取締役

長者番付

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所会長・社長・役員編)

長者番付を振り返ってみましょうか(芸能界 芸能事務所代表・役員編)を年ごとにまとめました

はる坊です。

個人情報保護によって2004年分を最後に公示がされなくなりましたが、それまでは、毎年5月中に1,000万円以上を納税した人物は、所管税務署で氏名・住所・納税額が公示されていました。

公示された当日や翌日にかけては、芸能ニュースを中心に大きく取り上げられたものです。

これまで、俳優・タレント部門 歌手部門 その他芸能人部門を掲載してきました。
(※一番下にリンクを設けましたので、ご興味のある方はどうぞご覧ください)

今回は、少し趣向を変えて、芸能界の芸能事務所の代表・社長・幹部の納税額を見ていきたいと思います。

1995年分(平成7年分)からになりますが、

「この当時は、この事務所が儲かっていたんだな」

「こんな事務所知らないけど・・・」

と様々な感想をお持ちになるかと思います。

それでは、見ていきましょう。

※金額はすべて納税額です。

1995年分(平成7年)

ジャニー喜多川  1億1,864万円  ジャニーズ事務所

井澤健        9,283万円  イザワオフィス

田辺昭知       7,673万円  田辺エージェンシー

周防郁雄       4,039万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,872万円  石原プロモーション

渡辺美佐       3,696万円  渡辺プロダクション

西川幸男       2,136万円  新栄プロダクション

宮沢光子       2,038万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,529万円  ひばりプロダクション

※イザワオフィスは1979年にドリフターズいしだあゆみの事務所として、渡辺プロダクションから独立。
この頃は、いかりや長介加藤茶志村けんを中心にマネジメントしていた。
現在では、麻生祐未小泉孝太郎のマネジメントもおこなっている。

※田辺エージェンシーはタモリ・堺正章・由紀さおり永作博美を中心とした事務所だったが、最近では夏目三久のマネジメントをおこなっている。

※石原まき子氏は故・石原裕次郎氏の妻で、元女優の北原三枝氏。
裕次郎氏の死後、石原プロモーション会長に就任。

※新栄プロダクションは演歌歌手中心の芸能事務所だった。

※オフィスメイシェの宮沢光子氏は宮沢りえの実母。

※加藤和也氏は美空ひばり氏の甥で養子。

1996年分(平成8年)

ジャニー喜多川  1億8,543万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億1,588万円  イザワオフィス

松浦勝人       7,183万円  エイベックスグループ

田辺昭知       6,845万円  田辺エージェンシー

石原まき子      6,159万円  石原プロモーション

渡辺美佐       4,900万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       2,981万円  研音

西川幸男       2,086万円  新栄プロダクション

宮沢光子       1,414万円  オフィスメイシェ

加藤和也       1,324万円  ひばりプロダクション

1997年分(平成9年)

ジャニー喜多川  2億0,872万円  ジャニーズ事務所

井澤健      1億2,093万円  イザワオフィス

平哲夫      1億0,847万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       6,437万円  渡辺プロダクション

松浦勝人       5,417万円  エイベックスグループ

田辺昭知       4,628万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫       4,073万円  研音

周防郁雄       3,896万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,769万円  石原プロモーション

1998年分(平成10年)

ジャニー喜多川  3億5,666万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億5,530万円  ジャニーズ事務所

依田巽      1億7,011万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億2,944万円  エイベックスグループ

井澤健      1億2,908万円  イザワオフィス

平哲夫      1億1,982万円  ライジングプロダクション

渡辺美佐       8,179万円  渡辺プロダクション

田辺昭知       4,892万円  田辺エージェンシー

石原まき子      3,109万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,286万円  アミューズ

※アミューズは、サザンオールスターズ福山雅治ポルノグラフィティのマネジメントを中心とした事務所だった。
現在では、Perfume高橋優flumpoolホラン千秋藤原さくら愛希れいかのマネジメントにも注力している。今年6月にサザンプロジェクトの責任者だった中西正樹氏が代表取締役社長に就任。

1999年分(平成11年)

平哲夫      2億4,924万円  ライジングプロダクション

メリー喜多川   2億6,040万円  ジャニーズ事務所

ジャニー喜多川  2億6,012万円  ジャニーズ事務所

長戸大幸     2億0,625万円  ビーインググループ

井澤健      1億0,312万円  イザワオフィス

依田巽        9,178万円  エイベックスグループ

松浦勝人       9,141万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       6,910万円  渡辺プロダクション

石原まき子      5,623万円  石原プロモーション

野崎俊夫       4,646万円  研音

周防郁雄       3,139万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       2,157万円  オスカープロモーション

西川幸男       1,510万円  新栄プロダクション

黒澤久雄       1,453万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉       1,206万円  アミューズ

加藤和也       1,085万円  ひばりプロダクション
 

2000年分(平成12年)

平哲夫      3億9,909万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,301万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,055万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,219万円  ジャニーズ・エンターテイメント

井澤健      1億3,572万円  イザワオフィス

依田巽      1億1,630万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億0,037万円  エイベックスグループ

渡辺美佐       7,686万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫       4,503万円  研音

周防郁雄       3,609万円  バーニングプロダクション

石原まき子      3,288万円  石原プロモーション

古賀誠一       2,156万円  オスカープロモーション

加藤和也       1,988万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄       1,698万円  黒澤フィルムスタジオ

西川幸男       1,396万円  新栄プロダクション

2001年分(平成13年)

平哲夫      5億1,307万円  ライジングプロダクション

ジャニー喜多川  2億6,240万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   2億6,002万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億5,193万円  ジャニーズ・エンターテイメント

依田巽      1億2,834万円  エイベックスグループ

松浦勝人     1億1,539万円  エイベックスグループ

田辺昭知     1億1,088万円  田辺エージェンシー

井澤健        9,001万円  イザワオフィス

渡辺美佐       8,551万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,525万円  バーニングプロダクション

野崎俊夫       5,346万円  研音

石原まき子      3,201万円  石原プロモーション

大里洋吉       1,880万円  アミューズ

2002年分(平成14年)

ジャニー喜多川  3億2,849万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,697万円  ジャニーズ事務所

平哲夫      1億9,671万円  ライジングプロダクション

依田巽      1億6,151万円  エイベックスグループ

藤島ジュリー景子 1億4,425万円  ジャニーズ・エンターテイメント

田辺昭知       8,824万円  田辺エージェンシー

井澤健        8,373万円  イザワオフィス

野崎俊夫       6,985万円  研音

渡辺美佐       6,671万円  渡辺プロダクション

周防郁雄       6,351万円  バーニングプロダクション

古賀誠一       6,296万円  オスカープロモーション

松浦勝人       5,221万円  エイベックスグループ

石原まき子      4,052万円  石原プロモーション

大里洋吉       2,414万円  アミューズ

堀威夫        1,575万円  ホリプロ

黒澤久雄       1,569万円  黒澤フィルムスタジオ

2003年分(平成15年)

ジャニー喜多川  3億2,953万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,825万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 1億8,748万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億6,039万円  ライジングプロダクション

依田巽  1億3,863万円  エイベックスグループ

井澤健  1億2,463万円  イザワオフィス

古賀誠一 1億0,347万円  オスカープロモーション

石原まき子  9,944万円  石原プロモーション

田辺昭知   9,542万円  田辺エージェンシー

野崎俊夫   7,651万円  研音

渡辺美佐   7,369万円  渡辺プロダクション

川村龍夫   7,326万円  ケイダッシュ

周防郁雄   6,357万円  バーニングプロダクション

加藤和也   1,424万円  ひばりプロダクション

黒澤久雄   1,424万円  黒澤フィルムスタジオ

大里洋吉   1,215万円  アミューズ

堀威夫    1,188万円  ホリプロ

2004年分(平成16年)

ジャニー喜多川  3億3,126万円  ジャニーズ事務所

メリー喜多川   3億2,967万円  ジャニーズ事務所

藤島ジュリー景子 2億3,820万円  ジャニーズ・エンターテイメント

平哲夫  1億5,149万円  ライジングプロダクション

松浦勝人 1億4,088万円  エイベックスグループ

依田巽  1億3,700万円  ドリーミュージック

古賀誠一 1億3,148万円  オスカープロモーション

井澤健  1億0,244万円  イザワオフィス

川村龍夫   9,077万円  ケイダッシュ

田辺昭知   7,613万円  田辺エージェンシー  

永田洋子   7,607万円  BACコーポレーション

渡辺美佐   7,376万円  渡辺プロダクション

野崎俊夫   7,287万円  研音

周防郁雄   5,964万円  バーニングプロダクション

大里洋吉   3,370万円  アミューズ

石原まき子  3,126万円  石原プロモーション

野田義治   1,713万円  サンズエンタテインメント   

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

以下に、長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)へのリンクを置いておきますので、ご興味のある方は、ぜひご覧ください

長者番付 俳優・タレント部門 歌手部門・その他文化人部門(1975年分~2004年分)

長者番付を振り返ってみましょうか(2001年分~2004年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1996年分~2000年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1991年分~1995年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1986年分~1990年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1980年分~1985年分 芸能人&文化人部門)

長者番付を振り返ってみましょうか(1975年分~1979年分 芸能人&文化人部門)

スクウェア全盛・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

スクウェア全盛期・黄金期を生んだ ゲームソフトメーカー スクウェアオーナー・投資家 宮本雅史という生き方

現在、スマートコミュニティ稲毛を手掛ける投資家・宮本雅史さんとは?

はる坊です。
千葉県千葉市稲毛区長沼町93-1にある、スマートコミュニティ稲毛の評判が良いようです。
スマートコミュニティ稲毛はシニア向けの分譲マンションです。
2010年に分譲以来、高い評価を得ているようです。

このマンションを運営する株式会社スマートコミュニティの代表取締役会長は宮本雅史さん。
現在は合併してスクウェア・エニックスとなった一社、ゲームソフトメーカー・スクウェアの創業者にして初代社長。
スクウェアの成功によりフォーブスに掲載されるほどの大資産家となっただけではなく、アパレル業界でも活躍した人物です。

そんな宮本さんが、“「最後の事業」”として臨んでいるのが、スマートコミュニティです。

今回は、そんな宮本雅史さんの人生を追ってみたいと思います。

宮本雅史さんプロフィール

宮本雅史さんは1957年3月18日 徳島県徳島市で実業家の宮本國一さんを父として生まれました。
1963年4月に、父・國一さんは株式会社電友社を設立して、電気工事・一般土木工事を手掛け、事業を拡大します。
(※ネット上に誤った記載もあるのですが、電友社は四国電力の協力会社・取引先であって、四国電力の子会社ではありません。)

やがて成長した宮本さんは、超難関校である灘中学校・灘高校を卒業。
その後、早稲田大学に進学しています。
早大卒業後は、一貫して事業家・投資家としての人生を歩まれています、

息子の宮本淳太さん・宮本礼さんとも、スクウェアが単独上場していた折には、1%ほどのスクウェア株を保有する大株主として四季報に名前が掲載されていました。
現在、おふたりともスマートコミュニティの取締役 執行役員を務めています。

パソコン時間貸し事業⇒電友社スクウェア⇒スクウェア設立

宮本雅史さんが最初に目を付けた事業。
それは、コンピータ・ソフト事業でした。
「必ず、コンピュータ・ソフトの時代が来る」
そう考えた宮本さんは、1983年横浜市日吉に物件を借りて、40台もの最新型パソコンを置いて時間貸しするビジネスを始めました。

-ソフトは作れるヤツに作ってもろたらええのや。

のちにスクウェア社長となる鈴木尚さんは、甲陽学院高等学校を卒業後、京都大学を目指しますがその夢は果たせず、一浪後、慶應義塾大学経済学部に進学していました。
スクウェア関係者のなかで、一番早く宮本さんに接触した人物です。

一度は、大言壮語する宮本さんから逃げた鈴木さんですが、日吉界隈にいてはそのうち出くわします。
「(逃げるなんて)ずるいやん」
「ごめん」
宮本さんのボンボンらしい鷹揚さに惹かれて、鈴木さんは再度宮本さんとタッグを組みます。
宮本さんが日吉にパソコン・サロンを設けたのには理由がありました。

-ゲームづくりは、早稲田より慶應の学生のほうが向いている。

結果的に集まってきた学生は、慶應義塾大学・横浜国立大学・神奈川大学など周辺の大学に在籍する学生が集まりました。
半年後に本格的にゲーム製作に入るときには、横浜国立大学に通っていた坂口博信さんと田中弘道さんなどスクウェアを支えていく人材が集結していました。

最初は、電友社のソフトウェア部門ということもあり、〝電友社スクウェア〟という名前でゲームをリリースしていましたが、1986年9月4日に電友社から独立。資本金1,000万円で株式会社スクウェアが設立され、代表取締役社長に宮本雅史さん。取締役に坂口博信さん・鈴木尚さんが就きました。

しかし、この頃、スクウェアのゲームは売れなくなり、会社設立早々、ゲーム業界からの撤退案も出始めます。

しかし、翌年に坂口博信さんが中心となって製作した『ファイナルファンタジー』がヒットをして、これを皮切りにスクウェアはゲームソフトメーカーとして地歩を固めていくことになります。

四国銀行との関係について

宮本雅史さんは徳島県徳島市のご出身です。
宮本家が運営する、徳島では名門と位置づけられているサンピアゴルフクラブも徳島市内にあります。
⇒サンピアゴルフクラブウェブサイト
それなのに、徳島県の指定金融機関である阿波銀行とは関係がなく、高知県に本店を置く四国銀行との関わりが強いです。
これはなぜか。
一説には、宮本國一さんと阿波銀行とのあいだにトラブルがあり、その最中に、徳島に進出を図っていた四国銀行が宮本さんに食い込んで、宮本家のメインバンクになったという話があります。
また、現在、サンピアゴルフクラブの代表を務めておられる宮本家の方が四国銀行OBだということも関係していると思います。

四国銀行からは、当初、スクウェア株式上場準備のため社長室長として、そしてのちに社長・会長を務めた武市智行さんを始め、経営の一翼を担った幹部が何名も在籍しています。
開発力に定評のあったスクウェアでしたが、銀行出身の幹部の支えがあって発展を遂げたともいえるのではないでしょうか。

1991年宮本雅史さんスクウェア社長を退任

株式上場のため四国銀行から1990年に武市智行さんを社長室長に迎えていた1991年。
宮本さんはスクウェア社長の職を水野哲夫さんに譲ります。

理由は「35歳になったら違う事業をやりたいとおもっていた」からでした。

宮本さんは会長職に就くこともなく、過半数の株式を持つオーナーとしてスクウェアの経営を見守ります。

宮本雅史さんは、1988年に設立していた自身の会社・株式会社エスシステムの経営を本格化させて、1995年3月から女性服ブランド・ファイナルステージを展開。
森ビルが手掛けたショッピングモールのヴィーナスフォートにアイデアを提供するなど、アパレル業界で活躍します。
その一方で、1年の半分をアメリカで過ごし、名刺に〝Fischerman〟と刷り込むなど、実業家と投資家のバランスを取りながら、スクウェア以後の人生を歩みます。

1994年8月 スクウェア ジャスダック市場に上場

1994年8月、スクウェアは株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)します。
初値は1株・7380円で、公募価格の6600円を上回る好調なデビューでした。

宮本さんはスクウェアの株式上場による創業者利益を得て、翌1995年5月に公示された高額納税者(長者番付)において、全国第2位にランクインします。
納税額は17億7220万円。
推定年収は88億6500万円。

当時の会社四季報で、上場まもないスクウェアの会社情報・役員・業績を見ておきましょう。

※データはすべて1994年9月30日時点のものです。
まず、資本金は44億9700万円
借入金は5億700万円しかなく、株式資本比率86.6%とエニックス並みの好財務状況でした。

役員構成を見てみましょう

社長:水野哲夫
副社長:坂口博信
副社長:竹村仁志
副社長:鈴木尚
取締役:河津秋敏
取締役:田中弘道
取締役:小林宏
取締役:藤岡千尋
取締役:堀井敏行
常勤監査役:安岡洋向(四国銀行OB)
常勤監査役:三笠照文(協和銀行OB(現・りそな銀行の前身行のひとつ)
監査役:西田晴彦(四国銀行OB・当時電友社 常務。その後社長を歴任)
監査役:中川康生

株主構成

発行済株式数29,695,000株

宮本雅史 15,556,000株 52.3%
エスシステム 3,312,000株 11.1%(宮本雅史の会社)
宮本國一 598,000株 2.0%(宮本雅史氏の父)
四国銀行 473,000株 1.5%
坂口博信 343,000株 1.1%(スクウェア副社長)
三和銀行 256,000株 0.8%
野村證券 256,000株 0.8%
四銀総合リース 236,000株 0.7%
宮本淳太 230,000株 0.7%(宮本雅史氏の長男)
宮本礼  230,000株 0.7%(宮本雅史氏の次男)

この年、スクウェア株の最高値は上場時の7,380円。
その後は、6,000円台前半~4,000円台後半で推移し、最安値は3,750円でした。

1992年3月期~1994年3月期までのスクウェア業績推移

1992年3月期決算
売上高:166億4900万円 営業利益:39億8600万円 経常利益:36億2300万円

1993年3月期決算
売上高:209億3300万円 営業利益:56億7900万円 経常利益:54億6600万円

1994年3月期決算
売上高:257億1300万円 営業利益:61億3100万円 経常利益:60億6100万円

1995年3月期決算予想においても、
1994年4月2日に発売した『ファイナルファンタジーⅥ』は初回で225万本出荷した。
1995年春に『クロノトリガー』発売予定(出荷目標200万本)
『フロントミッション』発売予定(出荷目標100万本)
とイケイケです。

実際、この出荷目標を上回ってしまうのですから、当時のスクウェアの勢いがわかります。

1996年3月期~2003年3月期までの、スクウェア業績推移

スクウェアの黄金時代と大赤字をもたらして経営危機が囁かれ、その後、和田洋一社長が最高益を出すも、エニックスに吸収合併されるまでの各年のスクウェアの業績をみていきましょう。
※現在1995年3月期決算のデータのみ不明です。
見つかり次第UPします。

1996年3月期決算
売上高:302億3,300万円 経常利益:77億3,400万円 純利益:36億4,700万円

1997年3月期決算
売上高:353億7,000万円 経常利益:▲2億9,300万円 純利益:▲12億700万円
※四国銀行を退職した武市智行さんが顧問として入社。
その1ヶ月後に代表取締役社長に就任。
水野哲夫社長は取締役会長に。

1998年3月期決算
売上高:689億4,800万円 経常利益:99億3,400万円 純利益:31億9000万円

1999年3月期決算
売上高:717億5,900万円 経常利益:78億1300万円 純利益:41億5100万円

2000年3月期決算
売上高:729億2300万円 経常利益:33億6300万円 純利益:16億8500万円

2001年3月期決算
売上高:755億3800万円 経常利益:▲26億9300万円 純利益:▲31億6000万円

※2000年5月鈴木尚さんが代表取締役社長に就任。
武市智行さんは代表取締役会長に就任。

※2001年2月武市智行会長・坂口博信代表取締役副社長が映画事業失敗の責任を取り辞任。
平松正嗣取締役も取締役職は辞任するも執行役員として残留。
平松氏は現在、滋賀県内を地盤とするスーパーマーケットチェーン・平和堂の代表取締役社長を務める。

※2001年から2002年のあいだに、従業員が1210名から952名に減少。
大幅なリストラがおこなわれた。

2002年3月期決算
売上高:366億4600万円 経常利益:40億6600万円 純利益:▲165億5400万円
※2001年8月取締役CFOだった和田洋一さんが代表取締役兼COOに就任。
2001年12月には代表取締役社長兼CEOとなる。
鈴木尚社長は取締役会長に就任。

2003年3月期決算
売上高:402億8600万円 経常利益:127億7600万円 純利益:140億7400万円

2004年4月1日、エニックスに吸収合併。

幻に終わった2000年のエニックスとの合併

2003年4月1日、スクウェアはエニックスに吸収合併される形で、スクウェア・エニックスが誕生します。
この時、宮本雅史さんが久々に話題に上ります。
野村證券が算出したスクウェア株の価値が、エニックス株を1として0.81と評価したことに異議を唱えたのです。
結果、エニックス株1に対して、スクウェア株を0.85と評価し直すことで、両社は合併にいたりました。

しかし、この3年前のこと。
2000年に宮本さんから直接、エニックス会長(当時)の福嶋康博さんに「福嶋さんの気持ちひとつで、うちを吸収合併してもらってかまわない」とラブコールを送っていました。
しかし、慎重な福嶋さんが、当時のスクウェアの経営を見て、「危なっかしさがある」と判断して、断ったという経緯があります。

宮本雅史さんのこれから

宮本雅史さんは現在61歳。
まだまだお若いです。
ただ、事業としては公言どおりスマートコミュニティが最後の事業になるのではないでしょうか。
しかし、投資家としては、人脈も広いことですし、ひょんなところでお名前が出るかもしれません。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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人物伝

エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司

エニックス2代目社長・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんのプロフィール

はる坊です。
今回は、エニックス2代目社長を務め、スクウェア・エニックス・スクウェア・エニックスホールディングス副社長・取締役を歴任した本多圭司さんについて触れたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。

まずは、本多圭司さんのプロフィールです。
1957年(昭和32年)12月29日福岡県生まれ。山羊座。
現在、61歳です。

◎学歴
1980年(昭和55年) 3月 大阪市立大学工学部建築学科卒業。
1982年(昭和57年) 3月 早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了

◎職歴
1982年(昭和57年) 4月 株式会社乃村工藝社 入社
1987年(昭和62年)10月 エニックス 入社
1990年(平成2年)  7月 エニックスアメリカコーポレーション駐在(現地責任者)
1994年(平成6年)  4月 エニックス 商品企画本部 ソフトウェア企画部長
1998年(平成10年) 6月 エニックス 取締役 商品企画本部 ソフトウェア企画部長
2000年(平成12年)10月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO
2001年(平成13年) 4月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO兼出版事業部長 
2002年(平成14年) 9月 エニックス 代表取締役社長兼最高執行責任者COO兼ソフトウェア事業部長
2003年(平成15年) 4月 スクウェア・エニックス 代表取締役副社長
2004年(平成16年) 6月 スクウェア・エニックス 取締役副社長(中国・上海駐在)
2005年(平成17年) 1月 SQUARE ENIX(China)CO.LTD 董事長(代表取締役に相当)
2006年(平成18年) 4月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役副社長
2008年(平成20年)10月 スクウェア・エニックス 代表取締役副社長
2009年(平成21年)10月 SQUARE ENIX OF AMERICA HOLDINGS, INC.取締役
2013年(平成25年) 4月 スクウェア・エニックス 取締役
2013年(平成25年) 6月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役
2018年(平成30年) 3月 スクウェア・エニックス 取締役を退任
2018年(平成30年) 6月 スクウェア・エニックスホールディングス 取締役を退任

◎ご家族や趣味
ご家族は奥さまと3人のお嬢様。
趣味は仕事と家庭。
「この2つから得られる満足感に人生の豊かさを感じます」
とコメントされています。

ゴルフとテニスを嗜み、音楽もバッハ、キース・ジャレット、ビートルズとクラシック、ジャズ、ロックと垣根を超えて好きなモノを聞くという方です。

愛読書にしているのは加藤周一さんの『羊のうた』。これは名著ですね。

座右の銘は「転石、苔生せず」
-物事についてのんびり構えず、スピーディに対処するという意味に独自で解釈されています。

エニックス入社までの本多圭司さんについて

早稲田大学大学院を修了した本多さんは、乃村工藝社に入社します。
乃村工藝社は、百貨店等の商業施設、美術館、博物館等の展示施設、万国博覧会等のイベント展示の企画、デザイン、設計・制作施工を手掛けている企業で、筒井康隆さんがサラリーマン生活を過ごした企業としても知られています。

本多さんは乃村工藝社で、文化施設のデザイン・プランニングを担当します。
そして、30歳を迎えようとしているあるとき、仕事である企業の社長と話す機会を得ます。
その折に、“「本多さん、経営もデザインなんですよ」
という言葉を掛けられます。
その言葉は、本多さんのなかに残りました。

仕事に不満があったわけではありませんでしたが、新しい仕事をしてみたいという思いが強くなり、乃村工藝社を退職。ヨーロッパ放浪の旅に出ます。途中で、パスポート盗難の被害にも遭いますが、放浪の旅を満喫して帰国します。

帰国した本多さんは仕事を探すことにします。
「小さい会社でもいい、自分の力が発揮できるところに」と求人雑誌を開いたところ、目に入ったのがエニックスの求人でした。その求人広告は、他の企業と違っていて、手作り感に溢れていたところが特徴的で、本多さんは興味を覚えました。

早速、アポイントメントを取り、当時のエニックス本社に向かうと、そこは西新宿の雑居ビル。
そのなかのエニックスを訪ねると、本多さんが声を掛けるより早く、小太りのおじさんが段ボール箱を抱えて出てきました。
「ウチの会社に何か用なの?」
「面接にまいりました本多ですが」
「ああそう。じゃあ入って」

面接担当者は、その小太りのおじさんでした。
社長の福嶋康博さんです。

「最近、何してたの?」
「ヨーロッパをぶらぶらしてました」
「いいねえ」

話は本多さんのヨーロッパ放浪に始まり、若き福嶋康博さんのアメリカ・インド・東南アジア放浪の話に移り、一向に面接らしい話に移りませんでした。

「OK。じゃあ一緒にやろう」
結局、そのまま本多さんの採用が決まりました。

エニックス入社後の本多圭司さん

本多圭司さんはエニックスに入社するまで、ファミコンの存在は知っていましたが、『ドラゴンクエスト』のことは知りませんでした。
そんな本多さんは、千田幸信さんの元でドラクエグッズの商品企画を担当します。
そして、入社3年弱が過ぎた頃、アメリカの現地法人であるエニックスアメリカコーポレーション現地責任者となります。

実力主義のエニックス・福嶋康博イズムでは珍しくもないことかもしれませんが、入社してまだ3年に満たない、30歳過ぎの人間を現地法人の責任者にするとは、かなり大胆な人事といえます。
それだけ、福嶋さんは本多さんを買っていたともいえると思います。

アメリカ現地法人に渡った本多さんは、忘れられない経験をすることになります。
ある玩具卸問屋がいきなり倒産してしまい、本多さんは売掛金の回収に走りますが、結果としてほとんど売掛金の回収をすることができませんでした。
しかし、同じゲーム業界の企業で、完璧に売掛金の回収をおこなっていた企業がありました。
NOA。ニンテンドウ・オブ・アメリカです。
本多さんは「さすが任天堂・・・」と脅威を感じたといいます。

このようにシビアなビジネス体験をしたアメリカでしたが、後年スクウェア・エニックスとして合併するスクウェアの鈴木尚さんも、時を同じくしてアメリカの現地法人にいた為、ふたりは遊び友達になり楽しい時間も過ごしたようです。

ミリオンセラーソフトを目指す

帰国した本多さんは、1994年4月にソフトウェア企画部長に就任しました。
そして、千田幸信さんに次いで〝アシスタント・プロデューサー〟として『ドラゴンクエスト』シリーズにも関わりますが、目指したのは、ドラクエに続く柱を作ることでした。

つまりは、ミリオンセラーとなるゲームソフトを作ること。

現在、スクウェア・エニックス取締役 執行役員を務め『ドラゴンクエストX』『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』でプロデューサーを務め、『ニーア オートマタ』で世界的に大ヒットを飛ばした齊藤陽介さんをソフトウェア企画に引き入れたのは本多さんの大きな功績でしょう。

結果、本多さんはミリオンセラーを作ることが出来たか?
これは否です。
最高のヒットは、『スターオーシャン セカンドストーリー』でしたが、国内のみでは売上は70数万本。
しかし、『バスト ア ムーブ』(発売本数 約40万本)を生み出すなど、ドラクエシリーズとクインテット開発のゲームしかなかったエニックスのゲーム企画部門を大きく発展させた功績は非常に大きいと思います。

取締役、そしてエニックス2代目社長に就任

1998年6月 本多圭司さんは、エニックス 取締役 ソフトウェア企画部長に就任します。
ちょうど40歳。
エニックスに入社して10年半。早い出世であることは間違いありません。

そして、2000年10月に福嶋康博さんのあとを継いで、エニックス2代目社長に就任します。
本多さんが代表取締役社長兼COOとなり既存の事業を担当。
福嶋康博さんは代表取締役会長兼CEOとなり新規事業の企画に専念します。
本多さんは、まだ42歳の若さでした。

エニックスの社長交代は、内外で驚きをもって迎えられたようですが、社長交代から5ヶ月前に福嶋さんと本多さんが共に関西出張に出掛けた際に、福嶋さんが「ブロードバンド事業をやりたい」と言いだし、「面白そうじゃないですか」と返した本多さんに、「いまのままじゃ時間が取れない。だから本多君が社長やって」と福嶋さんが伝え、本多さんがそれを承諾したのが実際のところです。

〝エニックスお家騒動〟勃発

本多圭司さんの社長就任から半年が経過した2001年春、エニックスに激震が走ります。
出版事業部門の実質的創設者で、取締役 出版事業部長の保坂嘉弘氏をはじめ、出版事業部の幹部数名がエニックスを退社して、新会社マッグガーデンを設立して、同時にエニックスのコミック誌で活動していた漫画家を引き抜いたのです。
エニックスの出版部門(コミックス部門)には大ダメージでした。

結局、当時、取締役 営業本部 営業部長だった田口浩司さんが和解条項をとりまとめますが、2001年5月から9月までは、出版事業部長を社長である本多圭司さんが担当することになります。(以後は田口浩司さんにバトンタッチ)

これは経営者・本多圭司にとって大きなショックだったと思います。

スクウェア・エニックス誕生

2003年4月、スクウェアを吸収合併する形で、スクウェア・エニックスが誕生しました。
代表取締役会長CEOに福嶋康博さん
代表取締役社長COOに和田洋一さん
代表取締役副社長に本多圭司さん
取締役に鈴木尚さん・千田幸信さん・成毛眞さんが就任します。

この合併について、和田洋一社長と実質的に話を進めたのが本多圭司さんでした。
本多さんから報告を受けた福嶋さんが和田社長の経営能力を評価して、合併へOKサインを出しました。
合併については、旧スクウェアの株式を50数%保有していたオーナーの宮本雅史さんから、スクウェア株式への評価が低いとして、
エニックス1:0.81スクウェアから、
エニックス1:0.85スクウェアに株式の評価があらためられるという一幕もありましたが、合併は無事におこなわれました。

スクウェア・エニックス時代の本多圭司さん

当初、代表取締役副社長に就いた本多圭司さんでしたが、仕事を終えたのちに立ち寄った新宿の居酒屋で和田洋一社長に「現場に戻してください」と直訴して、代表権を返上。
上海に駐在して、中国事業全般を担当することになります。
中国事業においては、現地法人の代表も兼ねて利益を出し続けました。
スクウェア・エニックスホールディングスが誕生して持株会社化されてからも取締役副社長を務め、子会社となったスクウェア・エニックスでは代表取締役副社長を務めます。

しかし、2013年にはスクウェア・エニックス全体の業績悪化の為、取締役兼業務執行担当に降格。
2018年4月には、スクウェア・エニックス取締役を退任。
同年6月にはスクウェア・エニックスホールディングス取締役も退任されました。

旧エニックスに入社されてから30年。
そして、旧エニックスから役員として20年間、本当にお疲れさまでしたと申し上げたいです。

これだけの実績をお持ちの方ですので、どこかのゲーム関連企業の社外取締役などを務められるのではないかと思います。

本多圭司さんの年収は?

前述しましたが、本多圭司さんは2018年6月をもって、スクウェア・エニックスホールディングス取締役を退任されました。
本多さんが2017年度に受け取っておられた役員報酬は、金銭報酬として8900万円+ストックオプションとして1500万円の1億400万円でした。
2016年以前は、年間報酬1億円以上の取締役として公示されたことはありませんでしたので、最高でも年収8~9000万円だったのではないかと思います。

ゲーム業界昔話

【懐かしい1993年1月】株式上場していたゲーム会社各社の会社情報・役員・株主構成一覧

はる坊です。
今回は1993年にゲーム業界で上場していたゲーム会社の会社情報をご紹介したいと思います。

1993年1月 任天堂 役員情報

東京・大阪1部上場・京都上場
売上高:5075億円(1992年3月期)
営業利益:1403億6400万円(1992年3月期)
経常利益:1562億4700万円(1992年3月期)
従業員:890名(平均年齢35.8歳)
平均給与:352,675円
初任給:191,000円
30歳モデル賃金:315,000円

役員構成
社長:山内溥
常務:谷本克典 祖谷登希雄
取締役:福田博之 辻昭男 大西康博 荒川實
常勤監査役:近藤良明
監査役:稲葉實 澤井末造

株主構成:
山内溥 11.0%
京都銀行4.9%
大和銀行4.9%
東海銀行4.9%
三和銀行4.9%
東洋信託銀行4.4%
三菱銀行4.4%
中央信託銀行3.2%
住友信託銀行2.7%
日本興業銀行2.0%

1993年1月 コナミ(現・コナミホールディングス)会社情報

上場市場:東京証券取引所第1部・大阪証券取引所第1部上場
資本金:80億9600万円
売上高:470億8000万円(1992年2月期)
営業利益:81億1600万円(1992年2月期)
経常利益:81憶1900万円(1992年2月期)
従業員:641名(平均年齢28.0歳)
平均給与:308,875円
初任給:193,000円
30歳モデル賃金:305,580円

役員構成
会長:上月景正
社長:西村靖雄
専務:上月景彦
常務:藤田昌弘 今井中
取締役:矢野一夫 豊開壮吉 坂本進 五代友和
常勤監査役:井上更明
監査役:成瀬俊昭 森信静治

株主構成:
上月景正     13.6%
上月教育財団   13.4%
有限会社スリーケイ10.0%
住友信託銀行    5.6%
大和銀行 4.9%
さくら銀行 4.9%
あさひ銀行 3.4%
三菱信託銀行 1.4%
東洋信託銀行 1.4%
中央信託銀行 1.1%

1993年1月 カプコン会社情報

上場市場:店頭登録(JASDAQ上場)
資本金:65億6500万円
売上高:354億4500万円(1992年3月期)
営業利益:59億1400万円(1992年3月期)
経常利益:57憶3000万円(1992年3月期)
従業員:705名(平均年齢27.2歳)
平均給与:246,284円
初任給:188,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:辻本憲三
専務:門脇精
常務:中村昌弘 置塩安雄
取締役:大島平治 中山喜仁 岡田光雄 濱田典彦 保木純夫 坂井昭夫 小沢吉郎
常勤監査役:黒田守男 來栖三郎
監査役:阿部幸孝

株主構成:
辻本憲三 41.8%
辻本美之  6.4%
辻本美佐子 6.1%
辻本春弘  6.1%
辻本良三  6.1%
富士銀行  1.8%
住友信託銀行1.6%
三菱銀行  1.5%
自社持株会 0.9%
大橋幸彦  0.9%

1993年1月 エニックス(現・スクウェア・エニックスホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:37億9700万円
売上高:85億4400万円(1992年3月期)
営業利益12億0200万円(1992年3月期)
経常利益18億5200万円(1992年3月期)
従業員:142名(平均年齢29.3歳)
平均給与:270,061円
初任給:180,960円
30歳モデル賃金:280,240円

役員構成
社長:福嶋康博
専務:千田幸信
常務:前川敏雄
取締役:川口貴雄 才藤智宏 蟹江元 上條弘
常勤監査役:舟田正男
監査役:河野先

株主構成:
福嶋康博    46.6%
有限会社 福嶋 16.7%(現在の株式会社 福嶋企画)
福嶋美知子   5.9%
千田幸信    2.2%
三和銀行    1.9%
高野豊     1.8%
川口貴雄    1.8%
東洋信託銀行  1.6%
三菱銀行    1.3%
才藤智宏    0.9%

1993年1月 光栄(現・コーエーテクモホールディングス)会社情報

上場市場:店頭登録(現:JASDAQ上場)
資本金:70億4100万円
売上高:106億2000万円(1992年3月期)
営業利益36億2200万円(1992年3月期)
経常利益31億3000万円(1992年3月期)
従業員:258名(平均年齢26.9歳)
平均給与:271526円
初任給:189,000円
30歳モデル賃金:非公表

役員構成
社長:襟川陽一
副社長:襟川恵子
専務:江藤弘之
常務:堀口大典 丸山侑生
取締役:伊従勝 福井清之助 栗野敏和
常勤監査役:井上清栄
監査役:長堀守弘

株主構成:
有限会社 光優  53.2%
襟川陽一     14.8%
襟川恵子     11.8%
横浜銀行     2.7%
住友信託銀行   0.7%
田邊恵造     0.7%
従業員持株会   0.7%
富士銀行     0.6%
中央信託銀行   0.5%
日本BT信託銀行  0.4%

※日本BT信託銀行⇒日本バンカーズ・トラスト信託銀行

※セガ・エンタープライゼス、ナムコ、テクモ、ジャレコはもう少々お待ちください。
旧スクウェアの株式上場は1994年です。

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人物伝

見城徹という怪物について その1

幻冬舎 代表取締役社長・見城徹とは
はる坊です。
私はあることに興味を持つと、徹底して調べるという癖(ヘキ)を持っています。
仕事に関することでも、全然関係のないことでも同じです。

最近は、幻冬舎社長の見城徹氏の本を集中的に読みました。
その感想です。
見城徹といえば、幻冬舎社長にして、元角川書店取締役編集局長。
そして何より、敏腕編集者として知られています。

まず、見城徹氏が幻冬舎を設立したのは、自分を角川書店の正社員として採用してくれた角川春樹氏が、薬物事件で逮捕されたのが要因になっているとか。取締役会で、春樹氏の社長解任をおこなうなら、春樹氏に採用され従ってきた自分も辞めようと思ったとのこと。

なかなかできることではありませんが、筋は通っていますね。

見城氏の経歴を追ってみると、
1950年12月29日静岡県清水市(当時)生まれ。
地元の静岡県立静岡南高校を卒業後、慶応義塾大学法学部に入学・卒業。
廣済堂出版を経て、角川書店にアルバイト入社。
そして、芥川賞作家・高橋三千綱氏の後押しもあって、正社員に、とあります。

まず、ここまでで思うことがいくつか出てきます。
見城氏は、編集者でありながら、見城氏単独やサイバーエージェント社長・藤田晋氏などと著作を出しています。

それも一冊や二冊ではない。
発行されている書籍すべてに目を通してみると、重複するエピソードや、ちょっと違う書き方になっているなと思うところがありますが、自己顕示欲が強い方だという印象を受けます。

テレビにも出演していますし、YouTubeでは『徹の部屋』という番組のホストもしています。

本人曰く、少年期から青年期にかけて、コンプレックスの塊だったと述べられています。
いまでは強面の結構イイ顔(褒め言葉です)で正直、カッコいい。

セクシーさも感じる顔をしておられると思いますが、容姿に対するコンプレックスがかなりあったようです。
でも、その割に高校時代から、本人曰く、素晴らしい彼女がいたりして、(容姿にコンプレックスがあったって本当かい)と思わせてくれるような、アンバランスな印象を受けます。

また、読書家なのは少年の頃からのようで、それが、現在の見城氏を作り上げる土壌になっていることは確かでしょう。

まず、私が思ったのは、なぜ文学部へ行かなかっただろう?という点です。
「受けたけど、落ちたんだよ」
と言われたらお仕舞いですが、時代背景もあったのではないかと思うのです。
当時は、学生運動が吹き荒れていました。
法とは何か? 
政治とは何か? 
という疑問と興味が見城氏にあったと推察されます。

また、石原慎太郎の大ファンだったこともあり、(石原氏は、一橋大学法学部卒業)法学部を選んだのかなあと、個人的には思うところです。
そして、卒業後は、廣済堂出版へ入社しています。
入社後に『公文式算数の秘密』という書籍を企画して、38万部のベストセラーに仕上げます。

また、『十万円独立商法』という書籍を企画して、これに興味を持った、当時東スポの記者で後に芥川賞を受賞する高橋三千綱氏との縁もできて、角川書店に入社することになります。

そういえば、少し前に『1万円起業』という書籍が売れましたが、
(『<マンガでわかる1万円起業』という形で漫画化もされています。) これは、見城氏の企画に触発されたものだと私は思っています。
直木賞製造マシーンとして名を馳せる
さて、有明夏夫『大浪花諸人往来』という小説をご存じでしょうか?
また読まれた方はいらっしゃるでしょうか?
わたしは、著者名だけは聞いたことがありますが、読んだことはありません。

見城氏自身も、浅草キッドとの対談で“「この人とこの小説のことは誰も知らないんだけどね」”と言っています。
直木賞を受賞したけれど、売れっ子作家にはなれなかったというところだと思います。

ですが、この小説は、編集者・見城徹を語るには、とても重要な作品であると思っています。

実は、この小説、宮尾登美子の『一絃の琴』とともに、第80回直木賞を受賞しているんです。

決定したのは、1979年1月19日。
発行されたのは前年の1978年10月。
角川書店刊。

野性時代78年2月から断続的に掲載された連作短編集です。
この本の担当編集者が見城徹氏でした。

そして、この本が角川書店初の直木賞受賞作です。
(77年に、野性時代に掲載された池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』で、芥川賞は獲得しています)

のちに見城氏は、角川書店時代に『直木賞製造マシーン』という異名を得ることになります。

見城氏が直接担当して、直木賞を受賞したのは以下の4作品です。
82年1月 第86回直木賞受賞 つかこうへい『蒲田行進曲』
82年7月 第87回直木賞受賞 村松友視『時代屋の女房』
87年7月 第97回直木賞受賞 山田詠美『ソウルミュージック・ラバーズ・オンリー』
88年7月 第99回直木賞受賞 景山民夫『遠い海から来たCOO』

ですが、直木賞候補に並んだ小説だと、
つかこうへい 第82回候補『ロマンス』『かけおち』『ヒモのはなし』
村松友視 第85回候補『セミ・ファイナル』 第86回候補『泪橋』

結果的に、文藝春秋のオール讀物に発表した『京都まで』『最終便にまにあえば』で第94回直木賞を受賞した林真理子も第91回候補作『星影のステラ』 第92回候補作『葡萄が目にしみる』は、見城氏が担当しています。

そして、これは未確認で、想像の域を出ませんが、第90回候補の北方謙三『友よ、静かに瞑れ』も野性時代連載がまとまって、角川書店から本になったものですから、見城氏が関わっていたのではないかと思うことがあります。
見城氏が野性時代副編集長を経て、月刊カドカワの編集長になったのが、86年か87年。

だとすると、83年6月に発刊された『友よ、静かに瞑れ』には、見城氏が間接的にでも関わっていたと考えるのが順当でしょう。
北方謙三はその後、「いろいろ理由があって」直木賞を受賞しないまま、柴田錬三郎賞、吉川英治文学賞、更には紫綬褒章を受章して、現在は、直木賞選考委員になっています。

今回はこのくらいで。

その2に続きます

最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。