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【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

伝奇バイオレンス・アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

売れないルポライター

ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。
初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。
電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

と頼むのだ。

現在の『○○Walker』や『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。

取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての仕事をこなしていった。

菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。
経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。

早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”
(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”
(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター (電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

菊地にはないネットワークと営業力があった。

しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。
原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。
早く大量の記事を短時間で書き上げる。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。
一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。
この具体的に書くということは、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。

翻訳家志望

だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。
1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。
第1期生は約250名。

同期に、漫画家では高橋留美子・たなか亜希夫・山本貴嗣。
漫画原作者では、狩撫麻礼・工藤かずや・早乙女正幸。
また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンエームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。
しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

この頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。
「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。
ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。
このグラビアは一部の好事家に注目された。

そして、菊地は『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。
この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

菊地は作家になることを目指していた。
しかし、“「自信がなかった」”、と語っている。

山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。
1974年に『神狩り』で作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。
打ちのめされるのが目に見えていたからだという。
結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

だがこれは、菊地に限ったことではない。
『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。
銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。

その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)
※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)
※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

そして、この頃、通っていた伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。
彼女にはふたりの兄がいた。長兄がニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年である出版社の記者だった。
菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。
この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。
船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。
1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。
菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

1982年9月30日『魔界都市〈新宿〉』で作家デビュー

フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。
朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」と声が掛かったのだ。
菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。
理由は、「長すぎる」。

その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。
自負はあったが、没にされたことで一時自信を失ったのではないだろうか。

しかし、映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。
この小説が出版されるまでには、紆余曲折もあった。

菊地の持ち味であるエロスとホラー要素が、「ソノラマ文庫の読者と合っていない」と編集者から指摘を受け、数箇所を削除しなければならなかった。
菊地には不愉快な出来事だっただろう。
しかし、菊地は指摘を受けた箇所を直して作品を完成させた。夫人の励ましもあったのだろう。原稿の清書では、半分を夫人がおこなった。

夫婦が一体となって完成させたといってもさしつかえない作品『魔界都市〈新宿〉』は1982年9月30日に発売となった。

菊地秀行33歳での作家デビュー。

初版は1万3000部。

9月25日生まれの菊地にとっては5日遅れではあったが、最高のバースデープレゼントだったのではないだろうか。

1ヶ月後には1万部の増刷が決まる。
当時のソノラマ文庫で増刷がかかっていたのは、『機動戦士ガンダム』のノベライズと高千穂遙の『クラッシャージョウ』くらいだった。

ソノラマ文庫編集部にとって、読者の反応は意外なことだったのではないか。

菊地は、ソノラマ文庫を戦場に次なる作品を放っていくことになる。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第3回に続きます。

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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人物伝

エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんのプロフィール

はる坊です。
今回は、エニックス2代目社長を務め、スクウェア・エニックス・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんについて触れたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。

まずは、本多圭司さんのプロフィールです。
1957年(昭和32年)12月29日福岡県生まれ。山羊座。
現在、61歳です。

◎学歴
1980年(昭和55年) 3月 大阪市立大学工学部建築学科卒業。
1982年(昭和57年) 3月 早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了

◎職歴
1982年(昭和57年) 4月 株式会社乃村工藝社 入社
1987年(昭和62年)10月 エニックス 入社
1990年(平成2年)  7月 エニックスアメリカコーポレーション駐在(現地責任者)
1994年(平成6年)  4月 エニックス 商品企画本部 ソフトウェア企画部長
1998年(平成10年) 6月 エニックス 取締役 商品企画本部 ソフトウェア企画部長
2000年(平成12年)10月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO
2001年(平成13年) 4月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO兼出版事業部長 
2002年(平成14年) 9月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO兼ソフトウェア事業部長
2003年(平成15年) 4月 スクウェア・エニックス 代表取締役副社長
2004年(平成16年) 6月 スクウェア・エニックス 取締役副社長(中国・上海駐在)
2005年(平成17年) 1月 SQUARE ENIX(China)CO.LTD 董事長(代表取締役に相当)
2006年(平成18年) 4月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役副社長
2008年(平成20年)10月 スクウェア・エニックス 代表取締役副社長
2009年(平成21年)10月 SQUARE ENIX OF AMERICA HOLDINGS, INC.取締役
2013年(平成25年) 4月 スクウェア・エニックス 取締役
2013年(平成25年) 6月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役
2018年(平成30年) 3月 スクウェア・エニックス 取締役を退任
2018年(平成30年) 6月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役を退任

◎ご家族や趣味
ご家族は奥さまと3人のお嬢様。
趣味は仕事と家庭。
「この2つから得られる満足感に人生の豊かさを感じます」
とコメントされています。

ゴルフとテニスを嗜み、音楽もバッハ、キース・ジャレット、ビートルズとクラシック、ジャズ、ロックと垣根を超えて好きなモノを聞くという方です。

愛読書にしているのは加藤周一さんの『羊のうた』。これは名著ですね。

座右の銘は「転石、苔生せず」
-物事についてのんびり構えず、スピーディに対処するという意味に独自で解釈されています。

エニックス入社までの本多圭司さんについて

早稲田大学大学院を修了した本多さんは、乃村工藝社に入社します。
乃村工藝社は、百貨店等の商業施設、美術館、博物館等の展示施設、万国博覧会等のイベント展示の企画、デザイン、設計・制作施工を手掛けている企業で、筒井康隆さんがサラリーマン生活を過ごした企業としても知られています。

本多さんは乃村工藝社で、文化施設のデザイン・プランニングを担当します。
そして、30歳を迎えようとしているあるとき、仕事である企業の社長と話す機会を得ます。
その折に、“「本多さん、経営もデザインなんですよ」
という言葉を掛けられます。
その言葉は、本多さんのなかに残りました。

仕事に不満があったわけではありませんでしたが、新しい仕事をしてみたいという思いが強くなり、乃村工藝社を退職。ヨーロッパ放浪の旅に出ます。途中で、パスポート盗難の被害にも遭いますが、放浪の旅を満喫して帰国します。

帰国した本多さんは仕事を探すことにします。
「小さい会社でもいい、自分の力が発揮できるところに」と求人雑誌を開いたところ、目に入ったのがエニックスの求人でした。その求人広告は、他の企業と違っていて、手作り感に溢れていたところが特徴的で、本多さんは興味を覚えました。

早速、アポイントメントを取り、当時のエニックス本社に向かうと、そこは西新宿の雑居ビル。
そのなかのエニックスを訪ねると、本多さんが声を掛けるより早く、小太りのおじさんが段ボール箱を抱えて出てきました。
「ウチの会社に何か用なの?」
「面接にまいりました本多ですが」
「ああそう。じゃあ入って」

面接担当者は、その小太りのおじさんでした。
社長の福嶋康博さんです。

「最近、何してたの?」
「ヨーロッパをぶらぶらしてました」
「いいねえ」

話は本多さんのヨーロッパ放浪に始まり、若き福嶋康博さんのアメリカ・インド・東南アジア放浪の話に移り、一向に面接らしい話に移りませんでした。

「OK。じゃあ一緒にやろう」
結局、そのまま本多さんの採用が決まりました。

エニックス入社後の本多圭司さん

本多圭司さんはエニックスに入社するまで、ファミコンの存在は知っていましたが、『ドラゴンクエスト』のことは知りませんでした。
そんな本多さんは、千田幸信さんの元でドラクエグッズの商品企画を担当します。
そして、入社3年弱が過ぎた頃、アメリカの現地法人であるエニックスアメリカコーポレーション現地責任者となります。

実力主義のエニックス・福嶋康博イズムでは珍しくもないことかもしれませんが、入社してまだ3年に満たない、30歳過ぎの人間を現地法人の責任者にするとは、かなり大胆な人事といえます。
それだけ、福嶋さんは本多さんを買っていたともいえると思います。

アメリカ現地法人に渡った本多さんは、忘れられない経験をすることになります。
ある玩具卸問屋がいきなり倒産してしまい、本多さんは売掛金の回収に走りますが、結果としてほとんど売掛金の回収をすることができませんでした。
しかし、同じゲーム業界の企業で、完璧に売掛金の回収をおこなっていた企業がありました。
NOA。ニンテンドウ・オブ・アメリカです。
本多さんは「さすが任天堂・・・」と脅威を感じたといいます。

このようにシビアなビジネス体験をしたアメリカでしたが、後年スクウェア・エニックスとして合併するスクウェアの鈴木尚さんも、時を同じくしてアメリカの現地法人にいた為、ふたりは遊び友達になり楽しい時間も過ごしたようです。

ミリオンセラーソフトを目指す

帰国した本多さんは、1994年4月にソフトウェア企画部長に就任しました。
そして、千田幸信さんに次いで〝アシスタント・プロデューサー〟として『ドラゴンクエスト』シリーズにも関わりますが、目指したのは、ドラクエに続く柱を作ることでした。

つまりは、ミリオンセラーとなるゲームソフトを作ること。

現在、スクウェア・エニックス取締役 執行役員を務め『ドラゴンクエストX』『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』でプロデューサーを務め、『ニーア オートマタ』で世界的に大ヒットを飛ばした齊藤陽介さんをソフトウェア企画に引き入れたのは本多さんの大きな功績でしょう。

結果、本多さんはミリオンセラーを作ることが出来たか?
これは否です。
最高のヒットは、『スターオーシャン セカンドストーリー』でしたが、国内のみでは売上は70数万本。
しかし、『バスト ア ムーブ』(発売本数 約40万本)を生み出すなど、ドラクエシリーズとクインテット開発のゲームしかなかったエニックスのゲーム企画部門を大きく発展させた功績は非常に大きいと思います。

取締役、そしてエニックス2代目社長に就任

1998年6月 本多圭司さんは、エニックス 取締役 ソフトウェア企画部長に就任します。
ちょうど40歳。
エニックスに入社して10年半。早い出世であることは間違いありません。

そして、2000年10月に福嶋康博さんのあとを継いで、エニックス2代目社長に就任します。
本多さんが代表取締役社長兼COOとなり既存の事業を担当。
福嶋康博さんは代表取締役会長兼CEOとなり新規事業の企画に専念します。
本多さんは、まだ42歳の若さでした。

エニックスの社長交代は、内外で驚きをもって迎えられたようですが、社長交代から5ヶ月前に福嶋さんと本多さんが共に関西出張に出掛けた際に、福嶋さんが「ブロードバンド事業をやりたい」と言いだし、「面白そうじゃないですか」と返した本多さんに、「いまのままじゃ時間が取れない。だから本多君が社長やって」と福嶋さんが伝え、本多さんがそれを承諾したのが実際のところです。

〝エニックスお家騒動〟勃発

本多圭司さんの社長就任から半年が経過した2001年春、エニックスに激震が走ります。
出版事業部門の実質的創設者で、取締役 出版事業部長の保坂嘉弘氏をはじめ、出版事業部の幹部数名がエニックスを退社して、新会社マッグガーデンを設立して、同時にエニックスのコミック誌で活動していた漫画家を引き抜いたのです。
エニックスの出版部門(コミックス部門)には大ダメージでした。

結局、当時、取締役 営業本部 営業部長だった田口浩司さんが和解条項をとりまとめますが、2001年5月から9月までは、出版事業部長を社長である本多圭司さんが担当することになります。(以後は田口浩司さんにバトンタッチ)

これは経営者・本多圭司にとって大きなショックだったと思います。

スクウェア・エニックス誕生

2003年4月、スクウェアを吸収合併する形で、スクウェア・エニックスが誕生しました。
代表取締役会長CEOに福嶋康博さん
代表取締役社長COOに和田洋一さん
代表取締役副社長に本多圭司さん
取締役に鈴木尚さん・千田幸信さん・成毛眞さんが就任します。

この合併について、和田洋一社長と実質的に話を進めたのが本多圭司さんでした。
本多さんから報告を受けた福嶋さんが和田社長の経営能力を評価して、合併へOKサインを出しました。
合併については、旧スクウェアの株式を50数%保有していたオーナーの宮本雅史さんから、スクウェア株式への評価が低いとして、
エニックス1:0.81スクウェアから、
エニックス1:0.85スクウェアに株式の評価があらためられるという一幕もありましたが、合併は無事におこなわれました。

スクウェア・エニックス時代の本多圭司さん

当初、代表取締役副社長に就いた本多圭司さんでしたが、仕事を終えたのちに立ち寄った新宿の居酒屋で和田洋一社長に「現場に戻してください」と直訴して、代表権を返上。
上海に駐在して、中国事業全般を担当することになります。
中国事業においては、現地法人の代表も兼ねて利益を出し続けました。
スクウェア・エニックスホールディングスが誕生して持株会社化されてからも取締役副社長を務め、子会社となったスクウェア・エニックスでは代表取締役副社長を務めます。

しかし、2013年にはスクウェア・エニックス全体の業績悪化の為、取締役兼業務執行担当に降格。
2018年4月には、スクウェア・エニックス取締役を退任。
同年6月にはスクウェア・エニックスホールディングス取締役も退任されました。

旧エニックスに入社されてから30年。
そして、旧エニックスから役員として20年間、本当にお疲れさまでしたと申し上げたいです。

これだけの実績をお持ちの方ですので、どこかのゲーム関連企業の社外取締役などを務められるのではないかと思います。

本多圭司さんの年収は?

前述しましたが、本多圭司さんは2018年6月をもって、スクウェア・エニックスホールディングス取締役を退任されました。
本多さんが2017年度に受け取っておられた役員報酬は、金銭報酬として8900万円+ストックオプションとして1500万円の1億400万円でした。
2016年以前は、年間報酬1億円以上の取締役として公示されたことはありませんでしたので、最高でも年収8~9000万円だったのではないかと思います。

ドラクエを遊び尽くそう

【ドラクエを遊び尽くせ!】3DSとDSがあれば、ドラクエシリーズが全作品が遊べるんです!!


はる坊です。

さて、『ドラゴンクエスト』、通称“ドラクエ”
ドラクエは日本人にとって最も人気のあるゲームソフトの一つですね。
現にドラクエⅪが発売された2017年当初、私の周りでもかなりの人がプレイをしていました。
30、40、50代の普段ゲームをしない人達も「ドラクエだけは別!」と言って、プレイをしていました。

それだけ、ドラクエというゲームは日本国民に愛されているわけですね。

そんな幅広い世代から愛されているドラクエシリーズですが、なんと3DS一つあれば、シリーズ全作品をプレイすることができます。
そして、この記事ではドラクエの各作品を振り返りながら紹介していきたいと思います。

また、シリーズ作品以外にもモンスターズなどの派生作品も紹介します。
まだ遊んでいない作品がある人は是非チェックしてみてください。

ドラゴンクエストⅠ~Ⅲ

1980年代にドラゴンクエストⅠ~Ⅲはファミコンで発売されました。

これらの作品は、1986年・1987年・1988年と毎年連続での発売となりました。

ロトシリーズの三部作はDS/3DSのカートリッジでプレイすることはできませんが、ニンテンドーeショップからのダウンロード版でのみプレイすることができます。

ドラクエ1では一人の勇者のみ、2では3人の仲間での冒険、3では4人までの仲間、そして、職業に応じて自分好みのパーティを組むことができる、といった具合にシリーズが進むにつれてシステムも向上していきました。
りゅうおう、ハーゴン、シドー、バラモス、ゾーマと懐かしの魔王たちを倒すことができるのもこれらの作品です。

ドラゴンクエストⅣ~Ⅵ


天空シリーズと言われているドラクエⅣ~Ⅵは、DS用のソフトでリメイクとして発売されています。

DS用ソフトは3DSと互換性があるので、3DSを持っていればこれらの作品をプレイすることが可能です。

初めてプレイしたドラクエが天空シリーズという人も多いと思います。

ドラクエⅣは全五章のオムニバス形式で、章ごとにキャラクターが変わり物語が進行されていきます。
一章ではライアン、二章ではアリーナ、五章で主人公が登場と言った具合になります。

ドラクエⅤは親子三世代に渡る壮大なストーリーです。
ビアンカ、フローラのいずれかを選択するという、プレイヤーに大きな選択肢を与える作品でもあります。

ドラクエⅥでは現実世界と夢の世界、二つの大きなワールドマップが舞台となります。
20種類の転職とモンスターを仲間にできるシステムから、やり込み度がかなり高い作品になります。

ドラゴンクエストⅦ~Ⅺ


ドラクエⅦはシリーズで初めてプレイステーションで発売された作品です。

今までのファミコン、スーパーファミコンのドット絵とは異なりポリゴンでキャラクターたちが表現され始めました。

ドラクエⅧがPS2で完全3Dで発売されましたが、次のⅨではDS用ソフトとして発売され再びドット絵に戻りました。

シリーズ初となるオンライン専用ソフトとして発売されたⅩは3DSだけでなく、wiiu、PS4と幅広いハード機で遊ぶことができます。

最後に2017年に発売されたドラクエⅪは3DSとPS4での同時発売。
ロトシリーズの原点となる物語でもある本作は、ゲームバランス、ストーリーなどの完成度が高く、国内、海外問わず高い評価を得ています。

派生作品:モンスターシリーズ

ナンバリングシリーズの次に人気のあるシリーズはモンスターシリーズであると私は考えています。
人を戦闘させるのではなく、モンスターを戦闘させていくこちらのシリーズには、仲間全員のレベルが最大になりやることがなくなってしまうということが発生しません。

なぜなら、ナンバリングシリーズのように限られたキャラクター達を育てるのではなく、配合によって生まれ変わる無限のモンスターたちを育てられるからです。
そのため、終わりのないドラゴンクエストということができます。

3DSでは、ゲームボーイで発売されていたテリーのワンダーランド、イルとルカの冒険のリメイクとジョーカーの三作品を遊ぶことができます。
基本的なシステムはどの作品も同じですが、個人的にはイルとルカの冒険がおすすめです。

派生作品:スライムもりもりシリーズ

ドラクエではおなじみのモンスターキャラ「スライム」が主人公であるゲーム。
ドラクエ作品の中では、珍しくアクションゲームとなっています。
全体的に子ども向けという印象ですが、特に不満に思う部分はなく、アクションゲームとしては十分楽しめます。
2011年以降シリーズの発売が止まってしまっているのが少し残念です。
平均売上本数が35万本と、ドラクエシリーズにしては少ないことが原因でしょうか?

人物伝

【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる①

はる坊です。

渋谷区初台に大豪邸を構えるスクウェア・エニックス創業者・福嶋康博さんとは?

東京の高級住宅街といえばどこが思い浮かびますか?
大昔は、田園調布。一昔前は成城。

しかし、現在の富裕層は都心に住まうようになりました。
特に渋谷区や港区。

渋谷区なら高級住宅地として、まず、松濤や広尾が有名ですが、初台(はつだい)にも大豪邸があります。
ロッテの重光武雄氏や戸田建設の故・戸田順之助氏。

そして、スクウェア・エニックスの創業者で名誉会長の福嶋康博さんの邸宅です。
初台の福嶋邸は敷地面積は約1050坪。

地上2階・地下1階。
加えて、別にバーベキューハウスもある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。

緑に囲まれて、道路から邸宅の様子はうかがい知ることができませんが、建物の外壁は総タイル張りの非常に立派なものです。

法人所有ではなく、福嶋康博さんご夫妻が個人名義で所有されている自宅ですが、土地や建物を合わせると、一体何十億円の価値があるでしょう。

それでは、福嶋さんが一代で、どうやってこの御殿を築き上げるまでになったのかをみていきましょう。

スクウェア・エニックス創業者・名誉会長 福嶋康博さんの足跡

1947年北海道旭川市に生まれる。

福嶋康博さんは1947年8月18日に北海道旭川市に生まれました。星座は獅子座・血液型はA型。
当時、父親は旭川市内で映画館と質屋を経営していました。

ところが、この映画館が火事になり全焼。焼け残った自宅を改装して父母は食堂を始めます。
このときに福嶋さんは初めて〝商売〟を経験します。全焼した映画館に落ちていた紙芝居の道具を拾って、紙芝居師のまねをして近所の子どもたちに物語を聞かせたのです。子どもひとりにつき5円のお金を得ました。

また、近所で火事があったときは、焼け跡に落ちていた金属を拾い集めて、業者に売りました。これは子どもにしてはいいお金になったと福嶋さん自身が述懐しています。

しかし、プライベートでは両親が離婚して、父親は札幌に出て行き、母親が食堂を切り盛りします。

福嶋さんが“「母親が寝ているところを見たことがない」”くらい、母親は働き者だったようです。

中学校は、地元の旭川市立常盤中学校に進みますが、勉強はあまり得意ではなかったようです。しかし、高校受験に際して、このままでは希望校の合格が危ういことを担任の教師から教えられると、自分で勉強のスケジュール表を作り勉強に励みます。

元々、数学だけは得意だったこともあり、無事に北海道立旭川工業高等学校建築科へ進学します。

旭川工業高校入学後は、まずはラグビー部に入部しますが、3ヶ月で退部。
入部した理由が、〝試合の日には学校を休めるから〟であったので、ラグビー自体にはあまり興味がなかったのかもしれません。
しかし、恋愛も経験するなど、充実した高校時代を送ったようです。

高校2年の夏ごろ、離れて暮らす札幌の父親から連絡がありました。「おまえ、大学へ行け」というものでした。福嶋さんは大学進学について、あまり考えていませんでしたが、反射的に「うん」と答えてしまいます。

しかしここで2つの壁にぶち当たります。まず、工業高校では大学受験に必要な科目の授業ではやっていませんでした。

そこで福嶋さんは堂々と授業中に大学受験の勉強を始めます。当然、教師からは睨まれて職員室に呼び出されます。

しかし、福嶋さんはひるみませんでした。“「ぼくの人生にとってここで、学校の勉強するのが大事か、受験勉強の方が大事か。大学受験です」”と教師に言い放って授業中に受験勉強を続けます。

もうひとつは、先に大学に進学していた兄の一博さんから「親父はたいして仕送りをしてくれないぞ」と聞かされたことです。福嶋さんは受験勉強の傍らで、下級生の家庭教師をしてお金を貯めながら、残りの高校生活を過ごします。

18歳で上京、日本大学理工学部建築学科へ進学

仕送りが足りない分は、アルバイトではなく自分の得意な事で稼ぐ

1966年(昭和41年)4月、福嶋さんは晴れて日本大学理工学部建築学科に合格して上京します。なぜ、建築学科だったかといえば、工業高校の建築科だったからで、あまり深く考えた結果ではありませんでした。

事実、福嶋さんの仕送りは、他の学生の3分の1ほどしかありませんでした。アパートの家賃が6000円なのに仕送りは5000円程度。

しかし、福嶋さんは足りない分を普通のアルバイトで稼ごうとは考えませんでした。

自分の得意な事で稼ごうとしたのです。

建築学科には図学という講義がありました。
福嶋さんは友達の分も作品を作っては、それを売って稼ぎました。

そして、麻雀です。福嶋さんは中学時代から麻雀に親しんでいましたが、メキメキと腕を上げて、大学生にしてかなりの強者でした。
友達と麻雀をするといつも福嶋さんの大勝。

そうすると、友達が一緒に麻雀をやってくれないので、福嶋さんの勝ち点を半分にする特別ルールを条件に、友人たちと麻雀卓を囲み、また、雀荘に行っては、社会人や他の学生相手に稼ぎます。

麻雀で稼いだお金で問屋へ行き、コンドームを仕入れて団地へ販売に行ったり、ストッキングを仕入れて美容院に売り込みに行ったりもしました。
当時から行動力には目を見張るものがあったようです。

1970年前後は学生運動真っ盛り。

特に1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)にかけては、日大紛争と呼ばれる大規模な学生運動があり、日本大学は講義どころではなくなりました。卒業式も行われないほどの激しさでした。

大学も3年生になると、周囲は就職準備に入ります。しかし、福嶋さんには疑問がありました。

それは「建築学科を出たからといって、建築会社に入るしか道はないのか?」というものでした。

建築学科の友達に聞いて回ると、建築学科=建築会社・設計会社へ就職というのが当然じゃないかという答えでしたが、福嶋さんはその答えはすんなりと馴染めないものでした。
実のところ、福嶋さんは構造計算が得意でしたが、少しも好きではなかったのです。

(構造計算を一生続けていって何になる。そのまま人生が終わるのは嫌だ。自分がやりたいことと何かが違う)

おぼろげに(事業をやってみたい)と考えてはいましたが、アテがあるわけでもありませんでした。

結局、福嶋さんは就職をすることなく1970年(昭和45年)3月日本大学理工学部建築学科を卒業しました。

就職をしたことがない!いきなり起業

中野ブロードウェイPRフリーペーパー構想

日本大学を卒業した福嶋さんは、当時付き合っていた女性の元に身を寄せます。

そこで、福嶋さんはある事業を思いつきます。

当時、よく行っていた中野ブロードウェイは、建物の造りが入り組んで複雑な上に小さな店がほとんどでわかりにくかったのです。

当時の中野ブロードウェイは地下1階から地上4階まで、日用雑貨・ファッション・レストラン等が雑然と並んでいる場所でした。

エスカレーターの作りも特殊で、2階を素通りして3階へ行くというもので、慣れないと方向感覚が狂って目的とはまったく違う場所に出てしまうことがしばしばでした。

初めて行ったときには、どこにどんな店があるか分からず、それからも買物へ行く度に、目的の店とは違うところへ出てしまったり。

福嶋さんは、いつも「何とかならないものかなあ」と考えていました。

オーディオ/AV機器の新品・中古販売【フジヤエービック】



あるとき、ぼんやりと、わかりやすい案内図があればいいんだよ、という考えが頭をよぎったとき、福嶋さんは「これは事業になる」と直感しました。

わかりやすい案内図を載せた中野ブロードウェイのPR雑誌を作ればいいじゃないか。

中野ブロードウェイを中心とした住宅地に5万部程度のPR誌を無料で毎月配布するという事業アイデアでした。

各店をPRする雑誌を発行すれば、儲かるんじゃないか!

現在でいうところのフリーペーパー事業です。

早速、福嶋さんは、一緒に暮らしていた彼女にブロードウェイのイラストマップを描いてもらい、
〝株式会社 ジャポン・アノンス 福嶋康博〟という名刺を作って、各階の商店会会長と交渉を開始します。

彼女に描いてもらったイラストマップと簡単な見本を持ってプレゼンテーションをしてみると、好意的な反応を示してきました。

福嶋さんが目を付けた通り、建物が入り組んでいること、小さな店が多くて、それぞれの店がわかりにくいことは、中野ブロードウェイの商店主たちも気にしていたことでした。

ただ、ネックがありました。

福嶋さんは、普通の会社が5万部程度のPR誌を出すとすれば、当時で月に350万円ぐらいかかると概算で考えていました。商店会会長たちのあいだでは、この金額が高いのではないかと二の足を踏むことになったのです。

しかし、福嶋さんはこの金額を譲るつもりはありませんでした。金額を巡って押し問答を繰り返していると、耳寄りな情報が入りました。

中野ブロードウェイを建てた不動産会社の社長が社会福祉活動に熱心だという話でした。

「(社会福祉とはちょっと違うかもしれないが、PR誌の発行は地域社会の為になる仕事だ)」と思った福嶋さんは、早速、その社長に事業プランをプレゼンしました。すると、この社長は毎月50万円出すことを約束してくれたのです。

※これは私の推測ですが、この不動産会社社長は、東京コープ(東京コープ販売)社長の宮田慶三郎ではないかと思います。1906年1月7日生まれ。
旧制中学校から1931年に大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)を卒業。その後、歯科冶金の研究をきっかけに、合金の魅力に取り憑かれて、「ミヤタ・ロイ」と呼ばれる超高質合金を開発。

その後、病気療養中に大脳生理学の研究により1960年に医学博士号を取得。学会発表の際にワシントンを訪れ、アメリカに比べて日本の建築物が貧弱であることを知って、不動産事業を始めた経験を持つ異色の経営者です。

中野ブロードウェイ開発を最後に不動産事業からは身を引き、教育者として朝日大学と明海大学を創立しました。明海大学に不動産学部があるのは、宮田慶三郎の意思でしょう。
1997年7月に亡くなっています。

宮田慶三郎が、福嶋さんと同じ北海道出身だったことや福嶋さんが日大理工学部建築学科出身だったことも、若き福嶋さんの提案を受け入れ援助する約束をする一因になったのではないかと思います。

月々50万円の協賛金を得られることになり、金銭的なネックも消え、PR誌作りについて商店会会長たちの納得を得た福嶋さんは、いよいよ発刊準備作業に入ります。
編集作業を進めながら、福嶋さんはここが成功したら、今度は中央線の違う主要駅で挑戦しようと、夢を広げていきました。
しかし、事業を開始する段になって、福嶋さんは商店街の組合長から呼び出されます。

「おまえの会社は、登記されていないじゃないか!どういうことだ?社長は誰だ?」
「えっ、登記ってなんですか? 会社は僕ひとりでやってますが・・・」

福嶋さんは会社を登記することを知りませんでした。
名刺に社名と名前を刷ればそれでいいと思っていたのです。

結局、会社を登記していなかったことは、中野ブロードウェイ側からの信用の失墜を招き、この事業は開始直前になって頓挫してしまいました。

スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる②

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