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魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

1970年代の話

1974年度 国家公務員上級職キャリア組(現在の国家公務員総合職)採用内定者の省庁別出身大学一覧表まとめ

1974年度(昭和49年度) 国家公務員上級職キャリア組(現在の国家公務員総合職)採用内定者の省庁別出身大学を一覧表にまとめました

はる坊です。
今回は1974年(昭和49年)度の国家公務員上級職(いわゆるキャリア組ですね)採用内定者の出身大学データを省庁別にまとめました。

〝国家公務員上級試験から〟国家公務員I種試験〟と名称が変わり、現在の採用区分では、〝国家公務員総合職〟と呼ばれています。

戦後、公務員に人気が集まった時期は、朝鮮戦争の〝特需景気〟のあと。
1964年の東京オリンピック後の〝証券恐慌〟といわれる時代。
今回取り上げる1973年以後、2度にわたる〝オイルショック〟期。
そして、〝バブル景気〟崩壊後の平成時代。

1973年(昭和48年)・1974年(昭和49年)は、オイルショックによる不況によって、民間企業が新規採用を抑制したり中止したりと、大学生の従来の就職活動の形に変化が現れた年でもあります。

やはり、〝キャリア官僚・キャリア組=東大出身者〟というイメージどおり、東大生・東京大学出身者が圧倒的な強さを見せていますが、続く京都大学、他の旧帝大(北海道大学・東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学)以外の、地方国立大学からの採用内定者もチラホラ見受けられます。

そして、早慶をはじめとする私立大学生の採用は、現在よりずっと少ない印象を受けます。
そんな私立大学生のなかで健闘しているのが、八王子移転前の中央大学です。
おそらく法学部生が中心だと思いますが、1973年の司法試験でも、東大の90名を抜いて、130名の合格者を出しています。

1974年には、東大・・・95名 中央大・・・85名となりますが、中央大学法学部の黄金期だったことも読み取れます。

こちらに1972年(昭和47年)の主要国公立・私立大学の偏差値をまとめているのですが、当時は、私立大学の学費が高額だったこともあり、国公立大学に人気が集まり、難関だったことがうかがえます。



1972年(昭和47年)の大学入試偏差値(難易度)を調べてみました。

ちなみに、1974年(昭和49年)度の、国家公務員上級職の初任給は72,800円。
新人の場合、フルに支給されるのは冬季分ですが、ボーナス(期末手当・勤勉手当)は年間5.2ヶ月分。
民間の大卒初任給の平均が、78,700円。

1年のうちに米や肉類の値段が10%は上昇する「狂乱物価」といわれるほどのインフレ時代だったので、翌1975年(昭和50年)度の初任給は、一気に80,500円。(民間大卒初任給の平均は89,300円)
ボーナス(期末手当・勤勉手当)は、前年と変わらず年間5.2ヶ月分。

翌々年の1976年(昭和51年)の初任給は86,400円(民間大卒初任給の平均は94,300円)。
ボーナス(期末手当・勤勉手当)は、0.2ヶ月分ダウンの年間5.0ヶ月分となっていますので、物価の上昇で、大幅昇給でも生活が楽になったかどうかはともかく、毎年、公務員・民間とも現在では考えられないような昇給があった時代でもありました。(数字は、『人事院』ホームページ 『年次統計』より引用)

そんな、大昔の公務員のお話ですが、こんな時代もあったんだな、と楽しんでいただければ幸いです。

※なお、採用内定となったものの、法曹への道、民間企業への就職、そして大学院進学を選んだ方もおられるようですので、実際に入省・入庁された方と、若干ではありますが、数字が変化する部分があることをご了承ください。

※また、外務省のデータは外務公務員しか取得できませんでした。
今後、情報を得ることができましたら掲載いたします。どうかご了承ください。

法務省

事務官
東京大学・・・6名 
埼玉大学・東京学芸大学・名古屋大学・九州大学・京都府立大学・早稲田大学・東京女子大学・関西学院大学・・・各2名
北海道大学・弘前大学・東北大学・信州大学・千葉大学・東京教育大学・お茶の水女子大学・金沢大学・京都大学・神戸大学・岡山大学・愛媛大学・慶應義塾大学・中央大学・上智大学・明治大学・愛知大学・・・各1名

大蔵省

事務官
東京大学・・・24名 
京都大学・・・5名 
一橋大学・・・4名 
大阪大学・・・3名 
早稲田大学・中央大学・法政大学・・・各2名 
北海道大学・名古屋大学・金沢大学・九州大学・横浜市立大学・慶應義塾大学・明治大学・・・各1名

技官
東北大学・・・2名
京都大学・東京都立大学・・・各1名

外務省

外務公務員
東京大学・・・13名
一橋大学・・・6名
慶應義塾大学・・・2名
東北大学・京都大学・上智大学・創価大学・・・各1名

※外務省のデータは外務公務員しか取得できませんでした。
今後、情報を得ることができましたら掲載いたします。どうかご了承ください。

文部省

事務官
東京大学・・・4名 
京都大学・・・3名 
北海道大学・・・2名
茨城大学・名古屋大学・早稲田大学・・・各1名

厚生省

事務官

東京大学・・・11名 
京都大学・・・4名 
一橋大学・・・2名 

技官

東京大学・・・7名 
京都大学・・・3名 
大阪大学・・・2名 
北海道大学・千葉大学・九州大学・大阪市立大学・・・各1名

農林省

事務官・技官の合計数

東京大学・・・35名 
京都大学・・・16名 
名古屋大学・・・9名 
宇都宮大学・・・8名 
北海道大学・東京農工大学・・・各7名 
九州大学・・・6名
東京教育大学・岐阜大学・三重大学・鹿児島大学・大阪府立大学・・・各5名
岩手大学・東北大学・・・各4名
宮崎大学・・・3名
帯広畜産大学・信州大学・鳥取大学・京都府立大学・早稲田大学・・・各2名
山形大学・千葉大学・東京水産大学・静岡大学・京都工芸繊維大学・神戸大学・岡山大学・島根大学・山口大学・佐賀大学・東京都立大学・慶應義塾大学・中央大学・麻布獣医大学・東海大学・日本獣医畜産大学・・・各1名

通産産業省

事務官
東京大学・・・25名
一橋大学・・・1名

技官
東京大学・・・19名
京都大学・・・2名
東北大学・東京工業大学・早稲田大学・・・各1名

運輸省

事務官
東京大学・・・14名
京都大学・・・2名
九州大学・・・1名

技官
東京大学・・・13名
京都大学・・・6名
東京工業大学・・・4名
九州大学・北海道大学・・・各3名
早稲田大学・・・2名
東北大学・東京農工大学・金沢大学・名古屋大学・名古屋工業大学・大阪大学・岡山大学・慶應義塾大学・姫路工業大学・・・各1名

郵政省

事務官
東京大学・・・14名
京都大学・・・2名
九州大学・・・1名
大阪大学・・・1名

技官

東京大学・・・6名
京都大学・・・2名
東京工業大学・横浜国立大学・・・2名
九州大学・北海道大学・東北大学・新潟大学・千葉大学・埼玉大学・電気通信大学・名古屋工業大学・大阪大学・九州工業大学・・・各1名

労働省

事務官

東京大学・・・7名
京都大学・・・3名
東北大学・お茶の水女子大学・横浜国立大学・金沢大学・山口大学・香川大学・慶應義塾大学・立教大学・・・各1名

技官

京都大学・東北大学・・・各2名
東京大学・北海道大学・神戸大学・・・各1名

清掃力抜群!エコバックスロボット掃除機

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その時間を得る対価として、エコバックスロボット掃除機は決して高い買い物ではないと思います。



建設省

事務官

東京大学・・・12名
京都大学・・・4名
東北大学・・・1名

技官

東京大学・・・17名
京都大学・・・12名
大阪大学・九州大学・・・各7名
東京工業大学・・・5名
北海道大学・・・4名
東北大学・早稲田大学・・・各3名
名古屋大学・名古屋工業大学・・・各2名
千葉大学・東京教育大学・東京農工大学・金沢大学・神戸大学・広島大学・九州工業大学・熊本大学・宮崎大学・東京都立大学・日本大学・東京農業大学・・・各1名

自治省

事務官

東京大学・・・16名
京都大学・東北大学・・・各1名

技官

東京工業大学・・・1名

総理府

事務官

東京大学・・・3名
京都大学・・・2名

警察庁

事務官

東京大学・・・10名
京都大学・・・3名
広島大学・・・1名

技官

北海道大学・・・2名
京都大学・横浜国立大学・新潟大学・九州工業大学・・・各1名

行政管理庁

事務官

東京大学・・・2名
京都大学・東北大学・東京都立大学・・・各1名

北海道開発庁

事務官

東京大学・京都大学・東北大学・・・各1名

技官

北海道大学・・・5名
鳥取大学・・・2名
東京大学・京都大学・東北大学・・・各1名

防衛庁

事務官

東京大学・中央大学・・・各2名
京都大学・一橋大学・早稲田大学・日本大学・関西学院大学・・・各1名

技官

名古屋工業大学・神戸大学・・・各1名

経済企画庁

事務官

東京大学・・・4名
一橋大学・東京都立大学・同志社大学・・・各1名

技官

東京大学・・・1名

科学技術庁

事務官

東京大学・・・1名

技官

東京大学・・・7名
東北大学・東京教育大学・・・各3名
京都大学・早稲田大学・・・各2名
埼玉大学・東京工業大学・電気通信大学・千葉大学・・・各1名

環境庁

事務官

東京大学・・・2名

技官

京都大学・東京工業大学・・・各2名
北海道大学・弘前大学・東北大学・東京農工大学・千葉大学・・・各1名

人事院

事務官

東京大学・・・3名 
名古屋大学・早稲田大学・・・各1名

技官

東京大学・東京工業大学・・・各1名

会計検査院

事務官
東京大学・・・4名 
東北大学・岡山大学・・・各1名

技官

京都大学・・・1名

日本専売公社

事務官

東京大学・・・4名
京都大学・大阪大学・・・各3名
東北大学・横浜国立大学・・・各2名
一橋大学・北海道大学・・・各1名

技官

東京大学・・・6名
北海道大学・・・5名
京都大学・九州大学・・・各3名
東北大学・・・2名
東京工業大学・横浜国立大学・千葉大学・・・各1名

特許庁

技官

東京大学・京都大学・・・各6名
東北大学・・・4名
東京工業大学・千葉大学・・・各3名
埼玉大学・東京芸術大学・横浜国立大学・名古屋大学・名古屋工業大学・・・各2名
北海道大学・新潟大学・電気通信大学・お茶の水女子大学・静岡大学・岐阜大学・大阪大学・金沢大学・山口大学・愛媛大学・九州芸術工科大学・九州大学・鹿児島大学・慶應義塾大学・法政大学・群馬工業高等専門学校・・・各1名

工業技術院

技官

京都大学・東京工業大学・・・各5名 東京大学・・・4名
北海道大学・大阪市立大学・・・各3名
東京教育大学・九州大学・・・各2名
東北大学・千葉大学・名古屋大学・神戸大学・広島大学・鹿児島大学・東京都立大学・早稲田大学・慶應義塾大学・同志社大学・・・各1名

気象庁

技官

東京大学・・・5名 
東北大学・京都大学・大阪市立大学・・・各2名
電気通信大学・金沢大学・大阪大学・大阪電気通信大学・・・各1名

最後に、あなたが公務員試験を受験しようとされている方なら、ここだけは聞いておいてください

もし、あなたが公務員試験を受験しようとされているなら、しっかりと目標を見定めて実績のあるプログラムで勉強をしたほうが、しっかりと夢に近づけますよ。

やはり、ただの独学では得られない、長年蓄積されたノウハウや一番効率のいい教育プログラムとは無視することができないと感じます。

最近では、安い受講料と手軽な受講方法をうたう業者も増えていますが、実際の合格数を見るとまったく比較になりません。

公務員採用後に得られる収入を考えれば、多少高くともしっかりした学習方法で能率よく学習して、一発合格をするほうがよいにきまっています。

また、本気で公務員になりたい仲間と一緒に勉強できることは、あなたにとって大きな刺激になります。

さらに、合格後・採用後に、同じ省庁に一緒に勉強して気心が知れた仲間がいれば、心強いですよ。

あなたの『公務員になりたい!』という思いを、心から信じています。
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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
これからも楽しんでいただける記事を書いていきますので、
今後ともよろしくお願い申し上げます。

人物伝

【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる①

はる坊です。

渋谷区初台に大豪邸を構えるスクウェア・エニックス創業者・福嶋康博さんとは?

東京の高級住宅街といえばどこが思い浮かびますか?
大昔は、田園調布。一昔前は成城。

しかし、現在の富裕層は都心に住まうようになりました。
特に渋谷区や港区。

渋谷区なら高級住宅地として、まず、松濤や広尾が有名ですが、初台(はつだい)にも大豪邸があります。
ロッテの重光武雄氏や戸田建設の故・戸田順之助氏。

そして、スクウェア・エニックスの創業者で名誉会長の福嶋康博さんの邸宅です。
初台の福嶋邸は敷地面積は約1050坪。

地上2階・地下1階。
加えて、別にバーベキューハウスもある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。

緑に囲まれて、道路から邸宅の様子はうかがい知ることができませんが、建物の外壁は総タイル張りの非常に立派なものです。

法人所有ではなく、福嶋康博さんご夫妻が個人名義で所有されている自宅ですが、土地や建物を合わせると、一体何十億円の価値があるでしょう。

それでは、福嶋さんが一代で、どうやってこの御殿を築き上げるまでになったのかをみていきましょう。

スクウェア・エニックス創業者・名誉会長 福嶋康博さんの足跡

1947年北海道旭川市に生まれる。

福嶋康博さんは1947年8月18日に北海道旭川市に生まれました。星座は獅子座・血液型はA型。
当時、父親は旭川市内で映画館と質屋を経営していました。

ところが、この映画館が火事になり全焼。焼け残った自宅を改装して父母は食堂を始めます。
このときに福嶋さんは初めて〝商売〟を経験します。全焼した映画館に落ちていた紙芝居の道具を拾って、紙芝居師のまねをして近所の子どもたちに物語を聞かせたのです。子どもひとりにつき5円のお金を得ました。

また、近所で火事があったときは、焼け跡に落ちていた金属を拾い集めて、業者に売りました。これは子どもにしてはいいお金になったと福嶋さん自身が述懐しています。

しかし、プライベートでは両親が離婚して、父親は札幌に出て行き、母親が食堂を切り盛りします。

福嶋さんが“「母親が寝ているところを見たことがない」”くらい、母親は働き者だったようです。

中学校は、地元の旭川市立常盤中学校に進みますが、勉強はあまり得意ではなかったようです。しかし、高校受験に際して、このままでは希望校の合格が危ういことを担任の教師から教えられると、自分で勉強のスケジュール表を作り勉強に励みます。

元々、数学だけは得意だったこともあり、無事に北海道立旭川工業高等学校建築科へ進学します。

旭川工業高校入学後は、まずはラグビー部に入部しますが、3ヶ月で退部。
入部した理由が、〝試合の日には学校を休めるから〟であったので、ラグビー自体にはあまり興味がなかったのかもしれません。
しかし、恋愛も経験するなど、充実した高校時代を送ったようです。

高校2年の夏ごろ、離れて暮らす札幌の父親から連絡がありました。「おまえ、大学へ行け」というものでした。福嶋さんは大学進学について、あまり考えていませんでしたが、反射的に「うん」と答えてしまいます。

しかしここで2つの壁にぶち当たります。まず、工業高校では大学受験に必要な科目の授業ではやっていませんでした。

そこで福嶋さんは堂々と授業中に大学受験の勉強を始めます。当然、教師からは睨まれて職員室に呼び出されます。

しかし、福嶋さんはひるみませんでした。“「ぼくの人生にとってここで、学校の勉強するのが大事か、受験勉強の方が大事か。大学受験です」”と教師に言い放って授業中に受験勉強を続けます。

もうひとつは、先に大学に進学していた兄の一博さんから「親父はたいして仕送りをしてくれないぞ」と聞かされたことです。福嶋さんは受験勉強の傍らで、下級生の家庭教師をしてお金を貯めながら、残りの高校生活を過ごします。

18歳で上京、日本大学理工学部建築学科へ進学

仕送りが足りない分は、アルバイトではなく自分の得意な事で稼ぐ

1966年(昭和41年)4月、福嶋さんは晴れて日本大学理工学部建築学科に合格して上京します。なぜ、建築学科だったかといえば、工業高校の建築科だったからで、あまり深く考えた結果ではありませんでした。

事実、福嶋さんの仕送りは、他の学生の3分の1ほどしかありませんでした。アパートの家賃が6000円なのに仕送りは5000円程度。

しかし、福嶋さんは足りない分を普通のアルバイトで稼ごうとは考えませんでした。

自分の得意な事で稼ごうとしたのです。

建築学科には図学という講義がありました。
福嶋さんは友達の分も作品を作っては、それを売って稼ぎました。

そして、麻雀です。福嶋さんは中学時代から麻雀に親しんでいましたが、メキメキと腕を上げて、大学生にしてかなりの強者でした。
友達と麻雀をするといつも福嶋さんの大勝。

そうすると、友達が一緒に麻雀をやってくれないので、福嶋さんの勝ち点を半分にする特別ルールを条件に、友人たちと麻雀卓を囲み、また、雀荘に行っては、社会人や他の学生相手に稼ぎます。

麻雀で稼いだお金で問屋へ行き、コンドームを仕入れて団地へ販売に行ったり、ストッキングを仕入れて美容院に売り込みに行ったりもしました。
当時から行動力には目を見張るものがあったようです。

1970年前後は学生運動真っ盛り。

特に1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)にかけては、日大紛争と呼ばれる大規模な学生運動があり、日本大学は講義どころではなくなりました。卒業式も行われないほどの激しさでした。

大学も3年生になると、周囲は就職準備に入ります。しかし、福嶋さんには疑問がありました。

それは「建築学科を出たからといって、建築会社に入るしか道はないのか?」というものでした。

建築学科の友達に聞いて回ると、建築学科=建築会社・設計会社へ就職というのが当然じゃないかという答えでしたが、福嶋さんはその答えはすんなりと馴染めないものでした。
実のところ、福嶋さんは構造計算が得意でしたが、少しも好きではなかったのです。

(構造計算を一生続けていって何になる。そのまま人生が終わるのは嫌だ。自分がやりたいことと何かが違う)

おぼろげに(事業をやってみたい)と考えてはいましたが、アテがあるわけでもありませんでした。

結局、福嶋さんは就職をすることなく1970年(昭和45年)3月日本大学理工学部建築学科を卒業しました。

就職をしたことがない!いきなり起業

中野ブロードウェイPRフリーペーパー構想

日本大学を卒業した福嶋さんは、当時付き合っていた女性の元に身を寄せます。

そこで、福嶋さんはある事業を思いつきます。

当時、よく行っていた中野ブロードウェイは、建物の造りが入り組んで複雑な上に小さな店がほとんどでわかりにくかったのです。

当時の中野ブロードウェイは地下1階から地上4階まで、日用雑貨・ファッション・レストラン等が雑然と並んでいる場所でした。

エスカレーターの作りも特殊で、2階を素通りして3階へ行くというもので、慣れないと方向感覚が狂って目的とはまったく違う場所に出てしまうことがしばしばでした。

初めて行ったときには、どこにどんな店があるか分からず、それからも買物へ行く度に、目的の店とは違うところへ出てしまったり。

福嶋さんは、いつも「何とかならないものかなあ」と考えていました。

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あるとき、ぼんやりと、わかりやすい案内図があればいいんだよ、という考えが頭をよぎったとき、福嶋さんは「これは事業になる」と直感しました。

わかりやすい案内図を載せた中野ブロードウェイのPR雑誌を作ればいいじゃないか。

中野ブロードウェイを中心とした住宅地に5万部程度のPR誌を無料で毎月配布するという事業アイデアでした。

各店をPRする雑誌を発行すれば、儲かるんじゃないか!

現在でいうところのフリーペーパー事業です。

早速、福嶋さんは、一緒に暮らしていた彼女にブロードウェイのイラストマップを描いてもらい、
〝株式会社 ジャポン・アノンス 福嶋康博〟という名刺を作って、各階の商店会会長と交渉を開始します。

彼女に描いてもらったイラストマップと簡単な見本を持ってプレゼンテーションをしてみると、好意的な反応を示してきました。

福嶋さんが目を付けた通り、建物が入り組んでいること、小さな店が多くて、それぞれの店がわかりにくいことは、中野ブロードウェイの商店主たちも気にしていたことでした。

ただ、ネックがありました。

福嶋さんは、普通の会社が5万部程度のPR誌を出すとすれば、当時で月に350万円ぐらいかかると概算で考えていました。商店会会長たちのあいだでは、この金額が高いのではないかと二の足を踏むことになったのです。

しかし、福嶋さんはこの金額を譲るつもりはありませんでした。金額を巡って押し問答を繰り返していると、耳寄りな情報が入りました。

中野ブロードウェイを建てた不動産会社の社長が社会福祉活動に熱心だという話でした。

「(社会福祉とはちょっと違うかもしれないが、PR誌の発行は地域社会の為になる仕事だ)」と思った福嶋さんは、早速、その社長に事業プランをプレゼンしました。すると、この社長は毎月50万円出すことを約束してくれたのです。

※これは私の推測ですが、この不動産会社社長は、東京コープ(東京コープ販売)社長の宮田慶三郎ではないかと思います。1906年1月7日生まれ。
旧制中学校から1931年に大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)を卒業。その後、歯科冶金の研究をきっかけに、合金の魅力に取り憑かれて、「ミヤタ・ロイ」と呼ばれる超高質合金を開発。

その後、病気療養中に大脳生理学の研究により1960年に医学博士号を取得。学会発表の際にワシントンを訪れ、アメリカに比べて日本の建築物が貧弱であることを知って、不動産事業を始めた経験を持つ異色の経営者です。

中野ブロードウェイ開発を最後に不動産事業からは身を引き、教育者として朝日大学と明海大学を創立しました。明海大学に不動産学部があるのは、宮田慶三郎の意思でしょう。
1997年7月に亡くなっています。

宮田慶三郎が、福嶋さんと同じ北海道出身だったことや福嶋さんが日大理工学部建築学科出身だったことも、若き福嶋さんの提案を受け入れ援助する約束をする一因になったのではないかと思います。

月々50万円の協賛金を得られることになり、金銭的なネックも消え、PR誌作りについて商店会会長たちの納得を得た福嶋さんは、いよいよ発刊準備作業に入ります。
編集作業を進めながら、福嶋さんはここが成功したら、今度は中央線の違う主要駅で挑戦しようと、夢を広げていきました。
しかし、事業を開始する段になって、福嶋さんは商店街の組合長から呼び出されます。

「おまえの会社は、登記されていないじゃないか!どういうことだ?社長は誰だ?」
「えっ、登記ってなんですか? 会社は僕ひとりでやってますが・・・」

福嶋さんは会社を登記することを知りませんでした。
名刺に社名と名前を刷ればそれでいいと思っていたのです。

結局、会社を登記していなかったことは、中野ブロードウェイ側からの信用の失墜を招き、この事業は開始直前になって頓挫してしまいました。

スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる②

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