昭和後期の大人気作家・西村寿行伝説

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6

※2022年1月22日加筆修正をおこないました。

1990年代の西村寿行 病魔との闘い

はる坊です。

1990年代以降の西村寿行と、その晩年について綴っていきます。

世間はバブル景気崩壊により長い不況のトンネルに入っていた1993年。

62歳となっていた西村寿行は執筆意欲も薄くなり、代々木の仕事場で過ごす時間は多かったものの、この年には、幻獣の森』『魔性の岩鷹』の2冊のみが発行されています。

そして、5月31日。

西村寿行は重大な宣告を受けることになります。
ガンを患っていることを報されたのです。

西村が体調の異変に気付いたのは、その1、2ヶ月前のことです。

喉にチクッチクッと痛みを感じるようになったのです。最初は、魚の小骨が喉に刺さったと思ったようです。
痛みは酒を飲んでいるうちに消え去りますが、断続的に、チクリと喉の痛みが西村を襲います。

体調の異変を感じ始めた西村は、いつからか、かかりつけとなった、西新宿の会員制クリニックに赴いて、内視鏡検査を受けます。
医師は「喉に炎症ができている」と話し、組織片を採取されます。

そして、1週間後、仕事場にほど近い大学附属病院で、飲み友達になっていた医師から電話が掛かってきました。
西村は、酒の誘いだと軽く考えて、病院に向かいました。

しかし、病院で待っていたのは、残酷な宣告でした。

医師は西村の身体が癌に蝕まれていることを告げられます。
西村は、自分が酒飲みであることもあり、食道癌だと思ったようですが、医師の診断は下咽頭癌(扁平上皮癌)でした。

「ほっておいたら、どうなります?」と訊ねた西村に医師は、
「ほっておいたら、半年保たない」

と医師に告げます。

西村は混乱しながらも入院を決意します。
最初の幾日かは、宣告を受けた東京の大学付属病院で過ごしますが、治療のため、神奈川県内にある同じ大学の付属病院本院に入院した彼は、当初、誰もそして何も寄せつけませんでした。

病院は自宅からも比較的近い場所にありましたが、西村はただ独りの時間を過ごします。

見舞い・面会は不要。
花も不要。

家族も一人娘が手続きに来たときに、立ち寄っただけでした。

家族仲が悪かったわけではありません。
西村自身が「来るな」と厳命したからです。

そして、家族も西村の気性を理解していました。

出版関係では、ただひとり、徳間書店の編集者に電話連絡をするのみでした。

大学付属病院の院長が主治医となり、ガン治療を33回の放射線照射でおこなうことに決定します。

毎朝、早くにおこなわれる数分の放射線治療が終わると、西村は病院を抜け出します。

(病院では死にたくない)と決意した彼は身体を鍛える為に、山歩きに没頭します。
西村は動物好きであった為、人間と共に働いた牛馬に思いを寄せ、それらを祀った道祖神に興味を持ち、自宅の庭に地蔵を2体祀っていましたが、特別な信仰を持ってはいませんでした。

しかし、最初に向かったのは庶民の山岳信仰で知られる大山でした。

やはり、ガン=死という幻影が、西村を大山へ駆り立てたのではないかと思います。

毎日のように丹沢山系を歩いたおかげで、西村の足腰はすっかり丈夫になります。

元々、作家になる前は、狩猟に生きていた時期もあり、山歩きをしていた西村ですが、このときの山歩きは、また別の思いを持ちながら歩を進めて行ったと思います。

下咽頭癌治療は手術こそしないものの辛いものとなり、放射線照射で放射線による火傷が頸部全体に広がり、内部までもが爛れました。

西村はネルシャツにジーンズ、そして首回りにスカーフを巻くというファッションを好みました。
しかし、今やそのスカーフは、おしゃれではなく、喉の火傷を覆い隠すものに変わっていました。

喉麻酔をしなくては、食事が採れない状態になりましたが、33回の照射治療でがん細胞は西村寿行の身体から消えました。
そして、6月27日に退院します。

しかし、退院した西村寿行を待っていたのは、痛恨の出来事でした。

入院して2週間は誰にも会いませんでしたが、考えをあらためて信頼していた徳間書店と光文社の担当編集者と丹沢の温泉旅館で食事をします。
「西村寿行、癌で入院」の報せは、各社の〝西村番〟編集者に届きました。
西村は「騒ぐな。大きな話にするな!」と厳命しました。
長年の担当編集者である徳間書店のひとりだけに入院したことだけを報せて、自身の体調について詳しい状況を話していないことに、西村自身の気がとがめたようです。

温泉旅館での席で、西村は旧知の週刊誌記者が胃癌で入院したことを知らされます。

その記者は、西村が孤北丸という名のサロン・クルーザーを所有していたとき、キャプテンを務めた人物でした。
それだけ、西村と強い信頼関係で結ばれていた人物だといえるでしょう。
彼の容体を訊ねた西村に返ってきた答えは、
「3ヶ月の命だそうです・・・」
という残酷な言葉でした。
西村は絶句するしかありませんでした。

西村寿行が所有していたサロンクルーザー・孤北丸については、徳間文庫版『雲の城』の巻末に『サロン・クルーザー』というエッセイが掲載されています。amazon kindleやDMM電子版でも読めます。

自らのガン治療を終えて退院した西村は、早速タクシーを飛ばして彼の元へ向かいました。
しかし医師の宣告どおり、旧知の週刊誌記者は3ヶ月後に亡くなります。
西村は彼の葬儀には参列しませんでした。ひとり娘を名代として赴かせたその日、西村はただひとりで涙を流していました。

記者の死の3週間前に、彼の妻が西村担当の編集者とともに、西村の元へ訪れます。

そして、

「しっかりとした病院へ移りたい」

と本人が言っていると聞かされます。

最初に行った病院では胃潰瘍と診断されたこと、現在入院している病院では、医師は何もしてくれないという、訴えも聞かされることになります。

しかし、すべては遅すぎました。
西村は自分自身を責めました。

「俺が入院するとき、誰にも会わないと言わなければ・・・」
「寿行さんなら、しかるべき病院と医師を、紹介してくれるのではないか、と本人が思っていたのなら・・・」

西村寿行、下咽頭癌治療を終えるも、今度は右手首を粉砕骨折

災難は更に降りかかります。
同年12月に転倒した折に、右手首を粉砕骨折してしまいます。
そして、翌1994年の3月まで再度の入院を余儀なくされます。
雑誌に連載中の小説はこの間、休載。

ガン治療と右手首の粉砕骨折での入院。
旧知の人物のガン死。
そして、自らのガンに対する放射線治療の代償として得た、頭重と嘔吐感、持病の蕁麻疹。

これらのことが、西村寿行を執筆から更に遠ざけた気がしてなりません。

西村寿行、執筆生活の終焉

かつての勢いをなくし、酒に耽溺する時間の増えた西村から離れる編集者もいました。

それでも、かつての西村を知る編集者は、雑誌連載や短編掲載で、西村を盛りたてようとします。
退院してから、執筆・刊行された本を以下のとおりです。

1994年『深い眸(中編集)』(光文社)(小説宝石掲載)

1995年『幻覚の鯱―神軍の章』(講談社)
(メフィスト 1994年8月号~1995年4月号連載)

1995年『世にも不幸な男の物語(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載)

1995年『デビルズ・アイランド』(角川書店)
(小説王 1994年9月号~1995年1月号 及び 野性時代 1995年4月号~7月号連載 )

1996年『大厄病神

1997年『』(徳間書店)

1998年『牡牛の渓(短編集)』(光文社)(小説宝石掲載)

1998年『幻覚の鯱―天翔の章』(講談社)(小説現代増刊 メフィスト連載)

2000年『月を撃つ男』(光文社)(小説宝石 1999年4月号~9月号連載)

2001年『碇の男(短編集)』(徳間書店)(問題小説掲載)

まだ、小説現代の臨時増刊号という位置づけで、誌面の性格が決まっていなかったことも影響していたでしょうが、『幻覚の鯱―神軍の章』が、『メフィスト』に連載されていたのは少し意外な気がします。

このほかに、短編集や中編集を違うタイトルで二次出版化されたものもありますが、それらは省きました。
内容は、かつて西村作品を愛読していた読者が物足りなさを感じるものになっていました。

1994年~2001年までに刊行された本は、ピーク時なら1年で刊行していた冊数です。
1999年に光文社『小説宝石』で最後の長編となる『月を撃つ男』を6回に分けて連載。

そして、2000年10月に同誌に掲載された短編『刑事』(『碇の男』に収録)を最後に西村寿行の新作小説が発表されることはありませんでした。
それでも、最後の長編『月を撃つ男』は文庫化されると増刷を重ね、第8刷まで重版されています。

一頭の紀州犬とともに独り孤城で過ごした西村寿行の最後の時間

西村は晩年、家族を自宅とは別にマンションに住まわせ、西村とボスと名付けた一頭の紀州犬と邸宅に籠もり、週末だけ家族と食事を共にする生活となりました。
パイプを口にくわえて、好々爺となった晩年の姿を捉えた顔写真は珍しいと思います。

『犬族からの通信』という近況報告を兼ねたエッセイが、2001年から徳間書店の小説誌『問題小説』に連載されていた時期もありますが、いつのまにかそれもなくなり、死の数年前に執筆していたという、自らの半生記もついに公に発表されることはありませんでした。

体調を損ねながらもアルコールの量は減ることなく、一人娘が注意しても聞き入れませんでした。

西村曰く、

〝俺はアルコールと妄想と幻覚で生きていたんだ〟

そして、2007年8月23日朝。
様子を見に来ていた家族が、ベッドで亡くなっている西村寿行を発見します。
その死を看取り、傍にいたのは3代目の紀州犬・ボスだけでした。

死因は肝不全。
享年78(満76歳)。

徳間書店発行の『問題小説』では、【追悼・西村寿行】と題して、出世作となった『君よ憤怒の河を渉れ』が全編再掲載されました。

最後に残した西村寿行『遺言状』

通夜と告別式は近親者のみでひっそりとおこなわれました。
その後、旧知の人々が集ったお別れ会の席上、生前、弁護士に宛てて書かれながら、書斎の机の中に置かれたままで、投函されることのなかった西村寿行の『遺言状』が読まれました。

西村は自他共に認める〝晴れ男〟でした。
しかし、お別れ会当日は冷たい雨が東京に降り注いでいました。
まるで、寂しがり屋の西村が、〝自分抜きで別れの会なぞを執り行うな〟と言っているかのように。

この会が執り行われてから、『遺言状』の全文が光文社発行の『小説宝石』に掲載されました。

〝愉しかった人生に御礼申し上げます〟から始まるこの遺言状は、独特の死生観を綴った後に、こう締めくくられていました。

〝ぼくの死は誰にもいうな。死を発表するほどおろかしいことはない。
魚もだが、牛や馬は親仔、兄弟の死をあの大きな澄んだ瞳に浮かべることはない。
己の死を特別なことと捉えるのはひと類のおごりだろう。
ひっそり--それがぼくには似合っている。
海から這い上がって、いつの間にか消えていた--というような生と死--。〟

70代を迎えて、小説を書くことからは遠ざかっていましたが、西村寿行らしい文章は最後まで健在でした。

お別れ会の祭壇には、毛蟹を調理する73歳の西村の写真が飾られ、最も愛した酒であるアーリー・タイムズが供えられました。

そして、現在・・・

西村の逝去後も、代表作品の文庫は新装版として刊行され続けています。

そして、逝去から10年が経った2017年には、1976年に公開された『君よ憤怒の河を渉れ』のリメイク作『マンハント』が、ジョン・ウー監督 チャン・ハンユー 福山雅治主演で公開されました。

西村寿行作品に影響を受けた人々は数多くいます。
なかには、現在人気作家・漫画家として活躍中の方も。

小説家では篠田節子夢枕獏樋口明雄五條瑛

そして、飴村行赤松利市

漫画家では、藤田和日郎

そして、荒木飛呂彦

2015年暮れには、半生を共にされた奥様・西村八千子さんも亡くなられ、西村寿行の時代はさらに遠くなった気もしますが、多摩市連光寺に建てられた邸宅は、まだその存在感を放っています。

つたない文章を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

ファンのひとりとして、このまま忘れ去られてしまうのは、あまりに惜しい作家だと思いますので、手持ちの資料を読みながら思いを込めて綴りました。

2018年6月 本の雑誌2018年7月号で、『巨魁・西村寿行伝説』と特集記事が組まれた!

2018年6月に西村寿行ファンとして、大変嬉しいことがありました。

本の雑誌社が発行している『本の雑誌420号2018年7月号』で、

『巨魁・西村寿行伝説』と題した特集記事が組まれたのです。

担当編集者だった講談社の鈴木宣幸氏、徳間書店の平野健一氏、光文社の丸山弘順氏、そして、愛娘の西村亜子氏が登場して、主に1980年代の西村寿行について語っています。

ちょうど『地獄』に登場していた担当編集者が寿行先生のお相手に疲れて、若手が投入されはじめた頃からのお話がメインになります。
そのエピソードがすべて面白すぎるので、気になる方は、ぜひチェックをしてみてください。

西村寿行 北海道取材旅行での超絶エピソード集

以下は、1990年代半ばにおこなわれた北海道取材旅行で、実際にあったエピソードです。

・根室の旅館に宿泊して、宴会をおこなう際に、花咲ガニはあったものの大好物の毛ガニがなく、

「みんな、飲めーッ!、喰えーッ!」

というどんちゃん騒ぎがしたかった寿行先生はご立腹。
ちなみに、寿行先生は浜茹でされた毛ガニが大好物でした。

寿行先生は同行の編集者たちに、「好きなだけ飲み食いをさせられず、申し訳ない」と詫びたあと、その席の幹事だった角川書店の宍戸健司氏に集中攻撃をします。
(宍戸氏は、専修大学卒業後に角川書店に入社。10年来、担当編集者として西村を支える一方、角川ホラー文庫を立ち上げ、日本ホラー大賞、山田風太郎賞創設も手掛けた敏腕編集者にして、馳星周氏を『不夜城』で華々しくデビューさせた方です)

このときに、ブチ切れた寿行先生が、宍戸健司氏に向かって発言した

「おまえは根室市長に連絡したか!」

は重要な寿行ワードです。

あまりにネチネチと、寿行先生から怒りをぶつけられ続けた宍戸氏は我慢をしていましたが、ついに耐えきれなくなり、

「じゃあ、いいっすよ。俺、帰りますよ」

とキレ始める始末。

次の日は知床泊で、前日のことがあったので、編集者が気を利かせて旅館側に、

「いくらかかってもいいからカニづくしにしてくれ」

と頼んだところ、宴席にやってきた寿行先生は、

「こんなにカニばっかりあって気持ちが悪い」

と言いだしてご機嫌を損ねます。

更に、「カニが俺を見ている」と名言を吐きます。

それから、不機嫌になって酒を飲みながら海を眺めていた寿行先生でしたが、何を見間違えたのか、

「ロシアのスパイ船がいる」

と言い始めて、海上保安庁に「今、スパイ船が入ってきた」と電話連絡をするも、酔っ払いの戯言だと相手にされず、「クジラか何かじゃないでしょうか?」と返されると、「何言ってんだ!」と怒って、電話を叩きつけて壊しました。
(実際に、不審船が領海内に侵入していれば、海上保安庁は早々にレーダーで発見していたでしょう)

それからも、

・港に停泊中のロシア船に勝手に乗り込んでいった。

・釧路動物園で、「あいつを殴ってやる」

と言ってヒグマのいる柵を上り始めた。その横に写生をしにきていた地元の小学生がいたが、みんなびっくりしていた。
等々。

また、日常生活においても面白エピソードが満載です。

でも、担当編集者は右往左往させられながらも、寿行先生のことが大好きで、この特集のなかで、

“「本当、寂しがりやだった。でも才能はすごい。鬼気迫るというか」”

“「寿行さんは担当できてよかったなっていう一番の作家ですね」”

と思い出を愉しそうに語られています。

これを期に、亜子氏が『父・西村寿行』とサブタイトルがつくような本を書いてくださると有難いのですが。
叶わない願いかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
もう一度、心より御礼申し上げます。

何かございましたら、こちらまでお願いいたします。

はる坊 拝

はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)

メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)

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人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その5

1980年代の西村寿行

はる坊です。
まず、1980年代になっても、西村寿行がどれだけ売れていたのかを示すデータから。
俗にいう長者番付。高額納税者番付作家部門です。
1983年度分からは、従来の申告所得額ではなく、納税額が公示されるようになりました。

1983年度分 1億2,588万円 4位
1984年度分 1億5,615万円 5位
1985年度分 1億3,745万円 5位
1986年度分 1億1,809万円 5位
1987年度分 1億3,190万円 4位
1988年度分 1億0,072万円 5位
1989年度分   9,508万円 7位
1990年度分   8,185万円 6位

1980年度分から1990年度分までに公示された申告所得額・納税額をみると、
この時代に売れて税金を多く納めた作家は次の順になります。
1位 赤川次郎   6位  池波正太郎
2位 西村京太郎  7位  森村誠一
3位 司馬遼太郎  8位  笹沢左保
4位 西村寿行   9位  渡辺淳一
5位 松本清張   10位 遠藤周作

西村寿行は、なぜ、ここまで売れたのか?
・小説本がもっとも売れた昭和50~60年代に活躍したこと。

・1975年の『君よ憤怒の河を渉れ』以降、特に77年からは、毎月のように新刊を出し続け、その全作が水準以上の出来栄えで、西村寿行作品は面白いという評価を読者から受けていたこと。

1975年に角川書店が角川文庫を発刊して、西村寿行作品に廉価で身近に触れられたこと。角川文庫の売り上げ部数は、横溝正史・赤川次郎・森村誠一に次いで歴代第4位です。

・寿行作品の多くを出版した徳間書店が、80年に徳間文庫を発刊して、ここでも寿行作品が文庫化されたこと。

さらに、徳間書店では『西村寿行選集(NISHIMURA HARD-ROMAN SERIES)』をノベルスで別に刊行し続けたこと。

新刊のハードカバー・ノベルスは15万部程度売れ、文庫の初版は20万部。
もちろん、増刷が繰り返されます。

徳間書店の創業者・徳間康快(とくま やすよし《名前はこうかいとも呼ばれました》)は反権力の立場にいる作家を愛しました。
なかでも大藪春彦とは親友同士で、大藪の葬儀で弔辞を読んだのも徳間康快でした。

エンタメ系のプロ作家が対象の大藪春彦賞も制定しています。

賞金300万円は、デビュー後の作家がもらえる賞の賞金としては、柴田錬三郎賞と並んで最高額タイです。

実業家としては、本業の徳間書店のほかにも、スタジオジブリの初代社長も務めています。
また、映画会社の大映や徳間ジャパンの経営もおこないました。

〝徳間文庫、いや、徳間書店を支えている一因は西村寿行〟と囁かれるほどの人気ぶりでした。

しかし、一番の理由は、

“俺は芸術家じゃなくて、職人だから、面白おかしく書いて、たくさんの人に読んでもらえればいいんだ。”

と語っていた読者を大切に考える西村寿行自身の姿勢にあったと思います。
では、年ごとに出版された作品をみていきたいと思います。

1983年(昭和58年)に刊行された本

『霖雨の時計台』『宴は終わりぬ』(唯一のエッセイ集)『石塊の衢』『鬼(中編集)』『狼のユーコン河』『濫觴の宴』『花に三春の約あり』『魔境へ、無頼船』『幻戯』『頻闇にいのち惑ひぬ』『襤褸の詩』
エッセイを含んで11冊を上梓しています。

この年の作品では、田中邦衛主演でドラマ化された『霖雨の時計台』が白眉です。

インタビュー嫌いの西村寿行にしては珍しく、この『霖雨の時計台』に関しては、この小説に対しての強い思い入れを取材に応じて、機嫌よく語っているのです。

同時に、幻想小説として傑作であり、夢枕獏が雑誌掲載時に驚愕したという『鬼(中編集)』はおすすめです。

また、『花に三春の約あり』は『峠に棲む鬼』のヒロイン・逢魔麻紀子の娘、逢魔紀魅が登場します。


そして、『襤褸の詩』では『蘭菊の狐』のヒロイン・出雲阿紫が再登場しますが、扱いが他の寿行作品で描かれるヒロインと同じ道を辿ったのが、個人的には残念でした。

生涯で唯一刊行されたエッセイ集『宴は終わりぬ』は人間・西村寿行が余すところなく感じられて面白いです。

また、表紙の絵を愛娘の西村亜子さんが描いています。そして題字は西村寿行本人によるものです。

1984年(昭和59年)に刊行された本

『空蝉の街』『監置零号』『鉛の法廷』『風紋の街』『妖しの花乱れにぞ』『垰 大魔縁』『垰よ永遠に』『夢想幻戯』『沈黙の渚』『緋の鯱』『黒猫の眸のほめき』『憑神(中編集)』
12冊を上梓しています。
垰シリーズが、『垰よ永遠に』をもって終わりました。
『鉛の法廷』は司法で裁くことができない犯罪者を、私設裁判所にて裁くという重くも救いのある作品です。
『黒猫の眸のほめき』は、西村寿行が主役です(物語の序盤に西村寿行は、実際の愛車で、本当に1リットルで2キロしか走らなかったという、恐ろしく燃費の悪いチューンアップ済みのメルセデスベンツ500SLC AMG仕様に乗って登場しますが、その後は・・・)。『地獄』の世界観を楽しめるのなら、この作品も面白いはずです。

1985年(昭和60年)に刊行された本

『雲の城(中編集)』『牙(短編集)』『異常者』『鬼の跫』『人類法廷』『ガラスの壁』『無頼船、極北光に消ゆ』『鷲の巣』
上梓した冊数は8冊に減りました。
ポリティカルフィクションというジャンルにあてはまる『人類法廷』『ガラスの壁』が刊行されます。
寿行作品中期以降のなかでも異質な存在感を放つ、『異常者』もこの年に発表されています。

これは読み手によって様々な意見があると思うのですが、個人的にはこの1985年に発表された作品あたりから、徐々に全体のバランスが崩れた作品が出始めたように感じます。

夢枕獏・菊地秀行が伝奇バイオレンス・伝奇アクション小説を書き出した時期

前年の84年に、西村寿行の影響を公言している夢枕獏の伝奇バイオレンス小説『魔獣狩り 淫楽編』『魔獣狩り 暗黒編』『闇狩り師』が単巻で10万部以上のヒット作になります。

『闇狩り師』を刊行した徳間書店の編集者は“「ウチはもう完全なバックアップ態勢です。第二の西村寿行になりうると確信しています」”と発言しています。(出典:週刊文春1984年9月27日号「バイオレンスのニューパワー夢枕獏の正体」より)

当時、夢枕獏自身がインタビューで“「昨年(前年の1983年分)の年収は780万円だったのに、今年は6800万円でした。あるときに、通帳記帳に行ったら、機械がダダダッて印字がとまらなくて、『来たな』と思いました」”と話しているように、翌1985年分、1986年分では長者番付の作家部門14位に登場します。

そして、この時期から伝奇小説だけではなく格闘小説『餓狼伝』や『陰陽師』の執筆も開始して、月産500~800枚という多産に耐えながら、作家としてのフィールドを拡げていきます。

98年に『神々の山頂』で柴田錬三郎賞を受賞したのを皮切りに、一般文芸を対象とした文学賞にも縁ができはじめ、泉鏡花文学賞、吉川英治文学賞も受賞し、2018年春には紫綬褒章を受章しています。

また、朝日ソノラマで、『魔界都市〈新宿〉』でデビューを果たし、『トレジャーハンター(エイリアン)』やシリーズ『吸血鬼ハンターD』シリーズジョブナイル小説(現在のライトノベル)を書いていた菊地秀行がこの年にノベルス界に進出すると矢継ぎ早に『魔界行Ⅰ(復讐編)』『魔界行Ⅱ(殺戮編)』『魔界行Ⅲ(淫獄編)』『妖魔戦線』『妖魔陣』『妖魔軍団』『妖人狩り』『妖獣都市』など伝奇小説を量産して、そのほとんどが10万部を軽く超えるベストセラーとなりました。

1987年には、21冊もの伝奇バイオレンス小説を主にノベルスで発表して、ベストセラー作家の座を確固たるものにします。

年間10冊以上の新刊を長期間にわたって発表し続け、2017年2月には『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作400冊を達成しています。また、1986年分から1995年分までの10年間、長者番付・作家部門ではベストテンにランクインし続けました。

このような新しい動きがあったことは、西村寿行に追随したバイオレンス小説の大家・勝目梓もその半自伝的著書『小説家』のなかで触れています。

勝目が年間15冊平均でノベルスを出していた時期で、一番多忙であった頃ですが、半自叙伝的な著書に夢枕獏と菊地秀行の台頭を記しているところをみると、当時としては、かなり脅威に映ったのではないかと思います。

1986年(昭和61年)に刊行された本

『珍らしや蟾蜍、吐息す』『死神 ザ・デス』『山姥が哭く(短編集)』『曠野の狼』『無頼船 ブーメランの日』『遺恨の鯱』『時の旅』『癌病船応答セズ』『まぼろしの獣』
長編を中心に9冊を上梓しています。
癌病船シリーズが『癌病船応答セズ』をもって終結しました。

1987年(昭和62年)に刊行された本

『凩の蝶』『魔の山(短編集)』『人間の十字路(短編集)』『陽炎の街』『風の渚』『幽鬼の鯱』『母なる鷲』『コロポックルの河』『旅券のない犬』
昨年同様、9冊を上梓していますが、個人的に消化不良に思える作品が増えてきます。
特に鯱シリーズではそれが顕著に感じられました。
『風の渚』は渚シリーズ最後の作品になりました。

1988年(昭和63年)に刊行された本

『残像(短編集)』『執鬼(短編集)』『賞金犬(ウォンテッド)(短編集)』『道』『無法者の独立峠』『無頼船、緑地獄からのSOS』『幻想都市』『聖者の島』『悪霊刑事』『衄られた寒月(中編集)』
刊行数は久々に二桁、10冊になりました。
この年の作品を読むと、前半は面白いけれど、後半になってからが・・・という感じでしょうか。
『賞金犬(ウォンテッド)』が、1995年オリジナルビデオで映像化されています。北野武監督映画『ソナチネ』の出演がきっかけとなり、演技派俳優として認知をされていく大杉漣も、この作品に出演しています。
(残念ながら、大杉漣さんは2018年2月21日に急性心不全で急逝されました。ご冥福をお祈りいたします)
また、『無頼船、緑地獄からのSOS』は無頼船シリーズ、『幻想都市』は幻戯シリーズ(宮田雷四郎シリーズ)最後の作品となりました。

1989年(平成元年)に刊行された本

『学歴のない犬(上・下)』『頽れた神々(上・下)』『神聖の鯱』『風と雲の街』

息を吹き返したかのように面白い長編が発表されました。
特に『学歴のない犬(上・下)』は作家生活後半で、もっとも優れた長編になると思います。

1990年(平成2年)~1992年(平成4年)に刊行された本

1990年(平成2年)
『呪医 ウィッチ・ドクター』『魔物』『涯の鷲』『矛盾の壁を超えた男』『蟹の目(短編集)』

1991年(平成3年)
『凩の犬』『呪いの鯱』

1992年(平成4年)
『消えた島』『魔獣(短編集)』『鬼の都』『ここ過ぎて滅びぬ』

1990年代に上梓された本を92年分までひとまとめにしてしまいましたが、これには理由があります。
90年代に入ると、思わず首を捻ってしまう作品が増えます。

着想は、さすが西村寿行だなと思わせるのですが、内容にまとまりがなく支離滅裂と感じられるものになってきます。
鯱シリーズの『呪いの鯱』は週刊現代に連載されていますし、その他の作品も雑誌連載・掲載作がほとんどですが、雑誌を読むと他の小説家と比べて浮いている印象を受けざるを得ないのです。

1989年12月、徳間書店では文芸書籍編集部の求人の応募して、中途入社した芝田暁氏が西村寿行の担当編集者になっています。
芝田氏の著書『共犯者 -編集者のたくらみ- 』には、西村寿行番編集者の大変さが綴られています。

第一に、徳間書店が文芸書籍編集部の求人を出した理由は、西村寿行の担当編集者が、あまりの大変さに逃げ出してしまい、先輩編集者たちも敬遠しており、やむを得ず、新たに中途採用で担当編集者を補おうとしたからでした。

その大変さはハンパなものではありませんが、初めて、西村寿行に受け入れられたときの喜びも書かれています。
最初、付き合うのには我慢と時間がかかりますが、一度信頼関係を築けると「ホントに仕方のない人だな」と思いながらも惹きつけられてしまう。
そんな人間的魅力が西村寿行にはありました。

それが、第一線から退いた1990年代にも小説連載の仕事が続いた理由ではないでしょうか。

しかし、この頃、作品の雑誌連載・掲載時の煽り文句も〝不条理〟〝奇想〟〝奇作〟と付けられており、どうにも編集者が扱いに困りだしているのが目に浮かんでしまうのです。

また、1990年度分を最後に長者番付作家部門からも姿を消します。

ですが、この時期になっても、西村寿行の新作は単行本(ハードカバー)で初版5万部。
ノベルスもで初版で5万部が刷られていました。

当時税務署で公示されていた高額納税者と納税額を集計した資料をみると、1991年以降も数年間、年間1,000万円以上を納税していたことがわかります。

〝西村寿行 指〟や〝西村寿行 ポキポキ〟に対する反論

さて、ここからは余談になりますが、ネットで〝西村寿行〟と検索すると、〝西村寿行 指〟や〝西村寿行 ポキポキ〟という検索がされているのに気がつきます。
どうやら、『「金を払うから女性に指を折らせてくれ」と西村寿行が言った』というもののようです。
なかには、〝西○○行〟と卑怯な書き方をしているところもあります。

これに関しては、私は強く否定します。

西村寿行の小説やエッセイを読み、その考え方や人となりを知ると、とてもではないですが、そういう人物だったとは思えないのです。

〝ホステスに対して言った〟〝風俗関係の女性に対して言った〟という文章もネットに上がっていますが、確かな情報ソースがあるわけではなく、大変に無責任で西村寿行の名誉を毀損する書き込みだと思います。

銀座など女性のいるクラブやラウンジを西村は嫌いました。
大流行作家となっても、足を向けることはありませんでした。
これらは西村寿行のエッセイや、その執筆活動をささえた編集者たちの思い出話の中に出て来ます。

また、女性関係でも、長年秘書としてもそれ以上の関係としても作家生活を支えた女性がいること。
一時期は女優と交際したこと。
どこのソープランドへ編集者と連れだって行くことなど、神秘的なイメージを持ちたい作家なら絶対に公言しないことも、「別に隠すことでもなんでもないじゃねえか」というふうに、堂々とあっけらかんとインタビューで答えています。

こういう人物にそのような噂自体そぐわないと思います。

喜怒哀楽が激しい寂しがり屋で、お山の大将気質。
酔いに任せた部分もあったのでしょうが、夜に宴会をしているときには、北海道から九州まで方々へ電話を掛けまくり1日の電話代が2万円に及ぶこともありました。
自身が飲むのは、売れっ子作家となって、年収が毎年3億円になっても、ビールとバーボンウイスキー・アーリータイムズ。
酒が大好きで、気心の知れた仲間と宴会をするのが大好き。

小説家として一番忙しく、そして輝きを放っていた時期には、渋谷区代々木のマンション最上階に構えた仕事場での執筆が終わる18時頃から、各社の担当編集者が西村の元にアーリータイムズ持参で集まり、毎夜、打ち合わせを兼ねた飲み会を開き、週末になると、編集者たちと『雑木の会』という宴会を開いてもいました。

晩年になって、小説の執筆を完全にストップさせてからも、多摩市連光寺の自邸で宴を催した折りには、長年の戦友とも呼べる旧知の編集者だけではなく出入りの庭師なども呼び、かつて〝海賊料理〟と称した活魚料理店の経営者兼板前だった経験を生かして、自ら客に料理を振る舞いました。
宴の主役はいつも大好物の蟹でした。慣れた手つきで蟹を調理しては、客に蟹の身肉を存分に味わってもらい、蟹雑炊で締めるという何とも贅沢な時間を西村寿行自らが提供していたのです。

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私は、西村寿行という人物についてこう思います。
自分からは進んで徒党を組もうとはしない孤高の人。
でも、縁あって知り合い、気心の知れた人を大切にしたのが、西村寿行という人間だったと思います。

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話が横道に逸れました。

⇒そして、1993年(平成5年)を迎えます。その6に続きます。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その4

大流行作家・売れっ子作家となった西村寿行

西村寿行は超売れっ子作家に登りつめました。
年収は3億円台をキープ。

山田風太郎や柳田邦男も居を構えた、多摩市聖蹟桜ヶ丘に邸宅を構え、仕事場は渋谷区代々木の高層マンション最上階。

愛車は、垰(たわ)シリーズで秋葉文七が愛用し、俳優・根津甚八も所有していた、アメリカ製ジープのゴールデン・イーグルと、エンジ色のメルセデスベンツ500SLC AMG仕様

そして、奥様用にボルボを購入。

また、80年代半ばに差し掛かる頃には、約5,000万円のサロン・クルーザーを購入。

〈孤北丸〉と命名して、俗称は〈無頼船〉と呼び、クルーザー前方には〈BURAISEN〉と、ローマ字表記で黒い文字が書かれました。

〈孤北丸〉については、徳間文庫版『雲の城』の巻末に『サロン・クルーザー』というエッセイが掲載されています。amazon kindleやDMM電子版でも読めます。

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ここまで読んでいただくと、羨ましい限りだと思われるかもしれませんが、売れっ子作家としての生活は過酷そのものでした。
月曜日から金曜日までは、仕事場で寝泊まりして、金曜の夜に自宅へ帰る生活。
しかし、自宅に戻っても来客がやってくる有様。

まさに千客万来。

西村寿行流 執筆の流儀と方法

まず、判を押したように毎朝7時30分に仕事場で目を覚ますと、シャワーを浴びてレモンをかじり、さらに二日酔いの頭を覚ますために頭痛薬を服用して、執筆の準備を整えると、ソファーに腰掛け、足も別のソファーに伸ばします。
ひどい二日酔いの為に、起床してから、ここまでで3時間かかっています。

冷凍してある麦9:白米1のおにぎりを解凍して食べると、仕事開始です。

太ももあたりに画板やトランクケースを置いて、原稿を書き始めます。
西村寿行は机に向かっては、原稿が書けませんでした。

後年には、自らが座るソファーに、角度を調節できる台を設えた特注のもので原稿を書きました。

原稿は手書きで、生涯、万年筆で書き進められました。
万年筆はイタリア製のアウロラが好みだったようです。

作家になってしばらくしてからは、モンブランを使用していましたが、“俺は芸術家じゃなくて、職人だから”とインタビューで答えていたように、職人の仕事道具のような、俗に“サリサリ”と評されるアウロラ独特の少し引っ掛かりを覚える書き心地が気に入ったのかもしれません。

執筆量は1日35枚。
タバコは峰か赤LARK。
1日に2箱ほど吸いながら原稿を埋めていきました。

西村寿行の作品は〝ハードロマン〟と呼ばれ、アクションや冒険をテーマとし、バイオレンス小説とも呼ばれることが多いですが、作風とは異なり、原稿用紙に書かれた字は小さく、どこか繊細さを窺わせるものでした。

小説の執筆にあたっては、とことん資料を読み込むのが寿行流でした。
ひとつの小説を執筆するのに1メートル以上の資料を読みあさり、「京大式」と呼ばれるB6サイズのカードで整理をおこない、最大で3名のデータマンを雇って、時間的に取材をおこなえない箇所を補いました。

このデータマンのなかには、のちにノンフィクション作家となり、週刊ポスト誌上で『メタルカラーの時代』を、長年に渡って連載した山根一眞もいました。
午前中から午後6時、7時まで、仕事漬けの日々を送って作品を書き上げていきました。

一日の仕事を終えてからの酒盛り アーリータイムズ

仕事が終わる頃になると、各出版社の担当編集者が仕事場を訪れ、打ち合わせを兼ねた酒盛りが始まります。
西村寿行が愛したのは、バーボンウイスキー。
銘柄は『アーリータイムズ』でした。

夜に西村の仕事場へ赴く編集者は、このバーボンを何本か買っていくのが習慣でした。
西村が飲みたいといえば、どんな高級な酒でも編集者は持参したでしょう。
しかし、大の売れっ子作家でありながら、当時でも決して高価ではなかったこの酒を、西村は最後まで手放しませんでした。

30代半ばから飲み始めた酒が、日常生活の一部になってしまうほど好きだったこともありますが、大量の原稿を書く疲れを癒やす意味もあったのでしょう。少なくてボトル半分、多いときではボトル1本を一晩で開けてしまうほど酒量は凄まじく、翌朝に目覚めたときは、いつも二日酔いで頭痛薬が手放せませんでした。
これほどの酒を飲みながら仕事第一の生活を貫き、西村本人も〝仕事には律儀〟と語っていたように、〆切りに遅れたことはありませんでした。

1980年代の西村寿行の仕事ぶりを、まずは、刊行した本でみていきましょう。
今回は1980年~1982年まで。

1980年(昭和55年)に刊行された本

『滅びの宴』(『滅びの笛』の続編)『風は悽愴』『滅びざる大河』『虎落笛』『陽は陰翳してぞゆく』『捜神鬼(短編集)』『鬼女哀し』『汝は日輪に背く』『怨霊孕む』『血の翳り』

昨年より刊行数は減っていますが、安定して名作を放ち続けた一年だと思います。
この中でも、『血の翳り』(血は〝ルジラ〟と読みます)と短編集『捜神鬼』は名作中の名作です。
もし、直木賞候補を受け続けていたなら、この作品で、受賞をしたかもしれないと私は思っています。

1981年(昭和56年)に刊行された本

『扉のない闇(短編集)』『虚空の舞い』『老人と狩りをしない猟犬物語』『秋霖(上・下)』『虚空の影落つ』『癌病船』『蘭菊の狐』『ふたたび渚に』『無頼船』『鷲の啼く北回帰線』『闇の法廷』『白い鯱』
この年には無頼船シリーズと癌病船シリーズの刊行が始まります。
連載媒体に目を移すと『虚空の舞い』が産経新聞に連載されています。スポーツ紙連載は何度もありましたが、全国紙連載はこれが初めてでした。
また、『蘭菊の狐』のヒロイン・出雲阿紫は、これまでに西村寿行作品に登場したヒロインとは違い、性の対象とはならず、気高く凛とした姿が印象的です。

1982年(昭和57年)に刊行された本

『妖魔(短編集)』『鬼狂い』『牛馬解き放ち;太政官布告第二九五号』『碧い鯱』『攻旗だ、無頼船よ』『地獄(上・下)』『裸の冬』『オロロンの呪縛』『晩秋の陽の炎ゆ』
この年の作品では、『晩秋の陽の炎ゆ』のヒロインである槐帰雲(えんじゅ・かえりくも)が魅力的です。
また、コアな寿行ファンなら『地獄』は見逃せません。
西村寿行本人が主人公の小説で、編集者たちとともにフグにあたって地獄へ落ちて冒険をする物語です。

最後に、1980年~1982年の長者番付においての西村寿行の順位
をみてみます。

例によって申告所得が発表となっています。
1980年度分 2億5,017万円 作家部門3位
1981年度分 1億8,746万円 作家部門3位
1982年度分 2億5,946万円 作家部門3位

信用金庫の担当者がついて、節税を行っていた分は経費に計上されており、申告所得は、年収3億円から経費を差し引いた分が公表されています。
この時代は、所得税率が最高で75%。住民税が最高で18%でした。

それに予定納税もありますので、いくら稼いでも、内情は自転車操業だったようです。

1960年代から長きにわたって活躍した、『木枯らし紋次郎』や『取調室』(いかりや長介主演の2時間ドラマのほうが有名でしょうか)で著名な笹沢左保は、「税金を払うために借金をしたこともある」と語っていますので、幾ら本が売れていた時代であっても、作家の台所事情は意外に苦しいものだったようです。

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⇒それでは、1980年代半ば以降の西村寿行はその4でどうぞ。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その4

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その2

西村寿行 小説家デビュー

1973年(昭和48年)2月、西村寿行のデビュー作瀬戸内殺人海流が、サンケイ出版より出版されました。

42歳での小説家デビューです。

9月には第2作安楽死が出版され、翌年には第27回日本推理作家協会賞の候補に挙げられます。

※『安楽死』は2018年8月に角川文庫から復刊されています。

西村寿行の小説を読んだことのある方なら、〝男根さま〟〝後背位〟〝尻〟〝人妻〟〝ジーパン人妻〟がやたら出てくる、「ああいう小説か」と思われるかも知れませんが、作家生活前半の西村作品には、そんな言葉はほとんど出てきません。

受賞したのは、1973年内に上巻204万部・下巻185万部を売り、当時大ベストセラーとなった小松左京の『日本沈没(上下)』でしたが、

選考委員の評を読む限りでは、次点といったところで、一定以上の評価を受けています。

本格的に作家デビューとなったこの年の年収は250万円。
ちなみに、この年の大卒初任給は62,300円です。

翌1974年(昭和49年)には、第3作屍海峡が刊行され、出版業界では、〝新進の推理小説家〟と呼ばれ始めます。
この年の収入は1,200万円となり、デビューした1年前より大幅にアップします。

しかし、西村寿行のなかでは違和感と悩みが生まれていました。

『推理小説家になりたかったわけではない』
『推理小説家と呼ばれたところでしっくりこない』

そして、『トリックというものが性に合わない』

そんな折りに、西村は直木賞作家・生島治郎からアドバイスを受けます。

「冒険小説を書いてはどうか」

生島治郎は、早大英文科を卒業後、早川書房にて編集者を務め、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』編集長を経て、退社。
『傷痕の街』で作家デビュー後、『追いつめる』で直木賞を受賞。
『黄土の奔流』などで、ハードボイルド小説の書き手として活躍。
『兇悪』シリーズが、天知茂主演のテレビドラマ『非情のライセンス』の原作になるなど、人気作家として名を轟かせる一方、大沢在昌を見出すなど、才能を見出す力にも秀でていました。
また、韓国籍のソープランド嬢との結婚を題材にした『片翼だけの天使』の作者としても有名です。

出世作『君よ憤怒の河を渉れ』誕生

西村寿行は生島のアドバイスに従い、手にした印税で山中に建つ一軒家の一角を借りて、大量の資料を持ち込んで、一心に冒険小説を書きます。
そして、彼の運命を変える『君よ憤怒の河を渉れ』は完成しました。

西村は書き上げた原稿を手に、講談社を訪れます。
早速、作品を読んだ編集者からは、〝作品が荒削りであり、荒唐無稽な箇所もあるので、もう一捻りして欲しい〟と指摘を受けます。

しかし、自分の作品に絶対の自信があったのか、西村は原稿を直すことなく、今度は徳間書店を訪れます。

作品を読んだ『問題小説』編集長は、荒削りな作品であることを承知で、そのまま『問題小説』に掲載します。

掲載されると、作品は大いに反響を呼び、刊行されたノベルス(新書版)『君よ憤怒の河を渉れ』はベストセラーとなります。
ノベルスと文庫を合わせて、最終的には発行部数70万部を記録しました。

ただ、デビューから数年がたっただけの西村の作品を、西村寿行選集(NISHIMURA HARD-ROMAN SERIES)と銘打って大々的に売り出したのも、当時大きな効果があったのでしょう。

ちなみにこの選集は、他社から刊行された本も、徳間書店が二次的にノベルスで発売を続け、1999年に発行された『鷲』『涯の鷲』まで全112冊に及びました。

また、続けて徳間書店から『蒼き海の伝説』も刊行。

いままでの書き下ろし一辺倒から、短編小説の雑誌掲載依頼も出版社から来るようになり、1975年分の年収は一気に4,400万円にアップ。

中野区上高田のマンションに仕事場を構えます。
順調な作家生活が始まりました。

西村寿行の活躍が始まる

1976年に入ると、角川書店から前年の終わりに野性時代誌上に一挙掲載された化石の荒野が刊行されます。(のちに渡瀬恒彦主演で映画化されます)
ストーリーはまったく違いますが、『化石の荒野』は『君よ憤怒の河を渉れ』を大幅にブラッシュアップした印象を受けます。

そして、この後の作品群で見受けられる設定や構成が決定的なものになるのも、この作品からです。
西村寿行自身もこの作品を気に入っていたのでしょう。
あとがきでは「ぼくのデビュー作」とまで言い切っています。

これもベストセラーとなり、西村寿行は、〝推理小説家〟ではなく〝新進気鋭のハードボイルド作家〟と見なされるようになります。
(〝ハードロマン〟という呼び方はまだ浸透していませんでした)

1976年(昭和51年)に刊行された本

この年には、前述した化石の荒野の他に、『娘よ、涯なき地に我を誘え』(78年に『犬笛』に改題)『幻の白い犬を見た(短編集)』『滅びの笛』『牙城を撃て(上)』『牙城を撃て (下)』『原色の蛾(短編集)』を刊行。

スポーツ新聞連載、小説雑誌連載・掲載が相次ぎ、執筆量が大幅に増加します。
この当時、西村寿行の月産枚数は原稿用紙900枚と報じられました。

1976年度分の年収は8,800万円。

まさに、倍々ゲーム。
仕事場も、新宿区と渋谷区の境に建ったばかりのマンション最上階に移します。

7月には、ニホンオオカミを題材に取った短編『咆哮は消えた』で第75回直木賞候補に挙げられます。
落選こそしましたが、当時の選評を読む限りでは、源氏鶏太・水上勉・柴田錬三郎からは好感を得ています。
※参照 オール讀物 1976年9月号

1977年(昭和52年)に刊行された本

咆哮は消えた(短編集)』『妄執果つるとき』『帰らざる復讐者 』『汝!怒りもて報いよ(上)』『汝!怒りもて報いよ (下)』『魔の牙』『魔笛が聴こえる』『荒涼山河風ありて』『悪霊の棲む日々』『白骨樹林』『双頭の蛇(短編集)』『往きてまた還らず(上)』『往きてまた還らず(下)を刊行。

1977年には更なる活躍を見せ、毎月の執筆枚数は400字詰め原稿用紙で800~1000枚。
急激に読者の人気を得ていきます。
西村寿行の専売特許ともいえる〝ハードロマン〟という言葉も浸透し始めました。

1月に『滅びの笛』で第76回直木賞、7月には、『魔笛が聴こえる』で第77回直木賞候補に挙げられます。

新聞や雑誌に連載され本にまとまったとき、連載時と文章を比較すると、しっかりと著者校正作業をおこなっていたのが分かります。

しかし、執筆量が大幅に増えて、ひとつひとつの作品の細部にまで、目が届かなくなっていったこともあったでしょう。
急激な西村寿行作品の人気上昇を面白く思わない選考委員も存在したと思います。

選考委員の意見は、「着想は面白いが雑」「荒唐無稽」「劇画的」と否定的になり、いずれも落選の憂き目に遭います。
※参照 オール讀物 1977年4月号・1977年10月号

西村は3度目の直木賞落選のあと、文藝春秋に「もう候補にしてくれるな」と断り状を出しています。

この断り状のタイミングが不明なのですが、77年の年末に、78年1月に選考が行われる第78回直木賞候補に自作が挙げられるのを知って、断り状を出したのであれば、どの作品が候補に挙がることになったのかは、気になるところです。

1980年に受けたインタビューで、“「どこの賞も候補になるのは断っている。」”と発言しています。
参照:「データバンクにっぽん人 西村寿行」週刊現代1980年5月22日号

日本推理作家協会賞や、雑誌の企画で誌上にて手紙のやり取りをした五木寛之が仕掛け人となった泉鏡花文学賞。
それに、この年に始まった日本SF大賞の候補打診があったのかもしれません。

しかし、このインタビューでは、こんな思いも漏らしています。

“「でも、同業者が選ぶ賞は欲しくないが、前に小説現代がやっていたような読者賞ならいい。」”

西村が触れているのは『小説現代ゴールデン読者賞』のことです。

この賞は、読者の投票によって決まる賞で、1970年~1975年まで続きました。
受賞者は以下の通りです。

第1回 笹沢佐保『見返り峠の落日』
(推理小説から時代小説に初めて挑戦し、『木枯し紋次郎』の原型となった作品です)

第2回 梶山季之『ケロイド心中』
(被爆と性をテーマにした短編です。発表当時には各所から猛抗議を受けたようですが、彼自身、広島に深い縁があり、原爆被災資料の刊行に資金援助をした人物でもありました)

第3回 松本清張『留守宅の事件』
(短編集『証明』に収められている一編です。ここではネタバレはしません)

第4回 野坂昭如『砂絵呪縛後日怪談』
(本人のイメージと異なる江戸を舞台にした時代小説です。執筆にあたって柴田錬三郎から「江戸の夜は暗かった。女のほうが強かった」という短いアドバイスをもらって書き上げたというエピソードがあります)

第5回 池波正太郎『殺しの四人』
(『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶ人気シリーズ『仕掛人 藤枝梅安』の一編で、「おんなごろし」に次ぐ梅安シリーズの2作目です)

第6回 井上ひさしいとしのブリジット・ボルドー
(東北の旧家で発見された1800年代中盤のボルドーワインを巡る騒動を描いています。笑い・ユーモアはすごいと思います)

こうやってリストアップしてみると、小説の読者は、いい小説を選んでいるなとつくづく思います。

1977年度の年収は1億5,000万円。
前年度から更に倍増します。

⇒アマゾンのKindleでは、電子書籍のキャンペーン実施中で、西村寿行作品が270円から読めます。

⇒西村寿行の勢いは留まることを知りません。更に読者の人気を得ていきます、そしてついに・・・
その3に続きます。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その3