収入

人物伝

現在は、スクエニHD顧問 ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信さんはもっと評価されるべき

はる坊です。

この2021年2月10日で、任天堂ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストⅢ』の発売から33周年を迎えました。

ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。

それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。

お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。

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『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。

また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、

「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、「えーっ、と思った」と語られています。

たしかに、真面目でビジネスマンというよりもクリエーター・職人気質の方だと思います。

すぎやまこういちさんとの対談でも、

“「プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。
僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。」”

と語られており、表舞台には立たずに裏方に徹することで、『ドラゴンクエスト』を支えてこられました。

2021年6月 千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役を退任

千田幸信さんは、エニックス創業から、同社の取締役、常務、専務、副会長を務められ、スクウェア・エニックスとなってからも取締役を続投されました。
(こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任)
2008年10月からは持株会社のスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めてこられましたが、2021年6月をもって勇退をされました。

こちらで本多圭司さんについてまとめました。エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサーを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。

千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?

千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。

1950年9月29日岩手県生まれ。血液型はO型。
1972年に東海大学工学部を中退。

奥様はソプラノ歌手の千田知都子さん。
何枚かCDをリリースされており、なかでも2002年にリリースされた『こころのうた』では、『ドラゴンクエスト』関連の曲も歌われています。


ドラゴンクエストⅡの『この道 わが旅』とドラゴンクエストⅦの『哀しみの日々』なのですが、ヴォカリーズ(いわゆるハミングですね。歌詞はなく、さだまさし『北の国から』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』を思い出していただけるとイメージがしやすいかと思います)で歌い上げられています。

また、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。

役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝確率統計論の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。

大学中退後は、1974年3月にCISに入社。
1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。

その後、1979年にエニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。

フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの創業に参画して取締役に就任。

このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして、福嶋氏が1974年8月に個人創業され、
翌1975年9月に設立された公団住宅情報誌発行会社である、株式会社営団社募集サービスセンターに1976年から勤められていた古参社員の高野豊氏の3名だけでした。

ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。

エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発

エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。

最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。

当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。

・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった

・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた

そして、これがいちばん大きな理由でした。

・エニックスが無名会社だったから

社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)

それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。

最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。

ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。

依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。

鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

『ドラゴンクエスト』誕生にも関わった、鳥山明を見いだした名編集者・マシリトこと鳥嶋和彦は現在、白泉社代表取締役会長 兼 生涯ー編集者

そして四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。

中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。

エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。

中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。

そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。

このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。

また、エニックスはゲームの作者に対して、ゲームを買切りではなく印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。

中村さんは、上京したての大学生でありながらトヨタ・ソアラを手に入れ、飲食費や遊興代で月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。
代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。

中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。

千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』

堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。

しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。

シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信

ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。

音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。

キャラクターデザイン 鳥山明
音楽         すぎやまこういち

このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。

出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。

『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて

堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。

Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。
スケジュールを巡って千田さんは、社長の福嶋康博さんとかなりやりあっていたようですね。

ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。

中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。

そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン   鳥山明
音楽           すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。

マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』、

1992年の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、

1995年の『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、

そして1998年の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、プロデューサーを務め続けます。

それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。

この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。

1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、

ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当

とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。

もっとも、ゲームソフト事業においては、『ジャストブリード』のプロデューサーを務めた川口貴雄さんが取締役 ソフトウェア企画部長を務め、出版事業に関しては、同時に保坂嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが。

1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部長となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。

1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。

2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。

2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、
前述しましたように、2019年6月までスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務められました

馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!

1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。

1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、公募価格8,270円に対して上場時の初値は12,000円を付けました。

株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)

また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入(現在は、都心にある別のタワーマンションにお住まいです)。

エニックス上場による株式の売却益で、千田さんは1991年分の高額納税者(長者番付)では、納税額は7,107万円となっています。

(ちなみに、同年の納税額は、福嶋康博さんが3億2,950万円、堀井雄二さんが2,245万円です)

そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

馬主となった千田さんは所有馬に「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。

活躍した馬には

「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円

「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円

「バロンカラノテガミ」獲得賞金8936万円

「パブロカラノテガミ」獲得賞金5213万円

「ベルベットスマイル」獲得賞金4994万円

「ベガスカラノテガミ」獲得賞金4877万円

がいます。

中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。

ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの

「バランスオブゲーム」

「アブソリュート」

「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。



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スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務めていた千田幸信さんの役員報酬は年間2900万円

2018年度にスクウェア・エニックス・ホールディングスが取締役である千田幸信さんに支払った役員報酬は2,900万円です。
すでに、事業会社のスクウェア・エニックスの取締役は退任されておられますので、スクウェア・エニックスの役員として受けとられる収入は年収2,900万円です。

2017年で常勤取締役のフィリップ ティモ ロジャースさんと本多圭司さんがホールディングスの役員を外れて、常勤の取締役は、社長の松田洋祐さんと千田さんの2名だけになりましたので、2017年度より報酬がアップしています。

ユニクロの持株会社であるファーストリテイリングは、長らく代表取締役会長兼社長の柳井正さん以外は、取締役を社外取締役で固めていましたが、持株会社の常勤取締役が2人体制というのには、若干の不安があります。

2018年6月に事業会社の専務取締役に橋本真司さん(1958年5月24日生まれ。駒沢大学経済学部卒業。バンダイ入社後は〝橋本名人〟として、ハドソンの高橋名人とともにファミコンブーム時に名を馳せ、その後、独立してソリッド(コブラチーム)を設立。ソリッドがスクウェアグループになると、スクウェア取締役、執行役員に就任。スクウェア・エニックスとなってからも執行役員・取締役を歴任が、千田さんの後継としてスクウェア・エニックス・ホールディングスの役員になられるかと思いましたが、
すでに退任をされています。

ちなみに、2017年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。

これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、

・代表取締役社長:松田洋祐さん 
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円

・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円

・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円

この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。

また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。

そういえば、松田洋祐社長は町田市玉川学園の一戸建てにお住まいでしたが、社長就任後は港区のマンションに居を移されています。
賃貸か所有かは不明ですが、やはり本社に近い都心部に住まわれている方ほうが、代表取締役社長として、何かと便利です。

スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?

現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。

持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。

ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。

旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?

旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。

また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。

たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。

もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。

さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。

・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円

・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円

確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。

非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。

役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。

そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。

また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強。

ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。

もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。

〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?

千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。

この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。

果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
(※現在、当時の千田さんの顔写真が見られなくなっております。本当に申し訳ありません。)

どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・

ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。

エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。

エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。

タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。

そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。

これからの千田幸信さん

千田さんも70歳。旧エニックス創業から走り続けて38年以上が経ちました。
現役から勇退された今、ユーザーのひとりとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。

以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。

千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。
本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?

⇒(新しいページが開きます)

福嶋康博さんの後継者としてエニックス2代目社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司さんの足跡をまとめたページはこちらです。
⇒エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんの足跡をまとめました

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期をまとめたページはこちらです。

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!のページはこちらです(新しいタブが開きます)

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。

心より御礼申し上げます。

何かございましたら、こちらまでお願いいたします。

はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)

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人物伝

Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅤ

自分と関わった人間を富ませる人

〝ミダス王〟と自称したのはダテではなかった

はる坊です。
『Vジャンプ』編集長だった1990年代前半、鳥嶋和彦さんは自らのことを「ミダス王」と呼びました。ギリシャ神話に出てくる、触れた物をすべて黄金に変える力を持った神のことです。

たしかに鳥嶋さんと仕事で深く関わった方は、大きな収入や資産を得ています。
クリエイターでいえば、
鳥山明さんは、『ドラゴンボール』で、桂正和さんは『ウイングマン』『電影少女』『I”s』で、堀井雄二さんは『ドラゴンクエスト』で、さくまあきらさんは『桃太郎電鉄』で、坂口博信さんは『ファイナルファンタジー』でいずれも億単位の収入を得ることになります。

エニックスとスクウェアは上場企業に

また、ゲームで関わったエニックスとスクウェア(現:スクウェア・エニックス)も、それぞれ株式を店頭公開(現在でいうJASDAQ上場)を果たします。

まず、エニックスですが、1991年(平成3年)2月の株式店頭公開(株式上場)時に公募価格の8270円を大きく超える12000円の高値をつけて話題を呼びます。

これにより株主であった創業期からのメンバーは株式上場で大きな資産を得ます。エニックス社長(現・名誉会長)の福嶋康博さんは数百億円の株式資産を得て、杉並区浜田山にスポーツジムと麻雀スペースを備えた豪邸(現在は、渋谷区初台にもっと大きな邸宅を建設して居住)を建てます。

創業メンバーでドラクエのプロデューサーだったエニックスの千田幸信さんも数%の株式を保有する大株主でしたので、多額の資産を手に入れるとともに、JRA日本中央競馬会の馬主資格を得ることになります。

当時の週刊誌には、“「今回の株式公開で、役員は億単位の資産を手に入れ、社員にも数千万円の資産を手に入れた者もいる」”と報じています。

スクウェアの場合は、1994年(平成6年)8月に株式店頭公開(株式上場)を行います。
創業社長であり、91年で社長から身を引き、オーナーとして同社の成長を見てきた宮本雅史さんは、この時に持株の一部を売却しますが、翌1995年(平成7年)5月に発表された1994年分の全国高額納税者番付で17億7220万円を納税して全国2位になったことが報道されました。

ウィキペディアで94年分の全国2位にゲーム会社首脳と記載されているのは宮本さんのことです。

また、坂口博信さんも、株式店頭公開時にはスクウェアの株主ではベスト5に入る大株主でしたので、多額の株式資産を得ることになります。

1996年、43歳で週刊少年ジャンプ編集長に

そんな1996年2月、43歳になっていた鳥嶋和彦さんは、週刊少年ジャンプの編集部に戻り、編集長に就任します。

ジャンプは、後藤広喜さんから編集長のバトンを受け継いだ堀江信彦編集長の下、1994年12月に発行部数653万部を記録しますが、その後は、鳥山明さんの『ドラゴンボール』、そして冨樫義博さんの『幽遊白書』の終了などで、部数は500万部台に減少してしまいます。

編集長を務めていた堀江信彦さんは『メンズノンノ』の編集長に異動となり、後任に鳥嶋さんが就いた形になりました。
(堀江さんはその後、『BART』編集長を経て、集英社を退社します。

そして、北条司原哲夫次原隆二と共にコアミックスを設立、コミックバンチを創刊します。集英社を辞めるときは、年収2000万円を捨てた男として週刊誌の記事になりました。)

週刊少年ジャンプに戻った鳥嶋さんは、3ヶ月間編集部内の様子をみることに注力します。
4年間『Vジャンプ』の編集長を務めていた期間で、編集部のノリや雰囲気が変わっていて、すんなりとジャンプ編集部になじめなかったと回想しています。

プロジェクトをゼロから立て直す

同時に、前編集長が進めていたプロジェクトはすべて1回止めることにして、集英社の内外に頭を下げて回ります。このプロジェクトのなかには、宮部みゆきさん原作の漫画も含まれていたようです。

3ヶ月が過ぎて、ようやく編集部を見渡せるようになった鳥嶋さんの目に入ってきたのは、新人漫画家と編集者が育っていないということでした。

鳥嶋さん曰く

“「冷蔵庫が空っぽの状態になっていた。部数がどんどん上がっていた時期に、新人の連載が次々に失敗した結果だった」”

(引用元;月刊創 1998年12号 「少年ジャンプ」編集長ロングインタビュー 「意識するのはマガジンよりもコロコロですね」-かつて600万部強の驚異的部数を誇りながら)

まもなく、井上雄彦さんの『スラムダンク』も終了しました。



鳥嶋流・編集長術は意外にもシンプルだった

“『もう一回、とにかく少年ジャンプの基本に返るしかない。新人をどれだけ意欲的に取り込んでいけるのか、それで編集者と二人三脚で手作りでやった作品を読者の目にさらして、その反響を編集・作家双方が受け止めて、次の作品につなげていく。この繰り返ししかないんですよね。だから僕がジャンプに戻ってまず考えたのは、そこ(新人発掘・編集者育成)だけを徹底してやりたいということで。新人賞を含めて全部見直したいと。新人賞のマンガ家の選考は、たとえ毎週の校了日に引っかかっても、それだけは必ず見てもらう。それから、副編集長と相談して、連載漫画を数本終わらせてもいいから、必ず毎週、読み切りを載せるスペースを作ってくれと』”

(引用元;月刊創 1998年12号 「少年ジャンプ」編集長ロングインタビュー 「意識するのはマガジンよりもコロコロですね」-かつて600万部強の驚異的部数を誇りながら)

大胆な新人起用は、現在のジャンプに繋がっている

毎週、載せることになった読み切りから、現在までジャンプを支えることになった作品が登場することになります。
1996年夏の増刊号に『ROMANE DAWN』という作品が載ります。そして本誌41号に同じタイトルの読み切りが登場します。
主人公の名はルフィ。作者の名は尾田栄一郎。1975年熊本県生まれの当時21歳。九州東海大学(現:東海大学)工学部建築学科を中退して、『るろうに剣心』の和月伸宏さんの元でアシスタントをしながら描いた作品です。

そして1997年7月22日から『ONE PIECE』連載を開始。現在に続く大人気漫画となり、コミックスの発行部数も国内だけで4億3000万部となっています。

また、同年に始まった島袋光年さんの『世紀末リーダー伝たけし!』も人気を集め、続けて森田まさのりさんの『ROOKIES』、樋口大輔さんの『ホイッスル!』もスタートします。

そして、1998年には冨樫義博さんの『HUNTER×HUNTER』もスタート。武井宏之さんの『シャーマンキング』も人気作となります。

1999年も許斐剛さんによる『テニスの王子様』、原作:ほったゆみ×作画:小畑健による『ヒカルの碁』がヒット作となり、本誌の発行部数こそ減少しますが、コミックスの売れる連載作品が多く並ぶ誌面となっていきます。

最後に、99年には、岸本斉史さんの『NARUTO』もスタートします。

2014年の末に本編は完結しましたが、15年にわたる連載で全700話。単行本は全72巻+外伝1巻を数え、国内だけで1億4000万部以上、そして特筆すべきは海外人気で、フランスだけで1800万部以上、出版された35の国々の出版部数は7500万部以上となり、全世界で2億2000万部以上のメガヒットとなりました。

1997年から1999年までで、これだけの人気連載が出そろったのは、鳥嶋和彦さんが編集長に就任以来掲げてきた、新人漫画家と編集者の育成が進んだ結果といえると思います。

2001年に高橋俊昌さんに編集長の座をバトンタッチすると、鳥嶋さんは第3編集部部長(週刊少年ジャンプ・月刊少年ジャンプ・Vジャンプの統括)に昇格します。
また、権利関係に詳しいことから、ライツ事業部部長も兼任する形となります。

現在は、株式会社 白泉社 代表取締役会長 鳥嶋和彦

2004年には集英社の取締役 第3編集部部長兼ライツ事業部部長となり、2006年7月まで、第3編集部部長職を務め、2008年にはの小学館集英社プロダクション取締役も兼任。

2009年には集英社の常務取締役。

2010年には専務取締役に就任。

2015年8月に退任するまで務めます。

そして、同月に白泉社の顧問に就任すると、その3ヶ月後の2015年11月に白泉社の代表取締役社長に就任します。

白泉社は集英社から枝分かれする形で1973年12月に設立され、資本金1000万円・従業員100名ほどの出版社です。

単体だけで、700名の従業員がいる集英社に比べると小回りが利く企業といえるかもしれません。

社長に就任した鳥嶋さんは、まず、社員ひとりひとりと面談をします。社員が何を考えながら仕事をしているか、そして将来のビジョンは何なのかを知るためです。そして、編集者を育成することに力を注ぐことにします。

編集者を育成すること=新人漫画家の育成に繋がるという考えからうまれているのでしょう。

また、鳥嶋さんが社長に就任してからの白泉社の求人サイトはちょっとぶっ飛んでいます。

大きくアピールされたのは〝たいじん〟を求めますという言葉。
これは、○○をしたい。○○になりたい。の〝たい〟を意味しますが、一見すると何だろうと思えます。
また、2019年度の採用では、ズバリ〝変〟がテーマでした。

鳥嶋和彦は経営者としても優秀!? 白泉社社長就任後、業績がアップしている!

鳥嶋和彦さんが白泉社の代表取締役社長に就任したのは、2015年11月でした。
この2ヶ月前に発表された2015年9月期の決算では、業績は売上高が93億9400万円でした。
それが、鳥嶋社長体制になってから、2016年9月、2017年9月と売上高は100億円台に回復しています。

2010年頃からは、売上高80~90億円台でウロウロしていましたので、鳥嶋社長の経営姿勢が数字にも表れているのではないかと思います。

ちなみに、2018年11月20日の白泉社の役員体制は以下のとおりです。
代表取締役社長:鳥嶋和彦
常務取締役:菅原弘文・馬場建輔
取締役:八巻健史・島田明・堀内丸恵
監査役:木川真希子
※堀内丸恵氏は集英社 代表取締役社長
(1951年10月山梨県富士河口湖町生まれ。成蹊大学法学部卒業後、75年集英社入社。週刊少年ジャンプ編集部に配属され、小林よしのりや秋本治の担当編集者となる。青年誌に異動後、スーパージャンプ編集長を経て、管理部門の管理職を経験。役員待遇、取締役、常務取締役、専務取締役を経て、2011年8月より社長。小学館の監査役も兼任)

ちなみに集英社の役員体制は

代表取締役社長:堀内丸恵
専務取締役:東田英樹
常務取締役:柳本重民・石渡孝子・高梨雄二・鈴木晴彦・廣野眞一・小林桂・茨木政彦
取締役:田中恵・村田登志江・渡辺隆・北畠孝幸・隅野叙雄・田中純
常勤監査役:木川真希子
監査役:相賀昌宏

でした。

2018年11月21日 株式会社 白泉社 代表取締役会長に就任

白泉社に移った鳥嶋和彦さんの社長任期は、当初から3年と決まっていました。
よって、2018年11月以降の去就が注目されていたのですが、11月21日付けで白泉社の代表取締役会長に就任されました。
代表取締役社長には、常務取締役を務められていた菅原弘文常務が昇格。
新任取締役には、高木靖文(デジタル事業部、キャラクタープロデュース部担当)
白岡真紀(第一編集部、第三編集部担当)
小見山康司(販売部、宣伝部、制作部担当)
の3名が就任。
柳沢仁さん(宣伝部、出版部、MOE編集部担当)が、役員待遇のポストに就かれました。

2020年11月27日 株式会社 白泉社 取締役相談役に就任

2020年11月27日に定時株主総会と取締役会が執りおこなわれ、新役員体制が決定しました。

鳥嶋さんは代表取締役会長を退任して、取締役相談役に就任されました。

代表取締役社長(全社統括):菅原弘文
専務取締役(管理部:総務部・経理部・編集総務部 営業部門:販売部・宣伝部・制作部・海外営業部・コンテンツビジネス部担当):馬場建輔
取締役(総務部・経理部・編集総務部担当兼総務部・経理部部長):八巻健史
取締役(第2編集部・宣伝部担当兼第2編集部・宣伝部部長):島田明
取締役(デジタル事業部・キャラクタープロデュース部担当兼デジタル事業部・キャラクタープロデュース部部長):高木靖文
取締役(第1・3編集部担当):白岡真紀
取締役(販売部・制作部・海外営業部担当兼販売部部長):小見山康司
取締役(出版部・MOE編集部・kodomoe編集部・コンテンツビジネス部担当兼MOE編集部・kodomoe編集部部長):柳沢仁
取締役:廣野眞一(集英社 代表取締役社長)
取締役相談役:鳥嶋和彦
監査役:恩穂井和憲

今後、鳥嶋さんは、自らの知名度を生かした対外的な仕事や新しいプロジェクトを立ち上げられるかもしれません。
また、社長・会長時代に行っておられた、後進編集者の育成に力を注がれるかもしれません。

鳥嶋和彦さんの今後にも注目をしていきたいと思います。

最後まで、拙い文章を読み続けてくださり、本当にありがとうございました。

ビジカジサブスク

公務員

地方公務員は美味しい職業か? その4

市役所課長補佐級 年間給与+時間外手当=年収1574万円

元市役所勤務のはる坊です。

公務員=楽に加えて、
高給だという声があります。

正確に言えば、仕事内容に給与が見合っていないということだと思います。

これはニュースになりましたが、2012年関東某市の課長補佐級の職員が、1年間で、1873時間の時間外勤務をして、783万円の残業手当を受け取っていた事実が確認されました。

ちなみに、この課長補佐級の年間給与は791万円だったそうです。
(これは、基本給・役職手当・扶養手当・地域手当等の合計で、残業は一切ない場合の年間収入です)

年間給与+時間外手当=1574万円
地方公務員で一番給与が高いであろう、東京都庁の職員でも、この年収に達するのは、部長級以上。局長級でしょう。
地方の市役所だと首長(市長)で、これくらいの年収ですから。

話を続けます。
この関東某市の時間外手当が異常であるとして、ネット上でも話題になりました。
ほぼ100%が非難する内容でした。

まあ、そうでしょうね。

それが普通の感覚だと思います。

課長補佐(課長代理)クラスで年収1500万円以上って、パッと思いつくのは、誰でも知っている金融機関が商社、マスコミ関係くらいです。
キーエンスだと、役職は別として、全従業員の平均年収は2000万円ですが。

この職員が、どの部署にいたのかが問題

さて、この問題ですが、この職員がどの部署にいたのか、ということが不明です。

市のコメントは「大震災の影響」だったようですが、もし、危機管理・防災関係の部署に配属されていたとすれば、これは納得せざるを得ない額です。

他の自治体でも、同じように時間外勤務をして、たまたま問題に発展しなかったケースもあるでしょうし、基本給の安いヒラ職員(主事)だったら、同じ時間外勤務をしていても、その手当はグッと少なかったはずです。

課長補佐級という自治体によって、管理職扱いにしているか、そうではないかが分かれている微妙な役職であったこともあるでしょう。

管理職扱いであれば、この職員の年収は791万円+管理職員特別勤務手当(1日につき6,7000円。最大でも1万円にいかない)だった。

しかし、当時「大震災の影響」は、関東の自治体ではどこも大きかったのも事実です。

だからといって、課長補佐級だからと時間外勤務をここまでさせるのも変だと思います。

他の職員にうまく仕事を振り分ければ、こんな問題に発展することもなかったでしょう。

それも、半管理職といえる課長補佐級の仕事のうちです。

人件費のコスト感覚のなさが、露呈した事件だった。

そういえると思います。

米国MBA取得は遠い夢ではなくなりました

日本にいながらアメリカのマサチューセッツ州立大学MBA(経営学修士号)が最短2年で取得できます。
『本物のMBA』の証といわれるAACSB国際認証を受けているプログラムです。

米国私立大学のAACSB国際認証MBAプログラムを修了するには、学費・現地滞在費を含めて1000万円以上の費用が必要となります。
それに対して、このマサチューセッツ州立大学MBAプログラムは、入学から卒業までに必要な学費が、トータルで約290万円からとなっています。
この学費で最大5年間在籍・履修できます。

本当に、完全オンラインで留学は不要で入学手続きも簡単です。
まずは、卒業生(修了生)の声を聞いてみてください。

完全オンラインで米国MBAを取得 マサチューセッツ大MBA



公務員は高給か? 公務員の給与は基本的に年功序列です。

話は、最初に戻ります。
私がそう問われれば、「まあ、2000年過ぎまでは、そうでした」と答えます。

「給食のおばさんが年収800万円」

「みどりのおばさんが年収800万円」

こんな文句がネットに載っています。

私が知っている限り、
15年前、給食調理員にこれだけの年収があったのは事実です。

いや、むしろ+100万円くらいはありました。

いや給食調理員だけではありません。

まったく働かないおじさん職員にも、50歳で年収800万円以上が支払われていました。

公務員の給与は年功序列です。
職場に来ていれば、何の役に立たなくても、50代で年収800万円以上は、ヒラ職員でもあたりまえの数字でした。

ヒラ職員でもこれだけもらえるなら、課長や部長はもっとすごいんだろうと想像されるかもしれませんが、それがそうでもありませんでした。
課長で年収1000万円を超える程度。部長で年収1200万円ほど。

役所でもっとも責任がなく一番高収入だったのは、出世を望まないが有能で仕事を任されしっかりと残業代を稼ぎまくるヒラ職員でした。

現在は、給与に関しては、かなり是正されていますが、公務員批判が、現在に至るまで存在するのも、その理由として、過去に、民間とは大きく掛け離れた給与の配分があったことだけは、間違いのない事実だと思います。

公務員の給与について、さらに掘り下げます。

私は市役所を退職してから10数年が経過していますが、在職中に仲の良かった同期や先輩、後輩とは、まだ付き合いがあります。

また、在職中に知り合ったコッパンと呼ばれる国家一般職や国税専門官などとも付き合いがあります。
ですので、現在、公務員の給与や年収というものがどれくらいかは知っています。

公務員のボーナスについて 管理職は除く??

年に2回、公務員の金銭事情について、新聞やテレビ、ネットで報道がなされます。

ネットでは、国(多くの地方自治体もですが)が赤字なのに、公務員にボーナスを支給するのは許せないという冗談なのか本気なのかわかりませんが、やりきれなさをぶつけた書き込みを目にします。

その日は、6月30日と12月10日。
この日が土日祝日であれば、その直近の平日(金曜が多いです)にニュースが流れます。

「今日、国家公務員にボーナス(期末・勤勉手当)が支給されました。管理職を除く一般行政職(平均年齢)の平均支給額は○○万○○○○円で昨年の夏(昨年の冬)より○.○%アップ・・・・・・」

公務員に限らず、民間企業にお勤めの方も、

「報道しているアンタのほうが、もっともらってるだろ!」

と感じられるでしょうが、ちなみに、2018年12月の国家公務員のボーナスは約71万円

人事院勧告に従い、年間4.4ヶ月分から4.45ヶ月分にアップしましたが、平均年齢が下がった為、微減となりました。

基本給によりますが、同年4月から遡って追加支給される基本給引き上げ分と併せると、少なくとも、あと数万円は年収ベースでプラスでしょう。

1日10分間×90日間で株式投資の知識をゼロから学んでみませんか。
スキマ時間をうまく利用して身に付けた知識は一生モノになりますよ。



なぜ、公務員は管理職のボーナス支給額を公表しないのか? その理由は・・・

さて、報道される公務員のボーナス額ですが、管理職を除くとなっています。

これはなぜか?

これは、管理職を含めてしまうと大幅にアップした数字になることを恐れてのことでしょう。

当然、管理職のボーナス支給額は非管理職より大きくなります。

管理職のボーナスには、役職によって5%~20%の割増がなされます。

また、管理職手当がボーナスを計算する際に含まれます。(これは自治体によって含まないところもあります)

この場合、仮にボーナスが2ヶ月分だとしても、非管理職と管理職では次のように差が生まれます。

◎例ですので、基本給は2万円差・管理職手当は5万円・地域手当は10%で、家族手当はナシで計算します。

○非管理職のAさん

基本給280,000円+地域手当28,000円=308,000円

330,000×2.2ヶ月分=677,600円

○管理職のBさん

基本給300,000+管理職手当50,000+地域手当35,000円=385,000円

385,000×(2.2ヶ月分×10%割増)=931,700円

やはり、管理職も含めると、平均額が大幅に上がることだけは間違いなく、管理職も含んだボーナス額が報道されると、風当たりが一層キツくなりそうですね。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

最後に、あなたが公務員試験を受験しようとされている方なら、ここだけは聞いておいてください

『公務員試験』対策なら法律資格・公務員試験専門の受験指導校・伊藤塾!

もし、あなたが公務員試験を受験しようとされているなら、しっかりと目標を見定めて実績のあるプログラムで勉強をしたほうが、しっかりと夢に近づけますよ。

やはり、ただの独学では得られない、長年蓄積されたノウハウや一番効率のいい教育プログラムとは無視することができないと感じます。

最近では、安い受講料と手軽な受講方法をうたう業者も増えていますが、実際の合格数を見るとまったく比較になりません。

公務員採用後に得られる収入を考えれば、多少高くともしっかりした学習方法で能率よく学習して、一発合格をするほうがよいにきまっています。

また、本気で公務員になりたい仲間と一緒に勉強できることは、あなたにとって大きな刺激になります。

さらに、合格後・採用後に、同じ自治体に一緒に勉強して気心が知れた仲間がいれば、心強いですよ。

あなたの『公務員になりたい!』という思いを、心から信じています。



⇒(新しいタブが開きます)こちら『はる坊の雑記』地方公務員関連記事 整理ページです。

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その2

西村寿行 小説家デビュー

1973年(昭和48年)2月、西村寿行のデビュー作瀬戸内殺人海流が、サンケイ出版より出版されました。

42歳での小説家デビューです。

9月には第2作安楽死が出版され、翌年には第27回日本推理作家協会賞の候補に挙げられます。

※『安楽死』は2018年8月に角川文庫から復刊されています。

西村寿行の小説を読んだことのある方なら、〝男根さま〟〝後背位〟〝尻〟〝人妻〟〝ジーパン人妻〟がやたら出てくる、「ああいう小説か」と思われるかも知れませんが、作家生活前半の西村作品には、そんな言葉はほとんど出てきません。

受賞したのは、1973年内に上巻204万部・下巻185万部を売り、当時大ベストセラーとなった小松左京の『日本沈没(上下)』でしたが、

選考委員の評を読む限りでは、次点といったところで、一定以上の評価を受けています。

本格的に作家デビューとなったこの年の年収は250万円。
ちなみに、この年の大卒初任給は62,300円です。

翌1974年(昭和49年)には、第3作屍海峡が刊行され、出版業界では、〝新進の推理小説家〟と呼ばれ始めます。
この年の収入は1,200万円となり、デビューした1年前より大幅にアップします。

しかし、西村寿行のなかでは違和感と悩みが生まれていました。

『推理小説家になりたかったわけではない』
『推理小説家と呼ばれたところでしっくりこない』

そして、『トリックというものが性に合わない』

そんな折りに、西村は直木賞作家・生島治郎からアドバイスを受けます。

「冒険小説を書いてはどうか」

生島治郎は、早大英文科を卒業後、早川書房にて編集者を務め、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』編集長を経て、退社。
『傷痕の街』で作家デビュー後、『追いつめる』で直木賞を受賞。
『黄土の奔流』などで、ハードボイルド小説の書き手として活躍。
『兇悪』シリーズが、天知茂主演のテレビドラマ『非情のライセンス』の原作になるなど、人気作家として名を轟かせる一方、大沢在昌を見出すなど、才能を見出す力にも秀でていました。
また、韓国籍のソープランド嬢との結婚を題材にした『片翼だけの天使』の作者としても有名です。

出世作『君よ憤怒の河を渉れ』誕生

西村寿行は生島のアドバイスに従い、手にした印税で山中に建つ一軒家の一角を借りて、大量の資料を持ち込んで、一心に冒険小説を書きます。
そして、彼の運命を変える『君よ憤怒の河を渉れ』は完成しました。

西村は書き上げた原稿を手に、講談社を訪れます。
早速、作品を読んだ編集者からは、〝作品が荒削りであり、荒唐無稽な箇所もあるので、もう一捻りして欲しい〟と指摘を受けます。

しかし、自分の作品に絶対の自信があったのか、西村は原稿を直すことなく、今度は徳間書店を訪れます。

作品を読んだ『問題小説』編集長は、荒削りな作品であることを承知で、そのまま『問題小説』に掲載します。

掲載されると、作品は大いに反響を呼び、刊行されたノベルス(新書版)『君よ憤怒の河を渉れ』はベストセラーとなります。
ノベルスと文庫を合わせて、最終的には発行部数70万部を記録しました。

ただ、デビューから数年がたっただけの西村の作品を、西村寿行選集(NISHIMURA HARD-ROMAN SERIES)と銘打って大々的に売り出したのも、当時大きな効果があったのでしょう。

ちなみにこの選集は、他社から刊行された本も、徳間書店が二次的にノベルスで発売を続け、1999年に発行された『鷲』『涯の鷲』まで全112冊に及びました。

また、続けて徳間書店から『蒼き海の伝説』も刊行。

いままでの書き下ろし一辺倒から、短編小説の雑誌掲載依頼も出版社から来るようになり、1975年分の年収は一気に4,400万円にアップ。

中野区上高田のマンションに仕事場を構えます。
順調な作家生活が始まりました。

西村寿行の活躍が始まる

1976年に入ると、角川書店から前年の終わりに野性時代誌上に一挙掲載された化石の荒野が刊行されます。(のちに渡瀬恒彦主演で映画化されます)
ストーリーはまったく違いますが、『化石の荒野』は『君よ憤怒の河を渉れ』を大幅にブラッシュアップした印象を受けます。

そして、この後の作品群で見受けられる設定や構成が決定的なものになるのも、この作品からです。
西村寿行自身もこの作品を気に入っていたのでしょう。
あとがきでは「ぼくのデビュー作」とまで言い切っています。

これもベストセラーとなり、西村寿行は、〝推理小説家〟ではなく〝新進気鋭のハードボイルド作家〟と見なされるようになります。
(〝ハードロマン〟という呼び方はまだ浸透していませんでした)

1976年(昭和51年)に刊行された本

この年には、前述した化石の荒野の他に、『娘よ、涯なき地に我を誘え』(78年に『犬笛』に改題)『幻の白い犬を見た(短編集)』『滅びの笛』『牙城を撃て(上)』『牙城を撃て (下)』『原色の蛾(短編集)』を刊行。

スポーツ新聞連載、小説雑誌連載・掲載が相次ぎ、執筆量が大幅に増加します。
この当時、西村寿行の月産枚数は原稿用紙900枚と報じられました。

1976年度分の年収は8,800万円。

まさに、倍々ゲーム。
仕事場も、新宿区と渋谷区の境に建ったばかりのマンション最上階に移します。

7月には、ニホンオオカミを題材に取った短編『咆哮は消えた』で第75回直木賞候補に挙げられます。
落選こそしましたが、当時の選評を読む限りでは、源氏鶏太・水上勉・柴田錬三郎からは好感を得ています。
※参照 オール讀物 1976年9月号

1977年(昭和52年)に刊行された本

咆哮は消えた(短編集)』『妄執果つるとき』『帰らざる復讐者 』『汝!怒りもて報いよ(上)』『汝!怒りもて報いよ (下)』『魔の牙』『魔笛が聴こえる』『荒涼山河風ありて』『悪霊の棲む日々』『白骨樹林』『双頭の蛇(短編集)』『往きてまた還らず(上)』『往きてまた還らず(下)を刊行。

1977年には更なる活躍を見せ、毎月の執筆枚数は400字詰め原稿用紙で800~1000枚。
急激に読者の人気を得ていきます。
西村寿行の専売特許ともいえる〝ハードロマン〟という言葉も浸透し始めました。

1月に『滅びの笛』で第76回直木賞、7月には、『魔笛が聴こえる』で第77回直木賞候補に挙げられます。

新聞や雑誌に連載され本にまとまったとき、連載時と文章を比較すると、しっかりと著者校正作業をおこなっていたのが分かります。

しかし、執筆量が大幅に増えて、ひとつひとつの作品の細部にまで、目が届かなくなっていったこともあったでしょう。
急激な西村寿行作品の人気上昇を面白く思わない選考委員も存在したと思います。

選考委員の意見は、「着想は面白いが雑」「荒唐無稽」「劇画的」と否定的になり、いずれも落選の憂き目に遭います。
※参照 オール讀物 1977年4月号・1977年10月号

西村は3度目の直木賞落選のあと、文藝春秋に「もう候補にしてくれるな」と断り状を出しています。

この断り状のタイミングが不明なのですが、77年の年末に、78年1月に選考が行われる第78回直木賞候補に自作が挙げられるのを知って、断り状を出したのであれば、どの作品が候補に挙がることになったのかは、気になるところです。

1980年に受けたインタビューで、“「どこの賞も候補になるのは断っている。」”と発言しています。
参照:「データバンクにっぽん人 西村寿行」週刊現代1980年5月22日号

日本推理作家協会賞や、雑誌の企画で誌上にて手紙のやり取りをした五木寛之が仕掛け人となった泉鏡花文学賞。
それに、この年に始まった日本SF大賞の候補打診があったのかもしれません。

しかし、このインタビューでは、こんな思いも漏らしています。

“「でも、同業者が選ぶ賞は欲しくないが、前に小説現代がやっていたような読者賞ならいい。」”

西村が触れているのは『小説現代ゴールデン読者賞』のことです。

この賞は、読者の投票によって決まる賞で、1970年~1975年まで続きました。
受賞者は以下の通りです。

第1回 笹沢佐保『見返り峠の落日』
(推理小説から時代小説に初めて挑戦し、『木枯し紋次郎』の原型となった作品です)

第2回 梶山季之『ケロイド心中』
(被爆と性をテーマにした短編です。発表当時には各所から猛抗議を受けたようですが、彼自身、広島に深い縁があり、原爆被災資料の刊行に資金援助をした人物でもありました)

第3回 松本清張『留守宅の事件』
(短編集『証明』に収められている一編です。ここではネタバレはしません)

第4回 野坂昭如『砂絵呪縛後日怪談』
(本人のイメージと異なる江戸を舞台にした時代小説です。執筆にあたって柴田錬三郎から「江戸の夜は暗かった。女のほうが強かった」という短いアドバイスをもらって書き上げたというエピソードがあります)

第5回 池波正太郎『殺しの四人』
(『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶ人気シリーズ『仕掛人 藤枝梅安』の一編で、「おんなごろし」に次ぐ梅安シリーズの2作目です)

第6回 井上ひさしいとしのブリジット・ボルドー
(東北の旧家で発見された1800年代中盤のボルドーワインを巡る騒動を描いています。笑い・ユーモアはすごいと思います)

こうやってリストアップしてみると、小説の読者は、いい小説を選んでいるなとつくづく思います。

1977年度の年収は1億5,000万円。
前年度から更に倍増します。

⇒アマゾンのKindleでは、電子書籍のキャンペーン実施中で、西村寿行作品が270円から読めます。

⇒西村寿行の勢いは留まることを知りません。更に読者の人気を得ていきます、そしてついに・・・
その3に続きます。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その3