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人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その5

預金証書を武器にノンバンクから巨額の金を獲得する

はる坊です。

その4では、杉山治夫がどのように金融債権を回収していたか、そして、限りなく残酷にみえる杉山の意外な一面、そしてバブル期の不動産への進出についてご紹介しました。

続いて、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

杉山の新たな標的、それはノンバンクでした。

ノンバンクは百戦錬磨の杉山にとって、格好の狩り場となったのです。

ノンバンクは銀行に比べて、貸す相手の身元審査も緩く、融資可能と判断すればドンドン金を貸しました。

担保としては土地が一番確かですが、杉山がおこなったのは、〝銀行預金証書〟による巨額の〝パクリ〟でした

時は、バブル経済期、金あまりで融資先を血眼で探していたノンバンクは、杉山にとって、赤子を捻るような存在でした。

もちろん、杉山は詐欺罪に問われないように、合法・非合法スレスレに身を置いて、完全金融犯罪を目論みます。

杉山がまず取り込んだのは、銀行員でした。

高額の給与を得ている彼らですが、毎日のように億単位の融資話が決まっていく中で、自らの収入に不満を持っていることに、目を付けたのです。

そんな不満を抱えている銀行員を、杉山は口八丁で持ち上げ、酒と女性の接待を繰り返して、取り込んでいきます。

すっかり杉山の忠実な僕と化した銀行員は、支店長に、杉山グループの信頼度や将来性を吹き込んで、大型の貸付先として有望であると吹き込みます。

無論、杉山もその支店に相当額の預金をおこないます。

そうすると、支店長との付き合いも始まります。
すでに、手先となっていた銀行員から、支店長の個人情報を掴んでいた杉山は、接待に加えて、封筒に入れた100万円の裏金を渡します。

最初は、淡々と杉山に接していた支店長も、度重なる接待とその都度渡される裏金によって、杉山に取り込まれていきます。

3ヶ月が過ぎると、支店長の金銭感覚も狂いはじめ、杉山の裏金を頼りにするようになりました。

そこからが、杉山の本領が発揮されるときです。
預金証書を多めに作ってくれるよう、耳元に囁くのです。

一瞬は、躊躇する支店長ですが、一度くらいはいいかという気持ちで、翌日には、預金証書を杉山に渡すことになります。
これから、杉山の餌食となることも知らずに・・・

預金証書を偽造して、それを担保にノンバンクから金を借り、それがバレれば即逮捕ですが、杉山は本物の預金証書を、現役の銀行員に用意させていたのです。

その預金証書の金額は、実際の預金証書の数百倍の額が記入されていました。

杉山は、この預金証書を担保に、ノンバンクから巨額の融資を受けます。

利子の返済はすべて手形によっておこないました、最初は500万円程度、そしてノンバンクからの信用度を深める為に、1000万円、2000万円、3000万円、5000万円と額を上げていきます。

ノンバンクの金利は銀行に比べて高額ですが、杉山はこの金利を気前よく払います。ノンバンクの幹部にも、杉山は例の接待攻勢で近付いていきます。

杉山率いる杉山グループの傘下企業は無数に存在しました。

その傘下企業に銀行の預金証書を担保にノンバンクからどんどん融資をさせていったのです。

やがて、銀行の支店長からは泣きが入ります。
これ以上、預金証書の件は、勘弁して欲しいと。

ここで杉山は本性を現して、支店長に預金証書をドンドン持ってくるように迫ります。

いつのまにか、杉山との立場が完全に逆転していたことを知った支店長は青ざめながら、あらためて自分の置かれた地位が断崖絶壁にあることを悟ります。

支店長は、杉山のいいなりになる駒に過ぎなくなっていました。

杉山グループ傘下の企業は、ほとんどが実態の経営状態にないダミー企業でした。

あるとき、そのダミー企業群から相次いで不渡り手形が乱発されます。

1989年、総額1200億円の巨額の不渡り手形を出して、ダミー企業はどんどん偽装倒産をしていきました。

杉山は、1200億円の巨額資産を得たことになります。

被害にあったノンバンクは20数社に及ぶと杉山は語っていますが、杉山自身にどこまで良心の呵責があったかどうか。

この件に関しては、羊が狼に喰われるのはあたりまえだと思っていたと感じます。

大阪の女相場師と呼ばれた料亭経営者・尾上縫との違い

バブル経済期に、大阪で女相場師と呼ばれた尾上縫という女性がいました。

1930年に奈良県で生まれていますが、生い立ちは貧しいものでした。

結婚生活にも破れ、料亭の仲居として過ごす中で、関西の有力財界人のお眼鏡に叶い、自分の料亭を構えるまでになります。

尾上は、一介の料亭の女将でしたが、博才のあった女性のようで、ギャンブルやどの銘柄の株が上がるかなど、次々に当てては、周囲を驚かせていたようです。

そしてバブル期に突入すると、大阪・北浜では、

「あの料亭の女将が上がると言った株は必ず上がる」

と噂されるようになり、証券マンたちが彼女の元へ日参するようになります。

尾上は、後ろに証券マンたちを跪かせては、祈祷をおこない、

「○○株は上がるぞよ」

「○○株は下がるぞよ」

と、まるで神がかり的な存在であるかのように見せては、預金証書を担保にノンバンクから、株式投資用の資金を借り集めて、派手に儲けていました。

バブル期は、株価がどんどん上がっていった時代です。
そんな、わけのわからないまじない師のような真似をしなくとも、株式投資で利益を得ることは簡単だったはずですが、自らの力を大きく見せることと、大勢の男たちが自分に跪く快感に、尾上縫は溺れていきました。

尾上も預金証書を担保に、ノンバンクから資金を借り入れていましたが、この預金証書は、偽造したものでした。

完全な詐欺です。

バブルが弾けた1991年8月13日、尾上縫は逮捕されました。

金融機関からの総借入額は何と2兆7700億円。
偽造した架空預金証書の総額は7400億円に上ったといわれ、うち東洋信用金庫は、この巨額詐欺事件が主因となり経営破綻しました。

結果、尾上縫は、破産手続きをおこないますが、その額は負債総額4320億円という個人としては史上最高額でした。

尾上はその後、実刑12年が確定。

仮釈放後の2014年に亡くなっています。

さすがの杉山治夫も、尾上がでっち上げた架空預金証書の総額には驚きを隠せなかったと語り、バブル経済についても、

「所詮は、バブル。いつしかみずからもはじけて消える。はかないものだ」

という感想を残しています。

バブル後も生き残った杉山治夫 そして全国金満家協会

バブル経済崩壊で、次々と名を馳せた人々が破滅していくなかで、杉山治夫はしぶとく生き残ります。

しかし、1990年6月25日に恐喝事件の共犯として逮捕された経験を持っています。

この件について杉山は、

「事実無根だった」

と語り、連日朝6時から深夜12時までに及ぶ取り調べにも抵抗します。

また、毎日、500万円から5000万円の金を差し入れさせて、弁護士費用が潤沢にあることを示した上で、7人の敏腕弁護士による弁護団を結成、杉山本人も一切食事を取らないハンガーストライキをおこなって、検事たちを慌てさせます。

独房に入れられていたとき、久々に味わうひもじさに、杉山は極貧時代を思い出し、感傷的な気持ちになったと語っています。

「そういやあ、わしも昔は庶民やったんや・・・。いやいや、庶民よりももっと低い生活をしていたんや・・・。いつのまにか、そのときのことを忘れかけていたのかもしれんなあ」

結果、7月16日。

杉山は不起訴処分となって釈放されます。

この件に関しては、無実でしたが、杉山はまったく〝シロ〟の人間ではありませんでした。

1985年に、杉山は550億円の脱税容疑で、国税庁に踏み込まれたことがあります。
しかし、脱税の時効を迎えていた為、結局は、脱税の罪に問われることはなかった、と語っています。

また、バブル期には〝株式会社 全国金満家協会〟という会社を立ち上げ、〝驚異の高収益事業〟として、資金を集めます。

総資産550億円 配当率 年1割以上保証、1989年・1990年は連続配当率2割をうたいました。

杉山の手掛けていたビジネスからすると、出資者から年に1割~2割の配当を支払っても、杉山の元には、余りある巨額の金が舞い込んでいたのでしょう。

自らを〝金儲けの生き神〟と称した杉山治夫。

1992年に放送を開始した『浅草ヤング洋品店』(通称『浅ヤン』のちの『ASAYAN』)にも、愛人兼本妻(結局、愛人なのか本妻なのかどっちだ?)のゆかりさんという女性とともに登場しています。

このあたりまでが、杉山治夫の人生が輝いていた時代といえると思います。

人間には、その能力を最大限に活かせる期限があると、私は考えています。
いかに恵まれた能力や才能を持っていても、時間とともに消費されていきます。
また、時代も変わっていきます。

ここらで引退宣言をして、余生を過ごせば良かったのかもしれないと感じます。

例えば、これまでの経験を語りおろして小説や漫画原作にすれば、リアリティのある面白いものができたのではないかとも思います。

しかし、持って生まれた杉山の本能は、留まることを知りませんでした。

2002年3月21日 杉山治夫逮捕。そして獄中生活へ

時代は流れ、2002年3月21日に杉山治夫は逮捕されます。

偽造した借用証書を使用して民事訴訟を起こし、相手から金銭をだまし取ろうとした訴訟詐欺の疑いでした。

杉山治夫64歳でした。

公判で、杉山は暴れに暴れます。

被告人席に座らず、傍聴席に向かって、「おまえのせいだ」と叫び、果てには「俺は天皇の孫だ」とまで、法廷にその叫び声を響かせます。
公判は休廷を挟みながらおこなわれました。

杉山は、長期間の実刑判決が下ることを、その法知識から確信していたでしょう。

少しでも、刑を軽くする為、あわよくば逃れる為、精神異常、精神耗弱状態にあることを装いたかったのかもしれません。

しかし、それは無駄なあがきでした。

2003年4月17日、杉山治夫に対して東京地方裁判所は懲役7年6ヶ月の実刑判決を言い渡しました。
求刑は8年でしたが、ほぼ求刑どおりの判決が出たことになります。

収監された杉山は、2009年に癌で死亡します。
獄中死でした。

その死は、公にされることはありませんでした。

理由として、杉山は多くの愛人を抱えており、そのあいだには子どもも儲けていたようです。
いわゆる相続問題を表に出したくなかったことが考えられます。

そして、現在・・・

杉山治夫亡き後、杉山グループの企業はこの世からなくなっています。

日本百貨通信販売も全国金満家協会も登記簿は既に閉鎖されています。

杉山が稼ぎに稼いだ巨額の資産も、いまでは散逸しているのではないでしょうか。

獄窓で杉山が何を思っていたか。

癌による死の寸前、杉山の脳裏によぎったものはなにか。

それを知りたい気持ちはありますが、知る術はないでしょう。

極貧の生い立ちから商売人として成り上がるも2度の倒産を経験して、金融業にばく進していった人生。

極悪人と自他ともに認め、金と刺激を求め続けた71年間の生涯でした。

杉山治夫の名言

最後に、杉山治夫が残した言葉から、名言と呼べるものを選んでみました。

案外、まともというか、金科玉条にしてもいいくらいのことを言っています。

「会社が潰れても、別会社を作ればいくらでもチャンスは転がっている。わしもここまで来るのにたくさんの会社を潰してきた」

「杉山流金銭哲学を伝授しよう。傘一本の理論。こう呼んでいるのがわしの根本的金銭哲学だ。雨の日に傘を持ち合わせていない人は、傘を買おうとして平気で財布を開いてしまう。これでは金を残せるわけがない。雨の日には傘は落ちてはいない。ならば晴れの日はどうだ。手持ち無沙汰になったり、いらなくなった傘が無造作にそこらじゅうに捨ててあるではないか。晴れの日に傘を拾い、雨の日に使う、これが傘一本の理論だ」

「ルンペンを見習うことだ。連中のほうがあなたよりも金を残しているかもしれない。衣食住すべてただの生活をしているのだ。ちょっとでも働けば金が残る計算になる。ルンペンになった気になればなんでもできる」

「金はないところには集まらない。金はあるところに集まるものだ。さみしがり屋の金どものために、まずは彼らの友だちを作ってやることだ。それがいつのまにか増えて、次へとステップを踏ませてくれる」

「金が金を呼ぶ。たまったらわしのようにマネーゲームと思って、何かをするもよし、負けても命をとられることはめったにない」

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
特に、その1から読み続けてくださった方には、厚く御礼申し上げます。

杉山治夫の生い立ちから知りたい方は、こちらからお願いいたします

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その1

その2・その3・その4の杉山治夫の記事を読んでくださる方は、こちらからお願いいたします。

その2

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その2

その3

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

その4

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その4

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!
(※杉山治夫の自著のなかでは、この本が一番のおすすめです)

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

人物伝

いまこそ日本マクドナルド創業者・藤田田(デンと発音して下さい)を再検証する。2019年4月13日「ユダヤの商法」復刊!

2019年4月13日 ついに藤田田『ユダヤの商法』復刊!

はる坊です。

長い間、謎だったことがあります。
それは、なぜあの本は絶版・品切れ中になったままなのか。

絶対に、ニーズのある本なのに、ご遺族の意向なのか?

その本は、1972年に発売され年間ベストセラーで第6位にランクインした、藤田田『ユダヤの商法』。

これほど普遍的な事柄を書いた本はないのに、いつのまにか書店・古本屋から姿を消して、古書は1万円以上の値が付く状態。

そんな本がようやくこの4月13日に復刊されることになりました。
題して、藤田田『
ユダヤの商法(新装版)

本当に嬉しいことです。

また、勝てば官軍(新装版)〝Den Fujitaの商法 〟シリーズも新装版が同時発売となります。

推薦文も幻冬舎社長 見城徹・SHOWROOM社長 前田裕二・AMF社長 椎木里佳・オリエンタルラジオ 中田敦彦と藤田田の本が好きそうなメンツが寄せています。

どの本も、読んで絶対に損をすることはありませんので、おすすめします。
『ユダヤの商法』と『勝てば官軍』が1,588円。
〝Den Fujitaの商法〟が各994円。

ハッキリ言って、書いてある内容に比べたら安すぎます。

特に『ユダヤの商法』は久留米大学附設高等学校に在学中だった、当時16歳のソフトバンクグループの孫正義を感激させ、どうしても藤田田に会いたいと電話を掛け続けるも、会ってもらえなかった為、アポなしで九州から東京へ飛行機で向かい、秘書との激しいやりとりの末に、ようやく藤田田本人との面会が叶い、

孫正義が放った「これからアメリカへ行って勉強してくるが、何を勉強したらいいか?」との質問に、

藤田田が「コンピュータだ。私が君の歳ならコンピュータをやる。これからコンピュータはどんどん小さくなっていく、その過程で絶対に儲かるチャンスがある」と答えたエピソードは有名です。

後日談として、ソフトバンクを成長させ、株式を店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たした孫正義が藤田田を訪ねると、藤田田は「あのときの少年か!」と感激して、早速ソフトバンクの300台のパソコンを発注したというええ話もあります。

ソフトバンクについては、後に孫正義の誘いに応じて社外取締役に就任しました。

藤田田の任期が終わったあと、社外取締役の後任となったのがファーストリテイリングの柳井正でした。挨拶に来た柳井に、藤田は「君が柳井君か。ええもんをやろう」といって手渡したのは、ハンバーガーの無料券数枚でした。

また、ユニクロの柳井正や少年時代の宇野康秀が愛読していたりと、現在活躍している実業家・経済人がむさぼり読んだ本として知られています。

藤田田(デンと発音して下さい)って誰?

まず、「藤田田(デンと発音して下さい)って誰?」という方のために、Wikipediaより高い精度のプロフィールを。

藤田田は1926年3月13日に大阪府大阪市に生まれました。(城東区生まれと淀川区生まれとふたつの記述があります)
父親はイギリス企業の日本支社で働く電気技師。母親は敬虔なクリスチャンでした。
3歳で吹田市千里山に転居して、小学校時代を過ごしますが、旧制中学受験に失敗。1年間の浪人生活を送る羽目になります。

1年後、再受験で旧制北野中学に入学。北野中には1年違いで手塚治虫が在籍していました。
北野中学を経て旧制松江高校に入学。ここで英語とドイツ語をマスターします。
卒業後は、東京大学に進学。

そして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。
焼け野原の東京でひとりぼっち。

しかし、藤田田には感傷に浸っている暇はありませんでした。
戦時中に父親が亡くなり、学生でありながら残った家族に仕送りをしなければならない立場になったのです。

当時の東大生のアルバイトは家庭教師が中心でしたが、それでは自分の生活費と家族への仕送りはまかなえません。
そこで藤田は英字新聞で見つけたGHQの通訳募集の求人に臨んで、試験に合格します。

ところが、実際にアメリカ兵が使っている英語は学校で習ったものとまったく違うもの。
困った藤田は、将校に頼んで泊まり込みで実地の英語を勉強します。
半年ほどすると、英語が解り出します。

そして、ユダヤ人との付き合いも始まり、彼らにビジネスを教わります。

藤田田の東大時代は忙しいものでした。
朝は東大。
昼は銀座2丁目で始めたフジタ&カンパニーの仕事。
夜は進駐軍の通訳。

進駐軍の通訳の仕事は収入が良く、国家公務員の給与が1000円~2000円だった当時、月額1万円でした。

当時、三鷹に住んでいた太宰治との交遊も有名で、太宰治が玉川上水で入水を遂げた夜も一緒に飲んでおり、後年まで「あれは自殺ではなく、事故だった」と主張していました。

1950年に藤田商店を設立。(法人化は1960年)
国家公務員試験(高等文官試験行政科)を受け、大蔵省に合格しますが、辞退をして、1951年3月に東京大学法学部を卒業すると、実業の世界に飛び込んでいきます。

日本マクドナルドを始めるまで、藤田田が手掛けたのは高級雑貨の輸出入業でした。
クリスチャン・ディオールの正規輸入代理店を長く手掛け、東京タワーの蝋人形館も藤田田が手掛けた仕事のひとつです。

そして1971年渡米した際に、アメリカマクドナルドの創設者 レイ・クロック氏に会うことを勧められた藤田田は、50:50の合弁会社ならやるといい、レイ・クロックと合意します。

そして1971年三越銀座店の一角に日本マクドナルド一号店が開店。
瞬く間に大人気となり、1976年には100号店達成。
1979年に200号店達成。
1982年に300号店達成。
1984年に売上高1,000億円を突破。
1985年に500号店達成。
1987年に600号店達成。
1989年に700号店達成。
1993年に1000号店達成。
1996年に2000号店達成。
1999年に3000号店達成。

〝ハンバーガー王〟〝外食王〟と呼ばれるようになっていきました。

“「頭の悪い奴は損をする」”と断言した藤田田の凄さ

藤田田は生前、“「人生はカネや」”と公言していました。
しかし、金儲けだけの人間ではありませんでした。

現在、日本マクドナルドでは創業者である藤田田の影響力やイメージは消し去られてしまいました。
ここに『日本マクドナルド20年のあゆみ』に収められている「藤田田物語」には、真っ正直な藤田田の本音が綴られています。

“肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった経験から、確信をもっていえることは、人間には裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが人生で一番大切なことではないかと思います。それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは結局は目的ではなく、チャンスを得るための手段ではないかと思います。(中略します)要は、目的を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか”

お読みになっていかがだったでしょうか?

露悪的で、金の亡者的な発言や文章を残している藤田田ですが、本当は繊細で優しく、そして誰よりも勁い人間だったのではないかと思えてきます。
学生の身で父親を亡くし、学びながら家族を養ったこと。
東大法学部在学中に、光クラブ事件の山崎晃嗣や太宰治の死に出会ったこと。
そんななかでユダヤ人のたくましい生き方に出会い、やがては、“銀座のユダヤ人”を自称するまでになります。

藤田田の商法は、完全な合理主義と義理人情のバランスをうまく取るものでした。
そんな藤田田の名言を集めました

藤田田の名言集

・物事をひとつの角度からしか眺められない人間は、人間として半人前だが、商人としても失格だ。

・不況なんてみんな同じ。その中でどうすれば勝てるかや! 考えろ!考えろ!

・1円にこだわれ!もっと粘れ

・人間は忘れる生き物だから、24時間メモを取れ。

・その国の教育と商売はリンクして進まないといけない。早すぎても、遅すぎても駄目なんだ。

・人件費は投資。設備投資と同じで、絞れば会社は弱くなる。

・高い給料でも儲かる仕組みを作るのが社長の仕事。人件費を下げて利益を出したら社長とは言えん。
-藤田田が社長を務めていた1998年当時、マクドナルドの店長の平均年収は819万円。
20代後半の店長も少なくなかった。
もちろん、外食産業の中では際だって高い給与水準だった。

そして・・・

・凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり

総資産数千億といわれた大富豪・藤田田

藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなります。
(70代を迎えても元気に、マクドナルドの社長・会長業に励んでいましたが、実は糖尿病と心臓に病を抱えていたようです)
2005年3月に遺産総額が公示されました。
その額491億円。
歴代6位の遺産額でした。
(ちなみに歴代1位はパナソニック創業者・松下幸之助氏です。2,450億円でした。)

そんな藤田田の資産は生前、1,500億円とも3,210億円とも伝えられていました。

一番大きかったのは、日本マクドナルド株ですが、長年に渡って、そのマクドナルドの売上の1%が契約役務・コンサルタント料として、藤田商店に入る仕組みになっていました。

またポテトの納入元が藤田田のファミリーカンパニーだったりと、個人で保有していた株式の他にも、現金が手元に流れ込む仕組みを作っていたことから、資産が膨大な額だと目され、また、日本マクドナルドがあれほどの大企業なのに東証1部ではなくJASDAQ上場となったのは、藤田田と日本マクドナルドの契約に不透明性があったからだと報じられました。

現在も、藤田商店は存在しており、息子さんが社長を務めていますが、デン・フジタやデン・フジタ興産といった無数にあったファミリー企業の多くは藤田商店に吸収合併されています。

息子さんは2人。藤田元(ゲンと発音して下さい)・藤田完(カンと発音して下さい)です。
元はジェネラル・将軍を意味する。
完はカーン・王様を意味する。

息子たちは、名前で得をするはずだ、と藤田田は生前に語っています。

ふたりとも成城大学出身という話がありますが、正確なところは、
どちらかが早稲田大学商学部卒業、そしてもうひとりが成城大学経済学部卒業。
日本マクドナルド2代目社長となった八木康行氏が成城大学出身だったのは、息子の友人であったことで藤田田と出会い、創業まもないマクドナルドに飛び込んだことが後の出世に繋がりました。

藤田田は、息子に日本マクドナルドを継がせることはありませんでした。
2003年に会長を退任するとき、取締役に就いていた息子も同時に退任しました。

日本マクドナルドは2000年にハンバーガーの価格を半額にして、一時は売上が好調に推移し、〝デフレの勝ち組〟ともて囃されました。
最安値でハンバーガー1個59円という時代がありました。

しかし、為替差損で2002年には初の赤字決算に陥り、ブランドイメージは落ち、決定的な打開策を見いだせないまま、2003年に藤田田は日本マクドナルドを去りました。

実は、この値下げ商法は自著『ユダヤの商法』に反したものでした。
彼自身が著書の中に安売り商法はしてはいけないと断じていたのです。
慢心したのか、それともこの時代は値下げしてモノを売る方法しかないと思ったのか・・・
永遠の謎ですが、現代に生きる私たちは『ユダヤの商法』を読んで、〝藤田田 金儲けの教え〟について学ぶべきところはしっかりと学ぶべきだと思います。

人物伝

【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる①

はる坊です。

渋谷区初台に大豪邸を構えるスクウェア・エニックス創業者・福嶋康博さんとは?

東京の高級住宅街といえばどこが思い浮かびますか?
大昔は、田園調布。一昔前は成城。

しかし、現在の富裕層は都心に住まうようになりました。
特に渋谷区や港区。

渋谷区なら高級住宅地として、まず、松濤や広尾が有名ですが、初台(はつだい)にも大豪邸があります。
ロッテの重光武雄氏や戸田建設の故・戸田順之助氏。

そして、スクウェア・エニックスの創業者で名誉会長の福嶋康博さんの邸宅です。
初台の福嶋邸は敷地面積は約1050坪。

地上2階・地下1階。
加えて、別にバーベキューハウスもある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。

緑に囲まれて、道路から邸宅の様子はうかがい知ることができませんが、建物の外壁は総タイル張りの非常に立派なものです。

法人所有ではなく、福嶋康博さんご夫妻が個人名義で所有されている自宅ですが、土地や建物を合わせると、一体何十億円の価値があるでしょう。

それでは、福嶋さんが一代で、どうやってこの御殿を築き上げるまでになったのかをみていきましょう。

スクウェア・エニックス創業者・名誉会長 福嶋康博さんの足跡

1947年北海道旭川市に生まれる。

福嶋康博さんは1947年8月18日に北海道旭川市に生まれました。星座は獅子座・血液型はA型。
当時、父親は旭川市内で映画館と質屋を経営していました。

ところが、この映画館が火事になり全焼。焼け残った自宅を改装して父母は食堂を始めます。
このときに福嶋さんは初めて〝商売〟を経験します。全焼した映画館に落ちていた紙芝居の道具を拾って、紙芝居師のまねをして近所の子どもたちに物語を聞かせたのです。子どもひとりにつき5円のお金を得ました。

また、近所で火事があったときは、焼け跡に落ちていた金属を拾い集めて、業者に売りました。これは子どもにしてはいいお金になったと福嶋さん自身が述懐しています。

しかし、プライベートでは両親が離婚して、父親は札幌に出て行き、母親が食堂を切り盛りします。

福嶋さんが“「母親が寝ているところを見たことがない」”くらい、母親は働き者だったようです。

中学校は、地元の旭川市立常盤中学校に進みますが、勉強はあまり得意ではなかったようです。しかし、高校受験に際して、このままでは希望校の合格が危ういことを担任の教師から教えられると、自分で勉強のスケジュール表を作り勉強に励みます。

元々、数学だけは得意だったこともあり、無事に北海道立旭川工業高等学校建築科へ進学します。

旭川工業高校入学後は、まずはラグビー部に入部しますが、3ヶ月で退部。
入部した理由が、〝試合の日には学校を休めるから〟であったので、ラグビー自体にはあまり興味がなかったのかもしれません。
しかし、恋愛も経験するなど、充実した高校時代を送ったようです。

高校2年の夏ごろ、離れて暮らす札幌の父親から連絡がありました。「おまえ、大学へ行け」というものでした。福嶋さんは大学進学について、あまり考えていませんでしたが、反射的に「うん」と答えてしまいます。

しかしここで2つの壁にぶち当たります。まず、工業高校では大学受験に必要な科目の授業ではやっていませんでした。

そこで福嶋さんは堂々と授業中に大学受験の勉強を始めます。当然、教師からは睨まれて職員室に呼び出されます。

しかし、福嶋さんはひるみませんでした。“「ぼくの人生にとってここで、学校の勉強するのが大事か、受験勉強の方が大事か。大学受験です」”と教師に言い放って授業中に受験勉強を続けます。

もうひとつは、先に大学に進学していた兄の一博さんから「親父はたいして仕送りをしてくれないぞ」と聞かされたことです。福嶋さんは受験勉強の傍らで、下級生の家庭教師をしてお金を貯めながら、残りの高校生活を過ごします。

18歳で上京、日本大学理工学部建築学科へ進学

仕送りが足りない分は、アルバイトではなく自分の得意な事で稼ぐ

1966年(昭和41年)4月、福嶋さんは晴れて日本大学理工学部建築学科に合格して上京します。なぜ、建築学科だったかといえば、工業高校の建築科だったからで、あまり深く考えた結果ではありませんでした。

事実、福嶋さんの仕送りは、他の学生の3分の1ほどしかありませんでした。アパートの家賃が6000円なのに仕送りは5000円程度。

しかし、福嶋さんは足りない分を普通のアルバイトで稼ごうとは考えませんでした。

自分の得意な事で稼ごうとしたのです。

建築学科には図学という講義がありました。
福嶋さんは友達の分も作品を作っては、それを売って稼ぎました。

そして、麻雀です。福嶋さんは中学時代から麻雀に親しんでいましたが、メキメキと腕を上げて、大学生にしてかなりの強者でした。
友達と麻雀をするといつも福嶋さんの大勝。

そうすると、友達が一緒に麻雀をやってくれないので、福嶋さんの勝ち点を半分にする特別ルールを条件に、友人たちと麻雀卓を囲み、また、雀荘に行っては、社会人や他の学生相手に稼ぎます。

麻雀で稼いだお金で問屋へ行き、コンドームを仕入れて団地へ販売に行ったり、ストッキングを仕入れて美容院に売り込みに行ったりもしました。
当時から行動力には目を見張るものがあったようです。

1970年前後は学生運動真っ盛り。

特に1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)にかけては、日大紛争と呼ばれる大規模な学生運動があり、日本大学は講義どころではなくなりました。卒業式も行われないほどの激しさでした。

大学も3年生になると、周囲は就職準備に入ります。しかし、福嶋さんには疑問がありました。

それは「建築学科を出たからといって、建築会社に入るしか道はないのか?」というものでした。

建築学科の友達に聞いて回ると、建築学科=建築会社・設計会社へ就職というのが当然じゃないかという答えでしたが、福嶋さんはその答えはすんなりと馴染めないものでした。
実のところ、福嶋さんは構造計算が得意でしたが、少しも好きではなかったのです。

(構造計算を一生続けていって何になる。そのまま人生が終わるのは嫌だ。自分がやりたいことと何かが違う)

おぼろげに(事業をやってみたい)と考えてはいましたが、アテがあるわけでもありませんでした。

結局、福嶋さんは就職をすることなく1970年(昭和45年)3月日本大学理工学部建築学科を卒業しました。

就職をしたことがない!いきなり起業

中野ブロードウェイPRフリーペーパー構想

日本大学を卒業した福嶋さんは、当時付き合っていた女性の元に身を寄せます。

そこで、福嶋さんはある事業を思いつきます。

当時、よく行っていた中野ブロードウェイは、建物の造りが入り組んで複雑な上に小さな店がほとんどでわかりにくかったのです。

当時の中野ブロードウェイは地下1階から地上4階まで、日用雑貨・ファッション・レストラン等が雑然と並んでいる場所でした。

エスカレーターの作りも特殊で、2階を素通りして3階へ行くというもので、慣れないと方向感覚が狂って目的とはまったく違う場所に出てしまうことがしばしばでした。

初めて行ったときには、どこにどんな店があるか分からず、それからも買物へ行く度に、目的の店とは違うところへ出てしまったり。

福嶋さんは、いつも「何とかならないものかなあ」と考えていました。

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あるとき、ぼんやりと、わかりやすい案内図があればいいんだよ、という考えが頭をよぎったとき、福嶋さんは「これは事業になる」と直感しました。

わかりやすい案内図を載せた中野ブロードウェイのPR雑誌を作ればいいじゃないか。

中野ブロードウェイを中心とした住宅地に5万部程度のPR誌を無料で毎月配布するという事業アイデアでした。

各店をPRする雑誌を発行すれば、儲かるんじゃないか!

現在でいうところのフリーペーパー事業です。

早速、福嶋さんは、一緒に暮らしていた彼女にブロードウェイのイラストマップを描いてもらい、
〝株式会社 ジャポン・アノンス 福嶋康博〟という名刺を作って、各階の商店会会長と交渉を開始します。

彼女に描いてもらったイラストマップと簡単な見本を持ってプレゼンテーションをしてみると、好意的な反応を示してきました。

福嶋さんが目を付けた通り、建物が入り組んでいること、小さな店が多くて、それぞれの店がわかりにくいことは、中野ブロードウェイの商店主たちも気にしていたことでした。

ただ、ネックがありました。

福嶋さんは、普通の会社が5万部程度のPR誌を出すとすれば、当時で月に350万円ぐらいかかると概算で考えていました。商店会会長たちのあいだでは、この金額が高いのではないかと二の足を踏むことになったのです。

しかし、福嶋さんはこの金額を譲るつもりはありませんでした。金額を巡って押し問答を繰り返していると、耳寄りな情報が入りました。

中野ブロードウェイを建てた不動産会社の社長が社会福祉活動に熱心だという話でした。

「(社会福祉とはちょっと違うかもしれないが、PR誌の発行は地域社会の為になる仕事だ)」と思った福嶋さんは、早速、その社長に事業プランをプレゼンしました。すると、この社長は毎月50万円出すことを約束してくれたのです。

※これは私の推測ですが、この不動産会社社長は、東京コープ(東京コープ販売)社長の宮田慶三郎ではないかと思います。1906年1月7日生まれ。
旧制中学校から1931年に大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)を卒業。その後、歯科冶金の研究をきっかけに、合金の魅力に取り憑かれて、「ミヤタ・ロイ」と呼ばれる超高質合金を開発。

その後、病気療養中に大脳生理学の研究により1960年に医学博士号を取得。学会発表の際にワシントンを訪れ、アメリカに比べて日本の建築物が貧弱であることを知って、不動産事業を始めた経験を持つ異色の経営者です。

中野ブロードウェイ開発を最後に不動産事業からは身を引き、教育者として朝日大学と明海大学を創立しました。明海大学に不動産学部があるのは、宮田慶三郎の意思でしょう。
1997年7月に亡くなっています。

宮田慶三郎が、福嶋さんと同じ北海道出身だったことや福嶋さんが日大理工学部建築学科出身だったことも、若き福嶋さんの提案を受け入れ援助する約束をする一因になったのではないかと思います。

月々50万円の協賛金を得られることになり、金銭的なネックも消え、PR誌作りについて商店会会長たちの納得を得た福嶋さんは、いよいよ発刊準備作業に入ります。
編集作業を進めながら、福嶋さんはここが成功したら、今度は中央線の違う主要駅で挑戦しようと、夢を広げていきました。
しかし、事業を開始する段になって、福嶋さんは商店街の組合長から呼び出されます。

「おまえの会社は、登記されていないじゃないか!どういうことだ?社長は誰だ?」
「えっ、登記ってなんですか? 会社は僕ひとりでやってますが・・・」

福嶋さんは会社を登記することを知りませんでした。
名刺に社名と名前を刷ればそれでいいと思っていたのです。

結局、会社を登記していなかったことは、中野ブロードウェイ側からの信用の失墜を招き、この事業は開始直前になって頓挫してしまいました。

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