れた者もいる」”と報じています。

スクウェアの場合は、1994年(平成6年)8月に株式店頭公開(株式上場)を行います。
創業社長であり、91年で社長から身を引き、オーナーとして同社の成長を見てきた宮本雅史さんは、この時に持株の一部を売却しますが、翌1995年(平成7年)5月に発表された1994年分の全国高額納税者番付で17億7220万円を納税して全国2位になったことが報道されました。

ウィキペディアで94年分の全国2位にゲーム会社首脳と記載されているのは宮本さんのことです。

また、坂口博信さんも、株式店頭公開時にはスクウェアの株主ではベスト5に入る大株主でしたので、多額の株式資産を得ることになります。

1996年、43歳で週刊少年ジャンプ編集長に

そんな1996年2月、43歳になっていた鳥嶋和彦さんは、週刊少年ジャンプの編集部に戻り、編集長に就任します。

ジャンプは、後藤広喜さんから編集長のバトンを受け継いだ堀江信彦編集長の下、1994年12月に発行部数653万部を記録しますが、その後は、鳥山明さんの『ドラゴンボール』、そして冨樫義博さんの『幽遊白書』の終了などで、部数は500万部台に減少してしまいます。

編集長を務めていた堀江信彦さんは『メンズノンノ』の編集長に異動となり、後任に鳥嶋さんが就いた形になりました。
(堀江さんはその後、『BART』編集長を経て、集英社を退社します。

そして、北条司原哲夫次原隆二と共にコアミックスを設立、コミックバンチを創刊します。集英社を辞めるときは、年収2000万円を捨てた男として週刊誌の記事になりました。)

週刊少年ジャンプに戻った鳥嶋さんは、3ヶ月間編集部内の様子をみることに注力します。
4年間『Vジャンプ』の編集長を務めていた期間で、編集部のノリや雰囲気が変わっていて、すんなりとジャンプ編集部になじめなかったと回想しています。

プロジェクトをゼロから立て直す

同時に、前編集長が進めていたプロジェクトはすべて1回止めることにして、集英社の内外に頭を下げて回ります。このプロジェクトのなかには、宮部みゆきさん原作の漫画も含まれていたようです。

3ヶ月が過ぎて、ようやく編集部を見渡せるようになった鳥嶋さんの目に入ってきたのは、新人漫画家と編集者が育っていないということでした。

鳥嶋さん曰く

“「冷蔵庫が空っぽの状態になっていた。部数がどんどん上がっていた時期に、新人の連載が次々に失敗した結果だった」”

(引用元;月刊創 1998年12号 「少年ジャンプ」編集長ロングインタビュー 「意識するのはマガジンよりもコロコロですね」-かつて600万部強の驚異的部数を誇りながら)

まもなく、井上雄彦さんの『スラムダンク』も終了しました。



鳥嶋流・編集長術は意外にもシンプルだった

“『もう一回、とにかく少年ジャンプの基本に返るしかない。新人をどれだけ意欲的に取り込んでいけるのか、それで編集者と二人三脚で手作りでやった作品を読者の目にさらして、その反響を編集・作家双方が受け止めて、次の作品につなげていく。この繰り返ししかないんですよね。だから僕がジャンプに戻ってまず考えたのは、そこ(新人発掘・編集者育成)だけを徹底してやりたいということで。新人賞を含めて全部見直したいと。新人賞のマンガ家の選考は、たとえ毎週の校了日に引っかかっても、それだけは必ず見てもらう。それから、副編集長と相談して、連載漫画を数本終わらせてもいいから、必ず毎週、読み切りを載せるスペースを作ってくれと』”

(引用元;月刊創 1998年12号 「少年ジャンプ」編集長ロングインタビュー 「意識するのはマガジンよりもコロコロですね」-かつて600万部強の驚異的部数を誇りながら)

大胆な新人起用は、現在のジャンプに繋がっている

毎週、載せることになった読み切りから、現在までジャンプを支えることになった作品が登場することになります。
1996年夏の増刊号に『ROMANE DAWN』という作品が載ります。そして本誌41号に同じタイトルの読み切りが登場します。
主人公の名はルフィ。作者の名は尾田栄一郎。1975年熊本県生まれの当時21歳。九州東海大学(現:東海大学)工学部建築学科を中退して、『るろうに剣心』の和月伸宏さんの元でアシスタントをしながら描いた作品です。

そして1997年7月22日から『ONE PIECE』連載を開始。現在に続く大人気漫画となり、コミックスの発行部数も国内だけで4億3000万部となっています。

また、同年に始まった島袋光年さんの『世紀末リーダー伝たけし!』も人気を集め、続けて森田まさのりさんの『ROOKIES』、樋口大輔さんの『ホイッスル!』もスタートします。

そして、1998年には冨樫義博さんの『HUNTER×HUNTER』もスタート。武井宏之さんの『シャーマンキング』も人気作となります。

1999年も許斐剛さんによる『テニスの王子様』、原作:ほったゆみ×作画:小畑健による『ヒカルの碁』がヒット作となり、本誌の発行部数こそ減少しますが、コミックスの売れる連載作品が多く並ぶ誌面となっていきます。

最後に、99年には、岸本斉史さんの『NARUTO』もスタートします。

2014年の末に本編は完結しましたが、15年にわたる連載で全700話。単行本は全72巻+外伝1巻を数え、国内だけで1億4000万部以上、そして特筆すべきは海外人気で、フランスだけで1800万部以上、出版された35の国々の出版部数は7500万部以上となり、全世界で2億2000万部以上のメガヒットとなりました。

1997年から1999年までで、これだけの人気連載が出そろったのは、鳥嶋和彦さんが編集長に就任以来掲げてきた、新人漫画家と編集者の育成が進んだ結果といえると思います。

2001年に高橋俊昌さんに編集長の座をバトンタッチすると、鳥嶋さんは第3編集部部長(週刊少年ジャンプ・月刊少年ジャンプ・Vジャンプの統括)に昇格します。
また、権利関係に詳しいことから、ライツ事業部部長も兼任する形となります。

現在は、株式会社 白泉社 代表取締役会長 鳥嶋和彦

2004年には集英社の取締役 第3編集部部長兼ライツ事業部部長となり、2006年7月まで、第3編集部部長職を務め、2008年にはの小学館集英社プロダクション取締役も兼任。

2009年には集英社の常務取締役。

2010年には専務取締役に就任。

2015年8月に退任するまで務めます。

そして、同月に白泉社の顧問に就任すると、その3ヶ月後の2015年11月に白泉社の代表取締役社長に就任します。

白泉社は集英社から枝分かれする形で1973年12月に設立され、資本金1000万円・従業員100名ほどの出版社です。

単体だけで、700名の従業員がいる集英社に比べると小回りが利く企業といえるかもしれません。

社長に就任した鳥嶋さんは、まず、社員ひとりひとりと面談をします。社員が何を考えながら仕事をしているか、そして将来のビジョンは何なのかを知るためです。そして、編集者を育成することに力を注ぐことにします。

編集者を育成すること=新人漫画家の育成に繋がるという考えからうまれているのでしょう。

また、鳥嶋さんが社長に就任してからの白泉社の求人サイトはちょっとぶっ飛んでいます。

大きくアピールされたのは〝たいじん〟を求めますという言葉。
これは、○○をしたい。○○になりたい。の〝たい〟を意味しますが、一見すると何だろうと思えます。
また、2019年度の採用では、ズバリ〝変〟がテーマでした。

鳥嶋和彦は経営者としても優秀!? 白泉社社長就任後、業績がアップしている!

鳥嶋和彦さんが白泉社の代表取締役社長に就任したのは、2015年11月でした。
この2ヶ月前に発表された2015年9月期の決算では、業績は売上高が93億9400万円でした。
それが、鳥嶋社長体制になってから、2016年9月、2017年9月と売上高は100億円台に回復しています。

2010年頃からは、売上高80~90億円台でウロウロしていましたので、鳥嶋社長の経営姿勢が数字にも表れているのではないかと思います。

ちなみに、2018年11月20日の白泉社の役員体制は以下のとおりです。
代表取締役社長:鳥嶋和彦
常務取締役:菅原弘文・馬場建輔
取締役:八巻健史・島田明・堀内丸恵
監査役:木川真希子
※堀内丸恵氏は集英社 代表取締役社長
(1951年10月山梨県富士河口湖町生まれ。成蹊大学法学部卒業後、75年集英社入社。週刊少年ジャンプ編集部に配属され、小林よしのりや秋本治の担当編集者となる。青年誌に異動後、スーパージャンプ編集長を経て、管理部門の管理職を経験。役員待遇、取締役、常務取締役、専務取締役を経て、2011年8月より社長。小学館の監査役も兼任)

ちなみに集英社の役員体制は

代表取締役社長:堀内丸恵
専務取締役:東田英樹
常務取締役:柳本重民・石渡孝子・高梨雄二・鈴木晴彦・廣野眞一・小林桂・茨木政彦
取締役:田中恵・村田登志江・渡辺隆・北畠孝幸・隅野叙雄・田中純
常勤監査役:木川真希子
監査役:相賀昌宏

でした。

2018年11月21日 株式会社 白泉社 代表取締役会長に就任

白泉社に移った鳥嶋和彦さんの社長任期は、当初から3年と決まっていました。
よって、2018年11月以降の去就が注目されていたのですが、11月21日付けで白泉社の代表取締役会長に就任されました。
代表取締役社長には、常務取締役を務められていた菅原弘文常務が昇格。
新任取締役には、高木靖文(デジタル事業部、キャラクタープロデュース部担当)
白岡真紀(第一編集部、第三編集部担当)
小見山康司(販売部、宣伝部、制作部担当)
の3名が就任。
柳沢仁さん(宣伝部、出版部、MOE編集部担当)が、役員待遇のポストに就かれました。

2020年11月27日 株式会社 白泉社 取締役相談役に就任

2020年11月27日に定時株主総会と取締役会が執りおこなわれ、新役員体制が決定しました。

鳥嶋さんは代表取締役会長を退任して、取締役相談役に就任されました。

代表取締役社長(全社統括):菅原弘文
専務取締役(管理部:総務部・経理部・編集総務部 営業部門:販売部・宣伝部・制作部・海外営業部・コンテンツビジネス部担当):馬場建輔
取締役(総務部・経理部・編集総務部担当兼総務部・経理部部長):八巻健史
取締役(第2編集部・宣伝部担当兼第2編集部・宣伝部部長):島田明
取締役(デジタル事業部・キャラクタープロデュース部担当兼デジタル事業部・キャラクタープロデュース部部長):高木靖文
取締役(第1・3編集部担当):白岡真紀
取締役(販売部・制作部・海外営業部担当兼販売部部長):小見山康司
取締役(出版部・MOE編集部・kodomoe編集部・コンテンツビジネス部担当兼MOE編集部・kodomoe編集部部長):柳沢仁
取締役:廣野眞一(集英社 代表取締役社長)
取締役相談役:鳥嶋和彦
監査役:恩穂井和憲

今後、鳥嶋さんは、自らの知名度を生かした対外的な仕事や新しいプロジェクトを立ち上げられるかもしれません。
また、社長・会長時代に行っておられた、後進編集者の育成に力を注がれるかもしれません。

鳥嶋和彦さんの今後にも注目をしていきたいと思います。

最後まで、拙い文章を読み続けてくださり、本当にありがとうございました。

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