代表取締役社長

上場企業役員

【2023年最新情報】 上場企業社長・役員一覧 大阪経済大学出身者編

最終学歴が大阪経済大学出身の上場企業役員一覧①

はる坊です。

今回は、最終学歴が大阪経済大学卒業・中退の上場企業役員をまとめました。

大阪経済大学は、大阪府にある私立大学です。

【外外経工佛】・・・関西外国語大学・京都外国語大学・大阪経済大学・大阪工業大学・佛教大学

という大学群の一校です。

関西の私立大学ですと、

【関関同立】・・・関西大学・関西学院大学・同志社大学・立命館大学

【産近甲龍】・・・京都産業大学・近畿大学・甲南大学・龍谷大学

の次に来る大学に入っていますね。

データの見方

銘柄コード・銘柄名(企業名)・役職・氏名・出身校・兼任職の順です。

代表取締役から社外取締役。

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福岡大学出身 上場企業役員

1439 安江工務店
社外取締役 常勤監査等委員 時田 光一郎 大阪経済大学経営学部卒業

1788 三東工業社
社外取締役 監査等委員 津田 穂積 大阪経済大学経済学部卒業

1925 大和ハウス工業
取締役 常務執行役員 下西 佳典 大阪経済大学経済学部卒業

1968 太平電業
取締役 上席執行役員 日下 慎也 大阪経済大学経済学部卒業

2154 夢真ホールディングス
代表取締役会長CEO 西田 穣 大阪経済大学経営学部卒業

2195 アミタホールディングス
代表取締役会長CEO 熊野 英介 大阪経済大学経営学部卒業

2266 六甲バター
常務取締役 斎藤 保典 大阪経済大学経済学部卒業

取締役 永田 勝久 大阪経済大学経営学部卒業

2291 福留ハム
社外取締役 原 孝司 大阪経済大学経営学部卒業
経営研究所ワンナップ 兼任

2917 大森屋 
取締役 寺川 正敏 大阪経済大学経営学部卒業

2976 日本グランデ
社外取締役 監査等委員 森本 和男 大阪経済大学卒業

2993 長栄
社外監査役 平野 貢 大阪経済大学経営学部卒業

3030 ハブ
代表取締役社長 太田 剛 大阪経済大学経営学部卒業

3173 Cominex
常務取締役 澤口 典宏 大阪経済大学経済学部卒業

3205 ダイドーリミテッド
代表取締役社長 鍋割 宰 大阪経済大学経営学部卒業

3401 帝人
代表取締役 専務執行役員CFO 鍋島 昭久 大阪経済大学経営学部卒業

3418 バルニバービ
取締役 水澤 完昭 大阪経済大学経済学部卒業

3497 LeTech
社外常勤監査役 橋本 伸行 大阪経済大学経営学部卒業

3655 ブレインパッド
専務取締役CFO 高田 和幸 大阪経済大学経営学部卒業

4241 アテクト
代表取締役社長 大西 誠 大阪経済大学卒業

4409 東邦化学工業
常務取締役 永岡 幹人 大阪経済大学経済学部卒業

4923 コタ
取締役 沖村 英明 大阪経済大学経済学部卒業

4923 アジュバンホールディングス
取締役 中川 秀雄 大阪経済大学経済学部卒業

4957 ヤスハラケミカル
社外取締役 監査等委員 前岡 良 大阪経済大学経営学部卒業

5195 バンドー化学
取締役 専務執行役員 柏田 真司 大阪経済大学経営学部卒業

5658 日亜鋼業
取締役 寺川 斉貴 大阪経済大学経済学部卒業

5943 ノーリツ
取締役 常務執行役員 廣岡 一志 大阪経済大学経営学部卒業

取締役 監査等委員 綾部 剛 大阪経済大学経済学部卒業

5973 トーアミ
取締役 常勤監査等委員 吉川 保 大阪経済大学経済学部卒業

5987 モリテック スチール
常務取締役 執行役員 谷口 正典 大阪経済大学経済学部卒業

取締役 執行役員 内山 良成 大阪経済大学経済学部卒業

6018 阪神内燃機工業
取締役 常務執行役員 藤村 欣則 大阪経済大学経済学部卒業

6233 極東産機
取締役 佐用 善彦 大阪経済大学経営学部卒業

6262 ペガサスミシン製造
代表取締役社長 美馬 成望 大阪経済大学経済学部卒業

6294 オカダアイヨン
社外取締役 岡本 富男 大阪経済大学経営学部卒業
三相電機 常務取締役 兼任

6307 サンセイ
取締役 執行役員 西村 直樹 大阪経済大学経営学部卒業

6322 タクミナ
取締役 常務執行役員 山田 圭祐 大阪経済大学大学院修了

6430 ダイコク電機
代表取締役社長 大上 誠一郎 大阪経済大学経済学部卒業

6455 モリタホールディングス
代表取締役会長CEO 中島 正博 大阪経済大学経営学部卒業
モリタ 代表取締役会長
モリタ環境テック 代表取締役会長 兼任

6757 OSGコーポレーション
代表取締役社長 山田 圭輔 大阪経済大学経済学部卒業
ウォーターネット 代表取締役社長 兼任

7018 内外造船
常勤監査役 田坂 光宏 大阪経済大学経営学部卒業

7590 タカショー
代表取締役社長 高岡 伸夫 大阪経済大学経営学部卒業

7851 カワセコンピュータサプライ
取締役 監査等委員長 窪津 薫 大阪経済大学経済学部卒業

7922 三光産業
常務取締役 執行役員 長谷川 勝也 大阪経済大学経営学部卒業

7946 光陽社
取締役 八木 浩志 大阪経済大学経営学部卒業

7947 エフピコ
専務取締役 高橋 正伸 大阪経済大学経営学部卒業

8007 高島
取締役 専務取締役 高垣 康孝 大阪経済大学経済学部卒業

8088 岩谷産業
代表取締役会長CEO 牧野 明次 大阪経済大学経済学部卒業
ダイキン工業 社外取締役 兼任

8107 キムラタン
常勤監査役 岡村 秀信 大阪経済大学経済学部卒業

8127 ヤマト インターナショナル
常勤監査役 市原 英之 大阪経済大学経済学部卒業

9417 スマートバリュー
取締役 代表執行役社長 渋谷 順 大阪経済大学大学院修了

9449 GMOインターネットグループ
取締役 グループ副社長執行役員 伊藤 正 大阪経済大学経営学部卒業

9699 西尾レントオール
取締役 濱田 雅義 大阪経済大学経営学部卒業

9934 因幡電機産業
代表取締役社長 門林 弘 大阪経済大学経済学部卒業

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

心より御礼申し上げます。

よろしければ、下記もご覧くださいませ。

今後もデータを更新してまいりますので、よろしくお願いいたします。

はる坊拝

上場企業役員

【2023年最新情報】 上場企業社長・役員一覧 福岡大学出身者編①

最終学歴が福岡大学出身の上場企業役員一覧①

はる坊です。

今回は、最終学歴が福岡大学卒業・中退の上場企業役員をまとめました。

今回は、その1回目となります。

データの見方

銘柄コード・銘柄名(企業名)・役職・氏名・出身校・兼任職の順です。

代表取締役から社外取締役。

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福岡大学出身 上場企業役員

1743 コーアツ工業
取締役 坂元 広明 福岡大学経済学部卒業

1771 日本乾溜工業
取締役 田吹 一茂 福岡大学商学部卒業

1808 長谷工コーポレーション
取締役 常務執行役員 古泉 正人 福岡大学工学部卒業

1848 富士ピー・エス
社外取締役 松藤 悟 福岡大学経済学部卒業
西日本鉄道 取締役 常務執行役員 兼任

1888 若築建設
取締役 専務執行役員 恵下 弘幸 福岡大学法学部卒業

取締役 常務執行役員 平田 靖祐 福岡大学法学部卒業

常勤監査役 佃 敏郎 福岡大学法学部卒業

1909 日本ドライケミカル
取締役 松岡 猛 福岡大学工学部卒業

1939 四電工
常務取締役 山本 愛朗 福岡大学工学部卒業

1966 高田工業所
取締役 執行役員 廣橋 幸一 福岡大学工学部卒業

社外監査役 林 秀之 福岡大学法学部卒業
FFGビジネスコンサルティング 代表取締役社長 兼任

1969 高砂熱学工業
取締役 常務執行役員 横手 敏一 福岡大学工学部卒業

1999 サイタホールディングス
常務取締役 鹿子生 忠 福岡大学工学部土木工学科卒業

社外取締役 監査等委員 森田 公一 福岡大学工学部中退
社会福祉法人 恵徳会 理事長 兼任

2198 アイ・ケイ・ケイホールディングス
取締役 寺澤 大輔 福岡大学法学部中退

2291 福留ハム
常勤監査役 明石 嘉典 福岡大学経済学部卒業

2315 CAICA DIGITAL
常勤監査役 古賀 勝 福岡大学法学部卒業

2790 ナフコ
取締役 馬渕 祐二 福岡大学経済学部卒業

2815 アリアケジャパン
代表取締役副社長 岩城 勝利 福岡大学経済学部卒業

2816 ダイショー
取締役副社長 松本 俊一 福岡大学経済学部卒業

2919 マルタイ
常務取締役 安達 誠 福岡大学商学部卒業

2924 イフジ
取締役 原 敬 福岡大学商学部卒業

3106 クラボウ
取締役 執行役員 藤井 裕詞 福岡大学経済学部卒業

3111 オーミケンシ
社外監査役 桑野 哲雄 福岡大学商学部卒業

3180 ビューティガレージ
社外取締役 監査等委員 緒方 大助 福岡大学商学部中退

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はる坊拝

上場企業役員

【2023年最新情報】 上場企業社長・役員一覧 専修大学出身者編①

最終学歴が専修大学出身の上場企業役員一覧①

はる坊です。

今回は、最終学歴が専修大学卒業・中退の上場企業役員をまとめました。

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専修大学出身 上場企業役員

1844 大盛工業
取締役 及川 光弘 専修大学法学部卒業

1879 新日本建設
常勤監査役 亀岡 秀典 専修大学法学部卒業

1885 若築建設
社外取締役 森田 隼人 専修大学経営学部卒業
シャボン玉石けん 代表取締役社長 兼任

1899 福田組
代表取締役社長 荒明 正紀 専修大学経営学部卒業

1926 ライト工業
常勤監査役 木下 博之 専修大学商学部卒業

1930 北陸電気工事
常務取締役 山崎 勇志 専修大学経済学部卒業

1941 中電工
常勤監査役 緒方 秀文 専修大学法学部卒業

1948 弘電社
取締役 上席常務執行役員 山名 克英 専修大学法学部卒業

1967 ヤマト
取締役 副社長執行役員 吉井 誠 専修大学法学部卒業

1994 高橋カーテンウォール工業
社外監査役 見 芳彦 専修大学商学部卒業
税理士

1997 暁飯島工業
取締役 上席執行役員 片桐 倫明 専修大学経済学部卒業

2170 リンクアンドモチベーション
代表取締役社長 坂下 英樹 専修大学商学部卒業

2307 クロスキャット
取締役 道上 正人 専修大学法学部卒業

2374 セントケア・ホールディング
専務取締役 執行役員 田村 良一 専修大学文学部卒業

2479 ジェイテック
社外取締役 常勤監査等委員 山田 峻介 専修大学経済学部卒業
行政書士

2481 タウンニュース社
取締役 執行役員 北原 健祐 専修大学商学部卒業

2700 木徳神糧
取締役 副社長執行役員 鎌田 慶彦 専修大学商学部卒業

2752 フジオフードグループ本社 
社外常勤監査役 原 光彦 専修大学法学部卒業

2789 カルラ
社外取締役 花舘 達 専修大学商学部卒業
公認会計士

2877 日東ベスト
代表取締役社長 塚田 莊一郎 専修大学経営学部卒業

2901 石垣食品
社外取締役 監査等委員 穴井 克宜 専修大学経営学部卒業

2974 大英産業
代表取締役社長 大園 信 専修大学商学部卒業

3057 ゼットン
取締役 田中 俊一 専修大学経営学部卒業

3097 物語コーポレーション
代表取締役会長 芝宮 良之 専修大学経済学部卒業

3154 メディアスホールディングス
取締役 専務執行役員 柴田 英治 専修大学商学部卒業
協和医科器械 社長 兼任

3221 ヨシックスホールディングス
取締役副社長 瀬川 雅人 専修大学卒業
ヨシックスフーズ 社長 兼任

3232 三重交通グループホールディングス
代表取締役副社長 竹谷 賢一 専修大学経営学部卒業
三重交通 社長 兼任

3232 三重交通グループホールディングス
取締役 川村 則之 専修大学経営学部卒業
三交コミュニティ 社長 兼任

3322 アルファグループ
代表取締役社長 吉岡 伸一郎 専修大学経済学部卒業

3328 BEENOS 
代表取締役副社長CFO 中村 浩二 専修大学経営学部卒業

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はる坊拝

はる坊の雑記

「餃子の王将」創業から現在までのストーリー。創業者・初代社長 加藤朝雄の生涯とは? 大阪王将との関係は?

※この記事は2021年2月6日に作成投稿し、2022年10月29日に最終更新しました。

餃子の王将のはじまり そして、王将フードサービス創業者の加藤朝雄氏とは?

餃子の王将を運営する王将フードサービスは、加藤朝雄氏が、1967年に四条大宮に王将という中華料理店を営み始めたことにはじまります。

創業者の加藤朝雄氏は、1924年7月10日に福岡県飯塚市に生まれました。

生家は小さな鮮魚店でしたが、生活は貧しく、本人がのちのインタビューで、

「9歳から家計を助けるために働いた。新聞配達にはじまり、なんやかんやと。私は毎日自分に誓うとりましたわ。いまに見ておれ、絶対に大金持ちになってやる。父ちゃんと母ちゃんにうまいものを食わせて、楽をさせてやるんだと」

と語っているように、恵まれたものではありませんでした。

それどころか、貧乏であることで周囲に軽んじられたこともあったのでしょう。
幼少の頃から、〝大金持ちになってやる〟と自分自身に誓うに至ります。

加藤氏は地元の飯塚尋常小学校(現:飯塚市立飯塚小学校)を卒業後、本格的に働きはじめ、1941年に17歳で中国大陸・山西省臨汾に渡ります。
先に長兄が現地に渡って飲食店を経営していたのが理由でした。

ここで加藤氏は、初めて餃子に出会い、口にします。

そして、加藤氏は一旦は洋食を勉強するために帰国して、梅田新道のアサヒビールが運営するビアホールでコック見習いとなりますが、1944年に徴兵され、陸軍二等兵となった彼は、新京(長春)にあった関東軍憲兵学校で訓練を受け、憲兵教習隊員となり旧満州・大連で勤務中に終戦を迎えます。

その後、1947年に日本へ引き揚げた後は、料理店勤務、行商人、進駐軍食堂コック、薪炭商、小口金融業、ファッションホテル共同経営と様々な経歴を重ねます。

薪炭商をはじめた頃に1歳年下の梅子夫人(1925年2月21日生まれ)と知り合い結婚。
潔(1950年3月2日生まれ)さんと欣吾さん(1953年10月5日生まれ)というふたりの息子に恵まれます。

ですが、加藤氏が経済的に安定を迎えるのは、ファッションホテル共同経営をはじめる40歳の頃で、それまでは商売で辛酸を舐めて、まとまった借金を背負ったこともあったようです。

「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」

そして、1967年12月25日に、現在も餃子の王将第1号店である京都・四条大宮に王将を開店。
加藤氏は43歳になっていました。
最初は家族経営の10坪の店でした。

加藤氏自身が中華鍋を振るい、梅子さんが客の注文を聞き、会計を担当。
当時、平安高校生だった長男・潔さんが出前に走ります。

店は瞬く間に繁盛しました。
周囲の中華料理店がだいたい80円で出していた一人前の焼餃子を、王将では50円にして目玉商品としたのです。
そして、第2号店として出店した山科店では、「餃子10人前食べたら無料」と宣伝して、一気に客を呼び込みます。

四条大宮に店を構えてからわずか3年で、王将は6店舗に成長します。
1969年には、妻・梅子さんの16歳年下の弟・大東隆行氏を王将に迎え入れています。
大東氏が関西経理専門学校に進んだのは、加藤氏の助言があった為と、生前の同氏が語っています。

しかし、ここで加藤氏は大きな壁にぶつかります。
それは人材難でした。

「この世の中で使いにくいのは運転手と職人でっせ。腕があるさかい、定着しない。

給料に不満だったり、ちょっとでも気に入らんことがあると、プイとやめていってしまいまんのや」

この時代の苦労を、後年のインタビューで加藤氏は率直に振り返っています。
ここで加藤氏は考えに考え抜いた挙げ句、従業員を集めてこう訴えました。

「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」

すると、従業員のやる気に火が付きました。

店の売り上げが2倍、3倍と増えていったのです。



店舗を拡大後の1974年7月には、株式会社 王将チェーンとして会社組織に変更

加藤氏は代表取締役社長に就任します。

そして、専務取締役には若干24歳の長男・加藤潔氏が就任。その後、次男・欣吾氏も常務取締役に就任しています。

1984年10月まで、王将の役員は、加藤朝雄氏(社長)・加藤潔氏(専務)・加藤欣吾氏(常務)・加藤梅子氏(監査役)のみと創業者一族で固められていました。

営業本部長を務めておられた大東隆行前社長は、この1984年10月に取締役に、2ヶ月後の同年12月には常務取締役に就任されました。

大卒初任給日本一の企業 ただし、労働条件は過酷だった

加藤氏は店舗の拡大とともに、新卒採用を徹底しておこないました。

1975年の大卒者初任給は15万円。

大卒の平均初任給は89,300円の時代でした(年次統計より)

1979年には一気に初任給を20万円にアップさせました。

同じく大卒者初任給の平均は109,500円でした(同じく年次統計より)

しかも、毎月4,000円の昇給があり、基本給が30万円になれば、すぐに基本給40万円の店長に昇格、または、開業資金の1割を用意できる者には、フランチャイズ店を出せるようにしました。

王将のフランチャイズ第1号店は、1972年、京都市内の中立にオープンしています。

高収入と独立を目当てに、大学新卒採用も進みました。

新卒者は、近畿大学・九州産業大学・岡山商科大学・大阪商業大学・桃山学院大学・京都産業大学・立命館大学など、関西・九州圏を中心に集まります。

しかし、給料が高ければ高い分だけの労働が求められました。

1日の労働時間は14時間以上。

朝9時30分に出勤して、掃除や仕込みを分担して10時30分に開店。

そのまま、まとまった休憩を取ることなく、23時の閉店後に店の片付けを終えて店を後にするのが24時。

月に休みは1日もなし。

皆勤手当が月額25,000円支給されていましたが、1日でも休んでしまえば、この皆勤手当は0円になります。

また、各店舗の売上に順位を付けて、最高9万円から最低1,000円支給される〝順位賞〟も1日休めば半額支給になってしまう仕組みでした。

そして、店長はさらに大変でした。

店長の給与は50万円と高額でしたが、店の掃除のやり方や皿やどんぶりの洗い方が悪く、客に悪印象を与えた場合は、加藤氏自らが1万円~5万円の減給を決定しており、さらに、本部へ客からクレームが入ると、監督責任を問われて10万円の減給となりました。

「働けば働くほど収入は確かに増えるけど、辛いのも一般のサラリーマンの倍ですね」”(当時の店長談)

「店長は責任のすべてを、一身に被らなければならない」”(同じく当時の店長談)

それでも、高収入と独立制度に惹かれて、王将に勤めたいという志願者はあとを絶ちませんでした。

1980年7月には、商号を株式会社 餃子の王将チェーンに変更しています。

この当時、餃子の王将は関西に124店舗、名古屋に9店舗、東京に26店舗を運営しており、年間売上高は80億円 経常利益7億円となっていました。

ちなみに、この当時の餃子一人前の値段は140円。

結果として株式上場は1993年3月となりましたが、1980年当時から、加藤朝雄氏は餃子の王将の株式上場を考えていたようです。

この間、餃子の王将は成長を続け、年間売上高は100億円、200億円を突破。

関西圏から全国に店舗を展開していきました。

1990年12月には、商号を王将フードサービス変更。
年商300億円を狙えるところまで迫っていました。

ところが、株式上場まもない1993年6月10日に加藤氏は68歳で急逝します。
一説によると、晩年の朝雄氏は大腸がんを患い、人工肛門を装着していたという話があります。

アサヒビール時代に加藤氏よりスカウトされた副社長の望月邦彦氏が社長を継ぎますが、1994年には加藤氏の長男である加藤潔氏にバトンタッチ。その後、経営悪化により大東隆行氏が2000年に社長に就任する流れとなっています。

大東隆行氏は、社長就任後、ある夕刊紙のインタビューで、〝「年収は5,000万円」〟と発言されています。
また、同時期には大東氏の息子さんが、現在は撤退している和食事業〝いけすの王将〟三雲店の店長をされていました。

現在の王将フードサービス社長である渡邊直人氏の年間役員報酬(年収)は1億1,200万円。
内訳は、金銭報酬が8,300万円 非金銭報酬等が2,900万円となっています。(王将フードサービス有価証券報告書より)

餃子の王将を展開する 王将フードサービス店頭公開(JASDAQ上場)時の情報

餃子の王将を展開する王将フードサービスは、1993年3月16日に株式店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たしました。

上場時のデータは以下のとおりです。

株式会社 王将フードサービス

会社設立:1974年7月

店頭公開:1993年3月

資 本 金:19億100万円

総 資 産:394億5600万円

株主資本:88億8300万円(22.5% 748円)

借 入 金:198億1000万円

金融収支:▲6億7300万円

従業員数:748名(平均年齢 31.6歳)

平均賃金:378,158円

株主構成:

加藤欣吾 287万1000株(24.1%)

加藤潔  265万1000株(22.3%)

加藤朝雄 179万5000株(15.1%)

加藤梅子  93万2000株(7.8%)

従業員持株会 30万1000株(2.5%)

加藤ひろみ 22万0000株(1.8%)

大東隆行 20万3000株(1.7%)

加藤貴司 20万3000株(1.7%)

加藤英里 20万3000株(1.7%)

加藤真人 20万3000株(1.7%)

役員構成:

代表取締役社長:加藤朝雄

取締役副社長  :望月邦彦

専務取締役  :加藤潔

常務取締役  :加藤欣吾

常務取締役  :大東隆行

常務取締役  :鈴木和久

取締役    :土肥原啓二

取締役    :宮嶋廣正

取締役    :宮光正

取締役    :知久平芳美

取締役    :森田八寿広

取締役    :村上武敏

常勤監査役  :小坂晴一郎

監査     :野中智弘

上場当時の王将は、日銭が入る商売とはいえ、あまり財務状況が良いとはいえず、公募株式で得た資金は、借入金返済に充てるつもりだったようです。

王将フードサービス 業績推移

それでは、1989年~1992年までの餃子の王将の決算を見ていきましょう。
急成長期には終わりを告げていますが、しっかり順調に伸びています。

1989年3月期決算:

(こちらのみ変則決算)

売上高:221億1,700万円

営業利益:24億2,100万円

経常利益:12億7,700万円

最終利益:5億1,900万円

1990年3月期決算:

売上高:265億3,200万円

営業利益:29億2,000万円

経常利益:13億8,300万円

最終利益:5億1,900万円(1989年3月期と同額)

1991年3月期決算

売上高:276億7,770万円

営業利益:32億6,000万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:9億2,000万円

1992年3月期決算

売上高:288億9,000万円

営業利益:35億6,900万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:12億5,100万円

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)との関係は?

日本に〝王将〟は2つあります。

王将フードサービスが運営する「餃子の王将」

イートアンドホールディングス傘下の事業会社・大阪王将が運営する「大阪王将」です。

大阪王将の創業者・文野新造氏は加藤朝雄氏の親族といわれています。

最初、京都に店舗展開を進めていた餃子の王将からのれん分けをしてもらう形で、1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を開いたのが大阪王将の始まりです。

餃子の王将との違いは、まず経営スタイルです。

文野氏の中華料理店のメニューは、餃子とチャーハン、ラーメンの3品のみでしたが、餃子が一人前50円であったことから、安くてうまいものに目のない大阪人のハートを、いきなりガッチリと掴みます。

文野氏は店の売上が餃子中心であることに着目して、1969年3月から餃子専門店に業態を変更します。

餃子のみにメニューを絞ったことで、構えの大きい店舗展開が必要がなくなり、大阪王将は順調に店舗を増やしていきます。

そして、文野新造氏の個人事業から、1977年8月には、大阪王将食品株式会社に法人成りを果たします。

二代目社長となる文野直樹氏は、この頃から厨房に立って店の経営に携わっていました。

1982年には100店舗を達成しますが、一説によると、大阪王将の店舗を京都に出店したことにより、加藤朝雄氏との関係が悪化。商標権を巡って裁判沙汰にまでなってしまします。
結局、1985年に和解が成立しますが、1980年代前半に大阪証券取引所(新市場ベンチャー向け)2部への上場を目指していた加藤氏にとっては、この裁判が上場への大きなネックになったのかもしれません。

この当時、この大阪証券取引所2部に新しく作られた新市場で上場を果たして、のちに東証1部上場企業となった会社にコナミホールディングスがあります。

その後、餃子の王将と大阪王将は袂を分かち、お互いに独自の経営戦略で事業を発展させていきます。

大阪王将は、1990年代初めに商事部という部署を創設します。1993年9月には商事部から冷凍食品の餃子を生協向けに販売を開始。
自宅でも大阪王将の味が楽しめるようになりました。

その後、社名も大阪王将食品から大阪王将に変更。

そして、2002年1月にはイートアンド株式会社にまたも商号変更します。

堅実な店舗展開と冷凍食品の販売を進めながら、東京進出を果たし、2011年6月には大阪証券取引所JASDAQ市場に株式を上場。
2002年11月に東京証券取引所第2部上場を経て、2013年11月に東京証券取引所第1部に指定替えをおこないました。
晴れて、東証1部上場企業となった訳です。

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)歴代社長

ちなみに、『餃子の王将』を展開する王将フードサービスの創業者・社長が加藤朝雄氏で、
二代目社長がアサヒビールより招聘した望月邦彦氏。
三代目社長が加藤朝雄氏の長男・加藤潔氏。
四代目社長が大東隆行氏。
現在の五代目社長が渡邊直人氏です。

渡邊氏は、1955年8月19日生まれの67歳。1979年に桃山学院大学経済学部を卒業後、新卒入社。
1984年12月には早くも営業部次長となり、主に東京地区のエリアマネージャーや地区本部長を経て、
2004年に取締役、2008年に常務取締役となり、2013年12月に代表取締役社長に就任されています。

『大阪王将』を展開するイートアンドホールディングスの創業者が現在の代表取締役会長の文野直樹氏の父親である文野新造氏です。
創業メンバーである佐野文夫氏と本木健二氏とともに1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を出店したところ、
餃子の売れ行きがダントツであったことから、早々に、餃子専門店に業態を変えています。

株式会社イートアンドホールディングスの代表取締役会長CEO 文野直樹氏の経歴

イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOは文野直樹(ふみの なおき)氏です。
1959年11月29日生まれの62歳。
啓光学園高校を卒業後、大阪学院大学経営学部に進学するも1980年に中退。
実父・文野新造氏が経営する大阪王将食品に正式入社して、1984年7月に社長に就任したという経歴の持ち主です。

1996年8月に株式会社大阪王将に商号を変更。

2002年1月にイートアンド株式会社に商号を変更。

2011年6月に株式をJASDAQ市場に上場。

2012年11月に東京証券取引所第2部に上場。

2013年11月には、ついに東京証券取引所第1部上場を果たしています。

そして、2020年11月には、持株会社への移行とともに、株式会社イートアンドホールディングスとなり、大阪王将の運営会社は株式会社大阪王将となっています。

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COO 仲田浩康氏の経歴

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COOは仲田浩康(なかた ひろやす)氏です。
大阪王将の冷凍食品を扱う事業会社の株式会社イートアンドの代表取締役社長も兼任されています。

仲田氏は1964年4月26日生まれの57歳で、高校を卒業後、当時、流通業界で最大手だったダイエーに入社。
23歳で最年少主任となるなど活躍をしたのち、2000年8月に大阪王将に転職。

ご本人がインタビューで語られているところでは、ダイエーでは実績を残されていたので、大阪王将に移られた際には、給与・年収ともにダウンしたそうです。

その後、2001年7月に商事部部門長。2004年6月に取締役。2009年4月に取締役 常務執行役員 トレーディング本部長。
2012年4月 専務取締役。2017年6月にはついにイートアンドの代表取締役社長に就任。
持株会社移行後は、取締役社長COOに就任されています。

また、社会人となっても向学心を忘れず、関西学院大学大学院に進み修了されています。
よって、最終学歴は関西学院大学大学院修了となっています。

株式会社大阪王将の代表取締役社長 植月剛氏の経歴

大阪王将を運営する株式会社大阪王将の代表取締役社長は植月剛(うえつき たけし)氏です。
持株会社である株式会社イートアンドホールディングスの取締役も兼任されています。

植月氏は1972年7月13日生まれの49歳で、龍谷大学社会学部卒業後、1995年4月に大阪王将に新卒入社。

その後、2006年6月に取締役。2009年4月に取締役 執行役員 王将営業本部長。
大阪王将の海外事業部門も統括します。
2012年4月には、取締役 常務執行役員 王将営業本部長。
2019年4月に常務取締役 外食事業統括兼海外戦略本部長。

と順調にキャリアを積んで、2020年10月に大阪王将の代表取締役社長に就任されています。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊拝

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人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

杉山治夫が唯一尊敬していた人物

はる坊です。

その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。

それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。

日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。

杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。

やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。

東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。

その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。

といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。

話を少し昔に戻します。

杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。

その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。

その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。

『定通新聞』

その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。

この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。

杉山は、この新聞をよく読んでいました。

一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。

この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。

杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。

杉山も、一、二度はこの会に出席しました。

そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。

杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。

小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。

『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。

しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。

杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。

二度目の東京出張時でも無理でした。

杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。

そして、三度目の東京出張。

同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。

杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。

杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。

翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。

杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。

この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。

しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。

「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」

そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。

それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。

その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。

杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。

しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。

そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。

取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。

杉山から話を聞いた小林氏は、

「わかりました」

とうなずきました。

そして、

「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」

と続けます。

小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。

そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。

「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」

この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。

1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。

杉山治夫東京進出。金融取り立て人として名を馳せる

杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。

杉山が降り立ったのは、川崎でした。

東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。

杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。

川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。

暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。

しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。

ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。

100万円の金は面白いように増えていきました。

そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。

杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。

1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。

それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。

すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。

-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。

地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。

杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。

〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。

連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。

また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。

〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。

それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。

暴力団相手の債権取り立てにも進出する

東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。

十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。

こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。

そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。

杉山は、こんなことを語っています。

「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。

恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。

そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。

かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。

彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。

杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。

殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。

杉山はその場で一本の電話を掛けました。

相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。

「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」

杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。

杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。

日本百貨通信販売を核にして、杉山グループを形成する

杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。

金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。

そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。

社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。

杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。

もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・

杉山は、どこまでも狡猾でした。

暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。

また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。

小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。

数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。

杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。

(その4に続きます・後日更新予定です。)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

杉山治夫も金融業者としての新人時代があった

はる坊です。

その1では、杉山治夫の出生から極貧の少年時代、中学を2年で中退して時計屋に丁稚奉公。17歳で独立して店を構え、その後、家電も扱うようになり、一躍、地域で一、二を争う金持ちとなり、良家の娘と結婚するも、放漫経営が祟って、黒字倒産する羽目になり、そのときに現れた暴力金融業者の元で働くまでをご紹介しました。

今回は、金融業者の元で〝社長秘書〟の肩書きで働き始めるところからです。

後年、名うての金融取り立て屋として名を馳せる杉山治夫ですが、高知の金融業者の元で働き始めた頃は、いくら時計店や家電量販店を経営していたとはいえ、実際の金融業に関して全くの素人でした。

早速、杉山は六法全書や金融関係の専門書を買い漁って勉強を始めました。
しかし、なかなか内容を理解することができなかったのです。

杉山は、(自分には基礎的な学力がないんや)と悟ります。

事実、中学2年の秋に、時計店に丁稚奉公に出て以来、学問とは縁がなく、商売で成功を収めてからは、目先の金儲けと芸者遊びに精をだしていたのですから、こういった書籍に触れたのも生まれて初めてのことでした。

自らの無知を知った杉山は、高知市内の県立高校夜間部に進学します。
(中学校は義務教育ですので、中途退学をした杉山も、おそらくは形だけ卒業扱いになっていたのでしょう)

24歳の杉山は早朝からから夜6時までは、秘書として金融取立業に従事して、夜7時からは、夜間高校で勉強に励みます。

夜間高校に来ている他の生徒は、実家が貧しい為に昼間の高校へ行けない16,7歳の生徒だらけでした。
そんな10代の生徒に交じって、杉山は当用漢字や一次方程式から勉強を始めます。やる気は誰にも負けませんでした。

社長秘書として働いていると、毎日、様々な法律用語が飛び交います。

債権・担保・根担保・公正証書・違法性阻却事由etc.

昼間は、実践を通しての法律の勉強。夜は、高校で国語・数学・物理などを学ぶ日々。

杉山は寝る間を惜しんで、両方の勉強に打ち込みました。

そして、

“「(金融)取り立ては、暴力的手段と法律的手段で成り立つ」”

という持論を身に付けます。

一から、いや、ゼロから金融業を実地で学び、このままこの会社で暴力金融業の道へ進むかと思われた杉山ですが、ここで意外な行動に出ます。

暴力金融業者の社長秘書として勤め始めて半年が過ぎた頃、杉山は社内でナンバー2の地位を得ていました。

しかし、杉山は社長に退職を申し出ます。
自分自身が組織のトップでなければ、とにかく頭に立っていなければ、ダメな性格だということを、ナンバー2になって痛感したのです。

退職を申し出ると、すんなりと認められました。
これは半年間、杉山が粉骨砕身仕事にあたって、会社に莫大な利益をもたらしており、「借りを返す」以上の働きをしていたからです。

再び、実業家の道へ しかし、再び転落・・・

暴力金融業者の元を去った杉山は、妻とふたりでメガネを売ることにします。

このときの杉山には資金がなかったので、商売の軍資金はすべて借金でした。
暴力金融にいた半年のあいだで、地元の商売人には、杉山が切れ者であることは知れ渡っていました。

杉山は、借りられるところから、金を借りまくります。

そして、新たに始めた『杉山眼鏡』も絶好調でした。メガネを大量に仕入れて、従業員を雇い入れ、外交販売で売りまくったのです。
メガネに加えて、時計や宝石も抱き合わせで販売しました。

商売の回転資金はまったく心配をしていませんでした。
杉山の商売がうまくいっているのを見て、商売人たちはますます多額の金を杉山に貸し続けたのです。

メガネ・貴金属の商売と並行して、杉山は金融業にも進出します。
人から借りた金を月九分の利息で、別の人間に貸し付けたのです。

月九分で貸しを複利にすれば、3年後には何と10倍に膨れ上がります。
まだ、金融関係の法整備が甘かった時代でした。

また杉山はホテル経営にも乗り出します。
高知で一番のホテルを建てようと、超豪華ラブホテルを、当時の金で1億2,000万円で新築したのです。
そのうち1億円は借金でした。

多角経営を推し進めた杉山は、金融業に精を出します。
当時の高知には、街の金貸しはそういませんでした。
杉山の独壇場だったのです。

地元の漁民・農家・サラリーマンに金を貸して、高利を取りました。
金主は、地元銀行・地主、さらには他の高利貸し。

しかし、ここで杉山は初めて警察の厄介になることになります。
「借金取り立ての際に、相手を暴力で脅し、かつ監禁せしめた」
のが理由でした。

2ヶ月間近くに渡って留置場へぶちこまれた杉山ですが、一向にへこたれませんでした。

この頃に、のちの杉山グループの中核となる『日本百貨通信販売』を設立。従業員は90名を数えるまでになりました。

プライベートでは長女に恵まれ、商売は絶好調。

しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受けていました。

会社の規模が大きくなり、杉山自身の目の届かないところで、地位を与えていた部下が融通手形を乱発して、市中の金融業者に流れた手形は何と2億円に上りました。

杉山の元には債権者が押し寄せてきます。
この騒ぎで、これまで無尽蔵に金を貸し続けてくれていた銀行・地主・金融業者は、そっぽを向いて、杉山を見捨てます。

さらに、杉山の身に不幸が舞い降ります。

部下が乱発した融通手形の一部が、大阪の暴力団関係の会社に流れていたのです。
その会社のバックにいるのは、関西で有名な暴力団でした。

杉山は金策に奔走しますが、その甲斐もなく経営する会社は倒産。
杉山自身も無一文となります。

そして、杉山は暴力団員に、今後の債務関係について話し合うという名目の元、強制的に大阪へ連れて行かれます。

1971年夏のことでした。
杉山治夫、33歳。

六甲山中に首まで埋められ・・・ そして・・・

暴力団員に大阪まで連れてこられた杉山は、大阪・ミナミの倉庫に監禁されました。
組員たちは、盛んに〝隠し金〟のありかを吐くよう、杉山を脅し続けます。

これは杉山の身に覚えのないことでした。
正真正銘の無一文だったからです。

それでも執拗に組員たちは杉山から金のありかを聞きだそうとします。

“「杉山よお、悪いことは言わん。おまえの隠し金、あらいざらい喋りよったらそれでええんや」”

“「嘗めたらあかんでえ!〝杉山は二億円握ってとんずらきめこんだ〟って話が入っとるんや!」”

そんな金はどこにもありませんでした。
杉山自身、後年、高知で自分のの活躍ぶりを快く思っていなかった者の悪意ある流言だったと綴っています。

精も根も尽き果てた杉山は、

“「もうどうにでもしてくれ、わしは、疲れた。金など本当に無い。借金をしまくって成り立ってきた日本百貨通信販売だ。不渡りを出して金の循環が途切れればぶっつぶれるのはわけもない・・・」”

と悲鳴に近い声を上げました。

すると、暴力団員たちは杉山を縛り上げて、表に停まっていたリンカーンに押し込みます。

そして、ひとりの組員がポツリと発した言葉に、杉山の心臓は凍りつきました。

「もう、金はいらん。そのかわり、おまえ、死ねや」

リンカーンは神戸・六甲山へ向かいました。

山中で車から降ろされた杉山は、さらに奥へと歩を進めるよう命令されます。

そのとき、4、5メートル後ろで若い男が必死に哀願する叫び声が聞こえてきました。

その若い男は暴力団員でした。

杉山から一銭も取り立てられなかった責任を取らされて、スコップで穴を掘らされようとしていたのです。

そして、杉山にもスコップが手渡され、杉山は絶望的な気分のなかで、穴を掘り始めました。

穴を掘り終えると、杉山と若い暴力団員はそれぞれ穴の中に身体を押し込まれます。

他の組員は、容赦なく赤土を穴に被せてきます。

若い組員は恐怖のあまり脱糞して、失神してしまいました。

さすがの杉山も、完全に絶望するかにみえました。

そんな杉山の耳に、野鳥の囀りが聞こえてきました。山鳥の囀りが、ほんの僅かでも杉山を楽観的な気分にさせてくれたのです。

その様子を目ざとく見た初老の男が、杉山に話しかけました。
初老の男は、一味の親分でした。

“「ええ根性しとるのう、われ。殺すのは惜しいがな」”

-この男はわしを救ってくれる!

杉山は本能的にそう察しました。

そして、最後の力を振り絞って、叫びました。

“「親分!わしも男や!危ない仕事でもなんでもする。高知では三ヶ月で一億稼いだ杉山だ。わしを入れてくれ、必ず、あんたんとこの組のためになるはずだ!取り立てをやらしてください。必ず回収してみせます!わし、何年かやってきたから、自信があるんですわ」”

杉山必死の願いは、親分に届きました。
こいつは使える男だと判断したのでしょう。

失神した若い暴力団員も土中から救出され、行きと変わらない人数で、六甲山を下ることになりました。

金融債権取り立て人・杉山治夫の誕生

大阪の暴力団で金融債権取り立て人となった杉山は、イヤというほど暴力の力を知ることになります。
取り立ての凄まじさは、生まれ故郷・高知の比ではありませんでした。

取り立てにいくのは、街のサラ金業者がどうしても回収できない貸し付け金です。

杉山は、入れ墨を見せつけるように胸を開けた数人の暴力団員とともに回収に向かいます。
依頼主の要望に応じて、連日昼夜を問わず、取り立てに赴かねばなりません。
回収した金は依頼主と組との折半です。

回収に失敗すると、組のお偉方に恥を欠かせることになります。杉山は必死で債権の取り立てをおこないました。

杉山の役目は、いわゆる〝止め役〟でした。
交渉の最中で、若いやくざが刃物を机上に刺したり、テーブルごとひっくり返して暴れます。
これが、相手に恐怖を与える〝暴れ役〟です。

頃合いを見計らって、杉山が組員を止めて、口八丁で説得に入ります。

これで90%は回収に成功していたようです。

残り10%の回収に必要なのは、リボルバーでした。

深夜、大阪湾の倉庫裏まで連れて行って、銃をちらつかせるのです。相手の頬に押し当てると、それまで、どんな強がりを言っていた人間も失禁して陥落したようです。

拳銃について、杉山はいい印象を持っていなかったようです。
スーツの内ポケットにリボルバーをしまい込むと、その重みで身動きが鈍くなり、また銃独特の不気味な冷たさが身体に伝わってくる感覚が、たまらなく嫌だったと述懐しています。
殺害用具を所持しているという緊張感と不安感で、さすがの杉山も外を歩くときは必ず震えたようです。

暴力団の取り立てを肌で感じていった杉山は、このままやくざに使われ続けることをよしとしませんでした。

実際に取り立てた回収金の一部をプールして、金を貯めていったのです。

そして、暴力団金融の取り立て人となって3年が過ぎる頃、杉山個人の金融会社を内緒で設立します。

なぜ、回収金の一部をプールして、内緒で金融会社を設立できたのか。

それは、一緒に取り立てに行く組員に小遣いをやって、手懐けていき、完全に杉山の味方にしてしまったからでした。

この頃の気持ちを杉山は以下のように述懐しています。

“「いつまでもやくざの下で使われることに安住しているわしではない。一度は六甲の山奥で首まで埋められた男だ。何も恐れるものはない。髪の先からつま先までどっぷりと暴力の世界に染まったわしは、四国の平凡な成り上がり実業家とはまったくの別人に変身してしまったのだ。人間一度堕ちるところまで堕ちると、その状態で居直るタイプとなんとかまっとうな方向へ歩みたいとあがくタイプがある。わしは完全に前者であり、その居直りぶりも徹底していた。子供時分、とことん弱者の立場にいたわしは、弱い者、虐げられた者を見ると無性に襲いかかりたくなる。同類嫌悪感情。遠い昔の近親憎悪感情のなせる術かもしれない」”

法を犯すか犯さないか、虚実皮膜の回収作業を連日続けた挙げ句、2度留置場へ身柄を拘置され、一度は大阪刑務所に2年半服役します。

それでも、杉山は金融取り立て人としての活動を止めませんでした。

杉山は、地元高知の夜間高校を卒業した後、中央大学法学部通信教育課程に進学して、法律を徹底的に勉強しています。
その法知識、法武装ぶりは、留置場送りとなり刑務所の囚人を経験して以降、さらに磨きがかかり、金融に関する法律では弁護士と同程度といわれるようになります。

関西の暴力団の間で、杉山治夫の名はどんどん知れ渡っていきました。

内緒で設立した、金融会社も順調に伸びました。

しかし、杉山の会社から金を借りた土建業者が、組長に密告した為、この裏会社の存在がバレてしまいます。

代償は、せっかく順調にいっている裏会社の取り上げでした。

このとき杉山は、ここにいるのも、もう潮時だと感じました。
このままやくざの世界に棲み着いても、抜けられなくなるだけだ。
そうだ、東京へ行こう。

しかし、東京へ逃げれば、必ず大阪のやくざを敵に回す。そしてつかまる。
今度こそ、地獄行き・・・

そんななか、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、組員3名とともに東京へ向かいます。

杉山の頭の中には、東京でひとりだけ、自分を助けてくれるかもしれない人物が浮かんでいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(※その3へ続きます)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

借金は本当に怖いです

はる坊です。

いきなりですが、『雪だるま式に』という言葉があります。

続いて『資産が増えていった』なら素晴らしいのですが、たいていの場合、この言葉の次にくるのは『借金が増えていった』ではないでしょうか。

〝借金はできる限りしないほうがいい〟

というのが私の考えですが、住宅を購入する折に、一括で現金払いができるのは、ほんの一部の方で、ほとんどの方は住宅ローンを組んで、マイホームを購入します。
もちろん、私もそのひとりです。

住宅ローンを組むときや借り換えはよく考えておこないましょう。



ローンと言えば、表現がすこし穏やかになりますが、要は借金です。

もし、あなたが何らかの理由で借金をしなければならないときは、まず銀行へ相談に行くと思います。

しっかりとした担保があれば、銀行も貸してくれることでしょう。

しかし、銀行が貸してくれない場合、銀行系ローン、消費者金融・事業者金融に出向くことになります。

銀行以外で借りると、当然のことながら利息は高いです。下手をすると、元金を返すどころか利息も返済できない状況に陥り、ドンドン膨らんでいきます。

あなたの人生を狂わせる原因にもなりかねません。

さて、昭和後期、消費者金融(正確にいうと金融債権取り立て業)を生業として、暴利を貪って、それを自慢。
TVにも出演して強烈な個性を見せつけた男がいます。

男の名は杉山治夫。

まずは、この映像を観ていただきましょう。

杉山治夫 大暴れ映像

ここまでの成金ぶり。悪役キャラぶり。

ふたむかし前のマンガ(というより劇画?)に出てきそうです。
口論の末タレントのミッキー安川と喧嘩をするまでに至ります。
(実は、この喧嘩はテレビ局のヤラセだったことを杉山は自著で暴露しています。)

また、ワイドショーに出演して、観客席に札束をばらまきます。
(実は、杉山はばらまいた1万円札の枚数を憶えており、番組終了後に集めて数えたところ、数枚足りなかったと、これも自著で暴露しています。)

今回は、そんな強烈なキャラクターをもった杉山治夫の生涯を追っていきます。

小学校2年で自殺未遂! あまりに悲惨すぎる幼年時代

杉山治夫は1938年(昭和13年)高知県高知市長浜で産声を上げました。

父親は船乗りで、フィリピンあたりにまで長い航海に出るため、ほとんど家にはいませんでした。

しかし、父親が家に居ないほうが平和だったのかも知れません。

稼いだお金を家に入れることはなく、酒とバクチで使い果たしてしまう人物だったからです。
おまけに愛人を作ってしまいます。

さらに悪いことに、父親がフィリピンで春をひさぐ仕事をしている女性から梅毒をうつされ、それが、治夫の母親に二次感染してしまい、母親は視力を失います。

生家は農家の脇に、ベニヤ板を何枚か立てかけただけの納屋を借りたものでした。
杉山が4歳の頃、日本は戦争中で国民の食糧は乏しくなっていきます。
杉山少年は、目の見えない母の手を引いて、付近の山林を歩きます。

松の葉を手に入れるためです。

石油も石炭も手に入らない時代。この地方では風呂を焚くときには松の葉を使っていました。

杉山は毎日、松の葉を集めます。それしかお金を得る方法がありませんでした。
しかも、いくら松の葉を集めたところでたいしたお金にはなりません。

しかし、母子が生き抜いていくのに、糧を得る手段はそれしかありませんでした。

1945年、杉山は地元の高知市立長浜小学校へ入学します。

しかし、杉山は小学校にほとんど通えませんでした。
松の葉集めと畑泥棒、そして、周囲からのいじめ。
そしてついには、いじめを通り越して、周囲の誰も相手にしてくれない状況へとエスカレート。

1940年には弟も生まれており、杉山家の家計はより悲惨なものになっていました。
学校に行く余裕はなかったのです。

学校へいく余裕はありませんでしたが、杉山は勉強が好きでした。
特に算数が得意だったと述懐しています。

鉛筆もノートもないので、地面に数式を書いて、問題を解いていったのです。

杉山治夫は小学2年の冬、自殺を図ります。

慢性的な栄養失調と厳しい冬の季節も身に付けるものは着物一枚だけ。
冬になると、身体が衰弱して内臓に異常がでていました。
たまに出席した小学校の共同トイレで用を足すと、杉山少年の尿は真っ赤に染まっていました。
何日も何日も、血尿が続くのです。

それを見たクラスメイトは、血尿をする杉山少年をからかいの対象としか見ませんでした。
それから、杉山少年は用を足すのも、休み時間に学校を抜け出し、裏山で小便をすることになります。

自殺場所に選んだのは、納屋のそばにあった汲み取り式のトイレ。
梁に荒縄をくくりつけて首を吊ろうとしたのです。

杉山はのちに自著でこの時の気持ちを述懐しています。

“見るものすべてが悪に見えた。

-なんでこんなに貧乏なんやろ。
-なんでうちだけいじめられるんやろ。
-なんで夏も冬も着物一枚なんやろ。
-なんで腹いっぱい飯喰えんのやろ。
-なんで、なんで、なんで!”

しかし、杉山少年は首吊りの方法を知りませんでした。
何度も板の間で跳ねては、首にまとわりついた荒縄を食い込ませようとしますが、うまくいきません。

そのとき、たまたま母親が用を足しにきました。
母親の顔を見た杉山少年は、ただ泣きじゃくるだけでした。

中学中退、時計屋で丁稚奉公

そんな頃、音信不通になっていた父親が杉山家に戻ってきます。
父親は米の闇ブローカーに転身しており、羽振りが良くなり、近所の土地を借りて小さな家を建てました。

母親の視力も徐々に戻ってきました。

杉山少年は、松の葉集め、そして、道や空き地に落ちている鉄くずを拾い集め、秋には山へ栗を拾いにいきました。
「やっと、うちもしあわせになれるんや」という嬉しさから、これまでの倍以上働きました。

ささやかながらも幸せな家庭が、杉山の身にも訪れる、かに見えました。

しかし、父親は酒浸りとなり、アルコール中毒で働かなくなります。

一家を支えるのは、再び杉山治夫の双肩にかかることになったのです。

1951年、杉山は高知市立長浜南海中学校へ進学します。

杉山が中学生になっても、父親のアルコール中毒は治る気配をみせませんでした。

そして、中学2年に進級すると、杉山はある情報を手に入れます。
地元の小さな時計店が丁稚奉公を探しているというのです。

「給料は出ないが、飯は喰わせてもらえる。時計の修理・分解が主な仕事で、4,5年も我慢すれば立派な時計職人になれる」

杉山少年は一晩考えた末に、中学を中退して、時計店に丁稚奉公へ行くことを決意します。
1952年の秋でした。

いざ、時計店での丁稚奉公が始まりましたが、それは過酷なものでした。
最初は、慣れない作業ですから、時計を分解してネジをどこかへ落としてしまう度に、嫌というほどのビンタの嵐を受けます。

おまけに、朝早くから夜遅くまでの一日15時間労働。

それでも、杉山少年はこの生活に嬉しささえ感じていました。
生まれて初めて、キチンとした布団で眠れ、三度三度の食事にはありつける。
杉山少年にしてみれば、実家で生活しているより、ずっといい環境だったのです。
それだけ、これまでの生活が悲惨を極めていたということになります。

また、この頃に初恋も経験しています。
相手は2,3歳年上の女子高生でした。

毎日、杉山少年が店の前でまき水をしていると、「おはよう」と声をかけてくれたのです。
いままで、杉山少年に挨拶をしてくれる女性などいませんでした。
女子高生にしてみれば、いつもの通学路でみかける丁稚奉公の少年に挨拶をしていただけに過ぎません。

杉山少年は、「おはようございます」と挨拶を返すことができませんでした。
ただ、砂利道に柄杓で水をまくことに没頭するフリをしているだけでした。

杉山は自著で、

“「あの頃のわしにはあまりにも眩しすぎたのだ。デートに誘おうにも無給の小僧には到底不可能だった。わしと彼女の逢瀬はいつも夢の中だけだった」”

と振り返っています。

のちに多くの愛人を作る杉山ですが、こんなウブな時代もあったのです。

17歳で時計店の経営者となる

1956年、杉山17歳のとき、大きなチャンスが訪れます。

丁稚奉公の時計職人として3年間真面目に働き、職人としての腕も確かなものになっていました。

そんなとき、この時計店が大きな借金を抱えていることを知ったのです。
やがて、借金取りが店に来るようになります。

杉山はこの時初めて、金貸しの存在を知りました。

この時計店は、いわゆる〝トイチ〟、十日で一割の利息を取る金融業者から金を借りていて、にっちもさっちもいかなくなっていたのです。

時計店の主人は店を売却して、金を返済する相談を家族としていました。
その額を知った杉山の頭に閃くものがありました。

-これはチャンスかもしれない、と。

3年間の修行中に顔見知りとなった家が百軒近く。なかには町工場の社長や金融業者もいました。

杉山少年は、いそいで実家にいる父親を呼びました。

杉山少年の計画を聞いた父親は、自宅を担保に入れ、杉山とふたりで金策に奔走します。
その結果、高利息の金でしたが、一週間で10万円を借りることに成功します。

杉山は、丁稚奉公をしていた時計店を買い取ります。
看板は新たに〝杉山時計店〟になりました。

時計店の店主との立場も逆転しました。
元店主は、時計職人以外で食べていく術がありません。働く場所は、杉山が買収した、かつての自分の店しかありません。

杉山時計店の経営は順調そのものでした。

といっても、なかなかセコいやり口で儲けていたのです。

まず、中古の時計を大量に仕入れて、分解・修理をしたあと、ケースを変えて新品まがいの商品として大安売りしたのです。

時計は売れに売れました。

中古時計の仕入れが足りなくなると、杉山は密輸品の時計を分解・修理して、補います。

時計店は大繁盛します。

しかし、それで満足する杉山ではありませんでした。

電化ブームに乗って事業の多角化を目指す

昭和も30年代を迎えると、〝もはや戦後ではない〟という言葉が象徴するように、人々が喰うためだけの生活から、豊かな生活を求めるようになりました。

杉山はここで電気製品を取り扱うことを考え、まずは時計店にラジオ・洗濯機・テレビ・蛍光灯を置いて様子をみます。

電化製品の売れ行きは上々でした。

そこで杉山は繁華街にあった雑貨店を買い取って、杉山時計店の移転をおこない、松下電器(現:パナソニック)・ソニー・東芝・日立の製品を扱い、大型冷蔵庫やテレビを大量に仕入れます。



ここで杉山は商才を発揮します。

販売方法を一括ではなく、月賦(分割払い)販売にしたのです。

-6万円の冷蔵庫でも、月2000円あれば買える。

この販売方法は大当たりでした。

家電量販店のハシリといえるでしょう。

-隣の家がテレビを買った。我が家にも欲しい。

-隣の家が洗濯機を買った。我が家にも欲しい。

仕入れた電話製品は、右から左に次々に売れていきました。

杉山は電化製品の販売で大もうけをします。

また、月賦販売については、別の思惑もありました。

「電化製品を購入する客は、地元の人間ばかり。ここは都会ではなく田舎だから知った者同士だ。だから、月賦未払いで逃げることはできない」

20歳にして地元でトップの金持ちに、そして23歳で結婚。しかし・・・

杉山治夫は20歳にして、〝地元長浜一の出世頭〟と評判になり、〝長浜でも一、二を争う金持ち〟と羨望の眼差しで見られる存在になりました。

杉山が一躍、金持ちの仲間入りを果たすと、自然に人が寄ってきました。これまで遊びを知らなかった杉山ですが、大金を懐にして毎晩のように芸者とバカ騒ぎを繰り広げるようになります。

杉山は金の威力の凄さを肌身で感じました。
そして、その金に惹かれて女性が寄ってくることも。

いままでの禁欲的な生活のタガが外れたように派手に遊びまくっていた杉山ですが、23歳のとき、転機が訪れます。

23歳の杉山は、家電量販店5店舗を経営する実業家として、ますます勢いを増していました。

そんな頃、杉山は自分の前を歩いていた、ひとりの女性に一目惚れをします。

もの凄い美人でした。

店の従業員にそのことを漏らすと、相手の素性を知り、何とお見合いのセッティングが整えられることになりました。

お見合いの席で、店の従業員が杉山のことをこれでもかこれでもかと褒めそやし、将来有望であることを相手の女性と両親に吹き込みます。

相手は資産家でしたが、お見合いはトントン拍子で話が進み、あっという間に話がまとまりました。

高知でおこなわれた結婚式は盛大なものになりました。

披露宴は三日三晩続き、仕事先の問屋、友人・知人関係、親類縁者の元へたらい回しにされながらも祝福を受けます。

羨望と嫉妬、そして、驚嘆と畏怖の表情を浮かべる地元民のあいだをモーニング姿で杉山は練り歩きました。

杉山は、「人生の絶頂」と自身で感じるほど、充実したときを迎えたのです。

しかし、転落はすぐそこに待ち構えていました。

電化製品量販店の店舗が増えるごとに、杉山自身の目が行き届かず、放漫経営におちいっていたのです。

従業員が勝手に手形を切り、仕入れを独断でおこなっていました。

そして、突然手形が不渡りとなって、黒字倒産に見舞われたのです。

「うちは儲かっているんだ! なのに、なぜなんだ」

半狂乱になった杉山の元に現れたのは、街金融の仮面を被った暴力団でした。

暴力団員は、杉山に短刀を突きつけながら、不渡り手形をどうしてくれる、と凄みます。

そんな状態でも杉山の頭に閃いたことがありました。

-こいつらは金に弱い。

そして、ヤクザの親分に言い放ちました。

“「親分! いや社長。お願いだ。わしをあんたとこの秘書にしてくれ。こう見えても、わしはまだ長浜じゃ顔がきく。わしの頼みなら金貸しする金持ちも知ってる。お、お願いじゃき!」”

杉山の必死の訴えは届きました。

杉山の元に現れた暴力金融業者は、金を貸し付けたり、大口融資をしてもらうためには、杉山のような販売店ルートと人脈を持った人間が必要だったのです。

結局、杉山の会社は、暴力金融会社に吸収合併される形となり、杉山は〝社長秘書〟の肩書きで、この会社に入社することになります。

杉山治夫が本格的に〝金融業〟と出合った瞬間でした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

(※その2に続きます)

長者番付

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所会長・社長・役員編)

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所代表・役員編)を年ごとにまとめました

はる坊です。

個人情報保護によって2004年分を最後に公示がされなくなりましたが、それまでは、毎年5月中に1,000万円以上を納税した人物は、所管税務署で氏名・住所・納税額が公示されていました。

公示された当日や翌日にかけては、芸能ニュースを中心に大きく取り上げられたものです。

これまで、俳優・タレント部門 歌手部門 その他芸能人部門を掲載してきました。
(※一番下にリンクを設けましたので、ご興味のある方はどうぞご覧ください)

今回は、少し趣向を変えて、芸能界の芸能事務所の代表・社長・幹部の納税額を見ていきたいと思います。

1995年分(平成7年分)からになりますが、

「この当時は、この事務所が儲かっていたんだな」

「こんな事務所知らないけど・・・」

と様々な感想をお持ちになるかと思います。

それでは、見ていきましょう。

※金額はすべて納税額です。

1995年分(平成7年)

ジャニー喜多川  1億1,864万円  ジャニーズ事務所

井澤健        9,283万円  イザワオフィス

田辺昭知       7,673万円  田辺エージェンシー

周防郁雄       4,039万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,872万円  石原プロモーション

渡辺美佐       3,696万円  渡辺プロダクション

西川幸男       2,136万円  新栄プロダクション

宮沢光子       2,038万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,529万円  ひばりプロダクション

※イザワオフィスは1979年にドリフターズいしだあゆみの事務所として、渡辺プロダクションから独立。
この頃は、いかりや長介加藤茶志村けんを中心にマネジメントしていた。
現在では、麻生祐未小泉孝太郎のマネジメントもおこなっている。

※田辺エージェンシーはタモリ・堺正章・由紀さおり永作博美を中心とした事務所だったが、最近では夏目三久のマネジメントをおこなっている。

※石原まき子氏は故・石原裕次郎氏の妻で、元女優の北原三枝氏。
裕次郎氏の死後、石原プロモーション会長に就任。

※新栄プロダクションは演歌歌手中心の芸能事務所だった。

※オフィスメイシェの宮沢光子氏は宮沢りえの実母。

※加藤和也氏は美空ひばり氏の甥で養子。

1996年分(平成8年)

ジャニー喜多川  1億8,543万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億1,588万円  イザワオフィス

松浦勝人       7,183万円  エイベックスグループ

田辺昭知       6,845万円  田辺エージェンシー

石原まき子      6,159万円  石原プロモーション

渡辺美佐       4,900万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       2,981万円  研音

西川幸男       2,086万円  新栄プロダクション

宮沢光子       1,414万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,324万円  ひばりプロダクション

1997年分(平成9年)

ジャニー喜多川  2億0,872万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億2,093万円  イザワオフィス

平哲夫      1億0,847万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       6,437万円  渡辺プロダクション

松浦勝人       5,417万円  エイベックスグループ

田辺昭知       4,628万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫       4,073万円  研音

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,769万円  石原プロモーション

1998年分(平成10年)

ジャニー喜多川  3億5,666万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億5,530万円  ジャニーズ事務所

依田巽      1億7,011万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億2,944万円  エイベックスグループ

井澤健      1億2,908万円  イザワオフィス

平哲夫      1億1,982万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       8,179万円  渡辺プロダクション

田辺昭知       4,892万円  田辺エージェンシー

石原まき子      3,109万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,286万円  アミューズ

※アミューズは、サザンオールスターズ福山雅治ポルノグラフィティのマネジメントを中心とした事務所だった。
現在では、Perfume高橋優flumpoolホラン千秋藤原さくら愛希れいかのマネジメントにも注力している。今年6月にサザンプロジェクトの責任者だった中西正樹氏が代表取締役社長に就任。

1999年分(平成11年)

平哲夫      2億4,924万円  ライジングプロダクション

メリー喜多川   2億6,040万円  ジャニーズ事務所

ジャニー喜多川  2億6,012万円  ジャニーズ事務所

長戸大幸     2億0,625万円  ビーインググループ

井澤健      1億0,312万円  イザワオフィス

依田巽        9,178万円  エイベックスグループ

松浦勝人       9,141万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       6,910万円  渡辺プロダクション

石原まき子      5,623万円  石原プロモーション

野崎俊夫       4,646万円  研音

周防郁雄       3,139万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       2,157万円  オスカープロモーション

西川幸男       1,510万円  新栄プロダクション

黒澤久雄       1,453万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉       1,206万円  アミューズ

加藤和也       1,085万円  ひばりプロダクション
 

2000年分(平成12年)

平哲夫      3億9,909万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,301万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,055万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,219万円  ジャニーズ・エンターテイメント

井澤健      1億3,572万円  イザワオフィス

依田巽      1億1,630万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億0,037万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       7,686万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫       4,503万円  研音

周防郁雄       3,609万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,288万円  石原プロモーション

古賀誠一       2,156万円  オスカープロモーション

加藤和也       1,988万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄       1,698万円  黒澤フィルムスタジオ

西川幸男       1,396万円  新栄プロダクション

2001年分(平成13年)

平哲夫      5億1,307万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,240万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,002万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,193万円  ジャニーズ・エンターテイメント

依田巽      1億2,834万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億1,539万円  エイベックスグループ

田辺昭知     1億1,088万円  田辺エージェンシー

井澤健        9,001万円  イザワオフィス

渡辺美佐       8,551万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,525万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       5,346万円  研音

石原まき子      3,201万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,880万円  アミューズ

2002年分(平成14年)

ジャニー喜多川  3億2,849万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,697万円  ジャニーズ事務所

平哲夫      1億9,671万円  ライジングプロダクション

依田巽      1億6,151万円  エイベックスグループ

藤島ジュリー景子 1億4,425万円  ジャニーズ・エンターテイメント

田辺昭知       8,824万円  田辺エージェンシー

井澤健        8,373万円  イザワオフィス

野崎俊夫       6,985万円  研音

渡辺美佐       6,671万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,351万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       6,296万円  オスカープロモーション

松浦勝人       5,221万円  エイベックスグループ

石原まき子      4,052万円  石原プロモーション

大里洋吉       2,414万円  アミューズ

堀威夫        1,575万円  ホリプロ

黒澤久雄       1,569万円  黒澤フィルムスタジオ

2003年分(平成15年)

ジャニー喜多川  3億2,953万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,825万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億8,748万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億6,039万円  ライジングプロダクション

依田巽  1億3,863万円  エイベックスグループ

井澤健  1億2,463万円  イザワオフィス

古賀誠一 1億0,347万円  オスカープロモーション

石原まき子  9,944万円  石原プロモーション

田辺昭知   9,542万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫   7,651万円  研音

渡辺美佐   7,369万円  渡辺プロダクション

川村龍夫   7,326万円  ケイダッシュ

周防郁雄   6,357万円  バーニングプロダクション

加藤和也   1,424万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄   1,424万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉   1,215万円  アミューズ

堀威夫    1,188万円  ホリプロ

2004年分(平成16年)

ジャニー喜多川  3億3,126万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,967万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 2億3,820万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億5,149万円  ライジングプロダクション

松浦勝人 1億4,088万円  エイベックスグループ

依田巽  1億3,700万円  ドリーミュージック

古賀誠一 1億3,148万円  オスカープロモーション

井澤健  1億0,244万円  イザワオフィス

川村龍夫   9,077万円  ケイダッシュ

田辺昭知   7,613万円  田辺エージェンシー  

永田洋子   7,607万円  BACコーポレーション

渡辺美佐   7,376万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫   7,287万円  研音

周防郁雄   5,964万円  バーニングプロダクション

大里洋吉   3,370万円  アミューズ

石原まき子  3,126万円  石原プロモーション

野田義治   1,713万円  サンズエンタテインメント   

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

以下に、長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)へのリンクを置いておきますので、ご興味のある方は、ぜひご覧ください

長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)

長者番付を振り返ってみましょうか(2001年分~2004年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1996年分~2000年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1991年分~1995年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1986年分~1990年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1980年分~1985年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1975年分~1979年分 芸能人&文化人部門)

人物伝

いまこそ日本マクドナルド創業者・藤田田(デンと発音して下さい)を再検証する。祝・「ユダヤの商法」復刊!

2019年4月13日 ついに藤田田『ユダヤの商法』復刊!

はる坊です。

長い間、謎だったことがあります。
それは、なぜあの本は絶版・品切れ中になったままなのか。

絶対に、ニーズのある本なのに、ご遺族の意向なのか?

その本は、1972年に発売され年間ベストセラーで第6位にランクインした、藤田田『ユダヤの商法』。

これほど普遍的な事柄を書いた本はないのに、いつのまにか書店・古本屋から姿を消して、古書は1万円以上の値が付く状態。

そんな本がようやくこの4月13日に復刊されることになりました。
題して、藤田田『
ユダヤの商法(新装版)

本当に嬉しいことです。

また、勝てば官軍(新装版)〝Den Fujitaの商法 〟シリーズも新装版が同時発売となります。

推薦文も幻冬舎社長 見城徹・SHOWROOM社長 前田裕二・AMF社長 椎木里佳・オリエンタルラジオ 中田敦彦と藤田田の本が好きそうなメンツが寄せています。

どの本も、読んで絶対に損をすることはありませんので、おすすめします。
『ユダヤの商法』と『勝てば官軍』が1,588円。
〝Den Fujitaの商法〟が各994円。

ハッキリ言って、書いてある内容に比べたら安すぎます。

特に『ユダヤの商法』は久留米大学附設高等学校に在学中だった、当時16歳のソフトバンクグループの孫正義を感激させ、どうしても藤田田に会いたいと電話を掛け続けるも、会ってもらえなかった為、アポなしで九州から東京へ飛行機で向かい、秘書との激しいやりとりの末に、ようやく藤田田本人との面会が叶い、

孫正義が放った「これからアメリカへ行って勉強してくるが、何を勉強したらいいか?」との質問に、

藤田田が「コンピュータだ。私が君の歳ならコンピュータをやる。これからコンピュータはどんどん小さくなっていく、その過程で絶対に儲かるチャンスがある」と答えたエピソードは有名です。

後日談として、ソフトバンクを成長させ、株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たした孫正義が藤田田を訪ねると、藤田田は「あのときの少年か!」と感激して、早速ソフトバンクの300台のパソコンを発注したというええ話もあります。

ソフトバンクについては、後に孫正義の誘いに応じて社外取締役に就任しました。

藤田田の任期が終わったあと、社外取締役の後任となったのがファーストリテイリングの柳井正でした。挨拶に来た柳井に、藤田は「君が柳井君か。ええもんをやろう」といって手渡したのは、ハンバーガーの無料券数枚でした。

また、ユニクロの柳井正や少年時代の宇野康秀が愛読していたりと、現在活躍している実業家・経済人がむさぼり読んだ本として知られています。

藤田田(デンと発音して下さい)って誰?

まず、「藤田田(デンと発音して下さい)って誰?」という方のために、Wikipediaより高い精度のプロフィールを。

藤田田は1926年3月13日に大阪府大阪市に生まれました。(城東区生まれと淀川区生まれとふたつの記述があります)
父親はイギリス企業の日本支社で働く電気技師。母親は敬虔なクリスチャンでした。
3歳で吹田市千里山に転居して、小学校時代を過ごしますが、旧制中学受験に失敗。1年間の浪人生活を送る羽目になります。

1年後、再受験で旧制北野中学に入学。北野中には1年違いで手塚治虫が在籍していました。
北野中学を経て旧制松江高校に入学。ここで英語とドイツ語をマスターします。
卒業後は、東京大学に進学。

そして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。
焼け野原の東京でひとりぼっち。

しかし、藤田田には感傷に浸っている暇はありませんでした。
戦時中に父親が亡くなり、学生でありながら残った家族に仕送りをしなければならない立場になったのです。

当時の東大生のアルバイトは家庭教師が中心でしたが、それでは自分の生活費と家族への仕送りはまかなえません。
そこで藤田は英字新聞で見つけたGHQの通訳募集の求人に臨んで、試験に合格します。

ところが、実際にアメリカ兵が使っている英語は学校で習ったものとまったく違うもの。
困った藤田は、将校に頼んで泊まり込みで実地の英語を勉強します。
半年ほどすると、英語が解り出します。

そして、ユダヤ人との付き合いも始まり、彼らにビジネスを教わります。

藤田田の東大時代は忙しいものでした。
朝は東大。
昼は銀座2丁目で始めたフジタ&カンパニーの仕事。
夜は進駐軍の通訳。

進駐軍の通訳の仕事は収入が良く、国家公務員の給与が1000円~2000円だった当時、月額1万円でした。

当時、三鷹に住んでいた太宰治との交遊も有名で、太宰治が玉川上水で入水を遂げた夜も一緒に飲んでおり、後年まで「あれは自殺ではなく、事故だった」と主張していました。

1950年に藤田商店を設立。(法人化は1960年)
国家公務員試験(高等文官試験行政科)を受け、大蔵省に合格しますが、辞退をして、1951年3月に東京大学法学部を卒業すると、実業の世界に飛び込んでいきます。

日本マクドナルドを始めるまで、藤田田が手掛けたのは高級雑貨の輸出入業でした。
クリスチャン・ディオールの正規輸入代理店を長く手掛け、東京タワーの蝋人形館も藤田田が手掛けた仕事のひとつです。

そして1971年渡米した際に、アメリカマクドナルドの創設者 レイ・クロック氏に会うことを勧められた藤田田は、50:50の合弁会社ならやるといい、レイ・クロックと合意します。

そして1971年三越銀座店の一角に日本マクドナルド一号店が開店。
瞬く間に大人気となり、1976年には100号店達成。
1979年に200号店達成。
1982年に300号店達成。
1984年に売上高1,000億円を突破。
1985年に500号店達成。
1987年に600号店達成。
1989年に700号店達成。
1993年に1000号店達成。
1996年に2000号店達成。
1999年に3000号店達成。

〝ハンバーガー王〟〝外食王〟と呼ばれるようになっていきました。

“「頭の悪い奴は損をする」”と断言した藤田田の凄さ

藤田田は生前、“「人生はカネや」”と公言していました。
しかし、金儲けだけの人間ではありませんでした。

現在、日本マクドナルドでは創業者である藤田田の影響力やイメージは消し去られてしまいました。
ここに『日本マクドナルド20年のあゆみ』に収められている「藤田田物語」には、真っ正直な藤田田の本音が綴られています。

“肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった経験から、確信をもっていえることは、人間には裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが人生で一番大切なことではないかと思います。それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは結局は目的ではなく、チャンスを得るための手段ではないかと思います。(中略します)要は、目的を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか”

お読みになっていかがだったでしょうか?

露悪的で、金の亡者的な発言や文章を残している藤田田ですが、本当は繊細で優しく、そして誰よりも勁い人間だったのではないかと思えてきます。
学生の身で父親を亡くし、学びながら家族を養ったこと。
東大法学部在学中に、光クラブ事件の山崎晃嗣や太宰治の死に出会ったこと。
そんななかでユダヤ人のたくましい生き方に出会い、やがては、“銀座のユダヤ人”を自称するまでになります。

藤田田の商法は、完全な合理主義と義理人情のバランスをうまく取るものでした。
そんな藤田田の名言を集めました

藤田田の名言集

・物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間として半人前だが、商人としても失格だ。

・不況なんてみんな同じ。その中でどうすれば勝てるかや! 考えろ!考えろ!

・1円にこだわれ!もっと粘れ

・人間は忘れる生き物だから、24時間メモを取れ。

・その国の教育と商売はリンクして進まないといけない。早すぎても、遅すぎても駄目なんだ。

・人件費は投資。設備投資と同じで、絞れば会社は弱くなる。

・高い給料でも儲かる仕組みを作るのが社長の仕事。人件費を下げて利益を出したら社長とは言えん。
-藤田田が社長を務めていた1998年当時、マクドナルドの店長の平均年収は819万円。
20代後半の店長も少なくなかった。
もちろん、外食産業の中では際だって高い給与水準だった。

そして・・・

・凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり

総資産数千億といわれた大富豪・藤田田

藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなります。
(70代を迎えても元気に、マクドナルドの社長・会長業に励んでいましたが、実は糖尿病と心臓に病を抱えていたようです)
2005年3月に遺産総額が公示されました。
その額491億円。
歴代6位の遺産額でした。
(ちなみに歴代1位はパナソニック創業者・松下幸之助氏です。2,450億円でした。)

そんな藤田田の資産は生前、1,500億円とも3,210億円とも伝えられていました。

一番大きかったのは、日本マクドナルド株ですが、長年に渡って、そのマクドナルドの売上の1%が契約役務・コンサルタント料として、藤田商店に入る仕組みになっていました。

またポテトの納入元が藤田田のファミリーカンパニーだったりと、個人で保有していた株式の他にも、現金が手元に流れ込む仕組みを作っていたことから、資産が膨大な額だと目され、また、日本マクドナルドがあれほどの大企業なのに東証1部ではなくJASDAQ上場となったのは、藤田田と日本マクドナルドの契約に不透明性があったからだと報じられました。

現在も、藤田商店は存在しており、息子さんが社長を務めていますが、デン・フジタやデン・フジタ興産といった無数にあったファミリー企業の多くは藤田商店に吸収合併されています。

息子さんは2人。藤田元(ゲンと発音して下さい)・藤田完(カンと発音して下さい)です。
元はジェネラル・将軍を意味する。
完はカーン・王様を意味する。

息子たちは、名前で得をするはずだ、と藤田田は生前に語っています。

ふたりとも成城大学出身という話がありますが、正確なところは、
どちらかが早稲田大学商学部卒業、そしてもうひとりが成城大学経済学部卒業。
日本マクドナルド2代目社長となった八木康行氏が成城大学出身だったのは、息子の友人であったことで藤田田と出会い、創業まもないマクドナルドに飛び込んだことが後の出世に繋がりました。

藤田田は、息子に日本マクドナルドを継がせることはありませんでした。
2003年に会長を退任するとき、取締役に就いていた息子も同時に退任しました。

日本マクドナルドは2000年にハンバーガーの価格を半額にして、一時は売上が好調に推移し、〝デフレの勝ち組〟ともて囃されました。
最安値でハンバーガー1個59円という時代がありました。

しかし、為替差損で2002年には初の赤字決算に陥り、ブランドイメージは落ち、決定的な打開策を見いだせないまま、2003年に藤田田は日本マクドナルドを去りました。

実は、この値下げ商法は自著『ユダヤの商法』に反したものでした。
彼自身が著書の中に安売り商法はしてはいけないと断じていたのです。
慢心したのか、それともこの時代は値下げしてモノを売る方法しかないと思ったのか・・・
永遠の謎ですが、現代に生きる私たちは『ユダヤの商法』を読んで、〝藤田田 金儲けの教え〟について学ぶべきところはしっかりと学ぶべきだと思います。

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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