Dr.マシリトこと鳥嶋和彦はビックリするほど優秀だった そのⅣ
はる坊です。 引き続き、名編集者・鳥嶋和彦さんの足跡を辿っていきます。 『Vジャンプ』編集長に就任 鳥嶋和彦さんは、週刊少年ジャンプ編集部においては、異端児ともいえる存在でした。 しかし、鳥山明さんの『Dr.スランプ』『…
人物伝
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人物伝
はる坊です。 さて、鳥山明さんが『Dr.スランプ』連載中に、鳥嶋和彦さんは新たな動きをみせます。 週刊少年ジャンプ編集部の異端児・鳥嶋和彦の仕事術 第1に桂正和さんの発掘です。 桂さんは1962年12月10日に福井県に生…
人物伝
はる坊です。
引き続き、スクウェア・エニックス創業者の福嶋康博さんの足跡を追っていきます。
福嶋さんが考えたのは、素人でも扱える機械を導入して、寿司づくりの自動化を図ることでした。
そして、自動寿司握りロボットを導入します。
ただ、機械自体が高額な為に、最初のお店は素人でもできる型押しロボットを導入しました。
目標は、5年間で全国490店舗を展開して、当時急成長で注目を浴びていた小僧寿しを抜いて、テイクアウト寿司市場でNo.1を獲ることです。
1979年(昭和54年)持ち帰り寿司全国No.1を目指して、寿司をロボットが握る持ち帰り寿司店を狛江市の狛江団地近くにオープンします。
当時の小僧寿しは、店が路面に向いており、衛生面に疑問を持った福嶋さんは、マクドナルド型に、店舗に入ってすぐ持ち帰りカウンターのある店舗を造り、衛生面にも気を配った店舗を完成させました。
店舗の向かい側はスーパーマーケット。
ターゲットとする客層に、アピールできる最高の立地でした。
開店当初の店舗は大盛況。大行列。
福嶋さんは、「これは大成功だ!」と胸を躍らせます。
次々に、持ち帰り寿司店舗を展開していけば、小僧寿しを超えられる!
しかし、やがて客足は遠のき始めます。
「なぜだろう?」
と思った福嶋さんは、自転車のカゴに寿司を入れて走ってみました。
しばらく走って、狛江団地のベンチに座り寿司折りを開けてみると、客足が遠のいた理由がハッキリと分かりました。
寿司のネタとシャリの握りが甘く、ネタがシャリからすべて落ちていたのです。
まだ、導入したロボットの技術が拙く、しっかりと握るところまでできていなかったのです。
早急にパート従業員を採用して、ロボットが握った寿司を、人の手でもう一度握り直すことで、客足は戻ってきましたが、福嶋さんはこの事業から撤退することを決断します。
この事業の目的は、寿司屋として成功することではなく、小僧寿しよりローコストの持ち帰り寿司チェーンを高利益体質で急速展開することにありました。ローコスト実現のために導入したロボットが型押しした寿司をパート従業員が握り直していたのでは、設備投資をした分、福嶋さんの持ち帰り寿司店は小僧寿しよりコストがかかってしまいます。
結局、持ち帰り寿司事業は頓挫します。
店自体に利益は出ていましたが、寿司握りロボットの導入と清潔さを求めた店舗の内装費を投資をしたため、3ヶ月で3000万円の赤字を出しました。
しかし、福嶋さんに後悔はありませんでした。
最初から損切りの金額を決めていたからです。
営団社募集サービスセンター自体に年間で7,000万円の利益が出ていたため、「3,000万円までの赤字なら、本業に差し支えない」そういう計算が出来ており、落ち込むこともありませんでした。
次に進出したのが、コンピューター事業でした。
といっても、ハドソンのようにソフトウエアを開発して通信販売したのではありません。
1980年のこと、福嶋さんは再度渡米して、ロサンゼルスで新規事業を検討します。
結果、パーソナルコンピュータのソフトビジネスに将来性があると判断して、確信を持って帰国します。
ただ、可能性があるからといって、いきなり事業を興すことはしませんでした。
そこで、実験的に福嶋さんがパソコンと顧客管理ソフトを持って市場調査の為に、会社を飛び込み訪問して様子をみました。すると関心を持っている人が意外に多いことに気付きます。なかには、その場でシステムを売ってくれという人までいました。
コンピュータはビジネスになる
福嶋さんの確信は深まりました。
そして、株式会社 エム・シー・ビー(MCB)を設立して、東芝のオフィス・コンピュータ(オフコン)の販売代理店になったのです。
営業マンは営団社募集サービスセンターから数名の社員を出向する形で事業を開始しました。
このとき、福嶋さんはセールスマンに命じた言葉があります。
『コンピュータがあれば何でもできますと絶対に言うな』というものでした。
なぜかというと、当時は、企業にコンピュータが入り始めた頃です。
しかし、セールスマンに「コンピュータがあれば何でもできます」と言われて、機能をどんどん追加した挙げ句、見積書が非常に高額となってしまい、客側がコンピュータ導入に躊躇する状態でもありました。
事実、大手メーカーがオフコンを売りだして、多くの販売代理店が生まれましたが、利益を得ていたのはごく少数でした。
福嶋さんの戦略は、客の要望を聞いてそれに合わせた商品を売るというものでした。
また、アフターサービスもおこない、顧客の信頼を勝ち得ていきます。
このとき設立した株式会社 エム・シー・ビー(MCB)には、のちにドラゴンクエストの初代プロデューサーとなる千田幸信さんが入社してきました。
千田さんはエム・シー・ビー(MCB)で働いた後、一旦退職。
フリーのプログラマー・システムエンジニアとして仕事をしたあと、仕事をもらいに福嶋さんの元に訪れた際に、エニックス設立への参加を要請されています。
エム・シー・ビーは東京で1位の東芝代理店になります。
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福嶋さんが次に目を付けたのはパソコンゲーム事業でした。
1982年8月、経営していた株式会社営団社募集サービスセンターの子会社・株式会社営団社システムの商号を株式会社エニックスに変更します。
代表取締役社長には福嶋康博さん。
取締役には千田幸信さん。
そして、営団社募集サービスセンター設立まもなくから福嶋さんと働いていた高野豊さんという3人で事業を開始します。
現在も、東京都新宿区西新宿7丁目1-8にある1972年築のヒノデビル。
1Fにモスバーガーの入った何の変哲もない雑居ビルですが、すべては、この場所からはじまりました。
エニックスを設立した福嶋さんは、すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。
最優秀プログラム賞受賞者には賞金100万円。
優秀プログラム賞受賞者(2名)には賞金50万円。
入選プログラム賞受賞者(10名)には10万円。
参加者全員に記念品を用意。
当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
エニックスが、まったくの無名会社だったから。
さすがに、社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています
(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)
それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。
千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。
そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。
最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。
少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。
ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。
依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。
鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。
鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。
四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。
中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8801を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。
エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。
また、NHKが取材に入るという機会が訪れ、ゲームコンテストは一気に加速がつきました。
最終的には、コンテストに100本以上のゲームが集まりました。ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。
審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さん(東京工業大学中退後、当時は埼玉医科大学医学部在学中)の『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。
中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀プログラム賞でした。
堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』は入選プログラム賞を受賞。
このコンテストで、堀井雄二さんと中村光一さんを発掘することができたのは、エニックスにとって大収穫でした。
ゲームコンテストで入賞したゲームを製品化して売り出すと、『ドアドア』の8万本を始め、パソコンゲームの売上上位にエニックスのソフトが名を連ねます。
エニックスは設立初年度で、3億5,000万円の利益をはじき出しました。
1983年10月には、取引銀行の支店長の仲立ちで、コニカ(当時は、小西六写真工業)と合弁で小西六エニックス(コニカエニックス)を設立します。
資本金は6,000万円。
当初エニックスの出資比率が50.6%でした。
コニカエニックス社長にも就任した福嶋さんは、ゲームソフト流通業に力を入れます。
この会社は設立してから数年で、年間売上高30億円の企業に成長しました。
福嶋さんにとって一番大きな収穫は、コニカエニックスに出向してきたコニカの優秀な人材を、エニックスに入社させられたことでしょう。
彼らは、エニックスの役員や幹部となり、1980年代後半から1990年代半ばのエニックスを支える存在になります。
この頃、少しずつ注目経営者となっていった福嶋さんは雑誌のインタビューに登場しています。
年収はこの頃で1700万円。月のお小遣いは30万円。
しかし、営団社募集サービスセンター・エニックス・コニカエニックスと3社の代表取締役社長を務めていた福嶋さんは忙しく、
昼食は、立ち食いそばで済ませて、朝から夜遅くまで働いていたようです。
次に福嶋さんは、任天堂が発売したファミコンに『ドアドア』を移植して発売。
20万本のヒットとなります。
そして続いて、堀井雄二さんシナリオ・ゲームデザインの『ポートピア連続殺人事件』を発売60万本のヒットとなります。
これが、『ドラゴンクエスト』開発への足がかりとなります。
千田幸信さんがプロデューサーとなり、シナリオ・ゲームデザインに堀井雄二さん、キャラクターデザインに鳥山明
さん、音楽にすぎやまこういち
さん、そして、メインプログラムにチュンソフトを設立して代表取締役社長兼メインプログラマーとなっていた中村光一さんという主要スタッフの元で開発された『ドラゴンクエスト』はⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳと発売される毎に、人気とその発売本数を増やしていきます。
そして、発売日当日には大行列ができるのが風物詩になります、
3DS・DSがあればシリーズ全作が遊べる『ドラゴンクエスト』シリーズについてまとめた記事はこちらです。(新しいページが開きます)⇒3DSとDSがあれば、ドラクエシリーズが全作品が遊べるんです!!
ゲーム業界で任天堂のようにゲーム用ハードウェアを製造しない、ソフトウェアメーカーで最初に株式を上場したのはコナミ(現:コナミホールディングス)でした。
1984年10月に大阪証券取引場第2部に設けられたベンチャー企業向けの新2部に上場を果たしたのです。(コナミはその後1988年2月に東証2部への上場を果たすと、8ヶ月後の10月に東証1部に上場しています。)
コナミが株式上場企業となったことや〝ファミコンブーム〟の到来で、証券会社もゲーム関係企業に注目を向けて、ゲーム業界では店頭公開(ジャスダック上場)や東証・大証上場を果たす企業が増えていました。
1986年4月 セガ・エンタープライゼス(現:セガゲームス)が店頭公開⇒1988年4月に東証2部上場⇒1990年10月に東証1部上場
1988年1月 ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)が東証2部上場⇒1991年9月に東証1部上場
1988年9月 ジャレコが店頭公開(現:ジャスダック上場)
1990年1月 カプコンが店頭公開(現:ジャスダック上場)⇒1993年10月大証2部上場⇒1999年9月大証1部に指定替え⇒2000年10月東証1部上場
『ドラゴンクエスト』の大ヒットと共に発売元のエニックスも注目を受けることになり、証券会社から株式上場の誘いが頻繁に来るようになります。
株式上場について、福嶋さんは当初慎重で断り続けました。
一番、株式を上場しやすい店頭公開(ジャスダック上場)でも、準備に2~3年かかるのが当たり前で、そこまで労力を払って株式公開や上場をするのは割に合わないのではないかという考えがあった為です。
また、株式を上場させると、経営の自由度が下がるのではないかという不安もあったようです。
しかし、福嶋さんが欲しいのは優秀な人材でした。
エニックスが上場すれば、社会的信用も増して、優れた人材が集まって来やすいのは確かでした。
当時の取締役社長室長 前川敏雄さんと総務部長が店頭公開時に主幹事証券会社となった山一証券と中心となって進めていきました。
1990年2月11日に発売された『ドラゴンクエストⅣ』のメガヒットで、1990年3月期のエニックスの業績は、
売上高:162億6,600万円
営業利益:38億8,600万円
経常利益:39億5,700万円
と順調な伸びを見せます。
そして1991年2月1日、エニックスは店頭公開(JASDAQ上場)を果たします。
株式の初値は12,000円。
会社設立から9年の株式上場は、当時としてはかなりのスピードであり、福嶋さんは辣腕経営者と認められます。
また、この株式上場によって福嶋さんは500億円の株式資産を保有することになります。
上場後初となる、1991年3月決算でも、昨年度に引き続き『ドラゴンクエストⅣ』効果が持続して、
売上高:150億6,200万円
営業利益:32億8,400万円
経常利益:35億2,000万円
を記録します。
1992年5月に公示された、1991年分の高額納税者の公示では、福嶋さんは株式売却益を得て3億2,950万円を納税しています。
(ちなみに、同公示では、エニックス創業メンバーで専務取締役の千田幸信さんが7,107万円、『ドラゴンクエスト』の作者である堀井雄二さんが2,245万円を納税しています。)
福嶋さんは、上場で得た利益で、川崎市多摩区から、杉並区浜田山の豪邸に移り住みます。
敷地450坪。地下1階地上2階の建物には、福嶋さんの好きな麻雀が思う存分楽しめる麻雀ルームと健康のためスポーツジムが設えられました。
また、広い庭の草むしりは、福嶋さん休日の日課になりました。
ここで非常にたいせつなことは、福嶋さんが必要以上に所有している株式を売却しなかったことです。
店頭公開後も福嶋さんは、福嶋康博個人と資産管理会社の福嶋企画、そして、奥様の福嶋美知子で70%の株式を保有していました。広大な邸宅の建築が目標だったわけではないでしょうが、10数年後に建てることになる渋谷区初台の大豪邸に向けて、重要な資産となっていきます。
杉並区浜田山に移る前に福嶋さん一家が暮らしていた、敷地面積:約80坪の川崎市多摩区の旧福嶋邸は、エニックスと深い関わりがあった開発会社・クインテットの橋本昌哉さんが買取り、その後、クインテットが保有しています。
福嶋さんが川崎市多摩区に自宅を構えていたのも理由があると考えています。
かわさきマイコンシティ(川崎市マイコンシティ)に近かったことです。
エニックスは川崎市多摩区にエニックス研究所を設置して、センサーの開発販売を目的に、ピーエムエフという会社に出資していました。
「この場所に住んでいれば、ビジネスにも有利だ」
まだ、30代半ばの若き経営者だった福嶋さんが、そう考えたのではないかと思います。
クインテットは、日本ファルコムで『イース』シリーズなどを手掛けていた、橋本昌哉さん・宮崎友好さんが中心となって1989年4月に設立され、
エニックス向けに『アクトレイザー』『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』『天地創造』などを開発。
トライエースが設立され、『スターオーシャン』『ヴァルキリープロファイル』シリーズをリリースするまで、『ドラクエ』頼みだったエニックスを支えました。
エニックスの社員がまだ10人に満たない頃に入社され、エニックスのソフトウェア企画部 課長・ゲームプロデューサーとしてパソコン用ゲームソフトを経て、クインテット開発のゲームに深く関わられたのが、
『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』『【推しの子】』(原作担当)の人気漫画家・赤坂アカさんの父親・曽根康征さんです。
さて、ジャスダック上場からまもない1990年代前半に、証券会社からは東証2部への上場準備を持ち掛けられますが、福嶋さんは断ります。
当時は、上場審査が厳しく、上場を希望する企業には、○○という部署がないとダメだという内規が定められていました。
福嶋さんは、無理をして東証2部に替えることはないと、自分の考えを貫きました。
株式を公開して上場企業の仲間入りを果たしたことにより、新卒採用で現在に至るまでスクウェア・エニックスを支える人材が集まるなど、福嶋さんが望んだことが現実となる一方で、古参の役員や従業員がエニックスを去るということも起こりました。
(※これは、いわゆる〝エニックスお家騒動〟のことではありません)
エニックス株を保有していた彼らのなかには、株式上場によって、億単位の資産を得ている者もいました。
そのような立場になれば、新たにチャレンジしたいことや起業、またはアーリーリタイアメントも可能となります。
例えば、エニックスの創業メンバーのひとりで、ゲームプロデューサーを経て、エニックス 取締役 営業部長となった高野豊さんや
クインテット開発の『ソウルブレイダー』『ガイア幻想紀』やランダムハウス開発の隠れた名作『ジャストブリード』で、
エニックス 取締役 ソフトウェア企画部長としてプロデューサー等を務めた川口貴雄さんも1990年代半ばにエニックスを離れています。
それでも、無借金で自社ビル(通称〝ドラクエビル〟)を持つことができたり、経営者として、会社をより客観的に見るよう心を配るようになったのも、店頭公開の収穫でした。
上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期決算)
営業利益12億0200万円(1992年3月期決算)
経常利益18億5200万円(1992年3月期決算)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円
代表取締役社長:福嶋康博
生年月日:1947年8月18日
出身地:北海道旭川市
最終学歴:1970年 日本大学理工学部建築学科卒業
専務取締役:千田幸信
ソフトウェア企画部担当・出版企画部担当・玩具企画部担当・出版営業部担当
生年月日:1950年9月29日
出身地:岩手県
最終学歴:1972年 東海大学工学部中退
常務取締役:前川敏雄
総務部長・経理部担当
生年月日:1944年4月3日
出身地:千葉県
最終学歴:1967年 慶應義塾大学商学部卒業
※日本道路より1989年エニックスに転職
取締役:川口貴雄
ソフトウェア企画部長
生年月日:1948年1月31日
出身地:北海道
最終学歴:1970年 東海大学工学部卒業
※営団社募集サービスセンターに1978年入社
取締役:才藤智宏
営業部担当・業務部長・エニックス研究所長
生年月日:1941年5月1日
出身地:東京都
最終学歴:1965年 中央大学法学部卒業
※エニックスとコニカの合弁会社・コニカエニックスの取締役に1983年就任。
取締役:蟹江元
社長室長
生年月日:1948年8月29日
出身地:兵庫県
最終学歴:1971年 日本大学法学部卒業
※コニカより1989年エニックスに転職
取締役:上條弘
事業開発室長
生年月日:1952年1月30日
出身地:神奈川県
最終学歴:1974年 神奈川大学経済学部卒業
※三和銀行より1990年エニックスに転職
取締役:高野豊
株式会社 エニックスアカデミー代表取締役社長
生年月日:1947年11月21日
出身地:埼玉県
最終学歴:1970年 日本大学理工学部卒業
※営団社募集サービスセンターに1976年入社
(学科が建築学科だったかどうかは不明ですが、社長の福嶋さんと同い年で同じ年に日大を卒業されています。
ひょっとしたら、大学時代からの友人・知人関係だったのかもしれません。また、ワインソムリエの方は同姓同名の方です。)
常勤監査役:舟田正男
生年月日:1926年6月16日
出身地:石川県
最終学歴:京都大学工学部卒業
監査役:河野先
生年月日:1932年1月28日
出身地:東京都
最終学歴:慶應義塾大学経済学部中退
福嶋康博 46.6%
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子 5.9%
千田幸信 2.2%
三和銀行 1.9%
高野豊 1.8%
川口貴雄 1.8%
東洋信託銀行 1.6%
三菱銀行 1.3%
才藤智宏 0.9%
⇒エニックスも含めた、当時株式上場していたゲームソフトメーカーの会社情報はこちらです【1993年1月】上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成はこうだった
1999年8月 エニックスは東京証券取引所第1部に上場を果たします。
東証2部を通さずに、ジャスダック上場から東証1部に直接上場できるように証券取引所のルールが変わっていたこと、エニックスの社内体制が整っていたこともありますが、この上場は、最高のタイミングでした。
時はあたかもネットバブル全盛期、ネット関連企業だけでなく、ゲーム業界の株価も上がっていたのです。
ジャスダック上場企業と東証1部上場企業では、創業者など大株主が所有してよい株数(パーセンテージ)に違いがあります。
福嶋さんは1部上場の折に福嶋さん個人と福嶋企画名義で保有していた持株を売却して、莫大なキャッシュを得ることになります。
そして、2001年5月に公示された長者番付では、納税額3億5,890万円で全国第56位登場。
エニックス会長 福嶋康博の名を知らしめることになりました。
福嶋康博さんが名を連ねた2001年分の長者番付全国トップ100名のリストです。他のゲーム会社の会長・社長や芸能人では、浜崎あゆみ・宇多田ヒカル・稲葉浩志・松本孝弘(B’z)が名を連ねています(新しいページが開きます)⇒【懐かしの平成】2001年分(平成13年分)全国長者番付(高額納税者公示制度)トップ100にはこの人が登場していた。
すこし前後しますが、2000年10月にエニックスの経営体制は大きく変わります。
取締役 商品企画開発本部 ソフトウェア企画部長の本多圭司さんに代表取締役社長のバトンが渡されました。
当時本多さんは42歳の若さでした。
福嶋氏によると、社長就任を要請したのは、この半年前の2000年4月頃、関西出張の折だったとのことです。
本多圭司さんは1957年福岡県に生まれ。
大阪市立大学工学部建築学科を卒業後、早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程に進学。
修士課程を修了後は乃村工藝社に入社。
30歳を前に退職して、福嶋さん同様、海外放浪を経て、1987年に求人雑誌を見てエニックスに入社。
アメリカのエニックス・コーポレーションの責任者を経て、1997年に取締役に就任していました。
そして、福嶋さんは代表取締役会長になると、従来の事業は本多社長以下新体制に任せて、新規事業の開発に専念します。
2003年4月エニックスはスクウェアを吸収する形で合併、スクウェア・エニックスとなります。
裏話として、2000年頃に、スクウェアオーナーの宮本雅史さんより福嶋さんに合併話が持ち込まれましたが、福嶋さんが当時のスクウェアの経営状況を見て、あまりに開発部門がイケイケ過ぎるのを不安視していたので、断った経緯があります。
その後、スクウェアが映画事業失敗により、武市智行会長・坂口博信副社長の退任があり、和田洋一社長体制になったことから、福嶋さんの見る目が変わり、約3年後に再度持ち込まれた合併提案に賛成したという形です。
福嶋さんは同社のスクウェア・エニックス代表取締役会長を務めますが、2004年に相談役名誉会長に、2005年には名誉会長に退きます。
突然、代表権も取締役の職からも退いたことに、ゲーム業界は驚きました。
「取締役からも外れるなんて」という声が聞かれました。
まだ、福嶋さんは56歳という若さでした。
これに対する福嶋さんのコメントは、“「30年間、仕事のことだけを考えてきた。これからは人生について考えたい」”というものでした。
福嶋さんが事業家として20代から邁進してきた理由。
それは漠然とした不安でした。
いまのままいることに、常に不安を感じてしまう性格の持ち主だったのです。
その上、大変に慎重。
常に最悪を想定して事業に取り組むため、事業企画に自信があっても、常に不安がつきまとう。
成功の確率を上げるために必死に努力をして、事業の成功に確信を持っても、不安は消えない。
事業が大成功を収めても、大喜びすることはなく、
「そうか、うまくいったか」
と思うだけ。
だからこそ、事業家として成功され、大資産家にもなられたのだと思いますが、
ご自身で、“「昔からの友人に会ったとき、相手が会社員や公務員で、「仕事は楽しい?」と訊ねて、「そこそこ楽しいよ」という答えが返ってくると、相手がうらやましくて仕方ない」”と、気持ちを吐露されています。
中野ブロードウェイのフリーペーパー構想と持ち帰り寿司チェーン展開構想は失敗に終わりましたが、福嶋康博さんは事業家として、“当てる確率の高い方です”。
実際に、“「企画には自信があります」”と自負されていますし、エニックス自体をゲーム会社ではなく、“「現在、たまたまゲームソフト事業を中心にしているだけで、うちは企画会社」”と捉えられていました。
公団住宅の募集冊子から事業を始めて、東芝のオフィス向けコンピュータ代理店、ゲームソフト事業、すべてを当てています。
また、中国で醤油事業を展開して、何と中国で第2位にした実績もあります。(これは1位のメーカーがほぼ独占的なシェアを持っていたという事情もありますが)
実際、『ドラゴンクエスト』を中心にゲームソフト事業が大成して、上場企業となってからも、オフィス向けの机や椅子を安く輸入して中古販売を手掛けたり、2002年には早稲田大学とスポーツビービーという合弁会社を設立して、自ら先頭に立ってブロードバンド配信事業に取り組んだりしています。
しかし、どこまで事業で成功しても、スクウェアを吸収合併して、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』という強力IP・キラーコンテンツを保有するスクウェア・エニックスの会長になっても、福嶋さん自身、事業を通じて、自分自身の抱える不安を消すことはできなかった。
これが第一線から退かれた原因のようです。
実のところ福嶋さんは50歳のときに、経営から退く決意をされていました。
3年掛けて社内から後継者を選び、53歳のとき、3~4人いた後継者候補のなかから本多圭司さんを後継者に決めてからは、2年間、会長として見守った後、55歳で経営から完全に身を引くと決めていました。
おそらく、他の候補者は、
・取締役副会長 千田幸信さん
1950年9月29日岩手県生まれ。東海大学工学部中退。
CIS・ソフトウエア興業でプログラマー・システムエンジニアとして勤務後、エニックスの設立に参画した最古参メンバー。
(エニックス設立メンバーで、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサー。取締役⇒常務⇒専務⇒副会長を歴任)。
・取締役 出版事業部長 田口浩司さん
1961年11月3日福岡県生まれ。ラサール中学校・高等学校卒業。早稲田大学教育学部卒業。
早大在学中から編集プロダクション運営に携わり、卒業と同時に編集プロダクションを経営。27歳でエニックスに入社。
(営業担当としても実績を持ち、ゲーム事業・出版事業に事業部長として関わり、“エニックスお家騒動”でも、マッグガーデンと和解に持ち込むなど、数年前はTwitterで暴れておられましたが、旧エニックス時代は、部長や取締役に就任するスピードは早く、旧エニックスの社風が合っていたのであたりだったのではないかと思います。)
だったのではないかと思います。
また、2001年に起こった、いわゆる“エニックスお家騒動”がなければ、福嶋さんの第一線からの完全引退はもっと遅かったかも知れません。
おそらく、大きなショックだったでしょうから。
ゼロからエニックスの出版事業を収益の柱にしたのですから、福嶋さんもその力を認めていたでしょう。
・取締役 商品企画本部 出版企画部長 保坂 嘉弘さん。
1955年3月8日生まれ。亜細亜大学経済学部卒業。
漫画原作者を経て、1984年エニックス入社。1992年出版企画部長。1996年取締役。
現在、IGポート取締役。マッグガーデン代表取締役会長。
スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際のところのようです。
本来は、55歳での勇退を考えられていましたが、
スクウェアとエニックスが合併して、存続会社となるスクウェア・エニックスの会長になったことから、予定より1年間期間が延びて56歳でのリタイアになったというのが、実際のところのようです。
実業の第一線から退いた福嶋さんは、若い頃、かつて放浪した東南アジアを巡る旅に出ます。
東南アジア4カ国を歴訪した福嶋さんは、そのひとつであったカンボジアでのボランティア活動に取り組み始めます。
カンボジア現地のNGO団体・CEDACと協力して困窮している家庭を自立させるための農業講習をおこないます。
モノを与えるのではなく、自立して生活するための知識や知恵を現地の人々に与えるのが福嶋流のようです。
そして、2003年8月に渋谷区初台に約1050坪の土地を購入します。
2005年11月、この地に福嶋康博邸は完成します。
地上2階・地下1階に加えて、バーベキューハウスも別にある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。
その後、福嶋さんは南米のゲーム事業に携わったり、東南アジアでボランティア活動をして過ごしているようです。
2012年まではスクウェア・エニックスホールディングスとスクウェア・エニックスの事業には関わらず、ボランティアに専念されていたようです。
また、2009年秋には、CESAでの活動が認められ、藍綬褒章を受章しました。
自由な大資産家。
20代で起業家の道を歩み始めた男は、70代にして人生を満喫しているように思えます。
https://www.youtube.com/watch?v=CSSmLYOSskc
福嶋康博さんは奥さまとの間に一男一女を儲けました。
息子さんは、福嶋さんが卒業した大学の附属高校を卒業後、スポーツ科学が学べる大学へ進学しました。
そして、息子さんが20歳を迎えた日に、福嶋さんは一冊の本をプレゼントしました。
福嶋さん自身「本は読まない」と公言しており、それは事実のようですが、そんな福嶋さんが、大切に読み返してきた本がありました。
それは、D・カーネギーの『人を動かす』でした。
-自分の幸、不幸は自分の行動、考え方で定まる。
この言葉は、福嶋さんがまだ故郷・北海道旭川市にいたころ、友人のお父さんが常日頃言っていた言葉を自分でアレンジした上で、自分の心に刻み、息子さんにもことあるごとに伝えられていたようです。
世間的に大成功を収めた福嶋康博のこの言葉は、深く響きます。
参考文献:
福嶋康博『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』
大下英治『エニックスの飛翔―実録・ゲーム業界戦国史』
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
心よりお礼を申し上げます。
何かございましたら、こちらまでお願いいたします。
【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ
はる坊です。
引き続き、キーエンスと創業者・滝崎武光さんの足跡を追っていきます。
リード電機が急成長を遂げたのは、1980年(昭和55年)4月から光電センサの分野に進出してからです。
いままでの自動車業界や弱電業界だけではなく、一般の工場でも導入できる製品の開発販売を手掛け始めました。
1981年(昭和56年)には本社を大阪府吹田市に移転。
1982年(昭和57年)に自動線材切断機事業を売却しています。
この事業は年間売上高の10%を占め、経常利益率も20%ありました。
普通なら、この利益率に満足するところですが、滝崎氏は利益率が低いと感じ、将来性も薄いと判断してこの事業を売却します。そして得た売却益を、電子部品業界向けのセンサ事業につぎ込みます。
センサ事業を軸としたリード電機は、翌1983年(昭和57年)には年間売上高13億円を超え、経常利益率は37%台に伸びます。
この年以降、売上高は25億円(1984年3月期分)⇒42億円(1985年3月期分)⇒60億円(1986年3月期分)⇒73億円(1987年3月期分)と急激に伸び、経常利益率も38~40%をキープし続けます。
上場を1年後に控えた1986年秋の時点で、取引先企業は、NEC・日立製作所・東芝・新日本製鐵(当時)・武田薬品工業などの大企業から中小零細企業まで1万社を数え、
営業拠点は、東京・名古屋・広島・福岡など全国に12拠点を擁して、従業員は330名。
そのうち100名が営業マンでした。
当時、センサ業界で先行していたのは、横河北辰電機(現:横河電機)・山武ハネウエル(現:アズビル)・立石電機(現:オムロン)でしたが、
先行メーカーの製品が、液体や粉体の計測を主としていたのに対して、リード電機の製品は、FA(ファクトリー・オートメーション)センサー、つまりは、主に検査・組立ラインに設置されるものでした。
なかでも注目すべきは、当時から〝業界初のオリジナル製品〟が売上の90%を占め、独占商品が70%を占める状態であったことです。
他の企業が参入してこない分野であれば、リード電機の商品が自動的にプライスリーダーになれます。
このことで、
〝キーエンスはニッチ商品を開発して成長した〟
と言われることになるのですが、この時代から、基本的に製造は外注でおこない、販売方法も直販のコンサルティング営業で、顧客側から、
「こういうものを作って欲しい」
「こういう風にできないか?」
と提案をされてから応えるのではなく、顧客の潜在需要を拾い上げる考え方を重要視していました。
顧客の現場で、営業マンが顧客の潜在需要を拾い集めて、会社に持ち帰ります。
顧客より先回りして、
「こういう商品が必要になるのではないか?」
と予測を立てて、それを精度の高いものにした上で、
キーエンスが100%リスクを負って、
商品開発と製造をおこなって、顧客にその製品を提案して販売していくやり方です。
直販方式なのは、キーエンスが扱う先端技術商品は、商社を使って販売するとそのマージンが非常に高かったこと、そして製品の価値がうまく顧客に伝わらないと滝崎氏が考えた為ですが、結果的に、製品の価値を顧客に直接PR可能で、また、現場での潜在需要を拾い上げることもでき、営業利益を大きく取れるスタイルとして確立したといえるでしょう。
キーエンスは、メーカーでありながらセンサ事業で注目され始めた頃には、すでにファブレス経営に徹しています。
これはなぜなのか、滝崎氏の答えは明解です。
(生産を外部に委託するやり方のままで、会社を大きくしていくことに不安はないか)との問いに、
“「いいえ、設備投資をしたら、その設備を遊ばないようにしなくてはならない。そういう理由から、本当に有名な会社が「キーエンスさん、仕事ないですか」と言ってこられることもあるんですよ。自分で設備を持つ方がずっと大変ですね」”
1984年(昭和59年)11月には、本社を大阪府高槻市に移転。
1985年(昭和60年)3月には、米カリフォルニア州にキーエンス・コーポレーション・オブ・アメリカ(KEYENCE CORPORATION OF AMERICA)を設立。
(KEYENCEはリード電機時代から商品のブランド名でした。米国子会社は先駆けて商号をKEYENCEにしたわけです)
同年9月には製造子会社として、本社と同じ高槻市にクレポ株式会社(現:キーエンスエンジニアリング)を設立します。
ちなみに、このクレポという商号は〝クイックレスポンス〟の略で、滝崎氏の思考が堂々と表れている社名だと思います。
キーエンスエンジニアリングでは、協力会社に依頼することの出来ない極めて機密性の高い商品を開発・製造しています。
1986年(昭和61)年10月には、リード電機 株式会社から、商品ブランド名との統一を図るために、商号を株式会社 キーエンスに変更します。
そして、1987年10月29日キーエンスは大阪証券取引所第2部に上場します。一株の公募価格は5540円。上場初値は6800円でした。
会社設立から13年。滝崎武光氏は42歳でした。
株式上場については、滝崎氏は早い段階から考えており、まだ零細企業に過ぎなかった会社設立6年目で、
「会社らしい会社をつくりたい。株式上場をするためには、組織や財務体質をどうしたらいいのか?」
と自ら証券会社を訪ねていった経験をもっています。
上場初となる1988年3月期決算では売上高101億4800万円(前年比38.6%増)
営業利益40億1300万円(前年比58.0%増)経常利益35億5900万円(前年比36.6%増)
と極めて高い成長を見せ、売上高に対する営業利益は39.5%となります。
翌1989年(平成元年)3月期決算では、売上高146億6300万円(前年比44.5%)
営業利益62億9700万円(前年比57.0%増)
経常利益64億1000万円(前年比80.1%)
となり、営業利益率は42.9%と40%台に突入します。
同年12月25日には、東京証券取引所第2部に上場します。
1990年10月には東京証券取引所第1部・大阪証券取引所第1部に上場。
名実ともに1部上場企業の仲間入りを果たしました。
時に滝崎氏は45歳の若さでした。
この時代、創業社長でも45歳で東証1部上場企業の社長は最年少に近かったのではないでしょうか。
そして、翌1991年4月下旬には、任天堂を抜いて株価日本一を記録します。
しかし、滝崎氏は株価にはあくまでもクールな姿勢を保っていました。
インタビューを受けても
“「株価はしょせん人気指標。知名度が上がるのはありがたいのですが、浮かれることはありません」”
と株価にはそっけない対応に終始します。
滝崎氏が、
“「株価日本一なんかより、こっちのほうが自慢なんですよ」”
と言ったのは、やはり、売上高に対する営業利益率の高さでした。
“「これ(営業利益率)なんか、社員1人1人が付加価値の高い、いい仕事をした証でしょ。こっちのほうが私としてはうれしいですね。(中略)何年かしたら、30歳で1000万円は超せる給料を出せると思います。そしてゆくゆくは給料でも日本一にしたいと思ってるんですよ」”
何よりも付加価値の高い仕事をすることが大切だという滝崎氏の考えが率直に表れています。
また、すでに20代で高給が得られる会社という噂は立っており、1991年時点には、30歳で平均年収900万円。
その後、この発言のとおり、
“30歳で年収1000万円超え”
も
“給料(年収)日本一”も達成したのですから、すごいものだと感じます。
ここで1990年~1994年の決算を見てみましょう。
1990年(平成2年)3月期決算
売上高187億7700万円 営業利益 77億1000万円 経常利益 86億5600万円(営業利益率41.0%)
1991年(平成3年)3月期決算
売上高262億6700万円 営業利益108億7300万円 経常利益129億2800万円(営業利益率41.4%)
1992年(平成4年)3月期決算
売上高301億4500万円 営業利益120億5600万円 経常利益106億4300万円(営業利益率40.0%)
1993年(平成5年)3月期決算
売上高298億9300万円 営業利益102億4300万円 経常利益116億1600万円(営業利益率34.2%)
1994年(平成6年)3月期決算
売上高313億0700万円 営業利益115億5400万円 経常利益124億3000万円(営業利益率36.9%)
1992年下半期から1993年上半期にかけては、国内企業の設備投資圧縮のあおりを受けて、1993年3月期決算においては、キーエンスも厳しい年も経験しています。
しかし、この経験を糧に、海外部門を強化する重要性に気付き、アメリカ・オハイオ州に営業拠点を設けています。
この時代、売上高・営業利益の海外比率は9~10%でした。
現在は53%です。
これほど急速に確実性を持って成長した企業があるでしょうか?
わたしは、正直なところ奇跡的にすら感じます。
また、この間に私が注目したいのは、従業員の給与についてです。
1992年9月時点では、従業員は855名 平均年齢は28.1歳 平均賃金は諸手当を含んで339,166円で、30歳のモデル賃金が439,000円でした。
これが1994年9月時点では、従業員832名 平均年齢28.5歳と1992年の時点とあまり変わりがないのですが、
諸手当を含む平均賃金は400,283円と大幅にアップしています。
さて、お話をキーエンス高成長の理由に戻したいと思います。
〝キーエンスはニッチ商品を開発して成長したと言われた〟
と前述しましたが、滝崎氏は1991年のインタビューで高成長ができた理由を次のように語っています。
“「巷間、キーエンスは隙間商品を開発して伸びた、と言われていますが、私は市場創造ができたからだと思っています。われわれの商品政策は、従来からある商品でも非常に精度を高くするとか、精度は同じでも非常に小さい商品にするとか、はっきり特徴を出すやり方であり、こうして付加価値の高い商品を開発し、それを汎用品として売る力があるからこそ、高い成長力を維持できるのです」”
ちなみに、大阪証券取引所第2部に上場した際、キーエンスの発行済株式は1820万株でした。
以後、公募もありましたが、無償株式分割・株式無償割当ては何度もおこなわれて、現在の発行済株式は12160万株です。
その時にキーエンス株を100万円分買っておけば、今頃はどうなったでしょうか。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
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東京工業大学大学院理工学研究科情報工学専攻修士課程修了後、1995年にキーエンスに入社。
2000年にキーエンスの社内ベンチャーとしてスタートしたイプロス(株式会社 イプロスとして法人設立は2001年)の立ち上げに参画され、「徹底的に受け手の身になってサイトを作る」ことに向き合われた経験を生かして書かれた本です。
秋山さんは2003年に独立され、現在はシステム開発とサイトコンサルティング・商品企画コンサルティングに携わる株式会社 レクタスの代表取締役を務められています。
この本では、個人でも法人でも、また初心者から上級者までサイト作成・運営にとって重要なことが満載されています。
私も折に触れて読み返しています。
サイト作成に関する本は多く出版されていますが、ここまで普遍的で重要な事柄が凝縮されている本はめったにありません。
キーエンスに興味のない方でも、ご自分のブログやサイト、そしてSNSで見る人の心をガッチリ掴みたいと少しでも思われている方なら、ぜひお読みになってください。
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一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。
ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。
『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。
↓
また、もう一冊だけ、現在紙の書籍で入手することは困難ですが、機会があればぜひ読んでいただきたい本があります。
キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた、
『新規事業の競争戦略 高い利益を獲得するスピード経営: キーエンスに新卒入社、ライバル会社に転職後独立したコンサルタントのノウハウ公開』
という書籍です。
キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。
立石氏のホームページによると、2016年9月の時点で30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
これには、著者の立石氏も戸惑われたようですが、この本にそれだけの価値があると認められていることも、また事実でないかと私は思っております。
そのような状況が長く続きましたが、2020年8月にアマゾンKindleにて、この本が第2刷として出版されました。
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一部引用・参考文献:
サンデー毎日 1991年7月 株価日本一「キーエンス」社長の倒産歴
週刊ダイヤモンド1997年 編集長インタビュー 滝崎武光氏(キーエンス社長)大企業の悪い面に学ぶ 将来考えぬ役員が規律乱す
Will 1991年 株価日本一「キーエンス」の秘密
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人物伝
はる坊です。
この2021年2月10日で、任天堂ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストⅢ』の発売から33周年を迎えました。
ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。
それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。
お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。
[embed]https://www.youtube.com/watch?v=k4BEEzogc0U&t=743s[/embed]
『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。
また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、
「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、「えーっ、と思った」と語られています。
たしかに、真面目でビジネスマンというよりもクリエーター・職人気質の方だと思います。
すぎやまこういちさんとの対談でも、
“「プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。
僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。」”
と語られており、表舞台には立たずに裏方に徹することで、『ドラゴンクエスト』を支えてこられました。
千田幸信さんは、エニックス創業から、同社の取締役、常務、専務、副会長を務められ、スクウェア・エニックスとなってからも取締役を続投されました。
(こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任)
2008年10月からは持株会社のスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めてこられましたが、2021年6月をもって勇退をされました。
⇒こちらで本多圭司さんについてまとめました。エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司
替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサーを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。
千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。
1950年9月29日岩手県生まれ。血液型はO型。
1972年に東海大学工学部を中退。
奥様はソプラノ歌手の千田知都子さん。
何枚かCDをリリースされており、なかでも2002年にリリースされた『こころのうた』では、『ドラゴンクエスト』関連の曲も歌われています。
ドラゴンクエストⅡの『この道 わが旅』とドラゴンクエストⅦの『哀しみの日々』なのですが、ヴォカリーズ(いわゆるハミングですね。歌詞はなく、さだまさし『北の国から』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』を思い出していただけるとイメージがしやすいかと思います)で歌い上げられています。
また、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。
役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝確率統計論の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。
大学中退後は、1974年3月にCISに入社。
1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。
その後、1979年にエニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。
フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの創業に参画して取締役に就任。
このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして、福嶋氏が1974年8月に個人創業され、
翌1975年9月に設立された公団住宅情報誌発行会社である、株式会社営団社募集サービスセンターに1976年から勤められていた古参社員の高野豊氏の3名だけでした。
ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。
エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。
最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。
当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
・エニックスが無名会社だったから
社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)
それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。
千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。
最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。
ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。
依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。
鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。
⇒『ドラゴンクエスト』誕生にも関わった、鳥山明を見いだした名編集者・マシリトこと鳥嶋和彦は現在、白泉社代表取締役会長 兼 生涯ー編集者
そして四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。
中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。

エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。
最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。
審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。
中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。
そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。
このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。
また、エニックスはゲームの作者に対して、ゲームを買切りではなく印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。
中村さんは、上京したての大学生でありながらトヨタ・ソアラを手に入れ、飲食費や遊興代で月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。
代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。
中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。
堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。
しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー 千田幸信
ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。
音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。
キャラクターデザイン 鳥山明
音楽 すぎやまこういち
このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。
出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。
堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。
Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。
スケジュールを巡って千田さんは、社長の福嶋康博さんとかなりやりあっていたようですね。
ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。
中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。
そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン 鳥山明
音楽 すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー 千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。
マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』、
1992年の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、
1995年の『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、
そして1998年の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、プロデューサーを務め続けます。
それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。
この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。
1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、
ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当
とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。
もっとも、ゲームソフト事業においては、『ジャストブリード』のプロデューサーを務めた川口貴雄さんが取締役 ソフトウェア企画部長を務め、出版事業に関しては、同時に保坂嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが。
1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部長となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。
1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。
2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。
2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、
前述しましたように、2019年6月までスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務められました
1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。
1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、公募価格8,270円に対して上場時の初値は12,000円を付けました。
株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)
また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入(現在は、都心にある別のタワーマンションにお住まいです)。
エニックス上場による株式の売却益で、千田さんは1991年分の高額納税者(長者番付)では、納税額は7,107万円となっています。
(ちなみに、同年の納税額は、福嶋康博さんが3億2,950万円、堀井雄二さんが2,245万円です)
そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

馬主となった千田さんは所有馬に「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。
活躍した馬には
「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円
「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円
「バロンカラノテガミ」獲得賞金8936万円
「パブロカラノテガミ」獲得賞金5213万円
「ベルベットスマイル」獲得賞金4994万円
「ベガスカラノテガミ」獲得賞金4877万円
がいます。
中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。
ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの
「バランスオブゲーム」
「アブソリュート」
「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。
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2018年度にスクウェア・エニックス・ホールディングスが取締役である千田幸信さんに支払った役員報酬は2,900万円です。
すでに、事業会社のスクウェア・エニックスの取締役は退任されておられますので、スクウェア・エニックスの役員として受けとられる収入は年収2,900万円です。
2017年で常勤取締役のフィリップ ティモ ロジャースさんと本多圭司さんがホールディングスの役員を外れて、常勤の取締役は、社長の松田洋祐さんと千田さんの2名だけになりましたので、2017年度より報酬がアップしています。
ユニクロの持株会社であるファーストリテイリングは、長らく代表取締役会長兼社長の柳井正さん以外は、取締役を社外取締役で固めていましたが、持株会社の常勤取締役が2人体制というのには、若干の不安があります。
2018年6月に事業会社の専務取締役に橋本真司さん(1958年5月24日生まれ。駒沢大学経済学部卒業。バンダイ入社後は〝橋本名人〟として、ハドソンの高橋名人とともにファミコンブーム時に名を馳せ、その後、独立してソリッド(コブラチーム)を設立。ソリッドがスクウェアグループになると、スクウェア取締役、執行役員に就任。スクウェア・エニックスとなってからも執行役員・取締役を歴任が、千田さんの後継としてスクウェア・エニックス・ホールディングスの役員になられるかと思いましたが、
すでに退任をされています。
ちなみに、2017年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。
これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、
・代表取締役社長:松田洋祐さん
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円
・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円
・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円
この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。
また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。
そういえば、松田洋祐社長は町田市玉川学園の一戸建てにお住まいでしたが、社長就任後は港区のマンションに居を移されています。
賃貸か所有かは不明ですが、やはり本社に近い都心部に住まわれている方ほうが、代表取締役社長として、何かと便利です。
現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。
持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。
ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。
旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。
また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。
たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。
もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。
さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。
・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円
・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円
確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。
非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。
役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。
そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。
また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強。
ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。
もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。
千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。
この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。
果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
(※現在、当時の千田さんの顔写真が見られなくなっております。本当に申し訳ありません。)
どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・
ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。
エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。
エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。
タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。
そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。
千田さんも70歳。旧エニックス創業から走り続けて38年以上が経ちました。
現役から勇退された今、ユーザーのひとりとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。
以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。
千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。
本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?
⇒⇒(新しいページが開きます)
福嶋康博さんの後継者としてエニックス2代目社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司さんの足跡をまとめたページはこちらです。
⇒⇒エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんの足跡をまとめました
『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期をまとめたページはこちらです。
⇒『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!のページはこちらです(新しいタブが開きます)
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【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ
はる坊です。
前回に引き続き、キーエンス創業者 名誉会長の滝崎武光氏の足跡を追ってみたいと思います。
ちょうど、東京オリンピックが開かれた1964年、尼崎工業高等学校を卒業した滝崎氏が就職先に選んだのは外資系計装企業であるロックウェル・リパブリック社でした。
この当時、学校を出てすぐに新卒で外資系企業に勤めるという方は少なかったのですが、滝崎氏はこの会社を選んだ理由について、
“「最初から独立を念頭に置いていたので、この会社では技術を覚えるのが目的でした」”
と語っています。
滝崎氏は、オートメーション化された機械をコントロールするプロセス制御の仕組みを作るシステムエンジニアとして働きます。
そしてこの頃までに、“「フォードやIBM
の経営手法
を含めて、本をたくさん読みましたね」”とインタビューで語っています。
そして、6年後の1970年(昭和45年)に若干24歳にして独立。
まず、共同経営の会社を設立します。
この当時に手掛けた仕事に、毎日放送制作の人気番組だった『アップダウンクイズ』のゴンドラの電気制御装置の製作(YouTubeに動画がありましたので載せます)があります。
[embed]https://www.youtube.com/watch?v=AiWFgkOsh7k[/embed]
(小池清やロイ・ジェームスが懐かしいですね)
これ以外にも、独立してまもない時期に手掛けた事業には、日清食品の日清カップヌードルの工場ラインの電気系統設計がありますが、請負の受注仕事は順調に行かず、共同会社の会社を含めて2つの会社は短期間のうちに畳むことになります。
実際、上からの受注に頼るだけの請負仕事では、ずっと下請けに甘んじることになります。
おそらく、一旦、そこに嵌まり込むとなかなか抜け出せなくなることに、滝崎氏は気付いたのではないでしょうか。
電子制御機器の将来性に注目していた滝崎氏は、1972年(昭和47年)3月に兵庫県伊丹市内においてリード電機を創業します。
このリード電機が現在のキーエンスになるのですが、スタート時は法人ではなく、たったひとりの個人事業でした。
滝崎氏は高付加価値の生産財を作り、人々の生活の役に立つことを目標に、滝崎氏は磁気応用センサの研究・開発に没頭します。
現在でも、磁気応用センサを活用した製品はこのように数多く、私たちの生活に関わっています。
この頃に滝崎氏は忘れられない経験をしています。
それはオイルショックでのことです。
滝崎氏が衝撃を受けたのは、オイルショックを受けて全国に伝播したトイレットペーパーの買い占め騒動ではなく、土日のマイカー規制でした。
マイカー使用の自粛要請においては、ガソリンスタンドも休んでしまう始末。
他にも深夜テレビ放送やプロ野球のナイター短縮、街のネオンまで規制や自粛する騒ぎになりました。
しかし、大手鉄鋼メーカーの工場は稼働していたのです。
滝崎氏は、鉄を生産している鉄工所のほうが重要で、自由に自分のクルマにも乗れないとは何事かと思い、工業製品を作る資源が無間ではなく有限であることから、これからこの状態が長引けば統制経済になるのではないかと考え、首筋が寒くなる経験をしたと語っています。
しかし、1年が経つとこのような騒ぎも潮を引いたように収まっていきました。その様子を見て滝崎氏は、
“「資源は有限ではない、だが市場原理は有効なんだ」”
という結論に達し、研究開発を進めます。
この頃プライベートでは、3歳年下の奥様・美彌子さんとのあいだに、長男の武史さんが誕生しています。
ご家族は奥様と息子さんだけのようですが、奥様は、滝崎氏が独立して悪戦苦闘していた時期から滝崎氏を支えてきた糟糠の妻といえるでしょう。
長男の滝崎武史氏については、資産管理会社の株式会社ティ・ティを通じた1500億円の贈与が申告漏れであると国税局に否認され、300億円の追徴課税を受けて、名前が挙がりました。
現在、武史氏は、定款にホテル・旅館の経営も目的としている別の資産管理会社の役員を務めていますが、滝崎武光氏自らが先頭に立って、コネ採用・縁故採用を排除しているキーエンスの役員や社員ではありません。
ホテル経営については、2003年にキーエンスが大阪にあるホテルを買収すると報じられましたが、滝崎氏自らがインタビューの中で、キーエンスの事業として行うつもりは一切ない、あくまで個人としての事業のテーマとして関心があるという姿勢に留めています。
さて、1973年(昭和48年)4月、滝崎氏は、完成させた磁気応用センサ「金属板二枚送り検出器」をトヨタ自動車に売り込み成功します。
これは自動車工場で使用される高価なプレス金型の損傷を予防する為の安全装置でした。
早速、元町工場で採用されることになります。翌年には、このセンサがトヨタ自動車の全工場に導入されることになりました。
滝崎氏は拠点を兵庫県尼崎市に移して、リード電機を法人化します。
1974年(昭和49年)5月 リード電機 株式会社 代表取締役社長 滝崎 武光 の誕生です。
1974年5月27日に兵庫県尼崎市で設立されたキーエンスの前身、リード電機 株式会社ですが、滝崎氏自らが開発して売り込んだ『金属板二枚送り検出器』という磁気応用のセンサーがトヨタ自動車の全工場を始め、日産自動車の工場でも採用されたことで、会社設立2年(1976年3月期決算)で黒字となりました。
この年から、毎月の基本給や年2回の賞与とは別枠で、営業利益の一部を従業員に還元していくのですが、一般的な企業がするように剰余金が出たり、目標を達成したもしくは超えたから、決算ボーナスを出すような形ではありません。
営業利益の一部から半分を毎月の給与に加算して、残りの半分をボーナスに加算する方式を採りました。
これは現在まで引き継がれている従業員への利益還元方法です。
キーエンスは営業利益率が高く、またその額が年々大きなものになってきたことで、毎月加算されるインセンティブもボーナスに加算される分も多くなってきたわけです。
現在に至って、キーエンスの従業員が平均年収2000万円を超えるようになった仕組みを会社が黒字化して1年目から、すでに考案して、実行していたのは凄いと同時に素晴らしいことです。
滝崎氏はリード電機設立までに、事業を2度、短期間で畳んだ経験を持つ人物だということは、①でも書きましたが、この失敗から、
“「会社を続けるためには、会社にかかわりのある人にメリットがなけりゃダメなんですよ。取引先や社員を含めてね」”
という教訓を得ていますが、従業員がキーエンスで働く上でのメリットも、理詰めで考え抜かれたのだと思います。
とはいえ、キーエンスは創業当初から急成長をした訳ではありません。
他社との差別化を図るために特殊な用途や高い精度を必要とする磁器センサーのオリジナル製品を開発して、自動車業界や弱電業界に売り込み、三菱自動車、本田技研工業、富士重工、そしてオートバイメーカーに顧客を拡げていきますが、年間売上高1億円に達成したのは1979年(昭和54年)3月期決算でのこと。
5年間かかっています。
この時代のことを滝崎氏はのちのインタビューで、
“「私もね、創業時の苦労はしましたから、今だから言えるとか言って、自慢話の一つもしたいですよ。
そういうことのお好きな社長さんもいらっしゃいますよね。
でも、そういうのって泥臭いでしょ。
ワンマン企業みたいで。若い社員もそんなこと言われたらかなわんでしょう。
会社のイメージにもマイナス。だから言わないんです」”
滝崎武光氏は当時46歳。このインタビューの答え方から、滝崎氏のお人柄や理詰めの思考回路が垣間見える気がします。
翌1980年3月期決算では売上高は3億円と、一気に3倍増に増えます。
1980年代に入るまで、リード電機は東京都目黒区に営業所を持つものの、尼崎市に本社を置く資本金1800万円の零細企業にしか映りませんでした。
しかし、1980年代に突入すると、この会社は驚異的な成長を見せます。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
滝崎武光氏は、事業の柱をセンサ事業に集約させ、現在のキーエンスに繋がる体制づくりをはかっていきます。その③に続きます。
⇒資産約2兆円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス③
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元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。
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次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。
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【2018年11月に出版】キーエンスでの経験を生かしたサイト運営について普遍的で重要な事柄が凝縮された一冊。
キーエンスの社内ベンチャー・イプロスでウェブサイト作成・運営に携われた方の本です。
筆者の秋山典丈さんは、キーエンスの社内ベンチャー・イプロスで『製造業向けマッチングサイト』を企画された方です。
東京工業大学大学院理工学研究科情報工学専攻修士課程修了後、1995年にキーエンスに入社。
2000年にキーエンスの社内ベンチャーとしてスタートしたイプロス(株式会社 イプロスとして法人設立は2001年)の立ち上げに参画され、「徹底的に受け手の身になってサイトを作る」ことに向き合われた経験を生かして書かれた本です。
秋山さんは2003年に独立され、現在はシステム開発とサイトコンサルティング・商品企画コンサルティングに携わる株式会社 レクタスの代表取締役を務められています。
この本では、個人でも法人でも、また初心者から上級者までサイト作成・運営にとって重要なことが満載されています。
私も折に触れて読み返しています。
サイト作成に関する本は多く出版されていますが、ここまで普遍的で重要な事柄が凝縮されている本はめったにありません。
キーエンスに興味のない方でも、ご自分のブログやサイト、そしてSNSで見る人の心をガッチリ掴みたいと少しでも思われている方なら、ぜひお読みになってください。
↓
一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。
ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。
『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。
↓
また、もう一冊だけ、現在紙の書籍で入手することは困難ですが、機会があればぜひ読んでいただきたい本があります。
キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた、
『新規事業の競争戦略 高い利益を獲得するスピード経営: キーエンスに新卒入社、ライバル会社に転職後独立したコンサルタントのノウハウ公開』
という書籍です。
キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。
立石氏のホームページによると、2016年9月の時点で30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
これには、著者の立石氏も戸惑われたようですが、この本にそれだけの価値があると認められていることも、また事実でないかと私は思っております。
そのような状況が長く続きましたが、2020年8月にアマゾンKindleにて、この本が第2刷として出版されました。
Kindle Unlimited 会員の方は、このタイトルを追加料金なし(¥0円)でお読みになれます。
ご一読をおすすめいたします。
他にも元キーエンスの方が書かれた本があります。
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人物伝
はる坊です。 その昔、ジャレコというゲームソフトメーカーがありました。 『燃えろ!!プロ野球』というゲームソフトを出して大ヒットさせるのですが、これはスゴイゲームでした。今回は、そんなジャレコと創業者の金沢義秋さんに迫り…
【モンスター企業】キーエンスと創業者・滝崎武光氏のまとめ
※本ページはアフィリエイト広告を利用しています
はる坊です。
今回は、フォーブス誌の2021年日本人長者番付で、2020年に引き続き第3位にランクインしているキーエンス創業者で同社名誉会長・滝崎武光氏に迫っていきたいと思います。
米フォーブス誌によると、滝崎氏の資産は滝崎武光氏個人、そして、妻の滝崎美弥子氏が代表取締役を務める滝崎氏の資産管理会社・株式会社ティ・ティが保有するキーエンス株の合計で、3兆1,700億円に上ります。
2017年では1兆3880億円でしたから、6年間で約2.3倍も資産を増やしたことになります。
ちなみに、日本人長者番付のトップ3は、
ユニクロを率いるファーストリテイリングの柳井正 代表取締役会長兼社長
本記事でご紹介するキーエンスの滝崎武光 取締役名誉会長
ソフトバンクグループの孫正義 代表取締役会長兼社長。
の順です。
上位には滝崎氏とともに、サントリーホールディングスの佐治信忠会長やユニチャームの高原豪久会長など、日本人の日常生活に欠かせないモノを手掛ける企業のトップが名を連ねています。
2015年 第5位 資産額:1兆0472億円
2016年 第4位 資産額: 9379億円
2017年 第4位 資産額:1兆3880億円
2018年 第4位 資産額:1兆8430億円
2019年 第3位 資産額:2兆0670億円
2020年 第3位 資産額:2兆1190億円
2021年 第3位 資産額:2兆8420億円
2022年 第2位 資産額:2兆9,700億円
2023年 第2位 資産額:3兆1,700億円
すっかり、ファーストリテイリングの柳井正氏、ソフトバンクグループの孫正義
氏、サントリーホールディングスの佐治信忠
氏と並んで、日本人トップの資産を保有する人物として定着している感があります。
滝崎氏が、ここに挙げた3名の方と違うのは、滝崎武光氏は資産家・実業家の子息として生を受けたわけではなく、サラリーマン家庭に生まれ育ち、学歴も高卒であること。
約6年間のサラリーマン生活を経て共同経営の会社を設立するも、短期間で倒産させ、再度のチャレンジでも上手くいかず、20代後半までに結局2度の会社倒産を経験している人物であること。
3度目に正直となったキーエンスも、最初はリード電機という滝崎氏ただひとりの個人事業に過ぎない時点からスタートしているところでしょう。
まさに立志伝中の人物といえます。
この記事を読み進めていただくとお分かりいただけると思うのですが、滝崎氏ご本人は、この2兆円を超える資産のことは、必要以上に誇っているようには思えません。
もし、滝崎氏に現在の資産額について尋ねたら、
「資産といっても、私個人や家族、資産管理会社で保有している株式が大半です。
株価は必ずしも、会社の業績に比例して上下するものではなく不確かなもの。
ですから、あてにはなりません。
私は株や不動産売買で利益を出そうとする〝財テク〟はしてはいけないという考えです。
それよりも高付加価値の仕事をすること、会社の営業利益のほうが大切ですよ。
私は売上高には目を向けません。
いくら売上があっても低い利益率では、従業員を含めて企業に関わる人々がメリットを享受できませんから、意味がありません。
現在、キーエンスの営業利益率は売上高の54%強です。
この数字は社員ひとりひとりが、付加価値の高い良い仕事をしてくれていることの証だと思います。
私はそちらを誇りたいです」
きっと、そんな答えが返ってくるような気がします。
それでは、キーエンスと滝崎武光氏の足跡を追っていきましょう。
キーエンスは、創業者・滝崎武光氏が1972年3月に兵庫県伊丹市において、個人事業・リード電機として創業。
1974年5月に兵庫県尼崎市に移転するとともに法人化され、リード電機株式会社となります。
その後、FA(ファクトリーオートメーション)用センサーや計測器の開発・販売を手掛けて業績を伸ばし、1986年10月に商品ブランド名のキーエンス(KEYENCE)と商号の統一を図るために株式会社キーエンスに社名を変更。
ちなみにキーエンス(KEYENCE)とは、Key of Science-キー・オブ・サイエンス(科学の鍵)の略語です。
翌1987年10月には大阪証券取引所第2部に株式を上場。
株式上場準備に3年も4年もかかり、上場審査基準も厳しかった当時としては、かなりのスピードといえる会社設立から僅か13年で上場企業の仲間入りを果たします。
2年後の1989年12月には東京証券取引所2部にも重複上場。
1991年9月には、ついに東京証券取引所1部上場を果たします。
上場時から高収益企業・高株価企業として有名でしたが、
まれに見る高収益体質を維持したまま、現在まで成長を続け、
2023年3月期の連結決算では、
売上高:9,224億2,200万円 売上総利益:7,547億3,200万円 営業利益4,989億1,400万円を記録
粗利率は驚異の81.9% 営業利益率は何と54.1%です。
2024年3月期の連結決算数字がどうなるか、これから注視していきたいと思います。
キーエンスは、従業員の年収が高い企業としても有名ですが、〝人件費は経費にあらず〟というキーエンス独自の思考から、2023年6月に提出された有価証券報告書では従業員:2,788名(平均年齢35.8歳)の平均年収は2,279万3,975円となっています。
前述したように、ボーナスは(3月・6月・9月・12月)の年4回です。
2022年6月に提出された有価証券報告書では、従業員:2,599名(平均年齢36.1歳)の平均年収は2,182万7,204円となっていましたので、業績好調を受けて、従業員の平均年収もアップしています。
また、従業員の人数も単純計算で189名増加しています。
退職者もいるので、仔細は不明ですが、新卒・中途採用とも継続してかなりの人数を採っていることがわかります。
キーエンスは、国内・海外(北米・欧州・南アフリカ・中国・アジア・中東・オセアニア)に営業拠点を張り巡らせていますが、本社・研究所は、大阪府大阪市東中島(JR新大阪駅の近くです)に構えています。
この社屋が建てられたのは1994年とかなり年月が経ってしまっているのですが、高さ111メートル・21階建てのビルは非常にスタイリッシュで、数々の賞にも輝き、現在でも古くささを感じさせません。
創業者の滝崎氏は2000年12月に、当時43歳だった生え抜きの佐々木道夫氏(明治大学政治経済学部卒業)に社長職を譲り、55歳で代表取締役会長に就任。
自身が会長に退いた理由を、
“「創業当時から自分がいなくても、会社が回るようにずっと考えてきました。会長に退いたのも、私が半年1年いなくてもこの会社は回るなと思ったからです」”と語っています。
(引用元:2003年10月27日号 日経ビジネス 特集 利益率40% 驚異の経営 キーエンスの秘密 編集長インタビュー 滝崎武光氏[キーエンス会長] 会社に思い出は不要)より。
2012年12月からは、佐々木道夫氏は取締役特別顧問となり、当時45歳だった山本晃則氏(立命館大学理工学部卒業)が代表取締役社長が就任。
滝崎氏は引き続き会長職に就かれていましたが、2017年12月からは取締役名誉会長を務めておられます。
2019年12月には、山本晃則氏は取締役特別顧問となり、1974年生まれの中田有氏(関西学院大学法学部卒業)が代表取締役社長に就任しています。
そして、
モンスター企業のキーエンスですが、意外に経営トップの年収はそこまで高くありません。
従業員の最高平均年収は約2,279万円ですが、
創業者の滝崎氏から数えて、4代目代表取締役社長を務められている中田有氏の年間役員報酬は2023年3月期の有価証券報告書によると、1億8,800万円
前社長で、現在は取締役 特別顧問を務められている山本晃則氏の年間役員報酬も1億1,300万円です。
社外取締役をのぞく、他の常勤取締役に1億円プレーヤーはいません。
これには理由があり、創業者の滝崎武光氏が社長在任時代に、自身の報酬を低めに設定していた伝統が残っているからです。
滝崎氏自身“「サラリーマン社長と同等にしている」”とインタビューで発言しており、役員だからといって、億単位の役員報酬をもらっていなかったのです。
現在、SHIFTの取締役副社長を務められている、キーエンス2代目社長・佐々木道夫氏の後継者として、
3代目社長を務められた山本晃則社長も、
年間役員報酬は、2018年3月期の有価証券報告書で1億3800万円。2019年3月期が1億5600万円でした。
そして、2019年に社長職を中田有氏にバトンタッチされ、取締役特別顧問となられた2020年3月期の有価証券報告書では1億5000万円。
また、滝崎氏は2018年6月に、まだまだ日本では浸透していない大学進学者向けの給付型奨学金を提供する一般財団法人キーエンス財団を設立され、代表理事も務められています。
2019年4月大学新入学生を対象とするものですが、募集人数は125名程度で月額8万円を在学中の4年間支給する
(4年間の合計支給金額は384万円になります)
という返済の必要がない奨学金ではかなり規模の大きなものです。
現在の日本では経済的な理由で奨学金を利用して大学や専門学校に進学される方が多くなっていることは事実です。
ただ、その奨学金の大半は貸与型であり、卒業後に社会に出てから返済の必要があります。
若くして高収入が得られる職に就き、奨学金の返済を滞ることなく支払える方もおられるでしょうが、不安定な立場や低収入から返済をすることができず延滞金が上乗せされ、最悪の場合、自己破産に追い込まれ、人生に大きな狂いが生じている方も多く存在していることも事実です。
そんななかで、前途のある学生に返済不要の給付金を提供する財団を立ち上げられたのは素晴らしいことだと思います。
実は、滝崎氏が奨学金に目を向けたのは今回が初めてではありません。
1990年にアジアから学びに来る理工系の留学生の為に、私財3億円で奨学基金を設立していました。
さて、キーエンス財団の事務局も大阪府大阪市東中島キーエンス本社ビル内にあります。
これは公私の区別を厳しくしている滝崎氏らしいと思うのですが、普通、成功を収めた事業家などが奨学財団や文化・スポーツ振興財団を設立した際には、自分の苗字を財団名の頭に付けていたり、理事や評議員に親族が名を連ねているケースがほとんどです。
また、自らの人脈をアピールする目的もあるのか、財界や学界、専門分野のなかでも著名な人物や肩書きが立派な人物の名前が並んでいることもあるのですが、キーエンス財団の場合はそういったものがないように感じられます。
理事や評議員のなかに、滝崎氏の親族は誰ひとり名前がありません。
奨学金を給付する有能な学生を選考する為には、どのような人物を置けば一番効果的で合理的かという滝崎氏の哲学が、この財団にも表れているような気がしてなりません。
さて、日本人長者番付2位の大資産家である滝崎武光氏ですが、その人物像はほとんど知られていません。
第一に滝崎氏自身がメディアに露出しないからです。
よって、ウェブ上では〝前半生が謎〟であるとか、〝来歴や家族関係は一切不詳〟と書かれているページすら見受けられます。
また、〝韓国〟というキーワードが検索されていますが、韓国に縁のある人物であるとは確認できません。
さて、滝崎氏自身、社長職を退いて、会長となって以降はたった一度しかマスコミのインタビューに応じていません。
名誉会長に就任して、後進に会社を託すような形となった現在では、メディア露出の可能性は更に低くなったと思います。
東証1部上場企業の創業者ですが、財界活動にも全く興味を示さない人物ですので、世界に通じる日本有数の大富豪として一部の人だけに名前を知られた状態で、このままミステリアスなイメージを保っていくのではないでしょうか。
それでも、まだ1980年代、1990年代には、多少ではありますがマスコミの取材やインタビューに応じていました。そこで語られたエピソードを中心に、滝崎武光氏に迫ってみたいと思います。
滝崎武光氏は1945年(昭和20年)6月10日兵庫県芦屋市で出生しています。
現在は大阪府豊中市に在住です。
芦屋市といえば、関西で一番富裕層が集い邸宅を構えているようなセレブなイメージがありますが、滝崎氏の父親はお金持ちでも経営者でもなく一介のサラリーマンでした。
しかし、真面目で働くことを美徳とする人物だったようで、モノ作り一筋の滝崎氏の人生にも大きな影響を与えている気がします。
その父親がメーカー勤務だったのかはあきらかにされていませんが、幼い頃、父親とともに住友金属工業(現在の新日鐵住金)和歌山製鉄所へ行ったときの思い出が滝崎氏には強く残っているようです。
当時、この製鉄所の中には、そこで働く人々を運ぶバスが運行されていました。
滝崎氏はこのときを振り返って、
“「理屈っぽい性格なので、これほど巨大な工場が何のためにあるのかを考え、自分の生活にも寄与しているんだと気が付いた」”
と語っています。
また、父親は機械の見本市にも武光少年を連れていったりもしています。
武光少年は小学校の卒業アルバムに『今度会うときにはテープレコーダーを作っているだろう』と寄せ書きしていたそうで、中学校時代には、友達から10円を集めて薬局でマグネシウムなどを購入して、実験をしていました。
モノづくりや電気いじり、科学実験
好きの少年時代を過ごしたようです。
滝崎氏が中学校卒業後に進学したのは、兵庫県立尼崎工業高等学校電気通信科(在学中に電子科に名称変更)でした。
(尼崎工業高校の後輩にはダウンタウンの松本人志氏(機械科卒業)がおられますが、島田紳助
氏と共演していたトーク番組『松本紳助』内で「賢いクラスがありましたねえ。電子科は賢かった」と発言していましたので、いくつかに分かれている科のなかでも、滝崎氏はレベルの高いクラスに在籍していたと思われます)
高校在学中、滝崎氏は自治会や生徒会の役員になります。
このとき、滝崎氏は先頭に立って市内5校で連合会を作っています。
ご本人は
“「(自身が通っていたのが女子生徒のいない工業高校だったので)女学生のいる学校に遊びに行きたかっただけかもしれません」”
と多少冗談めかしてはいますが、高校生にしてリーダーシップを取ることのできる人物だったことがわかります。
また、この経験からでしょうか
“「人を組織することに興味を覚えた」”
とのちに語っています。
時代はちょうど大学紛争の頃、自治会の役員をしていた滝崎氏は京都大学などで学生運動をしている人々と出会うことになります。
滝崎氏が、学生運動をしている年上の人々と知り合ったなかで、気が付いたのは、
思想というものは文学や芸術と同じで好き嫌いの世界
で、そういった客観的に測れないものは自分自身の性格上、相容れないものだということ。
そして、
経済というのは数字の世界だから客観性があり、企業の善し悪しも数字で対比すれば分かるもの
だということでした。
そして、滝崎氏は志を立てます。
自分は主観だけで判断するものには向いていない。
それなら、一流の事業家になろう。
それも、デザインや個人の趣味、趣向に左右される消費財ではなく、ユーザーの生産性を上げることに狙いを絞り込み、機能や性能に対して価格が安いか高いかで評価される生産財がいい。
1964年(昭和39年)3月滝崎氏は、兵庫県立尼崎工業高校電子科を卒業すると、実社会に足を踏み入れます。
実社会に足を踏み入れた滝崎氏は、エンジニアとなり24歳で独立を果たしますが・・・
最後まで読んでくださってありがとうございました。
よろしければ、その②もお読みいただけるとありがたいです。
その②に続きます⇒社員の平均年収2,279万円!資産約3兆1700億円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス②(新しいタブが開きます)
⇒3分でキャリア診断!若手ハイエンド向け転職サイト『ASSIGN』
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何かございましたら、こちらまでお願いいたします。
はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)
メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)
元キーエンス従業員の方が書かれた本で、最もオススメしたいのがこちらです。
次にオススメしたい、充分に一読の価値があるのがこちらです。
【2018年11月に出版】キーエンスでの経験を生かしたサイト運営について普遍的で重要な事柄が凝縮された一冊
キーエンスの社内ベンチャー・イプロスでウェブサイト作成・運営に携われた方の本です。
「心に触れるホームページをつくる」
筆者の秋山典丈さんは、キーエンスの社内ベンチャー・イプロスで『製造業向けマッチングサイト』を企画された方です。
東京工業大学大学院理工学研究科情報工学専攻修士課程修了後、1995年にキーエンスに入社。
2000年にキーエンスの社内ベンチャーとしてスタートしたイプロス(株式会社 イプロスとして法人設立は2001年)の立ち上げに参画され、「徹底的に受け手の身になってサイトを作る」ことに向き合われた経験を生かして書かれた本です。
秋山さんは2003年に独立され、現在はシステム開発とサイトコンサルティング・商品企画コンサルティングに携わる株式会社 レクタスの代表取締役を務められています。
この本では、個人でも法人でも、また初心者から上級者までサイト作成・運営にとって重要なことが満載されています。
私も折に触れて読み返しています。
サイト作成に関する本は多く出版されていますが、ここまで普遍的で重要な事柄が凝縮されている本はめったにありません。
キーエンスに興味のない方でも、ご自分のブログやサイト、そしてSNSで見る人の心をガッチリ掴みたいと少しでも思われている方なら、ぜひお読みになってください。
一橋大学イノベーション研究センターとキーエンスに長年在籍した方による共著です。
キーエンスの内部を知るには最もわかりやすいと思います。
ただ、『キーエンス~驚異的な業績を生み続ける経営哲学』というタイトルですが、『経営哲学』はどこにも書かれていません。
『経営哲学』を『経営目標』『経営手法』と読み替えるのが正しいと思います。
Kindle版しかありませんが、こちらもオススメできます。
また、もう一冊だけ、現在紙の書籍で入手することは困難ですが、機会があればぜひ読んでいただきたい本があります。
キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた書籍です。
キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。
立石氏のホームページによると、2016年9月の時点では30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
これには、著者の立石氏も戸惑われたようですが、この本にそれだけの価値があると認められていることも、また事実でないかと私は思っております。
そのような状況が長く続きましたが、2020年8月にアマゾンKindleにて第2刷として出版されました。
Kindle Unlimited 会員の方は、このタイトルを追加料金なし(¥0円)でお読みになれます。
ご一読をおすすめいたします。
他にも元キーエンスの方が書かれた本があります。
参考にはなりますが、あえてこの場でおすすめするのは、控えさせていただきます。
人物伝
※本ページはアフィリエイト広告を利用しています はる坊です。 前回に引き続き、スクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの人生を追っていきます。 現在は渋谷区初台に〝ドラクエ御殿〟とも呼ばれる大豪邸を…
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