衝撃のバントホームラン!金沢義秋社長が率いた『燃えプロ』のジャレコ

はる坊です。
その昔、ジャレコというゲームソフトメーカーがありました。

『燃えろ!!プロ野球』というゲームソフトを出して大ヒットさせるのですが、これはスゴイゲームでした。今回は、そんなジャレコと創業者の金沢義秋さんに迫ります。

伝説のバントホームランで度肝を抜いた『燃えプロ』

ファミ通のレビューでは40点満点中、レビュアー5人が8点をつけて殿堂入りしていた。

まずはこの動画をご覧下さい。


こんなことってあるのでしょうか?
バントでホームランです。

ええ、あったのです。このゲームのなかだけですけど。
1987年6月26日にジャレコから発売されたこのゲームは、『燃えろ!!プロ野球』(通称:燃えプロ)。
1990年の時点で130万本。最終的には158万本も売れました。
開発したのはトーセです。

ファミ通のレビューでは、レビュアー5人全員が8点を付けて、見事、殿堂入りをしています。

これまでの野球ゲームのように、野球盤のように上から全体をみたり、ナムコの『ファミスタ』のように、アンパイアの後ろから見るようなアングルではなく、テレビで野球中継を見ているかのようなアングルでプレーする野球ゲームは、それまでありませんでした。

そして、セリーグ・パリーグの選手名が実名であり、その背番号も実際、この年に使用されていたものが使用されて、今までにないリアルさが表現されていました。
また、音声合成チップで審判のストライクやボールやボールのコールや打球音、また観客の歓声を表現していたのが斬新でした。

もっとも、バグが多かったことが、このゲームの評価を著しく下げて、〝クソゲー〟呼ばわりもされる結果に結びついたと思いますが、野球ゲームとしての斬新性だけはゲーム史に残ると思います。

ジャレコってこんな会社でした

会社設立2ヶ月後にいきなり不渡りを出す。どん底からの出発
ジャレコは、1971年に金沢義秋さんによって、個人事業・ジャパン・レジャーとして創業します。

当初、金沢さんの本業はレストランの経営でした。経営不振だった渋谷パルコ前にあったステーキレストランの経営権を得て、洋食グリルレストランに衣替えして、3店舗のチェーン展開をしていました。

そんな金沢さんが、なぜアミューズメント関係の事業を始めたのかといえば、金沢さんの大学時代の同級生が失業をしてしまい、その同級生から、ジュークボックスやピンボール、クレーンでタバコの景品を掴むゲーム機械のレンタル業を一緒にやらないかと誘われたからです。

興味を持った金沢さんは最初、共同経営者ではなく1000万円ほどの資金を提供したスポンサーの立場でした。ゲーム機レンタル業の経営はその友人に任せたのです。

しかし、実際にレンタル業がスタートすると、赤字がどんどん膨らみます。

驚いた金沢さんが財務経理内容を調べたところ、友人の経営は口先ばかりであったことがわかりました。
倉庫にあったのは仕入れたゲーム機械の山。しかも、倉庫に泥棒が入り、ゲーム機械がすべて盗まれるという大被害に遭います。

金沢さんは(何とかして出資した分だけでも、お金を取り戻したい)と考え、レストラン経営の傍らでアミューズメント業界に足を踏み入れます。

1974年10月に個人事業のジャパン・レジャーは、アミューズメント関係事業とレストラン事業を目的とした株式会社ジャパン・レジャーとして資本金300万円 従業員20名で法人化されます。

そして、その年の12月にいきなり3000万円の不渡りを出します。
友人のずさんな経営に始まる、一連のダメージは大きいものでした。

しかし、ここで金沢さんは逃げませんでした。

まず、妻子を故郷の中津へ逃れさてから、債権者たちを前に、「レストランの売り上げから少しずつ返済をさせて欲しい」と懇願して、二度目の不渡り発生=会社倒産を防いだのです。
アミューズメント関係事業はズタズタでしたが、ゲーム機はレンタル業から販売業に切り替えます。
一方、レストラン3店の経営は順調で、毎月700~800万円の売り上げがあり、金沢さんは3年掛けて負債を払い終えます。

負債を払い終えて一息ついた金沢さんには、ひとつの確信が生まれていました。

「この業界、レンタル業や販売業では利益が小さい。製造業(メーカー)でなければダメだ」

会社設立4年目には、ゲーム機販売業でも利益が出始めていました。

早くにテレビゲームに目をつけ急成長企業となる

金沢さんがテレビゲームに目を付けたのは早く、『PONG』や『ブロック崩し』を見て、“「瞬間的にこれからはテレビゲームの時代になると思った」”とのちに語っています。

早速、アメリカ製のテレビゲーム機を28万円で購入すると、そのメカニズムを徹底的に研究します。そして、あるアーケードゲーム製造業者に依頼して、そっくり同じものを造ってもらったところ10万円ほどで造れることが分かりました。

これは商売になると踏んだ金沢さんは、『ブロック崩し』に似たゲームを、業者に依頼して生産します。

1977年、金沢さんに運が巡ってきました。このゲームが売れてジャレコの売上高は10億円に伸張します。

翌1978年にはタイトーが発売した『スペースインベーダー』がブームとなり、似たようなゲームを造るとこれが飛ぶように売れて、売上高は20億円に。

しかし、ここで大きな谷底が待ち構えていました。〝インベーダーブーム〟は1979年夏には収束に向かい、倉庫には1200台の在庫の山が残ってしまったのです。ここで金沢さんは悩んだ末、あるアイデアを思いついて、このピンチを切り抜けます。

金沢さんはアミューズメント業界に足を踏み入れてから、会社の経営が苦しいときでも、海外各地で開かれるアミューズメントマシーンの見本市には必ず足を運び、丹念に海外メーカーのパンフレットやチラシを持ち帰っていました。

(日本ではダメでも、海外なら売れるんじゃないだろうか)
と考えた金沢さんは、このパンフレットやチラシを見ながら、海外の業者に片っ端からテレックス(時代を感じます)を入れて反応を待ちます。

するとオーストラリアの業者から連絡が入りました。

ここからが商売の妙味だと思うのですが、この業者が「何台あるのか?」と訊いてくると、金沢さんは「500台ある」と少なめに答えます。

結局、このオーストラリアの業者が来日して500台を買い上げる契約を結ぶと、この業者は金沢さんに「もっとないのか」と訊ねますが、金沢さんはあえて「ない」と答えます。

そして、後日、この業者に再びテレックスを入れます。「何とか部品をかき集めたら700台分になったが、どうする?」

オーストラリアの業者は再来日して、全てを買い上げて帰りました。
倉庫に残った1200台の在庫は、何と12億円に化けました。



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インベーダーブーム収束後は、自社で企画した『ノーティーボーイ』(開発:カワ電子技研株式会社)を皮切りに、大ヒット作となった『エクセリオン』(開発:カワ電子技研株式会社)、『フォーメーションZ』などアーケードゲームを世に送り出します。

そして、1983年には社名をブランド名であったジャレコに変更。
1964年の東京オリンピック・シンボルマークやNTT、TDKのロゴマークで有名なグラフィックデザイナーの亀倉雄策さんに数千万円のギャラを支払って、ジャレコのロゴを作成してもらうなど、一気に企業らしい形になっていきます。

そして、1984年MSX参入をきっかけに業務用から家庭用ゲーム市場へ進出します。

さらに1985年に任天堂ファミリーコンピューターのサードパーティになったことがジャレコが急成長するきっかけになります。

1985年3月期には約25億円だった売上高は、任天堂が発売したファミコンのサードパーティの一社となったことから、1986年3月期には80億円に伸びます。
アーケード版を家庭用に移植することで、早くからファミコン用ゲームソフトを立て続けに出すことが出来たのが、急成長を支えたわけですが、なかでも『忍者じゃじゃ丸くん』が約100万本の大ヒットになったことが大きかったと思われます。
また、『燃えろプロ野球』もシリーズ化されて、累計で300万本以上が売れるヒットゲームになっています。

1988年3月には東京都世田谷区用賀に5階建ての新本社を建築して、その半年後の1988年9月には株式の店頭公開(ジャスダック上場)を果たしました。
ただ、ジャレコの全盛期は1980年代中盤から1990年代初頭までだと思います。

会社として最高の経常利益15億8300万円をはじき出したのは1987年3月期決算でのこと。
1992年頃までは、年間売上高130億円~140億円 経常利益8億円~15億円と業績も好調でしたが、徐々に売り上げも100億円、80億円と下がっていき1995年3月期決算で初の赤字に転落すると、以後は、若干の黒字か赤字を出す状態が定着するようになります。

新たに始めたJAQNOブランドでのアクアリウム事業は好調でしたが、主力のゲーム事業は、アーケード・家庭用ともに翳りが見えていました。

2000年香港資本の傘下企業に。しかし、ゲーム事業は迷走を続ける

2000年に、華人では世界で一番の大富豪と呼ばれる李嘉誠の次男、李沢楷が率いる香港のパシフィック・センチュリー・サイバーワークス(PCCW・電訊盈科有限公司)の買収に応じて、金沢さんは自身と妻、そして資産管理会社の株式を売却して、社長を退任します。

金沢さん55歳のときでした。

社名をパシフィック・センチュリー・サイバーワークス・ジャパン(PCCW Japan)に変更しますが、2004年1月25日に再びジャレコに社名を戻します。2005年にSandringham Fund SPC Limitedに主要株主が変わってから、ジャレコは迷走状態に入ります。

2006年7月にジャレコは会社分割を行い、これまでのジャレコは持株会社ジャレコ・ホールディングとなり、ゲーム事業は、会社分割によって生まれた子会社のジャレコ(2代目)がおこなうことになります。

その後、ジャレコ株は1円でゲームヤロウに売却されますが、2013年春頃には事業停止状態に陥り、夏には、吉川延宏さん率いるシティコネクションにジャレコブランドのゲームの版権が譲渡されます。

2014年親会社であったゲームヤロウの倒産とともにジャレコも消滅する運命を辿りました。

ジャレコ創業者・金沢義秋さんについて

現在は、不動産会社経営者+金魚(らんちゅう)の愛好家
ジャレコの創業者は金沢義秋さんという方ですが、この方の経歴はなかなか興味深いので、書かせていただくことにします。

1974年の会社設立から、2000年まで社長を務められました。現在は、渋谷区にビルを所有するケーケークリエイトという不動産会社を経営する傍ら、金魚(らんちゅう)の愛好家としても知られています。

金沢さんは1945年(昭和20年)11月12日、奈良県大和高田市に5人姉弟の長男として生まれました。
実家はメリヤス製造業を営んでいましたが、まもなく事業不振となり親族を頼って一家総出で大分県中津市に転居します。

しかし中津での生活は苦しく、ひもじい思い出が金沢さんには残っているようです。
中学生の頃、昼食時間になると年子の姉2人とともに金沢さんは校門を出て父親を待ちました。
日銭を稼いだ父親が懸命に自転車を走らせて3人の弁当を届けにきてくれていたのです。

事業家として成功したあとに受けたインタビューでも、“「今もその時の親父の姿を忘れませんね」”と真剣な表情で語ったほど、この時代の体験は金沢さん本人に影響を与えています。

ただ、マイナスだけの経験ではなく、自立心やハングリー精神が育つきっかけにもなりました。

その一方、金沢さんは小学5年生から柔道を始めます。
中津市内の中学校、そして、大分県立中津北高等学校に進学してからも続け、九州大会や西日本大会に出場して上位に食い込むほどの上達ぶりを見せ、複数の大学から柔道部入部を条件に推薦入学の話が来るほどになりました。

ウェブ上で、金沢さんに触れられているページに出くわすと、武闘派のエピソードが語られているのですが、バリバリの体育会系だったことにも起因しているのかもしれません。
実際、ジャレコ社長時代は、やり手の営業マンを思わせる浅黒く精悍な顔立ちで身長178㎝・体重80数㎏の体格でした。

しかし、これ以上柔道を続ける気持ちのなかった金沢さんは、地元から自立をしたい気持ちもあり、一般入試で専修大学経営学部(資料によっては商学部と記載)に進学します。
アルバイトに明け暮れる4年間を過ごして1968年(昭和43年)3月に無事卒業後、大阪府大阪市東成区に本社を持つレジャー会社に就職します。

この会社はボウリング場やパチンコ店、プール、中華レストラン、それに冬はアイススケートリンクを運営しており、社員数は700~800人を抱えていました。

大学卒業後、レジャー会社でメカニズムを習得する

金沢さんと同じ大卒の新入社員は6名でしたが、与えられた仕事は朝から晩までパチンコ屋のゴミ掃除をおこなうことでした。ここで金沢さんには、ピンとくるものがあったようです。“(これは自分たちを試しているな)”と。
負けず嫌いの金沢さんは懸命に働き、3ヶ月後に本社に戻されたときには、すでに2名が辞めていました。

次に与えられた仕事は、夏休みを迎えたプールの清掃作業です。
これにも耐え抜いた金沢さんは、社長から愛知県の小牧市に派遣されます。
小牧市にはボウリング場の機械設備を製造する会社があり、そこで機械設備を学ぶことになったのです。機械知識のまったくない金沢さんですが、ここで必死に勉強してメカニズムを学んだことが、のちに生きてきます。

メカニズムを理解して、大阪の会社に戻った金沢さんはメカニックを担当するように指示されます。
しかし営業職希望であることを伝え、それが認められるとボウリング場やプールなどへ団体客の誘致を手掛け、約2000人規模のボウリング友の会の機関誌づくりもたったひとりで行うなど、徹夜仕事も厭わずに働きます。

この努力が認められて、入社1年半で40人の部下を持つボウリング場の支配人になります。

(余談ですが、タモリさんも素人時代、大分県日田市のボウリング場でメカニック主任⇒支配人を経験されています。『タモリ倶楽部』で、日田市を訪ねた安齋肇さんが地元の日田市民から、タモリさんが日田にいた時代を触れないのは寂しいと残念がっていて、“「タモリさんは(この経歴を)日田隠し(ひたかくし)にしている」”と指摘され、“「3年間しかいませんでしたから・・・・・・」”と慌てて弁明したエピソードが面白いです)

しかし、ボウリング場の支配人となった半年後、金沢さんはこの会社を退職して上京を決意します。自立心が芽生えてきたのでした。

再上京~ジャレコ(ジャパン・レジャー)設立まで

金沢さんは再上京後、はじめたのはTシャツに絵柄をアイロンプリントする実演販売でした。
浅草をぶらついていたときに、実演販売が目に入り、大学時代にアルバイトで家庭用調理器の実演販売をしたのを思い出し、興味を持ったのです。

早速、必要な道具一式を買い揃えると、大学時代の先輩に頼み込み、先輩が勤めていた茨城県水戸市の伊勢甚百貨店のフロアで実演販売をはじめます。意外にも、この商売は儲かり毎月50~60万円を売り上げます。

そして、1年後には、アイロンプリントの実演販売で得た100万円と父親から300万円を借金して、渋谷パルコ前にあったステーキレストランの経営権を譲り受けて、外食産業に足を踏み入れることになります。1971年、のちのジャレコは、個人事業ジャパン・レジャーはレストランから始まりました。




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