【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる②

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はる坊です。

前回に引き続き、スクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの人生を追っていきます。

現在は渋谷区初台に〝ドラクエ御殿〟とも呼ばれる大豪邸を構える福嶋康博さんですが、最初からお金持ちだった訳ではありません。
自宅は、事業の成功とともにどんどん変わっていきました。

最初は、夫人とアパート住まい⇒営団社募集サービスセンターの経営⇒川崎市多摩区の分譲住宅で息子さん・娘さんと4人暮らし

⇒エニックスJASDAQ上場で得た利益で、杉並区浜田山に豪邸を建設⇒スクウェア・エニックスの経営の第一線から退いたタイミングで、

渋谷区初台に豪邸を築いて住まわれています。

そこまでの道のりを追っていきます。

挫折からアメリカ~インド~東南アジアへ海外放浪に旅立つ

挫折を感じた福嶋さんは彼女とも別れ、一旦北海道に戻り、札幌で北海道観光センターという広告代理店を経営していた父親の元に身を寄せます。
しかし、仕事をする気にはなれませんでした。

1972年9月、福嶋さんは、手持ちの10万円と父親に頼み込んで出してもらった90万円を合わせた100万円を軍資金にして、海外放浪の旅に出ます。

まず最初に向かったのは、アメリカ・ロサンゼルス。
ところが英語がまったくわかりませんでした。

なぜか、福嶋さんにはアメリカに行くのに事前に英語を勉強しておこうという考えがありませんでした。
それでも、リトルトーキョー近くの日本人牧師が経営する下宿へ辿り着いて、ブロードウェイを中心に店を見て回りました。

初めての海外、初めてのアメリカ、最初は見るもの全てが刺激的でした。
しかし、語学力がないためにどういう発想でどういう売り方をしているのかが分からず、本質に迫るには語学力をつけなければと痛感します。
ロサンゼルスの下宿屋には日本人ばかりが下宿していました。日本語しか話せなくても何とでもなります。

居心地は良くても何の勉強にもならないと考えた福嶋さんは、早々にロサンゼルスを離れてリッチモンドへ移ります。

リッチモンドのホテルに着いた福嶋さんは、ローカル紙にハウスキーパーをすると三行広告を打ちました。
条件は食事とベッド付きで、1日3時間働く事、そして給料はゼロで構わない。
三行広告に応じてきたのは中流家庭の夫婦でした。

とはいえ、1970年代初めのアメリカと日本では、中流といえども生活レベルが違いすぎました。
1ヶ月半をリッチモンドで過ごしたあと、福嶋さんはニューヨークに移ります。

ここで同じくハウスキーパーの三行広告を打つときに、8時間働く代わりに週給80ドルを条件としました。
この三行広告に応じてきたのは夫婦と子どもふたりのアメリカ人家庭でした。夫は事業を手掛けており、いわゆる中小企業の社長の自宅で働く事になったのです。

この家には大型冷蔵庫や吸い取り口にホースを繋げば、地下に直行する掃除機があり、福嶋さんはその豊かさに驚かされます。そして1日8時間しっかりと仕事をすると、福嶋さんはマンハッタンを中心にニューヨークを歩き回ります。しかし、事業の芽は見つけることができませんでした。

ニューヨークで1ヶ月と少しをハウスキーパーとして過ごすと、福嶋さんはインドに旅立ちます。事業の芽を見つけることも語学力が向上することもありませんでしたが、アメリカを体感できたのが何よりの収穫でした。

インドで出会ったアメリカ人美女と旅を続ける

当時の福嶋さんは、長髪に髭というヒッピースタイルでした。
インドには長期滞在ヒッピー向けの安いホテルがありました。
福嶋さんがある安ホテルに宿泊することにしますが、そのホテルに着いてぼんやりと階段を見ると、眼の覚めるようなものすごい美人がそこにいました。

普段ならそんなことはしないという福嶋さんですが、辞書を片手にこのすごい美人に話しかけます。

彼女はアメリカ人で、インドには観光に来ており、ビートルズが行ったことで有名になったニューデリー郊外のリッシュケッシュのヨガ道場に行く予定だと答えてくれました。

インドへ来たものの別に予定を立てていなかった福嶋さんは、多少強引に彼女についていくことになりました。そのヨガ道場に行くのにも、インドではバスに揺られて7,8時間。
自然とアメリカ人美女と親しくなった福嶋さんは、彼女と一緒に旅行をするという僥倖に恵まれます。

福嶋さんはインド滞在中に不思議な体験をしています。
一緒に旅をしていたアメリカ人美女が「よく当たるという占い師がいるからみてもらいましょう」と言い出したのです。
福嶋さんは、占いの類いを信じるほうではありませんでしたが、彼女の興味に付き合う感じで、その占い師の元を訪ねます。
占い師は福嶋さんをみて、こういったそうです。

“「おまえはMという名前の女性と結婚する。そして大金持ちになる」”

福嶋さんの夫人となった女性のイニシャルはMです。
そして、福嶋さんはフォーブスにランクインするほどの大富豪になりました。
このときの占いは的中しています。

インドからタイ、マレーシアを約2カ月間かけて行動すると、福嶋さんに変化が訪れます。英語が自然に口から出てくるようになっていたのです。

その後、インドネシア、シンガポール、タイを経由して香港。そして、台湾から羽田空港に到着。

福嶋さんの海外放浪の旅は終わりました。

約1年の海外放浪の末、日本に帰国した福嶋さんは、
「アメリカは日本の未来。アジアは日本の過去の姿だ」、

そして、「どこの国の人も望んでいるものは共通している。ひとりひとりが、それぞれ自分の欲望を満足させようとしているんだ」

という結論にたどり着きます。

営団社募集サービスセンター設立⇒持ち帰り寿司事業⇒東芝オフコン代理店・エムシービー

帰国した福嶋さんは、大学4年生の頃に付き合っていた彼女と偶然再会します。

公衆電話で出会い、一度別れてしまった、さきほどお話ししたMさんです。
そして、再度付き合い始めたふたりは1974年に結婚をします。

福嶋さんは、当時まったくの無職でしたが、彼女の両親から特に反対はなかったようです。
しかし、福嶋さんが後々まで後悔する発言をこのときにしてしまいました。

「3年で3億円の貯金を作ります」

結局のところ、3年後には、起業した会社の年間売上高は3億円になっていましたが、個人的な貯金は、ほとんど作ることができませんでした。
のちのちまで、なぜ、こんなことを言ったのかわからない。若気の至りとはいえ、大きな事を言い過ぎたと、思っていたようです

結婚するふたりは、家賃の安い公団住宅に住もうと考えます。

ところが、公団住宅は人気があるのにもかかわらず、空き部屋を知る手段は新聞で丹念に調べるしか方法がありませんでした。
これは不便だと考えた福嶋さんは、ここに目を付けます。

1974年8月・個人事業として営団社募集サービスセンターを創業して、1部150円の公団住宅の空き部屋情報誌、月刊『住宅の新情報』の発行を始めたのです。
事業に必要な100万円は結婚した奥様の貯金から出しました。
事務所は自宅アパートでした。

福嶋さんは公団住宅の空き部屋情報をもらおうと、公団に日参します。

相手の態度も、最初はけんもほろろでしたが福嶋さんの熱意や、自腹でバスをチャーターして不人気の公団住宅を案内して成約に結びつけるなど、確実に営団の信頼を勝ち得ていきます。

1年後の1975年9月には法人化して、株式会社 営団社募集サービスセンターを設立、本社を新宿区西新宿の雑居ビルに構えます。

1977年、営団社募集サービスセンターは、年商3億円 利益7000万円 社員20名の立派な会社に成長しました。

しかし、福嶋さんは満足できませんでした。

終業時間を過ぎると、社員から有志を募って〝未来会議〟という名の新規事業を模索する会議を開きます。
集まったのは20名いる社員のうち6名でした。

福嶋さんを含めて7名は、ブレーンストーミング方式でアイデアを出し合い、新しいビジネスを検討します。
ビールなどの酒は御法度で、夜の12時まで続くこともありました。

福嶋さんは「ビルの窓ひとつひとつに社長がいるんだ」とメンバーを叱咤激励します。
そのなかで、出てきたのが外食産業です。

外食産業といえばアメリカだと考えた福嶋さんは、未来会議のメンバーと総勢7名で、アメリカの外食産業視察に向かいます。
アメリカに着くと、マクドナルドを始めとして、外食チェーンを見つけると、みんなで入っては食べ、入っては食べ回りました。
帰国後、当時急成長していた小僧寿しチェーンの向こうを張って、安価な持ち帰り寿司チェーンをしたらどうだろうという案がクローズアップされてきました。

福嶋さんは、より具体的に事業を検討するために、社員に当時伸びていた小僧寿司とマクドナルドに勤めるよう命じます。
マクドナルドに派遣した社員は1ヶ月で、マニュアルや原価率等を調べ上げて戻ってきました。
一方、小僧寿しに潜り込ませた社員は、真面目でよく働く人間だったこともあって、店長に気に入られてしまい、3ヶ月間辞めさせてもらえませんでした。
しかし、そのおかげで、小僧寿しの事業について深く調べることができ、事業について検討することができました。
「小僧寿し以上の持ち帰り寿司チェーンを作るにはどうすればいいだろう?」

福嶋さんが考え抜いた先に採用したのは、当時としては画期的すぎるアイデアでした。

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スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる③ エニックスが大成功を遂げ、大富豪となった福嶋さんが20歳の誕生日を迎えた息子に贈った一冊の本とは?

参考文献:

福嶋康博『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』

大下英治『エニックスの飛翔―実録・ゲーム業界戦国史』


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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