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上場企業役員

【2024年最新情報】 上場企業社長・役員一覧 専門学校出身者編①

最終学歴が専門学校出身の上場企業役員一覧①

はる坊です。

今回は、最終学歴が専門学校の上場企業役員をまとめました。

今回は、その1回目となります。

データの見方

銘柄コード・銘柄名(企業名)・役職・氏名・出身校の順です。

代表取締役から社外取締役。

監査役のデータです。

東証プライム・スタンダード・グロース各市場

名証プレミア・メイン・ネクスト各市場をカバーしています。

情報ソース元は、各企業のIR情報・各紙の新社長情報・専門誌の情報です。

【建設業】
1430 ファーストコーポレーション
代表取締役社長 中村 利秋 東京デザイナー学院中退

1438 岐阜農園
常務取締役 小栗 栄一 東海ビジネス専門学校卒業

1439 安江工務店
常務取締役 新田 義正 HAL名古屋卒業

1444 ニッソウ
取締役 湯浅 一彦 工学院大学専門学校卒業

1449 FUJIジャパン 
取締役 樋口 俊一 札幌理工学院専門学校卒業

【サービス業】
1717 明豊ファシリティワークス
常務取締役 大島 和男 専門学校東京CPA会計学院卒業

【建設業】
1758 太洋基礎工業
常務取締役 土屋 敦雄 東海工業専門学校卒業

1764 工藤建設
常務取締役 田崎 功 北九州YMCA卒業

1771 日本乾溜工業
取締役 今田 暢也 長崎県立建設大学校土木科卒業

1771 日本乾溜工業
取締役 荒木 強 KJC専門学院卒業

1788 三東工業社
取締役 専務執行役員 中村 幸治 修成建設専門学校卒業

1795 マサル
取締役 高橋 聡一郎 日本工学院専門学校卒業

1795 マサル
取締役 蛭子屋 新一 日本電子専門学校卒業

1827 ナカノフドー建設
社外取締役 小高 光晴 東京情報ビジネス専門学校卒業

1841 サンユー建設
常務取締役 清本 孝敏 東京デザイン専門学校卒業

1841 サンユー建設
取締役 下瀬川 泰 大原簿記専門学校卒業

1873 日本ハウスホールディングス
代表取締役社長 真田 和典 読売九州理工専門学校卒業

【サービス業】
2122 インタースペース
取締役 岩渕 啓太 専門学校日本ホテルスクール卒業

2137 光ハイツ・ヴェラス
常勤監査役 若林 弘子 北海道医師会看護専門学校卒業

2150 ケアネット
社外常勤監査役 高橋 幸定 千代田電算機学院卒業

2180 サニーサイドアップグループ
取締役 久貝 真次 沖縄ビジネス外語学院卒業

【食料品業】
2222 寿スピリッツ
常務取締役 松本 真司 大原簿記専門学校卒業

【情報・通信業】
2307 クロスキャット
取締役 副社長執行役員 山根 光則 広島電子専門学校卒業

2317 システナ
代表取締役会長 逸見 愛親 千代田電算機学院卒業

2326 デジタルアーツ
代表取締役社長 道具 登志夫 東京商科学院専門学校中退

2335 キューブシステム
代表取締役会長 崎山 收 日本電子工学院卒業

2335 キューブシステム
取締役 内田 敏雄 日本電子工学院卒業

2349 エヌアイデイ
常務取締役 盛光 敏昭 コンピュータ教育学院卒業

【サービス業】
2435 シダー
代表取締役社長 座小田 孝安 国立療養所福岡東病院附属リハビリテーション学院卒業

2435 シダー
社外取締役 中村 儀成 国立善通寺病院附属リハビリテーション学院卒業

2435 シダー
常勤監査役 二宮 さおり 国立療養所福岡東病院附属リハビリテーション学院卒業

2488 JTP
取締役副社長 為田 光昭 専門学校静岡スクールオブビジネス卒業

2492 インフォマート
取締役副会長 長濱 修 九州電子計算機専門学校卒業

【小売業】
2687 シー・ヴイ・エス・ベイエリア
社外取締役 高橋 尚人 東放学園専門学校卒業

2754 東葛ホールディングス
代表取締役社長 石塚 俊之 ホンダインターナショナルテクニカルスクール卒業

2754 東葛ホールディングス
取締役 森田 誉 新堀ビジネス専門学校卒業

2754 東葛ホールディングス
取締役 高橋 輝 大原簿記専門学校卒業

2754 東葛ホールディングス
取締役 監査等委員 吉井 徹 東京デザイナー学院卒業

2776 新都ホールディングス 
代表取締役社長 鄧 明輝 東京外国語学院卒業

2788 アップルインターナショナル
代表取締役 小林 正示 中部日本自動車整備専門学校卒業

【食料品業】
2816 ダイショー
常務取締役 坂田 恵輔 福岡経理専門学校卒業

2872 セイヒョー
取締役 宮島 亜佐夫 新潟商科電算専門学校卒業

2882 イートアンドホールディングス
取締役 監査等委員 椎木 孝 進栄経理専門学校卒業

2901 石垣食品
代表取締役社長 小西 一幸 大原簿記専門学校卒業

2916 仙波糖化工業
常務取締役 前田 立志 コンピュータ日本学院専門学校卒業

2934 ジェイフロンティア
取締役 執行役員 鈴木 信二 大原簿記専門学校卒業

【小売業】
3028 アルペン
取締役副社長 執行役員 村瀬 一夫 日本ビジネス専門学校卒業

3038 神戸物産
取締役 浅見 一夫 兵庫栄養専門学校卒業

【情報・通信業】
3042 セキュアヴェイル
代表取締役社長 米今 政臣 東京商科学院専門学校卒業

3042 セキュアヴェイル
取締役 常務執行役員 白石 達也 京都コンピュータ学院卒業

3042 セキュアヴェイル
取締役 執行役員 大政 崇志 愛媛電子ビジネス専門学校卒業

3053 ペッパーフードサービス 
取締役 猿山 博人 日本電子専門学校中退

3057 ゼットン
取締役 常勤監査等委員 木村 治 YMCA国際ホテル専門学校卒業

3073 DDホールディングス
常務取締役 矢口 健一 武蔵野調理師専門学校卒業

【卸売業】
3180 ビューティガレージ
取締役 供田 修一 石川美容専門学校卒業

3180 ビューティガレージ
取締役 野村 貴久 石川経営専門学校卒業

【小売業】
3181 買取王国
取締役 監査等委員 松岡 保富 東京デザイナー学院卒業

【卸売業】
3183 ウイン・パートナーズ
取締役 執行役員 三田上 浩美 東京電子専門学校卒業

【小売業】
3184 ICDAホールディングス
代表取締役副社長 向井 俊樹 ホンダ学園卒業

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

よろしければ、下記もご覧くださいませ。

今後もデータを更新してまいりますので、よろしくお願いいたします。

はる坊拝

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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ゲーム業界昔話

【懐かしい1993年1月】株式上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成一覧

はる坊です。
今回は1993年にゲーム業界で上場していたゲーム会社の会社情報をご紹介したいと思います。

1993年1月 任天堂 役員情報

東京・大阪1部上場・京都上場
売上高:5075億円(1992年3月期)
営業利益:1403億6400万円(1992年3月期)
経常利益:1562億4700万円(1992年3月期)
従業員:890名(平均年齢35.8歳)
平均給与:352,675円
初任給:191,000円
30歳モデル賃金:315,000円

役員構成
社長:山内溥
常務:谷本克典 祖谷登希雄
取締役:福田博之 辻昭男 大西康博 荒川實
常勤監査役:近藤良明
監査役:稲葉實 澤井末造

株主構成:
山内溥 11.0%
京都銀行4.9%
大和銀行4.9%
東海銀行4.9%
三和銀行4.9%
東洋信託銀行4.4%
三菱銀行4.4%
中央信託銀行3.2%
住友信託銀行2.7%
日本興業銀行2.0%

1993年1月 コナミ(現・コナミホールディングス)会社情報

上場市場:東京証券取引所第1部・大阪証券取引所第1部上場
資本金:80億9600万円
売上高:470億8000万円(1992年2月期)
営業利益:81億1600万円(1992年2月期)
経常利益:81憶1900万円(1992年2月期)
従業員:641名(平均年齢28.0歳)
平均給与:308,875円
初任給:193,000円
30歳モデル賃金:305,580円

役員構成
会長:上月景正
社長:西村靖雄
専務:上月景彦
常務:藤田昌弘 今井中
取締役:矢野一夫 豊開壮吉 坂本進 五代友和
常勤監査役:井上更明
監査役:成瀬俊昭 森信静治

株主構成:
上月景正     13.6%
上月教育財団   13.4%
有限会社スリーケイ10.0%
住友信託銀行    5.6%
大和銀行 4.9%
さくら銀行 4.9%
あさひ銀行 3.4%
三菱信託銀行 1.4%
東洋信託銀行 1.4%
中央信託銀行 1.1%

1993年1月 カプコン会社情報

上場市場:店頭登録(JASDAQ上場)
資本金:65億6500万円
売上高:354億4500万円(1992年3月期)
営業利益:59億1400万円(1992年3月期)
経常利益:57憶3000万円(1992年3月期)
従業員:705名(平均年齢27.2歳)
平均給与:246,284円
初任給:188,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:辻本憲三
専務:門脇精
常務:中村昌弘 置塩安雄
取締役:大島平治 中山喜仁 岡田光雄 濱田典彦 保木純夫 坂井昭夫 小沢吉郎
常勤監査役:黒田守男 來栖三郎
監査役:阿部幸孝

株主構成:
辻本憲三 41.8%
辻本美之  6.4%
辻本美佐子 6.1%
辻本春弘  6.1%
辻本良三  6.1%
富士銀行  1.8%
住友信託銀行1.6%
三菱銀行  1.5%
自社持株会 0.9%
大橋幸彦  0.9%

1993年1月 エニックス(現・スクウェア・エニックスホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期)
営業利益12億0200万円(1992年3月期)
経常利益18億5200万円(1992年3月期)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円

役員構成
社長:福嶋康博
専務:千田幸信
常務:前川敏雄
取締役:川口貴雄 才藤智宏 蟹江元 上條弘
常勤監査役:舟田正男
監査役:河野先

株主構成:
福嶋康博    46.6%
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子   5.9%
千田幸信    2.2%
三和銀行    1.9%
高野豊     1.8%
川口貴雄    1.8%
東洋信託銀行  1.6%
三菱銀行    1.3%
才藤智宏    0.9%

1993年1月 光栄(現・コーエーテクモホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:70億4100万円
売上高:106億2000万円(1992年3月期)
営業利益36億2200万円(1992年3月期)
経常利益31億3000万円(1992年3月期)
従業員:258名(平均年齢26.9歳)
平均給与:271526円
初任給:189,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:襟川陽一
副社長:襟川恵子
専務:江藤弘之
常務:堀口大典 丸山侑生
取締役:伊従勝 福井清之助 栗野敏和
常勤監査役:井上清栄
監査役:長堀守弘

株主構成:
有限会社 光優  53.2%
襟川陽一     14.8%
襟川恵子     11.8%
横浜銀行     2.7%
住友信託銀行   0.7%
田邊恵造     0.7%
従業員持株会   0.7%
富士銀行     0.6%
中央信託銀行   0.5%
日本BT信託銀行  0.4%

※日本BT信託銀行⇒日本バンカーズ・トラスト信託銀行

※セガ・エンタープライゼス、ナムコ、テクモ、ジャレコはもう少々お待ちください。
旧スクウェアの株式上場は1994年です。

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人物伝

現在は、スクエニHD顧問 ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信さんはもっと評価されるべき

はる坊です。

この2021年2月10日で、任天堂ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストⅢ』の発売から33周年を迎えました。

ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。

それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。

その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。

お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。

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『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。

また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、

「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、「えーっ、と思った」と語られています。

たしかに、真面目でビジネスマンというよりもクリエーター・職人気質の方だと思います。

すぎやまこういちさんとの対談でも、

“「プロデューサー”という響きが、カタカナでなんとなくかっこよさそうな仕事に見えますから、表に出たがる人も多いんじゃないかと思うんですよ。
僕自身はプロデューサーという言葉よりも単なる“担当者”というのが最適じゃないかと思ってますけどね。」”

と語られており、表舞台には立たずに裏方に徹することで、『ドラゴンクエスト』を支えてこられました。

2021年6月 千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役を退任

千田幸信さんは、エニックス創業から、同社の取締役、常務、専務、副会長を務められ、スクウェア・エニックスとなってからも取締役を続投されました。
(こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任)
2008年10月からは持株会社のスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めてこられましたが、2021年6月をもって勇退をされました。

こちらで本多圭司さんについてまとめました。エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサーを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。

千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?

千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。

1950年9月29日岩手県生まれ。血液型はO型。
1972年に東海大学工学部を中退。

奥様はソプラノ歌手の千田知都子さん。
何枚かCDをリリースされており、なかでも2002年にリリースされた『こころのうた』では、『ドラゴンクエスト』関連の曲も歌われています。


ドラゴンクエストⅡの『この道 わが旅』とドラゴンクエストⅦの『哀しみの日々』なのですが、ヴォカリーズ(いわゆるハミングですね。歌詞はなく、さだまさし『北の国から』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』を思い出していただけるとイメージがしやすいかと思います)で歌い上げられています。

また、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。

役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝確率統計論の実践〟と書かれていました。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。

大学中退後は、1974年3月にCISに入社。
1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。

その後、1979年にエニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。

フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの創業に参画して取締役に就任。

このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして、福嶋氏が1974年8月に個人創業され、
翌1975年9月に設立された公団住宅情報誌発行会社である、株式会社営団社募集サービスセンターに1976年から勤められていた古参社員の高野豊氏の3名だけでした。

ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。

エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発

エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。

最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。

当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。
しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。

・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった

・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた

そして、これがいちばん大きな理由でした。

・エニックスが無名会社だったから

社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より)

それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。

千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。

最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。

ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。

依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。

鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。

『ドラゴンクエスト』誕生にも関わった、鳥山明を見いだした名編集者・マシリトこと鳥嶋和彦は現在、白泉社代表取締役会長 兼 生涯ー編集者

そして四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。

中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。

エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。

最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。

審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。

中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。

そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。

このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。

また、エニックスはゲームの作者に対して、ゲームを買切りではなく印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。

中村さんは、上京したての大学生でありながらトヨタ・ソアラを手に入れ、飲食費や遊興代で月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。
代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。

中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。

千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』

堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。

しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。

シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信

ここまでは決まっていました。
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。

音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。

キャラクターデザイン 鳥山明
音楽         すぎやまこういち

このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。

出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。

『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて

堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。

Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。
スケジュールを巡って千田さんは、社長の福嶋康博さんとかなりやりあっていたようですね。

ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。

中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。

そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン   鳥山明
音楽           すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー      千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。

1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。

マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。

千田さんは1990年の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』、

1992年の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、

1995年の『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、

そして1998年の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、プロデューサーを務め続けます。

それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。

この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。

1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、

ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当

とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。

もっとも、ゲームソフト事業においては、『ジャストブリード』のプロデューサーを務めた川口貴雄さんが取締役 ソフトウェア企画部長を務め、出版事業に関しては、同時に保坂嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが。

1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部長となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。

1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。

2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。

2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、
前述しましたように、2019年6月までスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務められました

馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!

1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。

1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、公募価格8,270円に対して上場時の初値は12,000円を付けました。

株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです)

また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入(現在は、都心にある別のタワーマンションにお住まいです)。

エニックス上場による株式の売却益で、千田さんは1991年分の高額納税者(長者番付)では、納税額は7,107万円となっています。

(ちなみに、同年の納税額は、福嶋康博さんが3億2,950万円、堀井雄二さんが2,245万円です)

そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。

馬主となった千田さんは所有馬に「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。

活躍した馬には

「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円

「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円

「バロンカラノテガミ」獲得賞金8936万円

「パブロカラノテガミ」獲得賞金5213万円

「ベルベットスマイル」獲得賞金4994万円

「ベガスカラノテガミ」獲得賞金4877万円

がいます。

中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。

ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの

「バランスオブゲーム」

「アブソリュート」

「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。



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スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務めていた千田幸信さんの役員報酬は年間2900万円

2018年度にスクウェア・エニックス・ホールディングスが取締役である千田幸信さんに支払った役員報酬は2,900万円です。
すでに、事業会社のスクウェア・エニックスの取締役は退任されておられますので、スクウェア・エニックスの役員として受けとられる収入は年収2,900万円です。

2017年で常勤取締役のフィリップ ティモ ロジャースさんと本多圭司さんがホールディングスの役員を外れて、常勤の取締役は、社長の松田洋祐さんと千田さんの2名だけになりましたので、2017年度より報酬がアップしています。

ユニクロの持株会社であるファーストリテイリングは、長らく代表取締役会長兼社長の柳井正さん以外は、取締役を社外取締役で固めていましたが、持株会社の常勤取締役が2人体制というのには、若干の不安があります。

2018年6月に事業会社の専務取締役に橋本真司さん(1958年5月24日生まれ。駒沢大学経済学部卒業。バンダイ入社後は〝橋本名人〟として、ハドソンの高橋名人とともにファミコンブーム時に名を馳せ、その後、独立してソリッド(コブラチーム)を設立。ソリッドがスクウェアグループになると、スクウェア取締役、執行役員に就任。スクウェア・エニックスとなってからも執行役員・取締役を歴任が、千田さんの後継としてスクウェア・エニックス・ホールディングスの役員になられるかと思いましたが、
すでに退任をされています。

ちなみに、2017年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。

これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、

・代表取締役社長:松田洋祐さん 
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円

・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円

・取締役:本多圭司さん
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円

この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。

また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。

そういえば、松田洋祐社長は町田市玉川学園の一戸建てにお住まいでしたが、社長就任後は港区のマンションに居を移されています。
賃貸か所有かは不明ですが、やはり本社に近い都心部に住まわれている方ほうが、代表取締役社長として、何かと便利です。

スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?

現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。

持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。

ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。

旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?

旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。

また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。

たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。

もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。

さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。

・エニックス
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円

・スクウェア
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円

確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。

非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。

役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。

そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。

また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強。

ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。

もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。

〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?

千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。

この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。

果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
(※現在、当時の千田さんの顔写真が見られなくなっております。本当に申し訳ありません。)

どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・

ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。

エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。

エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。

タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。

そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。

これからの千田幸信さん

千田さんも70歳。旧エニックス創業から走り続けて38年以上が経ちました。
現役から勇退された今、ユーザーのひとりとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。

以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。

千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。
本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?

⇒(新しいページが開きます)

福嶋康博さんの後継者としてエニックス2代目社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司さんの足跡をまとめたページはこちらです。
⇒エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんの足跡をまとめました

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期をまとめたページはこちらです。

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!のページはこちらです(新しいタブが開きます)

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。

心より御礼申し上げます。

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