Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅣ

はる坊です。
引き続き、名編集者・鳥嶋和彦さんの足跡を辿っていきます。

『Vジャンプ』編集長に就任

鳥嶋和彦さんは、週刊少年ジャンプ編集部においては、異端児ともいえる存在でした。
しかし、鳥山明さんの『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』の初代担当編集者として、また外部との交流により『ファミコン神拳』『ジャンプ放送局』を誌上で担当するなど、人気連載を立ち上げ、継続させることで有能な編集者としてその地位を確立していきます。

1992年『Vジャンプ』が創刊され、鳥嶋さんは編集長となります。

鳥山明さんの『Dr.スランプ』のスピンオフといえる『ちょっとだけかえってきた Dr.SLUMP』(鳥山さんは監修)。
桂正和さんの『SHADOW LADY』(ジャンプ本誌連載前)を掲載し、『空想科学世界ガリバーボーイ』『覇王大系リューナイト』などアニメ化を前提とした作品を連載、メディアミックスに積極的な漫画誌にしていきます。

なぜ、鳥嶋和彦さんは週刊少年ジャンプ編集部から離れたか?

鳥嶋さんが少年ジャンプ編集部から離れた理由については、第3代編集長の西村繁男さんの後を継いだ、第4代編集長後藤広喜さんと確執があり、

“鳥嶋氏が「好きなことをやらせてくれるのなら」と『Vジャンプ』の編集長を引き受けた”

(月刊創 1996年4月号より)という話があります。

平松伸二さんの『そしてボクは外道マンになる』では権藤狂児として描かれている後藤さんですが、作中でも魔死利戸毒多として描かれている鳥嶋さんと肌が合わない様子が描かれています。

また、『男一匹ガキ大将』で『ハレンチ学園』の永井豪さんと並んで、週刊少年ジャンプの創生期を支えた功績から、ある時点まで、少年ジャンプ編集部でも特別扱いをされていた本宮ひろ志さんの影響を受け、本宮さんのアシスタント経験者・関係者(高橋よしひろ氏・宮下あきら氏・車田正美氏・金井たつお氏等)が独立して、ジャンプ誌面に連載を持っている時期ですから、鳥嶋さんとしてはやりにくかったのはあると思います。

実際、本宮さんの半自叙伝『天然まんが家』(現在は絶版で中古本しかありません)には、鳥嶋さんとのやり取りが出てきますが、お互いに反目し合っているような書き方です。


ラブコメ好きの鳥嶋さんと、ラブコメとは程遠い場所にいて、サンデーやマガジンでラブコメ作品がヒットしたのを見て、ラブコメ主体に連載作品を変えていこうとするジャンプ編集部との軋轢も書かれています。
『Vジャンプ』は『週刊少年ジャンプ』とはまったく違った編集方針で、作られていきました。

『クロノトリガー』プロジェクトを立ち上げる

『ドラゴンクエスト』とともに2大RPGと呼ばれている『ファイナルファンタジー』もⅣまではドラクエとは売上や知名度に大きな差がありました。しかし、鳥嶋さんとFFのプロデューサー・坂口博信さんが話し合い、Ⅴからは誌面で特集を組むようになり、これがひとつのゲームに繋がっていきます。

《ドリームプロジェクト》と題して、

スーパーバイザーストーリー原案:堀井雄二

キャラクターデザイン:鳥山明

スーパーバイザー、エグゼクティブプロデューサー:坂口博信

で製作された名作ゲーム『クロノ・トリガー』です。


なんと鳥嶋さんは、このプロジェクトをエニックスの事前承諾なしで立ち上げました。

その理由は

“「エニックスが堀井雄二さんを甘やかしてるな」と思ったのが理由だね。堀井さんを本当に大事にして、ゲーム業界を活性化させたければ、やっぱり新しい企画をやらせなきゃいけないんだけど、『ドラクエ』ばかりつくらせてるじゃない。」”

(KADOKAWA社長・佐藤辰男氏との対談にて)

慌てたのはエニックスです。

当時の専務取締役でドラクエシリーズのプロデューサー・千田幸信氏は、鳥嶋さんと何度も話し合いを持ちます。

(苦労人で、真面目で実直な千田さんが慌てる姿、必死に交渉される姿が目に浮かぶようです・・・)

結果として、スクウェアから発売された『クロノ・トリガー』は大ヒットゲームとなりますが、エニックスは1995年6月に堀井雄二さんをエニックスの取締役に就けます。

それまでは、堀井さんの事務所である有限会社アーマープロジェクトとの契約でゲーム製作をおこなってきましたが、堀井さんをエニックスの役員にしたのは、堀井さんをエニックスに繋ぎ止めるのが目的だったでしょう。

エニックスは、のちに〝お家騒動〟の中心人物になる保坂嘉弘氏が立ち上げた出版事業が順調でしたが、『ドラクエ』が発売される年とされない年では、100億円単位で年間売上高が違うという状態でした。

『クロノ・トリガー』は230万本の大ヒットゲームになります。

スクウェアは膨大な利益を得て、堀井さんにも多くの印税が入ったはずですが、エニックスには一銭も入りません。
もし、万が一にも堀井さんの気持ちが揺らいで、スクウェアで発売するゲームを中心に仕事をするようなことがあっては、エニックスの屋台骨が揺らいでしまうという恐れがあったと思います。

非常に古いデータになりますが、当時の株式四季報と有価証券報告書から見てみましょう。

1992年3月期決算 売上高 85億4400万円 経常利益18億5200万円

1993年3月期決算 売上高240億3300万円 経常利益54億5500万円

93年度の決算が前年比3倍増になっているのは、92年9月に『ドラゴンクエストⅤ』が発売された280万本ものセールスを記録したからです。

『ドラクエ』頼みから脱却しようと、ゲーム事業の製作ラインを増やして、それなりにヒットしたゲームもありましたが、やはり『ドラクエ』あってのエニックスからは、スクウェアを吸収合併するまで抜け出せなかったと思います。


堀井雄二さんの人柄・経歴・年収、そしてご家族は?

ゲームクリエーターとして著名な堀井雄二さんですが、謙虚な人柄で、華美な生活を好む方ではないようです。

メディアに露出されるときは、服装や服飾品に気を遣われていてオシャレな印象があり、スマートな体型を維持されていて、65歳を迎えられたとは思えないほど若々しいですが、これは秘書を始め周囲の方の進言で、外見に気を配られるようになったからようです。

実際、20年前の堀井さんは、髪型にもう少し気を配って欲しいなあと感じる、へんてこりんなサングラスをかけたおじさんでした。40代前半にしては老けて見えていました。

1954年(昭和29年)1月6日に兵庫県洲本市生まれ。山羊座・血液型はA型。
兵庫県立洲本高等学校を卒業後は、早稲田大学第一文学部に進学。国語と数学が得意で歴史が苦手だったようです。
漫画研究会に入ってから、ライター活動を始めます。

在学中にバイク事故に遭い一時は療養生活を余儀なくされますが、78年3月に無事卒業。
卒業後は就職をすることなくフリーライターとして活動します。

また、小池一夫劇画村塾に通い、本田一景のペンネームで『ゴルゴ13』などの漫画原作も手掛けます。ライターとしては

“「非常に有能」(鳥嶋和彦さん談)”

で、“「月収は50~100万円」”を稼いで、ドラゴンクエストが発売される前に世田谷区に36坪・4LDKの自宅を購入。その後、同じ世田谷区内に邸宅を構えられます。丸みを帯びた建物が印象的ですが、外観は質実で特別に目立つ印象はありません。

また、1995年頃から堀井雄二さんは高額納税者番付(長者番付)の文化人部門に顔を出すようになります。

納税額から推定される年収は2~3億円ですが、この頃に発行されたエニックスの有価証券報告書を確認すると、少ないときで3,4億円多いときで20億円をアーマープロジェクトに支払っていることが確認できます。

高額納税者番付(長者番付)の文化人部門に登場した堀井雄二さんのデータ。

1995年分・・・納税額8041万円 文化人部門20位

1996年分・・・納税額8495万円 文化人部門18位

1997年分・・・納税額8772万円 文化人部門16位

1998年分・・・納税額8594万円 文化人部門19位

1999年分・・・納税額8595万円 文化人部門16位

2000年度・・・納税額1億0750万円 文化人部門12位

2001年分・・・納税額1億0106万円 文化人部門10位

2003年分・・・納税額7226万円 文化人部門20位

ご家族は大学卒業後に結婚した奥様と息子さんと娘さんで、3人とも1985年12月に設立され、堀井雄二さんが代表取締役を務める事務所、有限会社アーマープロジェクトの取締役に就いています。

また、生まれ故郷の淡路島に2008年に950万円、それ以降は毎年1000万円のふるさと納税を続け、
2017年12月には洲本市名誉市民に選ばれています。

※2018年堀井雄二さんが離婚を経て再婚をされていたことが明らかになりました。
アーマープロジェクトの代表取締役はこれまでどおり堀井雄二さん。取締役には、洲本市在住の親族の男性と元奥様。
そのあいだに儲けられた息子さんと娘さん。
そして、現在の奥様が就かれています。

そのⅤに続きます。

Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅤ