年収

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

1970年代の話

1968年(昭和43年)主要国公立・私立大学入試難易度 偏差値代わりの難易度別18分類一覧表まとめ

1968年(昭和43年)大学入試難易度 偏差値に代わりに18分類一覧表をまとめました

はる坊です。

これまで、大昔の大学入試偏差値について、1972年(昭和47年)と1976年(昭和51年)の大学偏差値一覧表を掲載しました。
(各年のリンクを一番下に設けております)

今回ご紹介するのは、1968年(昭和43年)入試の大学難易度です。
残念ながら、偏差値ではなく18分類で難易度が示されています。

難易度は、1上位~6下位まで18段階です。

ニュースソースは、新宿高等予備校・駿台高等予備校・一橋学院・武蔵高等予備校・代々木ゼミナール・早稲田ゼミナール・早稲田予備校・大阪アベノYMCA学院大学予備校・近畿予備校などのデータから抽出されたものです。

当時の受験生は、現役生で1949年(昭和24年)~1950年(昭和25年)生まれの方になります。
現在は69~70歳。

ギリギリで『団塊の世代』に掛かっています。

ちょっと、頭の片隅に入れておきたいデータ

この年の18歳人口は236万人(出典:18歳人口と高等教育機関への進学率等の推移 – 文部科学省)

このうち大学進学率は19.2%。
現役生・浪人生を併せて、大学受験に臨んだのは83万人といわれています。

お金のほうに目を移しますと、国立大学の年間授業料は12,000円
対する私立大学の年間授業料は、平均ですが文系で74,100円、理系で99,800円
随分と差があります。(出典:年次統計)

国公立大学の難易度が私立大学に比べて格段に高い理由は頷けます。
国公立大学が絶対的に優位な時代だったことが読み取れます。

私立大学の動きとしては、早稲田大学・慶應義塾大学に次いで上智大学が人気を集め、学生運動が華やかな頃であった為、学生運動にあまり関わりの少なかった成蹊大学や武蔵大学といったごぢんまりとした大学が見直された時期でもあるようです。

また、関西では学費の安さを武器に立命館大学の人気が上がってきた頃でもあります。

1968年の社会で身近な出来事としては、

・日清食品が『出前一丁』を、大塚食品が『ボンカレー』を、明治製菓『カール』をサンヨー食品が『サッポロ一番 みそラーメン』をそれぞれ発売開始。

・『ビッグコミック』『週刊少年ジャンプ』創刊。

・トヨタ自動車がコロナマークIIを発売開始。

・いすゞ自動車が117クーペを発売開始。

・川端康成がノーベル文学賞を受賞。

・東京都府中市で、迷宮入りとなった三億円強奪事件が発生。
・和田アキ子デビュー。

という年でした。

それでは、1968年の大学難易度ランキング表をご覧ください。

1968年(昭和43年)入試 国公立文科系大学難易度ランク一覧表

国公立大学文科系難易度 1上位ランク

東京大学文科一類 

東京大学文科二類 

国公立文科系難易度 1中位・下位ランクとも該当なし

国公立大学文科系難易度 2上位ランク

東京大学文科三類

一橋大学商学部

一橋大学大学経済学部

一橋大学法学部

お茶の水女子大学文教育学部

京都大学法学部

京都大学経済学部

国公立大学文科系難易度 2中位ランク

東京外国語大学外国語学部

大阪大学法学部

大阪大学経済学部

国公立大学文科系難易度 2下位ランク

東北大学法学部

東北大学経済学部

一橋大学社会学部

お茶の水女子大学家政学部

京都大学文学部

九州大学法学部

九州大学経済学部

国公立大学文科系難易度 3上位ランク

北海道大学文類

東京教育大学教育学部

横浜国立大学経済学部

横浜国立大学経営学部

名古屋大学経済学部

大阪外国語大学外国語学部

神戸大学経済学部

国公立大学文科系難易度 3中位ランク

千葉大学文理学部

東京教育大学文学部

東京都立大学人文学部一部

東京都立大学法学部一部

東京都立大学経済学部一部

横浜市立大学商学部

横浜市立大学文理学部

神戸大学経営学部

国公立大学文科系難易度 3下位ランク

小樽商科大学商学部

埼玉大学経済学部

神戸大学法学部

国公立大学文科系難易度 4上位ランク

滋賀大学経済学部

神戸商科大学商経学部

国公立大学文科系難易度 4中位ランク

大阪市立大学経済学部一部

国公立大学文科系難易度 4下位ランク

大阪市立大学法学部一部

1968年(昭和43年)入試 国公立理工科系大学難易度ランク一覧表

国公立大学理工科系難易度 1上位ランク

東京大学理科一類

東京大学理科二類

東京大学理科三類

国公立大学理工科系難易度 1中位ランク

京都大学医学部

国公立大学難易度 1下位ランク

京都大学工学部

国公立大学理工科系難易度 2上位ランク

東北大学医学部医学科

東京医科歯科大学医学部

東京工業大学工学部

東京工業大学理学部

京都大学理学部

大阪大学医学部

国公立大学理工科系難易度 2中位ランク

北海道大学医学部進学課程

東北大学工学部

千葉大学医学部

千葉大学工学部

お茶の水女子大学理学部

大阪大学理学部

九州大学医学部

国公立大学理工科系難易度 2下位ランク

北海道大学理類

東京教育大学理学部

横浜市立大学医学部

新潟大学医学部進学課程

京都大学農学部

岡山大学医学部進学課程

九州大学工学部

国公立大学理工科系難易度 3上位ランク

群馬大学医学部進学課程

東京都立大学理学部一部

東京都立大学工学部一部

横浜国立大学工学部

金沢大学医学部進学課程

名古屋大学工学部

大阪大学基礎工学部

大阪大学工学部

広島大学医学部進学課程

国公立大学理工科系難易度 3中位ランク

埼玉大学理工学部

電気通信大学電気通信学部

東京農工大学工学部

京都工芸繊維大学工芸学部

国公立大学理工科系難易度 3下位ランク

東京医科歯科大学歯学部

新潟大学工学部

金沢大学工学部

奈良女子大学理学部

広島大学工学部

国公立大学理工科系難易度 4上位ランク

茨城大学工学部

群馬大学工学部

東京農工大学農学部

1968年(昭和43年)私立大学文科系難易度 ランク一覧表

※3上位ランクからスタートです。

私立大学文科系難易度 3上位ランク

慶應義塾大学経済学部

早稲田大学政治経済学部

3中位ランクに該当する大学はありません

私立大学文科系難易度 3下位ランク

上智大学外国語学部

国際基督教大学(ICU)教養学部

津田塾大学学芸学部

私立大学文科系難易度 4上位ランクに該当する大学はありません

私立大学難易度 4中位ランク

慶應義塾大学法学部

早稲田大学法学部

早稲田大学商学部

私立大学文科系難易度 4下位ランク

慶應義塾大学文学部

慶應義塾大学商学部

上智大学外国語学部

早稲田大学第一文学部

東京女子大学文理学部

同志社大学法学部

同志社大学経済学部

関西学院大学経済学部

私立大学文科系難易度 5上位ランク

上智大学経済学部

中央大学法学部

早稲田大学教育学部

同志社大学文学部

同志社大学商学部

関西学院大学法学部

私立大学文科系難易度 5中位ランク

上智大学法学部

明治大学商学部

立教大学経済学部

立命館大学法学部

関西学院大学文学部

関西学院大学社会学部

関西学院大学経済学部

私立大学文科系難易度 5下位ランク

青山学院大学文学部

青山学院大学経済学部

青山学院大学法学部

学習院大学経済学部

中央大学商学部

法政大学経済学部

明治大学政治経済学部

私立大学文科系難易度 6上位ランク

青山学院大学経営学部

学習院大学法学部

学習院大学文学部

中央大学経済学部

明治大学法学部

立教大学文学部

武蔵大学経済学部

日本女子大学文学部

日本女子大学家政学部

私立大学文科系難易度 6中位ランク

成蹊大学政治経済学部

立教大学社会学部

立教大学法学部

1968年(昭和43年)私立大学理工科系難易度 ランク一覧表

※2上位ランクからのスタートです。

私立大学理工科系難易度 2上位ランク

慶應義塾大学医学部

私立大学理工科系難易度 2中位ランク

早稲田大学理工学部

私立大学理工科系難易度 2下位ランク

該当大学なし

私立大学理工科系難易度 3上位ランク

慶應義塾大学工学部

私立大学理工科系難易度 4上位ランク

東京医科大学医学部進学課程

日本医科大学医学部

同志社大学工学部

関西学院大学理学部

私立大学理工科系難易度 4中位ランク

上智大学理工学部

東京女子医科大学医学部進学課程

東京歯科大学歯学部進学課程

私立大学理工科系難易度 4下位ランク

立命館大学理工学部

私立大学理工科系難易度 5上位ランク

該当大学なし

私立大学理工科系難易度 5中位ランク

成蹊大学工学部

中央大学理工学部

日本大学理工学部

私立大学理工科系難易度 5下位ランク

青山学院大学理工学部

明治大学工学部

最新大学・高校・高専・中学校偏差値データ

【2020年版】SAPIX(サピックス)が発表した 首都圏中学入試 合格率80%偏差値一覧表

2020 SAPIX(サピックス)が発表した 首都圏中学校 偏差値一覧表

はる坊です。

2020年の中学入試に向けた戦いは、まさに真っ最中です。
SAPIX(サピックス)が2019年4月に首都圏の国立・公立・私立中学校の偏差値を発表しました。

これは、2019年入試において、該当する偏差値において80%のSAPIX生が合格した数値です。

偏差値をみていきますと、〝御三家〟〝女子御三家〟〝早慶〟でも偏差値60台が多く見受けられますが、SAPIXに通っている生徒の学力レベルを考えると、この一覧表・ランキングで偏差値60であっても、かなりの学力を有しています。
最大限の努力×一番正しい勉強法を身に付けないと、合格はおぼつかないでしょう。

私はSAPIXの回し者ではありませんが、この偏差値表の最後に、2019年のSAPIX生の合格実績リストをご用意しました。

2020年の中学入試のご参考に、一助となれば幸いです。

お子さまの第一志望校合格を、心から祈念いたしております。
合格したという経験は、お子さま自身が将来に向けて、何より大きな自信を持つことになります。

自信を持たせるのではなく、自らが自身に自信を持つ。
これは大きな違いがあります。

それでは、偏差値ランキングをみていきましょう。

2020 中学受験SAPIX 首都圏中学校 男子 偏差値一覧表

偏差値70以上

筑波大学附属駒場中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:70

偏差値60~69クラス

開成中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:67

聖光学院中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:64

渋谷教育学園幕張中学校 1次
2019年入試日程:1月22日
偏差値:64

渋谷教育学園幕張中学校 2次
2019年入試日程:2月2日
偏差値:64

渋谷教育学園渋谷中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:63

栄光学園中学校
2019年入試日程:2月2日
偏差値:62

早稲田中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:62

麻布中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:62

海城中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:61

筑波大学附属中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:61

栄東中学校 東大I
2019年入試日程:1月12日
偏差値:61

東京都立小石川中等教育学校 一般枠
2019年入試日程:2月3日
偏差値:60

偏差値:50~59クラス

海城中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

駒場東邦中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

慶應義塾湘南藤沢中等部(SFC)一般
2月2日
偏差値:58

慶應義塾中等部
2019年入試日程:2月3日
偏差値:58

慶應義塾普通部
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

早稲田中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

武蔵中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

昭和学院秀英中学校 午後特別
2019年入試日程:1月20日
偏差値:58

渋谷教育学園渋谷中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:57

浅野中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:57

早稲田大学高等学院 中学部
2019年入試日程:2月1日
偏差値:56

本郷中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:56

開智中学校 先端特待
2019年入試日程:1月11日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:56

桐朋中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:55

攻玉社中学校 2回
2月2日
偏差値:55

早稲田実業学校 中等部
2月1日
偏差値:55

広尾学園中学校 1回
2月1日
偏差値:55

市川中学校 1回
1月20日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 後期
2月3日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 前期
1月21日
偏差値:54

芝中学校 1回
2月1日
偏差値:53

昭和学院秀英中学校 3回
2月2日
偏差値:52

逗子開成中学校 1次
2月1日
偏差値:51

立教新座中学校 1回
1月25日
偏差値:51

昭和学院秀英中学校 2回
1月22日
偏差値:51

サレジオ学院中学校 A
2月1日
偏差値:50

鎌倉学園中学校 2次
2月2日
偏差値:50

2020 中学受験SAPIX 首都圏中学校 女子 偏差値一覧表

偏差値:60~64クラス

渋谷教育学園幕張中学校 1次
2019年入試日程:1月22日
偏差値:64

渋谷教育学園幕張中学校 2次
2019年入試日程:2月2日
偏差値:64

渋谷教育学園渋谷中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:63

慶應義塾中等部
2019年入試日程:2月3日
偏差値:63

桜蔭中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:62

豊島岡女子学園中学校 2回
2月3日
偏差値:62

栄東中学校 東大特待I
2019年入試日程:1月12日
偏差値:61

女子学院中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:61

筑波大学附属中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:61

慶應義塾湘南藤沢中等部(SFC)一般
2019年入試日程:2月2日
偏差値:60

渋谷教育学園渋谷中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:60

豊島岡女子学園中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:60

偏差値:50~59クラス

昭和学院秀英中学校 午後特別
2019年入試日程:1月20日
偏差値:58

お茶の水女子大学附属中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:58

早稲田実業学校中等部
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

東京都立小石川中等教育学校 一般枠
2019年入試日程:2月3日
偏差値:58

雙葉中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

鴎友学園女子中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:57

洗足学園中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:57

開智中学校 先端特待
2019年入試日程:1月11日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:56

フェリス女学院中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:56

浦和明の星女子中学校 1回
2019年入試日程:1月14日
偏差値:56

横浜共立学園中学校 B
2019年入試日程:2月3日
偏差値:56

広尾学園中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:55

市川中学校 1回
2019年入試日程:1月20日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 後期
2019年入試日程:2月3日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 前期
2019年入試日程:1月21日
偏差値:54

吉祥女子中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:54

青山学院中等部
2019年入試日程:2月2日
偏差値:54

洗足学園中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:54

白百合学園中学校
2019年入試日程:2月2日
偏差値:54

学習院女子中等科 B
2019年入試日程:2月3日
偏差値:53

昭和学院秀英中学校 3回
2019年入試日程:1月22日
偏差値:52

吉祥女子中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:52

昭和学院秀英中学校 2回
2019年入試日程:1月22日
偏差値:51

東京学芸大学附属世田谷中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:51

東洋英和女学院中学部 B
2019年入試日程:2月3日
偏差値:51

学習院女子中等科 A
2019年入試日程:2月1日
偏差値:50

頌栄女子学院中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:50

SAPIX 2019年 全国中学入試合格者数一覧表

※首都圏だけではなく、関西圏の合格実績も見ていただきたいと考え、五十音順にしております。

東大を始め、国公立・私立医学部に合格者を多数出している学校。
そして今後、難化が予想される早慶・MARCHクラスの附属中学校にも、多くの生徒が合格していることがわかります。

浅野中学校
合格者数:236名

麻布中学校
合格者数:183名

足立学園中学校
合格者数:6名

栄光学園中学校
合格者数:128名

大阪星光学院中学校
合格者数:4名

海城中学校
合格者数:262名

開成中学校
合格者数:273名

海陽中等教育学校
合格者数:24名

学習院中等科
合格者数:73名

鹿児島県立楠隼中学校
合格者数:2名

鎌倉学園中学校
合格者数:86名

暁星中学校
合格者数:38名

慶應義塾普通部
合格者数:107名

京華中学校
合格者数:5名

攻玉社中学校
合格者数:126名

佼成学園中学校
合格者数:9名

甲南中学校
合格者数:3名

甲陽学院中学校
合格者数:8名

駒場東邦中学校
合格者数:169名

サレジオ学院中学校
合格者数:90名

静岡聖光学院中学校
合格者数:9名

芝中学校
合格者数:175名

芝浦工業大学附属中学校
合格者数:13名

城北中学校
合格者数:136名

城北埼玉中学校
合格者数:67名

巣鴨中学校
合格者数:192名

逗子開成中学校
合格者数:96名

聖学院中学校
合格者数:3名

聖光学院中学校
合格者数:225名

成城中学校
合格者数:57名

世田谷学園中学校
合格者数:163名

高輪中学校
合格者数:76名

筑波大学附属駒場中学校
合格者数:73名

東海中学校
合格者数:3名

東京都市大学付属中学校
合格者数:344名

桐光学園中学校男子部
合格者数:13名

東大寺学園中学校
合格者数:8名

桐朋中学校
合格者数:141名

藤嶺学園藤沢中学校
合格者数:7名

獨協中学校
合格者数:27名

名古屋中学校
合格者数:1名

灘中学校
合格者数:31名

日本大学豊山中学校
合格者数:11名

日本学園中学校
合格者数:2名

函館ラ・サール中学校
合格者数:155名

北嶺中学校
合格者数:35名

本郷中学校
合格者数:254名

武蔵中学校
合格者数:55名

明治大学付属中野中学校
合格者数:69名

明星中学校(大阪)
合格者数:3名

横浜中学校
合格者数:4名

ラ・サール中学校
合格者数:20名

洛星中学校
合格者数:3名

立教池袋中学校
合格者数:30名

立教新座中学校
合格者数:167名

六甲学院中学校
合格者数:4名

早稲田中学校
合格者数:206名

早稲田大学高等学院中学部
合格者数:57名

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その5

預金証書を武器にノンバンクから巨額の金を獲得する

はる坊です。

その4では、杉山治夫がどのように金融債権を回収していたか、そして、限りなく残酷にみえる杉山の意外な一面、そしてバブル期の不動産への進出についてご紹介しました。

続いて、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

杉山の新たな標的、それはノンバンクでした。

ノンバンクは百戦錬磨の杉山にとって、格好の狩り場となったのです。

ノンバンクは銀行に比べて、貸す相手の身元審査も緩く、融資可能と判断すればドンドン金を貸しました。

担保としては土地が一番確かですが、杉山がおこなったのは、〝銀行預金証書〟による巨額の〝パクリ〟でした

時は、バブル経済期、金あまりで融資先を血眼で探していたノンバンクは、杉山にとって、赤子を捻るような存在でした。

もちろん、杉山は詐欺罪に問われないように、合法・非合法スレスレに身を置いて、完全金融犯罪を目論みます。

杉山がまず取り込んだのは、銀行員でした。

高額の給与を得ている彼らですが、毎日のように億単位の融資話が決まっていく中で、自らの収入に不満を持っていることに、目を付けたのです。

そんな不満を抱えている銀行員を、杉山は口八丁で持ち上げ、酒と女性の接待を繰り返して、取り込んでいきます。

すっかり杉山の忠実な僕と化した銀行員は、支店長に、杉山グループの信頼度や将来性を吹き込んで、大型の貸付先として有望であると吹き込みます。

無論、杉山もその支店に相当額の預金をおこないます。

そうすると、支店長との付き合いも始まります。
すでに、手先となっていた銀行員から、支店長の個人情報を掴んでいた杉山は、接待に加えて、封筒に入れた100万円の裏金を渡します。

最初は、淡々と杉山に接していた支店長も、度重なる接待とその都度渡される裏金によって、杉山に取り込まれていきます。

3ヶ月が過ぎると、支店長の金銭感覚も狂いはじめ、杉山の裏金を頼りにするようになりました。

そこからが、杉山の本領が発揮されるときです。
預金証書を多めに作ってくれるよう、耳元に囁くのです。

一瞬は、躊躇する支店長ですが、一度くらいはいいかという気持ちで、翌日には、預金証書を杉山に渡すことになります。
これから、杉山の餌食となることも知らずに・・・

預金証書を偽造して、それを担保にノンバンクから金を借り、それがバレれば即逮捕ですが、杉山は本物の預金証書を、現役の銀行員に用意させていたのです。

その預金証書の金額は、実際の預金証書の数百倍の額が記入されていました。

杉山は、この預金証書を担保に、ノンバンクから巨額の融資を受けます。

利子の返済はすべて手形によっておこないました、最初は500万円程度、そしてノンバンクからの信用度を深める為に、1000万円、2000万円、3000万円、5000万円と額を上げていきます。

ノンバンクの金利は銀行に比べて高額ですが、杉山はこの金利を気前よく払います。ノンバンクの幹部にも、杉山は例の接待攻勢で近付いていきます。

杉山率いる杉山グループの傘下企業は無数に存在しました。

その傘下企業に銀行の預金証書を担保にノンバンクからどんどん融資をさせていったのです。

やがて、銀行の支店長からは泣きが入ります。
これ以上、預金証書の件は、勘弁して欲しいと。

ここで杉山は本性を現して、支店長に預金証書をドンドン持ってくるように迫ります。

いつのまにか、杉山との立場が完全に逆転していたことを知った支店長は青ざめながら、あらためて自分の置かれた地位が断崖絶壁にあることを悟ります。

支店長は、杉山のいいなりになる駒に過ぎなくなっていました。

杉山グループ傘下の企業は、ほとんどが実態の経営状態にないダミー企業でした。

あるとき、そのダミー企業群から相次いで不渡り手形が乱発されます。

1989年、総額1200億円の巨額の不渡り手形を出して、ダミー企業はどんどん偽装倒産をしていきました。

杉山は、1200億円の巨額資産を得たことになります。

被害にあったノンバンクは20数社に及ぶと杉山は語っていますが、杉山自身にどこまで良心の呵責があったかどうか。

この件に関しては、羊が狼に喰われるのはあたりまえだと思っていたと感じます。

大阪の女相場師と呼ばれた料亭経営者・尾上縫との違い

バブル経済期に、大阪で女相場師と呼ばれた尾上縫という女性がいました。

1930年に奈良県で生まれていますが、生い立ちは貧しいものでした。

結婚生活にも破れ、料亭の仲居として過ごす中で、関西の有力財界人のお眼鏡に叶い、自分の料亭を構えるまでになります。

尾上は、一介の料亭の女将でしたが、博才のあった女性のようで、ギャンブルやどの銘柄の株が上がるかなど、次々に当てては、周囲を驚かせていたようです。

そしてバブル期に突入すると、大阪・北浜では、

「あの料亭の女将が上がると言った株は必ず上がる」

と噂されるようになり、証券マンたちが彼女の元へ日参するようになります。

尾上は、後ろに証券マンたちを跪かせては、祈祷をおこない、

「○○株は上がるぞよ」

「○○株は下がるぞよ」

と、まるで神がかり的な存在であるかのように見せては、預金証書を担保にノンバンクから、株式投資用の資金を借り集めて、派手に儲けていました。

バブル期は、株価がどんどん上がっていった時代です。
そんな、わけのわからないまじない師のような真似をしなくとも、株式投資で利益を得ることは簡単だったはずですが、自らの力を大きく見せることと、大勢の男たちが自分に跪く快感に、尾上縫は溺れていきました。

尾上も預金証書を担保に、ノンバンクから資金を借り入れていましたが、この預金証書は、偽造したものでした。

完全な詐欺です。

バブルが弾けた1991年8月13日、尾上縫は逮捕されました。

金融機関からの総借入額は何と2兆7700億円。
偽造した架空預金証書の総額は7400億円に上ったといわれ、うち東洋信用金庫は、この巨額詐欺事件が主因となり経営破綻しました。

結果、尾上縫は、破産手続きをおこないますが、その額は負債総額4320億円という個人としては史上最高額でした。

尾上はその後、実刑12年が確定。

仮釈放後の2014年に亡くなっています。

さすがの杉山治夫も、尾上がでっち上げた架空預金証書の総額には驚きを隠せなかったと語り、バブル経済についても、

「所詮は、バブル。いつしかみずからもはじけて消える。はかないものだ」

という感想を残しています。

バブル後も生き残った杉山治夫 そして全国金満家協会

バブル経済崩壊で、次々と名を馳せた人々が破滅していくなかで、杉山治夫はしぶとく生き残ります。

しかし、1990年6月25日に恐喝事件の共犯として逮捕された経験を持っています。

この件について杉山は、

「事実無根だった」

と語り、連日朝6時から深夜12時までに及ぶ取り調べにも抵抗します。

また、毎日、500万円から5000万円の金を差し入れさせて、弁護士費用が潤沢にあることを示した上で、7人の敏腕弁護士による弁護団を結成、杉山本人も一切食事を取らないハンガーストライキをおこなって、検事たちを慌てさせます。

独房に入れられていたとき、久々に味わうひもじさに、杉山は極貧時代を思い出し、感傷的な気持ちになったと語っています。

「そういやあ、わしも昔は庶民やったんや・・・。いやいや、庶民よりももっと低い生活をしていたんや・・・。いつのまにか、そのときのことを忘れかけていたのかもしれんなあ」

結果、7月16日。

杉山は不起訴処分となって釈放されます。

この件に関しては、無実でしたが、杉山はまったく〝シロ〟の人間ではありませんでした。

1985年に、杉山は550億円の脱税容疑で、国税庁に踏み込まれたことがあります。
しかし、脱税の時効を迎えていた為、結局は、脱税の罪に問われることはなかった、と語っています。

また、バブル期には〝株式会社 全国金満家協会〟という会社を立ち上げ、〝驚異の高収益事業〟として、資金を集めます。

総資産550億円 配当率 年1割以上保証、1989年・1990年は連続配当率2割をうたいました。

杉山の手掛けていたビジネスからすると、出資者から年に1割~2割の配当を支払っても、杉山の元には、余りある巨額の金が舞い込んでいたのでしょう。

自らを〝金儲けの生き神〟と称した杉山治夫。

1992年に放送を開始した『浅草ヤング洋品店』(通称『浅ヤン』のちの『ASAYAN』)にも、愛人兼本妻(結局、愛人なのか本妻なのかどっちだ?)のゆかりさんという女性とともに登場しています。

このあたりまでが、杉山治夫の人生が輝いていた時代といえると思います。

人間には、その能力を最大限に活かせる期限があると、私は考えています。
いかに恵まれた能力や才能を持っていても、時間とともに消費されていきます。
また、時代も変わっていきます。

ここらで引退宣言をして、余生を過ごせば良かったのかもしれないと感じます。

例えば、これまでの経験を語りおろして小説や漫画原作にすれば、リアリティのある面白いものができたのではないかとも思います。

しかし、持って生まれた杉山の本能は、留まることを知りませんでした。

2002年3月21日 杉山治夫逮捕。そして獄中生活へ

時代は流れ、2002年3月21日に杉山治夫は逮捕されます。

偽造した借用証書を使用して民事訴訟を起こし、相手から金銭をだまし取ろうとした訴訟詐欺の疑いでした。

杉山治夫64歳でした。

公判で、杉山は暴れに暴れます。

被告人席に座らず、傍聴席に向かって、「おまえのせいだ」と叫び、果てには「俺は天皇の孫だ」とまで、法廷にその叫び声を響かせます。
公判は休廷を挟みながらおこなわれました。

杉山は、長期間の実刑判決が下ることを、その法知識から確信していたでしょう。

少しでも、刑を軽くする為、あわよくば逃れる為、精神異常、精神耗弱状態にあることを装いたかったのかもしれません。

しかし、それは無駄なあがきでした。

2003年4月17日、杉山治夫に対して東京地方裁判所は懲役7年6ヶ月の実刑判決を言い渡しました。
求刑は8年でしたが、ほぼ求刑どおりの判決が出たことになります。

収監された杉山は、2009年に癌で死亡します。
獄中死でした。

その死は、公にされることはありませんでした。

理由として、杉山は多くの愛人を抱えており、そのあいだには子どもも儲けていたようです。
いわゆる相続問題を表に出したくなかったことが考えられます。

そして、現在・・・

杉山治夫亡き後、杉山グループの企業はこの世からなくなっています。

日本百貨通信販売も全国金満家協会も登記簿は既に閉鎖されています。

杉山が稼ぎに稼いだ巨額の資産も、いまでは散逸しているのではないでしょうか。

獄窓で杉山が何を思っていたか。

癌による死の寸前、杉山の脳裏によぎったものはなにか。

それを知りたい気持ちはありますが、知る術はないでしょう。

極貧の生い立ちから商売人として成り上がるも2度の倒産を経験して、金融業にばく進していった人生。

極悪人と自他ともに認め、金と刺激を求め続けた71年間の生涯でした。

杉山治夫の名言

最後に、杉山治夫が残した言葉から、名言と呼べるものを選んでみました。

案外、まともというか、金科玉条にしてもいいくらいのことを言っています。

「会社が潰れても、別会社を作ればいくらでもチャンスは転がっている。わしもここまで来るのにたくさんの会社を潰してきた」

「杉山流金銭哲学を伝授しよう。傘一本の理論。こう呼んでいるのがわしの根本的金銭哲学だ。雨の日に傘を持ち合わせていない人は、傘を買おうとして平気で財布を開いてしまう。これでは金を残せるわけがない。雨の日には傘は落ちてはいない。ならば晴れの日はどうだ。手持ち無沙汰になったり、いらなくなった傘が無造作にそこらじゅうに捨ててあるではないか。晴れの日に傘を拾い、雨の日に使う、これが傘一本の理論だ」

「ルンペンを見習うことだ。連中のほうがあなたよりも金を残しているかもしれない。衣食住すべてただの生活をしているのだ。ちょっとでも働けば金が残る計算になる。ルンペンになった気になればなんでもできる」

「金はないところには集まらない。金はあるところに集まるものだ。さみしがり屋の金どものために、まずは彼らの友だちを作ってやることだ。それがいつのまにか増えて、次へとステップを踏ませてくれる」

「金が金を呼ぶ。たまったらわしのようにマネーゲームと思って、何かをするもよし、負けても命をとられることはめったにない」

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
特に、その1から読み続けてくださった方には、厚く御礼申し上げます。

杉山治夫の生い立ちから知りたい方は、こちらからお願いいたします

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

その2・その3・その4の杉山治夫の記事を読んでくださる方は、こちらからお願いいたします。

その2

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

その3

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

その4

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!
(※杉山治夫の自著のなかでは、この本が一番のおすすめです)

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身とは

はる坊です。

その3では、杉山治夫が唯一尊敬していた人物・小林大二郎氏に諭され、組織を抜けることを決意し、東京に移り住み、川崎で一年間のヒモ生活を送りながら100万円を元手に金融業を始め、翌年に東京・新宿に拠点を移し、金融債権取り立て屋として名を馳せて、日本百貨通信販売を核とした杉山グループの形成までをご紹介しました。

それでは、引き続き杉山治夫の生涯をみていきましょう。

1983年に貸金業規制法(サラ金規制法)が制定される以前は、貸金の取り立てはまさにやりたい放題だったと杉山が述懐しています。

では、〝杉山式〟金融債権取り立て法の中身をみていきましょう。
これは、サラ金業者に広く伝わり、現在では当たり前、いや、それ以上のことをする業者もいるかもしれません。

ただし、絶対にマネをしたりしないでください。

もし、あなたがマネをして不利益を被ることがあっても、私は一切責任を持ちません。

岡田法律事務所

杉山の元に金を借りに来る人間は、そもそも他の消費者金融から相手にされなくなった人間でした。

そんな彼らに、杉山は金を貸します。それは、どんな相手からでも取り立てる確信があるからです。

貸金の返済期限が過ぎると、日本百貨通信販売 管理本部に関係書類が上がってきます。

ここには、借主の住所・氏名・家族構成・勤務先などが明記されています。

まずは、女性社員が電話連絡を入れて、返済を求めます。

あくまでもやんわりとした口調で、返済意志の有無を確認します。ここで、相手に返済意志があれば、少しの猶予を与えます。

電話が掛かってきた時点で、杉山がどんな人物か、杉山グループがどんな存在かを相手が知っていれば、借主は慌てて返済をしてきたといいます。

しかし、借金に慣れてのらりくらりと返済を渋る態度を見せたり、行方をくらませたりする客も出てきます。

そのときには、〝杉山式幸福の手紙〟なるものが借主に送られます。

杉山治夫 催告状

一番はじめに送る、〝催告状〟と大書きされたハガキは、縁も印字もすべて真っ赤なインクで印刷されています。

こんなハガキを受け取ったら、一体、何事が起こったのかと思います。
このハガキの効果は抜群で、多くの借主は不気味さを覚えて返済をしてきたようですが、それでも、居直って返済をしてこない人間もいます。

そんな人間に対して、〝杉山式幸福の手紙〟はどんどんエスカレートしていきます。

何だか文面がとんでもなくとんちんかんでですが、これはわざとだと杉山が語っています。

読む者に不安感を抱かせるのが一番の目的だと。

このあたりについては、感心はしませんが、長年の経験からか、杉山が人間心理を読むのに長けていたと感じます。

行方をくらませた債務者へ仕掛けるワナ

杉山の取り立てに耐えかねて、行方をくらませる債務者もいました。

ところが、杉山はそんな債務者からも、取り立てを成功させています。

行方をくらませたものの、自分の家がどうなっているかが気になり、闇に紛れて、家の様子を探りにくるのが、人間の心理だと杉山は見抜いていました。

そこで、郵便ポストにこんな返信用ハガキを入れておくのです。

送り主は『日本運命学協会 抽出者現金送付係』

裏面には、債務者に希望を与える文面が書かれていました。

「よかったですね。おめでとうございます」

続けて、あなたに1,620円が当たったという報せが書かれていました。

更に、ダブルプレゼントとして、最高賞金100万円が当たるチャンスの申込書も添えられていました。

債務者は、『日本運命学協会』など知りません。
普通なら気味悪がって、破り捨ててしまうところです。

しかし、切羽詰まった債務者は、ワラにもすがる気持ちで、返信用ハガキに、現住所を書き込んで投函してしまうのです。

『日本運命学協会』の所在地は、東京都豊島区東池袋。

これも、杉山が自らの拠点である新宿区内だと、債務者に勘づかれる恐れがあると、まったく関係なさそうな東池袋に所在地をもってきたのでしょう。

やがて、日本運命学協会を名乗る人間から、債務者に電話連絡が行き、家にいることを確認してから、債務者の元へ向かい、当選金1,620円を手渡しで渡します。

「おめでとうございます。本当によかったですね。これもあなたが常日頃真面目に生きてきたからですよ

債務者(当選者)はありがたそうに賞金を受け取ります。

ところが、現金を渡してくれた柔和な顔をした男の後ろに、獰猛な顔つきの男たちがいることを知って愕然となります。

当選金1,620円をキチンと渡した上で、借金を返済するように強く迫ります。

子どもだましのようなやり口ですが、金に困り、切羽詰まった人間が相手なので、この方法は面白いほど決まったようです。

しかし、1,620円を受け取り安堵している債務者が、そのすぐ後ろに杉山グループの取り立て人が控えていたことを知るやいなや、まさに天国から地獄で、発狂してしまった例もあるようです。

名村法律事務所

杉山グループの本拠地は、なぜ新宿二丁目にあったのか?

さて、杉山治夫とそのグループの拠点は、新宿二丁目にありました。
新宿二丁目といいますと、ゲイバー・ゲイスポットが乱立している場所です。

なぜ、杉山はこの場所に拠点を構えていたかというと、その理由を杉山は、

「わしの俗悪趣味にぴったりだったから」

と語っていますが、この言葉を額面通りに受け取るのは早いと思います。

前述したようにゲイバー・ゲイスポットとして知られる新宿二丁目に拠点を構えることで、不気味さを演出する部分もあったとは思います。

しかし同時に、現在のようにLGBTや同性愛に理解がなかった時代。
そんななかで、たくましく生きている彼らに、世間から忌み嫌われていた杉山は、どこかでシンパシーを覚えていたのかも知れないと感じます。

杉山治夫は、極貧の生い立ちがトラウマになって、弱者に対して必要以上に残酷な取り立てをおこないました。

しかし、必死で頑張ろうとする者には、

「まだ若いんやから、死ぬ気でがんばればなんでもできるやないか」

と励ましの言葉を掛けたり、就職の世話をして、返済の猶予をする一面もあったようです。

-「死んだ気でやればなんでもできるんや」

杉山の取り立て行為はとても許されるものではありませんが、人間は奥深いものです。
鬼畜としかいいようのない言動をみせる人間にも、こんな一面は隠されていました。

しかし、拠点のビル内には、取り立て用のファイルが棚にギッシリと収められていました。

1万件以上の債務者資料が整頓されてファイルされていたのです。

転居者不明・差し押さえ・当て所知らず・執行不要・内容証明・異議申し立て・訴訟和解・興信所調査中・戸籍謄本申請・会社謄本申請・・・

そして、死亡・自殺・一家心中・殺人・逃亡・夜逃げという物騒な項目も。

杉山は取り立て成功率98%と豪語していました。

残り2%は、自殺・一家心中を選んだ方々です。

杉山がどれほど過酷な取り立てをしていたかがわかるエピソードです。

マスコミは、杉山の取り立ての残酷さを報じて、〝極悪人〟の烙印を押しました。

しかし、皮肉なことに、マスコミが杉山を取り上げれば取り上げるほど、〝極悪人〟のイメージが高まりに、杉山の取り立てがはかどったのも事実であったようです。

杉山がマスコミで話題になったときに、取材に来た著名人を紹介すると、フジテレビの須田哲夫アナウンサー・タレントのミッキー安川・漫画原作者の梶原一騎・弁護士の木村晋介・政治家の渡辺美智雄と多士済々です。

いずれも、当時大きな影響力を持っていた人物です。現代的に言えば〝インフルエンサー〟でもあった彼らが、杉山を取り上げるほど、杉山のビジネスは順調に進み、更なるビジネスに邁進していきました。

日本初の腎臓移植ビジネスを手掛ける

杉山治夫は、更なる商売に着手します。

『未来への希望 じん移植 全国腎臓器移植協力会』という不気味な団体を立ち上げ、腎臓移植ビジネスに手を染めるのです。

これには、表に出てこないニーズがあったからでしょう。
杉山の顧客は、都内の上場企業元社長や大地主、また地方の有力者など、

「金で健康が買えるなら、いくらでも出す」

という人物たちでした。

杉山が狙うのは、借金返済にやってくるものの。もう首が回らなくなった人間たちです。
彼らは、自分から臓器提供を杉山に持ちかけるのです。
杉山は本人に意思確認を取り、健康状態をチェックすると、あらかじめ金を掴ませていた医師の元で腎臓移植がおこなわれたようです。

杉山に密着取材していた作家・本橋信宏氏は、その現場に立ち会ったことを、のちに綴っています。

適合性の問題で、どうしても臓器提供者が見つからない場合は、消費者金融で多額の借金を抱えた人間に恩を売り、豪華な食事や酒、そして女をあてがって、説得します。

また、腎臓だけではなく、睾丸まで抜き取って売りつけることもしていたようです。

マスコミに散々叩かれても、杉山はどこ吹く風。

自らを〝現代に蘇った『ヴェニスの商人』のシャイロック〟と呼び、

「借金返せにゃ腎臓を売れ」

-人間の欲望を巧みに金に換えていくのが、自分の錬金術。

-法の裏道は、どこでも抜けられる、それがわしの金銭哲学

と嘯く始末でした。

そんな杉山が50歳を迎える頃、日本はバブル経済に突入します。

バブル期には地上げに進出

バブル経済が始めると、杉山は土地に着目します。

バブル期といえば、同時に株式投資も思い当たりますが、杉山には、株は性に合わなかったようで、あるとき、持株のすべてを売却した直後に、ブラックマンデーが世界の株式市場を襲ったのを見て、やはり自分には土地のほうが合っていると確信したようです。

時は1987年後半。
東京の地価はすでに値が上がりすぎていると判断した杉山は、まだ、値上がりが波及していなかった地方に目を付けます。

第一に、杉山が目を向けたのは、高知県でした。

生まれ故郷の高知で地上げを開始したのです。

杉山自身、イギリス製高級スーツに身を包み、左腕には黄金のローレックスをはめ、足元はイタリア製高級革靴というスタイルで高知に乗り込みます。

東京では、地上げが横行していましたが、高知では、地上げの波は押し寄せていませんでした。
杉山と杉山グループの独壇場となった高知での地上げは順調に進み、やがては、全国に波及していきます。

地上げした土地は高額で売却、あるいは担保にして更なる地上げ資金としていきました。

普通なら、ここでバブルに踊り狂って、破滅の道へ進むところですが、杉山の嗅覚は恐ろしいものでした。

家庭の主婦までが、株式投資に熱中し、一介のサラリーマンが高額の住宅ローンを組んで投資用マンションを争って購入する姿をみて、バブル経済の先行きに危機感を覚えて、バブルが弾ける前に、地上げからスッパリ手を引いていたのです。

何という悪運の強さ。

何という強運の持ち主。

杉山治夫は、まだまだ悪の快進撃を続けます。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(その5に続きます。後日更新予定です)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

杉山治夫が唯一尊敬していた人物

はる坊です。

その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。

それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。

日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。

杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。

やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。

東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。

その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。

といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。

話を少し昔に戻します。

杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。

その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。

その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。

『定通新聞』

その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。

この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。

杉山は、この新聞をよく読んでいました。

一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。

この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。

杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。

杉山も、一、二度はこの会に出席しました。

そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。

杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。

小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。

『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。

しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。

杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。

二度目の東京出張時でも無理でした。

杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。

そして、三度目の東京出張。

同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。

杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。

杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。

翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。

杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。

この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。

しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。

「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」

そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。

それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。

その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。

杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。

しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。

そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。

取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。

杉山から話を聞いた小林氏は、

「わかりました」

とうなずきました。

そして、

「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」

と続けます。

小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。

そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。

「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」

この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。

1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。

杉山治夫東京進出。金融取り立て人として名を馳せる

杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。

杉山が降り立ったのは、川崎でした。

東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。

杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。

川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。

暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。

しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。

ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。

100万円の金は面白いように増えていきました。

そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。

杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。

1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。

それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。

すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。

-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。

地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。

杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。

〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。

連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。

また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。

〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。

それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。

暴力団相手の債権取り立てにも進出する

東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。

十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。

こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。

そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。

杉山は、こんなことを語っています。

「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。

恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。

そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。

かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。

彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。

杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。

殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。

杉山はその場で一本の電話を掛けました。

相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。

「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」

杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。

杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。

日本百貨通信販売を核にして、杉山グループを形成する

杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。

金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。

そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。

社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。

杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。

もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・

杉山は、どこまでも狡猾でした。

暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。

また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。

小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。

数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。

杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。

(その4に続きます・後日更新予定です。)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

杉山治夫も金融業者としての新人時代があった

はる坊です。

その1では、杉山治夫の出生から極貧の少年時代、中学を2年で中退して時計屋に丁稚奉公。17歳で独立して店を構え、その後、家電も扱うようになり、一躍、地域で一、二を争う金持ちとなり、良家の娘と結婚するも、放漫経営が祟って、黒字倒産する羽目になり、そのときに現れた暴力金融業者の元で働くまでをご紹介しました。

今回は、金融業者の元で〝社長秘書〟の肩書きで働き始めるところからです。

後年、名うての金融取り立て屋として名を馳せる杉山治夫ですが、高知の金融業者の元で働き始めた頃は、いくら時計店や家電量販店を経営していたとはいえ、実際の金融業に関して全くの素人でした。

早速、杉山は六法全書や金融関係の専門書を買い漁って勉強を始めました。
しかし、なかなか内容を理解することができなかったのです。

杉山は、(自分には基礎的な学力がないんや)と悟ります。

事実、中学2年の秋に、時計店に丁稚奉公に出て以来、学問とは縁がなく、商売で成功を収めてからは、目先の金儲けと芸者遊びに精をだしていたのですから、こういった書籍に触れたのも生まれて初めてのことでした。

自らの無知を知った杉山は、高知市内の県立高校夜間部に進学します。
(中学校は義務教育ですので、中途退学をした杉山も、おそらくは形だけ卒業扱いになっていたのでしょう)

24歳の杉山は早朝からから夜6時までは、秘書として金融取立業に従事して、夜7時からは、夜間高校で勉強に励みます。

夜間高校に来ている他の生徒は、実家が貧しい為に昼間の高校へ行けない16,7歳の生徒だらけでした。
そんな10代の生徒に交じって、杉山は当用漢字や一次方程式から勉強を始めます。やる気は誰にも負けませんでした。

社長秘書として働いていると、毎日、様々な法律用語が飛び交います。

債権・担保・根担保・公正証書・違法性阻却事由etc.

昼間は、実践を通しての法律の勉強。夜は、高校で国語・数学・物理などを学ぶ日々。

杉山は寝る間を惜しんで、両方の勉強に打ち込みました。

そして、

“「(金融)取り立ては、暴力的手段と法律的手段で成り立つ」”

という持論を身に付けます。

一から、いや、ゼロから金融業を実地で学び、このままこの会社で暴力金融業の道へ進むかと思われた杉山ですが、ここで意外な行動に出ます。

暴力金融業者の社長秘書として勤め始めて半年が過ぎた頃、杉山は社内でナンバー2の地位を得ていました。

しかし、杉山は社長に退職を申し出ます。
自分自身が組織のトップでなければ、とにかく頭に立っていなければ、ダメな性格だということを、ナンバー2になって痛感したのです。

退職を申し出ると、すんなりと認められました。
これは半年間、杉山が粉骨砕身仕事にあたって、会社に莫大な利益をもたらしており、「借りを返す」以上の働きをしていたからです。

再び、実業家の道へ しかし、再び転落・・・

暴力金融業者の元を去った杉山は、妻とふたりでメガネを売ることにします。

このときの杉山には資金がなかったので、商売の軍資金はすべて借金でした。
暴力金融にいた半年のあいだで、地元の商売人には、杉山が切れ者であることは知れ渡っていました。

杉山は、借りられるところから、金を借りまくります。

そして、新たに始めた『杉山眼鏡』も絶好調でした。メガネを大量に仕入れて、従業員を雇い入れ、外交販売で売りまくったのです。
メガネに加えて、時計や宝石も抱き合わせで販売しました。

商売の回転資金はまったく心配をしていませんでした。
杉山の商売がうまくいっているのを見て、商売人たちはますます多額の金を杉山に貸し続けたのです。

メガネ・貴金属の商売と並行して、杉山は金融業にも進出します。
人から借りた金を月九分の利息で、別の人間に貸し付けたのです。

月九分で貸しを複利にすれば、3年後には何と10倍に膨れ上がります。
まだ、金融関係の法整備が甘かった時代でした。

また杉山はホテル経営にも乗り出します。
高知で一番のホテルを建てようと、超豪華ラブホテルを、当時の金で1億2,000万円で新築したのです。
そのうち1億円は借金でした。

多角経営を推し進めた杉山は、金融業に精を出します。
当時の高知には、街の金貸しはそういませんでした。
杉山の独壇場だったのです。

地元の漁民・農家・サラリーマンに金を貸して、高利を取りました。
金主は、地元銀行・地主、さらには他の高利貸し。

しかし、ここで杉山は初めて警察の厄介になることになります。
「借金取り立ての際に、相手を暴力で脅し、かつ監禁せしめた」
のが理由でした。

2ヶ月間近くに渡って留置場へぶちこまれた杉山ですが、一向にへこたれませんでした。

この頃に、のちの杉山グループの中核となる『日本百貨通信販売』を設立。従業員は90名を数えるまでになりました。

プライベートでは長女に恵まれ、商売は絶好調。

しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受けていました。

会社の規模が大きくなり、杉山自身の目の届かないところで、地位を与えていた部下が融通手形を乱発して、市中の金融業者に流れた手形は何と2億円に上りました。

杉山の元には債権者が押し寄せてきます。
この騒ぎで、これまで無尽蔵に金を貸し続けてくれていた銀行・地主・金融業者は、そっぽを向いて、杉山を見捨てます。

さらに、杉山の身に不幸が舞い降ります。

部下が乱発した融通手形の一部が、大阪の暴力団関係の会社に流れていたのです。
その会社のバックにいるのは、関西で有名な暴力団でした。

杉山は金策に奔走しますが、その甲斐もなく経営する会社は倒産。
杉山自身も無一文となります。

そして、杉山は暴力団員に、今後の債務関係について話し合うという名目の元、強制的に大阪へ連れて行かれます。

1971年夏のことでした。
杉山治夫、33歳。

六甲山中に首まで埋められ・・・ そして・・・

暴力団員に大阪まで連れてこられた杉山は、大阪・ミナミの倉庫に監禁されました。
組員たちは、盛んに〝隠し金〟のありかを吐くよう、杉山を脅し続けます。

これは杉山の身に覚えのないことでした。
正真正銘の無一文だったからです。

それでも執拗に組員たちは杉山から金のありかを聞きだそうとします。

“「杉山よお、悪いことは言わん。おまえの隠し金、あらいざらい喋りよったらそれでええんや」”

“「嘗めたらあかんでえ!〝杉山は二億円握ってとんずらきめこんだ〟って話が入っとるんや!」”

そんな金はどこにもありませんでした。
杉山自身、後年、高知で自分のの活躍ぶりを快く思っていなかった者の悪意ある流言だったと綴っています。

精も根も尽き果てた杉山は、

“「もうどうにでもしてくれ、わしは、疲れた。金など本当に無い。借金をしまくって成り立ってきた日本百貨通信販売だ。不渡りを出して金の循環が途切れればぶっつぶれるのはわけもない・・・」”

と悲鳴に近い声を上げました。

すると、暴力団員たちは杉山を縛り上げて、表に停まっていたリンカーンに押し込みます。

そして、ひとりの組員がポツリと発した言葉に、杉山の心臓は凍りつきました。

「もう、金はいらん。そのかわり、おまえ、死ねや」

リンカーンは神戸・六甲山へ向かいました。

山中で車から降ろされた杉山は、さらに奥へと歩を進めるよう命令されます。

そのとき、4、5メートル後ろで若い男が必死に哀願する叫び声が聞こえてきました。

その若い男は暴力団員でした。

杉山から一銭も取り立てられなかった責任を取らされて、スコップで穴を掘らされようとしていたのです。

そして、杉山にもスコップが手渡され、杉山は絶望的な気分のなかで、穴を掘り始めました。

穴を掘り終えると、杉山と若い暴力団員はそれぞれ穴の中に身体を押し込まれます。

他の組員は、容赦なく赤土を穴に被せてきます。

若い組員は恐怖のあまり脱糞して、失神してしまいました。

さすがの杉山も、完全に絶望するかにみえました。

そんな杉山の耳に、野鳥の囀りが聞こえてきました。山鳥の囀りが、ほんの僅かでも杉山を楽観的な気分にさせてくれたのです。

その様子を目ざとく見た初老の男が、杉山に話しかけました。
初老の男は、一味の親分でした。

“「ええ根性しとるのう、われ。殺すのは惜しいがな」”

-この男はわしを救ってくれる!

杉山は本能的にそう察しました。

そして、最後の力を振り絞って、叫びました。

“「親分!わしも男や!危ない仕事でもなんでもする。高知では三ヶ月で一億稼いだ杉山だ。わしを入れてくれ、必ず、あんたんとこの組のためになるはずだ!取り立てをやらしてください。必ず回収してみせます!わし、何年かやってきたから、自信があるんですわ」”

杉山必死の願いは、親分に届きました。
こいつは使える男だと判断したのでしょう。

失神した若い暴力団員も土中から救出され、行きと変わらない人数で、六甲山を下ることになりました。

金融債権取り立て人・杉山治夫の誕生

大阪の暴力団で金融債権取り立て人となった杉山は、イヤというほど暴力の力を知ることになります。
取り立ての凄まじさは、生まれ故郷・高知の比ではありませんでした。

取り立てにいくのは、街のサラ金業者がどうしても回収できない貸し付け金です。

杉山は、入れ墨を見せつけるように胸を開けた数人の暴力団員とともに回収に向かいます。
依頼主の要望に応じて、連日昼夜を問わず、取り立てに赴かねばなりません。
回収した金は依頼主と組との折半です。

回収に失敗すると、組のお偉方に恥を欠かせることになります。杉山は必死で債権の取り立てをおこないました。

杉山の役目は、いわゆる〝止め役〟でした。
交渉の最中で、若いやくざが刃物を机上に刺したり、テーブルごとひっくり返して暴れます。
これが、相手に恐怖を与える〝暴れ役〟です。

頃合いを見計らって、杉山が組員を止めて、口八丁で説得に入ります。

これで90%は回収に成功していたようです。

残り10%の回収に必要なのは、リボルバーでした。

深夜、大阪湾の倉庫裏まで連れて行って、銃をちらつかせるのです。相手の頬に押し当てると、それまで、どんな強がりを言っていた人間も失禁して陥落したようです。

拳銃について、杉山はいい印象を持っていなかったようです。
スーツの内ポケットにリボルバーをしまい込むと、その重みで身動きが鈍くなり、また銃独特の不気味な冷たさが身体に伝わってくる感覚が、たまらなく嫌だったと述懐しています。
殺害用具を所持しているという緊張感と不安感で、さすがの杉山も外を歩くときは必ず震えたようです。

暴力団の取り立てを肌で感じていった杉山は、このままやくざに使われ続けることをよしとしませんでした。

実際に取り立てた回収金の一部をプールして、金を貯めていったのです。

そして、暴力団金融の取り立て人となって3年が過ぎる頃、杉山個人の金融会社を内緒で設立します。

なぜ、回収金の一部をプールして、内緒で金融会社を設立できたのか。

それは、一緒に取り立てに行く組員に小遣いをやって、手懐けていき、完全に杉山の味方にしてしまったからでした。

この頃の気持ちを杉山は以下のように述懐しています。

“「いつまでもやくざの下で使われることに安住しているわしではない。一度は六甲の山奥で首まで埋められた男だ。何も恐れるものはない。髪の先からつま先までどっぷりと暴力の世界に染まったわしは、四国の平凡な成り上がり実業家とはまったくの別人に変身してしまったのだ。人間一度堕ちるところまで堕ちると、その状態で居直るタイプとなんとかまっとうな方向へ歩みたいとあがくタイプがある。わしは完全に前者であり、その居直りぶりも徹底していた。子供時分、とことん弱者の立場にいたわしは、弱い者、虐げられた者を見ると無性に襲いかかりたくなる。同類嫌悪感情。遠い昔の近親憎悪感情のなせる術かもしれない」”

法を犯すか犯さないか、虚実皮膜の回収作業を連日続けた挙げ句、2度留置場へ身柄を拘置され、一度は大阪刑務所に2年半服役します。

それでも、杉山は金融取り立て人としての活動を止めませんでした。

杉山は、地元高知の夜間高校を卒業した後、中央大学法学部通信教育課程に進学して、法律を徹底的に勉強しています。
その法知識、法武装ぶりは、留置場送りとなり刑務所の囚人を経験して以降、さらに磨きがかかり、金融に関する法律では弁護士と同程度といわれるようになります。

関西の暴力団の間で、杉山治夫の名はどんどん知れ渡っていきました。

内緒で設立した、金融会社も順調に伸びました。

しかし、杉山の会社から金を借りた土建業者が、組長に密告した為、この裏会社の存在がバレてしまいます。

代償は、せっかく順調にいっている裏会社の取り上げでした。

このとき杉山は、ここにいるのも、もう潮時だと感じました。
このままやくざの世界に棲み着いても、抜けられなくなるだけだ。
そうだ、東京へ行こう。

しかし、東京へ逃げれば、必ず大阪のやくざを敵に回す。そしてつかまる。
今度こそ、地獄行き・・・

そんななか、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、組員3名とともに東京へ向かいます。

杉山の頭の中には、東京でひとりだけ、自分を助けてくれるかもしれない人物が浮かんでいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(※その3へ続きます)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

長者番付

長者番付を振り返ってみましょうか【平成プロアスリート編 1989年分~2004年分】

長者番付を振り返ってみましょうか【プロアスリート編 1989年分~2004年分】をまとめました

はる坊です。

個人情報保護によって、2004年分を最後に公示がされなくなりましたが、それまでは、毎年5月中に1,000万円以上を納税した人物は、所管税務署で氏名・住所・納税額が公示されていました。

公示された当日や翌日にかけては、芸能ニュースを中心に大きく取り上げられたものです。

今回は、1989年~2004年分まで、つまりは平成時代に活躍したプロスポーツ選手・プロアスリートの長者番付をみていきましょう。

1989年分(平成元年)

1位  落合博満  5408万円(プロ野球選手)

2位  田淵幸一  4745万円(プロ野球監督)

3位  門田博光  4725万円(プロ野球選手)

4位  尾崎直道  4520万円(プロゴルファー)

5位  山本浩二  4485万円(プロ野球選手)

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6位  高木豊   4370万円(プロ野球選手)

7位  藤田元司  4296万円(プロ野球監督)

8位  星野一義  3744万円(レーシングドライバー)

9位  尾崎将司  3530万円(プロゴルファー)



10位  郭源治   3464万円(プロ野球選手)

11位  小林浩美  3328万円(プロゴルファー)

12位  尾崎健夫  3317万円(プロゴルファー)

13位  芹澤信雄  3273万円(プロゴルファー)

14位  高橋慶彦  3035万円(プロ野球選手)

15位  青木功   2920万円(プロゴルファー)

16位  千代の富士 2688万円(大相撲横綱)

17位  横島由一  2653万円(プロゴルファー)

18位  秋山幸二  2630万円(プロ野球選手)

19位  鈴木弘一  2568万円(プロゴルファー)

20位  中嶋常幸  2554万円(プロゴルファー)

※1位は当時、中日ドラゴンズの主砲だった落合博満でした。
ちなみに、1989年分の年俸は球界トップの1億3000万円。
1989年のシーズン成績は、打率321 本塁打40 打点116で打点王に輝いています。

現在なら、年俸何億になるのでしょうか?

1990年(平成2年)

1位  落合博満 6928万円(プロ野球選手)

2位  野茂英雄  5674万円(プロ野球選手)

3位  川岸良兼  5137万円(プロゴルファー)

4位  門田博光  4397万円(プロ野球選手)

5位  中嶋常幸  4142万円(プロゴルファー)



6位  須藤豊   3786万円(プロ野球監督)

7位  秋山幸二  3784万円(プロ野球選手)

8位  星野一義  3701万円(カーレーサー)

9位  斎藤雅樹  3486万円(プロ野球選手)

10位  潮崎哲也  3475万円(プロ野球選手)

11位  芹澤信雄  3454万円(プロゴルファー)

12位  東聡    3426万円(プロゴルファー)

13位  加瀬秀樹  3358万円(プロゴルファー)

14位  倉本昌弘  3355万円(プロゴルファー)

15位  清原和博  3325万円(プロ野球選手)

16位  杉原輝雄  3273万円(プロゴルファー)

17位  長谷見昌弘 3272万円(カーレーサー)

18位  安井純子  3217万円(プロゴルファー)

19位  藤田元司  3063万円(プロ野球監督)

20位  与田剛   3056万円(プロ野球選手)

※2位の野茂英雄(当時:近鉄バッファローズ)と20位の与田剛(当時:中日ドラゴンズ)は、1989年のドラフトを経て入団していますので、プロ野球選手としての初年は1990年になります。
ランクインしている理由は、高額な契約金が一時所得として課税されたことによるものです。

1991年分(平成3年)

1位  落合博満 8669万円(プロ野球選手)

2位  芹澤信雄  4954万円(プロゴルファー)

3位  門田博光  4397万円(プロ野球選手)

4位  野茂英雄  4933万円(プロ野球選手)

5位  高橋慶彦  4599万円(プロ野球選手)

6位  中嶋常幸  4407万円(プロゴルファー)

7位  吉村禎章  4395万円(プロ野球選手)

8位  中嶋悟   4312万円(カーレーサー)

9位  尾崎直道  4289万円(プロゴルファー)

10位  横島由一  4237万円(プロゴルファー)

11位  秋山幸二  4184万円(プロ野球選手)

12位  長谷見昌弘 4132万円(カーレーサー)

13位  尾崎将司  4072万円(プロゴルファー)



14位  倉本昌弘  3909万円(プロゴルファー)

15位  長谷川滋利 3907万円(プロ野球選手)

16位  清原和博  3897万円(プロ野球選手)

17位  星野一義  3876万円(カーレーサー)

18位  水野嘉孝  3613万円(プロ野球選手)

19位  羽川豊   3298万円(プロゴルファー)

20位  江口孝義  3284万円(プロ野球選手)

1992年分(平成4年)

1位  落合博満 1億0263万円(プロ野球選手)

2位  倉本昌弘    7083万円(プロゴルファー)

3位  若田部健一   5796万円(プロ野球選手)

4位  尾崎将司    5938万円(プロゴルファー)

5位  秋山幸二    5126万円(プロ野球選手)

6位  野茂英雄    5089万円(プロ野球選手)

7位  三浦知良   5054万円(プロサッカー選手)

8位  中嶋常幸    4949万円(プロゴルファー)

9位  門田博光    4854万円(プロ野球選手)

10位  松永浩美    4533万円(プロ野球選手)

11位  清原和博    4398万円(プロ野球選手)

12位  青木功     4097万円(プロゴルファー)



13位  室田淳     4070万円(プロゴルファー)

14位  星野一義    3995万円(カーレーサー)

15位  斎藤隆     3991万円(プロ野球選手)

16位  駒田徳広    3885万円(プロ野球選手)

17位  長谷見昌弘   3847万円(カーレーサー)

18位  ジャイアント馬場 3822万円(プロレスラー)

19位  桑田真澄   3801万円(プロ野球選手)

20位  尾崎直道    3739万円(プロゴルファー)

1993年分(平成5年)

1位  三浦知良 1億3730万円(プロサッカー選手)

2位  落合博満   9686万円(プロ野球選手)

3位  野茂英雄    6082万円(プロ野球選手)

4位  中嶋常幸    6040万円(プロゴルファー)

5位  松井秀喜    5899万円(プロ野球選手)

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6位  秋山幸二    5501万円(プロ野球選手)

7位  渡辺司     5240万円(プロゴルファー)

8位  古田敦也   5196万円(プロ野球選手)

9位  飯合肇     4884万円(プロゴルファー)

10位  伊藤智仁    4850万円(プロ野球選手)

11位  小桧山雅仁   4710万円(プロ野球選手)

12位  原辰徳     4659万円(プロ野球選手)

13位  清原和博    4398万円(プロ野球選手)

14位  ラモス瑠偉   4379万円(プロサッカー選手)

15位  星野一義    4363万円(カーレーサー)

16位  池山隆寛    4299万円(プロ野球選手)

17位  駒田徳広    4227万円(プロ野球選手)

18位  ジャイアント馬場 4138万円(プロレスラー)

19位  武藤潤一郎   4092万円(プロ野球選手)

20位  石井丈裕    3973万円(プロ野球選手)

※11位の小桧山雅仁は慶應義塾大学・日本石油を経て、1992年のドラフトで横浜ベイスターズに入団。
2001年で横浜を退団して台湾で野球生活を続けるも2002年に引退。
2003年、TBSラジオに中途入社して、営業マンとして活躍中。

※19位の武藤潤一郎は、専修大学・プリンスホテルを経て、1992年のドラフトで1位指名で千葉ロッテマリーンズに入団。

1994年分(平成6年)

1位  落合博満 1億4995万円(プロ野球選手)

2位  三浦知良 1億2052万円(プロサッカー選手)

3位  石井貢     7197万円(プロ野球選手)

4位  秋山幸二    7059万円(プロ野球選手)

5位  古田敦也   6831万円(プロ野球選手)

6位  河原隆一    6811万円(プロ野球選手)

7位  北沢豪     6708万円(プロサッカー選手)

8位  清原和博    6696万円(プロ野球選手)

9位 ラモス瑠偉   6634万円(プロサッカー選手)

10位  石毛宏典    6008万円(プロ野球選手)

11位  伊東勤     5850万円(プロ野球選手)

12位  柳沢裕一    5767万円(プロ野球選手)

13位  柱谷哲二    5509万円(プロサッカー選手)

14位  佐々木久行   5431万円(プロゴルファー)

15位  三野勝大    5414万円(プロ野球選手)

16位  貴乃花光司   5382万円(大相撲横綱)

17位  中嶋常幸    5270万円(プロゴルファー)

18位  佐々木誠    5220万円(プロ野球選手)

19位  山部太     5108万円(プロ野球選手)

20位  野茂英雄    4890万円(プロ野球選手)

※15位にランクインした三野勝大は、東北福祉大学4年次におこなわれた1993年のドラフトで、読売ジャイアンツを逆指名し、1巨人から1位指名を受け、推定契約金1億5000万円 推定年俸1200万円で入団。
巨人時代に1試合、移籍した横浜ベイスターズで4試合の一軍登板はあったものの、未勝利のまま2000年に引退した。

※19位にランクインした山部太は、NTT四国から1993年のドラフトでヤクルトスワローズを逆指名し、1位で入団。

1995年分(平成7年)

1位  落合博満 1億6674万円(プロ野球選手)

2位  清原和博  1億1414万円(プロ野球選手)

3位  三浦知良    9937万円(プロサッカー選手)



4位  貴乃花光司   9470万円(大相撲横綱)

5位  王貞治     8586万円(プロ野球監督)

6位  斎藤雅樹    8493万円(プロ野球選手)

7位  中嶋常幸    8471万円(プロゴルファー)

8位  佐々木誠    8180万円(プロ野球選手)

9位  松永浩美    7569万円(プロ野球選手)

10位  イチロー    7123万円(プロ野球選手)

11位  ラモス瑠偉   6929万円(プロサッカー選手)

12位  山内泰幸    6805万円(プロ野球選手)

13位  秋山幸二    6698万円(プロ野球選手)

14位  石毛宏典    6656万円(プロ野球選手)

15位  桑田真澄    6619万円(プロ野球選手)

16位  古田敦也   6595万円(プロ野球選手)

17位  東聡      6558万円(プロゴルファー)

18位  辻発彦     6537万円(プロ野球選手)

19位  槇原寛己    6398万円(プロ野球選手)

20位  山本昌     6257万円(プロ野球選手)



※10位に大ブレイクを果たしたイチロー(当時:オリックスブルーウェーブ)がランクイン

1996年分(平成8年)

1位  落合博満 1億8074万円(プロ野球選手)

2位  イチロー  1億6153万円(プロ野球選手)

3位  斎藤雅樹  1億3401万円(プロ野球選手)

4位  佐々木誠  1億2857万円(プロ野球選手)

5位  清原和博  1億2348万円(プロ野球選手)

6位  三浦知良  1億1381万円(プロサッカー選手)



7位  尾崎将司  1億0013万円(プロゴルファー)

8位  古田敦也   9231万円(プロ野球選手)

9位  池山隆寛    8942万円(プロ野球選手)

10位  伊東勤     8760万円(プロ野球選手) 

11位  立浪和義    7791万円(プロ野球選手)

12位  星野伸之    6597万円(プロ野球選手)

13位  伊良部秀輝   6570万円(プロ野球選手)

14位  金石昭人    6556万円(プロ野球選手)

15位  槇原寛己    6313万円(プロ野球選手)

16位  岡本綾子    6170万円(プロゴルファー)

17位  秋山幸二    6170万円(プロ野球選手)

18位  ラモス瑠偉   5954万円(プロサッカー選手)

19位  川相昌弘    5866万円(プロ野球選手)

20位  貴乃花光司   5815万円(大相撲横綱)

1997年分(平成9年)

1位  イチロー 2億4229万円(プロ野球選手)

2位  清原和博  2億3473万円(プロ野球選手)

3位  丸山茂樹  1億5704万円(プロ野球選手)

4位  古田敦也 1億2943万円(プロ野球選手)

5位  斎藤雅樹  1億2195万円(プロ野球選手)

6位  尾崎将司  1億2050万円(プロゴルファー)



7位  三浦知良 1億2014万円(プロサッカー選手)

8位  落合博満  1億0206万円(プロ野球選手)

9位  伊東勤     9358万円(プロ野球選手)

10位  松井秀喜    8643万円(プロ野球選手)

11位  佐々木主浩   7997万円(プロ野球選手)

12位  立浪和義    7733万円(プロ野球選手)

13位  川村丈夫    7409万円(プロ野球選手)

14位  赤堀元之    7337万円(プロ野球選手)

15位  野村謙二郎   7169万円(プロ野球選手)

16位  谷繁元信    6995万円(プロ野球選手)

17位  山本昌     6855万円(プロ野球選手)



18位  井原正巳    6752万円(プロサッカー選手)

19位  黒田博樹    6695万円(プロ野球選手)

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20位 沢崎俊和    6657万円(プロ野球選手)

1998年分(平成10年)

1位  イチロー  2億9321万円(プロ野球選手)

2位  清原和博  2億5149万円(プロ野球選手)

3位  佐々木主浩 2億2584万円(プロ野球選手)

4位  丸山茂樹  1億4415万円(プロゴルファー)

5位  斎藤雅樹  1億4310万円(プロ野球選手)

6位  桑田真澄  1億2681万円(プロ野球選手)

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7位  松井秀喜  1億1710万円(プロ野球選手)

8位  川上憲伸  1億0399万円(プロ野球選手)

9位  落合博満  1億0247万円(プロ野球選手)

10位  古田敦也   9710万円(プロ野球選手)

11位  三浦知良    9697万円(プロサッカー選手)

12位  山本昌     9364万円(プロ野球選手)



13位  立浪和義    9249万円(プロ野球選手)

14位  石井琢朗    9154万円(プロ野球選手)

15位  伊東勤     9154万円(プロ野球選手)

16位  広澤克実    7918万円(プロ野球選手)

17位  赤堀元之    7873万円(プロ野球選手)

18位  高橋由伸    7666万円(プロ野球選手)

19位  駒田徳広    6858万円(プロ野球選手)

20位  谷繁元信    6578万円(プロ野球選手)

1999年分(平成11年)

1位  イチロー 1億9564万円(プロ野球選手)

2位  古田敦也 1億4788万円(プロ野球選手)

3位  丸山茂樹  1億2600万円(プロゴルファー)



4位  清原和博  1億1822万円(プロ野球選手)

5位  高橋由伸  1億1023万円(プロ野球選手)

6位  桑田真澄  1億0955万円(プロ野球選手)

7位  佐々木主浩 1億0942万円(プロ野球選手)

8位  斎藤雅樹  1億0894万円(プロ野球選手)

9位  松井秀喜  1億0227万円(プロ野球選手)

10位  武田一浩    9085万円(プロ野球選手)

11位  松坂大輔   9010万円(プロ野球選手)

12位  福留孝介    8935万円(プロ野球選手)

13位  石井琢朗    7537万円(プロ野球選手)

14位  工藤公康    7000万円(プロ野球選手)

15位  伊東勤     6834万円(プロ野球選手)

16位  槇原寛己    6526万円(プロ野球選手)

17位  山本昌     6001万円(プロ野球選手)



18位  前田智徳    5777万円(プロ野球選手)

19位  上原浩治   5480万円(プロ野球選手)

20位  松井稼頭央   5046万円(プロ野球選手)

 

2000年分(平成12年)

1位   イチロー 1億9537万円(プロ野球選手)

2位   松坂大輔 1億8888万円(プロ野球選手)

3位   松井秀喜  1億6637万円(プロ野球選手)

4位   高橋由伸  1億4397万円(プロ野球選手)

5位   丸山茂樹  1億3369万円(プロゴルファー)

6位   桑田真澄  1億0731万円(プロ野球選手)

7位   江藤智   1億0036万円(プロ野球選手)

8位   清原和博    9931万円(プロ野球選手)

9位   石井琢朗    8835万円(プロ野球選手)

10位  古田敦也   8565万円(プロ野球選手)

11位  斎藤雅樹    7566万円(プロ野球選手)

12位  工藤公康    7125万円(プロ野球選手)

13位  松井稼頭央   6628万円(プロ野球選手)

14位  佐々木主浩   6494万円(プロ野球選手)

15位  槇原寛己    6422万円(プロ野球選手)

16位  中村紀洋    6295万円(プロ野球選手)

17位  上原浩治   6274万円(プロ野球選手)

18位  谷口徹     6233万円(プロゴルファー)

19位  田中秀道    6165万円(プロゴルファー)

20位  鈴木尚典    6105万円(プロ野球選手)

2001年分(平成13年)

1位  松井秀喜  2億3815万円(プロ野球選手)

2位  丸山茂樹   1億6596万円(プロゴルファー)

3位  清原和博   1億5393万円(プロ野球選手)

4位  高橋尚子   1億4147万円(プロマラソン選手)

5位  中村紀洋   1億2854万円(プロ野球選手)

6位  高橋由伸   1億1665万円(プロ野球選手)

7位  川崎憲次郎    9858万円(プロ野球選手)

8位  工藤公康     9832万円(プロ野球選手)

9位  桑田真澄    9215万円(プロ野球選手)

10位  古田敦也    9125万円(プロ野球選手)

11位  松井稼頭央    9051万円(プロ野球選手)

12位  松坂大輔    6969万円(プロ野球選手)

13位  立浪和義     6935万円(プロ野球選手)

14位  石井一久     6681万円(プロ野球選手)

15位  仁志敏久     6065万円(プロ野球選手)

16位  伊沢利光     5957万円(プロゴルファー)

17位  斎藤雅樹     5945万円(プロ野球選手)

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18位  江藤智      5849万円(プロ野球選手)

19位  小久保裕紀    5816万円(プロ野球選手)

20位  金本知憲     5802万円(プロ野球選手)

2002年分(平成14年)

1位  松井秀喜  2億7196万円(プロ野球選手)

2位  中村紀洋   1億5836万円(プロ野球選手)

3位  清原和博   1億5542万円(プロ野球選手)

4位  高橋由伸   1億3284万円(プロ野球選手)

5位  谷繁元信   1億3097万円(プロ野球選手)

6位  工藤公康   1億2155万円(プロ野球選手)

7位  高橋尚子   1億1785万円(プロ野球選手)

8位  立浪和義   1億0308万円(プロ野球選手)

9位  松井稼頭央  1億0157万円(プロ野球選手)

10位   古田敦也   8652万円(プロ野球選手)

11位  松坂大輔    8046万円(プロ野球選手)

12位  小久保裕紀    7700万円(プロ野球選手)

13位  小笠原道大    6758万円(プロ野球選手)

14位  城島健司     6425万円(プロ野球選手)

15位  高津臣吾     6249万円(プロ野球選手)

16位  黒木知宏     5852万円(プロ野球選手)

17位  西口文也     5735万円(プロ野球選手)

18位  鈴木尚典     5527万円(プロ野球選手)

19位  横尾要      5401万円(プロゴルファー)

20位  仁志敏久     5269万円(プロ野球選手)

2003年分(平成15年)

1位  清原和博  1億7210万円(プロ野球選手)

2位  中村紀洋   1億5083万円(プロ野球選手)

3位  松井稼頭央  1億4251万円(プロ野球選手)

4位  桑田真澄  1億3376万円(プロ野球選手)

5位  金本知憲   1億3050万円(プロ野球選手)

6位  丸山茂樹   1億2895万円(プロゴルファー)



7位  古田敦也  1億1533万円(プロ野球選手)

8位  上原浩治  1億1273万円(プロ野球選手)

9位   松坂大輔 1億0655万円(プロ野球選手)

10位  工藤公康   1億0530万円(プロ野球選手)

11位  小笠原道大  1億0186万円(プロ野球選手)

12位  高橋尚子   1億0185万円(プロマラソン選手)

13位  立浪和義   1億0029万円(プロ野球選手)

14位  谷繁元信     9164万円(プロ野球選手)

15位  貴乃花光司    8939万円(大相撲横綱)

16位  武豊       8485万円(競馬騎手)

17位  城島健司     8343万円(プロ野球選手)

18位  谷佳知      7713万円(プロ野球選手)

19位  伊沢利光     7497万円(プロゴルファー)

20位  鈴木尚典     7468万円(プロ野球選手)

2004年分(平成16年)

1位  佐々木主浩  2億3879万円(プロ野球選手)

2位  清原和博  1億6995万円(プロ野球選手)

3位  上原浩治  1億4876万円(プロ野球選手)

4位  小笠原道大  1億4377万円(プロ野球選手)

5位  中村紀洋   1億4119万円(プロ野球選手)

6位  城島健司   1億3800万円(プロ野球選手)

7位  小川直也   1億3780万円(格闘家〈ハッスル〉)

8位  丸山茂樹   1億3769万円(プロ野球選手)

9位  立浪和義   1億2400万円(プロ野球選手)

10位  松中信彦   1億1581万円(プロ野球選手)

11位  古田敦也  1億0771万円(プロ野球選手)

12位  高橋由伸   1億0100万円(プロ野球選手)

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13位  谷繁元信     9527万円(プロ野球選手)

14位  谷佳知      9393万円(プロ野球選手)

15位  金本知憲     9243万円(プロ野球選手)

16位  工藤公康     9161万円(プロ野球選手)

17位  高橋尚子     8881万円(プロマラソン選手)

18位  今岡誠      8332万円(プロ野球選手)

19位  松坂大輔    8010万円(プロ野球選手)

20位  新庄剛志    7562万円(プロ野球選手)

※第20位にランクインした新庄剛志はメジャーリーグを経て、北海道日本ハムファイターズに復帰。
〝SHINJO〟の登録名で、華麗なプレイとエンターテイナー振りを発揮して人気を集めた。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

長者番付

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所会長・社長・役員編)

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所代表・役員編)を年ごとにまとめました

はる坊です。

個人情報保護によって2004年分を最後に公示がされなくなりましたが、それまでは、毎年5月中に1,000万円以上を納税した人物は、所管税務署で氏名・住所・納税額が公示されていました。

公示された当日や翌日にかけては、芸能ニュースを中心に大きく取り上げられたものです。

これまで、俳優・タレント部門 歌手部門 その他芸能人部門を掲載してきました。
(※一番下にリンクを設けましたので、ご興味のある方はどうぞご覧ください)

今回は、少し趣向を変えて、芸能界の芸能事務所の代表・社長・幹部の納税額を見ていきたいと思います。

1995年分(平成7年分)からになりますが、

「この当時は、この事務所が儲かっていたんだな」

「こんな事務所知らないけど・・・」

と様々な感想をお持ちになるかと思います。

それでは、見ていきましょう。

※金額はすべて納税額です。

1995年分(平成7年)

ジャニー喜多川  1億1,864万円  ジャニーズ事務所

井澤健        9,283万円  イザワオフィス

田辺昭知       7,673万円  田辺エージェンシー

周防郁雄       4,039万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,872万円  石原プロモーション

渡辺美佐       3,696万円  渡辺プロダクション

西川幸男       2,136万円  新栄プロダクション

宮沢光子       2,038万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,529万円  ひばりプロダクション

※イザワオフィスは1979年にドリフターズいしだあゆみの事務所として、渡辺プロダクションから独立。
この頃は、いかりや長介加藤茶志村けんを中心にマネジメントしていた。
現在では、麻生祐未小泉孝太郎のマネジメントもおこなっている。

※田辺エージェンシーはタモリ・堺正章・由紀さおり永作博美を中心とした事務所だったが、最近では夏目三久のマネジメントをおこなっている。

※石原まき子氏は故・石原裕次郎氏の妻で、元女優の北原三枝氏。
裕次郎氏の死後、石原プロモーション会長に就任。

※新栄プロダクションは演歌歌手中心の芸能事務所だった。

※オフィスメイシェの宮沢光子氏は宮沢りえの実母。

※加藤和也氏は美空ひばり氏の甥で養子。

1996年分(平成8年)

ジャニー喜多川  1億8,543万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億1,588万円  イザワオフィス

松浦勝人       7,183万円  エイベックスグループ

田辺昭知       6,845万円  田辺エージェンシー

石原まき子      6,159万円  石原プロモーション

渡辺美佐       4,900万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       2,981万円  研音

西川幸男       2,086万円  新栄プロダクション

宮沢光子       1,414万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,324万円  ひばりプロダクション

1997年分(平成9年)

ジャニー喜多川  2億0,872万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億2,093万円  イザワオフィス

平哲夫      1億0,847万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       6,437万円  渡辺プロダクション

松浦勝人       5,417万円  エイベックスグループ

田辺昭知       4,628万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫       4,073万円  研音

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,769万円  石原プロモーション

1998年分(平成10年)

ジャニー喜多川  3億5,666万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億5,530万円  ジャニーズ事務所

依田巽      1億7,011万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億2,944万円  エイベックスグループ

井澤健      1億2,908万円  イザワオフィス

平哲夫      1億1,982万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       8,179万円  渡辺プロダクション

田辺昭知       4,892万円  田辺エージェンシー

石原まき子      3,109万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,286万円  アミューズ

※アミューズは、サザンオールスターズ福山雅治ポルノグラフィティのマネジメントを中心とした事務所だった。
現在では、Perfume高橋優flumpoolホラン千秋藤原さくら愛希れいかのマネジメントにも注力している。今年6月にサザンプロジェクトの責任者だった中西正樹氏が代表取締役社長に就任。

1999年分(平成11年)

平哲夫      2億4,924万円  ライジングプロダクション

メリー喜多川   2億6,040万円  ジャニーズ事務所

ジャニー喜多川  2億6,012万円  ジャニーズ事務所

長戸大幸     2億0,625万円  ビーインググループ

井澤健      1億0,312万円  イザワオフィス

依田巽        9,178万円  エイベックスグループ

松浦勝人       9,141万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       6,910万円  渡辺プロダクション

石原まき子      5,623万円  石原プロモーション

野崎俊夫       4,646万円  研音

周防郁雄       3,139万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       2,157万円  オスカープロモーション

西川幸男       1,510万円  新栄プロダクション

黒澤久雄       1,453万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉       1,206万円  アミューズ

加藤和也       1,085万円  ひばりプロダクション
 

2000年分(平成12年)

平哲夫      3億9,909万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,301万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,055万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,219万円  ジャニーズ・エンターテイメント

井澤健      1億3,572万円  イザワオフィス

依田巽      1億1,630万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億0,037万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       7,686万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫       4,503万円  研音

周防郁雄       3,609万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,288万円  石原プロモーション

古賀誠一       2,156万円  オスカープロモーション

加藤和也       1,988万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄       1,698万円  黒澤フィルムスタジオ

西川幸男       1,396万円  新栄プロダクション

2001年分(平成13年)

平哲夫      5億1,307万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,240万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,002万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,193万円  ジャニーズ・エンターテイメント

依田巽      1億2,834万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億1,539万円  エイベックスグループ

田辺昭知     1億1,088万円  田辺エージェンシー

井澤健        9,001万円  イザワオフィス

渡辺美佐       8,551万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,525万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       5,346万円  研音

石原まき子      3,201万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,880万円  アミューズ

2002年分(平成14年)

ジャニー喜多川  3億2,849万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,697万円  ジャニーズ事務所

平哲夫      1億9,671万円  ライジングプロダクション

依田巽      1億6,151万円  エイベックスグループ

藤島ジュリー景子 1億4,425万円  ジャニーズ・エンターテイメント

田辺昭知       8,824万円  田辺エージェンシー

井澤健        8,373万円  イザワオフィス

野崎俊夫       6,985万円  研音

渡辺美佐       6,671万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,351万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       6,296万円  オスカープロモーション

松浦勝人       5,221万円  エイベックスグループ

石原まき子      4,052万円  石原プロモーション

大里洋吉       2,414万円  アミューズ

堀威夫        1,575万円  ホリプロ

黒澤久雄       1,569万円  黒澤フィルムスタジオ

2003年分(平成15年)

ジャニー喜多川  3億2,953万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,825万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億8,748万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億6,039万円  ライジングプロダクション

依田巽  1億3,863万円  エイベックスグループ

井澤健  1億2,463万円  イザワオフィス

古賀誠一 1億0,347万円  オスカープロモーション

石原まき子  9,944万円  石原プロモーション

田辺昭知   9,542万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫   7,651万円  研音

渡辺美佐   7,369万円  渡辺プロダクション

川村龍夫   7,326万円  ケイダッシュ

周防郁雄   6,357万円  バーニングプロダクション

加藤和也   1,424万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄   1,424万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉   1,215万円  アミューズ

堀威夫    1,188万円  ホリプロ

2004年分(平成16年)

ジャニー喜多川  3億3,126万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,967万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 2億3,820万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億5,149万円  ライジングプロダクション

松浦勝人 1億4,088万円  エイベックスグループ

依田巽  1億3,700万円  ドリーミュージック

古賀誠一 1億3,148万円  オスカープロモーション

井澤健  1億0,244万円  イザワオフィス

川村龍夫   9,077万円  ケイダッシュ

田辺昭知   7,613万円  田辺エージェンシー  

永田洋子   7,607万円  BACコーポレーション

渡辺美佐   7,376万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫   7,287万円  研音

周防郁雄   5,964万円  バーニングプロダクション

大里洋吉   3,370万円  アミューズ

石原まき子  3,126万円  石原プロモーション

野田義治   1,713万円  サンズエンタテインメント   

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

以下に、長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)へのリンクを置いておきますので、ご興味のある方は、ぜひご覧ください

長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)

長者番付を振り返ってみましょうか(2001年分~2004年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1996年分~2000年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1991年分~1995年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1986年分~1990年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1980年分~1985年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1975年分~1979年分 芸能人&文化人部門)

人物伝

直木賞作家の生涯収入9億6400万円 !『復讐するは我にあり』佐木隆三が公表した30年間の収支一覧表

直木賞作家の生涯収入9億6,400万円!

はる坊です。

人間は他人のことが気になる生き物です。
例えば、収入。

あの人は幾らくらいひと月に稼いでいるんだろう?

あの職業に就いている人はどれくらいの年収があるんだろう?
例えば、作家・小説家。

2015年11月、作家の森博嗣さんが『作家の収支』という新書で、“「19年間で、総発行部数1400万部。累計で15億円の収入を得た」”と公表されました。

森さんは、事あるごとに、ご自身を〝マイナ〟であると定義されていますが、

著書はコンスタントに出されており、同時にコンスタントに売れ続けている作家です。

2018年には著書の累計売上数が1600万部を突破していますので、

〝出版巨大不況〟のご時世で、稼ぎは〝超メジャ〟であると思います。

しかし、コンスタントに売れる本を出し続けていると言い難い作家の収入はどうなんだろう?
という疑問が出てきます。

そんななか、2007年(平成17年)に過去30年間の収支を公表した方がいます。
直木賞作家の佐木隆三さんです。

佐木さんが公表された数字ですごい点は、毎年の収入だけではなく、
・経費
・課税対象額
・所得税額
・源泉徴収税額
・差引納付額
と、支出や納税額についても、細かく公にされたことでしょう。

佐木さんの代表作と言えば、直木賞受賞作であり、今村昌平監督・緒形拳主演で映画化された『復讐するは我にあり』ですが、


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タイトルのせいか、意外にこの作品は西村寿行作品だと思っている方も一定数おられるようです。

ちなみに『復讐するは我にあり』は、新約聖書の(ローマ人への手紙 第12章 第19節)に出てくる『愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」とあり』という言葉の一部であり、これは、《悪人に復讐を与えるのは神である》という意味といわれています。

佐木さんは『新約聖書』の言葉をタイトルに引用した形です。

しかし、最も一般的な佐木隆三さんのイメージは、何か物騒な事件が起きると、

ワイドショーやニュース番組で「作家のサキリューゾーさんは」とコメントをしていたおじさんではないでしょうか。

それでは、佐木隆三さんの30年間の収支一覧表です。

その下に、佐木隆三さんの詳しいプロフィールを紹介していますので、興味のある方はご覧ください。

1976年(昭和51年)~2005年(平成17年)分 佐木隆三 連年収支一覧表

1976年(昭和51年)

収入額:5,288万6,000円
経費額:1,449万9,000円
課税対象額:3,798万7,000円
所得税額:772万4,000円
源泉徴収税額:773万4,000円
差引納付額:-1万円
※備考 『復讐するは我にあり』の直木賞受賞で、前年度より急激に収入が増えたため、課税は平均課税方式がとられている。

出版された著作
1975年11月『復讐するは我にあり(上下)』(講談社)
1976年2月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(新人物往来社)
1976年2月『大将とわたし』(講談社)
1976年5月『狼からの贈物』(河出書房新社)
1976年6月『大罷業』(田畑書店)
1976年6月『ジャンケンポン協定』(講談社文庫)
1976年9月『偉大なる祖国アメリカ』(勁文社)

※『復讐するは我にあり』は1975年11月の刊行ですが、直木賞受賞で43万部を超えるベストセラーとなり、1976年分の収入に大きく寄与しているため、この年に出版された著作に含めました。

1976年に刊行された本の多くは、過去に一度刊行されて絶版状態にあったものや単行本化されていなかった原稿をまとめたものが目立ちます。
佐木さんは、直木賞受賞まで11冊の本を出されていますが、それらが版元を変えたり文庫化されて再度刊行されている形です。

『新宿鮫』シリーズが累計600万部以上の大ベストセラーになるまでに出した28冊ことごとくが売れず(28冊目は『氷の森』で大沢在昌作品の文庫では一番売れているのにわからないものです)、29冊目の『新宿鮫』が大ヒットして、それまでに書いて絶版になっていた本が次々に復刊されて、それらを〝ゾンビ本〟と呼んだ大沢在昌さんみたいな感じでしょうか。

1977年(昭和52年)

収入額:2,590万円
経費額:864万9,000円
課税対象額:1,685万1,000円
所得税額:482万4,000円
源泉徴収税額:269万8,000円
差引所得税納付額:212万5,000円

出版された著作
1977年2月『ドキュメント狭山事件』(文藝春秋)
1977年2月『日本漂民物語』(講談社)
1977年4月『越山田中角栄』(朝日新聞社)
1977年5月『殺人百科 』(徳間書店)
1977年10月『人生漂泊』(時事通信社)

1978年(昭和53年)

収入額:2,626万1,000円
経費額:939万円
課税対象額:1,649万1,000円
所得税額:465万2,000円
源泉徴収税額:268万円
差引所得税納付額:197万1,000円

出版された著作

1978年1月『偉大なる祖国アメリカ』(角川文庫)
1978年1月『実験的生活』(講談社)
1978年2月『閃光に向かって走れ』(文藝春秋)
1978年3月『男たちの祭り』(角川文庫)
1978年4月『詐欺師』(潮出版社)
1978年6月『愛の潮路』(光文社)
1978年9月『続人生漂泊』(時事通信社)
1978年10月『娼婦たちの天皇陛下』
1978年11月『大罷業』(角川文庫)
1978年12月『誓いて我に告げよ』(角川書店)
1978年12月『復讐するは我にあり(上)』(講談社)
1978年12月『復讐するは我にあり(下)』(講談社)

1979年(昭和54年)

収入額:4,963万8,000円
経費額:1,389万2,000円
課税対象額:3,536万7,000円
所得税額:11,787,000円
源泉徴収税額:682万7,000円
差引所得税納付額:495万9,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1979年4月『曠野へ 死刑囚の手記から』(講談社)
1979年5月『事件百景-陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1979年5月『ドキュメント狭山事件』(文春文庫)
1979年6月『男と女のいる風景』(文藝春秋)
1979年9月『無宿の思想』(時事通信社)
1979年12月『錆びた機械』(潮出版社)

※1977年分(昭和52年分)・1978年分(昭和53年分)から収入が大幅に増加しているのは、1979年(昭和54年)4月21日に、今村昌平監督・緒形拳主演で公開された『復讐するは我にあり』の映画化により、講談社から出版された文庫本が版を重ねたのが理由と考えられる。

1980年(昭和55年)

収入額:3,283万8,000円
経費額:1,136万9,000円
課税対象額:2,105万9,000円
所得税額:684万7,000円
源泉徴収税額:352万2,000円
差引所得税納付額:332万4,000円

出版された著作
1980年2月『海燕ジョーの奇跡』(新潮社)
1980年2月『殺人百科 PARTⅡ』(徳間書店)
1980年5月『旅人たちの南十字星』(文藝春秋)
1980年11月『波に夕陽の影もなく 海軍少佐竹内十次郎の生涯』(中央公論社)
1980年11月『風恋花』(潮出版社)

1981年(昭和56年)

収入額:3,570万2,000円
経費額:1,117万9,000円
課税対象額:2,412万6,000円
所得税額:850万5,000円
源泉徴収税額:409万8,000円
差引所得税納付額:440万4,000円

出版された著作
1981年2月『越山田中角栄』(徳間文庫)
1981年4月『殺人百科』(文春文庫)
1981年4月『冷えた鋼塊(上巻)』(集英社)
1981年4月『冷えた鋼魂(下巻)』(集英社)
1981年5月『幸せの陽だまり』(潮出版社)
1981年6月『欲望の塀』(文藝春秋)
1981年10月『日本漂民物語』(徳間文庫)
1981年12月『右の腕』(学習研究社)

1982年(昭和57年)

収入額:4,219万5,000円
経費額:1,506万1,000円
課税対象額:2,873万4,000円
所得税額:1,022万2,000円
源泉徴収税額:468万5,000円
差引所得税納付額:553万7,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1982年1月『大将とわたし』(講談社文庫)
1982年2月『詐欺師』(文春文庫)
1982年3月『殺人百科 PARTⅢ』(徳間書店)
1982年4月『沖縄住民虐殺-日兵虐殺と米国犯罪』(徳間文庫)
1982年5月『政商 小佐野賢治』(講談社)
1982年5月『我が沖縄ノート』(潮出版社)
1982年6月『土曜日の騎士』(河出書房新社)
1982年7月『新撰組』(文藝春秋)
1982年8月『きのこ雲』(中央公論社)
1982年8月『ジミーとジョージ』(集英社)
1982年9月『娼婦たちの天皇陛下』(徳間文庫)
1982年10月『噂になった女たち』(文藝春秋)
1982年12月『閃光に向かって走れ』(文春文庫)

1983年(昭和58年)

収入額:2,533万4,000円
経費額:1,005万9,000円
課税対象額:1,527万5,000円
所得税額:391万5,000円
源泉徴収税額:312万円
差引所得税納付額:79万4,000円

出版された著作
1983年3月『曠野へ』(講談社文庫)
1983年4月『英雄』(集英社)
1983年6月『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋)
1983年9月『海燕ジョーの奇跡』(新潮文庫)
1983年10月『田中角栄の風景―戦後初期・炭管疑獄』(徳間書店)
1983年10月『波に夕陽の影もなく』(中公文庫)
1983年10月『冷えた鋼塊(上)』集英社文庫
1983年10月『冷えた鋼塊(下)』集英社文庫

1984年(昭和59年)

収入額:3,961万3,000円
経費額:1,493万円
課税対象額:2,468万3,000円
所得税額:783万2,000円
源泉徴収税額:415万6,000円
差引所得税納付額:367万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作

1984年2月『誓いて我に告げよ』(角川文庫)
1984年6月『殺人百科 一』(徳間文庫)
1984年6月『殺人百科 二』(徳間文庫)
1984年9月『男の自画像』(佼正出版社)
1984年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間書店)
1984年9月『殺人百科 三』(徳間文庫)
1984年10月『人生漂泊』(潮文庫)


[まとめ買い] 殺人百科(電子復刻版)

1985年(昭和60年)

収入額:2,615万4,000円
経費額:931万1,000円
課税対象額:1,684万3,000円
所得税額:424万5,000円
源泉徴収税額:297万9,000円
差引所得税納付額:126万5,000円

出版された著作
1985年4月『ありふれた奇蹟』(講談社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(上)』(潮出版社)
1985年4月『翔んでる十兵衛(下)』(潮出版社)
1985年7月『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(毎日新聞社)
1985年9月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(毎日新聞社)
1985年10月『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫)
1985年12月『犯罪するは我にあり―佐木隆三文学ノート』(作品社)

1986年(昭和61年)

収入額:3,126万9,000円
経費額:1,077万5,000円
課税対象額:2,049万4,000円
所得税額:638万6,000円
源泉徴収税額:338万4,000円
差引所得税納付額:300万3,000円

出版された著作
1986年1月『ジミーとジョージ』(潮文庫)
1986年2月『政商 小佐野賢治』(徳間文庫)
1986年5月『殺人百科〈Part4〉―陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)
1986年7月『旅人たちの南十字星』(文春文庫)
1986年7月『南へ走れ、海の道を!』(徳間書店)
1986年12月『恋文三十年 沖縄・仲間翻訳事務所の歳月』(学習研究社)

1987年(昭和62年)

収入額:3,315万5,000円
経費額:1,053万9,000円
課税対象額:2,261万6,000円
所得税額:600万1,000円
源泉徴収税額:356万7,000円
差引所得税納付額:243万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1987年4月『華やかな転落』(潮出版社)
1987年5月『男の責任―女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1987年7月『わが沖縄ノート』(徳間文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈2〉』(文春文庫)
1987年7月『殺人百科―陰の隣人としての犯罪者たち〈3〉 』(文春文庫)
1987年10月『深川通り魔殺人事件』(文春文庫)

1988年(昭和63年)

収入額:2,279万9,000円
経費額:778万8,000円
課税対象額:1,501万9,000円
所得税額:337万3,000円
源泉徴収税額:246万円
差引所得税納付額:91万3,000円

出版された著作
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈上〉』(文春文庫)
1988年12月『勝ちを制するに至れり〈下〉』(文春文庫)

1989年(昭和64年・平成元年)

収入額:2,883万1,000円
経費額:845万4,000円
課税対象額:2,037万7,000円
所得税額:537万9,000円
源泉徴収税額:297万4,000円
差引所得税納付額:240万5,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。

出版された著作
1989年9月『千葉大女医殺人事件』(徳間文庫)
1989年11月『リクルート帝王の白日夢』(双葉社)

1990年(平成2年)

収入額:3,734万6,000円
経費額:1,220万3,000円
課税対象額:2,514万3,000円
所得税額:647万7,000円
源泉徴収税額:410万5,000円
差引所得税納付額:237万1,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。

出版された著作
1990年2月『バカなふりして生きてみな』(青春出版社)
1990年3月『裁判長大岡淳三』(講談社)
1990年6月『身分帳』(講談社)※第2回伊藤整文学賞受賞
1990年7月『新撰組事件帳』(文春文庫)
1990年9月『別府三億円保険金殺人事件』(徳間文庫)

1991年(平成3年)

収入額:2,961万8,000円
経費額:1,259万1,000円
課税対象額:1,702万7,000円
所得税額:393万6,000円
源泉徴収税額:303万8,000円
差引所得税納付額:89万8,000円

出版された著作
1991年8月『宮崎勤裁判〈上〉 』(朝日新聞社)
1991年9月『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)
1991年9月『親が知らなかった子の愛し方』(青春出版社)
1991年12月『いま、裁判が面白い』(蒼樹社)

1992年(平成4年)

収入額:5,574万7,000円
経費額:1,883万4,000円
課税対象額:3,619万2,000円
所得税額:1,127万7,000円
源泉徴収税額:576万2,000円
差引所得税納付額:551万4,000円
※備考:納税に平均課税方式がとられている。
※収入(売上)3,000万円以上の為、消費税課税事業者。

出版された著作
1992年2月『恩讐海峡』(双葉社)
1992年4月『法廷の賓客たち』(河出書房新社)
1992年7月『正義の剣』(講談社)
1992年7月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)
1992年10月『しぶとさの自分学』(青春出版社)
1992年11月『越山田中角栄』(現代教養文庫)
1992年11月『伊藤博文と安重根』(文藝春秋)

1993年(平成5年)

収入額:2,909万円
経費額:1,075万5,000円
課税対象額:1,835万5,000円
所得税額:444万2,000円
源泉徴収税額:332万6,000円
差引所得税納付額:111万5,000円

出版された著作
1993年1月『殺人百科 四』(徳間文庫)
1993年2月『矯正労働者の明日』(河出書房新社)
1993年3月『裁判長大岡淳三』(講談社文庫)
1993年6月『生きている裁判官』(中央公論社)
1993年6月『身分帳』(講談社文庫)
1993年9月『闇の中の光』(徳間書店)
1993年9月『錬金術師の白日夢』(双葉文庫)

1994年(平成6年)

収入額:2,821万5,000円
経費額:874万5,000円
課税対象額:1,922万円
所得税額:362万1,000円
源泉徴収税額:329万6,000円
差引所得税納付額:32万5,000円

出版された著作

1994年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉社)
1994年4月『恩讐海峡』(双葉文庫)
1994年6月『バカなふりして生きてみな』(青春文庫)
1994年7月『死刑囚 永山則夫』(講談社)
1994年10月『捜査検事片桐葉子』(双葉社)

1995年(平成7年)

収入額:3,049万4,000円
経費額:1,125万円
課税対象額:1,880万4,000円
所得税額:365万7,000円
源泉徴収税額:325万9,000円
差引所得税納付額:39万7,000円

出版された著作

1995年4月『司法卿 江藤新平』(文藝春秋)
1995年6月『白鳥正宗刑事の事件帳』(中央公論社)
1995年6月『宮崎勤裁判〈上〉』(朝日文芸文庫)
1995年8月『正義の剣』(講談社文庫)

1996年(平成8年)

収入額:3,521万2,000円
経費額:1,183万4,000円
課税対象額:2,321万8,000円
所得税額:490万6,000円
源泉徴収税額:355万7,000円
差引所得税納付額:134万8,000円
※備考:平均課税方式がとられている。

出版された著作
1996年1月『絆 春日部新平の簡裁事件簿』(双葉文庫)
1996年3月『伊藤博文と安重根』(文春文庫)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記①』(小学館)
1996年10月『「オウム法廷」連続傍聴記 (2) 麻原出廷②』(小学館)
1996年10月『オウム裁判を読む』(岩波書店)
1996年10月『ハダカの自分を生きてみな』(青春文庫)

1997年(平成9年)

収入額:4,676万7,000円
経費額:1,563万2,000円
課税対象額:3,024万2,000円
所得税額:716万9,000円
源泉徴収税額:536万8,000円
差引所得税納付額:180万1,000円
※備考:平均課税方式がとられている。

出版された著作
1997年2月『法廷のなかの人生』(岩波新書)
1997年8月『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)
1997年10月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日新聞社)
1997年10月『宮崎勤裁判〈下〉』(朝日新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)
1997年11月『冷えた鋼塊 上』(読売新聞社)

1998年(平成10年)

収入額:3,854万5,000円
経費額:1,328万9,000円
課税対象額:2,487万9,000円
所得税額:587万1,000円
源泉徴収税額:384万9,000円
差引所得税納付額:202万2,000円

出版された著作
1998年3月『人が人を裁くということ』(青春出版社)
1998年4月『司法卿 江藤新平』(文春文庫)
1998年9月『裁判』(作品社)

1999年(平成11年)

収入額:2,987万7,000円
経費額:1,324万6,000円
課税対象額:1,741万円
所得税額:346万円
源泉徴収税額:307万5,000円
差引所得税納付額:385,000円
※備考:消費税課税事業者

出版された著作
1999年5月『もう一つの青春』(岩波書店)
1999年8月『悪女の涙―福田和子の逃亡十五年』(新潮社)
1999年9月『少年犯罪の風景-「親子の法廷」で考えたこと』(東京書籍)
1999年11月『死刑執行―隣りの殺人者〈1〉』(小学館文庫) ※『曠野へ 死刑囚の手記から』改題

この年、東京暮らしに別れを告げ、福岡県北九州市門司区に移住されています。

2000年(平成12年)

収入額:2,935万2,000円
経費額:1,317万5,000円
課税対象額:1,617万7,000円
所得税額:313万4,000円
源泉徴収税額:317万7,000円
差引所得税納付額:-4万3,000円(還付)
※備考:消費税課税事業者

出版された著作
2000年1月『白昼凶刃―隣りの殺人者〈2〉』(小学館文庫) ※『深川通り魔殺人事件』改題
2000年3月『法廷のなかの隣人たち』(潮出版社)
2000年4月『逃亡射殺  隣りの殺人者3』(小学館文庫) ※『旅人たちの南十字星』改題
2000年5月『成就者たち』(講談社)
2000年6月『女医絞殺 隣りの殺人4』(小学館文庫) ※『千葉大女医殺人事件』改題
2000年8月『組長狙撃 海燕ジョーの奇跡 隣りの殺人者5』(小学館文庫)
2000年9月『宮崎勤裁判〈中〉』(朝日学芸文庫)
2000年12月『宮崎勤裁判』(朝日学芸文庫)

2001年(平成13年)

収入額:2,478万円
経費額:1,567万円
課税対象額:1,395万円
所得税額:245万5,000円
源泉徴収税額:249万9,000円
差引所得税納付額:-4万4,000円(還付)

出版された著作
2001年1月『小説 大逆事件』(文藝春秋)
2001年4月『供述調書―佐木隆三作品集』(文藝春秋)
2001年7月『裁かれる家族―断たれた絆を法廷でみつめて』(東京書籍)
2001年11月『法廷の内と外で考える―犯罪者たちとの十年』(文芸社)

2002年(平成14年)

収入額:2,296万8,000円
経費額:1,048万7,000円
課税対象額:1,248万1,000円
所得税額:229万7,000円
源泉徴収税額:238万8,000円
差引所得税納付額:-34万1,000円(還付)

出版された著作
2002年4月『三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件 』(小学館)
2002年11月『大義なきテロリスト―オウム法廷の16被告』(日本放送出版協会)

2003年(平成15年)

収入額:1,685万4,000円
経費額:936万4,000円
課税対象額:658万2,000円
所得税額:78万9,000円
源泉徴収税額:171万4,000円
差引所得税納付額:-92万4,000円(還付)

出版された著作
2003年5月『成就者たち』(講談社文庫)
2003年10月『少女監禁―「支配と服従」の密室で、いったい何が起きたのか』(青春出版社)

2004年(平成16年)

収入額:1,946万1,000円
経費額:1,053万8,000円
課税対象額:768万4,000円
所得税額:96万5,000円
源泉徴収税額:202万4,000円
差引所得税納付額:-105万9,000円(還付)

出版された著作
2004年2月『小説 大逆事件』
2004年2月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社)
2004年6月『証言台の母―小説医療過誤裁判』(弦書房)
2004年9月『深川通り魔殺人事件』(新風舎文庫)
2004年10月『宿老・田中熊吉伝』(文藝春秋)

2005年(平成17年)

収入額:1,763万9,000円
経費額:1,101万5,000円
課税対象額:662万3,000円
所得税額:66万8,000円
源泉徴収税額:177万8,000円
差引所得税納付額:-111万円(還付)

出版された著作
2005年6月『なぜ家族は殺し合ったのか』(青春出版社)
2005年11月『人はいつから「殺人者」になるのか』(青春出版社)

2006年(平成18年)以降の佐木隆三さんは

30年間に渡る佐木隆三さんの収支はいかがだったでしょうか?

私自身の感想は「意外にコンスタントに、結構な額を稼いでおられたんだな」というものです。

また、著書が多く刊行された年も、そうでない年も収入に大差がないことが特徴的です。

これは佐木さんが、事件の裁判傍聴記を週刊誌に寄稿するなど、週刊雑誌分野での活動が多く、それなりの原稿料を受け取られていたからだと思います。

あと、経費が収入が下がっても、毎年ある程度必要だったのは、取材活動に必要だったこともあるでしょうが、秘書を雇っておられたことも大きな要因だと思います。

2006年以降の佐木隆三さんの著作をご紹介します。

2006年 刊行書籍なし

2007年4月『復讐するは我にあり(改訂新版)』(弦書房)
2007年12月『高炉の神様 宿老・田中熊吉伝』(文春文庫)

2008年8月『慟哭 小説・林郁夫裁判』(講談社文庫)

2009年2月『法廷に吹く風』(弦書房)
2009年11月『復讐するは我にあり(改訂新版)』(文春文庫)

2011年9月『越山田中角栄』(七つの森書館)

2012年2月『わたしが出会った殺人者たち